・01 深い谷の底─ロイヤルナイツ候補生が日々厳しい訓練を続ける修練場では、鋼鉄の弾き合う音が響いていた。 数名の現職ロイヤルナイツが見守る中で現職ロイヤルナイツの一人・ロードナイトモンと、候補生筆頭のグレイドモンが互いの武器を激しく交わらせていた。 ロードナイトモンの美しく揺らぐ帯刃がグレイドモンの隙を捉え、双剣グレイダルファーを弾き飛ばした。 武器を失ったグレイドモンを前にロードナイトモンは動きを止め、背中を向ける。 その時─グレイドモンは叫びながらロードナイトモンの帯刃を掴むと、彼の背中を切り裂いた。 返り血に塗れながら笑みを浮かべるグレイドモンの姿にエグザモンは言葉を失う。 「は…はは。流石のロードナイトモン様も、自らの刃に傷をつけられるとは思っていなかったようだ!」 グレイドモンは帯刃を投げ捨て、ロードナイトモンの切り傷を踏みつけた。 なぜ…と蹲るロードナイトモンを鼻で笑うと、グレイドモンは芝居じみた振る舞いで叫び、仰々しく頭を下げた。 「これで!このワタシこそが次期ロイヤルナイツだと、皆様もわかってくれたことでしょう!」 「─否」 背後から試合を見ていたドゥフトモンが、その深く重い声を修練場に響かせる。 他の候補生達の中には、彼の声だけで震え上がる者もいる。 「同胞の返り血と狂気に光る眼…そんなものが貴様の目指すロイヤルナイツの姿か?」 グレイドモンはイラつきながら顔を上げ、仕方なく話してやるといった感情と共に言葉を紡ぐ。 「ふっ、ドゥフトモン様。ワタシがロードナイトモン様を打ち倒して見せた事は現実ですよ?」 だが、既に周囲はドゥフトモンから放たれた黄金のエネルギー機雷・エアオーベルングに包囲されていた。 「猛省せよ」 ドゥフトモンのその言葉と共に、エアオーベルングが光を放った。 ・02 「奴の怪我は浅い…だが、部下に裏切られた事の方が堪えているようだ」 「一応…よかったのかな」 「そうでもある。これを機にロードナイトモンという男が案外に純粋で、汚い戦い方を知らぬ者だという事を知るとよい」 数日後、任務から帰還したアルフォースブイドラモンは、エグザモンから事の経緯を聞いていた。 「グレイドモン…彼は強い。冷たい牢の中できっと冷静になってくれるハズさ」 エグザモンはそんなアルフォースブイドラモンを嗜める。 「お前も純粋だ。そして、お人好しが過ぎる」 「むむ…またそれか。追い抜かしてしまう形となったが、ボクはグレイドモンと同期なんだ。彼を信じたい気持ちをわかってくれ」 「心とは儚く脆い。全ての不変が当たり前と思ってはいけないぞ」 エグザモンはそう続けると、過去の事件を思い出しているのか顔に影を落とした。 その時、大きな爆発音が響く。 二人はその方角─修練場地下の牢屋を見た。 「こういう事もあるのだ」 エグザモンが苦い顔で呟く横で、アルフォースブイドラモンは疲れた体を休めることなく、風と共に走り出した。 「ナイトモン!ミスティモン!ギロモン!」 「ロードナイトモン様…すみ、ません…!」 一足早く爆音の元にたどり着いたロードナイトモンは、弟子であり部下でもある彼等の惨劇を前に苦しい顔を隠せずにいた。 なんとか息があったギロモンも、無念の声と共にデジタマへと再構築されていく。 その時、不気味な笑い声と共に闇から姿を現したグレイドモンはその鎧を紫に染めていた。 「そこまで堕ちたか、グレイドモン…!」 グレイドモンの目に正気は無く、その目には勝利への執念だけが燃えていた。 「これでワタシはロイヤルナイツだ。なにせ他の候補生は死んでしまったからなぁ!」 「破門だ」 グレイドモンはウイングドラモンの翼を千切ると投げ捨てて鼻で笑う。 「ふっふ…嫉妬はよくないですよ」 「貴様は騎士としての誇りを持たず、個人的な執着でロイヤルナイツの座を汚そうとした」 怒りに震えるロードナイトモンはその帯刃を輝かせ、地面を揺らす程の怒りを見せた。 その気迫は凄まじく、グレイドモンにすら攻撃を躊躇わせた。 「死すべし蛮族。貴様に我が美学など不要」 胸に刺したバラを投げ捨てたロードナイトモンは、帯刃を変幻自在に操作すると周囲の岩を切り裂いていく。 切り裂かれた岩は、次々とグレイドモンへ迫る。 当のグレイドモンはこちらへ放たれる岩を一つ一つ両断してみせるが、段々と加速するロードナイトモンの帯刃に防御が遅れていく。 その時、グレイドモンの背後に風が吹くと、修練場を囲む崖に白い筋が走っていた。 ソレは崖を切り裂き、周囲の土地そのものを質量弾としてグレイドモンへぶつけようとしてきている。 ─刹那、グレイドモンの顔面に拳が打ち込まれていた。 ロードナイトモンが認識できない速度で迫り、肉弾戦を仕掛けてきたのだ。 振るうグレイダルファーは全て的確に帯刃が弾き、背後から迫る崖により飛行もままならないグレイドモンは、全身の鎧に次々と傷を作ってゆく。 そのままロードナイトモンは右腕に全力を込め、必殺のアージェントフィアーを叩きつけた。 炸裂する音と共に凄まじい衝撃を受けたグレイドモンは、絶叫と共に吹き飛ばされ、背後の崖に激突する。 崖に体をめり込ませたグレイドモンに容赦なく帯刃が連続で突き刺さりまくる。 紫色に染まった鎧は暗黒の力でその硬度を異常に強化し、即座に傷を再生させていくが、その実力差を覆すものではない。 むしろ、その再生能力が余計に彼へ苦しみを長引かせていた。 ロードナイトモンはゆっくりと歩みを進めながら更に刃を振るう速度をアップさせ、それは落下する崖を押し返す程となっている。 ロードナイトモン第二の技・ヘルマスカレードは、グレイドモンに呼吸さえ許そうとはしない。 距離を詰めたロードナイトモンは再度グレイドモンの腹に、再度アージェントフィアーを叩きつけた。 その衝撃は体を貫き、背後の崖へ伝わると完全に破壊される。 遅れて突風が周囲に舞い、周囲を揺らした。 砕かれた崖の破片は空中で十字架の形になると修練場の真ん中に突き刺さる。 そして─その十字架の根本には先程投げられたバラがあった。 「許せ、我が同胞よ…」 頭から地面に落下したグレイドモンは、自らの誤算を認識していた。 崖を切り取ったのも、全てあんなモノを作るためだった。 当初から自分の事など、その過程で処理するだけのゴミとしか認識されていなかったのだ。 つまり、先日の試合などただの児戯であった。 自身の矜持が全て砕け散ってゆくのを感じる。 ロイヤルナイツたる自分の敗北はあってはならないのに。 その時、アルフォースブイドラモンが上空に現れると、ロードナイトモンとグレイドモンの名前を叫んだ。 しかし、感傷に浸るロードナイトモンにその声は届いていない。 「た、助けてくれぇ…ブイモン…」 思わず出たであろうかつての名前を呼ばれたアルフォースブイドラモンは、思わずグレイドモンとロードナイトモンの間に立つ。 「ロードナイトモン!こ、これは…」 「騙されるなアルフォースブイドラモン。君には辛いことかもしれないが…ぐっ!」 二度目の声かけにロードナイトモンが振り向こうとした時、彼の腹に穴が開いていた。 アルフォースブイドラモンは突然の出来事に駆け寄ろうとした時、自分の翼にも穴が空いている事に気づいた。 「ふっ、ふふふ…。本当にお前は反吐が出るほどの善人だ」 グレイドモンは幽鬼のようにフラつきながら立ち上がると、鞘に飛来したグレイダルファーを納刀した。 既に鎧のダメージは回復が始まっている。 グレイドモンは自身とロードナイトモンの間にアルフォースブイドラモンを立たせると、その大きな翼を利用して姿を隠し、会話の隙に翼ごしでグレイダルファーを投げつけていたのだ。 「お前は…!」 「ワタシを殺す事よりもロードナイトモンを助ける事を優先する…君はそういうオヒトヨシだろう?」 悔しそうな顔をしてから、その言葉の通りロードナイトモンの元へ走る友の姿をグレイドモンは鼻で笑う。 そして、紫光の渦と共にその姿を消した。 ・03 少し前、デジタルワールドを揺るがす戦いが終結した。 ロイヤルナイツと七大魔王…二つの巨大な勢力が激突する最終決戦だった。 その戦いによって、デジタルワールドには大きな傷跡が残された。 世界の中枢に存在していた巨大な構造体もまた、その例外ではない。 グレイドモンは、その戦場へ向かうことはなかった。 かつて自分が目指した者達が、己の信念と誇りを懸けて戦っている。 その光景を遠くから眺めながら、彼はただ冷たく笑っていた。 「正義、思想、理念、名誉、仲間…全てくだらない…」 遥か彼方の空に雷鳴が轟き、嵐が舞う。 そして、魔王達が率いる巨大な軍勢の影が見える。 それからグレイドモンは、デジタルワールドを当てもなく放浪していた。 ロイヤルナイツ候補生として積み上げてきたものは、既に何も残っていない。 …それでも彼の中には、一つだけ消えないものがあった。 それは、"最強への渇望"。 ロイヤルナイツになれば最強になれると思っていた。 強さを証明すれば、誰も自分を見下すことはないと思っていた。 だが、現実は違った。 候補生の中で最も強くなり、ロードナイトモンでさえ倒した自分を、奴等は認めなかった。 あんなお遊び集団の中にいても、自分が最強になることはない。 現にロイヤルナイツは前大戦において全滅している。 …そんな歪んだ答えだけを胸に抱え、グレイドモンは歩き続けた。 そして、当てもなく辿り着いた先は、戦いによって大きく損壊したデジタルワールドの一角だった。 そこには、崩れ落ちた巨大な樹木と、それに埋もれるようにして佇む白い構造物があった。 「…これは」 グレイドモンは見覚えのあるものに、思わず足を止めた。 世界を管理していた存在─イグドラシル7D1=アーク。 しかし、その姿はかつて知るものとは大きく異なっていた。 二つの意思を内包するコアを守るために存在した外殻は、ロイヤルナイツと七大魔王の戦いによって大きく破壊されていた。 何者かに内側から引き裂かれたかのように崩れ、既に機能していない。 「ふん…くだらない」 もはや何の反応も期待できない。 興味を失ったグレイドモンが踵を返そうとした。 「…何だ?」 その時─不意に、声がした。 それはどこか遠くからではない…目の前にある残骸の内部からだった。 『最強になりたいのか』 グレイドモンは即座にグレイダルファーへ手を伸ばした。 「何者だ」 『答えは既に貴様の中にある』 「くだらない問答は嫌いでしてね」 『ならば、望みを言え』 グレイドモンは一瞬静かになったものの、ゆっくりと笑った。 「このワタシにふさわしい…最強の称号を手に入れることだ!」 グレイダルファーを振り、イグドラシルの残骸に向けて突き出す。 『ならば、最強の人間を手に入れればいい』 「…人間を?」 『デジモンイレイザー』 その名に、グレイドモンの目が僅かに細くなる。 ロイヤルナイツと七大魔王の戦いには、彼らの間に割り込んだもう一つの勢力─ネオデスジェネラルという存在がいたという噂があった。 デジモンイレイザーとは、そのネオデスジェネラルを率いるデジモンテイマーだと言われている。 「しかし物騒な名前じゃないか…我々を消す者などと」 『名前など関係は無い。これはお前に必要な存在…それだけで十分だろう』 「…確かに、そうだ」 そう呟き、グレイドモンは剣を下げる。 「しかし…そいつは既に七大魔王に殺されたそうじゃないか」 『あれは一人ではない』 声は続く。 『強い精神を持つ人間を選び、デジモンを率いる存在へと変えることができる』 グレイドモンは、その言葉の意味を理解した。 「…デジモンテイマーとデジモンが組めば、その力は数倍にもなる」 それは、デジタルワールドにおいて広く知られた常識でもあった。 グレイドモンは、今になって気づく。 自分が欲しかったのは、ロイヤルナイツという肩書きではなかった。 「最強のデジモンとなる最短経路─それは、最強の人間をワタシの手中に収めること」 『強い精神を持つ者を見つけ、ここへ連れてくるのだ』 声が肯定するように響く。 『さすれば、神の権限でさえ与えられよう』 その瞬間─グレイドモンの手元には、いつの間にか黒いクロスローダーが握られていた。 『だが、時間は余り残されていない…急げ』 その言葉を最後に、グレイドモンの脳裏には何も聞こえなくなった。 ・04 焼け落ちた草木がパラパラと音を立てて崩れていく。 穏やかだった村は炎に包まれ、立ち昇る黒煙が空を覆っていた。 その中心で、ブラックラピッドモンは腕と一体化した銃身を眼前の存在へ向けていた。 彼は故郷を守るため、最後まで戦うことを選んだ戦士の一人だった。 銃身の内部には、六角形の端子がタトゥーのように埋め込まれている。 それは、選ばれたデジモンだけが持つ強大な力の証─デジメモリ。 世界の在り方すら変えかねない力の断片が、その小さな記録媒体に宿っている。 「貴様は何者だ」 ブラックラピッドモンが、煙の向こうに立つ影へ問いかけた。 そこには、紫色の鎧を纏った一体のデジモン─グレイドモンがいた。 彼は二振りの黄金剣・グレイダルファーを振るうと、刀身についたデータを払った。 燃え盛る村を背にして静かに佇む姿には、焦りも興奮もない。 まるで目の前の惨状など、最初から興味の外にあるかのようだった。 やがてグレイドモンは、散歩の途中で立ち止まったかのような気軽さで口を開く。 「私はグレイドモン。貴方の持つセイのデジメモリを頂きに上がりました」 その声音には、相手を対等な存在として見ていないことが露骨に滲んでいた。 ブラックラピッドモンの全身を、より強い警戒心が駆け抜ける。 「コレは渡せない。キミからは…嫌なものを感じるから」 銃口が僅かに上がる。 「…ふっ」 グレイドモンは鼻で笑った。 「実力の差もわからないとは…悲しい存在ですね」 次の瞬間、ブラックラピッドモンの視界からグレイドモンの姿が消えた。 「─ッ!?」 理解するより早く、凄まじい衝撃が身体を襲う。 「ぐはっ!」 何をされたのかすら理解できないまま、身体が宙へ投げ出されていた。 ブラックラピッドモンは何度も地面を転がり、最後には頭から地面へ叩きつけられる。 轟音とともに乾いた土が舞い上がった。 「ぐ…ッ!?」 全身に走る激痛に意識が飛びかける。 それでもブラックラピッドモンは震える腕を地面へ突き立て、どうにか身体を起こした。 「あぁ…ようやく一つが手に入る」 その言葉だけで、グレイドモンの口元が僅かに歪んだ。 「命すら操り、世界をひっくり返すほどの力の破片…ワタシにこそ相応しい」 グレイドモンは、まるで自分の手に入る未来を想像するように、自らの手を眺める。 「…!」 その瞬間、ブラックラピッドモンは確信した。 こいつにだけは、渡してはいけない。 勝てるかどうかなど関係なかった…このデジメモリを、この男の手に渡してしまえば何が起こるかわからない。 自分の故郷を焼き払っただけでは最早済まない─この男は、もっと大きな何かを欲している。 ブラックラピッドモンは大きく後方へ飛び退いた。 「なんだ。逃げるのか?」 その声を無視して背中のバックパックを展開する。内部に格納されていた大量のミサイルが一斉に射出され、煙を裂きながらグレイドモンへ殺到した。 「食らえーーっ!」 しかし、負傷した身体では照準すらまともに定まらない。 弾頭は狙いを外し、グレイドモンへ届くことなく次々と周囲の木々や地面へ突き刺さっていく。 轟音が連続し、爆炎がグレイドモンの姿を呑み込んだ。 「はっ…どこを狙ってる」 グレイドモンは微動だにしなかった。 煙と炎の向こうから、その声だけが響く。 だが次の瞬間─爆炎を突き破って黒い影が飛び出した。 「うおおおおおおおおッ!!」 ブラックラピッドモンだった。 全身から黄金の光を迸らせながら、グレイドモンへ一直線に突っ込んでいく。 傷ついた身体を無理やり動かし、残された力のすべてを一撃へ叩き込もうとしていた。 「…!」 初めて、グレイドモンの目が僅かに細くなる。 その瞬間、二振りのグレイダルファーがひとりでに宙へ浮かび上がった。 「な─」 黄金の刃が視界から消える。 直後、ブラックラピッドモンの左右から刃が突き出した。 「ぐあッ!」 身体を貫かれた衝撃で動きが止まる。 だが、それでもグレイドモンへ伸ばした腕を引かなかった。 次の瞬間には、別の角度からグレイダルファーが襲いかかる。 かわそうと身体を捻ればその先へ刃が回り込み、逃げ道を塞ぐように再び突き込まれた。 黄金の刃が何度も身体を貫き、ブラックラピッドモンの装甲を砕いていく。 「が…ッ!」 傷口から、血液にも似たデータが噴き出した。 先程の不可視の攻撃もコレを利用したものだったのだろう。 視界が赤く滲む─それでも止まらない。 「うおおおおおおッ!!」 ブラックラピッドモンはグレイドモンを睨みつけ、身体に食い込んだグレイダルファーを振り切るように、ひしゃげた装甲を強引にパージした。 余計な重量が消え、身体が一気に軽くなった。 グレイダルファーが追いすがるより早く、ブラックラピッドモンはその間をすり抜ける。 そして渾身の体当たりをグレイドモンへ叩き込み、そのまま背後の岩壁へと激突させた。 「なッ─!」 初めて、グレイドモンの表情が変わった。 ブラックラピッドモンは間髪入れず、その顔面へ拳を叩き込む。 岩盤が大きく砕け、グレイドモンの身体が岩壁へめり込んだ。 その隙を逃さず、ブラックラピッドモンは両腕を大きく天へ翳す。 「ゴールデントライアングルッ!!」 逃げ場などない至近距離から、黄金の波動が炸裂した。 凄まじい閃光がグレイドモンを包み込み、爆発的な熱量が周囲へ広がっていく。 大地が抉れ、木々が焼き払われ、数十メートルにわたって炎と土煙が吹き荒れた。 やがて黄金の光が消え、その場に残されたブラックラピッドモンは膝から崩れ落ちた。 「はぁ…はぁ…」 全身から力が抜け、もう動けない。 究極体クラスに匹敵するこの技は、自身のデータすら大きく減退させてしまう。 それでもブラックラピッドモンは、震える腕を地面へ伸ばした。 「に…げ…ないと…」 デジメモリだけでも守らなければならない…ここから離れなければ。 だが指先が地面を掻くだけで、身体は一歩も動かなかった。 ─その時だった。 「やれやれ…少し驚きましたよ」 煙の向こうから、声が響いた。 「…ッ!」 ブラックラピッドモンの目が見開かれる。 炎と土煙の中から、グレイドモンが歩いてくる。 紫色の鎧には、確かに傷が刻まれていた。 装甲の一部は砕け、表面には無数の亀裂が走っている。 だが、その傷がゆっくりと塞がっていく。 紫色に淀んだ光が鎧を覆い、砕けた装甲までもが元の形へ戻っていく。 「…うそ、だろ…?」 ブラックラピッドモンの声が震えた。 確かに直撃させた。 それなのに─ほとんど、効いていない。 グレイドモンは再生した自らの身体を一瞥すると、何事もなかったかのようにブラックラピッドモンへ視線を戻した。 「悪くなかったぞ」 その言葉が、何よりも恐ろしかった。 デジメモリを守らなければならない─ブラックラピッドモンは反射的に後ずさろうとした。 グレイドモンが腕を振るうと、エネルギーの鞭がブラックラピッドモンの頬を強く撃った。 「がっ…」 その衝撃に耐えられず、転倒する。 逃げなければ…この男から、デジメモリを遠ざけなければ。 頭ではわかっている。 それなのに、身体が動かない。 刻まれた傷が痛いからでもない。力を使い果たしたからでもない。 もっと根本的な何かが、身体そのものを縛りつけていた。 恐怖─目の前にいる存在との力の差を、ようやく理解してしまった。 どれだけ抗ってもこの男には届かないという事実に、ブラックラピッドモンの指先は震えた。 ・05 グレイドモンはエネルギーの鞭でグレイダルファーを引き寄せると、見せつけるように構え直す。 遠隔操作だと思っていた剣による攻撃は、念動力ではなく鞭による精密動作だった。 「痛みは一瞬だ」 グレイドモンは剣を突き刺し、ブラックラピッドモンの腕からセイのデジメモリを引き剥がした。 「があああ─っ!?」 ブラックラピッドモンの全身を覆っていた装甲が音を立てて崩れ、巨大な身体が急速に縮んでいく。 鋭く伸びた四肢も、腕と一体化していた銃身も、次々と光の粒となって消えていった。 やがて光が収まると、そこに残されていたのは傷だらけの小さなロップモンだった。 「なるほど。これがお前をあの姿にしていたわけか」 「や…やめろ…っ!」 六角形の小さな記録媒体を掌に収めた瞬間、その内部から膨大なエネルギーが溢れ出す。 それはまるで意思を持っているかのようにグレイドモンの身体へ流れ込み、傷ついた鎧の隙間から全身へと染み渡っていった。 「素晴らしい…素晴らしいぞ…!」 声を震わせながら、グレイドモンは自らの身体を見下ろした。 全身を駆け巡る力は、これまで感じたことのないほど濃密だった。 次の瞬間、紫色の光が爆発する。 「ぐ…おおおおおおおッ!!」 赤黒い電撃が全身から迸り、大地を走る。 膨れ上がった暗黒の力は周囲へと一気に放出され、燃え残った木々や岩肌を吹き飛ばした。 やがて黒い光の中心で、空間そのものに亀裂が走る─それは一つ、二つではない。 無数の亀裂が周囲の時空を引き裂き、その向こうに別の世界の光景が断片的に浮かび上がった。 その中心に立つグレイドモンの鎧が、ゆっくりと形を変えていく。 「…ブラックセラフィモン」 新たな名を、噛み締めるように呟く。 「これが…ワタシの新たなる姿だ!」 恍惚に満ちた笑みを浮かべ、ブラックセラフィモンは両腕を広げた。 その姿を、地面に倒れたロップモンはただ見上げるしかなかった。 自分の力を奪われた…それだけではない。 目の前にいる存在に、それ以上の力を与えてしまった。 「こんな…」 ロップモンは声を震わせる。 もう、どう足掻いても届かない。 そんな絶望を嘲笑うように、ブラックセラフィモンはゆっくりと視線を上げた。 「さて…」 彼が片手を掲げる。 すると、先ほど生じた時空の亀裂が再び大きく開いた。 その向こうには、デジタルワールドの様々な場所が映し出されている。 荒野、森林、都市、海、そして見知らぬ世界。 ブラックセラフィモンはそれらを一つずつ眺めていく。 「強い精神を持つ者…」 先ほど聞いた声の言葉を思い返しながら、無数の世界を観測する。 やがて一つの亀裂の向こうに、見慣れない光景が映った。 夕暮れの街─その中を、一人の少女が歩いている。 学校帰りなのだろう。 制服に身を包み、鞄を肩に掛けている。 特別な力を持っているようには見えなければ、戦う術を知っているわけでもない。 …どこにでもいる、ごく普通の少女だった。 だがその姿を見つめるブラックセラフィモンの目が、仮面の下で僅かに細くなる。 「津久井深夜…か」 その名前を確かめるように、もう一度少女の姿を見る。 少女は弱い…少なくとも、肉体的には。 だが、ブラックセラフィモンが見ているのは身体ではなかった。 何度傷つけられても、それを他者への憎しみに変えず、押し潰されそうになりながらも他人を思いやることを捨てていない。 そして何よりブラックセラフィモンの視線が、少女の背中を追う。 彼女が向かっている先…そこにいる、一人の青年。 「面白そう…いや、使えそうだ」 ブラックセラフィモンの口元が、ゆっくりと歪んだ。 その言葉に、人間を見つめる者としての感情はなかった。 そこにあったのは、最強へ至るための道具を見つけた者の目だった。 ブラックセラフィモンは時空の穴を閉じる。 そして、未だ地面から動けずにいるロップモンへ、ゆっくりと歩み寄った。 「お前の使い道を思い付いた」 おわり