# 序章:カンストしたので、惑星が半壊しました ### 1.最高の自室と最悪の桁数  視界の右上が、黒塗りの長方形で完全に塞がっていた。  腕を振ってウィンドウを掴み、邪魔にならない端へ押し込もうとしたが、そもそも枠自体が視界の三分の一ほどを占有している。原因は単純明快だった。 HP: 18446744073709551615 / 18446744073709551615 MP: 18446744073709551615 / 18446744073709551615 「……桁が収まってない」  つぶやきながら、空間に浮かぶ仮想キーボードを叩いて試験表示を閉じる。目の前を覆っていた数字の暴力が消え去り、ようやく見慣れた開発室の景色が戻ってきた。  白い壁と、磨き抜かれたフローリング。部屋の中央には、身体の曲線に合わせて沈み込む低反発素材の特注チェアと、指先のわずかな動きを拾うキーボード付きの作業机が置かれている。背後には自由に湯を沸かせる給湯コーナーと、必要最低限の調理器具を備えたミニキッチン。隅には寝心地を最優先して選んだ厚手のマットレスが敷かれていた。  現実の安アパートより、よほど快適な空間だ。オービット・ワークス社が開発者向けに外販しているフルダイブ構築基盤。数年分の受託開発で稼いだ貯金をほぼ注ぎ込んで購入した甲斐は間違いなくあった。  この『デバッグルーム』は、俺――瀬名律が個人で制作しているオフライン専用フルダイブRPG『エンドレス・クラウン』の外側に位置する、独立した私的作業環境である。  かつてオンラインゲームの運営開発に携わっていた頃、俺はいつも他人の顔色とバランス調整の板挟みになっていた。大型アップデートのたびに寄せられる不満、ナーフを恐れるプレイヤーたちの阿鼻叫喚、対人戦の公平性を保つために細かく削ぎ落とされていくスキルの個性。楽しむために始めたはずのゲームが、いつしか数字の辻褄を合わせるだけの仕事になっていた。  だから会社を辞めた。受託の仕事をリモートでこなしながら、空いた時間のすべてを注ぎ込んで、自分一人だけが遊ぶためのゲームを作り始めた。  他人の攻略速度に合わせる必要はない。対人戦の公平性など一切気にしなくていい。好きな武器を無限に強化し、好きなだけ桁外れのダメージを叩き出して笑う。そのために、システムの根幹である戦闘・成長パラメータを、標準的な三十二ビット符号なし整数(最大約四十二億)から、六十四ビット符号なし整数――すなわち『18,446,744,073,709,551,615(2の64乗マイナス1)』へと独自拡張した。  だが、中身の数値を拡張しておきながら、頭部表示用のHUD描画枠を広げるのを完全に失念していた。 「まあ、二十桁も並べばはみ出すよな……」  とりあえず手元の開発コンソールで、HUDの表記を『MAX』に切り替える処理を書き込む。画面上の数字が三文字に収まり、すっきりと見やすくなった。  だが、これではテストにならない。検証用にダミーデータを流し込み、MPの現在値を『Uマイナス1』に変更してみる。途端に、 MP: 18446744073709551614 / MAX  と、再び視界の半分が埋まった。 「……ダメだな。一でも削れたら元の長さに戻るんじゃ意味がない」  敵のHPバーを鑑定した際にも、同じ現象が起きるはずだ。俺は頭を抱えそうになりながら、デノミネーション――いや、表示用の単位省略関数を急遽組み込むことにした。  千単位の『K』、百万単位の『M』、十億単位の『G』、兆単位の『T』、千兆単位の『P』、そして百京単位の『E』。最大値の十八百京は、およそ『18.447E』となる。通常画面では桁数に応じて自動で接頭辞を切り替え、詳細ステータス画面を開いたときだけ二十桁の正確な実数を表示させる。内部の整数演算は符号なし六十四ビットのまま保持し、表示の丸め誤差を決して戦闘計算へ逆流させない。 「よし、これで視界は塞がらない」  机の脇に浮かぶ案内プログラムの端末――立方体の使い魔型アイコンを表示した『パッチ』が、無機質な合成音声でログを読み上げた。 『表示補助機能の追加を確認しました。現在の未完了テスト項目は三点。「最大値での攻撃判定」「報酬カウンタの飽和処理」「敏捷上限における操作感と移動速度」です』 「了解。まずは攻撃と報酬の確認からいこう」  作業机のモニタに、テスト環境のプレビューを呼び出す。  映し出されているのは、自作ゲームの隠し最上位種族《六翼天主》のアバターだ。背中から広がる雄大な六枚の白銀の翼と、頭上に浮かぶ繊細な光輪、神々しい装飾が施された豪奢な衣。レベル、HP、攻撃、防御、敏捷、器用、あらゆる実装済みスキル――すべてが上限値『U』に設定された、文字通りの最強データである。  デバッグルーム内にいる現在の俺は、現実の身体スキャンから生成された普段着の人間姿だ。この安全な作業室から、内側のテスト世界へ飛び込むことで、アバターの権限が有効化される。  コンソールから、隔離された無人の検証用コピー世界を選択する。住民も、複雑な街も配置していない、単純な地形とサンドボックス用の模擬敵だけを置いた使い捨てのスナップショットだ。 「よし、フィールドへ転送」  椅子の背もたれから身体を起こし、俺は空間に開いたテスト用の転送ゲートへ足を踏み入れた。 *** ### 2.試し斬りで星が割れる  周囲の光景が一変する。  見渡す限りの赤茶けた荒野。空は薄い紫に染まり、風が乾いた土煙を巻き上げている。背中にはずっしりとした重みがあり、六枚の巨大な翼が風を捉えてわずかに軋んだ。頭上には淡く輝く光輪。全身を包む圧倒的な万能感と、ステータス全項目が『U』で満たされている絶対的な安定感がそこにあった。  前方およそ五十メートル。荒野の真ん中に、岩石のような甲殻をまとった巨大な模擬魔物が佇んでいた。思考ルーチンも持たない、ただそこに立って攻撃を受けるためだけのテスト用オブジェクトだ。頭上に浮かぶダミーのステータスには、検証用に十分な桁数の耐久値が設定されている。 「さて、一撃でどれくらい出るか……」  腰に佩いたシンプルな片手剣――開発用の初期武器『検証剣』の柄に手をかける。見た目は何の変哲もない鉄の剣だが、振るうアバターの攻撃力自体が六十四ビットの上限値に達している。  軽く踏み込み、間合いを詰める。  その瞬間、足の裏が地面に触れた感触と同時に、世界が異様な挙動を始めた。  音が消えた。  踏み込んだ右足から、同心円状に走る白光。まるで極限まで張り詰めたガラス板に鉄槌を落としたかのように、足元の岩盤が一瞬で粉砕され、蜘蛛の巣状の巨大な亀裂が地平線の彼方まで奔走していく。 (……あ、ちょっと待って?)  止まる間もなく、検証剣を水平に一閃した。  標的の模擬魔物は、斬撃の刃が届くよりも前、剣身が空気を切り裂いた瞬間に発生した圧力波だけで素粒子レベルに分解され、影すら残さず消滅した。  問題は、その先だった。  振るった剣の切っ先から放たれた不可視の衝撃波は、減衰することなく真っ直ぐに突き進んだ。行く手にあった連峰が、まるで熱したナイフを通されたバターのように両断され、空へと吹き飛ぶ。大気が真っ二つに裂け、紫色の空が真空の黒へとめくれ上がっていく。  亀裂は荒野を割り、大地を割り、そのまま惑星の深部へと突き刺さった。足元から響くのは轟音などという生易しいものではなく、大地そのものが悲鳴を上げながら剥離していく、低く重い地鳴りだった。  視界が急激に傾ぐ。立っていた地面ごと、大陸サイズの岩塊が宇宙空間へ向けてせり上がっていた。 「待て待て待て! 帰還! 即時帰還!」  念じるだけで発動するデバッグコマンドを、脳内で全力で叫んだ。  視界が白く反転する。次の瞬間、俺はデバッグルームの硬いフローリングの上に尻餅をついていた。  荒い息を吐きながら、慌てて背後を確かめる。  六枚の翼はない。頭上の光輪もない。着ているのは着慣れた部屋着のTシャツとジャージで、手足もいつもの痩せぎすなプログラマーのそれだった。  作業机の上には、飲みかけのマグカップが倒れもせずに置かれている。モニタの画面も正常に明滅していた。  胸を撫で下ろしながら、急いで机に駆け寄り、内側のテスト世界の俯瞰カメラをモニタに呼び出す。  そこに映し出されていたのは、見事なまでに球体の半分が失われ、断面からマグマとマントルを派手に噴き出しながら宇宙の塵になりつつある、かつての惑星の姿だった。 「……あー」  乾いた声が喉から漏れた。  ちょっと強めの試し斬りをしただけだった。本当に、それだけだったのだ。 *** ### 3.数値試験は成功です 『テスト世界の崩壊を検知しました。緊急保護処理を実行します』  パッチの冷淡な声とともに、モニタ上の半壊した惑星が停止し、ワイヤーフレームの格子状に分解されていく。 『仮想環境のロールバックを開始します。スナップショット地点への復元所要時間は約十五分です』 「頼む、完全に巻き戻してくれ……」  椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆った。  誰にも見られていなくて本当によかった。もしこれがマルチプレイのオンラインゲームだったら、運営会社が丸ごと炎上してニュース沙汰になっているところだ。一人用の隔離環境で、自分しかいない世界だったからこそ笑い話で済む。  気を取り直し、俺は手元に流れてきたテストログのウィンドウを開いた。 獲得経験値: 18446744073709551615 (上限飽和) 獲得ゴールド: 18446744073709551615 (上限飽和) 所持品追加: 模擬個体の核 × 18446744073709551615 (上限飽和) エラーコード: なし オーバーフロー検知: なし 「……よし。数値の試験は完全に通ってるな」  模擬敵がドロップした莫大な報酬は、加算処理の途中で桁あふれを起こすことなく、きれいに上限値『U』でストップしていた。符号が反転してマイナスになったり、ゼロに巻き戻ったりする古典的なバグは発生していない。  数値の試験は通った。ただ、惑星が通らなかっただけだ。 「何が原因だ……? 攻撃力自体の数値処理は問題ないはずなのに」  ログの詳細を掘り下げる。  原因はすぐに判明した。攻撃の判定そのものではなく、アバターの身体運動が周囲の物理環境へと伝達される変換係数の設定ミスだった。  このフルダイブ基盤は、没入感を高めるためにアバターの踏み込みや腕の振りを周囲の空気・地面へ微小な力学的相互作用としてフィードバックする機能を備えている。通常なら、歩けば草が揺れ、走れば土煙が舞う程度の演出用パラメータだ。  しかし、アバターの筋力と敏捷が『U』に達していたため、ただ一歩踏み込んだだけで大陸を揺るがすメガトン級の運動エネルギーが地面に叩き込まれ、剣を振った風圧だけで大気圏が吹き飛んでしまったのだ。 「攻撃力を上げたいのであって、歩くたびに地割れを起こしたいわけじゃないんだよな……」  だからといって、ステータスを弱体化させる気は毛頭ない。そんな妥協をするくらいなら、最初からこんなゲームは作っていない。  求められるのは、強さを維持したまま、周囲を理不尽に壊さないための『制御』だ。  幸い、復元処理は内側の仮想環境だけで走っている。外側であるデバッグルームのコードやログは巻き戻らない。俺は指を鳴らし、机のキーボードへ向かった。 *** ### 4.最強でも階段は普通に降りたい  本格的な修正に入る前に、俺はデバッグルームの一角に小さな独立試験箱を展開した。  十メートル四方ほどの、完全に隔離された真っ白な小空間。ここなら何をどれだけ壊してもメインの環境には影響しない。試験箱の中へ足を踏み入れると、アバターが再び六翼の姿へ切り替わる。  机の上には、検証用の小物をいくつか配置した。一枚の薄い紙片、水がなみなみと注がれたガラスのコップ、木製の三段の階段、そして簡単な挨拶の音声だけを返すダミーの人形だ。 「まずは、運動エネルギーの外部漏洩から直すか」  俺が目をつけたのは、シーフ系スキルツリーに組み込んでいた『隠密』の仕様だった。  本来は足音を消し、敵のヘイトを下げ、周囲の気配に溶け込むためのスキルだ。このスキルの副次効果パラメータである『環境干渉』の計算式を独自に拡張し、アバターの高速移動によって生じる空気の押し出し、摩擦熱、衝撃波、足元への圧力伝達を、まるごとシステム側で吸収・減衰させる仕様へと書き換えた。  相対性理論だの流体力学だのを真面目に計算する必要はない。ゲームのルールとして、「動くだけでは周囲の環境に無駄な判定を波及させない」と定義してしまえばいいのだ。  六翼の姿のまま、紙片の真横を音速を遥かに超える速度で駆け抜けてみる。  足元は無音。大気は裂けず、机の上の紙片は微動だにしなかった。 「よし。次は接触判定だ」  検証剣を抜き、今度は狙いを定めて紙片の端だけを浅く切り裂く。紙片は綺麗に二つに分かれ、ハラリと机の上に落ちた。意図した攻撃の接触判定は、しっかりと標的のみへ伝わっている。透明化したり壁をすり抜けたりするわけではなく、無駄な余波だけが切り離された状態だ。  続いて、水が入ったガラスのコップへ手を伸ばす。  筋力『U』のアバターは、油断すればコップを握った瞬間に粉砕し、反作用で部屋の床を抜いてしまう。だが、同時に俺のステータスは『器用』も上限値に達している。高すぎる数値を「制御の精密さ」へと変換する出力補助ルーチンを挟み込むことで、コップはきしむことすらなく、指先にしっくりと収まった。水を一滴もこぼさずに持ち上げ、再び机へ置く。 「オッケー、日常動作はいける。最後は速度の感覚だな……」  これが一番厄介だった。  敏捷値が上限に達しているため、アバターの主観時間は極限まで加速している。一人用のオフラインゲームでは、プレイヤーの体感を固定し、周囲の世界のクロックを遅くすることで超高速行動を表現するのが定石だ。  だが、今の未調整状態では、常にその最大加速が働きっぱなしになっていた。  検証用のダミー人形の前に立ち、話しかけてみる。 「テスト、応答確認」  人形の口が開きかける。だが、そこから声が聞こえてこない。ミリ単位で唇が動き、極めて低い重低音のノイズのようなものが、永遠に近い時間をかけて空気を震わせている。 「……これ、挨拶が終わるまでに俺が老衰するな」  階段を降りようとしても同じだった。重力加速度の演算まで主観時間に合わせて引き延ばされているため、一段降りるだけでふわふわと宇宙遊泳のように宙に浮いてしまい、なかなか足が次の段に着かない。  これではゲームにならない。敵の攻撃を避けるときは高速で動きたいが、村人と会話するときや階段を降りるときは、普通の人間と同じ時間間隔で過ごしたいのだ。 「切り替え式にしよう」  思考と連動する感応フィルタを組み込む。  普段の歩行や会話といった日常行動時は、世界の時間を通常等速とし、アバター側の操作感覚も常識的な速度へ合わせる。そして、「能動的に超高速行動を起こそうと意図した瞬間」または「感知範囲内に明確な危険や攻撃判定を検知した瞬間」にのみ、自動的に高速処理ルーチンへと遷移する動的切替システムを実装した。  修正を適用し、階段を降りてみる。トントン、と小気味よいリズムで靴音が響き、あっさりと三段を降り切ることができた。  ダミー人形に向き直ると、人形は軽快な電子音とともに言った。 『こんにちは、旅の人! 今日もいい天気ですね!』 「うん、実にいい天気だ」  満足のいく仕上がりだった。強さを削ることなく、最強のまま快適に暮らせる足回りが整った。  試験箱を出てデバッグルームへ戻ると、アバターの姿は再び普段着の人間へと戻る。  作業机のモニタを確認すると、メインのテスト世界のロールバック処理は、まだ進行度七十パーセントほどを示していた。巨大な惑星規模のシミュレーション基盤を丸ごと巻き戻しているのだから、いくら個人用とはいえ時間がかかるのは仕方がない。 「ふぁ……ちょっと疲れたな」  時計を見ると、現実時間では深夜をとうに回っていた。受託開発の納品を終えてから、ぶっ通しでコードをいじり続けていたのだ。  俺は作業机の横にあるマットレスへ倒れ込んだ。復元が終わるまでのほんの十数分、少しだけ目を閉じるつもりだった。 *** ### 5.接続者は俺一人のはずだ  違和感で目が覚めた。  妙に背中が窮屈だった。寝返りを打とうとしたが、背中に何枚もの分厚いクッションを背負い込んでいるかのように身体が重く、マットレスに引っ掛かって動けない。 「ん……なんだこれ……」  顔をしかめながら、のそのそと上半身を起こす。  バサリ、と頭上で何かが羽ばたくような重い音が鳴った。  視界の端に、白銀の光を放つ巨大な羽毛が見える。一枚や二枚ではない。左右に三対、計六枚の雄大な翼が、俺の背中から直接生え、狭い部屋の空気を圧迫していた。頭上からは、淡い光輪の放つ温かな光が視界を照らしている。  慌てて自分の両手を見下ろした。  着慣れたジャージの袖はない。肌は白磁のように滑らかで、手首には神話の意匠を凝らした白銀の篭手が嵌まり、豪奢な神装がしなやかに身体を覆っていた。 「……は?」  よろめきながら立ち上がり、作業机の横にある姿見の鏡の前に立つ。  そこに映っていたのは、冴えないプログラマーの瀬名律ではなかった。自作ゲーム『エンドレス・クラウン』の隠し最上位種族――《六翼天主》そのものだった。  背中の六枚羽が、俺の動揺に合わせて微かに波打つ。 「なんで……? ここはデバッグルームだぞ……?」  心臓が嫌な跳ね方をした。  この作業室は、開発者個人の安全を最優先に保護する入れ子構造の外側に位置している。企業向けのリモートワークにも耐えうるよう、なりすましを防ぐための厳格な身体スキャン照合が義務付けられており、テスト用のアバターデータがどれほど変貌しようと、この部屋に戻ってきた瞬間、強制的に現実の生体スキャンに基づく人間の姿へ戻されるはずなのだ。  空中にシステムウィンドウを呼び出し、入室ログと生体認証ステータスを表示する。 ユーザー認証: 瀬名 律 (開発者ID: DEV-001) 身体スキャン照合: 整合性確認済み (PASS) ステータス: 正常 「照合、成功……? これが?」  白銀の篭手に包まれた自分の指先を見つめる。指を曲げれば、指の関節が滑らかに追従する。翼を動かそうと思えば、まるで生まれつき生えていた手足のように自然に羽ばたく。  システムは、この六翼の姿を『瀬名律本人』として正常に認識し、パスを通していた。 (……じゃあ、現実の俺の身体はどうなってるんだ?)  ベッドの上でフルダイブギアを被っているはずの、生身の肉体。そのスキャン結果がこれだとシステムが判定しているのだとしたら――背筋を冷たい汗が伝い落ちた。  思考が急速に冷えていく。パニックを起こしかけた脳を、長年のデバッグ作業で培った職業病じみた冷徹さが無理やり押さえつけた。  その時、部屋の中に乾いた電子音が響いた。 『メインテスト世界のロールバック処理が完了しました。修正パッチを適用し、環境を再構築します』  パッチの通知だ。俺は震える指先で作業机のモニタを操作し、復元されたメイン世界の監視ログを開いた。  先ほど半壊させた惑星は、何事もなかったかのように元の球体へと復元されていた。修正した環境干渉抑制ルーチンも正常に組み込まれている。  だが、ログの末尾に、見たこともない文字列が連なっていた。 警告:復元後の整合性検証で未登録IDを検出。 領域境界における参照テーブルの不整合。 外部セッションとの同期シグナルを受信中。 「……外部セッション? 同期?」  眉をひそめる。  このゲームは完全なオフライン専用だ。通信モジュール自体を最初からコンパイルすらしていない。外部のネットワークとデータをやり取りするはずがないのだ。  デバッガの表示バグか、あるいはロールバック時のメモリ化けか。 「パッチ、フィールドプロセスの一括強制停止を実行」 『コマンドを受理しました。全セッションの切断を試行します……エラー。要求は拒否されました』 「は? 拒否?」  モニタの中央に、真っ赤なシステムダイアログが弾け飛んだ。 [致命的警告] 保護対象セッション:128,406 安全確認未完了につき、一括停止コマンドは実行できません。 共通基盤保護規約に基づき、プロセスを維持します。 「保護対象セッション……じゅうにまんはちせん……!?」  声が裏返った。  十二万人? 俺一人しかいないはずのローカル環境に、十二万人以上の接続者がいる?  冗談じゃない。ゼロの数がバグっているのか、それともどこかのダミーカウンタが暴走しているのか。 「小試験箱の停止テスト」 『隔離試験箱、正常に停止しました』  手元の小試験箱は、コマンド一つで即座に消滅した。デバッグルームの機能自体が壊れているわけじゃない。停止命令が拒否されたのは、あの復元されたメイン世界だけだ。  嫌な予感が確信へと変わり始める。 「……いったんログアウトだ。現実側から端末の電源を直接落とす」  こんな気味の悪い状態のままダイブを続ける理由はない。セーブデータをバックアップし、コンソールから通常の手順で現実へのログアウトコマンドを叩いた。  視界が暗転しかける。しかし、次の瞬間、無慈悲な警告音が耳朶を打った。 エラー:帰還先照合失敗。 接続元アンカーの応答が不正です。ログアウト処理を中断しました。 「帰還先、照合失敗……」  その場に立ち尽くした。  もう一度試す。やはり同じエラーが出る。  机に両手をつき、荒くなる呼吸を整えようとした。白銀の篭手が、冷たい金属の感触をリアルに伝えてくる。  嘘だろ。出られないのか?  いや、取り乱すな。考えろ。  ログアウトは失敗したが、このデバッグルームへの帰還機能は生きている。部屋のコンソールも、コードの編集機能も正常に動いている。ただ「現実への出口」の整合性が狂っているだけだ。  もしさっきの警告通り、あのフィールドの向こうに本当に十二万人もの生身の人間が繋がっているのだとしたら――無理やりプロセスを物理破壊して落とすのは極めて危険だ。接続者の脳にどんな負荷がかかるか分かったものじゃない。 「パッチ、接続データの詳細ログを出せ。何が混ざってる?」 『解析結果を表示します。現在フィールドを構成するデータ群は、三つの異なる識別子に分類されます』  空中に展開された三つの円グラフを凝視した。 1. [EC] - Endless Crown (ローカル制作データ) 2. [AL] - Astral Link (外部参照識別子) 3. [????] - 名称解読不能 (未定義データブロック) 「アストラル・リンク……?」  思わず声が漏れた。  知っている。知らないはずがない。この開発基盤を販売しているオービット・ワークス社が運営する、国内最大規模の商用フルダイブMMORPGのタイトル名だ。  そして、三つ目の文字化けした領域。それはいかなるゲームエンジンの規格にも当てはまらない、まったくの正体不明のデータだった。 「物理回線も無線も切ったスタンドアローンの自作ゲームに……他人の商用ゲームと、謎の領域が混信してる……?」  あり得ない。技術的に考えて絶対にあり得ない事態だ。だが、現実に目の前のログはそれを示しており、俺のアバターは六翼のまま固定され、ログアウトは拒絶されている。  モニタの片隅に、淡い一行のシステムメッセージが流れた。 共有状態を検出。時間同期モードを等速補助ルーチンへ移行します。  世界全体の時間を遅くしてやり過ごす、オフライン特有の神の特権はもう使えない。向こうの世界は今、現実と同じ時間で動いている。 「……現地を、直接見るしかないか」 *** ### 6.神様の格好では聞き込みに向かない  現地調査に出る決心をしたものの、鏡に映る自分の姿を見て即座に頭を抱えた。 「この格好で外に出られるわけがないだろ……」  六枚の巨大な光の翼に、頭上の光輪、神話から抜け出してきたかのような豪奢な神装。こんな姿でうろついて、もし本当に『アストラル・リンク』のプレイヤーと遭遇でもしたらどうなるか。一瞬で目撃され、SNSに晒され、不正アバターとして運営に通報されて大騒ぎになるのがオチだ。 「外見設定の変更……っと」  俺は開発メニューを開き、アバターの容姿プレビューを呼び出した。  基盤にプリセットとして用意されている汎用SDKの青年サンプルを選択。髪は目立たない黒髪の短髪。服装も、初期装備として用意していた飾り気のないシャツとズボン、その上に自作の『全環境対応コート』を地味な灰褐色の外見で重ねる。防熱・防寒・清潔維持の機能はそのままに、見た目だけを駆け出しの冒険者風に偽装するのだ。  プレビュー画面の青年は、どこからどう見ても無害な一般人そのものになった。 「よし、これで適用」  決定ボタンを押す。  ……が、鏡の中の俺は、依然として白銀の六枚羽を背負った美貌の神のままだった。 「変わらない……? おい、外見機能まで死んでるのか!?」  焦ってコンソールを確認する。そこには小さな補足ダイアログが出ていた。 外見予約を保存しました。 ※本デバッグルーム内では生体スキャン照合姿(基準姿)が優先されます。 予約された外見設定は、フィールド出室時に自動適用されます。 「あ、そういう仕様か……」  心臓に悪い。この部屋が生体スキャンを最優先する安全設計だからこそ、部屋の中では六翼(=今の俺の本人姿)に固定され、外見の変更は「外に出たとき」にしか反映されないのだ。  つまり、システム的には変更を受け付けている。 「……本当に外に出たら変わるんだろうな?」  一抹の不安は拭えないが、ここに引きこもっていても状況は一ミリも進展しない。  俺は装備の確認を行った。腰には装飾のない『検証剣』。ステータスは全項目『U』のカンスト状態。無敵設定も有効。環境干渉抑制ルーチンも組み込み済み。  そして何より、意思一つでこの部屋へ即座に退避できる『デバッグルーム帰還コマンド』が正常にスタンバイされていることを、何度も念入りにチェックした。これさえ生きていれば、どんな異常事態に遭遇しても確実に逃げ帰ってこられる。 「転送先は……自作ゲームの正規開始地点。『始まりの平原』の座標コード」  見慣れた自分の作った世界の一等地だ。少なくとも地形の把握はできている。  深呼吸を一つ。  俺は覚悟を決め、空中に開いたフィールドへの転送ゲートへと足を踏み入れた。 ***  視界が光に包まれ、次の瞬間、柔らかな草の匂いと爽やかな風が頬を撫でた。  真っ青な空。見渡す限りの緑の草原。自作ゲーム『エンドレス・クラウン』のオープニングを飾るために作った、見通しのよい『始まりの平原』の景色だった。  恐る恐る、自分の両手を見下ろす。  白銀の篭手は消えていた。手首を覆っているのは、くたびれた革の手袋と、灰褐色の質素なコートの袖だ。  背中に手を回す。六枚の翼の感触はない。頭上を触っても、光輪の熱は感じられなかった。 「……よかった。ちゃんと普通の人間になってる」  胸を撫で下ろし、深く息を吐き出す。  ステータスウィンドウを端で開いて確認するが、攻撃力も防御力も、すべてあの無茶苦茶な上限値『U』のまま維持されていた。姿は平凡な青年だが、中身は神のままだ。これなら調査中に不意打ちを食らっても死ぬことはない。  周囲を見渡す。  平原を貫くように、俺が配置した白く整然とした石造りの街道がまっすぐに伸びている。等間隔に配置された街灯、規則正しく並ぶ木々。自分が一人で遊ぶために作った、機能美に満ちた愛着ある景色だ。  だが。 「……なんだ、これ」  白い石道を進んだ先で、俺の足がピタリと止まった。  自作の白い石畳を乱暴に断ち切るように、見たこともない『黒い舗装路』が、斜めから強引にめり込んで接続されていた。  アスファルトとも違う、艶のある黒曜石のような未知の石材で組まれた道。その継ぎ目には、まるで空間そのものを無理やり縫い合わせたかのような、不自然なノイズが微かに揺らめいている。  視界の端で、デバッガの警告ウィンドウが静かに明滅した。 警告:未登録のオブジェクトIDを検出。 定義ファイルが存在しません。  俺が配置した道じゃない。  一人用のオフラインゲームのフィールドに、俺の知らない何かが、確実に足を踏み入れていた。