深縹  どちらかといえばインドア派だったというのに、いつからかウォーキングが日課になっていた。  ひとことにウォーキングとは言っても、ほとんど散歩みたいなものだ。身体に強い負荷をかけるでもなく、ただ近所を歩くだけ。整骨の先生の言うところによれば、あまり安静にしすぎるというのもかえって悪影響だから、あくまで腰の療養中といえども適度な運動は健康的な生活を送る上では不可欠であるらしい。  いまは完治させることが最優先とはいえ、ただ自宅でじっと横になるだけというのもなんだか申し訳なかったから、正直なところこのアドバイスはまさに渡りに船だった。なにせ、活動を始めてからずっとほとんど立ち止まるということをしてこなかったものだから、約一ヶ月なんていう長いお休みに対していったいどう向き合っていいものかとモヤモヤとしていたからだ。  思い立ってからというもの、既に自宅の近所を歩き尽くして、何度かお世話になっている道ばたのベンチに腰掛けてじんわりと浮かんだ汗を拭った。水筒を傾けて中身をあおると微かにからんと氷の澄んだ音色が鼓膜を揺らす。目の前の道路をひっきりなしに通り過ぎる車たちから意識を遠ざけて耳をすませば、遠くから蝉の声に混じってはしゃぐ子供の歓声が聞き取れた。休み時間なのかなと一瞬よぎったけれど、そうか、今は私と同じように夏休みだったっけと思い直す。  背後の緑地から伸びる木々の木漏れ日のすき間をにわかにぬるい微風が吹いて、うっすら汗ばんだ肌をほんのりと冷ましていった。  日中は連日当たり前のように熱中症警戒アラートが発令されるほどだというのに、ここ最近の朝晩は台風の影響かずいぶんと涼しい。去年の今ごろはどうだったっけと思い出そうとしても、たかだかほんの一年前のことすらひどく曖昧でおぼろげで、輪郭は判然としなかった。なぜだろうと首を捻って、そういえば去年はライブの準備に大忙しでそれどころではなかったかと思い当たる。それは今年も同じような状況だというのに、省みてみると今の私は驚くほど悠長だ。  それは私たちが置かれている状況の変化もあり、私自身が今為すべきことが療養に専念するということでもある所為で。けれどそれでも本番の日が近づくにつれて、焦りというものもどうしたって表層にたち現れてきてしまい、考え込むことが多くなった。水の中でもがくような、身を任せて体重を預けようとしても心のどこかで気を張ってしまう不安定な気持ちを表すように、見つめる先の焦点はどうしようもなくぼやけているように思う。  動き続けてさえいれば余計なことは考えなくて済むというのに、それができない現状がもどかしい。  「ブーッ」というブザー音にはっとして顔をあげると、いつの間にそこにいたのか1台の路線バスが停まっており、ベンチに腰掛ける私に大きく扉を開いて見せていた。 ◆  給水の名目でフレームアウトしてマイクの接続を切った瞬間、今だと言わんばかりにロキソニンとアドレナリンで誤魔化していた痛みが一気に襲いかかってきた。身体中の毛穴が開き、ぶわりと脂汗が吹き出す。  背筋を駆け上がる電流めいた激痛に、喉を衝いて出そうになる呻きをどうにか抑えて壁にもたれかかった。心配そうに覗き込んでくるライブサポートスタッフの声かけに大丈夫ですと絞り出し、コルセットの紐をさらにきつく引っ張って巻き直して大急ぎで水を喉に流し込む。  今、ステージで場を繋いでくれている二人だって以前に喉を潰しかけながら駆け抜けたのだ。私だってこのくらい、どうって事ない。  いや、そうで在らねばならない。 ◆  座っていたベンチはどうやらバスを待つ人のためのものだったらしい。そこそこ長くここいらに住んでいたのだけれど、停留所がそこにあっただなんて見えていたはずなのに今の今まで知りもしなかった。そんな感じなものだから別にバスを待っていたわけではなかったし特段どこかへ行くつもりもなかったのに、紛らわしい場所に座って誤認させてしまった罪悪感もあり、突然眼の前に現れたものだから何に急かされたのか慌てて思わず乗り込んでしまった。  普段バスなんて利用しないものだからICカードをタッチするタイミングを逃してしまって、仕方なく乗り込み口の脇からぺろんと吐き出された頼りなさげな整理券を握りしめて車内を見回す。通勤ラッシュの時間はもう過ぎていたからか、乗客は私を含めても片手で数えられるほどだ。  わざわざ停車させてあまつさえ乗り込んでしまった手前、さっさとひと区間で降りるというのも謎に忍びなく感じてしまい、意を決して空いている座席に腰を下ろす。休養期間中だから後に予定が詰まっているわけでなし、どこか適当な駅の最寄りで降車して勝手のわかっている電車でも利用して帰ろう。  私がいま乗っているバスはなんという路線でどこへ向かっているのだろう。車内前方のディスプレイに表示された停留所名を打ち込んで検索をかけてみると、どうやらしばらく乗り続けないと駅とは接続しないということがわかり、ため息をついてスマホをポシェットに仕舞い込んだ。  窓の外を流れていく街の景色をぼんやりと眺める。  車での移動なんて実家くらいでしか経験がない。メンバーは運転なんてしないし、こっちでの移動はもっぱら電車がメインであったし、その目的地も会社や撮影スタジオといった決まりきった場所が多かった。思い返してみればこんな無計画な外出は生まれてこのかた初めてで、途端に不安が押し寄せてくる。  ほんの数分、車を走らせただけでこんなにも知らない景色が目の前に広がるのかという驚きもあったけれど、都会の景色なんてどこへ行っても思ったより変わり映えしないものだなと、冷めた視線を送る自分の存在も確かにあった。  それはひとえに視野狭窄、目指す場所ばかりに気を取られて足元を見ることを怠った結果だ。移動の最中にもふと目を向けてみればいくつも発見はあったはずなのに、日々の忙しさを言い訳にして、足を前に進めることばかりに躍起になって、道中でいくつも何かを手放してきたような気がする。  二年続けて出演依頼が頂けなかった。実家の飼い犬の旅立ちを見送れなかった。体調管理を怠ってステージに穴を空けた。不本意な形で舞台を降りなければならなくなったひとたちに、力を貸すことができなかった。  手からこぼれ落ちたものは限りがなく、数え上げればきりがない。いつも自分たちのことだけで精一杯で、自分たちのことすらも手一杯なのだから仕方がないのだと、きっと自分を騙すよりほかはなかった。  機械的なアナウンスが車内に響き渡り、終点が近づいてきた旨を告げる。それはまるで何かの比喩のようで、思わず眉根を寄せながらボトルホルダーを指に引っ掛けて降車の支度をした。 ◆  どうも、現状のままではいずれ立ち行かなくなるのはどうやら時間の問題らしかった。  度重なる交渉も手応えは感じられず、状況は悪化の一途をたどる。そもそもが古株のよしみで安価に使わせて貰っていただけなのだから、そんな綱渡りの状況なんてほんのささいな蟻の一噛みであっけなく覆るものだ。  だからいざNOを突き付けられた時も「どうして」よりも「ついにか」という気持ちの方が強かったように記憶している。  それでも傍から見れば無駄とも思える足掻きを続けたのは、まだ幕を引きたくなんてなかったから。いずれ必ず終わるものだとしても最後の瞬間くらいは自分たちで決めたかったから。ここで終わるだなんて認めたくなかったから。だから八方手を尽くした。頭の隅っこにどうにもならないという考えを抱えたままで。  永遠なんて、どこにもありはしないのに。 ◆  着の身着のままで出てきたことを今更ながらに後悔していた。  かろうじてアームカバーは身につけていたものの、その他の暑さ対策なんて鍔広の帽子と家を出る前に水筒に詰めた氷水くらいのもので、それ以外はろくなUVケアもしていない。ポシェットから発掘したヘアゴムで後ろ髪をくくり、首元に風を通すといくらか暑さが和らいだような気がした。日焼けは嫌だけれど熱中症よりはきっとだいぶマシだろう。スマホでマップを開いて現在地を確認すると、もうあと少しで目的地にたどり着けそうな気配だ。  夏休みで人の多そうな観光地は避けて、聞いたこともない小さな駅で降りた。太陽はとっくのとうに天辺に達しており、陽炎が揺らめく行く先のアスファルトにうんざりとした視線を向けて、歩くことを再開する。  バスを乗り通しても折り返し運行があったなら乗り直せばもとの場所に戻れるというのに、私はそれを選択しなかった。単に行き先の表示が回送に変わったからというのもあったし、乗り慣れない路線バスよりも慣れ親しんだ電車の方が安心できるというのもある。そうやって家に帰ってこの話はおしまい。日課のウォーキングの範囲を気まぐれに少し拡げただけの筈だったのに、何を血迷ったのか帰る方角とは真逆の車両へと足が向いていた。  何かを期待していたのか。何から逃げたかったのか。わからないままに、ぼんやりとした意識で暑さに耐えながら歩いた。  ふと、コンクリートの壁が行く先に立ちはだかっていることに気付く。私の身長よりも一回りほど高いそれが高波を受け止める堤防であることを理解したのは、かなりそれに近づいてからのことだった。それとこちら側とを隔てる道路はびゅんびゅんと車が行き交っており、渡るタイミングはなかなか掴めない。  しばらく地面と平行に切り取られた空を眺めながら道路に沿って歩き、ようやく押しボタン式の横断歩道を見つけて、潮風にさらされて白っぽく風化した赤いボタンをぐっと強く押し込んだ。 ◆  時間ができたタイミングでお墓に手を合わせに行った。  お墓とはいっても、お寺で受け付けていたペットの合同墓の片隅に一緒に入れて頂いたくらいのものだった。そこに確かに居るとも、もうどこにも居ないとも判別のつかない、どっちつかずな感覚。  合わせた手をほどいてあらためて目の前の巨石のまわりを観察すると、ここに埋葬されているであろうペットたちの生前の写真やお世話に用いた道具などがいくつもずらりと並べられていた。犬、猫、鳥、げっ歯類に魚、爬虫類に両生類、中には立派な角の昆虫の写真などもあって、費用も安くはないだろうにそれだけ愛情が注がれていたのだろうとすぐに見て取れる。  頬を舐められた時のくすぐったさ、鼻の頭の湿り気や撫でた時の毛並みの手ざわり、抱きしめた時の鼓動や体温ももう、記憶の中にしかない。  別れは必ず訪れることなんて理解したつもりだったけれど、それを実感するのはいつもすべてが終わってからだ。 ◆  堤防のコンクリートを削り取ったように備え付けられた簡素な階段を昇ると、不意にごおと鳴る強い海風に体を煽られた。  思わず瞑ってしまった目を開けば、遮るもののない海と空が視界に飛び込んでくる。ほんのりとあたりに漂っていた磯くささが何倍にもなって鼻をついた。  海水浴場はもう少し離れたところにあるから、砂浜も何もない。あるのはおびただしい数のテトラポットばかりで、釣りのポイントとしてもいまいちなのか時間帯のせいか釣り人もいないし、釣り上げた魚目当ての海鳥も見当たらず周囲には私ひとりで他はただただ、海、海、海ばかり。  しゃがみこんで、もはやデッドウェイトと化した水筒を置き、蒼と碧の境界線をぼんやりと眺める。堤防の反射熱のせいか体感温度がいくらか上がったような気がしたけれど、それ以上に汗だくの肌を撫でる風が体を冷やしてくれて心地よかった。規則的なようで不規則に打ち付ける波しぶき、どこか遠くの蝉の声、走り去る車の駆動音、帽子を吹き飛ばしそうな勢いの強い風、肌と地面をじりじりと灼く日差し。比喩でもなんでもなく今この時そこに私はひとりきりだった。  結局のところ、目指していた海を目の当たりにしてもどうしてここへ来たかったのかは分からずじまいだった。ただ時間とお金を浪費して、喉が渇いてお腹が空いただけ。意味なんてものは最初から最後までありっこない。  けれど、道中は少しだけわくわくと心が弾んでいた気がした。あんなにもしんどい道のりだったというのに、そこに何があるかなんてわかりきっていたのに、辿り着いた先の景色を実際に瞳に映さずにはいられなかったのだ。  他人からすればちっぽけな旅かもしれないけれど、私にとっては震える指で応募のボタンをタップした15の頃以来の大冒険だった。  まるで広げたまっさらな白地図に線を描くように、その足どりを刻むように。  スマホを取り出して二色の青を画面に収めた。自撮りでもなく、何か私が撮ったと一目でわかるようなものは何ひとつフレームに入れないままにシャッターを押す。さよならなんて言葉は寂しすぎるから、またねと願いながら。  この国では古来から海の向こうには黄泉の国があると信じられていたという。それは島国特有の価値観であり、現代においては水平線を越えた先にそんなものはないのだと誰もが知っている周知の事実だ。  そんなことをぼんやりと思い出していると、不意にすとんと腑落ちした。そうか、だから私はこれが見たかったのか。  隔てる青と繋ぐ青が交わった景色。今まで別れを告げて取りこぼしてきた全部ぜんぶと、今でもきっとどこかで繋がっていますようにと祈るように。もしかしたら昔の人たちもそう感じながらこうやって海を眺めていたのかもしれない。  あぁ、また逢いたいよ。  口にした言葉は騒々しい周囲の音にかき消されてしまったけれど、ふと脳裏に浮かんだひとに向けて写真を送信してから傍らの水筒を手に立ち上がった。 ◆ 「まさかあんずが日に焼けて帰ってくるとはねぇ」  レッスン復帰日、練習着に着替え終えて普段以上に入念にストレッチをしながら、たまちゃんがしみじみと呟いた。赤みの引かない日焼けのあとをそっとさすると、まだ少しひりひりとした疼痛が肌の表面を走り回る。中途半端な紫外線対策が仇となって変てこな焼け方になってしまい、長年の付き合いとはいえど少し恥ずかしい。 「ダメだよ。お肌のケアはしっかりしないと」 「うぅ……わかったからぁ……」  仮にも療養期間中の突然のひとり旅という状況証拠が私から反論の余地を奪っていく。その遠出で得られた明確に言語化できるものなんて何ひとつとしてなかったものだから、いっそう立場がなかった。 「でも、すこーし安心したなぁ。あのあんずが一人で外出なんて」  けれど、彼女の反応は予想していたものとは少し違っていて、てっきり叱られるものかと思っていたから一瞬面食らってアキレス腱を伸ばす動きが止まる。  私の衝動的で無計画な行動に対して、彼女が抱いた感想は心配ではなく安心なのだという。その似て非なる性質の感情の機微に、なんだか私も同じような感覚を共有したような気分になる。 「おかえり、あんず」 「ただいま、たま」  やりとり自体は簡素で短かったけれど、きっとそれにはいくつもの応酬が含まれていたに違いない。おそらく私の人生で一番長く同じ時を過ごしてきた相棒なのだから、なんとなくそう感じるのだ。 「おはYO〜」  入り口の方から聞こえてきた声に振り向くと、まだほんのり眠そうな表情の奈央ちゃんが腕の腱を伸ばしながら入室してきていた。 「見学希望の子が二人いるんだけど、いいよね?」  指差された扉に視線を向けると、不安げな表情を浮かべた子たちが半開きのドアから頭だけをぴょこんと覗かせている。その様子がなんだか可愛らしくて可笑しくて、ふふと小さく笑ってから手招きをすると、ぱっと笑顔が華やいだ。  出会いがあって、別れがあって、また出会いがあった。人生ってものはきっとその連続だ。たくさんの出会いと別れが私をここに繋ぎ止めてくれていて、立ち止まることも、振り返ることも、何ひとつ無駄なんかじゃなかったと思える。だからきっと、あの子たちにまた逢えるのだって偶然じゃなくて必然で、叶わなかったステージを掴み取った未来がまぎれもない証明に違いない。  自分と、自分たちが歩んできた道を肯定できたような気がする、そんなとある夏の出来事だ。 了