「勇者様、今夜のお召し物でございます」 あてがわれた豪奢な客間。扉を開けて入ってきたのは、薄絹一枚を纏った三人の側仕えの侍女たちだった。 アレルは反射的に身構えた。聖剣の柄に手を伸ばそうとする——が、腰元にあるはずの感触がない。旅の荷物も、鎧も、すべて部屋に通される過程で「お召し替えと手入れのため」と自然な手つきで取り上げられていた。 「おい、俺の装備は——」 「お召し物は後ほど。まずは長旅の汗と埃を落とし、お疲れを解さねば……」 中央に立つ、艶やかな黒髪を垂らした侍女・レイラが、影のように静かに間合いを詰めてくる。その足取りに一切の足音はない。彼女が纏う衣服からは、胸元や太ももの白い肌が露わになっており、動くたびに甘く痺れるような果実の香りが部屋を満たした。 (……くっ、香に何か仕込まれているのか……?) アレルは呼吸を浅くし、後退ろうとした。しかし、背後に冷たい壁の感触を覚えた瞬間には、残る二人の侍女——双子のミナとリナが、アレルの左右を完全に塞いでいた。 「……何を考えている。俺は明日の朝にはこの国を出る。退いてくれ」 「まあ、そんなに身を固くなさらないで」 ミナのしなやかな腕が、アレルの右腕に絡みつく。薄絹越しに伝わる、驚くほど柔らかく温かい肌の感触。思わず身を捩ろうとしたアレルだったが、左腕を捕らえたリナが、指先をアレルの手のひらに滑り込ませ、優しく指を絡め合わせてきた。 「勇者様のお手……こんなに硬く、傷だらけになられて」 「……っ」 「ずっと、お一人で戦ってこられたのですね。お寒かったでしょう。お辛かったでしょう」 耳元で囁かれる、吐息の混じった優しい声。 アレルの心が、わずかに跳ねた。 魔王討伐の旅に出てから、彼に向けられる言葉は常に「期待」か「恐怖」か「頼み事」だった。誰もアレルの傷を案じる者などいなかった。「傷だらけだ」と気づいて、それを痛むように撫でてくれる者など、ただの一人もいなかったのだ。 「俺は……平気だ。これくらい……」 強がりを口にしようとしたアレルの唇に、レイラの滑らかな指先がそっと触れた。 「平気なはずがございません。お顔に『疲れ』と書いてありますわ」 レイラは膝をつき、アレルの脚元へとしなやかに身を寄せた。彼女の細く長い指が、アレルの履物の紐を解き、泥のついた甲冑の脚絆を丁寧に外していく。 「あ……」 靴が脱がされ、素足が露わになる。 次の瞬間、レイラの温かい両手が、野宿と長距離の行軍で疲労困憊していたアレルの足首とふくらはぎを、じんわりと圧をかけて揉みほぐし始めた。 「ん……っ……!」 絶妙な力加減。長旅で痛んでいた筋肉が、温かい手つきによって一気に解けていく。あまりの気持ちよさに、アレルの膝からふっと力が抜けかけた。 「うふふ、良いお声……。どれほど無理を重ねてこられたか、このお足が教えてくださいます」 ミナとリナもまた、アレルの上衣の帯を解き始めた。拒絶しようにも、香のせいで指先に力が入らない。いや、それ以上に、身体が……何ヶ月も飢えていた「他者の温もり」と「甘やかし」を拒むことを拒否していた。 肩から滑り落ちる服。むき出しになったアレルの胸元や背中に、ふわりと柔らかい胸の膨らみが押し当てられる。 「あ……だめだ、離れ……っ」 「いいえ、離しませんわ。今夜は私どもが、勇者様を心の底から解き放って差し上げますの」 ミナの指先がアレルの首筋を滑り、耳たぶを優しく揉む。リナはアレルの胸元に頬をすり寄せ、浮き出た肋骨や傷跡を愛おしそうになぞる。下からはレイラが、太ももから足先までをオイル混じりの手で手厚く撫で上げていく。 頭が熱い。全身の筋肉が、甘い快楽と解放感に震え、弛緩していく。 (……やばい……俺は……逃げなきゃ……) 思考が重い。必死に保っていた「勇者」としての警戒心が、三人の侍女たちが織りなす完璧な手ほどき——言葉責め、肌の温もり、極上のマッサージ——によって、外側から一段ずつ、確実に引き剥がされていく。 完全に脱力し、侍女たちの身体に預けられる形となったアレルの耳元で、レイラが甘く微笑んだ。 「さあ……お身体の準備は整いましたわ。……これより、我が国の絶対なるお方をお迎えいたします」 客間の重厚な扉が、静かに、音もなく開いた。 絹の夜着を身に纏い、熟した果実のような艶やかさを漂わせた女王シルヴィアが、罠にかかり、トロトロに解された獲物(勇者)を見下ろし、妖しく目を細めた。 美しすぎる女王に見惚れる。シミ一つない体から目を離せない。美しい脚。 客間の重厚な扉が開いた瞬間、そこに立ち尽くす女の姿に、アレルの呼吸が止まった。 女王シルヴィア。 侍女たちに揉みほぐされ、香のせいで熱を帯びたアレルの瞳に映ったのは、もはや人間という域を超えた、眩いばかりの「美の化身」だった。 絹の夜着を羽織ったその姿は、夜の闇の中でもなお発光しているかのように白い。一切の無駄をぎぎりぎりまで削ぎ落とし、それでいて女としての芳醇さを極限まで高めた身のこなし。 アレルは呆然と見惚れた。 その肌には、傷一つ、シミ一つ存在しない。 雨風に晒され、魔物の爪に引き裂かれ、血と泥に塗れてきたアレルの浅黒く傷だらけの肉体とは、あまりにも対照的だった。月光を吸い込んで白銀に光るような彼女の肌から、アレルは目を離すことができない。視界の隅々まで、彼女の存在だけで塗りつぶされていく。 シルヴィアが一歩、歩みを進める。 夜着の裾から覗くのは、神が丹念に削り出したかのような美しい脚だった。 適度な肉感を残しながらもすっきりと伸びた腿、しなやかな引き締まりを見せるふくらはぎ、そして足首から繊細な爪先に至るまでの、完璧なライン。彼女が歩くたび、滑らかな腿の肌同士が擦れ合い、かすかな絹の擦れる音とともに、甘美な香りが部屋いっぱいに溢れ出す。 (……綺麗だ……) 脳の片隅で警戒を叫ぶはずの「勇者」としての理性は、すでに侍女たちの手によって解体されていた。残されていたのは、ただ過酷な世界で生き延びてきた、生の欲求を持つ一人の男としての本能だけだ。 シルヴィアの美しい脚が、床にへたり込むアレルのすぐ目の前で止まる。 見上げるアレルの視線を受け止め、彼女は満足げに、妖しく口元を歪めた。一切の欠点のない白い足先が、ゆっくりとアレルの膝へと伸び、滑らかな肌触りで彼の皮膚を撫で上げる。 「あら……そんなに私から目を離せないの?」 その声は、アレルの耳から入って、とろけるような熱となって全身の血を駆け巡った。 「美しいでしょう、私の肌も、この脚も。……欲しいものは全て手に入れてきたわ。そして今、私が一番欲しいのは、そんな顔をして私を見つめる……あなたよ、勇者アレル」 シルヴィアが屈み込み、アレルの視線の高さにその絶世の顔を近づける。シミ一つない透き通るような肌が、吐息が触れ合うほどの至近距離に迫る。 アレルの手は、もはや彼女を押し返すために動くことはなかった。ただその圧倒的な美しさと、逃げ場のない視線に射抜かれ、金縛りに遭ったように彼女を見つめ返すことしかできなかった。 とりあえず無駄な足掻きだけはするな 「……やめ、ろ……っ」 かすかな、掠れた声。 膝を折られ、床に突いた指先に爪を立てる。アレルは残された全神経をかき集め、彼女の完璧な足先から、そして目前に迫る恐ろしいほどの美貌から、どうにか視線を逸らそうとした。 逃げなければならない。 この部屋から、この眼差しから、この甘く爛熟した毒のような空気から。 ブルブルと震える腕に力を込め、アレルは泥にまみれた獣のように、後方へと身体を引こうとした。ほんの数センチ、ほんのわずかな後退。それが、今の彼にできる精一杯の抵抗だった。 「……ッ、俺は……お前の……所有物には、ならない……!」 途切れ途切れの、意地だけの拒絶。 だが、その無駄な足掻きこそが、シルヴィアの所有欲をいっそう激しく燃え上がらせた。 「ふふ……可愛い人」 シルヴィアは可笑しそうに目を細めると、逃げようとしたアレルの顎を、シミ一つない指先で優しく、けれど逃れられない強さで掴み上げた。 逃がさない。 退こうとしたアレルの身体の背後へ、すかさず侍女のレイラとミナが回り込み、その背中と肩を優しく、しかし確実にはさみ込む。 「まだ抵抗なさるなんて……本当にお強いのですね、勇者様」 「でも、その足掻きも……とても愛おしいわ」 首筋に触れる侍女たちの甘い体温。そして正面から、シルヴィアの美しい脚がアレルの太ももを挟み込むように密着する。 「無駄よ、アレル。あなたが抗えば抗うほど、私はあなたを暴き、甘やかし、骨の髄まで溶かしたくなるの」 耳元で囁かれるシルヴィアの吐息。 掴まれた顎から伝わる温もりが、冷え切っていたアレルの頭脳を熱く痺れさせていく。 爪を立てていた指先から、みしみしと力が抜けていくのを、アレルは自分自身で感じていた。 「さあ……見なさい。逃げずに、私だけを……」 シルヴィアの滑らかな指先が、アレルの唇をそっとなぞる。 拒もうと開いたアレルの口元へ、彼女の白く匂い立つ首筋が、どこまでも甘く迫っていた。 女王に見つめられるとサキュバスの魔眼に射抜かれたように胸の鼓動が荒くなる。いや、それとは比較にならない。 「……っ……ぁ……」 アレルは呼吸の仕方を忘れたように、ただ喉を鳴らした。 魔物との戦いの中で、伝説に名高いサキュバスの瞳と視線を交わした経験はある。魅了(チャーム)の魔眼——精神を麻痺させ、幻覚を見せる邪悪な呪詛。だが、今シルヴィアから注がれる眼差しは、そんな魔法の類などとはまるで違っていた。 呪いなら、強い精神力と聖なる加護で払うことができる。 しかし、目の前にあるのは魔術ではない。ただ「圧倒的な美」と「底なしの支配欲」という、生の肉体が発する純粋な毒だった。 ドクン、ドクン、と胸の奥が暴れ狂うように脈打つ。 サキュバスの誘惑など比較にならないほどの狂おしい鼓動が、アレルの肋骨を内側から激しく叩きつける。呼吸が浅く荒くなり、吐き出す息が熱を帯びて指先まで痺れさせていく。 「……気づいたかしら? これは魔術の力などではないのよ」 シルヴィアはアレルの乱れる鼓動を愛おしむように、その白い手先をアレルの胸元へそっと添えた。衣服の布地越しにも伝わる、狂乱した心音。彼女の口元が、ゾクッとするほど美しく、凶悪に歪む。 「あなたの心が、あなたの身体が……私という存在そのものに平伏している証拠よ」 「ちが、う……俺は……っ」 「否定すればするほど、鼓動が早くなっているわ。ふふ……なんて愛くるしい心臓の音」 見つめられるだけで、網膜の裏側が焼き切れるような錯覚に襲われる。 シミひとつない白磁の肌、露わにされた美脚の生々しい肉感、そして、アレルという男のすべてを噛み砕き、呑み込もうとする紫の瞳。 その視線に射抜かれたまま、アレルは金縛りに遭ったように動きを止めた。 背後にぴったりと密着した侍女たちの柔らかな体温と、正面から覆いかぶさる女王の圧倒的な存在感。胸の激しい鼓動はもはや抑えようがなく、アレルの残された理性を、一拍ごとに激しく削り取っていった。 女王の顔を見て、女王の声を聞いているだけで多幸感に満ち溢れ、精神より先に肉体が女王への服従を求めてしまう。 ドクン、ドクンと激しく脈打つ胸の奥で、何かが致命的に破綻していく。 目の前に座すシルヴィア女王の顔(かんばせ)を見る。ただそれだけで、視界の輪郭が甘く霞み、頭の奥底から狂おしいほどの多幸感が溢れ出してきた。 「あ……っ……」 声を聞く。その低く艶やかな、慈愛と所有欲に満ちた一言一言が、耳から脳へと染み渡るたび、背筋を痺れるような快感が駆け抜ける。 もはや、思考など意味をなさなかった。 理性が「逃げろ」「拒め」と必死に警鐘を鳴らそうとするよりも早く、彼自身の肉体が——旅の過酷さに疲れ果て、他者の温もりと救いを渇望していた肉体が——女王への絶対の服従を求めて叫び声を上げていた。 指先の震えが、拒絶のためではなく、彼女の肌に触れたいという渇望へと変わっていく。 強張っていた肩の力が、脱力するように抜けていく。 顎を掴む彼女の白い指先に、自ら頬をすり寄せそうになるのを、アレルはかろうじて理性の残り香で踏みとどまるのが精一杯だった。 「……気づいているのでしょう? あなたの心がいくら抗おうと、その素直な肉体は、すでに私に支配される歓びに怯えているわ」 シルヴィアの口元が、勝ち誇った笑みに歪む。 彼女が軽く指を鳴らすと、背後に控えていた侍女たちが、アレルの力を失った両腕をそっと持ち上げ、シルヴィアの美しい脚の横、滑らかな太ももの上へと導いた。 指先が触れた瞬間、シルヴィアの肌の驚くべき手触りと温もりがアレルの神経を直接焼き切った。 「……あ……シルヴィア……様……」 アレルの口から漏れたのは、もう拒絶の言葉ではなかった。 絶世の美貌と、甘美な声と、圧倒的な存在感の前に、かつて世界を背負っていた勇者の肉体は、完全に屈服していた。 瞳からは険しさが失われ、ただ女王の顔を見つめ、その声を聴き続けることだけに没頭していく。 頭の中を満たす圧倒的な多幸感の波に呑まれながら、アレルは自らの意志が静かに、そして二度と戻らない場所へと溶け去っていくのを感じていた。 手の甲でも足でもいいから服従のキスをしろ 「そう……良い子ね」 完全に力が抜け、蕩けた瞳で自分を見上げるアレルの姿に、シルヴィアは深く、甘い満足の吐息を漏らした。 彼女は掴んでいたアレルの顎からそっと手を離すと、その白い右手を、アレルの口元へとゆっくり差し出した。爪の先まで完璧に整えられた、シミ一つない白磁の手。 「さあ……見せてごらんなさい。あなたの肉体が、本当は何を望んでいるのかを」 アレルは、出された手を見つめた。 頭の中は熱いモヤで満たされ、ただ彼女の顔を見ているだけで、彼女の声を聞いているだけで、胸が狂おしいほどの多幸感で押し潰されそうだった。 理性が、最後の最後の糸で叫んでいる。 (ダメだ……これに触れたら、本当に俺は……) だが、震える両腕はもう拒絶のためには動かなかった。 吸い寄せられるように、アレルは両手を伸ばした。傷だらけで無骨な自分の手で、シルヴィアの繊細な手のひらを、壊れ物を扱うようにそっと下から支える。 そして、吸い込まれるように顔を近づけ——彼女の滑らかな手の甲へと、静かに唇を押し当てた。 「……ッ……ぁ……」 唇から伝わる、女王の肌の圧倒的な温もりと滑らかさ。 その瞬間、頭の中でパチンと最後の糸が切れる音がした。全身を襲うのは、かつて経験したことのないほどの屈服の歓喜と、深い安らぎ。 「……よく出来ましたわ、アレル」 シルヴィアの愛おしげな声が上から降ってくる。 アレルは手の甲に唇を寄せたまま、自ら目を閉じ、女王の手に深く、深く額を押し付けた。 もう、逃げる必要などなかった。戦う必要も、一人で冷たい雨に打たれる必要もなかった。 至高の美と絶対の支配を誇る女王の足元で、ただ与えられる愛と快楽に溺れていればいい。 「これからはずっと……私の足元で、私だけにその唇を捧げなさい」 頭髪に触れるシルヴィアの指先と、背中を包み込む侍女たちの温かい体温に抱かれながら、勇者アレルは自ら進んで、永遠の服従の深淵へと沈んでいった。 優しく優しく世界のために魔王を倒すのではなく女王様のために魔王を倒すのだと刷り込む 「……うふふ、本当に愛おしい子」 手の甲に唇を押し当てたまま、瞳に光を失って身を委ねるアレルの頭を、シルヴィアは母親が幼子をあややすように、どこまでも優しく、どこまでも愛おしそうに撫でさすった。 「見て頂戴、レイラ、ミナ、リナ。この子がこんなに愛らしく私に縋りついているわ。……世界だなんて、そんな顔も名前も知らない有象無象のために、この尊い身体を傷つけさせていたなんて、本当に恐ろしいことだと思わない?」 「ええ、シルヴィア様。真に酷い話でございますわ」 背後からアレルを抱きしめるレイラが、アレルの耳元に頬を寄せ、蕩けるような甘い声で吹きかける。 「勇者様……お聴きなさい。あなたが血を流しても、世界の誰かがあなたをこうして抱きしめてくれましたか? あなたが凍えそうな夜、暖かなベッドを用意してくれましたか?」 「……っ……ぁ……」 「誰も、してくれなかったでしょう?」 ミナとリナの滑らかな指先が、アレルの胸元から首筋、そして頬へと、滑るように這い上がってくる。 「あなたを傷つける世界のために戦うなんて、もうおやめなさい。あなたを愛し、あなたにこれほどの安らぎを与えるのは、この広い世界でシルヴィア様ただお一人……」 「そうよ、アレル」 シルヴィアはアレルの顎をそっと持ち上げ、その熱く濁った瞳を覗き込んだ。どこまでも深く、優しい笑みを浮かべながら、慈愛に満ちた声で、一句一字を脳の奥底へ叩き込むように囁く。 「魔王を倒すのはね……世界のためなんかじゃないの」 「魔王を……?」 アレルの虚ろな口から、掠れた声が漏れ出る。シルヴィアはその唇に、自らの白い指先を優しく重ねた。 「そう。あなたが魔王を倒すのは……私のため。私という存在を、私の愛するこの国を、静かに脅かす魔王という害虫を排除するためだけに、あなたは剣を振るうのよ」 「シルヴィア……様のために……」 「ええ、そうよ。世界なんてどうでもいいの。あなたが討伐から戻った時、あなたを褒めて、胸に抱きしめ、欲しいものをすべて与えて甘やかしてあげるのは……私だけなのだから」 シルヴィアは屈み込み、アレルの額に、そして両の瞼に、羽毛が触れるような優しい口づけを落とした。 「私のためだけに強くなりなさい。私の笑顔のためだけに、魔王の首を持ち帰りなさい。……無事に帰ってきたら、今日よりもっと、もっと甘くあなたを可愛がってあげるわ」 「あ……ぁ……っ……」 胸の奥を痛いほどの多幸感が満たしていく。 かつて彼を押し潰しそうになっていた「世界を救う義務」という重荷が、嘘のように軽くなって消えていく。自分はもう、大勢の見知らぬ人々のために戦うのではない。目の前にいる、自分を甘やかし、愛してくれる絶対の女王のためだけに戦えばいいのだ。 目的がすり替わっていく。 正義は消失し、ただ一人の女への「執着と服従」だけが、アレルの心に新たな牙として打ち込まれていく。 「……はい……シルヴィア様……俺は……あなたのために……魔王を……」 「ええ、良い子ね……私の可愛い、私だけの勇者」 シルヴィアの甘美な首筋に顔をうずめ、その香りを貪るように吸い込みながら、アレルは二度と解けることのない「優しい洗脳」の深みへと完全に落ちていった。 絶望でも、理性の崩壊でもなかった。 それまでのアレルは、ただ「勇者だから」という理由だけで剣を振るっていた。 顔も知らない大衆の平和のため、感謝もされない孤独な旅の中で、自分の命をすり減らし続ける日々。彼の心にあったのは「正義」などという大層なものではなく、ただ断れない真面目さと、立ち止まることへの恐れという「漠然とした虚無」だった。 だが——女王シルヴィアの蜜の部屋で、すべての重荷を剥ぎ取られた時、アレルの内側で何かがカチリと噛み合った。 「……アレル」 シルヴィアの爪先から伝わる圧倒的な存在感。侍女たちの捧げる惜しみない温もり。 それらは彼を壊したのではない。長年、冷え切っていた彼の心核を、強烈な熱で満たしたのだ。 (ああ……そうか。俺は、世界なんて救いたくなかったんだ) アレルはゆっくりと頭を上げ、自分を包み込むシルヴィアの瞳を見つめ返した。 その瞳に宿っているのは、濁った敗北の光ではない。迷いがすべて削ぎ落とされた、静かで澄み渡るような「確信」の光だった。 世界のために戦うのは、あまりに不確かで虚しかった。 だが、「この女の微笑みと安らぎを守るため」ならば——それはアレルにとって、人生で初めて自らの意志で選んだ、あまりにも明確で絶対的な動機だった。 「……分かったよ、シルヴィア様」 アレルの声から震えが消えた。 彼は自らシルヴィアの手に頬をすり寄せ、愛おしそうに、けれど決意を込めてその指先に口づけを落とした。 その瞬間、神殿から下界を注視していた女神は、息を呑んだ。 (……完成したというの……?) 神鏡に映るアレルの背中から放たれる聖魔力は、暗く淀むどころか、神々しいまでの輝きを放っていた。 過酷な孤独で摩耗していた精神は、女王という「絶対の楔」を得たことで完全に補強され、一切の揺らぎを失っていた。 「迷い」という最大の弱点を克服した剣士が、どれほど恐ろしいか。 死を恐れず、世界の命運に葛藤することもなく、ただ一つの目的のためだけに振り下ろされる一閃。それこそが、神が求めても与えられなかった「真の勇者」の姿だった。 女神は、畏怖を込めて加護の光をアレルの全身に注ぎ込む。 それは堕落への手向けではなく、ついに一筋の芯を通し、至高の領域へと到達した英雄への、最大の賛辞と祝福だった。 「……行きなさい、アレル」 シルヴィアの手を静かに離し、アレルは立ち上がった。 その立ち姿には、かつての疲弊した面影はない。愛するもののためにすべてを屠る覚悟を決めた、一騎当千の「覇者」の威厳が宿っていた。 「俺が魔王を切り裂いてくる。……戻ったら、また抱きしめてくれ」 「ええ……もちろんよ。私の最高の勇者」 妖しく微笑む女王の背後で、アレルは聖剣を抜いた。 歪んだ愛が生み出した、一切の迷いなき最強の英雄が、魔王の待つ深淵へと踏み出していく。 王国に伝わる秘密の空間にワープできるアイテム渡して毎晩密会しろ 「それと……これを持っていきなさい」 旅立つ直前、シルヴィアは己の胸元から、脈打つような深紅の宝石が嵌め込まれた一対の鍵を取り出した。 「これは王家にのみ密かに伝わる『対の転移鏡の鍵』……。どんなに離れた場所にいようと、鍵を開けば、我が国の最深部にあるこの秘密の私室へと一瞬で繋がる空間の歪みが生じるわ」 シルヴィアの手から渡された鍵は、まだ彼女の体温と甘い香りを仄かに残していた。アレルはそれを慈しむように、しっかりと手の中で握り締める。 「魔王城への行軍中であれ、どれほど苛烈な戦場の最中であれ……夜が訪れたら、必ず私のもとへ帰りなさい。私の膝の上で疲れを癒やし、私に勝利の報告をしに」 「……ああ。約束する」 アレルの瞳に、もはや迷いや葛藤の影は一切なかった。 かつての世界を救う旅において、夜とはただ凍える野営地で孤独と死の恐怖に怯える時間でしかなかった。だが、今の彼にとって夜は、愛する女王の膝元で惜しみない甘やかしを受けるための、何物にも代え難い至福の時間へと変わったのだ。 「勇者様、今夜も極上の香と湯をご用意してお待ちしておりますわ」 侍女のレイラと双子のミナ、リナが、名残惜しそうにアレルの手を、胸を、頬を最後に撫で回し、名残を惜しむように甘い吐息を吹きかける。 「ああ。毎晩、必ず戻る」 鍵を胸元に深く収め、アレルは静かに転移の門を潜った。 ——その夜から、前線に異常な光景が日常となる。 昼間はただ一人で魔物の大軍を無造作に薙ぎ払い、恐るべき凄絶さと一切の迷いなき一閃で魔王軍を圧倒する「孤高の死神」。 しかし、夜の帳が降りると同時に、アレルは転移の鍵を開き、シルヴィアの待つ秘密の私室へと姿を消す。 豪奢なベッドの上で女王の膝に頭を乗せ、絶世の美女たちに傷を癒やされ、手厚く甘やかされ、愛を注がれ続ける。そして明け方、完璧に満たされたコンディションと至上の多幸感を胸に、再び戦場へと戻っていくのだ。 「私のために、今日も怪物を一つ殺してきたのね?」 「……ああ、シルヴィア様。あなたの安らぎを脅かす者は、全て切り捨ててきた」 目的はただ一つ。毎夜、この甘やかな檻へと帰り、女王の爪先に口づけを捧げること。 歪んだ愛の絆で結ばれた最高峰の英雄は、夜ごと女王の体温を貪りながら、まっすぐに魔王の首元へと突き進んでいく。 勇者を歓待して戦後のコネを作りたいのに夜になると勇者が行方不明になるので各国やきもき 「——またか!? また姿を消したというのか!?」 魔王軍との最前線に位置する要塞都市。周辺諸国から集まった首脳や使者たちが詰める本陣で、老将の怒号が響き渡った。 昼間のアレルは、まさに伝承を超える「神の如き英雄」だった。 押し寄せる魔物の大軍をたった一人で薙ぎ払い、恐ろしいほどの精度と一切の迷いがない一閃で敵将を討ち取っていく。各国の観戦武官たちはその圧倒的な武威に戦慄し、同時に歓喜した。この男と懇意になれば、戦後の覇権を握れる。誰もがそう確信していた。 だからこそ、各国は総力を挙げて「最高の歓待」を用意したのだ。 絶品の料理、極上のワイン、王族の姫君や最高位の舞姫、さらには領地や爵位の約束。夜の宴で彼を歓待し、繋ぎ止め、何としてでも自国との強力なコネを作ろうと躍起になっていた。 だが——。 「夕食の膳をお運びした時には、すでにお部屋は空でして……。館の周囲には厳重な結界を張り、近衛兵を二重に配置していたのですが、ネズミ一頭抜け出した形跡すらございません」 報告を聞いた使者たちは、頭を抱えて青ざめた。 「馬鹿な……! あの手練れの警戒網をすり抜けて、どこへ行ったというのだ!?」 「まさか、魔王軍の刺客による連れ去りか!?」 「いや、彼の部屋には書き置きが残されていた……『夜は多忙につき、歓待は無用。宴の暇があるなら補給線を整えよ』と……!」 使者たちの間で、不穏な噂と焦燥が駆け巡る。 まさか夜な夜な単身で魔王城へと奇襲をかけているのではないか。あるいは、自分たちの歓待が至らず、勇者の機嫌を損ねてどこかの陣営に囲い込まれてしまったのではないか。各国の外交官たちは胃を痛め、夜通しで勇者の行方を追って捜索隊を出す始末だった。 彼らがどれほどやきもきし、胃に穴をあけていようとも、当の勇者がどこにいるのかを知る者は誰もいなかった。 ——同じ刻、はるか後方の王城。 シルヴィアの秘密の私室。 「ふふ……今夜も下界の羽虫たちが、あなたを囲い込もうと必死だったようね」 「……どうでもいい。あんな煩わしい席に付き合う気はない」 重厚な天蓋付きのベッドの上。 戦場の返り血を綺麗に洗い流され、高級な香油の香りを纏わせたアレルは、シルヴィアの滑らかな太ももに頭を預け、目を細めていた。 側では侍女のレイラが冷えた極上の果実をアレルの口元へそっと運び、双子のミナとリナが、昼間の激戦で強張ったアレルの腕や脚を丁寧に揉みほぐしている。 「あの方々、勇者様のためにと極上の姫君をご用意されていたそうですわ」 「ふん、私の勇者に手を出そうだなんて、百死に値する無礼ね。……アレル、私以外の女の手触りなど、気にも留めなかったでしょうね?」 「……俺にとって、触れる価値のある肌はシルヴィア様、あなただけだ」 「良い子ね……」 シルヴィアは満足げに目を細めると、アレルの額に愛おしげな口づけを落とした。 外界では各国が「消えた英雄」の行方を巡って大混乱に陥り、国際問題に発展しかけていることなど、この甘やかな密室にいる二人には何の関係もなかった。 「明日も、私のために敵を討ちなさい。そして夜になれば、すぐにこの鍵を回して私の元へお帰りなさい……」 「ああ……必ず帰る、シルヴィア様」 極上の安らぎと絶世の美に満たされながら、アレルは深く、静かな眠りにつく。 各国の使者たちが血眼になって捜索する「世界の希望」は、毎夜こうして、一人の女王の膝元で完璧に甘やかされ、翌朝の圧倒的な破壊力(コンディション)を充填しているのだった。 毎晩不自然な魔力の流れがあることを掴むとかで魔王に女王との繋がりがバレて刺客送られるけど女王様渾身のポーカーフェイスで時間を稼いで刺客は勇者の逆鱗に触れて消滅 魔王城の最深部、玉座の間。 漆黒の玉座に鎮座する魔王は、眼前で脈打つ魔法陣の残光を不機嫌そうに見つめていた。 「……まただ。毎夜毎夜、不自然極まりない時空の歪みと魔力の脈動が発生している」 魔王の眼精が怪しく光る。 昼間は一切の隙を見せず、圧倒的な一閃で自らの軍勢を磨り潰していく勇者アレル。だが夜になると、彼の気配は戦場から完全に消失し、はるか後方の王国の「女王の私室」へと途切れることなく魔力の細糸が伸びていたのだ。 「なるほど……。あの英雄の『力』の源泉は、そこにあるわけか」 魔王は冷ややかに口元を歪めると、影の中から最も秘匿性の高い最精鋭の暗殺部隊を呼び寄せた。 「行け。勇者が不在の隙を狙い、その女王の首を跳ねろ。……あるいはその女を人質にとり、英雄の楔を打ち砕け」 深夜、王城の最深部。 外界の喧騒から隔離されたシルヴィアの私室。 空間が不自然に歪み、影の中から漆黒の刃を掲げた魔王軍の刺客たちが静かに姿を現した。 防衛結界すら擦り抜けて浸食してきた最高峰の暗殺者たち。その殺気は、常人であれば失神するほどの密度だった。 「——動くな、女」 冷徹な声が私室に響く。 刺客の頭領が差し向けた刃は、ベッドの端に腰掛けていたシルヴィアの喉元、皮膚の一枚手前で静止していた。 侍女のレイラやミナ、リナが息を呑み、息を殺す。 だが、当のシルヴィアは——まばたき一つ変えなかった。 彼女は優雅に脚を組み直し、喉元に突きつけられた冷たい刃など、まるで存在しないかのように刺客たちを見下ろした。 「失礼な無頼漢ね。……私の部屋に靴のまま上がり込む度胸だけは褒めてあげるわ」 「戯言を。勇者の夜ごとの魔力の跳躍……その行き先がこの部屋だということは掴んでいる。貴様を殺せば、あるいは手中に収めれば、あの狂った英雄も足を止めざるを得まい」 「ふふ……そう」 シルヴィアの口元に、凶悪なほどに美しい笑みが浮かぶ。 心臓の鼓動すら乱さず、冷ややかな瞳で刺客を注視する完璧なポーカーフェイス。彼女は爪先を優雅に揺らしながら、時間を稼ぐように言葉を繋いだ。 「あの子の力の秘密を知りたいの? ならば教えてあげるわ。あの子は私に愛されるためだけに戦っているのよ。……そして、その私に手を出そうとした者がどうなるか、想像したことはあるかしら?」 「何……?」 刺客が警戒を強めた、その瞬間。 シルヴィアの背後の空間が、バリバリと凄まじい音を立てて亀裂を生んだ。 『対の転移鏡』の鍵が、内側から強烈な力で叩き割られるようにして開く。 そこから溢れ出たのは、魔王城の暗黒すら吹き飛ばすほどの、ドス黒く煮詰まった「絶対の殺意」だった。 「……俺の、シルヴィア様に……誰が触れている?」 冷気の漂う声とともに現れたのは、聖剣を半分抜いたアレルだった。 戦場から戻ったばかりのアレルの瞳には、いつもシルヴィアに向ける情欲や服従の熱は一切ない。己の「唯一の安らぎ」と「絶対の主」を汚されかけたことに対する、神をも屠るレベルの凶暴な逆鱗の猛火だけが宿っていた。 「な、勇者……!? なぜもう戻って——」 刺客が叫び終える前に、世界から音が消えた。 アレルの手元から放たれたのは、技とも呼べない純粋な「消去」の一閃。 閃光すら伴わない聖魔力の刃が私室を駆け抜けた瞬間、シルヴィアの喉元に迫っていた刃も、刺客の頭領も、背後に控えていた部隊も、全員が肉片すら残さず、原子レベルで空間ごと削り取られて消滅した。 私室の豪華な調度品すら、傷一つついていない。シルヴィアの髪一筋さえ乱さない、異常なほど精密で狂暴な殺撃。 静寂が戻る。 アレルは聖剣をサヤに戻すと、足元に転がった刺客の残滓など一瞥もせず、膝から崩れ落ちるようにシルヴィアの脚元へと跪いた。 「……シルヴィア様。お怪我はありませんか」 さっきまでの神の如き殺戮者が、いまや不安に震える一匹の犬のように、シルヴィアの爪先に額を押し当てている。 シルヴィアはフッと満足げに目を細めると、完璧なポーカーフェイスを解き、愛おしそうにアレルの髪を撫で上げた。 「ええ、無事よ。あなたがすぐに駆けつけてくれたもの。……さあ、今夜もよく出来ましたわ、アレル。あんな無礼な虫けら、忘れてしまいなさい」 「……はい、シルヴィア様」 刺客を差し向けた魔王の企みは、勇者の「逆鱗」を直接触れて吹き飛ばされるという最悪の形で潰えた。 自分の唯一の聖域を脅かされたアレルは、一層の殺意と迷いなき一撃を携え、いよいよ魔王の待つ本陣へと破滅の足音を響かせていくのだった。 「……ふ、ふふ……あはははっ……!」 暗闇の中、誰もいなくなった私室で、シルヴィアの口から漏れたのは恐怖の悲鳴ではなく、抑えきれない悦びの失笑だった。 冷や汗で肌に張り付いた髪を指でかき上げ、彼女は膝を抱えたまま、一人静かに体を震わせた。 刺客の喉元の刃。一歩間違えれば、自分という存在など一瞬でゴミのように踏みつぶされていたという圧倒的な死の境界。 (……見なさい。これが私という存在の『軽さ』よ) 王権も、血統も、美貌も、魔王の強大な力の前には何の価値も持たない。勇者という「絶対の盾」がいなければ、自分など今夜の刺客の手によって、暗闇の中で誰にも知られず殺されていたのだ。 だが——。 「……あの子は、来たわ」 シルヴィアは震える指先を己の胸元に強く押し当てた。そこにはまだ、アレルの冷たく、けれど自分だけに向けられた異常なまでの熱量を帯びた殺意の余韻が残っていた。 アレルは自分なしでは生きられない。 自分が囁く言葉、自分の与える手触り、自分の存在という「帰る場所」がなければ、あの男は戦う理由すら失って崩れ去る。 そして同時に、自分もまた——アレルがいなければ、この過酷で理不尽な世界の中で、一瞬にして踏みにじられ、消し去られるだけの弱者に過ぎないのだ。 「ふふ……あはは……っ! 素晴らしいわ、アレル……!」 互いが互いを必要としている。 世界を滅ぼす魔王から自分を守れるのは、あのアレルだけ。 そして、あの破滅的な強さを持つ英雄を繋ぎ止め、生かしておけるのは、この世界で自分ただ一人だけ。 歪で、異常で、完璧な噛み合わせ。 (私はあなたを絶対に手放さない……。あなたが私のために世界を殺すなら、私は私のすべてを使って、あなたを繋ぎ止めてあげる……!) シルヴィアは立ち上がり、姿見の前に立った。 鏡に映るのは、恐怖を通り抜け、狂おしいまでの歓喜と執着に瞳を濡らした、美しく毒々しい己の姿。 アレルが差し出す絶対の武力と、自分が与える絶対の依存。 どちらが欠けても二人は死ぬ。この暗い密室の中でしか成り立たない、血と蜜で固められた逃げ場のない共依存。 シルヴィアは鏡の中の自分に優しく微笑みかけると、アレルの眠る天蓋付きのベッドへと歩み寄り、その中にそっと滑り込んだ。 「……死なせないわ、アレル。私も、あなたも……」 眠るアレルの首筋に自らの顔をうずめ、その脈打つ体温を確かめるように強く抱きしめる。 互いの存在だけが命綱であるという暗い確信を抱きながら、女王は英雄の腕の中で、深く、深く満たされていった。 女王への暗殺攻勢は勇者が女王に釘付けになるという点では大いに有効だった 魔王城の参謀たちは、冷酷な笑みを浮かべながら戦況図のコマを動かした。 彼らにとって、密かに放った暗殺部隊の消滅など端から想定内だったのだ。真の狙いは女王の命そのものではなく、「女王の身に危険が及んでいる」という事実を勇者アレルの脳裏に焼き付けることにあった。 効果は絶大だった。 それまでのアレルは、昼間は前線で凄絶なまでに魔物を殺戮し、夜になれば転移の鍵で女王の元へ帰るという、一定の規則性(サイクル)を持って戦っていた。 しかし、私室を襲撃されて以降、アレルの戦い方はさらに異様なまでに苛烈、かつ偏執的なものへと変貌を刺した。 「……まただ。勇者様が……前線の最奥から引き返された!」 戦場において、ほんのわずかでも敵の影が怪しい動きを見せれば、あるいは王城の方角で微小な魔力の揺らぎを感知しただけで、アレルは顔色を変えて転移の鍵を叩き開けるようになった。 戦場を置き去りにし、一瞬でシルヴィアの元へと舞い戻る。 「シルヴィア様……っ! 無事か……!? 奴らがまた来たのか!?」 髪を乱し、血の匂いを纏わせたアレルが私室へ飛び込んでくるたび、シルヴィアは彼を固く抱きしめた。 「……大丈夫よ、アレル。あんな羽虫たち、あなたの気配を感じて逃げ去ったわ」 「ダメだ……俺が離れている間に、もしお前に何かあったら……俺は……俺は……!」 アレルの呼吸は荒く、全身はかすかに震えていた。 女王を失えば、己の存在理由も、唯一の安らぎも、生きる意味のすべてが消失する。その恐怖に苛まれる勇者は、もはや一瞬たりともシルヴィアから離れることを恐れるようになっていた。 そしてシルヴィアもまた、彼をすがりつくように強く抱き返すのだった。 「ええ……だから、私を置いてどこへも行かないで。私を守って、アレル……私を一人にしないで……」 (ふふ……あははっ……! 怖いわ、恐怖で狂いそうだわ……! でも、これでいい……!) 暗殺の脅威は、二人を永遠に解けない結び目で縛り上げた。 アレルは女王の身を案じるあまり、以前のように前線を長期間不在にすることができなくなり、進軍の足取りは確実に鈍った。 魔王軍にとってみれば、どれほど強大な英雄であろうとも、一人の女という巨大な重石(アンカー)によって王城の私室へと繋ぎ止められているに等しい。 「勇者アレルは、もはやあの女王の領域から離れられん」 魔王城の暗がりで、参謀が嘲笑う。 最愛の命綱であり、同時に最大の弱点。 互いへの依存が深まれば深まるほど、二人は互いの存在によって動きを制限され、王城という名の甘美な檻の中へと、より深く閉じ込められていくのだった。 開き直った勇者は俺のそばが一番安全だと女王を戦場に連れてくるようになりました 諸侯ビックリ魔王軍もビックリ 「——正気か、勇者殿!? 女王陛下を戦場に引きずり出すなど、正気の沙汰ではない!!」 本陣の天幕に、各国の将軍や諸侯の悲鳴に似た怒号が響き渡った。 前線の最奥、泥と血の匂いが充満する最前線に現れたのは、本来ならば王城の最深部で護られるべき存在——絶世のドレスを纏い、何一つ掠り傷すらないシルヴィア女王だった。 アレルは非難の嵐を完全な無視で吹き飛ばし、シルヴィアの腰を引き寄せて己の体にぴったりと密着させた。その瞳には、もはや国際法も軍事常識も存在しない。 「何を騒いでいる」 冷徹な声が本陣を突く。 「暗殺者が蠢く王城などに一人で置いておけるか。俺の視界の外、俺の剣が届かない場所にシルヴィア様を置くことこそが、世界で最も危険だ。……俺のすぐ隣にいる。それ以上の安全がこの世のどこにある」 開き直り、切って捨てた英雄の言葉に、諸侯たちは絶句した。 「狂っている……! いくら何でも常軌を逸しているぞ!」 「万が一、陛下に矢一筋でも当たったらどうする気だ!」 「当たるわけがないだろう」 アレルは聖剣の柄に手をかけ、冷ややかに言い放った。 「シルヴィア様に届く前に、この世の全てを切り伏せる」 言葉通りだった。 その日から、最前線の光景は「惨劇」へと変貌した。 魔王軍の陣営は、前線に君臨する女王の姿を見て狂喜乱舞した。最大の好機とばかりに、全戦力を注ぎ込んで女王の首を狙い、波状攻撃を仕掛ける。 だが、それがアレルの猛毒に火をつけた。 「シルヴィア様に向かって一歩でも踏み出したな……?」 愛する者を間近で脅かされたアレルの殺意と集中力は、神の領域すら超越していた。 押し寄せる魔物の群れ、魔王軍のエリート将校、巨大な魔導兵器——それら全てが、シルヴィアに近づくどころか、彼女の視界に入る前に「空間ごと」細切れに刻まれ、消滅していく。 「ヒッ……何だあの男は……! 近づけない……! 近づいた瞬間、肉が消える……!!」 魔王軍の参謀たちは、戦況図を前に青ざめてガタガタと震え上がった。 女王を狙えば狙うほど、勇者の逆鱗に触れて全軍が爆破されるように即死する。「女王という弱点」を突いたはずが、勇者のすぐ隣に置かれたことで、「触れた瞬間に全滅確定の超巨大な爆薬」へと化けていたのだ。 「馬鹿な……! あの女を囮にして俺たちを誘い込んでいるのか……!?」 魔王軍もまた、恐怖に恐れおののいた。 一方、その「超巨大な爆薬」の中心にいるシルヴィアは——。 飛び交う矢と魔法、吹き飛ぶ肉片と断末魔の叫びの中で、アレルの腕にしっかりと抱かれ、優雅に唇を綻ませていた。 「……ふふ、アレル。今の一閃も素敵だったわ」 「シルヴィア様、風が冷たくなってきた。……俺の外套を」 血の雨が降る戦場の真ん中で、アレルは甲冑の手で優しくシルヴィアに外套を羽織らせ、その額に静かに口づけを落とす。 王城の私室から、死と隣り合わせの戦場へ。 場所が変わろうとも、二人の甘美で狂気的な密室(共依存)は壊れない。 俺のそばが一番安全だと言い放ち、世界のルールを全て踏みつぶして女王を戦場に侍らせる勇者と、その最凶の腕の中で蕩けるように微笑む女王。 各国の諸侯も、魔王軍の猛者たちも、ただただドン引きしながら、二人が作り出す「完璧すぎる異常空間」を遠巻きに眺めることしかできなかった。 女王様を国に置いてくるなら俺はまた暗殺者来るたびにいなくなるけどいいのか?本当に? 「……お前たち、本気でそれを言っているのか?」 各国の諸侯や将軍たちが詰めかける本陣の天幕。その中央で、アレルは冷ややかな、けれど底知れぬ圧を孕んだ瞳で周囲を見回した。 その傍らには、過酷な戦場にはおよそ不釣り合いな豪奢なドレスを纏い、アレルの腕の中にすっぽりと収まったシルヴィアがいる。諸侯たちが「女王陛下を王都へお返しください」と命懸けの進言をした直後のことだった。 アレルは呆れたように小さく息を吐くと、聖剣の柄に置いた指先でトントンと不吉なリズムを刻んだ。 「いいか? よく考えろ。俺がシルヴィア様を王都へ置いてきたとする」 静まり返る天幕の中、アレルの低く通る声だけが響く。 「魔王軍の刺客は、当然また王都の私室を襲うだろう。……その時、俺はどうすると思う?」 アレルは身を乗り出し、青ざめる老将の顔を覗き込んだ。 「戦場のど真ん中だろうが、お前たちがどれほど窮地に陥っていようが、俺は即座に『転移の鍵』を開いて王都へ戻る。敵の首を手にかけるまで、何時間でも、何日でもシルヴィア様の傍を離れない。……お前たちが魔物に踏み潰されて全滅しようが、知ったことではない」 「っ……それは……!」 「一度や二度じゃないぞ。刺客が来ればその都度、俺は戦場から蒸発する。前線の指揮は崩壊し、防衛線は穴だらけになるだろうな。……本当に、それでいいのか? 本気でそれを望んでいるのか?」 諸侯たちは言葉を失い、冷や汗を流して互いに顔を見合わせた。 「だが……だからと言って、前線に女王陛下をお連れするなど……!」 「だから、言っているだろう」 アレルはシルヴィアの腰を抱き寄せ、自らの身体へ強く引きつけた。その動作には一分の隙もなく、まるでこの世で最も頑丈な城塞のようだった。 「俺のすぐ隣に置く。それが一番確実にシルヴィア様を守れて、同時に俺が片時も離れずに前線で魔物を殺し続けられる、唯一の最適解だ」 アレルの腕の中で、シルヴィアは可憐に、そしてどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。彼女は諸侯たちの青ざめた顔を愛おしそうに見つめると、アレルの胸元にそっと擦り寄る。 「ふふ……皆様、アレルの言う通りですわ。私がここにいれば、あの子はどこへも行きませんし、皆様をお守りするために完璧な力を使えますもの」 (そう……どこへも行かせない。私から離れさせないし、私もこの子から離れない……!) 女王の甘美な追認に、諸侯たちはついにぐうの音も出なくなった。 「暗殺者が来たら逃げ出す勇者」か、「女王を侍らせて無敵と化した怪物」か。 極論すぎる二択を突きつけられ、諸侯たちはただ黙り込むしかなかった。世界の常識や倫理などを遥かに超越した二人の共依存の前に、誰もこれ以上の反論を挟むことなどできなかったのだ。 結局自分も命をフルベッドすることになった女王様に女神もニッコリ 天上界の神殿にて。 神鏡に映し出された光景を見つめながら、女神は思わず満足気な笑みを浮かべ、優雅に紅茶のカップを傾けた。 「……ふふ、実に良い傾向だわ」 かつては「女王が一方的に勇者を調教し、都合よく囲い込んでいる」だけの不均衡な関係に見えた。だが、魔王軍の暗殺攻勢と、アレルの開き直りによって、事態は極めて美しい着地点へと至っていた。 鏡の中では、飛び交う魔法と殺意の真ん中に、豪奢なドレスを纏ったシルヴィアが立っている。 一歩間違えれば余波だけで即死する最前線。彼女はまさに己の命そのものを賭金(フルベッド)として盤上に叩きつけ、アレルの隣という世界で最も安全で、同時に最も危険な特等席に鎮座していた。 (これで、あの子たちの共依存は完成したわね) 勇者が一方的に狂っているのではない。 女王もまた、安全な王城に引きこもって高見の見物を決め込むことなど許されず、勇者の腕の中で自らの命を共有しているのだ。 アレルが守り切れば、女王は生き残り、至上の愛と安らぎを得る。 アレルが一度でも見誤れば、女王は自分ごと絶望の淵へ連れ去られる。 退路を完全に断ち、文字通り命を一つに束ねた二人。 その極限状態が生み出す聖魔力は、もはや「世界を救う」などという甘っちょろい動機で戦っていた頃の比ではなかった。 「命を賭けて自分を愛してくれる女王と、その命を守るためなら世界だって滅ぼせる勇者……。最高じゃない」 女神はニッコリと、この上なく晴れやかな笑みを浮かべた。 「正義感や義務感なんて不確かなものより、自分の命を全て賭けた愛(狂気)のほうが、ずっと折れない『強さ』になるものね。……がんばりなさい、シルヴィア。あなたのその命の賭け金、神として見届けてあげるわ」 神の承認(と密かな愉悦)を得て、狂気の二人三脚はついに最終局面へと加速していく。 血と密と命のやり取りが渦巻く極限の戦場で、勇者と女王は互いの体温を抱きしめ合いながら、魔王の待つ深淵を呑み込まんばかりの勢いで突き進んでいくのだった。 お姫様抱っこで魔王の前に現れる勇者と女王に流石の魔王も困惑 魔王城最深部、天を穿つ玉座の間。 重厚な扉が轟音とともに吹き飛び、濃密な漆黒の魔気が渦巻く中から姿を現したのは、血塗られた聖剣を携えた勇者アレル——そして、その腕に「お姫様抱っこ」で優雅に抱えられた女王シルヴィアだった。 狂風に豪奢なドレスの裾を翻し、アレルの首に白磁の腕を回したシルヴィアは、まるで王城の舞踏会にでも入場するかのように、妖しく美しい微笑を浮かべている。 アレルの抱擁には一切の揺らぎがない。そのまま静かな歩調で歩みを進め、巨躯を誇る魔王の直前、数メートルの位置でぴたりと足を止めた。 「……」 漆黒の玉座に鎮座し、世界を滅ぼす絶対者として君臨してきた魔王は、眼前で繰り広げられる常軌を逸した光景に、数秒間、完全に思考を停止させた。 殺気立つ刺客を何千と屠り、前線の要塞を幾つも粉砕してここまで辿り着いた最強の英雄。その猛威は嫌というほど報告を受けていた。……だが、まさかその男が、一国の最高権力者を文字通り「抱え上げた状態」で決戦の場に殴り込んでくるとは、魔王の想像の枠組みを遥かに超えていた。 「……勇者アレルよ」 重く響く魔王の声に、かすかな惑いが混じる。 「……貴様、それは何の真似だ? 我が間者に命を狙わせたことで狂ったか? なぜ一国の女王をそのような姿で戦場に連れ回し、あまつさえ我の前にまで差し出す?」 魔王の眼精が怪しく光る。 「我を愚弄しているのか? それとも……我が威光の前に、その女を人質として差し出し、命乞いでもしに来たか?」 そう問う魔王の視線に対し、アレルは一切の感情を排した、氷のように冷ややかな瞳で見返した。 「人質? 戯言を」 アレルは抱きかかえたシルヴィアの腰をさらに強く抱き寄せ、その体温を確かめるように自らの胸元へと押し当てた。 「言ったはずだ。俺の視界の外、俺の手が届かない場所にシルヴィア様を置くことこそが、この世で最も危険だと。……俺の腕の中、俺の聖剣の軌道上。ここ以上に安全な場所がどこにある?」 「……は?」 魔王の威厳に満ちた顔に、明らかな亀裂が入った。 「貴様……正気か? そこは我の目の前だぞ。我の一撃が掠めるだけで、その女など肉片すら残さず消滅するのだぞ!?」 「掠めさせない」 即答だった。 「お前の一挙一動、魔力の揺らぎ一つに至るまで、シルヴィア様に届く前にすべて俺が切り伏せる。……俺の命も、俺の存在も、すべてシルヴィア様のものだ。俺が死なない限り、シルヴィア様に指一本触れさせない」 アレルの身体から溢れ出たのは、もはや「世界を護る」ための聖なる力ではなかった。 ただ一人の女を死なせないためだけに研ぎ澄まされた、圧倒的な執着と強迫観念の塊。狂気じみた聖魔力が、玉座の間全体を絶望的な圧力で押し潰す。 魔王は思わず息を呑み、次にアレルの腕の中で蕩けるように笑うシルヴィアへと視線を移した。 「……女。貴様も狂ったか。己の命をそんな不確定な男の腕一本に委ね、恐怖で声も出んか?」 シルヴィアは可憐に小首を傾げると、アレルの胸元にすり寄り、心底愛おしそうにその頬を撫でさすった。 「ふふ……恐怖? いいえ、魔王。私は今、生まれて一番満たされているわ」 シルヴィアの瞳には、死と隣り合わせの極限状態でしか得られない、狂おしいほどの情熱と多幸感が宿っていた。 「私がここにいるからこそ、この子は無敵なの。この子の命も、私の命も、すべてこの場所で一つに繋がっている……。あなたが私を殺そうとすればするほど、この子はあなたを切り刻む『最上の刃』になるのよ」 「……」 魔王は激しい頭痛を覚え、眉間を押さえた。 世界を統べる恐怖の象徴として何千年も生きてきたが、こんな生物(ペア)は見たことがない。 脅迫も通じない。人質も意味をなさない。命惜しさに退くこともなければ、正義感に付け入る隙すらない。互いの命を極限のサイコロのように転がしながら、異常な愛の補給線で無限にコンディションを整え続ける共依存の怪物。 「……正義の勇者が、一人の女の私欲と執着の塊と化して我の前に立つか」 魔王は重々しく立ち上がり、黒炎の巨剣を抜き放った。その表情からは余裕が消え去り、ただ目の前の「理解不能な異常存在」に対する凄絶な警戒だけが充満していた。 「……よいだろう。世界を守るためではなく、ただその女の膝元へ帰るためだけに振るう刃……どこまで我に通じるか、試させてもらおう!」 「ああ……すぐに終わらせる」 お姫様抱っこの姿勢を一切崩さず、アレルは片手で聖剣を正眼に構えた。 「シルヴィア様……少し揺れます」 「ええ。存分にお暴れなさい、私の勇者」 甘美な囁きと同時に、魔王城の最深部で、世界で最も歪み、世界で最も途切れぬ一閃が爆発した。 あまりの激戦に流石の女王様も無傷とはいかずドレスの裾は焦げ、肌も露わに。でも傷は一つもない。魔王は屈辱に震え怒りの断末魔をあげる 「おの……れぇぇぇ……! 狂王……! 狂者どもがぁぁぁっ……!!」 天を揺るがす魔王の絶叫が、崩れ去る玉座の間に響き渡った。 世界の覇権を握り、あらゆる英雄を絶望の淵に突き落としてきた魔王が、膝を折り、屈辱に身を震わせている。その胸には、アレルの聖剣によって穿たれた致命の空洞が開いていた。 敗北の恐怖以上に、魔王の尊厳をズタズタに引き裂いたのは、目の前の惨状だった。 アレルの腕の中で、シルヴィアの豪奢だったドレスは凄絶な余波と黒炎によって破れ、裾は黒く焦げ落ちていた。破れた布地からは、白磁のうなじや滑らかな太もも、生々しい肌が大きく露わになっている。 だが——。 その露わになった肌には、擦り傷一つ、血の一滴すらついていなかった。 魔王が全存在を賭して放った、世界を滅ぼすほどの数々の破滅の奔流。その全てを、アレルは片腕でシルヴィアを抱きかかえたまま、もう片方の聖剣の一閃だけですべて防ぎ切り、肉片すら掠めさせなかったのだ。 「我……我が全力が……一国の女の……肌一枚、傷つけることすら……できんというのか……っ!?」 魔王の口からドス黒い血が溢れ出る。 世界をかけた聖戦ではない。正義と悪の対決でもない。 ただ一人の女の「無傷」を証明するためだけに、自らの命と全軍を削り取られたという圧倒的な屈辱。 「正義など……世界の平和など……どこにもなかった……! 我を滅ぼすのは……ただの……一筋の狂気か……っ!!」 怨嗟の声を最後にあげ、魔王の巨躯は黒い灰となって、崩落する空間の中へ散り失せた。 「……終わったわね、アレル」 静寂が戻った廃墟の中で、シルヴィアは焦げたドレスの隙間から露わになった脚をアレルの腰に絡ませ、その首元に可憐に抱きついた。 魔王の断末魔など、彼女の耳には一切届いていなかった。 あるのは、激戦を終えたアレルの荒い吐息と、自分を死守し切った男の力強い体温だけ。 「……怪我はありませんか、シルヴィア様」 アレルは聖剣を無造作に投げ捨てると、両腕でしっかりとシルヴィアを抱き直し、破れたドレスから覗く彼女の肩や頬に、確かめるように何度も激しく口づけを落とした。 その瞳は、世界を救った達成感など微塵もなく、ただ愛する者を無事に抱きしめている歓喜だけに濡れていた。 「ええ……擦り傷一つないわ。あなたが……私を完璧に守ってくれたもの」 シルヴィアは乱れた髪をそのままに、アレルの首筋に深く顔を埋め、背中に回した腕にギュッと力を込めた。 命を賭けた。 本当に、一歩間違えれば炭くずになっていた極限の綱渡り。 だが、生き残った。この男の腕の中で、自分は世界で一番安全に、世界で一番深く愛されて生き残ったのだ。 「帰りましょう、私たちの密室へ……」 「……はい、シルヴィア様」 懐から『対の転移鏡の鍵』を取り出し、アレルは静かに空間を切り裂く。 崩れ去る魔王城を背景に、世界を救った最強の英雄と、その命を支配した女王は、誰の歓呼を受けることもなく、二人だけの甘美な檻へと消えていくのだった。 平和になった世界では世界一美しい女王様を抱えて世界一恐ろしい魔王を打ち倒した世界一強い勇者のラブロマンスが多分に脚色されて民衆に広まっていった 戦が終わって数年。 魔王討伐の真実を知らぬ市井の人々の間では、一つの壮大な吟遊詩が空前の大流行を見せていた。 「——おお、見よ! 恐ろしき魔王の黒炎が吹き荒れる中、勇者アレルは最愛のシルヴィア女王をその腕に抱き、ただ一度の擦り傷すら負わせじと聖剣を振るったのである!」 酒場の喧噪の中、詩人が弦楽器をかき鳴らすと、集まった民衆から割れんばかりの歓声とすすり泣きが巻き起こる。 絵師たちが競うように描いた錦絵には、焦げたドレスから覗く美脚も麗しく、勇者の胸に気高くすがりつく「世界一美しい女王」と、命を賭して愛する女性を護り抜き、魔王を一閃で討ち果たす「世界一強く、一途な英雄」の姿があった。 「なんてロマンチックなんだ……! 世界の平和のためではなく、ただ一人のお姫様のために魔王を倒すなんて!」 「まさに真の愛の奇跡ね! 女王様も、勇者様の腕の中なら死んでもいいと覚悟を決めて戦場へ赴いたなんて……っ!」 民衆は熱狂した。 本来なら「軍事常識の欠如」「職務放棄の国際問題」として歴史から抹消されるべき奇行の数々は、吟遊詩人たちの都合の良い解釈と大衆の欲望によって、「身分の差を超え、死線をも乗り越えた至高の純愛(ラブロマンス)」として完璧に美化され、美談として語り継がれていったのである。 各国の諸侯や実状を知る将軍たちは、その詩を耳にするたびに胃を押さえて顔を青ざめさせたが、事実を公表したところで「愛の奇跡」に酔いしれる民衆に水を差すだけだと悟り、ただ沈黙を守るしかなかった。 ——そして、その「美しい伝説」の当事者たちが暮らす、王城の最深部。 日光すら遮られた重厚な天蓋付きのベッドの上で、シルヴィアは市井で出回っている豪華な挿絵入りの物語本をめくり、可憐な笑い声を漏らしていた。 「ふふ……見てごらんなさいアレル。『至高の絆で結ばれた聖なる二人』だって。……私たちがどんな顔で、どんな会話をしていたかも知らないで、民衆というのは本当に能天気で可愛らしいわね」 シルヴィアの膝の上には、鎧を脱ぎ捨て、すっかり毒の抜けた顔で目を細めているアレルの姿があった。 戦が終わっても、二人の関係は何も変わっていない。 アレルは相変わらず女王の私室から一歩も出ようとせず、シルヴィアもまた、彼を自らの膝元に繋ぎ止めたまま、惜しみない甘やかしと愛を注ぎ続けている。 「……世間の評価など、どうでもいい」 アレルは本など一瞥もせず、シルヴィアの滑らかな太ももにさらに深く顔を埋めた。 「俺は、世界を救った覚えも、ロマンチックな英雄になったつもりもない。……ただ、シルヴィア様が今も俺の腕の中で生きていて、こうして俺に触れさせてくれている。……それだけでいい」 「ええ……そうね。私も、あなたさえいれば何だっていいわ」 シルヴィアは物語本を床へ無造作に投げ捨てると、アレルの髪に指を絡め、その唇に深々と愛を刻み込んだ。 外界では「世界を救った至上の愛の物語」として讃えられ、神殿では女神が「まあ結果オーライね」と笑い、そしてこの暗い密室の中では、誰にも邪魔されない共依存の怪物たちが、永遠に解けることのない歪んだ愛の蜜を貪り続ける。 脚色された美麗なラブロマンスの裏側で、二人は今日も、世界で一番甘やかで恐ろしい檻の中で、幸せそうに微笑み合っているのだった。 「お2人が仲睦まじいのも戦場に連れ込んで世界中に見せつけたのも事実じゃないですか」 「ねー」 「ねー」 レイラと双子が口を挟む 「お2人が仲睦まじいのも、戦場に連れ込んで世界中に見せつけたのも事実じゃないですか」 「ねー」 「ねー」 ベッドの脇で手持ち無沙汰に控えていた侍女のレイラと、双子のミナとリナが、示し合わせたように口を挟んだ。 「ちょっと、貴女たち……」 シルヴィアが呆れたように眉をひそめると、レイラは澄ました顔で冷えた果実をフォークで刺し、アレルの口元へ運ぶ。 「だってシルヴィア様、間違いではありませんでしょう? あそこまで堂々とお姫様抱っこで陣頭に立たれては、各国の使者も『見せつけられている』としか受け取りようがありませんわ」 「そうそうー。それに毎晩毎晩、鍵を使ってお部屋に戻ってこられてからは……ねえ?」 「ねー。私たちが下がる前の甘やかしようったら、見てるこっちが恥ずかしくなるくらいでしたものー」 双子がクスクスと顔を見合わせ、アレルの肩や背中にそっと手を添えてクッションの位置を整える。 かつては「命がけの狂気の共依存」だったはずのものが、平定された今となっては、側近の彼女たちにとっては微笑ましい(あるいは半ば呆れた)日常の光景でしかなかった。各国の外交官たちが胃を痛め、民衆が美談として熱狂したあの戦場の真実を、最も近くで冷ややかに見届けていたのは彼女たちなのだ。 「……別に、見せつけるつもりなどなかった」 果実を咀嚼し終えたアレルが、シルヴィアの膝に顔を埋めたまま、低くボソリと呟いた。 「俺はただ、シルヴィア様を一番安全な場所に置いておきたかっただけだ。……周りが勝手に群がってきて、勝手に驚いていただけだろう」 「あら、勇者様ったら。それを世間では『のろけ』って言うんですよ?」 レイラがくすりと笑うと、シルヴィアは少しだけ頬を朱に染め、悔しそうにアレルの髪をくしゃりと撫で回した。 「もう……いいわ。世界がどう解釈しようと、この子の一番の安全地帯が私の腕の中だということは、紛れもない事実なんだから」 「はいはい、お幸せそうで何よりですわ」 「ねー」 「ねー」 軽口を叩きながらも、侍女たちは手際よくお茶を淹れ直し、二人の密室を快適な温もりで満たしていく。 市井の劇詩よりも遥かに身も蓋もない真実を突かれながらも、勇者と女王は離れることなく寄り添い合い、甘く怠惰な午後の時間を静かに溶かしていくのだった。 一方勇者の故郷ではあの口数少なくて人付き合いが苦手だった勇者が世界一美しい女王様とラブロマンスを繰り広げたと聞いて大騒ぎ 魔王を倒しても手紙一枚しか送ってこなかった息子に母親は呆れ祖父は膝を叩いて大笑い 一方、かつてアレルが育った田舎の小さな村では、伝令がもたらした「英雄の物語」に村中が大ひっくり返りの大騒ぎとなっていた。 「おい見たか!? 吟遊詩人が配ってるあの絵巻物!」 「あのアレルだぞ!? 木偶の坊みたいに口数が少なくて、近所の娘さんに声をかけられただけで顔を真っ赤にして逃げ出してた、あのアレルがだぞ!?」 「『世界一美しい女王様をお姫様抱っこして愛の誓いを立てた』……!? 嘘だろ、どの口でそんな甘いセリフ吐くんだよあいつが!」 村の広場では、錦絵に描かれた「豪奢なドレスの女王を腕に抱き、凛々しい顔で聖剣を構えるアレル」の姿を囲み、幼馴染や近所のおじさんたちが頭を抱えて叫んでいた。村人たちにとってのアレルは、剣の腕だけは立派だが、愛想がなく、人付き合いが壊滅的に苦手な「ちょっと不器用すぎる素朴な青年」でしかなかったのだ。 そんな大騒動の渦中、村の外れにある小さな実家では、旅立ちの時に持たせたきりの荷物がとっくに失せ、魔王討伐後にたった一通だけ届いた手紙がテーブルの上に置かれていた。 そこには、羊皮紙の端っこに素っ気なく、たった一行だけ書かれていた。 『魔王は倒した。当分、帰らない。 アレル』 「……はぁーっ……」 手紙を手に取った母親は、開いた口が塞がらないといった様子で深々と溜め息をついた。 「『当分、帰らない』じゃないわよ、本当に……。身内にはこの素っ気なさで手紙一枚送ってくるのが関の山だってのに、余所様のお嬢様……それも一国の女王様相手には『俺の腕の中が一番安全だ』なんて言ってお姫様抱っこですって? どこでそんなキザな芸当を覚えてきたのかしらねぇ……」 呆れ果て、手紙をパタンとテーブルに戻す母親。過酷な旅で息子が命を落としたのではないかと夜も眠れずに心配していた月日を思い返し、脱力感と「やってくれたわね」という苦笑いが混ざり合った顔をしている。 そんな母親の横で、豪快な笑い声をあげたのは、かつてアレルに幼少期から剣の手ほどきをした頑固一徹な祖父だった。 「ハハハハハ! 膝を叩いて笑うとはまさにこのことじゃわい!」 バシン! と己の膝を思い切り叩き、祖父は腹を抱えて揺れた。 「ガハハ! あの不器用で、女子(おなご)の扱いどころか挨拶一つまともに出来んかったあのアレルがなぁ! 王女様を戦場に引きずり回して、世界中にのろけを見せつけたか! いやはや、大物になったもんだ!」 「笑い事じゃありませんよおじいちゃん! あんな高貴な方に手を出して、もし飽きられたり手ひどく捨てられたりしたらどうするんですか!」 「心配いらん! あの絵の目を見ろ、ありゃあアレルが骨抜きにされてるだけじゃねえ。あの綺麗な女王様の方も、うちのバカ孫に相当狂わされておるわい!」 祖父は満足そうにヒゲを撫でながら、目尻に涙を浮かべてまたガハハと笑った。 「昔から一度思い込んだら周りが見えなくなる男だったが……まさか魔王じゃなく、一国の女王様を一番の獲物にして捕まえてくるとはな。剣を教えた甲斐があったというものじゃ!」 「もう、二人揃って男ってやつは……」 母親は再び溜め息をついたが、その口元にはどこか安堵したような笑みが浮かんでいた。 口数が少なく、自分の感情をうまく外に出せなかった我が子が、どのような形であれ、二度と手放したくないほどの「大切な存在」と出会い、その腕で守り抜いたのだということだけは、親として痛いほど伝わってきたからだ。 「帰ってきたら、思いっきりお説教して、それから……お祝いのご馳走でも作ってやらなきゃね」 遠い王都の甘美な密室で、今日も女王の膝元から離れようとしない「世界一強い勇者」の耳が、心なしか故郷からの呆れ顔の視線を感じて、少しだけ痒くなっているのだった。 息子が女王様連れて里帰りしてきて村中大パニック 田舎の芋娘とは次元が違う女王様の美しさに村の男全員骨抜き 「おい……あれ……嘘だろ……!?」 静かだった村の入り口が、一瞬で凍りついた。 村人たちが手にした農具をガラガラと取り落とす中、ゆっくりと歩いてきたのは、見慣れた旅装束のアレル——そして、その隣で静かに日傘をさせ、見たこともない豪奢なドレスの裾を引く、一人の女性だった。 絹のように揺れる髪、透き通るような白磁の肌、そして世界の全てを見下ろすような気品と艶やかさを纏った瞳。 「ひ、ひえぇ……っ!?」 「な、なんだあの綺麗な人は……!? 人間か……? 妖精か……!?」 村の若い男たちも、腕っ節自慢の猟師たちも、果ては村長まで、全員がその場に直立不動で釘付けになった。 普段、村で「可愛い」と評判の田舎の芋娘たちとは、存在している次元そのものが違っていた。美しさの圧があまりにも強すぎて、視線を向けられただけで息が詰まり、男たちは一瞬で鼻血を吹き出さんばかりに顔を真っ赤にして骨抜きにされた。 「……アレル。この者たちが、あなたの生まれ育った村の人々ね?」 「……はい、シルヴィア様。挨拶など適当で構いません。どうせすぐ実家へ入りますから」 「まあ、冷たい子。お世話になった方々にご挨拶くらいさせていただくわ」 シルヴィアがふわりと微笑み、村人たちに向かって優雅に会釈を返した。 「……っっっっ!?」 ドサリ、と何人かの若い男がその場に膝から崩れ落ちた。毒である。一国の女王が発する、極限まで練り上げられた無自覚(あるいは計算づく)の絶対的な魅惑の毒に、田舎の男たちの純情など一溜まりもなかった。 「あ、アレル……お前……! お前、こんな……こんな女神様みたいな人を……!?」 「手紙に『当分帰らない』って書いてたのに、なんでこんな国宝連れて帰ってきてんだよ!!」 幼馴染たちが泡を食って叫ぶ中、アレルは鬱陶しそうに身を乗り出し、シルヴィアを庇うようにして男たちの視線を遮った。その瞳には、かつて魔王城で刺客に向けたものと同じ、ドス黒い警戒心と「俺の男」としての威嚇が宿っている。 「……シルヴィア様をあまり見るな。目が腐るぞ」 「お前が連れてきたんだろうが!!」 村中が大パニックに陥る中、騒ぎを聞きつけて実家の玄関から飛び出してきた母親と祖父。 豪華すぎる義理の娘(?)を連れてすまし顔で立っている息子を見て、母親は「あちゃー……」と額を押さえて天を仰ぎ、祖父は骨抜きになって倒れている村の男たちを見下ろして、期待通りの展開に腹を抱えて大爆笑した。 「ガハハハハ! 見ろ、村の野郎どもが全滅しておるわい! おいアレル、よくやったが早く家に入れ! このままじゃ村の男が全員骨抜きになって作物が収穫できんくなるぞ!」 「……ええ。お邪魔するわね、お義母様、お祖父様」 「お、お義母様ぁ!?」 シルヴィアの妖しくも完璧な挨拶に、母親は顔を真っ赤にして「まあまあまあ! 中へどうぞ! お茶しかありませんけど!」と大慌てで招き入れるのだった。 村の歴史上、最も華やかで、最も男たちが使い物にならなくなった「魔王討伐以上の大惨事の初日」が、こうして幕を開けたのだった。 女王様を一目見ようと村中の男が勇者の家を囲む なんなら老若男女全員囲んでいる 「……なんだ、あの群がりようは」 勇者の実家の格子窓の隙間から外を覗き込んだアレルが、苦々しい顔で呟いた。 家の周りは、文字通り人山で埋め尽くされていた。 さっきまで骨抜きにされていた若い男たちはもちろん、農作業を放り出した親父連中、好奇心に目を輝かせるお袋さん方、さらには「伝説の女王様が見たい!」と肩車された子供たちや、孫に手を引かれた村の長老まで総出である。 「アレル、見せてくれー! 一目でいいから女王様をー!」 「姿を見せてくださーい! 一生のお願いですだー!」 「勇者様ぁ! お顔だけでもー!」 もはや祭りの夜以上の熱気と怒号。田舎の小さな家は、完全に村中の人間によって包囲されていた。 「鬱陶しい……。全員、聖剣の柄で殴り倒して散らすか」 殺気すら滲ませて剣に手をかけようとするアレルに、土間でお茶を淹れていた母親が「バカ言んじゃないの!」と飛んできてその頭を力任せにハシッと叩いた。 「実家の庭で村人を薙ぎ払う勇者がどこにいるのよ! そもそも貴方がこんな綺麗な女王様を連れてくるからでしょうが!」 「……俺はシルヴィア様と静かに過ごしたかっただけだ」 「それが通用するわけないでしょ! 世界一美しい女王様よ!?」 親子が押し問答をしていると、奥の囲炉裏端で楽しそうにお手製の田舎団子を突ついていたシルヴィアが、優雅に立ち上がった。 「ふふ、良いではないの、アレル。私の姿が見たいとおっしゃるなら、お見せして差し上げればいいわ」 「ダメです、シルヴィア様。あんな下品な連中にあなたを見せる必要など——」 「いいから、私の側にいなさい」 シルヴィアは可憐に微笑むと、アレルの腕にそっと自らの腕を絡めた。 そして、静かに玄関の引き戸を開け放つ。 「——っ!?」 一瞬で、群衆の歓声がピタリと止んだ。 夕日に照らされた縁側に現れたのは、見慣れた素朴な実家にはおよそ不釣り合いな、後光すら差すような美貌を誇る女王シルヴィア。そして、その隣で「触れたら殺す」と言わんばかりの凄絶な眼光で村人たちを圧迫する、世界最強の勇者。 まさに吟遊詩人が歌う「伝説の二人」そのものの降臨に、息を呑む音だけが静まり返った村に響く。 シルヴィアは村人全員を見渡し、絶世の笑みを浮かべると、ゆっくりとアレルの肩に頭を預けた。 「皆様、私の愛しいアレルの故郷を拝見できて、とても光栄ですわ。……ですが、あの子は少し照れ屋でしてね。私を誰かに見られるのを、とても嫌がるのです」 そう言って、シルヴィアはアレルの頬を愛おしそうに指先で撫でてみせた。 「……っっっ!!!」 村人たちの間で、悲鳴にも似た喘ぎ声が漏れた。 美しい。あまりにも美しく、そして……見せつけられている。 「ですから……今夜はそろそろ、二人きりにしていただけますかしら?」 甘く、だが絶対的な拒絶を含んだ女王の一言。 「は、はいぃぃぃっっ!!」 「お邪魔しましたぁぁぁっ!!」 骨抜きになった男たちも、感動で涙ぐむおばあさんたちも、一斉に脱兎のごとく蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。あれほどの大群衆が、わずか数秒で綺麗さっぱり消え去ったのである。 「ガハハハハ! 見事な手腕じゃ! さすが一国の女王様、一言で村を統率しおったわい!」 縁側の奥で膝を叩いて大爆笑する祖父と、「まあまあ、お見事ですこと……」と呆れ返る母親。 戸を閉め、静けさを取り戻した家の中で、シルヴィアはアレルの首に腕を回すと、クスクスと耳元で囁いた。 「どう? 私の見せつけも、たまには役に立つでしょう?」 「……最初から俺が全員追い払えばよかったんです」 不機嫌そうに顔を背けつつも、腰を抱き寄せる力だけは決して緩めないアレル。 田舎の静かな実家ですら、二人が揃えば瞬く間に「狂おしいラブロマンスの最前線」へと変わってしまうのだった。 お忍びで出てきたのがバレてレイラや双子が大慌てで村にやってくる メイドという生き物を初めて見た村の男達が再び盛り上がる 「——シルヴィア様ぁぁぁ!!?」 静けさを取り戻したはずの勇者の実家に、天地を揺るがすような叫び声が響き渡った。 ドタバタと猛烈な勢いで玄関の戸が叩き開けられ、息を荒らげて飛び込んできたのは、侍女長のレイラと双子のミナ・リナだった。旅の煤に汚れつつも、その身に纏うのは完璧に糊の効いた最高級のメイド服である。 「お忍びで城を抜け出すなんて、一体どういうおつもりですか! 各国の使者や大臣たちが『女王陛下が神隠しに遭われた!』と大パニックで、城の書類が山積みですわよ!!」 「そうですよー! 追いつくのどれだけ大変だったと思ってるんですかー!」 「勇者様も勇者様です! シルヴィア様を連れ出すなら、せめて私たちに一言残してくださいなー!」 プンプンと肩を怒らせて怒留守(おどす)侍女たち。 しかし、当のシルヴィアは囲炉裏端でお茶をすすりながら、優雅に微笑むだけだった。 「あら、レイラ。追いつくのが早かったわね。……ふふ、アレルと二人きりの『里帰り』を楽しんでいたのだから、野暮な小言はおやめなさい」 「二人きりって、城の防衛線を丸ごとすり抜けて来ないでください!!」 侍女たちの怒号が庭先まで響き渡る中、異変に気づいた村人たちが、おそるおそる勇者の家の周りに集まり始めていた。 そして——村の男たちは、再び絶句した。 「な、なんだあの格好は……!?」 「黒いドレスに……白くてひらひらしたエプロン……? か、頭に載せてるあのフリルはなんだ!?」 村の若者も親父連中も、生まれて初めて見る「メイド服」という未知の文化に、目を皿のようにして釘付けになった。 洗練された立ち振る舞いのレイラが放つ「クールな側近」のオーラ。そして、全く同じ顔をした可憐な双子(ミナとリナ)が息ぴったりに小悪魔的な笑みを浮かべる姿。 女王様が「手の届かない天上人の美」だとしたら、彼女たちは「圧倒的な機能美と可憐さを兼ね備えた極上の給仕」。 「おい……あの双子ちゃん、双子だぞ……!? 同じ顔の可愛い子が二人も……!」 「あの黒髪のお姉さんに『お命じください』とか冷たい目で見下されたい……っ!」 「メイド……メイドというのかあの衣装は……!! なんて恐ろしい文化なんだ……!!」 田舎の男たちの癖(ヘキ)が、一瞬で歪められていく。 「な、何ですのあの男たちの不躾な視線は……!?」 レイラがゾッとしたように身を引くと、ミナとリナは顔を見合わせ、ニヤリと可憐な笑みを浮かべた。 「ねー」 「ねー」 「田舎の男の人たちって、純情で扱いやすそうだねー」 「うん、一目惚れしちゃったのかなー?」 双子が小首を傾げて手を振ると、庭先に集まっていた若い男たちが「ぐはっ……!」「か、可愛すぎる……!」と次々に胸を押さえてバタバタと倒れ込んでいった。 「ガハハハハ! 凄まじいな! 女王様一人でも全滅だったというのに、今度は『メイド』とかいう珍しい女子(おなご)たちが押し寄せて、村の野郎どもが完全に息の根止められておるわい!」 縁側で膝を叩いて大爆笑する祖父。 母親は頭を抱え、「もう……うちの庭を倒留める(たむろする)場所にするんじゃないの! ほら、侍女さんたちもお茶飲むでしょ、あがりなさい!」と大慌てで家に招き入れる。 「まったく……アレル、貴方がちゃんと連れ戻すのを手伝いなさい」 レイラが溜め息をつきながらアレルを睨みつけるが、アレルはシルヴィアの隣で彼女の腰を抱き寄せたまま、鬱陶しそうに目を背けた。 「……嫌だ。俺はシルヴィア様とここで過ごす。城の書類など、大臣どもに勝手に処理させればいい」 「勇者様!!」 女王様の美貌に骨抜きにされ、侍女たちのメイド服に脳を焼かれた村の男たち。 静かだったはずの田舎の村は、王城からやってきた怪物的な主従によって、収穫どころではない二度目の大フィーバーに包まれるのだった。 「ところでお嬢ちゃん方、この老いぼれの両側から『ご主人様♪』『なんなりとお命じください♪』って囁いてくれんか」 祖父もバッチリ癖を歪められていた 「ところでお嬢ちゃん方、この老いぼれの両側から『ご主人様♪』『なんなりとお命じください♪』って囁いてくれんか」 「「おじいちゃん!!?」」 アレルと母親のハモった怒号が囲炉裏端に響き渡った。 さっきまで「ガハハ!」と豪快に笑い、頑固一徹な凄腕の剣士として勇者アレルの師を気取っていたはずの祖父が、鼻の下を信じられないほど伸ばし、真顔で手を合わせて双子とレイラにお願いしていたのだ。 長年の直感と鋭い眼光で、孫が連れてきた「メイド」という未知の存在の本質——すなわち「絶対の服従と甘やかな全肯定の極致」を、一瞬で見抜いて癖(ヘキ)を全力で歪められていたのである。 「ちょっとお父さん! 孫ほど年の離れた娘さんたちに何言ってるのよ! 恥ずかしいと思わないの!?」 「何を言うか! 冥土(メイド)の土産という言葉もある! わしはただ、新しい世界の文化を肌で体験してみたいだけじゃ!」 「うまいこと言ったつもりになってんじゃないわよ!」 母親のツッコミに、レイラは引きつった笑いを浮かべながらジリジリと後退した。 「失礼ですがおじい様……私どもが『ご主人様』とお呼びし、絶対の服従を誓うお相手は、そこにいらっしゃるシルヴィア様ただお一人ですので……」 冷ややかに一蹴するレイラ。……だが、双子のミナとリナは違った。 二人は顔を見合わせると、ニタリと可憐で邪悪な笑みを浮かべた。 「ねー」 「ねー」 「おじいちゃん、本当に頼んじゃっていいのー?」 「後悔しても知らないよー?」 トントンと軽やかな足取りで祖父の両脇へ滑り込む双子。 ミナが左耳へそっと顔を寄せ、吐息を吹きかけるように囁く。 「ご主人様♪ お肩が凝ってらっしゃいませんかー?」 続いてリナが右耳へ顔を近づけ、甘い声で追撃する。 「なんなりとお命じください♪ ……でも、お代はアレルの子供の頃の恥ずかしい失敗談、全部教えてもらうことだけどね♪」 「〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」 ドッ!! と祖父の鼻から鮮血が吹き出し、豪快に後ろへと倒れ込んだ。 「ご、極楽じゃぁぁぁぁ……!!」 「おじいちゃん!!?」「お父さん!!?」 縁側で鼻血を噴き出して昇天しかけている祖父と、双子の悪ノリに大パニックになる母親。 そんなカオスすぎる居間の中で、アレルは顔を真っ青(というか極度の不快感)にして双子を睨みつけ、シルヴィアの膝に「これ以上何も見たくない」と言わんばかりに顔を埋めた。 「……気持ち悪い。シルヴィア様、今すぐ城へ帰りましょう。この家はもうダメです」 「あらあら、アレルったら。お祖父様もとっても楽しそうなのに」 シルヴィアはクスクスと愉悦に満ちた笑声を漏らし、呆れ果てるアレルのお頭を愛おしそうに撫で回す。 魔王を倒した最強の勇者の一家すら、メイドという文化の前に見事に崩壊(?)し、田舎の静かな里帰りは最後まで大騒動のまま夜を迎えるのだった。