第四話 事情聴取 榊という男は、急かさなかった。 悠真が黙っている間も、何かを書き留めたり、こちらへ質問を重ねたりはしない。ただベッドから二メートルほど離れた位置に立ち、返事を待っている。 その態度が、かえって悠真にはやりにくかった。 横では医師が点滴の流量を確認している。協会職員の男女は壁際に立ち、リシェルは椅子から動かない。病室の空気は乾いていて、喉の奥に薬品の匂いが薄く残った。天井付近を走る術式回路は規則的に明滅し、そのたびに肌の表面を弱い静電気のようなものが撫でていく。 「どこから話せばいいですか」 ようやく悠真が言うと、榊は少しだけ姿勢を緩めた。 「覚えている最初からで構いません。特に、ゲートに異常を感じた時点からお願いします」 「それ、俺が倒れる前に朝倉さんから聞いてないんですか」 壁際にいた協会職員の女が僅かに視線を上げた。 榊は隠さなかった。 「聞いています。駅前の監視映像も、周辺の魔力観測記録も確認済みです」 「じゃあ俺に聞く意味あります?」 「あります」 即答だった。 「映像には映らないものがあった可能性が高いからです」 悠真は視界の端に浮かんでいた青白い文字を思い出した。 《境界簒奪》 《奪取対象の残滓を検出》 たぶん、それのことだ。 もちろん、榊には見えていない。 「俺にしか見えないものがあったってことですか」 悠真が探るように尋ねると、榊は少しだけ目を細めた。 「それを確認したいと思っています」 答えたようで答えていない。 悠真は内心で舌打ちした。 この人、たぶん面倒くさい。 「医師としては、長時間の聞き取りは勧めません」 それまで黙っていた白衣の男が口を挟んだ。 声は低く、疲れていた。 「八代さんは三日間意識不明でした。魔力経路、神経系、脳機能のいずれにも通常の過負荷では説明しにくい反応が残っています。会話に問題がないからといって、完全に回復したわけではありません」 榊は医師を見る。 「何分なら」 「二十分。悪くなったら即中止」 「分かりました」 あっさり引いた。 悠真は少し意外に思った。 政府の人間というから、もっと強引なのかと思っていた。 その考えが顔に出たのか、榊がこちらを見る。 「何か?」 「いや。もっと無茶するのかと」 「何を想像していたんです」 「映画みたいな」 協会職員の男が小さく笑いそうになって、咳払いで誤魔化した。 榊は苦笑すらしなかった。 「少なくとも、目覚めたばかりの高校生を尋問して倒れられると、私の方が怒られます」 「現実的ですね」 「仕事ですから」 昨夜の夢の中で、狐獣人の男が言っていた言葉を思い出した。 現実しかねえよ。 どうやら、どこへ行ってもそうらしい。 悠真は枕へ少し身体を沈めた。 「じゃあ……最初は、音です」 榊の目が僅かに変わった。 「音?」 「ゲートが開く少し前。耳じゃなくて、頭の中で金属を引っ掻くみたいな音がしました」 「魔力震の前兆と似ていましたか」 「似てました。でも学校で聞かされたやつより近い感じというか……頭蓋骨の内側で鳴ったみたいな」 榊は協会職員の女を見る。 彼女が手元の端末へ何か入力する。 「続けてください」 悠真は駅前で起きたことを、覚えている範囲で話した。 ゲートが開いたこと。 少女を助けたこと。 ブラックハウンドが出てきたこと。 朝倉に助けられたこと。 大型の何かがゲートの奥に見えたこと。 そこまで話したところで、壁際の男性職員が口を開いた。 「大型個体について、もう少し詳しく覚えていますか」 三十代前半くらいだろうか。協会の濃紺の制服を着ている。胸の階級章らしきものは悠真には読めなかった。 「黄色い目が二つ。かなりでかかったです」 「推定種は?」 「知りませんよ」 「形状は」 「木の奥だったから、ほとんど見えてないです」 職員は頷く。 質問の仕方からして、悠真を疑っているというより現場情報を集めているらしい。 「朝倉さんはB級個体の可能性を報告しています。ただ、その個体は後に確認できていません」 「逃げたんだと思います」 「何から?」 そこで悠真はリシェルを見た。 彼女は黙ったままこちらを見返した。 答える気はないらしい。 「その後、魔物の死体が飛んできて……こいつが出てきました」 「こいつ?」 リシェルの眉が動く。 「人を指差してこいつと呼ぶな」 日本語で言い返された。 悠真は少しだけ安心した。 駅前で見たときより、随分普通の反応だった。 「じゃあ王女様」 「それもやめろ」 「注文多いな」 「お前が無礼なのだ」 榊が二人を交互に見た。 「ずいぶん会話が成立していますね」 その一言で、リシェルの表情が少し硬くなった。 悠真も気づいた。 「何か変なんですか」 榊ではなく、協会職員の女が答えた。 「彼女が来た直後の言語は、こちらでは未登録でした」 「未登録?」 「少なくとも、国内で確認されている異世界言語群には一致しませんでした。翻訳魔法も最初は完全には機能していません」 悠真はリシェルを見る。 「でも俺、最初から分かったけど」 「そこです」 榊が言った。 病室の空気が、少しだけ変わった。 「朝倉探索者の証言によれば、あなたは彼女の言葉へ即座に反応した。ところが、朝倉氏には理解できなかった」 悠真は思い出す。 確かにそうだった。 聞いたことのない言葉なのに意味が頭へ直接流れ込んできた。 今となっては、あれも境界簒奪の一部なのかもしれない。 「リシェルさん」 榊が少女へ視線を向けた。 「あなたの側では、八代さんの言葉はどう聞こえていましたか」 リシェルは答えるまで少し時間を置いた。 「最初は我々の言葉に聞こえた」 「日本語ではなく?」 「違う。私の母語だった」 榊の目が僅かに鋭くなる。 「現在は?」 「日本語として聞いている。覚えたからな」 「三日で?」 「音と文字の規則性は単純だ。会話だけなら難しくない」 悠真は思わず彼女を見る。 「日本語、単純って初めて聞いた」 「文字は多すぎる」 「だよな」 リシェルは小さく鼻を鳴らした。 榊はそのやり取りを遮らなかった。 ただ、何かを確認するように一度だけ頷いた。 「八代さん。ゲート内の白色大型存在が姿を現した後は?」 来た。 悠真は無意識に右手を握った。 あの白い怪物。 見えない目。 頭の中に響いた声。 『みつけた』 喉の奥が少し乾く。 医師が悠真の表情を見て、モニターへ視線を移した。心拍数が上がっているらしい。 「無理に思い出さなくていい」 医師が言った。 「いや、大丈夫です」 悠真は一度息を整えた。 「リシェルが、境喰らいって呼んでました」 榊が彼女を見る。 リシェルの顔から、今まで残っていた僅かな余裕が消えた。 「それについては、既にこちらでも聞いています」 「なら俺より詳しいでしょ」 「彼女が話した範囲では」 悠真はリシェルを見る。 少女は榊ではなく、床へ目を落としていた。 その様子を見て、悠真は続きを言うのを少しだけためらった。 あれは彼女たちの世界を百七十二年追い続けている。 国を三つ消した。 それ以上を聞けば、たぶん彼女にとっては家族や故郷の話になる。 「白いのが俺たちを見て、喋りました」 榊の表情が止まった。 協会員二人も動きを止めた。 「何と?」 「最初は『みつけた』。それから……『かえせ』」 リシェルの指が、患者着の布を強く握った。 榊がそれを見た。 悠真も見た。 誰も指摘しない。 「返せ、ですか」 「はい」 「何を?」 「知りません」 これは本当だ。 榊はすぐには次の質問へ進まなかった。 室内に、点滴装置の小さな駆動音だけが残る。 「その後、あなたの魔力反応が急激に変化しています」 協会の女性職員が言った。 端末を操作し、こちらへ画面を見せる。 グラフだった。 悠真には半分も意味が分からない。 「これが当時の周辺魔力密度。こっちがあなた個人から検出された反応です」 最初はほとんど平坦だった線が、ある地点から急激に跳ね上がっている。 「俺、こんなに魔力あったんですか」 「いいえ」 「え?」 「現在もありません」 言い切られた。 ちょっと傷つく。 女は構わず続けた。 「正確には、あなた自身の保有魔力量は三日前とほぼ変わっていない。平均よりやや低い数値です」 「そこまで言わなくても」 男性職員が今度こそ少し笑った。 女性職員は真面目な顔のままだ。 「重要なのは、あなたの魔力量が増えたのではなく、周辺空間の魔力が一時的にあなたを中心として移動したことです」 悠真はグラフを見る。 「吸った?」 「それならまだ理解できます。ですが、吸収後の蓄積がない」 「じゃあどこ行ったんですか」 「分かりません」 今度は向こうがそう答える番だった。 榊が引き取る。 「その直後、ゲートが消失しました。ただし通常の閉鎖とは異なります」 「どう違うんです」 「閉じた痕跡がない」 悠真は眉を寄せた。 「閉じたのに?」 「通常、ゲートが閉鎖されれば残留魔力が残ります。大小はありますが、空間接続が発生した以上、周辺には一定期間痕跡が残る。今回、それがほぼありません」 榊は少し言葉を選んだ。 「専門家の表現を借りれば、『そこにゲートが存在していた履歴だけが抜け落ちている』そうです」 悠真の背筋に冷たいものが走った。 自分が見たものと一致する。 ゲートを閉じたのではない。 二つの世界が「ここ」と「ここ」を同じ場所として認識していた、その関係を奪った。 「何か心当たりがありますか」 榊の声は穏やかだった。 悠真は迷った。 ここで全部話すべきか。 適性検査で教わったことを思い出す。 固有スキルは安易に公開するな。 一方で、目の前にいる相手は既に相当な情報を持っている。 全部黙るのも不自然だ。 「スキルが発現しました」 結局、そこまでは言った。 榊は驚かなかった。 「名称は」 悠真は少し考える。 「境界に関係するやつです」 「正式名称は?」 「言いたくないです」 協会の男性職員が悠真を見たが、榊はすぐに頷いた。 「分かりました」 予想外だった。 「いいんですか」 「固有スキル情報の秘匿は法的に認められた権利です。強制開示には相応の手続きが必要になります」 「へえ」 「ただし」 やっぱり続きがある。 「今回のような大規模災害との関連が疑われる場合、完全に私的な情報として扱えるとは限りません」 「ですよね」 「現時点では強制するつもりはありません」 現時点。 そこだけ妙にはっきり聞こえた。 悠真は榊の顔を見る。 敵ではない。 たぶん。 味方でもない。 この人は仕事をしているだけなのだ。 必要なら守るし、必要なら拘束もする。 そういう人間なのだろう。 「俺って、ここから帰れますか」 唐突な質問だった。 医師が悠真を見る。 榊も少しだけ間を置いた。 「現時点では、医療上の理由で退院できません」 「治ったら?」 「それは、今後の確認次第です」 「拘束される可能性がある?」 リシェルが榊を睨んだ。 榊は彼女へ視線を向ける。 「可能性の話なら、否定はできません」 病室の空気が冷えた。 リシェルの肩が僅かに動く。 反射的に武器を探したのかもしれない。 もちろん今は持っていない。 「ただし」 榊は続けた。 「八代さんは現時点で犯罪者でも、危険指定能力者でもありません。三日前の行動についても、映像上は多数の市民を救ったと判断されています」 悠真は少し肩の力を抜いた。 「じゃあ表彰とかあります?」 医師が呆れた顔をした。 榊は一拍だけ黙った。 「それを今聞きますか」 「ちょっと気になって」 協会の男性職員がとうとう笑った。 「候補にはなると思うぞ」 「マジですか」 「たぶんな」 「賞金とか」 「八代さん」 医師に止められた。 「心拍数上がってます」 「表彰の話で?」 「違います」 少しだけ空気が緩んだ。 けれど、リシェルだけは笑わなかった。 その顔を見て、悠真も思い出す。 まだ聞いていないことがある。 「リシェル」 「何だ」 「お前、何であのゲートから出てきたんだ」 室内の空気が、もう一度変わった。 榊も協会員も、彼女を見る。 この質問は既にされているのだろう。 それでも答えは得られていない。 リシェルは黙っていた。 悠真は待つ。 「逃げていた」 やがて彼女が言った。 「境喰らいから?」 「それもある」 「それも?」 リシェルは唇を閉じた。 何かを話すか迷っている。 悠真には、それが分かった。 日本へ来たばかりの異世界人。 知らない国。 知らない人間。 武器は取り上げられ、怪我を治療され、三日間質問され続けた。 自分だったら、全部話すだろうか。 たぶん話さない。 「言いたくないならいいけど」 リシェルが驚いたように悠真を見る。 榊も少しだけ視線を動かした。 「ただ、俺に関係あることなら知りたい」 リシェルはしばらく黙った。 やがて、患者着の裾を握っていた手をゆっくり緩める。 「我々の世界では、十七日前に門が開いた」 「日本へ?」 「違う」 彼女は首を振った。 「最初は、どこへ繋がっているのか分からなかった」 榊が静かに聞く。 「あなた方が開いたのですか」 「違う。勝手に現れた」 「自然発生?」 「その言葉の意味は知らない。ただ、誰も開いていない」 リシェルは一度目を閉じた。 「境喰らいが現れたのは、その三日後だ」 悠真は眉を寄せる。 「待って。お前ら、百七十二年逃げてたんじゃないの?」 「そうだ」 「じゃあ前からいたんだろ」 「いた」 リシェルが答える。 「だが、我々の世界へ直接入ってくることはできなかった」 榊の目が鋭くなる。 「では、その門が原因で侵入可能になった?」 「そう考えている」 「根拠は?」 「境喰らいが門を食った」 誰もすぐには理解できなかった。 悠真が先に聞く。 「食った?」 「門そのものを」 リシェルの声が低くなる。 「それまでは我々の世界の外側を這うだけだった。だが門が開いてから、あれは境界へ触れられるようになった」 悠真の中で、嫌な形に情報が繋がり始めた。 境界を食うもの。 門。 世界同士の接続。 そして。 自分のスキル。 《境界簒奪》 「それで」 リシェルは悠真を見る。 翠色の瞳に、三日前と同じ恐怖が少し戻っていた。 「あれは、門の向こうにある世界を探していた」 「日本を?」 「分からない」 一度言葉を切る。 「だが、お前を見た瞬間に止まった」 悠真の指が冷える。 『みつけた』 あの声が蘇る。 榊が言った。 「八代さん。先ほど、あの存在が『返せ』と言ったと証言しましたね」 「はい」 「何かを奪った可能性は?」 悠真は答えなかった。 右手の奥に、またあの感覚がある。 目には見えない。 なのに。 確かに何かがある。 《奪取対象の残滓を検出》 視界の端に文字が再び浮かんだ。 今度はそれだけではなかった。 《解析進行率:3%》 悠真は息を止めた。 三日前にはなかった表示だ。 「八代さん?」 榊が気づく。 悠真は反射的に視線を逸らした。 「何でもないです」 榊はすぐには追及しなかった。 けれど、信じてはいない。 それも分かった。 そのとき、病室の外から足音が近づいた。 急いでいる。 扉が二度ノックされ、返事を待たずに開いた。 若い協会職員が顔を出す。 息を切らしていた。 「榊さん、すみません」 「どうしました」 「観測局から緊急連絡です」 その言葉だけで、部屋の全員が黙った。 「光ヶ丘の事故地点で、魔力反応が再発しています」 悠真の身体から血の気が引いた。 榊が聞く。 「ゲートですか」 職員は首を振った。 「違います」 そして。 「空間反応が、八代さんの病室と同期しています」 誰も動かなかった。 悠真はゆっくり、自分の右手を見る。 掌には何もない。 けれど。 さっきまで曖昧だった何かが、今ははっきりと脈打っていた。