余白  プロローグ 名前のない歌  夏の終わりの体育館は、雨上がりの土と、古い木材と、百人分の熱気が混ざった匂いがした。  ステージの中央で、榊朱音はマイクを握っていた。  照明が熱い。掌は汗ばんでいる。背中にはギターの重みがあり、左隣にはベース、後ろにはドラム、右手には、いつもならもう一本のギターがある。  けれど、その場所だけが空いていた。  客席のざわめきが、遠い波音みたいに聞こえる。  朱音は目を閉じた。  あの子なら、こんなときにも眠そうな顔で笑うのだろう。 「朱音ちゃん、緊張してる?」  そんなふうに聞いておいて、返事を待たずに、 「じゃあパンのこと考えよっか。ふわふわのやつ。緊張も挟んで食べちゃえば、たぶん平気」  なんて言う。  くだらない。  くだらなくて、腹が立つほど、今すぐ聞きたかった。  朱音は目を開けた。  最前列の端に、空席がひとつある。  来るはずだった人のために、誰にも譲らなかった席だ。 「最後の曲です」  自分の声が、体育館の天井へまっすぐ伸びていく。 「まだ、ちゃんと完成したとは思ってません。たぶん、これから何年歌っても完成しない。だから今日は、今のあたしたちが歌えるところまで歌います」  ドラムの真白がスティックを掲げた。ベースの遥が朱音を見て、ほんの少し頷いた。  朱音は空いた場所へ視線を向ける。 「タイトルは、『余白』」  最初のコードを鳴らした瞬間、夏が終わった。  第一章 あんパンと赤い傘  青井麦と初めて会った日のことを、榊朱音はほとんど覚えていない。  小学校一年生の春。入学式から二週間ほど経った、雨の日だったらしい。  らしい、というのは、その日のことを麦が何度も話すからだ。 「朱音ちゃん、赤い傘だったんだよねぇ」 「知らない」 「長靴も赤」 「覚えてない」 「ランドセルだけ黒。こだわり強めの一年生だった」 「母さんが選んだだけ」 「それでね、あたしが昇降口で泣いてたら、朱音ちゃんが傘に入れてくれた」 「泣いてたのかよ」 「たぶん眠かったんじゃないかなぁ」 「昔からそれか」  麦の記憶は、いつも肝心なところが曖昧だった。  雨の匂い。赤い傘。濡れた上履き。半分に割ったあんパン。  それだけは何度聞いても変わらない。  麦は昇降口で泣いていた。迎えに来るはずの母親が仕事で遅れ、傘も持っていなかった。朱音は無言で自分の傘へ入れ、家とは反対方向の麦の家まで送った。  途中、麦が腹を空かせたと言うので、ランドセルに入っていたあんパンを半分にした。 「でも、朱音ちゃん。ぜんぜん半分じゃなかったよ」 「細かいな」 「あたしのほうが大きかった」 「じゃあ得しただろ」 「うん。だから好きになった」  麦は、そういう言葉を平気で口にした。  十年経った今でも。  高校二年の六月。放課後の音楽室で、麦は窓際の机に頬杖をつき、購買のクリームパンを少しずつ食べていた。  灰色がかった茶色の髪は肩につかない長さで、寝癖なのか意図したものなのか分からない毛束が外へ跳ねている。制服のリボンは緩く、袖は手の甲まで伸びていた。  眠そうな目だけが、朱音を見ていた。 「何」 「朱音ちゃん、髪切った?」 「切ってない」 「赤いとこ、増えた?」 「増えてない」 「じゃあ、今日は機嫌悪い?」 「いつも通り」 「なるほど。いつも通り機嫌悪い」 「麦」 「クリームパン食べる?」  差し出された袋を、朱音は無視した。  黒い髪の左側に入れた赤いメッシュが、肩にかかる。鏡を見るたび、少し派手すぎたと思う。けれど戻す気はなかった。  中学二年のとき、初めて自分で決めた髪だった。  母親には「似合ってる」と言われ、担任には「校則の範囲で」と釘を刺され、麦には十分ほど無言で見つめられたあと、 「いちごジャムみたいで、おいしそう」  と言われた。  褒められたのかどうか、今も分からない。 「二人とも、しゃべってないで合わせるよ!」  ドラムセットの向こうから、日向真白が声を張った。  真白は同じ二年で、肩までの髪を高い位置で結んでいる。本人の性格そのままに、ドラムもよく走る。テンポが先へ先へ行きたがるのだ。 「今日は新曲の骨組みを決めるんでしょ」 「骨だけなら、もうあるよぉ」  麦がクリームパンをくわえたままギターを抱える。 「肉をつけろ、肉を」  ベースの久瀬遥が、譜面台の陰から冷静に言った。三年生で、四人組バンド『リフレイン』の最年長。黒縁眼鏡の奥の目はいつも淡々としているが、誰より細かく全員を見ている。 「文化祭まで三か月。市の高校生音楽祭まで二か月半。新曲を出すなら、今週中に形にしないと間に合わない」 「はいはい」  朱音はギターを肩へかけた。  リフレインを組んだのは、中学三年の冬だった。  四人が通う私立汐見ヶ丘学園は、中等部と高等部が同じ文化棟を使う中高一貫校だった。だから当時、中等部三年だった朱音たちが、高等部一年の遥と同じ音楽室で顔を合わせることも、そう珍しくはなかった。  朱音と麦がギター。朱音がボーカルを兼ね、真白がドラム。ベースだけが見つからず、音楽室で一人練習していた一学年上の遥を半ば強引に誘った。  バンド名を決めたのは麦だ。 「同じところを繰り返すって意味だよね。あたしたち、どうせ毎日おんなじ道で帰って、おんなじパン屋に寄って、おんなじ話するし」  そんな理由だった。  朱音は気に入らなかった。  同じ場所に留まることを、肯定されているように聞こえたからだ。  それでも別案を出さなかったので、結局その名になった。 「テーマは?」  遥が聞く。 「音楽祭、今年は共通テーマがあるんだろ」  真白が机の上の募集要項を広げた。  中央に太い文字で印刷されている。  ――大切な人へ。  朱音は眉を寄せた。 「ださ」 「一秒で切ったね」 「大切な人へ、だって。そういうの、わざわざ歌にする必要ある?」 「歌って、わざわざ言うためにあるんじゃない?」  麦が答えた。  朱音は見る。  麦はいつもの眠そうな顔で、ギターの六弦をつま弾いていた。 「言わなくても分かることを、わざわざ音にする。分からないことも、分かったふりして音にする。だいたいそんな感じ」 「適当だな」 「でも朱音ちゃん、歌うの好きでしょ」 「……好きだけど」 「じゃあ、愛の歌にしよっか」  真白が派手にむせた。  遥は眼鏡を押し上げた。  朱音は、思わず麦を睨んだ。 「却下」 「まだ何も言ってないのに」 「お前が言う愛の歌、ろくなもんじゃなさそう」 「ひどいねぇ。十年分の実績があるのに」 「何の実績だよ」 「朱音ちゃんを好きだった実績」  また、平気で言う。  真白がにやにやし、遥は譜面へ目を落とした。  朱音はギターのボリュームを上げた。 「始めるぞ」  アンプから鳴った音は、必要以上に大きかった。  第二章 言わなくても分かる  朱音は、言葉を信用していなかった。  正確には、言葉だけで何かが守られるという考えを信用していなかった。  父親は、朱音が八歳のときに家を出た。  それまで毎晩のように「ずっと一緒だ」と言っていた。仕事で帰りが遅くても、眠っている朱音の額を撫で、次の休みには海へ行こうと約束した。  海へ行く前に、父はいなくなった。  母は理由を詳しく話さなかった。ただ「大人には大人の都合がある」と言い、それ以降、父の話をしなくなった。  朱音も聞かなかった。  聞かなくても分かると思った。  約束は破られる。  好きだと言う人も、いなくなる。  だから、行動だけ見ればいい。  毎朝、母が弁当を作ること。  真白が早朝練習に遅刻しても、放課後には必ず音楽室へ来ること。  遥が文句を言いながら、全員分の譜面を整えてくれること。  そして麦が、十年間ほとんど毎日、朱音の隣にいること。  それで十分だった。  言葉にする必要などなかった。 「朱音ちゃん、怒ってる?」  音楽室からの帰り道、麦が聞いた。 「怒ってない」 「愛の歌、嫌だった?」 「別に」 「別に、は、だいたい別にじゃないよ」 「うるさい」  二人は川沿いの道を歩いていた。  六月の夕方はまだ明るい。堤防の草は雨を含み、湿った匂いを漂わせている。自転車を押す高校生、犬を散歩させる老人、遠くを走る電車。  毎日見ている景色だった。  堤防を下りた先に、小さなパン屋がある。  白い壁に青い庇。店名は『月舟ベーカリー』。麦の叔母が営んでいて、二人は小学生の頃から通っていた。  閉店前に売れ残ったパンをもらえることもある。 「今日は塩パンが残ってるといいねぇ」 「お前、さっきクリームパン食ってただろ」 「パンは別腹」 「全部パンだろ」 「甘いパンとしょっぱいパンは別の生き物だから」 「分類が雑すぎる」  店へ入ると、焼きたての小麦とバターの匂いに包まれた。 「おかえり」  カウンターの向こうで、麦の叔母、青井澄江が笑った。 「ただいまぁ」 「お前の家じゃないだろ」 「朱音ちゃんも、ほぼうちの子みたいなもんでしょ」  澄江は二人へ紙袋を渡した。中には塩パンが二つと、形の崩れたメロンパンが一つ入っている。 「試作品。持って帰って感想ちょうだい」 「ありがとう、澄江さん」 「朱音ちゃんは礼儀正しいね。麦も見習いな」 「身内には照れが出るんだよねぇ」 「照れてる人は勝手にレジ横のラスク食べない」  麦の手が止まる。  朱音は少し笑った。  その瞬間、澄江が麦を見て、何か言いかけた。  けれど麦は視線を逸らし、紙袋を抱えた。 「じゃ、帰ろっか」 「早いな」 「今日は宿題があるので」 「お前が?」 「失礼だなぁ。あたしだって宿題くらい、たまに思い出すよ」  店を出たあと、朱音は振り返った。  ガラス越しに、澄江が心配そうな顔で麦の背中を見ていた。 「何かあった?」 「何が?」 「澄江さん、変だった」 「パンがうまく膨らまなかったんじゃない?」 「お前に聞いてる」  麦は紙袋の端を指で折った。  歩調は変わらない。 「言わなくても分かるんじゃないの?」  朱音は足を止めた。  麦も二歩先で止まり、振り返る。  その顔には、いつもの薄い笑みがあった。 「冗談」 「……つまんない」 「朱音ちゃん、冗談の採点厳しいからなぁ」 「何もないならいい」 「うん。今はね」  今は。  その二文字が引っかかった。  けれど朱音は追及しなかった。  言いたくなれば、麦は言う。  十年一緒にいる。  それくらい分かっているつもりだった。  別れ道で、麦は塩パンを一つ朱音へ渡した。 「はい。大きいほう」 「同じだろ」 「こっちのほうが、ちょっとだけ大きい」 「また昔の話か」 「大きいほうをもらった人は、小さいほうをもらった人を忘れない決まりです」 「知らない決まり作るな」 「忘れないでね」  麦は笑った。  朱音は塩パンを受け取った。 「忘れるわけないだろ」  それを言うと、麦は少しだけ目を伏せた。 「そっか」  夕暮れの中で、その声だけがひどく小さかった。  第三章 ノートの余白  新曲作りは難航した。  麦が持ってきたコード進行は悪くなかった。明るすぎず、暗すぎず、歩く速度に近いテンポで、聴いていると夕方の帰り道を思い出す。  問題は歌詞だった。 「『君』が多い」  朱音はノートを机へ置いた。 「愛の歌だからねぇ」 「愛の歌なら全部『君』で済むと思うな」 「じゃあ『お前』にする?」 「喧嘩売ってるみたいだろ」 「朱音ちゃんが歌えば、どっちでも少し喧嘩っぽいよ」 「殴るぞ」 「ほらね」  真白が笑い、遥はため息をついた。  放課後の音楽室。窓の外では運動部の掛け声が響いている。  机の上には、麦の青いノートが開かれていた。  歌詞の断片が、ページいっぱいに散らばっている。  朝の改札。  雨の日の傘。  半分のパン。  言えなかった言葉。  隣にいることを当たり前にした罪。  朱音は最後の一行を指で叩いた。 「これ、重くない?」 「罪だよぉ。かなり」 「何が」 「当たり前って、便利だからね。感謝しなくていい言い訳になる」  麦は窓の外を見た。  遠くで、野球部の打球音が鳴った。 「毎日会えると思ってたら、今日会えたことを喜ばなくなるでしょ」 「普通だろ」 「普通って、終わるまで普通だもんねぇ」  朱音は、またあの引っかかりを感じた。 「お前、何か隠してる?」  真白のスティックが止まり、遥が顔を上げた。  麦は一度、瞬きをした。 「隠し味なら」 「麦」 「……まだ言えるほど決まってない」  空気が変わった。  朱音の喉が狭くなる。 「何が」 「家のこと」 「家?」 「母さんの仕事。転勤の話があって」 「どこ」 「神戸」  この町から電車を乗り継いで三時間ほど。遠すぎるわけではない。けれど毎日会える距離ではなかった。 「いつ」 「早ければ、夏休みの終わり」  朱音は椅子を引いた。  脚が床を擦り、嫌な音を立てた。 「なんで今まで言わなかった」 「決まってないから」 「話が出た時点で言えただろ」 「言ったら、朱音ちゃん困るかなって」 「勝手に決めんな」  声が大きくなる。  麦は表情を変えなかった。  そのことが、さらに朱音を苛立たせた。 「いつ聞いた」 「先月」 「一か月も黙ってたのかよ」 「うん」 「何で」 「だから、決まってないから」 「それだけじゃないだろ」  麦は黙った。  真白が立ち上がりかけたが、遥が小さく首を振った。  朱音と麦の間に、青いノートがある。  ページの余白に、鉛筆で小さく書かれた文字が見えた。  ――この歌が完成したら、言う。  朱音はそれを読んだ。 「歌が完成したら?」  麦の指が動いた。 「何だよ、それ」 「朱音ちゃん」 「歌を言い訳にすんな。そんな大事なこと、歌に隠してどうするんだよ」 「隠してるのは、朱音ちゃんも同じでしょ」 「何を」 「何でも」  麦の声は静かだった。 「寂しいとか、怖いとか、いてほしいとか。朱音ちゃん、そういうこと絶対言わない」 「関係ない」 「あるよ」 「ない」 「じゃあ、あたしがいなくなっても平気?」  問いは、あまりにもまっすぐだった。  朱音は答えられなかった。  平気なはずがない。  けれど「いなくならないで」と言えば、本当にいなくなる未来を認めることになる気がした。  麦の前で弱さを見せれば、引き止めることになる。  麦には麦の家族がいる。事情がある。  自分の気持ちで縛りたくない。  そんな言葉が頭の中を走った。  けれど口から出たのは、別のものだった。 「好きにすれば」  麦の目が、ほんの少し見開かれた。  すぐに、いつもの眠そうな形へ戻る。 「うん」  青いノートを閉じる音がした。 「じゃあ、そうする」  麦はギターをケースへしまった。 「今日、帰るね」 「練習は」 「歌詞、考えてくる」 「麦」 「おつかれさま」  音楽室の扉が閉まった。  朱音は追いかけなかった。  追いかけるための言葉を、持っていなかった。  第四章 片方だけの帰り道  翌日、麦は学校を休んだ。  風邪だと担任は言った。  朱音は信じなかった。  朝、何度かメッセージを打った。  ――大丈夫か。  消した。  ――昨日は悪かった。  消した。  ――話したい。  それも消した。  結局、送ったのは「ノート忘れてる」だけだった。  既読はつかなかった。  放課後、音楽室へ行くと、麦の青いノートが机に置かれたままだった。  勝手に見るなと言われたことはない。新曲の歌詞は共有物でもある。  けれど、表紙へ手を置いた瞬間、触れてはいけないものに思えた。 「読むなら、覚悟して読め」  遥がベースの弦を張り替えながら言った。 「何の覚悟だよ」 「人の本音を知る覚悟」 「これ、歌詞だろ」 「歌詞にしか書けない本音もある」  朱音は椅子へ座った。  真白はまだ来ていない。窓の外は曇っていて、音楽室がいつもより暗い。 「遥は知ってたのか」 「転勤のこと?」 「うん」 「三日前に聞いた」 「真白も?」 「昨日の昼に」  朱音は顔を上げた。 「何であたしが最後なんだよ」 「最後だから言えなかったんじゃないか」 「意味分かんない」 「一番大事な相手に、一番大事なことを言うのが簡単だと思う?」 「普通は逆だろ」 「普通なら、お前は昨日『行くな』と言ってる」  遥の声は平坦だった。  だからこそ痛かった。 「言えるわけないだろ。家のことだぞ」 「なら『寂しい』でいい」 「それも同じだ」 「違う。行動を制限する言葉と、自分の気持ちを伝える言葉は違う」 「……そんなの、受け取る側には重いだろ」 「重いよ」  遥は新しい弦を張り、ペグを回した。 「大事なものはだいたい重い。軽く扱うよりましだ」  朱音は青いノートを開いた。  最初の数ページには、コードと歌詞の断片があった。  その先は日記に近かった。  六月三日。  朱音ちゃん、朝から機嫌が悪い。寝不足らしい。コーヒーを飲んでたけど、砂糖三本入れてた。苦いの苦手なのに、格好つけるから面白い。  六月五日。  雨。傘を忘れたふりをしたら、朱音ちゃんの傘に入れた。でも肩が濡れてた。あたしのほうへ傘を傾けすぎ。たぶん本人は気づいてない。  六月八日。  新しいコードを聴かせた。朱音ちゃんは「悪くない」と言った。これは朱音ちゃん語で、かなり好き、の意味。  六月十二日。  母さんから神戸の話。まだ決まってない。朱音ちゃんに言おうと思った。でも、今日は真白ちゃんがスティックを折って、遥先輩が怒って、みんなで笑った。壊したくなくて言えなかった。  六月十五日。  もし離れることになったら、朱音ちゃんは平気な顔をすると思う。平気じゃないのに。あたしも平気な顔をすると思う。似てないようで、そういうところだけ似てる。  六月十七日。  愛の歌を書こうと思う。  好きだよ、だけだと足りない。  ありがとう、だけでも足りない。  ずっと一緒にいたい、は約束できない。  だから、今まで一緒にいてくれた時間と、これから離れても消えないものを歌にしたい。  朱音の指が止まった。  次のページには、文字がほとんどなかった。  中央に一行だけ。  ――朱音ちゃんが歌ってくれたら、あたしはどこへ行っても帰ってこられる。  胸の奥に、何かが落ちた。  固くて、重くて、息をするたびに痛むもの。 「……ずるい」  朱音は呟いた。 「何が」 「こんなの、ノートに書いて。読まなきゃ分かんないだろ」 「本人に言え」 「休んでる」 「家は知ってるだろ」  朱音は遥を見る。  遥は眼鏡の奥から、呆れたような目を向けていた。 「十年一緒にいて、見舞いに行く理由まで誰かに作ってもらう気?」  朱音はノートを掴み、音楽室を飛び出した。  廊下の角で真白とぶつかりそうになる。 「うわ、朱音! どこ行くの?」 「麦の家」 「風邪だって」 「たぶん嘘」 「え、じゃあ何?」 「知らない。聞いてくる」  階段を駆け下りながら、朱音は初めて思った。  分からないなら、聞けばいい。  そんな当たり前のことを、どうして十年も避けていたのだろう。  第五章 カレーパンは冷めていた  麦の家は、月舟ベーカリーから二本裏の路地にある。  白い二階建てで、玄関脇に小さなオリーブの鉢植えが並んでいる。朱音は数え切れないほど訪れたことがあった。  インターホンを押す。  返事はない。  もう一度押す。  やはり何も聞こえない。  スマートフォンを見る。ノートを届ける、と送ったメッセージは未読のままだ。 「寝てんのか」  麦ならあり得る。  だが玄関の鍵は開いていた。  不用心にもほどがあると思いながら、朱音は扉を細く開けた。 「麦?」  家の中は静かだった。  靴はある。母親のものはない。  階段を上がり、麦の部屋の前でノックする。 「入るぞ」  返事を待たずに開けた。  麦はベッドの上にいた。  寝てはいなかった。壁に背を預け、膝を抱え、ヘッドホンをつけている。朱音が入っても、しばらく気づかなかった。  机の上には、食べかけのカレーパンがあった。  珍しい。麦がパンを残している。  朱音はヘッドホンの片側を外した。 「何してんだ」  麦は驚いた顔をした。 「朱音ちゃん。鍵、閉めてなかったっけ」 「閉めろよ」 「お見舞い泥棒?」 「ノート」  青いノートをベッドへ置く。  麦は表紙を見たあと、朱音の顔を見た。 「読んだ?」 「読んだ」 「そっか」 「悪かった」 「別に。見られるところに置いたの、あたしだし」  麦はヘッドホンを外した。  窓の外では雨が降り始めていた。細い雨粒がガラスを叩く。 「風邪は」 「嘘」 「知ってる」 「今日は朱音ちゃんの顔、見たくなかった」 「……それも知ってる」 「何でも知ってるねぇ」 「知らなかったから来たんだよ」  朱音は机の椅子を引き、ベッドの前へ座った。  麦は膝に顎を乗せている。 「転勤、どれくらいの確率で決まる」 「母さんは行くと思う。あたしは、残ることもできる」 「澄江さんの家に?」 「うん。高校卒業までは置いてくれるって」 「じゃあ残ればいい」  言ってから、朱音は唇を噛んだ。  麦は目を細める。 「それ、朱音ちゃんがそうしてほしいから?」 「……学校もバンドもあるだろ」 「質問に答えてない」 「同じだ」 「違うよ」 「何が違うんだよ」 「学校やバンドのためなら、あたしじゃなくてもいい」  麦の声は、普段より少しだけ低かった。 「朱音ちゃんが、あたしにいてほしいのか聞いてる」 「だから、いてほしいって言ったら重いだろ」 「重くていい」 「お前が困る」 「困るかどうかも、あたしが決めることだよ」  朱音は言葉を失った。  麦は抱えた膝をほどき、ベッドから足を下ろした。 「朱音ちゃん、優しいふりして逃げるよね」 「何だよ、それ」 「あたしのために言わない。あたしを困らせないために聞かない。あたしを縛らないために何も望まない」 「悪いのか」 「寂しい」  その一言が、部屋の空気を変えた。  麦は笑っていなかった。 「勝手に気持ちを軽くされるの、寂しいよ。あたしは朱音ちゃんに困らされたいし、迷いたいし、選びたい」 「……何で」 「好きだから」  また、その言葉。  けれど今までとは違って聞こえた。  冗談に逃げる隙がなかった。 「それ、友達として?」  朱音は聞いた。  聞いてしまった。  麦は少し考えたあと、肩をすくめた。 「十年考えたけど、まだ分類できてない」 「何だよ、それ」 「朱音ちゃんを見ると嬉しい。朱音ちゃんが他の子と楽しそうだと、ちょっと面白くない。隣にいると安心する。触りたいと思うときもある。離れたら寂しい。これを全部まとめて、友達って箱に入れていいのか、あたしには分かんない」  朱音の心臓が、耳の近くで鳴っていた。 「でも」  麦は続ける。 「分からないまま大事にしても、いいと思ってる」  雨音が強くなる。  朱音は机の上のカレーパンを見た。 「冷めてる」 「うん」 「食べないの」 「今日はあんまり」 「お前がパン食えないとか、重症だろ」 「朱音ちゃんに『好きにすれば』って言われたので」 「……悪かった」 「うん」 「それだけ?」 「謝ったら、すぐ許してもらえると思った?」 「思ってない」 「じゃあ、どうする?」  朱音は拳を握った。  喉の奥に、言葉がつかえている。  言えば楽になる。けれど同時に、後戻りできなくなる気がした。  麦は待っていた。  急かさず、目を逸らさず。  十年間、そうしてきたように。 「……いてほしい」  声が震えた。 「神戸、行ってほしくない。毎日一緒に帰りたい。バンドも続けたい。お前がいなくなるの、嫌だ」  麦の目が、ゆっくりと見開かれる。 「これでいいか」 「もう少し」 「調子乗るな」 「十年待ったから、利息がついてます」 「知らない」 「じゃあ、寂しい?」 「寂しい」 「怖い?」 「怖い」 「好き?」  朱音は詰まった。  麦の口元に、ようやく少し笑みが戻る。 「そこはまだ?」 「……お前が言ってる意味と、同じか分かんない」 「うん」 「でも、大事だ。誰より」 「うん」 「これ以上言わせるな」 「今日はこれくらいにしといてあげよっか」  麦は手を伸ばし、朱音の制服の袖をつまんだ。  ほんの少しだけ。 「ありがとう」 「何が」 「言ってくれて」  朱音は答えず、冷めたカレーパンを手に取った。 「半分食う」 「大きいほう、朱音ちゃんね」 「病人でもないやつに譲られる筋合いない」 「今日は心が風邪だったので」 「面倒くさいな」 「うつるよ」 「もううつってる」  カレーパンは冷たく、油が少し重かった。  それでも、二人で食べると悪くなかった。  窓の外では雨が降り続いていた。  朱音は赤い傘を持ってきていなかった。  帰りは、麦の青い傘に入ることになった。  第六章 残る理由、行く理由  翌日の麦は、何事もなかったように学校へ来た。  朝の教室で机に突っ伏し、始業のチャイムが鳴っても顔を上げない。担任に出席を取られたときだけ片手を上げ、また眠りに戻った。  朱音は隣の列から、その後頭部を見ていた。  昨日のことが夢だったように思える。  いてほしい。  寂しい。  怖い。  どれも、自分の口から出た言葉とは思えなかった。  思い出すたびに顔が熱くなる。  麦は三時間目の休み時間、購買の焼きそばパンを持って朱音の席へ来た。 「朱音ちゃん、半分食べる?」 「いらない」 「昨日はあんなに分け合った仲なのに」 「言い方」 「雨の部屋で、冷めたカレーパンを二人で」 「黙れ」 「顔赤いよ」 「暑いだけ」  六月の教室には冷房が入っていた。  麦はにやりともしない。いつもの薄い笑みを浮かべ、焼きそばパンを一口かじった。 「今日は練習、来るよね」 「行く」 「歌、続き作ろう」 「その前に話がある」  朱音が言うと、麦の咀嚼が止まった。 「転勤のこと。残れるなら残れ、って昨日言ったけど」 「うん」 「お前は、どうしたい」  麦は少し目を丸くした。  それから窓の外へ視線を向けた。 「放課後、話す」 「今じゃ駄目か」 「焼きそばパン食べながら決めるには、ちょっと大きい話なので」 「もう決めてる顔だろ」 「朱音ちゃん、たまに鋭いねぇ」 「たまに、は余計だ」  放課後、四人は音楽室に集まった。  麦はギターをケースから出さず、窓際の椅子に座った。  真白と遥にも話すつもりらしい。 「神戸に行こうと思ってる」  朱音は、息を止めなかった。  拳も握らなかった。  ただ、麦の次の言葉を待った。 「母さんについていくから、だけじゃない。向こうに県立の芸術高校があって、編入試験を受けられるかもしれない。作曲のコースもある」 「前から考えてたの?」  真白が聞く。 「うん。去年、その学校の演奏会を動画で見た。行ってみたいと思った。でも、この町を出る理由も、リフレインを離れる理由もなかったから」 「転勤が、理由になった」  遥が言う。 「そう」  麦は朱音を見た。 「あたし、朱音ちゃんの隣にいるのが好き。でも、ずっと隣にいるために、自分がどこへ行きたいか考えないのは違う気がした」  胸が痛んだ。  けれど、それは昨日のような、置き去りにされる痛みではなかった。  自分の手から離れて、麦という人間が自分の足で立つのを見る痛みだった。 「受けるの、いつ」 「八月二十七日。実技と面接」  真白が募集要項を確認するように指を折った。 「音楽祭、八月二十八日だよ」 「うん。前日に戻ってくる予定」 「予定って」 「試験が終わったら、その日のうちに帰れる。たぶん」 「たぶんは禁止」  遥が言う。 「交通機関の遅延も考えろ。夏は台風がある」 「先輩、現実が強い」 「現実はだいたい強い」  朱音は麦へ聞いた。 「受かったら、夏休みが終わったら行くのか」 「編入の手続き次第。九月の途中か、二学期の区切りになるかも」 「そうか」  麦は朱音の顔をじっと見た。 「怒らないの?」 「怒ってほしいのか」 「ちょっとだけ」 「面倒くさいな」 「好きな子には、面倒くさくなるものなので」  真白がスティックを落とした。  遥が眼鏡を外してレンズを拭き始めた。  朱音は耳まで熱くなるのを感じた。 「お前、ここでそれ言うな」 「昨日も言ったよ」 「二人きりだっただろ」 「二人きりならいいんだ」 「そういう意味じゃない!」  麦が小さく笑った。  その笑顔を見て、朱音はようやく肩の力を抜いた。 「行ってほしくない」  音楽室が静かになる。  朱音は続けた。 「でも、お前が行きたいなら、受けろ。あたしが寂しいのと、お前の進路は別だ」 「うん」 「ただし、勝手にいなくなるな。試験のことも、結果も、全部言え」 「うん」 「帰ってくるって言ったなら帰ってこい」 「それ、台風にも言っておいて」 「台風よりお前に言ってる」 「じゃあ、努力します」 「絶対って言え」 「絶対は、ちょっと怖いなぁ」  朱音は眉を寄せた。  麦は椅子から立ち、朱音の前まで来た。 「でも、帰りたいとは言える」 「同じだろ」 「少し違うよ。絶対は未来を縛るけど、帰りたいは今の本音だから」  麦は手を差し出した。 「だから、朱音ちゃんも待ってて」  朱音はその手を見た。  細い指。ギターの弦で硬くなった指先。十年前、あんパンを受け取った手。  握ると、麦も握り返した。 「待つ」  今度は、言葉にした。  未来が守られる保証はない。  それでも、言わなければ届かない今がある。 「よし」  遥が眼鏡をかけ直した。 「話がまとまったなら、練習する。麦がいなくなっても形になる編曲と、麦が戻ったら完成する編曲、両方作る」 「縁起悪くない?」  真白が言う。 「備えだ。誰かが欠けたら演奏できないバンドは弱い」 「でも、誰かが戻ったらもっと良くなるバンドがいいねぇ」  麦は朱音の手を離し、ギターを取り出した。 「じゃあ、続き作ろっか。まだ言葉のないところから」 「その呼び方、長い」 「タイトル決まるまで仮名だよ」 「仮名でも雑」 「『余白』、とか」  麦が、青いノートの空いた場所を指でなぞった。 「書いてないところにも、たぶん一番言いたいことが残ってるから」 「分かりにくい」 「でも、朱音ちゃんは覚えてくれる」  朱音は反論しようとした。  けれど、その二文字はすでに胸のどこかへ引っかかっていた。  何も書かれていないはずなのに、忘れられない形で。  第七章 町を一曲にする方法  歌詞を書くために、二人は町を歩くことにした。 「意味分かんない」  七月最初の日曜日。駅前の時計台の下で、朱音は言った。 「大切な人との思い出を集める取材です」  麦は麦わら帽子をかぶり、肩から小さなカメラを提げている。白いシャツに薄い青のスカート。普段の制服姿より少しだけ大人びて見えた。 「取材って、あたしたちの話だろ」 「記憶は勝手に編集されるからね。現場検証が必要」 「事件みたいに言うな」 「十年ものの未解決事件です」 「何が未解決なんだよ」 「朱音ちゃんの気持ち」  朱音は無言で歩き始めた。 「あ、逃げた」 「暑いんだよ。早く行くぞ」  最初に向かったのは、二人が通った小学校だった。  休日の校門は閉まっている。柵越しに校庭が見えた。錆びた鉄棒、色の褪せた遊具、体育館の白い壁。 「傘に入れてもらった昇降口、あっち」  麦が指をさす。 「だから覚えてない」 「朱音ちゃん、昔は優しかったのに」 「今もだろ」 「自分で言った」 「お前が言わせたんだ」  麦はカメラを構えた。  校門、校庭、空。  シャッター音が鳴る。 「写真、歌詞に使えないだろ」 「あとで見たら思い出せる」 「忘れないって言ってたくせに」 「忘れないことと、思い出し続けることは違うよ」  次に、川沿いの公園へ行った。  小学生の頃、二人はそこで何度も遊んだ。朱音は木登りが得意で、麦は下から見ているだけだった。  一度、朱音が降りられなくなったことがある。 「助け呼びに行ってって言ったのに、お前、その場でパン食べてたよな」 「朱音ちゃんが落ちないように見張ってた」 「絶対嘘」 「でも落ちなかったでしょ」 「自力で降りたんだよ」 「あたしの見守り効果だねぇ」 「便利な言葉だな」  ブランコに並んで座り、麦はノートを開いた。 「ここから何が書けるかな」 「木から降りられない間抜けな子ども」 「強がって、助けてって言えない子」 「……お前、昔から分かってた?」 「何となく」 「じゃあ助け呼べよ」 「朱音ちゃん、自分で降りたかったでしょ」  図星だった。  朱音はブランコの鎖を握り、足で砂を蹴った。 「でも今なら、助けてって言える?」 「相手による」 「あたしには?」 「……必要なら」 「百点まであと二十点」 「何様だよ」  昼は月舟ベーカリーで買ったサンドイッチを、海辺の防波堤で食べた。  町の南側には小さな漁港がある。観光地になるほど綺麗ではないが、休日には釣り人が並び、夕方になると高校生がよく集まる。  海は陽射しを砕き、銀色に光っていた。 「昔、ここでバンドやろうって言ったの、どっちだっけ」  朱音が聞く。 「朱音ちゃん」 「お前じゃなかった?」 「あたしはギター弾いてみたいって言っただけ。朱音ちゃんが、じゃあ一緒にやるぞ、って」 「命令みたいだな」 「命令だったよ」  中学二年の夏。  麦が叔母の家で古いアコースティックギターを見つけた。コードも知らないまま音を鳴らし、朱音へ聞かせた。  ひどい音だった。  けれど、麦がいつもより楽しそうだった。  朱音はその日のうちに母へギターをねだった。誕生日もクリスマスもいらないと言い、足りない分は小遣いを貯めると約束した。  二か月後、黒い初心者用ギターを手に入れた。 「何で一緒にやろうと思ったんだろ」 「好きだったからじゃない?」 「ギターが?」 「あたしが」 「すぐそっちに持ってくな」 「違うの?」  朱音はサンドイッチの袋を畳んだ。  違うとは言い切れない。  当時、麦が自分の知らない楽しみを見つけたことが、少し怖かったのだ。  一緒に始めれば、その楽しみの中に自分もいられる。  そんな気持ちがなかったとは言えない。 「お前を一人にしたくなかった」  朱音は海を見ながら言った。 「ギター、難しそうだったから」 「うん」 「あと、あたしもやってみたかった」 「うん」 「それだけ」 「じゃあ、歌詞にしよ」 「どこを」 「一人にしたくなくて始めた音が、いつの間にか二人を別の場所へ連れていく、みたいな」 「勝手に綺麗にするな」 「歌詞は少しくらい綺麗にしないと、生活感でべたべたになるよ」  麦はノートに書き込んだ。  朱音は横から覗く。  ――君を一人にしないために鳴らした音が、僕を一人では行けない場所へ連れていった。 「僕?」 「歌うの朱音ちゃんだから」 「あたしは僕って言わない」 「歌の中では言えるかも」 「言わない」 「じゃあ、あたし」 「そのまますぎる」 「難しいねぇ」  麦は鉛筆の先で顎を掻いた。  風が吹き、帽子が飛びそうになる。  朱音は反射的に手を伸ばし、麦の頭ごと帽子を押さえた。 「ありがと」 「紐つけろ」 「朱音ちゃんが押さえてくれるから大丈夫」 「神戸行ったら誰が押さえるんだよ」  口にしてから、空気が一瞬止まった。  麦は帽子のつばを持ち、海を見る。 「自分で押さえる」 「そうしろ」 「でも、朱音ちゃんがいるときは頼っていい?」 「好きにしろ」 「その言葉、前科あるよ」 「……頼れ」 「はい」  麦は笑った。  朱音の掌の下で、その髪は陽射しに温まっていた。  二人は夕方まで町を歩いた。  古い商店街。初めて喧嘩した神社の石段。麦が自転車で転んだ交差点。中学の帰り、朱音が初めて歌を聴かせた河川敷。  特別な場所は、ひとつもなかった。  どこにでもある町の、どこにでもある景色だった。  けれど二人で歩くと、すべてに名前がついた。  雨の日。  笑った日。  何も話さなかった日。  言えなかった日。  麦は写真を撮り、朱音は思い出を訂正した。  夕暮れ、駅前の時計台へ戻ったとき、麦のカメラの容量はいっぱいになっていた。 「歌、一曲に収まるか?」 「無理かも」 「じゃあ何のために歩いたんだよ」 「一曲に収まらないって分かるため」  麦は時計台を見上げた。 「十年を四分にするの、乱暴だよね」 「歌なんてそんなもんだろ」 「うん。だから、全部入れなくていいんだと思う」 「じゃあ何を入れる」 「今日言わないと、明日は言えないかもしれないこと」  朱音は黙った。  駅前を人が行き交う。家族連れ、買い物袋を持つ老人、手をつなぐ恋人たち。  麦はカメラを胸元で抱えた。 「朱音ちゃん」 「何」 「今日、楽しかった」 「うん」 「一緒に歩いてくれて、ありがとう」 「……うん」 「朱音ちゃんも言う番」 「何でだよ」 「『余白』を埋める取材なので」  朱音は周囲を見た。  誰もこちらを気にしていない。  それでも、声にするのは恥ずかしかった。 「楽しかった」 「うん」 「お前と来て、よかった」  麦の目が少しだけ柔らかくなる。 「百点」 「採点すんな」 「ご褒美にパン買って帰ろっか」 「自分が食いたいだけだろ」 「ばれた」  二人は並んで歩き出した。  その日の写真は、歌詞には一枚も使われなかった。  けれど後に麦は言った。  あの日、町を一曲にしようとして失敗したから、歌は完成したのだと。  全部を歌えないと知ったから、一番伝えたいことだけを選べたのだと。  第八章 ほどける前の結び目  七月の終わり、転勤が正式に決まった。  麦の母は九月一日付で神戸へ移ることになり、麦も編入試験に合格すれば一緒に行く。落ちた場合は澄江の家から今の高校へ通う。 「落ちたら残れるね」  真白が言い、すぐに自分の口を両手で塞いだ。 「ごめん、応援してないみたいになった!」 「大丈夫。あたしもちょっと思ってる」  麦は笑った。 「受かりたいけど、落ちたら朱音ちゃんの隣に残れる。どっちでも少し嬉しくて、どっちでも少し寂しい」 「贅沢な悩みだな」  遥が言う。 「選ぶってそういうものかもねぇ」  音楽祭まで一か月。  新曲はようやく形になり始めていた。  イントロは麦のアルペジオから始まる。そこへ朱音のギターが重なり、遥のベースが足元を作り、真白のドラムが心臓の速度を与える。  一番は過去。  二番は今。  最後のサビだけが未来だった。  けれど、その未来をどう歌うかで、朱音と麦は何度も衝突した。 「『ずっと』は使わない」  麦が言う。 「何で」 「約束できないから」 「歌の中くらいいいだろ」 「朱音ちゃん、ずっとって言葉嫌いでしょ」 「昔はな」 「今は?」 「……言うだけで守れるとは思ってない。でも、守りたいと思うことまで嘘じゃない」  麦は鉛筆を止めた。 「変わったねぇ」 「誰のせいだよ」 「あたしの功績なら、パン一個ください」 「安いな」 「じゃあ一生分」 「高すぎる」  朱音は麦のノートを引き寄せた。 「『ずっと一緒にいる』じゃなくていい。『ずっと大事にする』なら、場所が違ってもできる」 「未来の朱音ちゃんが心変わりするかも」 「するかもしれない」  麦が顔を上げる。  朱音は言葉を選んだ。 「でも今、そうしたいと思ってる。それを言うのは嘘じゃないだろ」 「……うん」 「お前が言ったんだ。未来を縛るんじゃなく、今の本音を言えって」 「覚えてたんだ」 「忘れるわけない」  麦は笑わなかった。  目を伏せ、ノートへ何かを書いた。  朱音が覗こうとすると、腕で隠す。 「何」 「まだ秘密」 「共有の歌詞だろ」 「ここだけ、あたしの」 「また隠すのか」 「今度は、言う日を決めてる秘密」 「いつ」 「音楽祭が終わったら」 「試験の結果より後?」 「うん」 「長い」 「あと一か月」 「一か月は長い」 「朱音ちゃん、待てるって言ったよ」 「それとこれとは別」 「待つ練習だねぇ」  秘密があると知っていて待つのは、知らずに置いていかれるよりずっとましだった。  それでも朱音は気になった。  麦がノートを閉じるたび、そこに何が書かれているのか考えた。  好きだと書いてあるのか。  さよならと書いてあるのか。  それとも、自分が想像もしていない言葉なのか。  八月に入ると、練習はさらに厳しくなった。  午前中は学校の音楽室。午後は商店街の空き店舗を借りた簡易スタジオ。夜はそれぞれ自宅で音源を確認し、翌朝には修正案を持ち寄る。  麦は編入試験の課題曲と作曲課題も抱えていた。 「寝てる?」  ある日、朱音が聞いた。 「授業中に」 「夏休みだろ」 「じゃあ寝てないかも」 「帰れ」 「まだ二番のハモりが」 「明日でいい」 「明日が毎日あると思うのは危険だよ」 「そういう言い方すんな」  朱音は麦のギターからケーブルを抜いた。 「今日は終わり。送る」 「家、逆方向だよ」 「知ってる」 「朱音ちゃんの時間、もったいない」 「勝手に軽くすんな」  麦が瞬きをした。  朱音はギターケースを背負う。 「お前と帰りたいから送る。あたしが決める」 「……百二十点」 「上限超えるな」  帰り道、二人は月舟ベーカリーへ寄った。  閉店後の店内で、澄江が翌朝の仕込みをしている。麦が神戸へ行くかもしれないことを、澄江は明るく受け止めていた。 「若いうちは行きたいところへ行けばいいよ。帰ってくる場所なら、こっちで勝手に残しとくから」  そう言って、生地を捏ねる手を止めなかった。  朱音は、その言葉を気に入った。  帰ってこいと縛らず、帰れる場所を残す。  自分もそうなれるだろうか。  麦が店の奥から、形の悪いコッペパンを持ってきた。 「失敗作」 「どこが」 「ちょっと曲がってる」 「味は同じだろ」 「人もそうなら楽なのにねぇ」 「何の話」 「形が変わっても、中身が同じなら安心できるのになって」  朱音はコッペパンを半分に割った。  今度は、できるだけ同じ大きさにした。 「変わっても見つける」 「何を?」 「お前を」  麦の手が止まった。 「神戸行って、髪型変えて、知らない曲作って、知らないやつと笑ってても。見つける」 「怖い告白だねぇ」 「嫌なら返せ」  パンを取り上げようとすると、麦は素早く胸元へ隠した。 「返さない」 「じゃあ食え」 「うん」  麦はパンを一口食べた。  噛みながら、目を細める。 「朱音ちゃん」 「何」 「あたしも見つけるよ」 「別に隠れない」 「朱音ちゃん、すぐ自分の中に隠れるから」 「……うるさい」 「でも最近、見つけやすくなった」 「誰のせいだよ」 「パンのおかげかなぁ」 「そこはお前って言えよ」 「言わせた」  麦が嬉しそうに笑った。  朱音は残りのパンを口へ押し込み、何も言わなかった。  店の外には、夏の夜が広がっている。  ほどけそうだった結び目は、以前より少し不格好に、けれど確かに結び直されていた。  第九章 赤い傘の写真  八月最初の土曜日、朱音の母が仕事から早く帰ってきた。  榊美也子は市役所近くの写真館で働いている。証明写真、成人式、家族写真。誰かの人生の節目を毎日撮っているくせに、自分の家ではほとんどカメラを出さない人だった。 「珍しいね。麦ちゃん、今日いないの」  リビングのテーブルで歌詞を書いていた朱音へ、買い物袋を置きながら言った。 「試験の課題」 「神戸の?」 「知ってたの」 「澄江さんから聞いた。麦ちゃんのお母さんとも、この前話したし」 「何であたしには言わないんだよ」 「本人から聞く話でしょ」  大人は、知っていることを簡単に黙る。  朱音はそれが嫌いだった。  けれど今回は、以前ほど腹が立たなかった。麦が自分で話すまで待っていたのだと分かるからだ。  美也子は冷蔵庫へ食材をしまい、朱音の向かいに座った。 「寂しい?」 「別に」 「その言い方、お父さんそっくり」  朱音の手が止まった。  美也子が父のことを口にするのは、何年ぶりだろう。 「似てない」 「似てるよ。大事なことほど、何でもない顔するところ」 「父さんの話、今する?」 「今だからする」  美也子はテーブルの上の青いノートを見た。  麦から借りた歌詞ノートだった。 「麦ちゃんが遠くへ行くかもしれない。それで、昔のこと思い出してる顔してる」 「分かったふうに言うな」 「母親なので、少しくらい分かる」 「じゃあ、何で父さんが出ていったかも分かってたの」  問いは、思ったより鋭く出た。  美也子は目を伏せた。 「分かってたつもりだった。仕事がうまくいかなくなって、借金を抱えて、私たちに迷惑をかけたくないって。一人で片づけると言って出ていった」 「それで本当に片づいたの」 「片づかなかった。逃げただけ」  母の声に、初めて怒りが混じった。 「優しさのつもりで、私たちから選ぶ権利を奪った。支えるか、怒るか、一緒に困るか。何もさせてくれなかった」  朱音は麦に言われた言葉を思い出した。  勝手に気持ちを軽くされるのは寂しい。  困らされたいし、迷いたいし、選びたい。 「父さん、あたしのこと好きだった?」 「好きだったよ」  美也子は迷わず答えた。 「だったら、何で」 「好きでも、間違える人はいる。好きだから間違えないわけじゃない」 「そんなの、都合よすぎる」 「そうだね。だから許さなくていい」  美也子は静かに言った。 「でも、愛されてなかったことにしなくてもいい。あの人があなたを愛していたことと、あなたを傷つけたことは、両方本当」  朱音は返せなかった。  父を憎むほうが簡単だった。  全部が嘘だったと思えば、約束を信じた自分まで切り離せる。  けれど、愛していたのに去ったのなら。  言葉が嘘だったのではなく、人間が言葉に追いつけなかったのなら。  それはもっと複雑で、もっと苦しかった。 「これ、片づけてたら出てきた」  美也子は鞄から古い写真を取り出した。  小学校の昇降口。  赤い傘の下に、二人の少女がいる。  一人は不機嫌そうな顔で傘を持ち、もう一人は泣き腫らした目であんパンを食べている。 「何で写真あるんだよ」 「麦ちゃんのお母さんが撮ったの。迎えに来たとき、二人が家の前にいたから」 「全然覚えてない」 「麦ちゃんは覚えてるんでしょ」 「毎年言う」  朱音は写真を手に取った。  赤い傘は、自分が記憶していたより小さかった。  二人で入れば肩が濡れる。  写真の中の朱音は、傘を麦のほうへ大きく傾けていた。 「あなた、昔から変わってないね」 「どこが」 「自分が濡れてること、言わない」 「子どもだっただけ」 「今も同じ」  美也子は立ち上がり、台所へ向かった。 「言わなくても伝わることはある。でも、言わないと間違って伝わることもあるよ」  朱音は写真を見つめた。  あの日の自分は、麦を助けたつもりなどなかった。  けれど傘を傾けた。  麦はその行動を覚えていた。  同時に、今日まで聞かなかったこともたくさんあるのだろう。  なぜ自分の肩を濡らしたのか。  なぜ大きいほうのパンを渡したのか。  なぜ一緒に帰ったのか。  答えは、当時の自分にも分からない。  ただ、麦に泣いていてほしくなかった。  それを今なら、少し違う言葉にできる。  朱音は青いノートを開いた。  歌詞の余白へ書く。  ――愛されていた証拠を、愛した人が覚えていないこともある。  少し考え、線を引いて消した。  歌詞としては説明的すぎる。  代わりに、短く書いた。  ――君が覚えてくれたから、あの日のあたしを好きになれた。 「母さん」  台所へ声をかける。 「何?」 「写真、もらっていい?」 「そのつもりで出した」 「……ありがとう」  包丁の音が一瞬止まった。 「どういたしまして」  朱音は写真をノートへ挟んだ。  言葉だけでは守れないものがある。  けれど言葉がなければ、受け取ったことさえ伝えられない。  父のことを許せる日は、まだ来ないかもしれない。  それでも、好きだと言ったすべてを嘘にしなくてもいい。  その日の夜、朱音は麦へ写真を送った。  すぐに返信が来た。  ――ほんとに赤い傘だったでしょ。  ――そこじゃない。  ――あたし、すごい顔でパン食べてる。  ――泣きながら食うな。  ――このころからパンで回復する体質だったんだねぇ。  朱音は少し笑ったあと、文字を打った。  ――傘、お前のほうに傾けてた。  返信はしばらく来なかった。  やがて、短い一文が届く。  ――うん。知ってたよ。  朱音は画面を見つめた。  知っていた。  十年間、麦は知っていた。  朱音が言葉にしなかったことを、全部ではなくても、いくつも拾ってくれていた。  だから今度は、自分の番だった。  拾ってもらうのを待つのではなく、渡しに行く。  ――今度は、濡れてたら言う。  麦から、傘の絵文字が返ってきた。  その下に、もう一つ。  ――じゃあ、半分ずつ濡れよっか。  朱音は「風邪引くだろ」と返した。  けれど、少し嬉しかった。  第十章 真白の四拍目  新曲の通し練習を終えたあと、真白がスティックを床へ置いた。 「ごめん。ちょっと休憩」  八月七日、午後四時。  空き店舗を改装した練習場は冷房の効きが悪く、全員の額に汗が浮かんでいた。 「あと一回やる予定だっただろ」  遥が言う。 「分かってます。でも、今やってもまた走るから」  真白は壁際へ座り、ペットボトルの水を飲んだ。  いつもなら失敗しても「もう一回!」と立ち上がる。自分から休憩を求めるのは珍しかった。  朱音はギターを下ろした。 「何かある?」 「ない」 「別に、って言わないだけましだな」 「朱音に言われたくない」  真白は膝を抱えた。  麦が隣へ座ろうとすると、少しだけ距離を取る。  その動きを、遥は見逃さなかった。 「曲が嫌か」 「嫌じゃない。すごくいいと思う」 「なら何」 「……あたし、この曲にいていいのかなって」  朱音は意味が分からず、眉を寄せた。 「ドラム、お前しかいないだろ」 「そういうことじゃなくて」  真白は顔を上げた。 「これ、朱音と麦の歌でしょ。赤い傘も、パンも、帰り道も、全部二人の思い出。あたしが叩いてるの、二人の告白の後ろで拍子取ってるだけみたい」  麦が何か言いかけた。  真白はそれを遮った。 「二人がそういう関係なの、嫌じゃないよ。むしろ、やっとかって思ってる。でもリフレインが二人のものになったみたいで、ちょっと寂しい」  朱音の胸へ、真白の言葉が刺さった。  自分たちは、言わずに分かってほしいと互いに求めていた。  その隣で、真白にも同じことをさせていた。 「ごめん」  朱音が言うと、真白は慌てた。 「謝らせたいんじゃないって」 「でも、気づかなかった」 「だってあたしも言わなかったし」 「だからって、気づかなくていい理由にはならない」  遥が静かに頷いた。 「麦は?」  聞かれた麦は、膝の上で指を組んだ。 「あたしも、ごめん。朱音ちゃんに伝えることばっかり考えてた」 「ほら、また謝らせた」  真白は困ったように笑った。 「じゃあ、どうすればいい」  朱音が聞く。 「歌詞変える?」 「二人の歌じゃなくしたら、それも違うと思う」 「難しいな」 「人の気持ちは、だいたい難しいよ」  遥がベースをスタンドへ置いた。 「真白。お前はこの曲で何を叩いてる」 「何って、ドラム」 「そうじゃない。どんな気持ちで叩いてる」  真白は黙った。  床に置いたスティックを一本取り、指で転がす。 「二人に、ちゃんと帰ってきてほしい」 「どこへ」 「リフレインに」  真白は少しずつ言葉を探した。 「麦が神戸に行っても。朱音が寂しくて一人で先に進みそうになっても。二人とも、バンドに戻ってきてほしい。あたし、ここで待ってるっていうか……待つだけじゃなく、音出して呼びたい」  遥が譜面を指した。 「なら、そこを叩け」 「どうやって」 「今の二番、ドラムが歌詞に合わせすぎてる。もっと主張していい。二人の後ろを歩くな。四拍目で引き戻せ」  真白は譜面を見た。  鉛筆を取り、リズムを書き込む。 「サビ前、フィル増やしていい?」 「走らなければ」 「そこは頑張る」 「頑張るでは困る」 「遥先輩、厳しい!」  けれど真白の顔には、いつもの明るさが戻っていた。  麦が青いノートを開く。 「ブリッジも変えようか」 「歌詞?」 「うん。二人だけの帰り道じゃなくて、帰ってくる音のことを書きたい」  朱音は考えた。 「真白のドラム、いつも走るだろ」 「悪口?」 「違う。走ってるから、追いかければ戻れる」 「それ、褒めてる?」 「半分」 「半分かぁ」  遥が口元だけで笑った。 「残り半分は、私のベースで道を作る」 「先輩、格好いいこと言った」 「事実」 「自分で言うんだ」  四人は床へ座り、歌詞と構成を作り直した。  二人の思い出は消さない。  その代わり、二人だけでは続かなかった時間を入れる。  初めて四人で音を合わせた日。  真白がテンポを上げすぎて全員が笑った日。  遥が辞めると言い出した三人を、一晩かけて説得した日。  ライブで失敗し、帰り道に四人で泣いた日。  愛の歌は、恋の歌だけではなかった。  誰かを大切に思い、その人が自分の人生にいることを喜ぶ歌。  なら、リフレインの四人全員が、その中にいてよかった。 「できた」  真白が時計を見ると、休憩を始めてから一時間以上経っていた。 「練習時間、ほとんどなくなったね」 「明日、一時間早く集合」  遥が即座に言う。 「ええっ」 「気持ちを話すのも練習のうちだ。ただし、演奏は別に必要」 「現実が強い……」  四人は立ち上がった。 「一回だけ、やるぞ」  朱音がギターを構える。  麦がイントロを鳴らす。  真白は深呼吸し、スティックを握った。  四拍目。  今までより強いスネアが鳴った。  朱音の身体が、その音に引かれるように前へ出る。  麦のギターが応え、遥のベースが道を作る。  曲が変わった。  誰か一人に向けた歌が、誰か一人だけでは鳴らせない歌になった。  演奏を終えると、真白は満足そうに笑った。 「今の、帰ってきた感じした」 「どこから?」  麦が聞く。 「分かんない。でも、四人のところ」 「いいねぇ」 「歌詞にする?」 「ちょっと説明が難しいかも」 「麦に言われた!」  笑い声が、狭い練習場に響いた。  リフレインという名前を、朱音は初めて少し好きになった。  同じところを繰り返す。  それは停滞ではない。  離れても、迷っても、何度でも戻るための印だった。  第十一章 遥が置いていく低音  遥が卒業後、東京の大学へ進むつもりだと知ったのは、その三日後だった。 「聞いてない」  真白が叫んだ。 「今言った」 「そういう意味じゃないです!」  昼休みの音楽室。  遥は進路希望調査票を譜面台へ置いていた。第一志望には、都内の大学名が書かれている。音響工学を学べる学部だという。 「受かったら、四月から東京?」  麦が聞く。 「受かれば」 「何でみんな遠くに行くの!」  真白が机へ突っ伏した。 「朱音だけは残るよね?」 「何であたしに聞く」 「最後の砦だから」 「まだ何も決めてない」 「砦が崩れた!」  遥は騒ぐ真白を無視し、朱音へ譜面の束を渡した。 「リフレインの曲、全部まとめた。コード、構成、ライブごとの変更点。音源も共有フォルダに入れた」 「急に何」 「私がいなくても困らないように」  朱音は受け取らなかった。 「まだ半年以上あるだろ」 「あるうちにやる」 「縁起悪い」 「麦のときも同じことを言ったな」  遥は譜面を朱音の胸へ押しつけた。 「誰かがいなくなるたびに、バンドまで終わらせるな」 「終わらせるなんて言ってない」 「顔に書いてある」  朱音は譜面を抱えたまま、遥を睨んだ。 「遥は平気なの」 「何が」 「リフレイン辞めるの」 「辞めない」 「東京行ったら、今まで通りは無理だろ」 「今まで通りでなければ、辞めたことになる?」  朱音は言葉に詰まった。  遥は窓辺へ移動し、校庭を見下ろした。 「私は、同じ形を保つために音楽をやってるわけじゃない」 「じゃあ何のため」 「変わっていくものを、そのときの形で残すため」  遥は振り返る。 「ライブは一度しかない。同じ曲でも、同じ演奏にはならない。失敗も、誰かが抜けたことも、新しく入った音も、その日の曲になる」 「それで平気?」 「平気ではない」  遥は初めて、少し苦しそうに笑った。 「お前たちと毎週演奏できなくなるのは寂しい。真白が走るたびに止める人間がいなくなるのも不安」 「そこ、あたし限定ですか」 「特に」 「ひどい!」 「でも、寂しいから残る進路を選んだら、たぶん私はお前たちを嫌いになる」  真白が顔を上げる。 「何で」 「自分で選ばなかった理由を、誰かのせいにしたくなるから」  麦が静かに頷いた。 「分かる」 「だから行く。行った先で学ぶ。戻れるときは戻る。音源も送る。お前たちが続けるなら、ベースが必要なときは弾く」 「続けなかったら?」  朱音が聞く。 「怒る」 「勝手だな」 「先輩だから」 「理由になってない」  遥は朱音の抱えた譜面を指した。 「それは命令書だと思え」 「何の」 「続けろ、という」  朱音は譜面の表紙を見る。  黒いマーカーで、『REFRAIN SONG BOOK』と書かれている。遥らしい整った文字だった。  その下に小さく、四人の名前が並んでいる。 「先輩」  真白が鼻をすすった。 「泣くな。まだ卒業してない」 「泣いてないです」 「鼻水」 「冷房です」 「季節を考えろ」  麦が真白へティッシュを渡す。 「遥先輩、『余白』に先輩のことも増やしていい?」 「やめろ。恥ずかしい」 「大切な人へ、がテーマなので」 「なら音で入れろ。歌詞に名前を書くな」 「名前は最初から書かないよ」 「そういう意味ではない」  朱音は譜面を開いた。  一曲ごとに、遥の細かなメモがある。  朱音、二番で力む。息を残す。  麦、間奏は少し前へ。遠慮しない。  真白、サビで走る。ただし勢いは殺さない。  四人の音を、遥はずっと聞いていた。  注意ばかりに見えて、その実、誰より大事に記録していた。 「歌詞には入れない」  朱音が言う。 「でも、最後のサビ、ベースから始める」  遥が眉を上げた。 「なぜ」 「帰る道を作るの、遥だろ」  数秒の沈黙。  遥は眼鏡を押し上げた。 「悪くない」  麦が朱音を見る。  朱音も麦を見る。  二人同時に笑った。 「それ、かなり好き、の意味だよねぇ」 「誰がそんな翻訳を教えた」 「朱音ちゃん」 「教えてない」  遥は呆れたようにため息をついた。  けれど耳が少し赤かった。  その日、『余白』の最後のサビは、遥のベースから始まる形に変わった。  低い音が一本、暗い場所へ道を引く。  そこへ真白の四拍目が灯りをつけ、麦のギターが風を運び、朱音の声が誰かの名前を呼ぶ。  四人のうち、誰が欠けても同じ曲にはならない。  だからこそ、違う形でも続けられる。  その矛盾を、四人は音にした。  第十二章 花火の向こう側  八月十四日、港の夏祭りが開かれた。  音楽祭前に遊んでいる場合ではない、と遥は言ったが、真白が「一日くらい夏休みらしいことをしないと、演奏に夏が入りません」と主張した。  理屈になっていない。  けれど結局、四人で行くことになった。  朱音は紺色の浴衣を着た。  母が箪笥の奥から出してきたもので、赤い朝顔の模様が入っている。髪はいつもより高い位置でまとめ、赤いメッシュだけを耳の前へ残した。  待ち合わせ場所の神社へ着くと、真白が大声を上げた。 「朱音、浴衣!」 「見れば分かる」 「すごい、ちゃんとしてる!」 「普段はちゃんとしてないみたいに言うな」  遥は白地に藍色の浴衣。真白は黄色い金魚柄で、すでに綿あめを持っていた。  麦はまだ来ていない。 「遅い」  朱音がスマートフォンを見ると、メッセージが届く。  ――帯が反抗期。  ――何分。  ――五分。たぶん。  十分後、麦が石段の下に現れた。  淡い水色の浴衣に、小麦色の帯。髪の片側へ、小さな白い花の飾りをつけている。  ゆっくり石段を上がってくる姿を、朱音は黙って見ていた。 「お待たせ」  麦が目の前で止まる。 「朱音ちゃん、朝顔だ」 「お前は何」 「パン色」 「自分で言うな」 「似合う?」  麦は袖を広げた。  朱音は視線を逸らす。 「悪くない」  真白が口を押さえ、遥が眼鏡の位置を直した。  麦だけが平然と頷く。 「かなり好き、いただきました」 「浴衣の話だから」 「浴衣を着てるあたしの話だよねぇ」 「行くぞ」  朱音は先に歩き出した。  屋台が並ぶ参道は、人で溢れていた。  真白は射的に夢中になり、遥は金魚すくいで意外な才能を見せ、麦は端から順に食べ物を見て回った。 「焼きそば、たこ焼き、りんご飴、ベビーカステラ」 「全部食う気?」 「四人で分ければ、実質一人分」 「計算がおかしい」 「朱音ちゃん、あんず飴食べる?」 「いらない」 「じゃあ一口だけ」  麦は自分がかじった飴を朱音の口元へ持ってくる。 「ここでやるな」 「どこならいい?」 「そういう問題じゃない」 「二人とも、いつの間にそんな感じになったの?」  真白が聞いた。  朱音は麦を睨んだ。 「こいつが勝手に」 「あたし一人でこの感じは作れないよ」 「まだ何も決まってない」 「じゃあ、あたしが隣にいるの、嫌?」 「麦!」  真白の目が丸くなり、遥が咳き込んだ。  麦はあんず飴を舐めながら、首を傾げる。 「秘密だった?」 「そういう聞き方を人前でするな!」 「じゃあ、次から確認する」 「次がある前提で話すな」 「ないの?」  朱音は答えられなかった。  真白が両手で顔を覆う。 「待って、あたし今どんな顔すればいい?」 「普通でいい」  遥が言う。 「先輩、普通って何ですか」 「私も分からない」  四人でいると、恋愛らしい空気はすぐに笑いへ変わった。  それが朱音にはありがたかった。  大げさに祝われるのも、腫れ物のように扱われるのも嫌だった。  麦との関係は、まだ名前が定まっていない。  けれど名前がなくても、四人の中に置いておける。  花火の時間が近づくと、海沿いの広場へ人が集まった。  真白と遥は飲み物を買いに行き、朱音と麦は防波堤近くの階段へ座った。  夜の海は黒く、岸壁の灯りを細く揺らしている。 「来年は、ここにいないかも」  麦が言った。 「神戸にも花火くらいあるだろ」 「そうじゃなくて。この花火」 「見に来ればいい」 「試験とか、学校行事とか、重なるかも」 「じゃあ動画送る」 「朱音ちゃん、撮るの下手」 「真白に頼む」 「それなら安心」 「何の心配だよ」  打ち上げを知らせる放送が流れる。  周囲のざわめきが少し静まった。  一発目の花火が上がる。  腹へ響く音。  夜空に赤い光が開き、遅れて海面へ映る。  麦の横顔も赤く染まった。 「朱音ちゃん」 「何」 「離れたら、あたしたち変わるかな」 「変わるだろ」  麦がこちらを見る。 「即答」 「環境も会う回数も変わる。変わらないほうがおかしい」 「怖くない?」 「怖い」 「うん」 「でも、変わったらまた聞く。お前が何考えてるか」  花火が二つ、続けて開く。 「前は、聞かなかった」 「うん」 「今度は聞く。嫌な答えでも」 「うん」 「お前も聞け」 「聞いていい?」 「いい」  麦は少し笑った。 「じゃあ、今聞く」 「何」 「あたしに触りたい?」  朱音は咳き込んだ。 「何聞いてんだ!」 「嫌な答えでも聞く練習」 「場所考えろ!」 「花火で聞こえないよ」 「聞こえてるだろ、あたしには!」  麦は楽しそうに笑った。  朱音は周囲を確認する。誰も二人を見ていない。皆、空を見上げている。  花火が開くたび、暗闇と光が交互に訪れる。 「……触りたい」  朱音は小さく言った。 「どこに?」 「調子に乗るな」 「質問は具体的なほうが」  朱音は麦の手を取った。  指と指を絡める。 「今は、これ」  麦の手が握り返す。 「うん」 「不満?」 「かなり満足」 「じゃあ黙って見ろ」  二人は手をつないだまま、花火を見た。  真白と遥が戻ってきても、離さなかった。  真白は何も言わず、にやにやした。  遥は一度だけ二人の手を見て、海へ視線を戻した。  最後の花火は白かった。  夜空いっぱいに広がり、ゆっくりと消えていく。  消えるから美しい、とは朱音は思わなかった。  残らないものを、綺麗な言葉で諦めたくなかった。  消えたあとも、見た人の中には残る。  写真にも、歌にも、つないだ手の温度にも。  残し方は一つではない。 「麦」 「ん?」 「来年も見よう」  麦は少し驚いた。 「ずっと、じゃないんだ」 「まず来年。見られたら、その次も言う」 「現実的だねぇ」 「悪い?」 「ううん。好き」 「……あたしも」  最後の火の粉が、海の向こうへ落ちた。  第十三章 消された八小節  麦の編入試験には、自由作曲の課題があった。  三分以内の器楽曲。編成は自由。ただし、自分が演奏できる楽器を一つ以上含めること。  麦はギター二本、ベース、簡単な打ち込みのドラムで曲を作った。  仮タイトルは『東行き』。 「神戸、西だろ」  朱音が言う。 「この町から見たら東寄りの気持ち」 「気持ちに方角あるの」 「あるよぉ。寂しいは夕方の西。新しいものは朝の東」 「じゃあ神戸はどっち」 「今は、両方」  練習場のパソコンで音源を再生する。  静かなギターから始まり、途中でリズムが加わる。知らない町へ歩く不安と期待が、交互に顔を出すような曲だった。  朱音は最後まで聴き、もう一度再生した。 「悪くない」 「かなり好き?」 「うん」  素直に答えると、麦は目を丸くした。 「最近、翻訳いらなくなってきたねぇ」 「でも、一か所変」 「どこ?」 「二分過ぎ。急に薄くなる」  麦は画面へ目を戻した。  波形の一部が、他より小さい。 「休むところ」 「違う。消しただろ」 「何を?」 「ギター」  麦は答えなかった。  朱音はマウスを取り、プロジェクトの履歴を開いた。  自動保存された以前の版が並んでいる。 「勝手に見ないで」 「共有パソコン」 「課題は共有じゃない」 「じゃあ何でここで作ってる」  朱音は前日のデータを開いた。  消された八小節には、二本目のギターが入っていた。  朱音が普段使う歪んだ音に近い。  旋律も、朱音が作りそうな直線的なフレーズだった。 「これ、何で消した」 「課題はあたしの曲だから」 「お前が作っただろ」 「朱音ちゃんっぽすぎる」 「それで?」 「神戸へ持っていく曲に、朱音ちゃんを入れすぎたくなかった」  朱音は麦を見る。 「何で」 「一人で行く練習」  麦の声は静かだった。 「向こうで、朱音ちゃんがいないと曲を作れないって思われたくない。あたし自身も、そう思いたくない」 「だから消した?」 「うん」 「馬鹿じゃないの」  麦の眉がわずかに動いた。 「何で」 「お前の中にあたしがいることと、お前一人で何もできないことは別だろ」 「でも」 「あたしっぽい音を、お前が選んで作ったなら、それはお前の曲だ」 「審査する人には分からない」 「分からなくていい。お前が分かってれば」  麦は椅子の背へ身体を預けた。 「朱音ちゃんは、怖くないの?」 「何が」 「あたしの中に朱音ちゃんがいること。重くない?」  朱音は少し考えた。 「重い」  麦が目を伏せる。 「でも、重いから捨てるのは違う」 「……遥先輩みたいなこと言う」 「影響された」 「朱音ちゃん、あたしが神戸で一人でも平気になったら、寂しくない?」 「寂しい」 「必要とされなくなったら?」 「腹立つ」 「正直だねぇ」 「でも、お前が一人で平気なのと、あたしを好きなのは別だろ」  麦は顔を上げた。 「一人で立てるやつ同士が、一緒にいたいって選ぶほうがいい」  自分で言いながら、朱音は不思議な気持ちになった。  以前なら考えもしなかった言葉だった。  麦がいなくても生きていける。  自分がいなくても麦は生きていける。  それは寂しい。  けれど、そのうえで互いを選べるなら、必要だから縋るより強い気がした。 「八小節、戻せ」 「命令?」 「提案」 「朱音ちゃん、提案できるんだ」 「殴るぞ」 「戻したら、ギター弾いてくれる?」 「課題はお前が弾け」 「仮音源だけ」 「……いいよ」  麦は以前のトラックを復元した。  朱音はギターをつなぎ、八小節を弾く。  最初は麦が作った譜面通りに。  二回目は少し変えた。  最後の一音を伸ばさず、次の麦のフレーズへ渡す形にした。 「今の」 「嫌?」 「ううん。もう一回」  三回録った。  麦は一番目と三番目を重ね、左右へ振り分けた。  朱音の音が二つに分かれ、その中央を麦のギターが進んでいく。 「一人で行く曲じゃなくなったね」  麦が言う。 「一人で演奏するだろ」 「でも、音は一人じゃない」 「お前の中にあるなら、お前の音だ」  麦は完成した波形を見た。 「これ、『余白』と逆かも」 「何が」 「『余白』は、あたしが始めた曲を朱音ちゃんが歌う。これは朱音ちゃんの音を、あたしが持っていく」 「返せとは言わない」 「うん。返さない」  麦はファイルを保存した。  タイトル欄の『東行き』を消し、新しい文字を入力する。  『持っていく音』。 「ださくない?」  朱音が言う。 「朱音ちゃんに言われた」 「『余白』よりはまし」 「『余白』、正式タイトルにしようと思ってるよ」 「まだ言うか」 「朱音ちゃん、もう頭の中でそう呼んでるでしょ」  図星だった。 「……試験、これで出すの」 「うん」 「絶対受かれ」 「落ちたら?」 「そのときは、あたしが審査員に文句言う」 「頼もしいけど、出入り禁止になりそう」 「じゃあ受かれ」 「頑張る」 「全部出してこい」 「うん」  麦は青いノートを開き、『余白』の最後のページへ何かを書いた。 「また秘密?」 「これは、試験が終わったら見せる」 「増えた」 「秘密はパンみたいに、発酵すると膨らむので」 「腐る前に言えよ」 「大丈夫。ちゃんと焼く」  朱音には意味が分からなかった。  けれど今度は、待つことにした。  待つことは、何もしないことではない。  相手が戻ってこられる場所を、自分の手で整え続けることだ。  朱音はギターを構え直した。 「『余白』、合わせるぞ」  麦が笑う。 「今、タイトル言ったね」 「仮だ」 「録音しとけばよかった」 「早く弾け」  二人のギターが鳴る。  持っていく音と、残していく音。  どちらも同じ場所から生まれ、違う方角へ伸びていった。  第十四章 言葉のリハーサル  音楽祭まで一週間を切ったころ、朱音は歌えなくなった。  喉を痛めたわけではない。  音程も出る。声量もある。  けれど最後のサビだけ、どうしても声が硬くなった。 「もう一回」  朱音は言った。 「今ので五回目」  遥が時計を見る。 「同じやり方で繰り返しても悪化する。休め」 「まだできる」 「できるかどうかではなく、やる意味があるかを考えろ」  真白も心配そうにスティックを置いた。 「朱音、歌詞が嫌になった?」 「違う」 「麦がいなくなるの、やっぱり」 「違うって」  朱音はペットボトルの水を飲んだ。  自分でも原因は分かっていた。  最後のサビには、朱音が書いた言葉がある。  ――ずっと大事にする。  たったそれだけ。  歌としては珍しい言葉でもない。  けれど口にするたび、父の声が蘇った。  ずっと一緒だ。  次の休みには海へ行こう。  守られなかった言葉。  朱音は、同じことを麦へしてしまうのが怖かった。 「歌詞、変える?」  麦が聞いた。 「変えない」 「無理に歌わなくていいよ」 「お前が書きたかったんだろ」 「朱音ちゃんが苦しいなら、別の言い方を探す」 「逃げたくない」  声が強くなった。  麦は少し黙り、ギターを置いた。 「じゃあ、歌う前に言ってみよっか」 「何を」 「歌詞」 「今歌ってるだろ」 「メロディなしで。あたしに言って」  朱音は周囲を見る。  真白と遥がいる。 「ここで?」 「二人きりがいいなら、外行く?」 「そういう問題じゃない」 「歌では何百人の前で言うよ」  正論だった。  朱音はマイクをスタンドへ戻した。  麦の前に立つ。 「言えばいいんだな」 「うん」  朱音は息を吸った。 「ずっと大事にする」  やはり喉が硬くなる。  麦は首を傾げた。 「誰を?」 「お前」 「いつまで?」 「ずっと」 「ずっとって、何年?」 「知らない」 「明日、気持ちが変わったら?」 「変わらない」 「絶対?」 「……分かんない」  麦は頷いた。 「じゃあ、それでいいよ」 「よくない。歌詞と違う」 「違わないと思う」 「ずっとって言ってるだろ」 「未来の全部を保証する言葉じゃなくて、今の朱音ちゃんが、未来へ向かって持ってる気持ちでしょ」 「でも、守れなかったら」 「そのときは、あたしが傷つく」  麦は静かに言った。 「朱音ちゃんも傷つく。二人で困る」 「それでいいのか」 「よくはない。でも、傷つく可能性をなくすために、今の気持ちまでなかったことにされたくない」  父と母の話を思い出す。  父は、一人で片づけようとして逃げた。  母と朱音から、困る権利を奪った。  朱音も同じことをしかけている。  未来の麦を守るつもりで、今の麦が受け取りたい言葉を渡さない。 「怖い」  朱音は言った。 「うん」 「言ったあと、できなかったら。お前があたしを嫌いになったら」 「うん」 「それでも言ってほしい?」 「言ってほしい」 「何で」 「今の朱音ちゃんが、あたしを大事にしたいって思ってること、知りたいから」  麦は一歩近づいた。 「未来の朱音ちゃんが変わったら、そのとき聞く。どうして変わったのって。あたしも変わってるかもしれないし」 「簡単に言うな」 「簡単じゃないよ」  麦の声も少し震えていた。 「あたしだって怖い。神戸に行って、朱音ちゃんがいない毎日に慣れるのも。朱音ちゃんが、あたしがいないバンドに慣れるのも」  真白が小さく鼻をすすった。  遥が無言でティッシュを渡す。 「でも、慣れることと忘れることは違うって信じたい」  麦は朱音の手を取った。 「だから、今言えることを言おう」  朱音はその手を握った。  目を逸らさず、もう一度言う。 「麦を、ずっと大事にしたい」  今度は、言葉を少し変えた。  断言ではなく、意志として。  未来を所有するのではなく、未来へ向かう自分の願いとして。  麦の目が柔らかくなる。 「あたしも。朱音ちゃんを、ずっと大事にしたい」  胸の奥の結び目が、少しほどけた。 「歌詞、変えよう」  朱音が言う。 「『する』じゃなくて、『したい』に」 「弱くならない?」  真白が聞く。 「逆だ」  遥が答えた。 「できるか分からなくても、望み続ける言葉のほうが強い」  麦は青いノートを書き直した。  ――ずっと君を大事にしたい。  朱音はマイクの前へ戻った。 「もう一回」 「今度は一回だけ」  遥が念を押す。  イントロが始まる。  朱音は歌った。  最後のサビ。  声は震えた。  けれど硬くはなかった。  震えたまま、前へ届いた。  演奏が終わる。  真白がスティックを掲げた。 「今の、すごくよかった!」  遥も頷く。  麦は何も言わず、朱音を見ていた。 「何」 「本番でも、あたし見て歌ってね」 「客席見ろって先生に言われてる」 「あたし、右にいるよ」 「分かってる」 「じゃあ、たまにでいい」 「……見る」 「百点」 「また採点」 「本番は二百点目指そっか」 「上限、増えてるだろ」  笑いながら、四人は片づけを始めた。  言葉にもリハーサルがいる。  初めて口にした言葉は震え、音を外し、思った形にならない。  それでも何度か言い直せば、自分の声になる。  朱音はようやく、愛を歌う準備ができた気がした。  第十五章 半分ではないパン  音楽祭の三日前、月舟ベーカリーは臨時休業になった。  休みではない。  店の奥に、リフレインの四人が集められていた。 「音楽祭に出る高校生へ、差し入れを作る」  澄江は白い調理帽を四つ並べ、宣言した。 「何であたしたちが?」  朱音が聞く。 「青春の費用は身体で払ってもらいます」 「言い方が怖いです」  真白が帽子をかぶる。 「会場のスタッフさんにもお世話になるだろ。百個くらい焼けば足りる」 「百?」 「小さい丸パン。中にあんこかクリーム。簡単簡単」  澄江は腕をまくった。  麦だけが嬉しそうだった。 「パン作り放題」 「食べ放題ではないからね」 「試食係も必要だと思う」 「一個まで」 「職人は厳しいなぁ」  四人は二組に分かれた。  遥と真白が生地を量り、朱音と麦があんことクリームを包む。 「丸くならない」  朱音の手元で、生地がいびつに伸びた。 「力入りすぎ」  麦が隣から手を伸ばす。 「こうやって、縁を寄せて」  朱音の指の上へ、麦の指が重なる。 「人前」 「パン作り指導です」 「顔が近い」 「細かいところ見ないと」  向かい側で、真白が遥へ小声で言った。 「先輩、あれ注意しなくていいんですか」 「生地に異物が入らなければ」 「基準が食品衛生だけ」  朱音は麦の手を振りほどき、生地を丸めた。  形は少し歪んでいる。 「できた」 「朱音ちゃんっぽい」 「どこが」 「不器用に閉じてる」 「パンに性格診断すんな」  麦は自分の生地を見せた。  綺麗な丸ではなく、片側だけ膨らんでいる。 「お前のも失敗だろ」 「これは個性」 「便利だな、その言葉」 「焼いたらだいたい丸くなるよ」  オーブンへ入れる前のパンは、どれも少しずつ違った。  真白のものは大きさが揃わず、遥のものは測ったように均一で、麦のものは中身を入れすぎて膨らんでいる。朱音のものは閉じ目が固く、表面に指の跡が残っていた。 「売り物にならなかったら、あたしが全部食べるよ」 「一番働いてない人が得する仕組みになってる」  真白が言う。 「廃棄をなくす社会貢献です」 「麦、口より手」  澄江に叱られ、麦は素直に次の生地を取った。  昼過ぎ、最初の百個が焼き上がった。  店内に甘い匂いが満ちる。  鉄板の上で、丸パンが艶のある焼き色をつけて並んでいた。  不格好だった生地も、焼けばそれなりに見える。  ただし麦のパンの一つは、中のクリームが横から飛び出していた。 「自由を求めたクリーム」 「包み方が甘かっただけ」 「クリームにも行きたい場所があるんだよ」 「神戸に重ねるな」  澄江は形の悪いものを試食用の籠へ分けた。  四人は店のカウンターに並び、焼きたてを一つずつ食べた。  朱音のパンはあんこだった。  半分に割ると、湯気が上がる。 「麦」 「ん?」 「半分」  差し出す。  麦は自分のクリームパンを見た。 「あたしもあるよ」 「交換」 「なるほど。二種類食べたい作戦」 「嫌ならいい」 「嫌じゃない」  二人は互いのパンを半分ずつ交換した。  大きさは揃っていない。  朱音が渡したあんパンのほうが少し大きく、麦が渡したクリームパンは中身が多かった。 「半分じゃないねぇ」  麦が言う。 「切り方の問題」 「十年前もそうだった」 「覚えてない」 「朱音ちゃんは、いつも大きいほうくれる」 「偶然」 「じゃあ今日は、あたしのほうがクリーム多いから同じくらい」 「何を測ってるんだよ」 「愛情の重量」 「パンに換算すんな」  遥と真白は、聞こえないふりをしていた。  澄江だけが笑った。 「半分こって、同じ大きさにすることじゃないよ」  朱音が見る。 「じゃあ何」 「自分の持ってるものを、相手にも食べてほしいと思うこと」 「叔母さん、今日は詩人だねぇ」 「パン屋は毎日、生地の機嫌を読んでるからね。詩くらいできる」  澄江は包装用の袋を取り出した。 「麦。お母さんから電話あったよ。今夜、少し遅くなるって」 「うん」 「引っ越しの荷物、明日から詰めるんだろ」 「たぶん」 「たぶんじゃ進まない。服からやりな」  麦の笑顔が、少しだけ曇った。  朱音には分かった。  神戸へ行くことを決めても、今の部屋を箱に詰めるのは別の寂しさなのだ。 「手伝う」  朱音が言う。 「明日、練習あるよ」 「終わってから」 「朱音ちゃんの家、逆方向」 「知ってる」 「時間もったいない」 「また言う?」  麦は少し黙り、首を横に振った。 「もったいなくない」 「じゃあ決まり」  包装が終わるころには、外が夕方の色になっていた。  真白と遥が先に帰り、朱音と麦は店の掃除を手伝った。  床へ落ちた小麦粉を箒で集める。  白い粉の上に、二人の足跡が残っている。 「ここも、なくなるのかな」  麦が言った。 「店はなくならないだろ」 「毎日寄ること」 「なくなる」 「即答だねぇ」 「なくならないって言って、なくなったら嫌だろ」 「うん」 「でも、帰ってきたら寄る」 「毎回?」 「たぶん」 「絶対は?」 「パン屋に絶対は重い」 「愛より軽そうなのに」 「お前が毎回食いすぎるから重い」  麦が箒を止めて笑った。 「朱音ちゃん、変わったね」 「何回目だよ」 「前は、なくなるって言わなかった」 「そうだな」 「なくなること、怖くない?」 「怖い。でも、なくなるって言えるほうがまし」  朱音は足元の粉を集めた。 「なくなるものを、なくならないふりして雑にするより。終わるかもしれないって知ってるほうが、今をちゃんと見られる」 「今日のパンみたい」 「どういう意味」 「今日焼いた分は、今日しか食べられない。明日も同じ材料で作れるけど、同じパンじゃない」 「だから百個も食うなよ」 「食べません」 「今、籠から一個取っただろ」 「掃除で消費した分」 「返せ」  麦はパンを背中へ隠した。  朱音が取り返そうと近づく。  狭い店内で、二人は棚の間を回った。 「子どもか!」  奥から澄江の声が飛ぶ。  二人は同時に止まり、顔を見合わせて笑った。  変わることばかり考えていた夏の中で、その瞬間だけは十年前と何も変わらなかった。  パンを半分にする。  同じ道を歩く。  くだらないことで笑う。  いつか終わるとしても、今日あったことは消えない。  朱音は麦からパンを取り上げ、半分に割った。 「ほら」 「また大きいほう?」 「今日は小さいほう」 「成長したねぇ」 「お前が食いすぎだから」  二人は閉店後の店で、最後の試食をした。  焼きたてではなくなっていたが、まだ少し温かかった。  第十六章 空白の音源  麦が神戸へ出発する前夜、四人は音楽室で最後の通し練習をした。  最後、と呼ぶと真白が泣きそうになるので、「試験前の最終確認」と遥が言い換えた。  けれど全員、分かっていた。  麦が編入試験に合格すれば、四人が毎日同じ学校で練習するのはこれが最後になる。  午後六時。  校舎にはほとんど人が残っていない。  窓の外で、空が青から紫へ変わっていく。 「録音する」  遥がノートパソコンを机へ置いた。 「音楽祭用のバックアップ?」  真白が聞く。 「それもある。あと、今の演奏を残す」 「先輩、そういうの好きですよね」 「記録は裏切らない」 「演奏のミスも残りますけど」 「だから裏切らない」  マイクを配置し、簡単な録音環境を作る。  四人は一度だけ、『余白』を最初から最後まで演奏した。  真白は二番で少し走った。  遥は間奏の一音を外した。  麦のギターには、弦を擦る音が入った。  朱音は最後の言葉で、わずかに息を切らした。 「もう一回」  朱音が言う。 「しない」  遥は録音を止めた。 「今のが今日の曲だ」 「ミスあるだろ」 「本番用の練習は明日もする。これは残すための録音」  真白が再生ボタンを押した。  スピーカーから、自分たちの音が流れる。  完璧ではない。  けれど、四人が互いの音を聞きながら進んでいることは分かった。  誰かが少し早くなれば、誰かが追い、誰かが足元を戻す。  麦のギターが朱音の声へ寄り添い、朱音の声が麦の音を前へ連れていく。 「いいね」  真白が言った。 「ミスあるけど」 「ミス込みで」  麦が頷く。 「持っていっていい?」 「当然」  遥は音源を共有フォルダへ保存した。  ファイル名は、『余白_0826_四人』。 「日付入れるんだ」  朱音が言う。 「同じ曲が増えるから」 「完成版は?」 「作らない」 「何で」 「完成したと思った瞬間から、直す場所を探さなくなる」  遥は四人分の小さなUSBメモリを机へ置いた。 「一人一つ。過去のライブ音源と、今のデモが入ってる」 「卒業記念みたい」  真白がまた泣きそうになる。 「まだ卒業しない」 「分かってます!」  麦は青いUSBを受け取った。 「神戸で寂しくなったら聞く」 「寝るなよ」  朱音が言う。 「朱音ちゃんの声、よく眠れそう」 「子守歌じゃない」 「安心するって意味」 「……ならいい」  片づけが終わり、真白と遥が先に帰った。  朱音と麦は、窓を閉める係を引き受けた。  音楽室に二人だけになる。  机の上には、録音に使ったパソコンがまだ残っていた。 「朱音ちゃんに、もう一個ある」  麦がUSBメモリを差し込む。  フォルダの中から、『空白』というファイルを開いた。  再生する。  最初に、麦のギターが短いコードを鳴らした。  そのあと、何もない時間が続く。  十秒。  二十秒。  一分。  三分ほどで、再び同じコードが鳴り、音源は終わった。 「何これ」 「空白」 「見れば分かる」 「神戸に行ってから、あたしが一曲作る。朱音ちゃんも、この空白に一曲作って」 「別々に?」 「うん。長さだけ同じ。三分二十二秒」 「何のため」 「離れたら、同じ時間に何を作るか知りたい」  麦は画面の波形を指した。 「一か月後に交換する。相手の曲を聞くまで、自分のは聞かせない」 「『余白』の続きじゃないの」 「続きでもいいし、全然違ってもいい」 「テーマは」 「なし」 「難しいな」 「朱音ちゃん、テーマあると文句言うでしょ」 「なくても文句言う」 「知ってる」  朱音は空白の音源を自分のスマートフォンへコピーした。  何も鳴っていない三分二十二秒。  それなのに、すでに麦から渡された曲のように感じた。 「最初と最後のコード、何」 「教えない」 「耳で分かる」 「じゃあ聞かなくていいでしょ」 「確認」 「自分で考えて」  麦はパソコンを閉じた。  二人で音楽室を出る。  廊下の電気は半分消えていた。  階段を下りる途中、麦が立ち止まる。 「朱音ちゃん」 「何」 「明日、駅まで来る?」 「行く」 「朝早いよ」 「知ってる」 「起きられる?」 「お前に言われたくない」 「寝坊したら、待たないよ」 「試験に遅れるから待つな」 「寂しくない?」 「寂しい」  即答すると、麦が少し笑った。 「最近、ほんと上手」 「練習したから」 「誰と?」 「お前と」  階段の踊り場。  窓から、夕方の最後の光が入っていた。  麦は一段下にいる。  朱音と目線の高さがほとんど同じになる。 「手、つないでいい?」  麦が聞いた。 「聞くんだ」 「人に言う前に確認するようになりました」 「意味が違う」 「嫌?」 「嫌じゃない」  麦の手が、二人の間で少しだけ持ち上がる。  けれど朱音は、その手が届くのを待たなかった。  自分から指先を重ねる。  麦の指が、確かめるようにゆっくりと絡んだ。  階段のどこかで、古い蛍光灯が小さく鳴っている。  麦はつないだ手を見たまま、目を細めた。 「寝た?」 「覚えてる」 「何を」 「朱音ちゃんの手の温度」 「大げさ」 「明日から離れるので」  朱音は答えず、絡んだ指へ少し力を込めた。 「残りは帰ってきてから」 「利息つく?」 「つけない」 「交渉します」 「却下」  二人は階段を下りた。  校門を出ると、帰り道はいつもと同じだった。  川沿いの風。  月舟ベーカリーの青い庇。  別れ道の街灯。  明日から、この普通はなくなるかもしれない。  朱音は歩く速度を少し落とした。 「麦」 「ん?」 「空白の曲、絶対作れよ」 「うん」 「忙しいとか言って逃げるな」 「朱音ちゃんも」 「作る」 「約束?」  朱音は少し考えた。 「約束」  麦は嬉しそうに頷いた。 「破ったら?」 「もう一回決める」 「いいねぇ」  二人は別れ道で止まった。  いつもなら、また明日、と言う。  明日も会う。  けれど明日の朝、麦は試験へ向かう。帰ってくる時刻は台風次第。音楽祭のあとには、合格発表と引っ越しが待っている。  同じ明日は、もうない。 「また明日」  麦が言った。 「うん。また明日」  朱音も答えた。  同じではない明日に、また会うための言葉だった。  第十七章 八月二十七日の雨  編入試験の日、朝から雨が降っていた。  台風十二号は当初の予報より東へ進路を変え、神戸を含む近畿地方へ近づいていた。 「絶対、帰ってこいよ」  駅の改札前で、朱音は言った。 「台風にも頼んでみる」  麦はギターケースと旅行鞄を持っていた。試験は午後までかかり、帰りの電車に間に合わなければ一泊する予定になっている。  音楽祭は翌日の午後三時。  通常なら十分に帰れる。  通常なら。 「無理なら早く連絡しろ」 「うん」 「試験中に寝るな」 「善処します」 「するなよ」 「寝ないほうを?」 「当たり前だろ」  麦は笑った。  改札の向こうで、電車の到着を告げる音が鳴る。 「じゃあ、行ってきます」 「麦」 「ん?」  朱音は何か言おうとした。  頑張れ。  待ってる。  好きだ。  どれも喉まで来て、混ざった。 「……全部、出してこい」 「試験に?」 「お前が作ってきたもの。遠慮すんな」  麦は少し驚いたあと、頷いた。 「うん。朱音ちゃんも明日、全部歌ってね」 「お前が帰ってきたらな」 「帰れなくても」 「帰ってこい」 「分かった。帰りたい」  麦は改札を通った。  人の流れの中で一度振り返り、手を振る。  朱音は見えなくなるまで、その場に立っていた。  午前十時、雨脚が強くなった。  正午、台風は速度を落とした。  午後二時、神戸方面の一部路線に遅れが出始めた。  午後四時十二分、麦からメッセージが届いた。  ――試験終わった。寝なかった。えらい。  朱音はすぐ返信した。  ――当たり前。どうだった。  ――全部出した。たぶん。  ――帰りの電車は。  返事が来るまで五分かかった。  ――運転見合わせ。  朱音は音楽室でスマートフォンを握りしめた。  真白と遥が、画面を覗く。 「再開予定は?」  遥が聞く。 「未定」 「明日の午前中には動くかも」  真白が言った。 「台風、夜には抜ける予報だし」  朱音は麦へ電話をかけた。  数回の呼び出し音のあと、つながる。 『もしもし』  雑踏の音が聞こえる。 「今どこ」 『駅。人いっぱい。パン屋もいっぱい』 「パン屋の状況は聞いてない」 『大事だよ。夕飯がかかってる』 「泊まる場所は」 『母さんの会社がホテル取ってくれるって』 「明日、朝一で戻れそうか」  少し間があった。 『分かんない』 「……そうか」 『ごめん』 「謝るな。台風のせいだろ」 『でも、あたしが今日を選んだ』 「試験日は選べないだろ」 『編入試験を受けることは選んだ』  朱音は目を閉じた。  また麦が、自分の気持ちを軽くしようとしている。  罪悪感という形で、勝手に全部背負おうとしている。 「麦」 『うん』 「明日、間に合わなくても演奏する」  電話の向こうが静かになった。 「お前がいない編曲も作った。あたしたち三人でも出る」 『うん』 「でも、曲はお前のだ」 『みんなのだよ』 「お前が最初に鳴らした。お前に向けて書いた。だから、どこにいても聞け」 『……うん』 「ライブ配信、真白が調べてる」 「任せて!」  横から真白が声を張る。 『真白ちゃん聞こえた』 「じゃあ、あたしが間違えても笑うなよ」 『朱音ちゃん、間違えるの?』 「例えだ」 『笑わない。たぶん泣く』 「泣くな」 『無理かも』  朱音は窓を見た。  雨粒がガラスを激しく叩いている。 「帰ってきたら、もう一回やる」 『二回も愛を歌ってくれるんだ』 「タイトル、まだ正式に決めてない」 『あたしは決めてるよ』 「勝手に決めんな」 『朱音ちゃんも、覚えてるでしょ』  否定できなかった。 『朱音ちゃん』 「何」 『明日、言いたかったことがある』 「秘密のやつか」 『うん』 「帰ってから言え」 『言えなくなるかもしれない』 「言え」 『今?』 「違う。帰ってから、絶対言え」 『絶対、嫌いじゃなかった?』 「今は使いたい」  麦が息を呑む音がした。  しばらくして、小さく笑う。 『じゃあ、絶対言う』 「待ってる」 『うん。あたしも、明日の歌を待ってる』  電話が切れた。  朱音はスマートフォンを胸元へ押し当てた。  不安は消えない。  麦がいないステージを想像すると、足元がなくなるようだった。  けれど逃げる気はなかった。  待つと決めた。  歌うと決めた。  言葉だけでは未来を守れない。  だから、その言葉に追いつくように行動する。  それが今の朱音にできる、約束の形だった。  第十八章 余白  八月二十八日。  台風は朝には海上へ抜けたが、鉄道の復旧は遅れていた。  午前七時。  ――まだ動いてない。  午前九時。  ――一部再開したけど、すごい列。  午前十一時。  ――乗れた。途中で止まらなければ、二時半くらい。  音楽祭の会場は、市立第二高校の体育館だった。  リフレインの出演は午後三時十分。  駅から会場までは、走っても二十分以上かかる。  午後一時、麦の乗った電車は途中駅で停止した。  線路点検。  再開時刻は未定。 「三人でやる」  朱音は言った。  控室で、真白がスティックを握り直し、遥がベースのチューニングを確認する。  誰も反対しなかった。  麦のギターが担うフレーズは、朱音が一部を弾く。残りは遥のベースと真白のリズムで空白を埋める。  けれど、完全には埋めない。  麦の音がある場所を、空いたまま残す。 「客席の席、どうする?」  真白が聞いた。  出演者用に確保していた最前列の端の席。麦が間に合えば、演奏開始までそこへ座る予定だった。 「残す」 「誰か座っちゃわない?」 「スタッフに頼む」  遥が言った。 「空席も演出になる」 「演出じゃない」  朱音は即座に返した。 「麦の席だ」  午後三時八分。  前のバンドの演奏が終わった。  舞台袖から、体育館いっぱいの客席が見える。  家族、友人、生徒、地域の人。窓の外には雨上がりの光が差し始めていた。  朱音のスマートフォンが震える。  ――まだ電車。配信見る。歌って。  朱音は短く返した。  ――聞け。  ステージへ出る。  拍手が起きる。  照明が熱い。  掌は汗ばんでいる。  左に遥。後ろに真白。右側には、いつもなら麦がいる。  そこだけが空いている。  最初の二曲を終えた。  三人編成の音は、普段より硬く、荒かった。けれど弱くはなかった。  真白のドラムが前へ進ませ、遥のベースが足元を支え、朱音の声が空白を切り裂いた。  そして、最後の曲。  朱音はマイクを握る。 「まだ、ちゃんと完成したとは思ってません。たぶん、これから何年歌っても完成しない。だから今日は、今のあたしたちが歌えるところまで歌います」  客席の最前列。  端の席だけが空いている。 「この曲は、一番長くそばにいて、一番言葉にしなかった人に向けて書きました」  喉が震えそうになる。  朱音は一度、息を吸った。 「タイトルは、『余白』」  最初のコードを鳴らした。  麦のアルペジオはない。  代わりに、朱音が一本ずつ弦を鳴らす。  不器用で、少し硬い。  それでも、一音もごまかさなかった。  一番の歌詞は、雨の日から始まった。  赤い傘の下で、名前もろくに知らない少女へ半分のパンを渡したこと。  その半分が、本当は半分ではなかったこと。  何気ない選択が、十年先まで続く道の始まりになったこと。  朱音は歌った。  当時の自分は、誰かを救ったつもりなどなかった。  けれど麦は、その日を何度も覚えていてくれた。  覚えていてくれる人がいることで、過去の自分まで少し救われる。  二番は、毎日の歌だった。  朝の眠そうな顔。  購買のパン。  同じ帰り道。  悪くない、の一言に隠した喜び。  うるさい、の一言に隠した安心。  近くにいるからこそ見落とした、小さな優しさ。  歌詞の中で、朱音は初めてそれらへ名前をつけた。  ありがとう。  嬉しかった。  救われた。  そばにいてほしかった。  音に乗せると、不思議なほど言えた。  普段なら恥ずかしくて飲み込む言葉が、メロディの中ではまっすぐ前へ進んでいく。  客席の誰かではなく、電車の中で画面を見ている一人へ向かって。  間奏に入る。  本来なら麦のギターソロがある場所だった。  朱音は弾かなかった。  遥も真白も、音数を減らした。  体育館に、四小節分の空白が生まれる。  完全な無音ではない。  ドラムのハイハットが小さく時を刻み、ベースの低音が遠くに残る。  そこへ、いない麦の音を誰もが想像できるように。  朱音は空いた右側を見た。  いつものように、麦が眠そうに笑っている気がした。  四小節目の終わり、朱音はギターを強く鳴らした。  最後のサビ。  未来の歌。  離れないとは歌わなかった。  変わらないとも歌わなかった。  代わりに、離れても探すと歌った。  変わっても、何度でも知り直すと歌った。  約束が破れることを恐れて黙るのではなく、破れたらもう一度結び直すと歌った。  そして最後に、麦が書いた言葉を、朱音が少しだけ変えて歌った。  君が帰る場所になれるなら、  あたしはここで歌っている。  君が帰らない道を選んでも、  この歌だけは、君を責めない。  それは朱音にとって、最も難しい愛の形だった。  帰ってほしい。  そばにいてほしい。  それでも、麦が選ぶ未来を責めたくない。  矛盾した気持ちを、矛盾したまま歌った。  最後の音が消える。  一瞬、体育館は静まり返った。  そのあと、大きな拍手が押し寄せた。  朱音は頭を下げた。  顔を上げたとき、最前列の空席はまだ空いていた。  けれど、寂しいだけの空席ではなかった。  帰ってくる人のために残した場所だった。  舞台袖へ戻ると、真白が泣いていた。 「何でお前が泣くんだよ」 「だって、朱音があんな歌い方するから!」 「真白、鼻水」  遥がティッシュを渡す。 「遥先輩も目、赤いですよ」 「照明」 「絶対違う」  朱音のスマートフォンが震えた。  麦からの着信。  すぐに出る。 「聞いた?」 『うん』  麦の声は、ひどく震えていた。 「泣いてんの」 『泣いてない』 「嘘つけ」 『電車の冷房が目に』 「遥と同じ言い訳すんな」  電話の向こうで、麦が笑った。 『朱音ちゃん』 「何」 『ありがとう』 「うん」 『好き』  朱音は周囲を見た。  真白と遥が、露骨に聞き耳を立てている。  背を向け、声を落とした。 「あたしも」 『聞こえない』 「あたしも、好き」  言った。  歌ではなく、自分の声で。  電話の向こうが静かになる。 「何か言えよ」 『録音したかった』 「切るぞ」 『待って待って。今、駅着いた』 「どこの」 『そっちの』  朱音は時計を見る。  演奏が終わってから十分も経っていない。 「嘘。さっき電車って」 『会場まで走る。十五分』 「走るな。転ぶ」 『じゃあ早歩き』 「二十分で来い」 『待ってて』 「待ってる」  電話を切った。  朱音はステージ衣装のまま体育館の外へ出た。  雨上がりの空は明るく、校庭には大きな水たまりができている。  校門の前で待つ。  五分。  十分。  十五分。  二十二分後、道の向こうに麦が現れた。  髪は乱れ、肩で息をし、ギターケースを背負ったまま歩いている。早歩きと言いながら、ほとんど走ったのだろう。  朱音は駆け寄った。 「遅い」 「二十分は、ちょっと無理だった」 「走るなって言っただろ」 「早歩きです」 「息切れてる」 「感動で」 「嘘つけ」  麦は笑った。  その目は赤かった。 「生で聞きたかったなぁ」 「帰ってきたら、もう一回やるって言った」 「うん」 「今やる?」 「今?」 「ギターあるだろ」  朱音は麦の背中のケースを指した。 「体育館、次のバンドやってるよ」 「場所なんかどこでもいい」  二人は校舎裏の渡り廊下へ移動した。  雨を避けられる小さな空間。観客はいない。遠くから体育館の演奏が聞こえる。  麦がギターを取り出し、朱音も自分のギターを持ってきた。 「真白ちゃんと遥先輩は?」 「片づけ。あとで怒られる」 「じゃあ急ごっか」 「一番だけな」  麦が最初のアルペジオを弾いた。  柔らかく、少し眠そうで、けれど一音ずつ確かだった。  朱音のギターが重なる。  三人で演奏したときにはなかった音が、空白へ戻ってくる。  朱音は歌った。  目の前の一人だけへ。  麦は途中から小さくハモった。  渡り廊下の屋根から、残った雨粒が落ちている。  一番を終えると、二人は同時に音を止めた。 「どうだった」  朱音が聞く。 「近すぎて、歌詞より朱音ちゃんの顔見てた」 「真面目に聞け」 「真面目だよ」  麦はギターを脇へ置いた。 「秘密、言っていい?」 「そのために帰ってきたんだろ」 「うん」  麦は青いノートを鞄から取り出した。  最後のページを開き、朱音へ見せる。  そこには、一行だけ書かれていた。  ――友達のままでも大事。でも、友達より先へ行けるなら、朱音ちゃんと行きたい。  朱音は読み終えても、しばらく顔を上げられなかった。 「これ、試験前に書いたのか」 「一か月前」 「長すぎる」 「待つ練習」 「もう十分した」 「じゃあ、答えは?」  朱音はノートを閉じた。  胸がうるさい。  歌うより、ずっと難しい。 「友達より先って、どこ」 「分かんない」 「またそれか」 「行ったことないから」  麦は少し不安そうに笑った。 「朱音ちゃんは、行きたくない?」  朱音は答える代わりに、麦の手首を掴んだ。  驚いた麦の手を返し、その指へ自分の指を絡める。  麦は動かなかった。  朱音も、手を離せなかった。  雨粒が、屋根から一つ落ちる。 「……これで分かった?」  朱音が聞く。  麦は重なった手を見つめた。 「ちょっと曖昧だから、判断が難しい」 「殴るぞ」 「言葉なら、たぶん分かる」 「調子乗るな」 「十年分、待ったので」  朱音は息を吸った。  歌うときよりも、声が震えそうだった。 「好きだ」  麦が顔を上げる。 「友達のままでも大事だ。でも、それだけじゃ足りない」  麦はしばらく瞬きもせず、朱音を見ていた。 「朱音ちゃんは、どこまで行きたい?」 「まだ分かんない」 「そっか」 「だから、お前と確かめたい」  麦の笑みが消えた。  代わりに、泣きそうな顔になる。 「それ、ずるいなぁ」 「お前に言われたくない」 「うん」  麦は朱音の肩へ額を預けた。  朱音は絡めた指をほどかず、空いた腕をその背中へ回した。  ギターケース同士がぶつかり、鈍い音を立てる。  格好はつかなかった。  けれど二人には、それでよかった。  体育館から次のバンドの音が響いてくる。  夏は、終わりへ向かっていた。  未来はまだ決まっていない。  試験の結果も、離れたあとの二人も、歌の続きも。  それでも今、伝えられたことがある。  好き。  ありがとう。  そばにいたい。  行きたい場所へ行ってほしい。  矛盾した言葉は、どれも本当だった。  愛とはたぶん、一つの綺麗な答えではない。  いくつもの本音がぶつかりながら、それでも相手へ向かっていくことなのだ。  エピローグ 帰る場所のつくり方  麦は編入試験に合格した。  九月の終わり、神戸へ引っ越した。  見送りの日、駅には朱音、真白、遥、澄江が集まった。  真白は朝から泣き、遥は「まだ県内だ」と呆れ、澄江は大量のパンを紙袋へ詰めて麦に持たせた。  朱音は泣かなかった。  麦も泣かなかった。 「じゃあ、行ってきます」 「毎日連絡しろとは言わない」 「うん」 「でも三日空いたら、あたしからする」 「二日でしていいよ」 「一日でもいい?」 「毎日でもいい」 「最初からそう言え」 「朱音ちゃんに言わせたかった」  電車が来た。  麦は乗り込み、窓際に立った。  扉が閉まる直前、朱音は言った。 「好き」  周囲に聞こえる声で。  麦は目を丸くし、それから笑った。 「知ってる」  扉が閉まった。  電車が動き出す。  麦は窓越しに口を動かした。  声は聞こえなかった。  けれど、今度は分かった。  あたしも。  それからの一年は、思っていたより長く、思っていたより短かった。  二人は毎日連絡した。  朝は麦から、眠い、という一言。  昼は朱音から、購買の新作パンの写真。  夜は音源を送り合い、通話をつないだまま宿題をし、ときどきどちらかが先に眠った。  最初の一か月、朱音は麦が新しい学校の話をするたびに胸がざわついた。  新しい友達。  新しい先生。  新しいバンド。  自分の知らない麦が増えていく。  ある夜、麦がクラスメイトと作った曲を送ってきた。  朱音は三回聴いたあと、返信できなくなった。  よくできていた。  自分たちの曲より洗練されていて、麦のギターも聞いたことのない弾き方をしていた。  悔しかった。  寂しかった。  置いていかれた気がした。  以前の朱音なら、「悪くない」とだけ送って終わっていただろう。  けれど十分迷ったあと、通話をかけた。 『もしもし。朱音ちゃん?』 「曲、聴いた」 『うん』 「すごくよかった」 『ほんと?』 「悔しいくらい」  電話の向こうで、麦が黙った。 「知らないやつと、あたしの知らない音出してるの、嫌だった」 『うん』 「でも、もっと聞きたい」 『うん』 「だから全部送れ」  麦が笑った。 『朱音ちゃん、上手になったねぇ』 「ギター?」 『寂しいの言い方』 「うるさい」 『百五十点』 「上限どこだよ」  麦も、変わった。  忙しいときは忙しいと言うようになった。  一人で考えたいときは、少し待ってと言うようになった。  帰りたいと言いながら帰れない週末には、無理に明るく振る舞わず、寂しいと口にした。  二人は何度も喧嘩した。  返信が遅い。  言い方が冷たい。  会えると言ったのに予定が変わった。  知らない人の話ばかりする。  昔より、喧嘩は増えた。  けれど昔より、仲直りも増えた。  言葉にすれば傷つくことがある。  それでも、言葉にしなければ見つけられない傷がある。  二人はそのたびに、ほどけた結び目を結び直した。  翌年の八月。  市の高校生音楽祭に、リフレインは再び出演した。  遥は卒業していたが、大学の夏休みを利用して戻ってきた。真白は三年生になり、相変わらずドラムを少し走らせた。朱音は髪の赤い部分を以前より細くし、麦は髪を少し伸ばしていた。 「朱音ちゃん、見つけられた?」  控室で、麦が聞いた。 「何を」 「あたし。形変わったけど」 「すぐ分かった」 「髪伸びたよ」 「その程度で分かんなくなるか」 「新しいコードも覚えた」 「全部音源で聞いた」 「新しい友達もできた」 「知ってる」 「ちょっと大人になったかも」 「それは分かんない」 「ひどいねぇ」  朱音は麦の頬へ手を伸ばし、軽くつまんだ。 「これで確認した」 「本人でした?」 「たぶん」 「じゃあ、もう少し詳しく確認する?」  麦が顔を近づける。 「本番前」 「終わったら?」 「考えとく」 「これは朱音ちゃん語で、かなり前向き、の意味」 「勝手に翻訳すんな」  ステージへ出る。  今度は、右側に麦がいた。  最前列の端には、空席がない。  四人は一年ぶりに同じ場所へ立った。  最後の曲は『余白』だった。  イントロのアルペジオは、一年前より複雑になっていた。麦が神戸で学んだ和音を加え、朱音も新しいギターフレーズを重ねた。  歌詞も少し変わっていた。  一年前は、帰る場所でいると歌った。  今年は、互いが帰る場所を持ちながら、ときどき同じ道を歩こうと歌った。  愛は、同じ場所に閉じ込めておくものではなかった。  離れた時間に生まれた新しい自分を持ち寄り、何度でも出会い直すことだった。  朱音は隣を見る。  麦もこちらを見ていた。  目が合う。  麦が笑う。  朱音も、ほんの少し笑った。  最後の音が鳴り終わる。  拍手の中で、四人は頭を下げた。  ステージを降りる直前、麦が朱音の袖を引いた。 「ねえ、朱音ちゃん」 「何」 「この歌、いつ完成すると思う?」 「知らない」 「一生、完成しなかったりして」 「それでいいんじゃない」 「いいの?」 「歌うたびに足せばいい。言えなかったことも、言えるようになったことも」  麦は少し考え、頷いた。 「じゃあ次は、朱音ちゃんがパンを焼く歌詞を」 「絶対入れない」 「未来は分からないよ」 「それだけは分かる」 「頑固だなぁ」  体育館の扉が開き、夏の光が差し込んだ。  二人は並んで外へ出た。  帰り道は、途中まで同じだった。  その先は違う。  違う道を歩き、また会い、同じ歌を鳴らす。  明日のことは分からない。  ずっとという言葉が、どこまで続くのかも分からない。  それでも今日、隣にいる人へ伝えられることがある。  ありがとう。  好きだよ。  出会ってくれて、そばにいてくれて、離れても戻ってきてくれて。  これからも、何度でも君を見つけたい。  それは約束ではなく、願いだった。  願いは未来を縛らない。  ただ、今いる場所から、誰かのいる方角を指し示す。  二人の歌は、そのためにあった。  夏の町に、麦の笑い声が落ちる。  朱音は呆れた顔で、けれど歩調を緩めた。  隣を歩く人が、置いていかれないように。  そして自分も、置いていかれないように。  二人のあいだの余白には、まだこれから書かれる言葉が残っている。                               了