カタ、と乾いたマウスのクリック音が、深夜の静まり返ったワンルームに小さく響く。 カーテンを閉め切った薄暗い室内で、唯一の光源であるモニタの青白い光が、デスクに向かう男の疲れ切った横顔を無機質に照らしていた。画面に整然と並んでいるのは、ここ最近毎晩のように開いている転職サイトの求人一覧だ。 今日も朝から理不尽な業務に追われ、身体も精神もすり減らしてようやく辿り着いた自宅。強張った首筋をほぐしながら、今月振り込まれた手取り額の少なさを思い出せば、胃のあたりが重く沈む。肉体的にも精神的にも限界が近く、給料だって労働に見合っていない。現状を抜け出したい焦りばかりが募る。 「どうせ転職するなら、今よりマシな条件のところを……」 そう呟きながら、検索条件のチェックボックスを埋めていく。年収アップ、年間休日、残業時間の上限。だが、いざ「検索」をクリックして表示された求人票をスクロールし始めると、すぐにカーソルを動かす指が重くなった。 画面に並ぶ「歓迎スキル」や「求める人物像」の欄。そこには、実務経験年数やリーダーシップ、専門的な資格といった文言が当たり前のように並んでいる。振り返ってみても、自分には胸を張ってアピールできる実績もなければ、優遇されるような特別な資格もない。 転職が当たり前の時代だとメディアは煽るが、それは市場価値のある人間だけの話ではないのか。自分を過度に負け組だと卑屈に決めつけたくはない。けれど、客観的な経歴を並べたとき、高望みができる身分ではないという現実は、あまりにも冷ややかに突き刺さる。 結局のところ、自分に選べる選択肢など最初から限られているのではないか。そんな諦めが、澱のように胸の底へ溜まっていく。 ため息をひとつ吐き出し、男は当てもなくマウスのホイールを回転させた。青白い光の中、どこか他人事のような求人票の文字が、虚しく下から上へと流れていく。 その時、通知音とともに、画面右上に小さなポップアップが浮き上がった。 『あなたに特別な非公開オファーが届いています』 見慣れたフォントで表示されたその一文に、動かしかけた指が止まる。 どうせまた、ろくでもない案件だろう。普段届くスカウトやオファーといえば、今よりもさらに過酷な労働環境が透けて見えるようなブラック企業か、あるいはこちらの職歴やスキルシートなど一行も読まずに機械的に一斉送信されたと分かる、見当違いの職種ばかりだ。期待するだけ無駄だと、心のどこかで冷めた諦念が首をもたげる。 それでも、ほんのわずかな未練が消し去れず、吸い寄せられるように通知をクリックしていた。 だが、画面が切り替わって表示された詳細を目にした瞬間、男の目は自然と見開かれた。 『総合受付・VIP対応スタッフ(完全非公開枠)』 業務内容は来客の一次対応や案内業務とあり、必須資格の欄には「特になし/人物重視」の文字。特別なスキルや専門知識は不要と明記されている。それにもかかわらず、提示されている待遇は常軌を逸していた。大手並みの手厚い福利厚生、完全週休二日制、年間休日は百二十日以上。そして、何より目を引いたのは給与欄だった。 『想定年収:800万円〜1000万円(経験・前職不問)』 「……は? なんだこれ」 思わず声が漏れた。こんな条件、どう考えても怪しい。詐欺まがいの釣り求人か、あるいは何か裏があるのではないか。そう警戒する理性が働く一方で、大手転職サイトの厳格な審査を通過して届いた「オファー受信者限定」の非公開求人であるという事実が、甘い希望となって男の判断力を鈍らせる。 もし、万が一にでも本当なら。 この出口のない泥沼のような毎日から、一気に抜け出せるかもしれない。 胸の奥で急激に跳ね上がった鼓動を持て余しながら、男は藁にもすがる思いで、画面中央にある『オファーを承諾して応募する』の赤いボタンを強くクリックした。 画面が暗転し、『応募が完了しました』という事務的なポップアップが表示される。 その瞬間、安堵とも緊張ともつかない息を吐き出した男の視界の端に、求人詳細の最下部――備考欄の極小テキストが飛び込んできた。 『※本ポジションは業務適性およびブランドイメージの観点から、【20代の女性限定】の募集となります。対象外の方のご応募はご遠慮ください』 時間が止まったような静寂が、部屋を包み込んだ。 「……は」 乾いた音が喉から漏れる。直後、カッと頭に血が上るような怒りが湧き上がった。 20代の女性限定。ふざけるな、それならなぜ、男である自分の登録情報にこのオファーを送りつけてきたのか。結局のところ、自分のプロフィールすら一行も読まれていなかったのだ。年齢も、性別も、これまでの職歴も、何ひとつ見られていない。機械的にばら撒かれた網に、勝手に引っかかって一人で舞い上がっていただけだった。 だが、その怒りも数秒と持たなかった。 急速に体温が引いていくように、ドロリとした重い虚脱感が全身を支配していく。 結局、世の中はそんなものなのだ。若さと性別という、自分にはどう足掻いても手に入らない属性だけが無条件に優遇され、持たざる者は見向きもされない。プロフィールすら確認されない、有象無象の泡沫データ。それが市場における自分の価値なのだと、冷徹に突きつけられた気がした。 応募を取り消すためのページを探す気力すら湧かない。放っておけば、性別フィルターか何かでシステム的に自動で弾かれるだろう。どうでもよかった。 男は乱暴にブラウザのタブを閉じ、モニタの電源を落とした。 部屋が一瞬で深い闇に呑まれる。 着替えもせず、力なくベッドへと倒れ込むと、薄いシーツが冷たく肌に触れた。天井の暗がりを見つめながら、男は言いようのない惨めさに唇を噛みしめる。こんな惨憺たる気分のまま、それでも明日になれば、またあの過酷で報われない職場へ行かなければならない。その皮肉な現実のために、男は重い瞼を閉じるしかなかった。