・01 夕暮れの街を、一人の少女が歩いていた。 学校指定の制服に身を包み、肩には通学鞄。 手には塾へ向かうための教材が入った鞄を提げている。 すれ違う人々から見れば、どこにでもいる真面目な学生だった。 少女…津久井深夜はスマートフォンで時刻を確認すると、小さく息を吐いた。 「…まだ間に合うかな」 今日は塾の日だった。 けれど、今日はもう行く気になれなかった。 母親から届いたメッセージを開く気にもなれず、ミヨは画面を伏せる。 少しだけ寄り道をして、それから兄のところへ行こう─理由なんて、それだけだった。 塾を休むことへの罪悪感はある。 母親に何と言われるかも想像できる。 それでも、あの家に帰るよりはずっといい。 そんなことを考えながら歩いていると、ふと路地の奥から小さな物音が聞こえた。 「?」 反射的に、足を止める。 風で何かが転がったような音だった。 気のせいだと思って歩き出そうとした、その時。 「……う」 今度は、確かに声が聞こえた。 ミヨは路地の奥を覗き込んだ。 薄暗い建物の陰に、小さな白い影が倒れていた。 (誰かいる…?) 恐る恐る近づいていく。 それは動物のようにも見えたけれど、近くで見ると違う。 長い耳、黒ずんだ毛─そして、普通の生活では決して生まれないような傷。 「…大丈夫?」 ミヨがしゃがみ込む。 灰色のデジモン─ロップモンは、かすかに目を開いた。 「……ニンゲン……?」 その声を聞いた瞬間、ミヨの動きが止まった。 「え。しゃべった…」 「来るな…」 ロップモンは弱々しく身を起こそうとするが、体のどこにも力は入らない。 身体に走る無数の痛々しい傷に、ミヨは思わず一歩だけ後ろへ下がった。 怖い─普通なら逃げるべきなのだろう。 けれど、目の前のロップモンは、どう見ても自分を襲えるような状態ではなかった。 「…怪我、してるよね」 「関係…ない」 「関係なくないでしょ」 ミヨは鞄を開くと、そこからハンカチや絆創膏を取り出した。 ロップモンが警戒するように身を引くが、ミヨはその手を押さえる。 「どうしてそんなこと…」 その問いに、ミヨはどうしてだろうと少し考えた。 見つけてしまったから?傷ついているから?放っておくのが嫌だったから? そうやって理由を探していると、脳裏にシュウの顔が思い浮かんだ。 これは善意なんて、そんな綺麗なものじゃない。 困っている誰かがいたら、きっとあの人なら。 「えと…お兄ちゃんなら、助けると思うから」 「…?」 「あっ、ううん。こっちの話…ちょっと痛いかも」 ミヨはロップモンの傷にハンカチを当てる。 ロップモンが顔をしかめる。 それでも逃げようとはしなかった。 ミヨは傷口を見ながら、小さく眉を寄せる。 (酷い…) これほどの傷を負った理由など、ミヨにはわからない。 ただ一つだけわかることがある─それは、このデジモンが今一人だということ。 「…動ける?」 「無理だ」 「じゃ、少し休んでからにしよう」 「君は…帰らなくていいのか?」 その言葉に、ミヨの手が止まった。 「…帰りたくないから」 ぽつりと呟く。 ロップモンは何も言わなかった。 ミヨも、それ以上は話さなかった。 夕暮れの路地に、二人だけの沈黙が落ちる。 ・02 「お兄ちゃんに聞けたら…」 昨日、傷ついたロップモンを見つけたとき、ミヨが最初に考えたのはそれだった。 自分にはどうすればいいのかわからない…けれど、シュウなら何か知っているかもしれない。 そう思ってシュウの部屋まで連れていったものの、その日は仕事が長引いていたらしく結局シュウが帰ってくることはなかった。 仕方なくミヨは部屋にあった消毒液を使い、傷ついたロップモンの身体をできる範囲で手当てした。 これで本当に効くのかはわからないけど、それでも何もしないよりはいいと思った。 自分が食べるつもりだった菓子パンも、ロップモンに渡した。 「…これ、食べられる?」 「ニンゲンの食べ物…」 「でも、お腹空いてるでしょ」 結局、ロップモンはそれを受け取った。 その後、ミヨは一度塾へ向かった。 休む理由を説明することもできず、普段通りに授業を受けるしかなかったからだ。 けれど教科書を開いても、講師の声を聞いても、頭に入ってこない。 ロップモンはまだシュウの部屋にいる。 ちゃんと待っているだろうか…傷は大丈夫だろうか。 そんなことばかりが気になって、時計を見る回数だけが増えていった。 やがて塾が終わると、ミヨはすぐにシュウの部屋へ戻った。 けれど、そこにもシュウの姿はなかった。 「…う。お兄ちゃんのばか」 小さく呟き、ミヨは部屋の中へ入る。 ロップモンをこのまま置いておくわけにもいかない。 「…どうしよう」 少し考えてから、ミヨはロップモンを抱き上げた。 「こうなったら、ロップモンはぬいぐるみのフリしててね」 「え…」 そうすれば、少なくとも家へ連れて帰ることはできる。 ただ、母親に見つかったら捨てられてしまうかもしれない。 そう考えると少し不安になったが、母親が自分の部屋へ入ってくることはほとんどない。 「…たぶん、大丈夫」 自分に言い聞かせるように呟いて、ミヨはロップモンを鞄に押し込んだ。 「ぐえ」 そして翌日─昨日のことが頭から離れないまま、ミヨは教室で一人、机に向かっていた。 黒板に並んだ授業の内容が、ノートにはきちんと取られていた。 教師から見れば、いつも通りの津久井深夜だった。 「津久井さん、ちょっといい?」 教室の扉が開き、クラスメイトの少女がちょこんと顔を覗かせた。 たしか名前は…黒沢葵。 「先生がね、これ頼みたいって」 「…うん」 ミヨは顔を上げる。 頼まれた内容を聞きながら、頭の中では別のことを考えていた。 帰ったら、ロップモンと話をしなければならない。 これからどうするのか、シュウにはいつ相談できるのか…そもそも、どうやってあのデジモンを元の場所へ帰すのか。 「津久井さん?おーい」 「うん…」 「あはは。聞いてる?」 ハッとしてミヨは顔を上げる。 「あ、ごめん。もう一回いい?」 「そう?先生がね…」 葵が苦笑する。 そのとき、彼女はふとミヨの手元にあるスマートフォンへ目が向いた。 待ち受けに設定されているのは、少しぶれていて、構図も綺麗とは言えない一枚の写真だった。 そこにはカメラを向けられたことに気づいた青年が、苦笑しながら顔を隠そうとしている姿が写っている。 おそらく、ミヨが勝手に撮ったものだろうと葵は考える。 「その人、誰?」 不意に尋ねられ、ミヨの指が止まった。 「…………お兄ちゃん」 しばらく間を置いてから、か細い声で答える。 葵は、ほんの一瞬だけミヨの表情が変わったことに気づいた。 いつも物静かで、どこか何かに不満を抱えているように見える少女。 そんな彼女が、今だけは僅かに穏やかな顔をしていた。 「へえ…お兄ちゃんいるんだ」 「……うん」 それだけ答えると、ミヨの顔にはもういつもの無表情が戻っていた。 ブレた写真の中で、シュウは相変わらず嫌そうな顔をしている。 それでもミヨにとっては、大切な一枚だった。 「じゃ、じゃあ…先生の頼まれ事、これね」 「うん。ありがとう」 彼女はメモ用紙をミヨに手渡す。 どうやら、今すぐに必要なことではないようだ。 「こんな事頼まれちゃうなんて、相変わらず真面目だね」 その言葉に、ミヨは小さく笑った。 「……そうかな」 自分でも、それがうまく笑えているのかはわからなかった。 「じゃあ、よろしくね」 葵が手を振りながら、去っていく。 教室に一人残ったミヨは、机の上に置いた教材へ視線を戻した。 けれど、やはり内容は頭に入ってこない。 今日は早く帰ろう─ロップモンと、これからのことを話さなければならない。 (作戦会議、しないと…) ミヨは教材を鞄へしまい、廊下を早歩きで去った。 ・03 玄関の扉を開けると、家の中は静まり返っていた。 「…ただいま」 返事はない…母親はもう仕事へ出たのだろう。 ミヨは靴を脱ぐと、少し散らかった床を乗り越えて自分の部屋へ向かった。 鞄を置き、しばらく待っていると、ベッドの下から何かがもぞもぞと動いた。 「…?」 ミヨがしゃがみ込む。 「ロップモン?」 「む…やっと帰ってきた」 奥から這い出してきたロップモンは、身体についた埃を払いながら小さく息を吐いた。 「ずっとそこにいたの?」 「仕方ないだろう。見つかったら、ぬいぐるみでは済まない」 「そっか…」 ミヨは少し申し訳なさそうにロップモンを見る。 昨日からずっと、この子を隠している。 しかも、ロップモンにはここに留まり続ける理由があるわけではない。 「…帰りたいんだよね」 「うん。僕は、あそこへ帰らなければならない」 「そっか」 ロップモンが頷くと、ミヨは少し考えた。 デジタルワールド─自分にとっては、昨日まで聞いたことすらなかった場所だ。 けれどロップモンがそこから来たのなら、帰る方法だってどこかにあるはずだ。 「じゃあ、探そう」 「…え?」 「デジタルワールドに帰る方法」 ロップモンが目を丸くする。 「でも、人間のお前にそんなことが…」 「そのデジタルゲート?を見つければいいんでしょ?」 ミヨはいつものように、少しだけ口元を上げた。 スマートフォンを取り出して少しだけ考え込む。 「…たぶん、どこかにあるんだよね」 「簡単に見つかるモノじゃないよ」 「探さないと見つからないモノでもあるよ」 今日は塾もないし、時間はある。 ミヨは鞄の中から教科書やノートを放り出すと、立ち上がった。 「近くから探してみよう」 「…本当に、僕のために?」 「だって、帰りたいんでしょ?」 あまりにも当たり前のことのように言われて、ロップモンは言葉を失った。 ミヨはそんなロップモンを不思議そうに見つめる。 「ほら行こ?」 「ぐえ」 ロップモンは頷こうとするが、またカバンに押し込まれた。 こうして二人は暗くなってきた空の元、デジタルゲートを探すために街へ出ることになった。 ・04 二人が街の外れまで歩いた頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。 「この辺には……ないのかな」 ミヨが辺りを見回す。 そのとき、茂みの奥から枝を踏み折る音がした。 「…ミヨ、下がって」 「え?」 ロップモンの耳がぴくりと動く。 言われた直後、茂みから黒い影が飛び出した。 「危ない!」 ロップモンがミヨを突き飛ばす─地面を抉った爪が、二人の間を通り抜けた。 「きゃっ…!」 転がったミヨが振り返る。 そこにいたのは、見たこともない獣のような生物だった。 ロップモンがミヨの前へ立ちはだかる。 「僕から離れないで!こいつもデジモンだ!」 「でも…貴方もまだ…!」 その直後、デジモンが唸り声を上げ、再び飛びかかってくる。 ロップモンは身を翻してかわすと、相手の身体へ体当たりを叩き込んだ。 「くっ…!」 しかし、傷ついた身体では力が足りない。 弾き飛ばされたロップモンが地面を転がる。 「ロップモン!」 ミヨの身体が震えた。 さっきまで一緒に歩いていた小さなデジモンが、目の前で傷ついている。 そして、その牙が今度は自分へ向けられていた。 怖い─そう思うのに、足が動かない。 再びデジモンが襲いかかる。 その瞬間、ロップモンが立ち上がった。 「ミヨには…触らせない!」 身体を引きずりながら、ロップモンが口から強烈な冷気を放つ。 小さな爆発とともにデジモンが吹き飛び、地面を転がった。 やがて立ち上がったデジモンは、ロップモンを警戒するように唸ると、そのまま森の奥へ走り去っていった。 ロップモンも肩で息をしながら、荒い呼吸を整える。 「ろ、ロップモン…」 「たぶん、もう大丈夫」 ミヨは震える手で、兄から貰った星型のキーホルダーを握りしめていた。 都市伝説とはいえ、今まで知らなかった。 デジモンは、こんなにも危険なのだ。 ロップモンだって、本当は怖い存在なのかもしれない。 それでも…この子は、自分を守ってくれている。 「ありがとね…えと、その…」 「なに?」 「あのデジモンって…どこから来たの?」 「そりゃ、デジタルワールドから……」 そこでロップモンが言葉を止めた。 ミヨも同じ場所─先ほどデジモンが飛び出してきた茂みに視線を向けていた。 「じゃあ…デジタルワールドから来たなら、ここにもデジタルゲートがあるんじゃない?」 ミヨが呟くと、ロップモンは目を見開いた。 「だったら、探せるかもしれないな… 」 二人は顔を見合わせると、茂みの奥へ歩き出した。 ・05 茂みを抜け、さらに奥へ進んだ二人は、木々の向こうから聞こえてくる声に足を止めた。 先ほど襲ってきたものと同じ姿のデジモンが、何体か集まっている。 「ゲートって…あれ?」 ミヨが小さく呟くと、ロップモンは無言で頷く。 ようやく見つけた…だが、あれだけの数を相手にするのは無理だ。 「…諦めよう」 ロップモンが言った。 「でも…」 「僕たちだけじゃ無理だ。ミヨまで危険な目に遭わせられない」 ミヨは茂みの向こうを見つめる。 怖い─さっき襲われたときの感覚が、まだ身体に残っている。 それでも、あそこへ行けばロップモンは帰れる。 その時、ミヨの足元で木の枝が折れた。 小さな音だったが、それを敏感に聞きつけたデジモンたちが一斉にこちらを振り向く。 「誰だ!」 「気づかれた!」 ロップモンがミヨを庇うように前へ出る。 傷ついた身体を引きずりながら必死に応戦するが、数の差は大きかった。 「くたばれぇ!」 「さっきはよくもやってくれたなぁ!」 四方八方から襲いかかる敵に、ロップモンは次々と傷を増やしていく。 「─失礼いたしますわ」 そのとき、小さな影が流れるように割り込んだ。 迫っていたハイエモンの足を払い、勢いのまま転倒させる。 地面を転がった身体はそのまま木へ激突し、動かなくなった。 「大丈夫かい、お嬢さん」 声を掛けてきたのは、どこか気取った雰囲気の青年だった。 演技がかった仕草で仰々しく一礼する。 その横では、桃色の球体のようなデジモンが優雅に頭を下げていた。 「お怪我はありませんか?」 「う、うん…でも、ロップモンが」 ミヨは戸惑いながらも、倒れたロップモンへ駆け寄る。 「デジモンには即効性の傷薬がある。傷口に当ててやれ」 青年は上着のポケットから、今ではあまり見なくなったCDのような物体を取り出した。 それをミヨへ放ると、緩やかに回転したディスクが綺麗に手元へ収まる。 「さて…ハイエモンか。群れでこの辺りに出てくるとは珍しいな」 青年は顎に手を添え、周囲の獣たちを眺める。 「ハイエモン…この子たち、そういう名前なの?」 「正解。デジモンの名前を覚えるのは悪くないぜ、お嬢さん」 彼はそう話すと、楽しそうに笑った。 「…いや、そっちが言ったんじゃないんですか」 「おや、手厳しい」 その言い方が妙に気取っていて、ミヨは眉を寄せた。 (なんとなく、お兄ちゃんに似てるかも…) こういう余裕のある話し方も、少し人をからかうようなところも。 だから、内心ちょっとムカついた。 「プリンセス、行こうか」 青年が二度、指を鳴らした。 桃色のデジモンがゆっくりと前へ出る。 飛びかかってきたハイエモンの爪を、まるで踊るようにかわした。 そのまま身体を捻り、流れるような動きでカウンターを叩き込む。 ハイエモンたちは怯みながらも、プリンセスを取り囲んだ。 「やめといた方がいいよ」 青年が忠告する。 だがハイエモンたちは聞く耳を持たず、一斉に飛びかかる。 「まあ…」 プリンセスは小さくため息をついた。 そして、足元をヒールで強く踏みつける。 轟音─大地が弾け、爆風が巻き起こった。 巻き込まれたハイエモンたちは次々と吹き飛ばされ、光の粒となって消えていく。 あまりにも一方的だった。 青年はようやくミヨとロップモンへ向き直る。 「…た、助けてくれてありがとうございます」 「礼はいいよ。それより、テイマーがこんなところで何をしてる?」 「…テイマー?」 ミヨが首を傾げる。 慌てたようにロップモンが口を挟んだ。 「僕、デジタルワールドへ帰りたいんだ」 「なるほど。ゲートを探していたのか」 青年は木々の向こうへ視線を向けた。 そこには、空間そのものが歪んだような淡い光が浮かんでいる。 だが、その輪郭は少しずつ薄れていた。 「ただ、あれが君たちの帰りたい場所へ繋がっているとは限らないぞ」 「…どういうことですか?」 「デジタルゲートは、いつも同じ場所へ繋がるわけじゃない。それに、開いていられる時間も短い」 青年がゲートを眺める。 「そろそろ閉じるな」 「えっ、じゃあ…」 ミヨが身を乗り出す。 だが、その前にプリンセスが口を挟んだ。 「ハイエモンなど比較にならないほど強いデジモンが、向こうで待ち構えている可能性もありますわ」 ミヨの足が止まった。 この先がどこへ繋がっているのかわからない。 そして、そこに何がいるのかも。 「…そういうことだ」 青年は肩をすくめると、何かを思い出したように懐へ手を入れた。 「ああ、そうだ。これを渡しておこう」 差し出された紙をミヨは受け取る。 名刺だった。 【☆アリーナトップランカー・戌井透&ヒメマメモン☆】 そこには青年たちの名前のほか、好きな食べ物・誕生日・血液型まで書かれている。 まるでアイドルのプロフィールカードのようだ。 ただその中で、トップランカーという肩書だけは意味がわからなかった。 その文字を睨んでいると、透は言葉を続ける。 「何かあったら、自分を訪ねてもいいぜ。お嬢さん」 透は二本の指を立て、敬礼のような仕草をする。 「お兄様、そろそろ」 「…だね」 透とプリンセスは、躊躇うことなくゲートへ向かって歩き出した。 「待っ…」 ミヨが声を上げ、ゲートへ手を伸ばしかける。 けれど、あと一歩を踏み出すことができなかった。 この先がどこへ繋がっているのか分からない…ロップモンもまた、同じ迷いを抱えたまま動けずにいる。 ほんの僅かな躊躇─しかし、それだけで十分だった。 淡い光は二人の目の前で急速に薄れ、伸ばしかけたミヨの手が届くより先に、ゲートは跡形もなく消えてしまった。 「…閉じちゃった」 ミヨは呟き、ゲートがあった場所をしばらく見つめていた。 ・06 それから数日後、ミヨとロップモンは部屋の隅で顔を突き合わせていた。 あの青年たちが残していった言葉が、二人の頭から離れない─ゲートを見つけても、そこを通った先で何が待っているか分からない。 少なくとも、身を守れるだけの力は必要なのだろう。 そして相変わらず、シュウにはロップモンのことを話せずにいた。 「…どうしよう」 ミヨが腕を組んで考え込む。 ロップモンの傷はもうほとんど治っており、身体を動かしても問題はない。 しかし今足りないもの、必要なことは何なのか…しばらく考えた末、ミヨは突然顔を上げた。 「こうなったら、特訓だよ。特訓!」 「…特訓?」 ロップモンが目を丸くする。 ミヨは本棚の後ろに隠した一冊の漫画を取り出した。 古本屋の値札が貼られっぱなしの本には、牛と正面から頭突きで張り合う少年の絵が大迫力で描かれている。 「漫画では、こういうとき特訓するの」 「漫画って…」 ロップモンは困ったように本を見つめた。 「でも、どうやって特訓なんてすれば…」 「それをこれから考えるの」 ミヨは真剣な顔で漫画を開いた。 お兄ちゃんならこういう時、簡単にバツグンの解決策を見つけちゃうんだろう…でも、何もしないよりは絶対にいい。 帰る方法が見つからないのなら、まずは帰れるだけの力を身につけるしかない。 そんな単純な発想だったが、今の二人にはそれくらいしか思いつかなかった。 それから数日、ミヨとロップモンは人気のない資材置き場…という体の不法投棄場で特訓を続けていた。 といっても、やっていることは走り込みや技の練習や木の枝を相手にした模擬戦くらいだ。 母親から小遣いをもらった記憶などない中学生に、大それた道具を用意する余裕はない。 なにせ、ミヨの私物のほとんどはシュウがくれたものだ。 「今日はこれ!」 ミヨが差し出した漫画には、主人公がタイヤを引っ張っている絵が描かれていた。 「…僕、そこまでする自信ないや」 「私も乗るからね」 「えっ。その上で重くするの」 呆れながらも、ロップモンは付き合った。 最初は帰るために必要だからやっているだけだった。 けれど毎日のように一緒に走り、一緒に技を練習して、疲れれば並んで休む。 ミヨも少しずつロップモンの動きに慣れ、ロップモンもミヨが何を考えているのか、言葉にされる前に分かることが増えていった。 ある日の夕方、二人は公園のベンチに並んで座っていた。 「…疲れた」 ミヨが呟く。 まだ夏本番には遠いというのに、夕方になっても残る暑さに、すっかり参っていた。 「ミヨが始めたんじゃない」 「ロップモンも付き合ったじゃん」 「ミヨが一人でやってたら、危なっかしいからね」 そう言ってからロップモンは少しだけ笑い、ミヨも釣られて笑う。 帰る方法は、まだ見つかっていない。 それでも、二人でいる時間だけは少しずつ増えていた。 ・07 やがて帰路についたミヨとロップモンの前に、淡い光が集まり始める。 空間が歪み、見覚えのあるゲートがゆっくりと形を成していった。 「これ…もしかする?」 ミヨが足を止め、恐る恐る指を差す。 ロップモンもゲートを見つめるが、少々懐疑的な目線だ。 「都合がいいね…よすぎるくらいだ」 その言葉が終わるより早く、ミヨの足元に何かが突き刺さった。 「ひっ…!」 思わず足を跳ね上げると、そこには星形の手裏剣が地面に深々と刺さっていた。 次の瞬間、突風が巻き起こる。 木の葉が一斉に舞い上がり、一人と一匹は腕で顔を庇う。 やがて風が収まると、そこにはいつの間にか一体のデジモンが立っていた。 頭巾を被った栗としか形容し難いその姿は、この状況でなければギャグにしか見えなかった。 「コウガモン…どうやら、それどころじゃないね」 ロップモンがミヨのカバンから飛び降りると、身構える。 「戦わないとか、できないの?」 ミヨが尋ねる。 コウガモンは静かに首…いや、全身を振った。 「できぬ。貴様らに恨みは無いがな」 その言葉と同時に、ロップモンが地面を蹴って体を回転させた。 巻き起こった突風に、コウガモンが遅れて真空の刃を放つ。 二つのエネルギー正面からぶつかり合い、火花を散らした。 激しい風圧に木の葉が吹き飛ばされ、ミヨは思わず目を細めた。 (また、戦いが始まっちゃった…) 頭の中に、あの青年の姿が浮かぶ。けれど、ここにはいない。 ロップモンは必死だが、コウガモンの動きについていけない。 相手は速い…特訓をしたからといって、簡単に勝てるようになるわけではない。 攻撃を避けても、次の瞬間には別の角度から手裏剣が飛んでくる。 反撃しようと身構えた時には、もうそこにコウガモンの姿はなかった。 動きの一つ一つに、これまで戦ってきた数の違いが出ているように見えた。 「デジモンにはレベルがある」 コウガモンが淡々と告げる。 「成長期、成熟期、完全体、究極体。貴様は成長期。そして俺は成熟期だ。成長期が成熟期に勝つのは、容易なことではない」 コウガモンはロップモンを蹴りとばす。 (そんな…私にできることは…!?) 地面に転がって擦り傷を作る彼を見下ろし、ミヨは焦った。 特訓だけでは届かない差がそこにある。 ロップモンが突風を起こす。 コウガモンは身を翻してかわし、そのまま一気に距離を詰めた。 ロップモンも反撃しようとするが、わずかに遅い。 コウガモンの刀がその身体を掠め、ロップモンは再び地面を転がった。 ミヨは無意識にポケットへ手を入れた。 指先に触れたのは、シュウからもらった星形のキーホルダーだった。 ここにはいない兄にすがるように、それを強く握りしめる。 その時、脳裏に別の光景が浮かんだ。 ゲームをしているシュウの横顔─そして、いつだったか聞いた言葉。 『勝つんじゃない。負けないのが大事なんだ』 「…」 シュウの口癖を思い出し、ミヨは大きく息を吸った。 そして、勝てないならどうする。 コウガモンの動きを追うのではなく、よく見る。 焦らず、その動きだけを目で追った。 コウガモンはロップモンの周囲を旋回しながら、少しずつ距離を詰めている。 攻撃を仕掛けるタイミングも、ほとんど変わらない。 (…同じだ) コウガモンが踏み込む。 なんとかロップモンが身をかわす。 そして、また旋回する。 (攻撃に合わせて反撃するんじゃ、追いつけない─だったら、先に…!) 『相手が嫌がることをして、達成する。そうすれば相手は試合に勝っても反省点が残る。これって気持ちの上じゃ相手は勝ちきれてないわけだろ?つまり、俺の完全な負けじゃないんだ』 「……くそ。性格悪いな、お兄ちゃん」 ミヨは小さく愚痴をこぼした─けれど、今はそれでいい。 「ロップモン、足元に氷を!」 「えっ?」 「早く!」 ロップモンは咄嗟に身を低くすると、自分の足元へ口から冷気を放った。 「ぬっ…!」 地面が…いや、コウガモンの踏み込んだ足が凍結していた。 勢いのまま身体が前へ引っ張られる。コウガモンの姿勢が大きく崩れた。 攻撃を"置く"─これもシュウから聞いていた、ゲームではよく使われる戦い方だった。 ロップモンの冷気はコウガモンの足が踏み込むと予測した地点へ、あらかじめ吐かれていたのだ。 「やっ…た!?」 ミヨの顔がぱっと明るくなる。 「ぬおおっ!」 コウガモンは咄嗟に身体を沈めると、凍りついた足を力任せに振り上げた。 氷が砕け、無理やり体勢を立て直す。 「─シャドウスラッシュ!」 次の瞬間、コウガモンの刀が閃いた。 強烈な踏み込みから放たれたあまりにも速い一撃がロップモンを捉え、その身体を大きく吹き飛ばす。 「ロップモン!」 冷気は確かにコウガモンの動きを止めた。 だが、完全に動きを封じるには至らなかった。 吹き飛ばされたロップモンは、そのままミヨへと突っ込んでくる。 「わっ!」 二人の身体がぶつかった。 そして、その背後には先ほどまで淡い光を放っていたデジタルゲートがあった。 「ま、まずい…ミヨ!」 咄嗟にミヨはロップモンを掴む。 二人の身体がゲートの中へ滑り込み、渦巻く光に飲み込まれていく。 一人と一匹の姿は、光の渦の中へと消えていった。 ・08 「任務達成」 デジタルゲートが閉じるのを見届け、コウガモンは刀を鞘へ収めた。 すると、少し離れた物陰から男が姿を現した。 「おいおい、苦戦すんなよ〜。成長期相手だろ?」 軽い調子で笑いながら、彼はコウガモンへ近づいてくる。 「問題ない。依頼された仕事は終わった」 「あいつら、まだ生きてンじゃね?」 「倒す必要はない。あの娘をゲートへ追い込め。それが依頼だ」 「あぁ、それそれ。そうだったわ」 男は、つい先ほどまでゲートがあった場所を眺める。 そこにはもう、淡い光の残滓すら残っていなかった。 「しかし、わざわざこんな場所にゲートまで用意するとは。ずいぶん変な依頼だな」 「俺たちには関係ない」 コウガモンはそう言って歩き出す。 「依頼された仕事をこなし、報酬を受け取る。それだけだ」 「まあ、そうだけどさ」 男はあくびをしながら、コウガモンの後を追った。 おわり