歪夜 第01章 覚醒の夜 バッシュが床を噛む音は、体育館のどの音より速い。 小日向茜は、その音の先頭にいた。 「二本目、逆! 澪、走って!」 声が天井まで抜ける。相手校のディフェンスが振り向くより早く、茜はもうハーフラインを越えていた。ドリブルは低く、視線は高く。百六十台後半のガードが腕を広げて立ちはだかる。上等。茜は速度を落とさず、右へ行くと見せて左足一本で切り返した。相手の重心が半拍遅れて泳ぐ。その半拍が、茜の世界では永遠に等しい。 抜いた。 ゴール下、百七十五センチが最短距離で滑り込んでくる。戸倉澪。言葉はいらなかった。茜は床すれすれのバウンドパスを、相手センターの膝の間へ通した。澪の長い腕がそれを掬い、そのままリングへ置いてくる。 ぱす、と網の鳴る音。ベンチが沸いた。 「ないっしゅーとぉ! 澪ちゃん、茜ちゃん、ナイスだよぅ!」 誰より大きいのに全然揃っていない声援は、マネージャーの早坂こはるである。スコアシートを抱えたまま両手を振るものだから、挟んであったペンが床に転がった。慌てて拾う。その間も応援は止まらない。 守りに戻る。茜の仕事は、点を取ることより点を取らせないことの方が多い。相手のガードがボールを運んでくる。目線、肩の向き、ドリブルの高さ。癖はもう三クォーターぶん見てきた。この子は左へ展開する前、必ずドリブルが一度だけ高くなる。 来た。 浮いたボールの腹へ、茜の手が下から差し込まれた。指先がゴムの感触を弾く。転がるボールに真っ先に追いつくのは、いつだってコートでいちばん床に近い者だ。掬い上げ、振り返りもせず前へ蹴り出すようなロングパス。走り込んでいた味方が受けて、速攻が決まった。 相手ベンチがたまらずタイムアウトを取る。 「ナイスカット! はい茜ちゃん、お水! タオルも!」 ベンチに戻るなり、こはるが冷えたボトルを押しつけてきた。受け取って呷る。氷の量まで、いつも茜の好みちょうどに調整されている。隣に腰を下ろした澪が、無言で自分のタオルの端を貸してくれた。汗を拭いながら、茜は円陣の真ん中で早口に指を立てる。 「向こう、残り時間ぜんぶ当たり強くしてくるよ。うちは慌てない。一本ずつ。澪はスクリーンもう一枚増やして。あたしが全員引き連れて走るから、空いたとこ、決めきって」 「ん」 澪の返事は一音である。だが澪の一音は、他人の百の言葉より信用できる。 練習試合、第四クォーター残り二分。点差は六。勝っている。 茜はディフェンスに戻りながら、汗を手の甲で払った。相手校のガードが、すれ違いざまに小さく舌打ちをする。試合前、整列のときにこちらを見下ろして「中等部の子?」と聞いてきた顔だった。渚学園中等部二年、レギュラー、百四十九センチ。ユニフォームのサイズはいちばん小さいのを更に詰めてある。 (言ったでしょ。コートの上に、身長は関係ないの) 言葉にはしない。する必要がない。スコアボードが全部言ってくれる。 残り二分を、茜は声で支配した。誰がどこへ走るか、どこが空くか。コートの全員より半歩先の絵が、茜には見えている。ミニバスの頃から、届かない高さの分だけ先を読んで生きてきた。読みと速さと、あとは絶対に退かない負けん気ひとつ。それでレギュラーを獲った。それで勝ってきた。 一度だけ、嫌な瞬間があった。 残り一分、密着してきた相手ガードを振り切って急停止した拍子に、胸が大きく揺れた。ユニフォームの布ごしにもはっきり分かる揺れ方で、スポーツブラで押さえ込んでいてもこればかりは殺しきれない。相手ベンチの端で、控えの誰かの視線が一瞬、茜の顔ではない場所で止まったのが分かった。 (見んな) プレーは止めない。止めないが、背中のあたりがすっと冷える。この感覚にだけは、何年経っても慣れない。速さは鍛えた。読みも鍛えた。なのにこの身体は、鍛えた覚えのない場所ばかりが人の目を引く。 だから余計に、次の一本を強引に決めてやった。文句あるか、という顔で。 試合終了のブザーが鳴ったとき、点差は九に開いていた。 整列。礼。相手校のガードが、今度は目の高さを合わせるように少しかがんで、悔しそうに笑った。 「次、うちのコートでやるときは覚えときなよ。ちび」 「はあ? 何センチだろうが、次も勝つのはあたしだけど」 握手は、お互いけっこう強めだった。 引き上げ際、相手校の顧問が澪を呼び止めて何か話しかけているのが見えた。高等部に上がったらうちに来ないか、の類だろう。澪は角の立たない短い返事で受け流している。ああいうとき、真っ先に声をかけられるのはいつも百七十五センチの方だ。悔しくないと言えば嘘になる。でも、その澪が試合後いちばんに褒めに来るのは、いつだって茜のパスなのだ。それで釣り合いは取れている。取れていることにしている。 部室前の廊下は、夕方の色をしていた。 「はい、茜ちゃん。膝、出して」 ベンチ代わりの長椅子に座らされ、茜はジャージの裾をまくった。第三クォーターで飛び込んだときに擦った膝小僧へ、こはるが慣れた手つきで絆創膏を貼っていく。消毒液、ガーゼ、絆創膏。マネージャーバッグの中身は、こはるの頭の中と同じ順番で並んでいる。 「べつに、これくらい放っといても治るし」 「だめだよぅ。茜ちゃん、いっつもそう言って化膿させかけたでしょ」 「あれは……去年の話でしょ」 「去年もおととしも、だよ」 柔らかい声で、逃げ道だけきっちり塞いでくる。茜は観念して膝を差し出した。こはるの指は温かい。この温かさに一方的に世話を焼かれるのは、たぶん世界でこの子相手のときだけだ。 頭の上に、影が差した。 「今日のラスト二分、良かった」 澪だった。タオルを首にかけ、部室の戸口にもたれている。汗で湿った黒髪を、手首のヘアゴムでまとめ直しながら、いつもの低い声で短く続けた。 「五本目のパス。私でも見えてなかったコースだった」 「ふふん。見えてないとこに通すのがポイントガードの仕事っての」 「ん。だから、良かったって言ってる」 澪の褒め方はいつも定規で引いたみたいにまっすぐで、茜はちょっと耳が熱くなる。ごまかすように、鞄から牛乳パックを引き抜いた。ストローを刺す。試合後の一本は儀式である。 「アカネ。それ、今日何本目」 「二本目。朝のは数に入れない」 「三本目だな」 「入れないっての!」 澪が真顔のまま、茜の頭のてっぺんに手のひらを乗せた。それから自分の顎の高さまで、手刀ですうっと空中に線を引いてみせる。二十六センチぶんの空白。 「飲め飲め。あと二十六」 「〜〜っ、言われなくても飲むわよ! 可能性はまだ死んでないの!」 「うん。二年間ずっと死んでないね、可能性」 「こはるまで!?」 こはるがくすくす笑いながら絆創膏の端を押さえ、仕上げにぽんと膝を叩いた。はい、完成。その笑い方があんまり屈託ないので、茜は文句の続きを見失って、仕方なく牛乳を吸った。ストローの先を、癖で軽く噛む。 と、部室の奥から一年生の話し声が漏れてきた。着替えの途中らしい。 「――でも小日向先輩ってすごいよね。あの身長で」 「身長っていうかさ、あの人、脱ぐとびっくりするよ。胸。ユニの上からでも走るたびすご……」 「ちょっと! 聞こえてるんだけど!?」 戸を叩くと、中がしんと静まって、それから「すみませんっ」と揃った悲鳴が返ってきた。茜は腕を組んだ。組んでから、その腕が自然と胸の前を隠す位置に来ていることに気づいて、余計に顔が熱くなる。 身長のことは、いい。言われ慣れているし、言い返す実績も積んできた。小さくても勝てることは、あたしが証明し続けている。でも胸は駄目だ。あれは努力と何の関係もなく、頼んでもいないのに勝手に育った。走れば揺れて邪魔になるだけで、練習中に男子の視線がそこで一瞬止まるのが分かるたび、背中がざわっとする。誇っていいものが上に伸びず、隠したいものばかりが前に出た。神様の配分ミスとしか思えない。 「アカネ」 澪が、組んだ茜の腕をぽんと叩いた。何も言わない。言わないでいてくれるのが、この親友の優しさの形だった。 「よぅし、帰ろっか! 今日はね、商店街のスーパー、牛乳が特売なんだよぅ」 こはるがマネージャーバッグを抱え上げ、話をまるごと明るい方へ持っていく。それがこの親友の優しさの形だった。 「ふん。買い置き、切れてたとこだし」 茜は牛乳パックを潰して、立ち上がった。 校門を出る頃には、空が茜色に燃えていた。 海の方から、湿った潮の匂いが上がってくる。三人の影が歩道に長く伸びて、真ん中の影だけ頭ひとつ短い。左右の影が、歩幅を少しずつ真ん中に合わせているのを、茜は知っていて、知らないふりをしている。 「今日の相手のセンターさ」と澪が言う。「当たり、強かった。腰にまだ感覚残ってる」 「澪ちゃん、湿布いる? バッグに入ってるよぅ」 「平気。この程度で湿布使ってたら、こはるの在庫がいくつあっても足りない」 「あたしなんて明日、太腿ぜったい筋肉痛だし。あのガード、最後しつこかった」 「アカネに二回抜かれたからね。意地になってた」 「三回でしょ」 「二回目はファウルもらっただけ」 「抜いたうちに入れてよ!」 くだらない言い合いが、夕暮れの通学路によく馴染む。 信号待ちで、対向から来た大学生らしい男の二人連れとすれ違った。片方の視線が、通り過ぎる一瞬、茜の胸元を掠めていったのが分かった。振り向きもしなかったくせに、確かに掠めた。茜は無言で鞄を抱え直し、抱えた鞄で胸の前をさりげなく塞ぐ。制服のカーディガンの上からでも隠しきれないものがあるということを、この二年で嫌というほど学ばされた。 「茜ちゃん、鞄、重い? 持とっか」 「重くない。持たない。……なんでもないの」 こはるは小首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。澪だけが、茜の半歩ぶん外側へ、すっと立ち位置を変えた。長身の身体で、通りからの視線をなんとなく遮る位置。わざとらしさは一グラムもない。この親友は、こういうことを呼吸と同じ顔でやる。 (べつに、頼んでないけど) 頼んでないけど、ちょっとだけ、歩くのが楽になった。 曲がり角の先に、汐栄町商店街のアーケードが見えてきた。夕飯どきの買い物客で、入口のあたりはそこそこ賑わっている。魚屋の呼び込み、コロッケの油の匂い、自転車のベル。生まれてからずっと聞いてきた、汐澄の夕方の音だ。 「あ、そうだ。買い物のあとさ、うち寄ってかない? 昨日焼いたクッキー、まだいっぱいあるんだよぅ」 「行く。こはるのクッキーは正義」 「澪ちゃん即答だね……」 「陽太のぶんも包んでもらっていい? このまえの、弟がえらい気に入っちゃって」 「もちろんだよぅ。陽太くん、また背、伸びたんでしょ?」 「言わないでよその話……。小四で、もうあたしの肩なの。おかしくない? 絶対うちの牛乳、あいつが夜中に飲んでる」 「牛乳に罪はない」と澪。「配分の問題」 「その配分に文句言ってんの!」 「特売のスーパー、奥の方だよぅ。裏通り抜けた方が早いかも」 「じゃ、裏から行こ。表は混んでるし」 なんでもない相談。なんでもない近道。明日は筋肉痛で、明後日には治って、週末はまた練習で。そういう続き方しか、この毎日にはないはずだった。 空の茜色は、いつのまにか西の端だけになっていた。頭の上には、昼と夜の境目の色。街灯がひとつ、またひとつと目を覚ましていく。こはるはマネージャーバッグを胸に抱えて鼻歌を歌い、澪はまとめた髪を解いてヘアゴムを手首に戻し、茜は潰した牛乳パックを鞄の横ポケットに突っ込んで、次の一本の算段をしていた。特売なら二本。いや、陽太の夜間犯行を見越して三本。 三人分の笑い声が、アーケードの明かりの手前で重なった。 アーケードの脇、幟のはためく細い裏路地へ、三人は連れ立って折れた。 茜の鎖骨で、細いネックレスが夕陽を拾って、小さく光った。 異変は、音から始まった。 魚屋の呼び込みが、途中でぷつりと途切れた。 こはるの鼻歌が止まる。自転車のベルも、揚げ物の油の爆ぜる音も、夕飯どきのざわめきのすべてが、水の底へ沈むように遠ざかった。代わりに、自分の靴音と心臓の音だけが、やけに近くで鳴っている。 「あれ?」 こはるが足を止めた。茜も止まる。 振り返った路地の入口が、妙だった。暗いのではない。澱んでいる。空気そのものに濁りが混ざって、街灯の光がそこだけ水飴のように重たく垂れて見えた。 「澪ちゃん、あれ……」 「静かに」 澪が短く言って、こはるを自分の後ろへ引き寄せた。 ふ、と世界の明るさが変わった。 まばたきひとつの間に、頭上から色が抜け落ちた。西の端に残っていたはずの茜色が消え、空は蓋をされたような灰紫になっている。なのに、暗くない。むしろ明るい。裏通りの街灯が、蛍光灯が、店の看板が、ぜんぶ点いている。昼間みたいに煌々と。 音だけが、死んでいた。 「表、戻るよ」 茜は二人の腕を引いて、路地を駆け戻った。数十歩でアーケードへ出る。出て、足が止まった。 誰もいなかった。 さっきまで夕飯の買い物客で賑わっていた商店街に、人っ子ひとりいない。なのに店の明かりは全部点いている。魚屋の氷の上には魚が並んだまま。コロッケの什器は湯気を上げたまま。店番のいないレジ。倒れたまま車輪だけ回り続ける自転車。五秒前までみんなが生活していたみたいな景色から、人間だけが抜き取られていた。 シャッターの下りた店の前で、こはるがスマホを取り出した。指が震えて、二度、画面を撫で損ねる。 「け、圏外……。やだ、なんで、駅の裏なのに……」 「うちも」澪が自分の画面を一瞥して、すぐ仕舞った。「アカネは」 「だめ。アンテナ立ってない」 画面の時計だけが動いている。十九時四分。世界のほうが止まって、時間だけが置き去りに流れている。 (なにこれ。なんなのよ、これ……) 茜は唾を飲んだ。喉の鳴る音が静まり返ったアーケードに響いた気がして、余計に心臓が速くなる。怖い。認めたくないが、これは怖い。地震でも停電でもない。世界の作りが、根っこから間違っている。 ――ひ。 と、笑い声がした。 人間の声ではなかった。空気の抜けた笛のような、湿った、ひしゃげた音。ひ、ひ、ひ。ひとつではない。シャッターの影から。自販機の裏から。八百屋の台の下から。 それは、湧いてきた。 最初に見えたのは眼だった。濁った黄色の眼が、暗がりの中で二つ、四つ、六つ。続いて、影が路面へ這い出してくる。子供ほどの背丈。だが子供ではあり得ない。灰緑色の皮膚、耳まで裂けた口、そこから覗く乱杭歯、だらだらと糸を引く涎。手足は針金みたいに細いのに腹だけが膨れて、指は不気味に長い。 醜い、としか言いようのない小鬼どもだった。 「な、なに、あれ……なんなのぉ……っ」 こはるの声が裏返る。澪は答えず、一歩下がってこはるを庇う位置に入った。その横顔は落ち着いて見えたが、手首のヘアゴムを握る指が白くなっていた。 三。五。八。十――数えるのをやめた。小鬼は次から次へ、光の澱みから滲み出すように増えていく。裏路地の方からも湿った笑いが近づいてくる。挟まれている。 茜の頭が、勝手に切り替わった。 コートの頭だ。敵の数。位置。味方の位置。空いているスペース。考えるより先に眼が拾う。アーケードの出口は正面、約五十メートル。左右はシャッター。後ろは路地。敵がいちばん薄いのは――正面右。 「――走るよ!」 茜は叫んで、二人の背中を突き飛ばすように押した。 「出口まで一直線! 澪、こはる連れて先行って! 振り向かないで!」 「アカネは」 「あたしが最後尾! ポイントガードは全部見える位置からって決まってんの!」 走った。三人で走った。小鬼どもが、ひゃはは、と湿った歓声を上げて追ってくる。足は――遅い。よちよちと不格好な駆け方で、一匹一匹はまるで速くない。いける。この差なら逃げ切れる。 正面へ回り込んできた一匹が、こはるへ飛びかかった。 茜のほうが速かった。半歩で割り込み、バスケで鍛えた腿を撓めて、膝から下を振り抜く。爪先が小鬼の胴に食い込んだ。軽い。ボールより軽い。小鬼は悲鳴を裏返して吹っ飛び、八百屋の台へ背中から突っ込んだ。積んであったみかんが景気よく散らばる。 (なんだ) いける。 (軽い! こんなの、全然――) 足元へ潜り込んできた二匹目を、茜はステップひとつでかわした。急停止、切り返し。相手の重心が泳ぐ。コートで百回やってきた動きだ。がら空きの横っ面へ、通学鞄をフルスイングで叩き込む。三匹目。フェイントに引っかかって同士討ちしかけた二匹の間を、低い姿勢で擦り抜けた。 勝てるとまでは思わない。でも、逃げ切れる。この足なら。 その計算は、半分だけ合っていた。 一匹ずつなら、小鬼は弱い。遅い。単純だ。――だが奴らは、一匹で来る生き物ではなかった。 前を走る澪とこはるの行く手、出口までの最後の十数メートルに、新しい影がぞろりと並んだ。五、六匹。逃げ道を塞ぐ位置へ、先回りして。挟み撃ちの形が完成していた。遅い足で、しかし群れ全体としては、最初から獲物の走る先を読んでいた。 「止まらない! 右の隙間、抜け――」 茜が叫んだ、そのときだった。 こはるが、転んだ。 濡れた路面のせいか、恐怖で竦んだ足のせいか。前のめりに崩れて、抱えていたマネージャーバッグが手から離れ、路面を滑った。留め具が弾け、中身がぶちまけられる。絆創膏の箱。テーピング。消毒液の茶色い瓶が、からからと音を立てて転がっていく。部の誰かの膝のために几帳面に詰められていた小さな箱たちが、灰色のアスファルトへ散らばった。 「こはるちゃ――こはる!」 「ひっ、あし、足……ごめ、ごめんなさ……っ」 こはるが起き上がりかける。その襟首へ、いちばん近くの小鬼が涎を撒きながら飛びついた。 届かなかった。澪が戻っていたからだ。 百七十五センチが、こはるの上へ覆い被さるように割り込んで、飛びついた小鬼を裏拳で叩き落とした。センターの腕は伊達ではない。小鬼が路面で二度弾む。澪はこはるの腕を掴んで引き起こそうとして――その一瞬、足が止まった。 群れは、その一瞬を待っていた。 左右のシャッターの影から、白いものが糸を引いて飛んだ。蜘蛛の糸を何百本も撚り合わせたような、粘つく縄。それが澪の右腕へ、続けて左足へ、ぱしゅ、ぱしゅ、と音を立てて絡みついた。 「これ……!」 澪が腕を振る。糸は千切れない。それどころか、引かれた。糸の端を三匹がかりで掴んだ小鬼どもが、体重を全部かけてのけぞる。あの針金のような細腕のどこに、と疑う膂力だった。百七十五センチの長身が、ずるりと横へ泳ぐ。それでも澪はこはるを離さなかった。離さないから、体勢を立て直せない。片膝が、がくんと路面についた。 「澪ちゃん! やだ、わたしのことは、いいから……!」 「良くない」 短く言い切って、澪はこはるを腕の中へ抱え込んだ。その背中へ、二本目、三本目の糸が降る。肩に。腰に。糸は巻きつくたび、じゅ、と小さく音を立てて締まっていく。大きな身体は、大きいがゆえに良い的だった。 (戻っちゃだめ。逃げてって言うべきなんだ。あたしが囮になって、二人だけでも) 考えは、そこまでだった。身体が先に走り出していた。仲間が捕まっているのに背中を向けるという選択肢は、小日向茜の中には、生まれてこのかた存在したことがない。 「その手ぇ離せっ、この……!」 糸の束を掴む小鬼の一匹を、茜は跳び蹴りで薙ぎ倒した。二匹目の顔面へ鞄を叩きつけ、澪に絡んだ糸を素手で引き剥がしにかかる。糸は指に吸いつき、粘って、焼けるほど冷たかった。剥がれない。爪を立てても、体重をかけても。 「アカネ、だめだ。来るな。これは……数が違う」 「うるさい! 誰が置いてくか、そんなの――」 言い終わる前に、足首を掴まれた。 見下ろすと、路面に張りついた小鬼が、両手で茜の右足首を抱え込んでいた。振りほどこうと膝を上げる。上がらない。子供の背丈の、あの細腕なのに、万力で締められたように動かない。大人の男の――それも何人分もの力で掴まれている感触だった。 ぞ、と全身の産毛が立った。 (う、そ。なによ、この力……) 軽かったはずだ。蹴れば飛んだはずだ。それは奴らが「飛ばされてやっていた」だけなのだと、掴まれてはじめて分かった。 左足へ糸が絡んだ。腰へ、背中へ、次々に。引き倒される。膝が落ちる。アスファルトの冷たさが、スカート越しに腿へ届く。それでも茜は暴れた。肘を振り、頭を振り、掴めるものを全部掴んで爪を立てた。一匹の耳を引きちぎる勢いで握ったら、ひぎゃ、と汚い悲鳴を上げて離れた。その隙に右腕が半分自由になる。ならば、と拳を固めた瞬間――どっ、と背中に重さが乗った。 一匹ではない。二匹、三匹、四匹。数えられない数が、上から、横から、折り重なって乗ってくる。膨れた腹の生温かさと饐えた息の臭いが、制服越しに、髪越しに、押し寄せてくる。 「はな、せ……っ、離せええっ!」 叫びながら、茜は視界の端で見た。 こはるを抱えたままの澪が、五匹がかりで路面へ引き倒されるのを。解いたばかりの長い黒髪が扇のように広がって、灰色のアスファルトへ散るのを。その腕の中から引き剥がされたこはるが、短い悲鳴とともに、二匹に両腕を取られて押さえ込まれるのを。 守ろうとした順番のまま、三人は捕まった。 こはるが転び、それを庇った澪が捕まり、それを助けようとした茜が沈められた。誰も間違えていない。誰ひとり、薄情なことをしなかった。互いを想う動きのひとつひとつが、そのまま、群れの敷いた順路だった。全員で逃げていれば――そんな仮定は考えたくもないし、考えたところで、たぶん結末は変わらなかった。最初から、数が違いすぎた。 頬に、アスファルトの冷たさが押しつけられる。 茜はうつ伏せに組み伏せられ、両腕を背中側へ捻り上げられていた。じたばたと跳ねる脚へ、粘つく糸が巻かれていく。手首に。足首に。糸の端は路面へ、ぬち、と音を立てて貼りつけられた。試しに渾身の力で引く。釘で打たれたように、びくともしなかった。 縫い付けられた。路面に。虫の標本みたいに。 「いっ……ぱなしなさい、よ……っ」 声は出る。口は塞がれていない。叫べば、その声はアーケードの天井に反響して、シャッターに跳ね返って、よく響いた。響くだけだった。数メートル先の店の明かりは煌々と点いて、氷の上の魚は新鮮なままで、けれどこの世界のどこにも、聞く耳が存在しない。 視線だけ動かすと、右手に澪が、その向こうにこはるが、同じように路面へ貼りつけられているのが見えた。澪は仰向けに手足を広げた形で固定され、それでも首をもたげて、群れを睨み据えている。こはるはうつ伏せのまま、ひっく、ひっく、としゃくり上げて、「ごめんなさい、ごめんなさい」と誰にともなく繰り返していた。転んだのは自分だから、と言いたいのだろう。誰も責めていないのに。 「こはる、泣かない! 澪、無事!?」 「ん。無事」 澪の返事はいつも通りの一音で、いつも通りでは全然なかった。低い声の底が、細かく震えていた。 小鬼どもは、もう慌てていなかった。 仕留めた獲物の周りを、くつ、くつ、と喉を湿らせながら、ゆっくり歩き回っている。濁った黄色の眼が、路面に貼りつけられた三人の上を、頭から爪先まで、何度も何度も往復する。涎がひとすじ、茜のすぐ横の路面へ落ちて、ぴちゃりと鳴った。 急がない。逃げられないと分かっているから、急がない。その余裕が、飛びかかられるより、よほど怖かった。 (なに。なんなのよ。あんたたち、あたしたちを――どうする気) 答えの代わりに、群れの笑いが、ひときわ湿り気を増した。 頭上では、無人の商店街の明かりが、何も知らない顔で煌々と灯り続けていた。 群れの動きが、変わった。 仕留めるまでの荒々しさが引いて、代わりに、嫌な静けさが降りた。囲みの中から数匹が進み出てくる。他より指の細い、爪の薄い連中だった。残りは糸の端を握り直して押さえに回る。押さえる者と、これから何かをする者。群れの中で、仕事が分かれていた。獣の群れがする動きではなかった。 (なに。なにする気) 進み出た一匹が、茜の襟元へ手を伸ばした。 「さわ……っ、触んな!」 首を振って威嚇しても、長い指は怯まなかった。えんじのリボンの結び目に指先がかかる。そして、ほどいた。引きちぎるのではなく、結び目の芯を摘まんで、しゅる、と一息に。 ぞっとした。乱暴に破かれるより、よほど。 こいつらは、服の脱がせ方を知っている。 カーディガンのボタンが上から順に外されていく。シャツのボタンも。汚らしい見た目に似合わず、小さな指先は一度も掛け違えなかった。前立てが左右へ開かれ、夜気が素肌の腹に触れる。スカートのホックが外され、ファスナーの下りる音が、静まり返ったアーケードにやけに大きく響いた。 「やめ……っ、やめなさいよ、ちょっ……!」 腰を浮かせて抵抗する。その動きすら利用された。浮いた腰から、スカートがするりと抜き取られる。黒のハイソックスが片方ずつ丁寧に剥かれ、素足の踵がアスファルトに触れた。 右手で、布の擦れる音がした。 澪だ。仰向けに大の字へ固定された百七十五センチの上で、数匹がかりでシャツの前が開かれていく。長い胴。引き締まった腹には浅い縦の線が通り、肋の下から腰骨へ、無駄のない稜線が続いていた。センターの当たりを支える肩まわりも、長く形のいい脚も、しなやかな筋肉で覆われて、糸の下で強張っている。飾り気のないスポーツブランドの下着が、街灯の白い光に晒された。長身は、晒される面積も大きかった。 「見るな、アカネ」 澪が言った。声は低いまま、揺れてもいなかった。ただそれは茜への言葉で、つまり澪は、自分が剥かれることより先に、茜に見せてしまうことを気にしていた。 その向こうで、こはるが泣いていた。 「やだ……っ、ぬがさない、で……ごめんなさい、ごめんなさいっ!」 謝りながら、剥かれていく。ブラウスの下から現れたのは、小花の刺繍の入った淡い水色の下着だった。柔らかい身体だった。二の腕も、お腹も、太腿も、運動部の二人とは違うまろやかさに包まれて、押さえつける小鬼の指が、白い肉へ半分ほど沈んでいる。沈んだ指を、餅のような肌がやわらかく押し返していた。 そして指どもは、最後の布に取りかかった。 茜のスポーツブラの、背中のホックが外された。 締めつけが、消えた。押さえ込まれていたものが支えを失って、ぶるん、と零れ出る。 「――っ!」 声にならなかった。 百四十九センチの細い骨格の上で、そこだけが場違いに豊かだった。白い肌の丸みが夜気に触れ、薄桃色の先端がつんと上を向く。走るたび必死に押さえ込んできた、努力と何の関係もなく育った膨らみが、呼吸に合わせて揺れながら、群れの視線の真ん中に晒された。 群れの喉が、ごくりと一斉に鳴った。 (見てる。みんな、見てる。あたしの、いちばん――) いちばん隠したい場所から、暴かれた。 ショーツも同じ手際で三人ぶん抜き取られた。制服と下着が、灰色の路面に小さな山を作る。こはるの水色。澪の黒。茜のそれ。散らばった絆創膏の箱の隣で、ついさっきまで三人の日常を包んでいた布は、もう誰のものでもない山になった。 鎖骨で、細いネックレスだけが残っていた。唯一。その小さな銀の光が、かえって裸を裸として際立たせた。 品定めが、始まった。 群れはすぐには群がらなかった。路面に縫い付けた三つの獲物の間を、ゆっくりと練り歩く。濁った黄色の眼が、爪先から髪まで這い上がり、また下りていく。長い指がこはるの二の腕をつつく。ふに、と沈む。感触を確かめて、隣の一匹と顔を見合わせる。澪の太腿の筋を爪の背でなぞる。跳ねる。それも確かめる。茜の胸の膨らみへ、横から無造作に指が食い込んだ。 「やっ……!」 白い乳肉が指の形にひしゃげ、離れると、弾んで元に戻る。それを二度、三度。玩具の出来を確かめる手つきだった。あちこちで涎が糸を引き、一滴が茜の鎖骨に落ちて、生温かく谷間へ伝った。 「〜〜っ、きったな……! やめろっての……!」 群れの奥から、一匹が進み出た。 他より頭半分大きい。灰緑の皮膚に古い傷が幾筋も走り、片耳が欠けている。群れが自然と道を空けた。その一匹は三人を順に見下ろして、それから、耳まで裂けた口を開いた。 「……メス。ミッツ」 言葉だった。 しゃがれて、潰れて、けれど確かに、人間の言葉だった。人の形を貶めたような姿から、人の言葉を貶めたような音が出てくる。それは唸られるより笑われるより、ずっと悪かった。 「シロイ。ヤワイ。……ソダチ、イイ」 こはるを指し、澪を指す。品書きを読む声だった。そして欠けた耳の顔が、最後に茜の胸元で止まった。 「チビ。……チチ、デカイ」 群れが、どっと沸いた。 ひしゃげた笑い声の輪の中で、茜は顔から火が出た。恐怖で竦んでいる真っ最中のはずなのに、羞恥だけは別の回路で生きていて、首筋まで一気に血を上らせる。 「うっさい! 化け物のくせに、しゃべんな……っ!」 言い返した声は、自分でも分かるほど上擦っていた。 ――おかしくなり始めたのは、そのあたりからだった。 空気が、甘い。 息を吸うたび、喉の奥に薄い甘みが張りつく。饐えた獣臭に混ざって、もっと別の、花の腐る手前のような匂いが確かに混ざっている。そしてそれを吸い込むたび、胸の奥で、火鉢に炭を足すように熱が増えた。 寒いはずだった。裸で、夜で、アスファルトの冷たさが背中に貼りついている。なのに肌の表面だけが火照っていく。頭の芯に薄い膜がかかる。下腹の奥で、覚えのない鈍い熱が、ゆっくりととぐろを巻き始めていた。 (なに、これ) 怖い。それは一片も減っていない。心臓は警鐘のまま鳴り続け、指先は冷えて震えている。なのにその震えの下で、身体が、あたしの身体が、何かに向かって、勝手に支度を始めている。 (違う。違う違う、なんで、こんなときに――) 乳首が、尖っていた。 夜気のせいだと思った。思おうとした。けれど夜気は、こんな疼きまでは連れてこない。晒された胸の先端が、誰にも触れられていないのに、じん、と痺れて主張している。尖っていることを群れに見られている、と意識した途端、痺れはまたひとつ深くなった。 右手で、押し殺した息の音がした。 澪だった。仰向けの長身が、さっきまでとは違う強張り方をしていた。太腿を、糸の許すぎりぎりの幅で擦り合わせている。歯を食いしばった横顔に汗がひとすじ伝い、喉が、何かを飲み下すように上下した。何も言わない。「平気」とも言わない。その沈黙がいつもの澪の沈黙と違うことだけ、茜には分かった。 こはるは、混乱していた。 「や……なんで……ぇ……? からだ、へんだよぅ……こわいのに……こわい、のにぃ……っ」 涙でぐしゃぐしゃの顔で、自分の身体を見下ろしている。柔らかな内腿をもじもじと擦り合わせ、そうしてしまう自分の意味が分からないというように、また泣いた。 怖いのに。 その通りだった。怖いのに、だ。恐怖はひとかけらも減らないまま、三人の身体だけが火照っていく。この澱んだ空気そのものが雌の身体にだけ効く毒なのだと、そんな理屈を、三人の誰も知らない。知らないまま、効かされていた。 欠けた耳の古株が、鼻を鳴らした。 すん、すん、と二度。裂けた口の端が、つり上がった。 「……ニオッテ、キタ」 古株が顎をしゃくると、指の長い数匹が、再び三人に取りついた。 今度は、服ではなかった。 こはるの、閉じ合わせようともがく膝が左右へこじ開けられる。白くまろやかな内腿の奥、慎ましい茂みの下へ、長い指が一本、無造作に潜り込んだ。 「ひゃうっ……!? やっ、そこ、みないで、だめ、だめぇっ!」 指はすぐに引き抜かれた。乱暴なことは何もしていない。ただ、確かめただけ。掲げられた指先は、濡れて、光っていた。透明な糸が、つ、と伸びて切れる。 群れが沸いた。 こはるは自分の身体が出した答えを目の前に掲げられ、言葉もなく、いやいやと首を振った。振るたび、涙が飛んだ。 次は澪だった。長い脚の付け根に指が届いた瞬間、腰がびくんと大きく跳ねる。跳ねた自分に、澪がいちばん驚いた顔をした。引き抜かれた指は、やはり濡れていた。澪は今度こそ何も言わず、天を仰いできつく目を閉じた。ヘアゴムの残る手首の先で、拳が白く固まっていた。 (やめて。やめてよ。次は) 来る。分かっていた。分かっていて、どうにもならなかった。 茜の両膝に、小鬼の手がかかった。バスケで鍛えた脚は精一杯に抗い、それでも万力の膂力に、じり、じり、と割り開かれていく。街灯の白い光が、隠すもののなくなった脚の付け根へ容赦なく差し込んだ。誰にも見せたことのない場所だった。色素の沈着ひとつない、小さく慎ましく閉じた花弁。その合わせ目が、自分でも分かっていた。さっきから、そこだけが熱い。 長い指が、花弁の合わせ目を下から上へ、ちゅく、となぞった。 「んぁっ……!?❤️」 跳ねた。腰が、勝手に。 電気とも痒みともつかない鋭い疼きが背骨まで走り抜けて、噛み殺す間もなく、鼻にかかった声が漏れた。自分の声とは思えない、甘ったるい音だった。 (今の、なに。今の声、なに……っ) 引き抜かれた指が、茜の顔の前に掲げられた。 濡れていた。指の腹から第二関節まで、ぬらりと。傾けると、粘った雫がゆっくり伝うほどに。触れられてもいなかった場所が、恐怖に竦んでいたはずの身体のいちばん奥が、とっくに支度を済ませていた。その証拠が、目の高さで光っていた。 「ち……ちがっ……」 違う。これは違う。汗とか、そういうのであって、感じてるとかじゃ、絶対―― 「ヌレタ」 古株が、言った。 「チビ、イチバン、ヌレタ」 哄笑が、爆ぜた。 ひしゃげた笑いがアーケードの天井に反響し、何十にも増えて降ってくる。茜は真っ赤になって叫んだ。 「違うっ! 違う違う、こんなの……あんたたちなんかに、感じるわけないでしょっ!」 言い張る声の下で、暴かれたばかりの場所が、また、とろりと熱を零すのが分かった。言葉は嘘をつけても、そこは嘘をついてくれなかった。 古株の濁った眼が、三つの獲物をもう一度、順に舐めていく。 そして欠けた耳が、いちばん端で泣きじゃくる、柔らかな獲物のほうへゆっくりと向いた。 「……ヤワイノ。サキ」 群れが、動いた。 こはるを路面に留めていた糸が、次々に引き剥がされた。 解放ではなかった。四肢を一本ずつ小鬼が抱え、じたばたと暴れる柔らかな身体を、荷物みたいに持ち上げただけだ。運ばれた先は群れの真ん中、茜のちょうど正面だった。うつ伏せの茜が顔を上げれば、まっすぐ視線の届く位置。数メートル。声も届く。手だけが、永遠に届かない。 (わざとだ) 偶然の配置ではない。獲物を選び、押さえ、剥ぎ、そして今度は、見せる。この醜い群れは、そこまで知っている。 「やめなさいよ……っ! こはるから離れろ! やるならあたしにしなさいよ!」 叫んだ茜のほうへ、欠けた耳の古株が濁った眼だけを寄越した。 「チビ。……ミテロ」 短い音が、宣告として落ちた。 こはるは仰向けに下ろされ、白い膝の裏へ小鬼の長い指がかかった。閉じようともがく脚が、左右へゆっくり折り畳まれていく。柔らかな内腿の肉に指が半分まで沈み、餅めいた白さがその指を無駄に押し返す。慎ましい若草色の茂みの奥、誰にも見せたことのないはずの小さな花弁が、街灯の白光の下へ割り開かれた。検分の指が暴いたとおり、そこはもう、ぬらぬらと濡れ光っていた。 「や……みないで……茜ちゃん、みないでぇ……っ」 こはるが首をよじって、茜から顔を隠そうとする。その顎を、小鬼の指が掴んで正面へ戻した。顔まで、見せる算段だった。 群れから一匹が進み出て、こはるの開かれた脚の間へ這い上がった。膨れた腹の下、針金じみた体躯には場違いなほど太いものが、涎のような粘液をまとって反り返っている。茜の喉が引き攣れた。あんなもの、入るわけがない。入っていいわけがない。 「ごめんなさい……ごめんなさい、たすけて、ごめんなさい!」 こはるの謝罪は、もう誰に向けたものでもなくなっていた。転んだこと。捕まったこと。濡れていたこと。この子は全部、自分の罪だと思っている。誰も責めていないのに。 切先が、濡れた合わせ目にあてがわれた。 「だめ、だめだめ、それはだめ……ごめんなさ——」 ずぷ……ずぷぷぷっ。 謝罪が、途中で断たれた。 小さな花弁が限界まで押し拡げられ、狭い入口が異物の形に開かれていく。こはるの背中が弓なりに浮き、開いた口から、声にならない息だけが漏れた。まっさらだった場所を割られる痛みに、まろやかな肢体の全部が硬直する。それでも奥は、瘴気に支度をさせられた奥だけは、痛みと関係なくぬめって、侵入を滑らかに呑み込んでいった。 「ひぐぅっ……!? あ、あぁ……はいって……やだ、やだぁ。」 「こはる……っ! この……離れろ! 離れろっての!!」 茜は暴れた。糸は軋みもしなかった。目の前で、親友の初めてが、名前も知らない醜い生き物に貫かれていく。まばたきすら、許されている自由が憎かった。 小鬼が動き始めた。 ぱちゅっ、ぱちゅっ、と湿った打擲音が、静まり返ったアーケードの天井に反響する。突かれるたび、こはるの柔らかな身体は全部が揺れた。豊かというより幼い丸みの胸が波打ち、白いお腹が震え、涙の粒が飛ぶ。押さえつける指が二の腕に食い込んで、その痕まで痛々しく赤い。 「ごめんな、さ……あっ、や、あっ……ごめん、なさ、ひぁっ」 謝罪の合間に、別の音が混ざり始めていた。 鼻にかかった、甘い音。本人がいちばん驚いた顔で、自分の口を出ていく音。突かれるたび、痛みの色が薄まって、代わりにその甘い音の割合が増えていく。結合部の音も変わっていった。軋むような摩擦音が、ぐぢゅ、ぐぢゅ、と粘り気を帯びて、一突きごとに深く、重くなる。瘴気を吸わされ続けた身体は、痛みを乗り越える速さまで作り替えられていた。 (うそ……こはる、声が) 見たくない。見ていたくない。なのに茜は目を逸らせなかった。逸らすことは、こはるを一人にすることだ。それだけは、できない。できないから、全部見えてしまう。親友の顔が、痛みの歪みから、知らない形へほどけていくのが。 小鬼の動きが速まり、ひときわ深く突き込んで、止まった。 びゅくっ、びゅくくくっ。 膨れた腹が痙攣し、こはるの最奥へ、熱いものが注ぎ込まれた。 その瞬間だった。 「——ぇ」 こはるの声が、落ちた。まばたきひとつぶんの静止。それから。 「あ、あつ……なか、あつい……や、なにこれ、なにこれぇ……っ、あ、あ゛っ、や゛っ、くる、なんかくるっ、やだやだやだ——んひぃぃぃぃっ!?❤️❤️」 柔らかな肢体が、糸と指の拘束の中で大きく波打った。 つま先がぴんと突っ張り、白いお腹が波打ち、腰が、押さえられたまま、がくがくと壊れたように痙攣する。目は見開かれたまま焦点を失い、開いた唇の端から涎がひとすじ伝った。異物を咥えたままの入口が波打つたび、掻き混ぜられて白く濁った蜜が、ぷちゅ、と隙間から押し出される。長い。痙攣が、長い。注がれたものが引き金を引いた何かは、こはるの意思のどこも通らずに、身体だけを頂点へ持っていって、そのまま降ろさなかった。 やがて、がく、がく、と余震の間隔が空いて、こはるはぐったりと路面に沈んだ。荒い呼吸で胸が上下する。焦点の戻らない眼が、ゆっくりと、自分の下腹へ落ちる。 「いま、の……なに……? わたし……なんで……」 誰も答えなかった。答えの代わりに、群れがどっと沸いた。 茜には分かってしまった。分かりたくなかった。今のは、イった、というやつだ。噂話でしか知らない言葉が、親友の痙攣に、正確に重なってしまった。犯されて、注がれて、それだけで。 「ソソグ。……メス、ハネル」 古株が、品評の声で言った。ひしゃげた笑いが唱和する。 「モット。ソソゲ」 次の一匹が、もう脚の間に取りついていた。 引き抜かれた入口から白濁がごぽりと溢れかけ、それを栓で塞ぐように、二本目が押し込まれる。ぐぢゅん、と派手な水音が鳴った。もう軋まなかった。注がれたものと蜜が混ざって、こはるの中は、二匹目を最初から滑らかに迎え入れてしまった。 「や……もう、ゆるして……ごめんなさい、ごめんなさい、あっ、あ゛っ、ごめんなさ……あ゛あっ❤️ だめ、また、あついのだめ、それされたら、またへんに、な゛っちゃ……あ゛ぁあっ❤️❤️」 波状だった。 二匹目が最奥で果てて、こはるの身体が大きく波打った。びゅくっ、と注がれた熱に攫われて、柔らかな腰が浮く。降りきる前に、三匹目の重みが乗った。 その三匹目は、急がなかった。 挿れたまま、太い指がまず二の腕へ這った。押さえるための指ではない、確かめるための指だった。柔らかな二の腕の肉をゆっくりと揉み込み、続けて内腿の柔肉を掴んでは離す。餅のように沈んで、押し返してくる。その感触を気に入ったらしい小鬼は、腰を止めたまま、こはるの胸の膨らみにも指を這わせた。むにゅ、むにゅ、と形を変える白い肉を飽きずに確かめてから、ようやく腰を進める。 「ぁ……あ、また、さわ……っ、いっしょに、しないでぇ……っ」 柔肉を揉まれる感触と、奥を突かれる感触が重なって、こはるの声から、初めて痛みの色がすっかり抜け落ちた。もう、痛くない。痛みの膜を突き破って、疼きだけが残っている。びくん、びくんと震える太腿。膝の裏に食い込む指。あてがわれたまま腰を数度だけ揺すられて、また、注がれる。 どぷっ、どぷどぷっ。 こはるの背が、大きく反った。 「あ゛ぁ……っ❤️ また、くる、くるの……あ゛ぁあああっ❤️❤️」 注がれる熱に、柔らかな身体がゆっくりと大きな波を打つ。速さより深さで押し寄せる痙攣が、腰から胸の先まで一拍遅れて伝っていく。波が引くと、こはるはひとしきり浅い呼吸を繰り返し、焦点の戻らない眼で、宙の一点をしばらく見つめた。その静止のさなか、まだ抜かれずにいる小鬼の腰へ、こはるの腰が、ほんのわずか、迎える形で持ち上がった。誰の指図でもない。本人すら気づいていない、初めての揺れ返しだった。 引き抜かれた入口から、白く濁った蜜が、とろりと糸を引いてこぼれた。もう透明な蜜だけではない。注がれたものと混じり合って、粘度も色も、最初とはまるで違うものに変わっていた。 その静止さえも、四匹目の重みに踏み潰された。 三匹目が注いで、波打って、四匹目。柔らかい身体はそのたび攫われるように痙攣し、痙攣が終わる前に次が始まった。降りる暇を与えられない頂の連続に、こはるの言葉は、目に見えて溶けていった。 「ごめんなさい」が「ごめんなさ、ぁ」になり、「ごめ……なさ……」になり、やがて。 「ごめんな……あ゛っ❤️ ごめ……ご、め……あ゛っ❤️あ゛っ❤️ め……ん……なひゃ……ぃ❤️❤️」 ひらがなだけの、泣き声になった。 意味の骨が抜け落ちて、音の破片だけが残った。謝りながら、跳ねる。跳ねながら、謝ろうとする。世話焼きで、涙もろくて、人のために一歩踏み出せる子の健気さが、最後まで謝罪の形にしがみついて——その健気さごと、注がれるたびに頂へ攫われていく。それを見ていることが、茜には拷問だった。 「もうやめて……お願いだから、もう……こはるが、壊れちゃう……っ」 いつのまにか茜の声から、命令の形が抜け落ちていた。群れは聞かなかった。五匹目が、六匹目が、順番を待って喉を鳴らしていた。 そして、最後のほうは。 「ぉ゛……❤️ んお……っ❤️ あ゛ぉ゛……❤️❤️ ぉ゛っ❤️ぉ゛っ❤️ ん゛ん゛ーー……っ❤️❤️」 もう、言葉ですらなかった。 ひらがなの破片すら組めなくなって、こはるの喉から出るのは、獣が鳴らすのに似た、低くひしゃげた音だけになった。突かれれば鳴き、注がれれば喉を反らせて長く鳴く。涎に濡れた唇は半開きのまま、とろんと溶けた眼は天井の明かりをただ映して、柔らかな腰だけが、突き込みの拍に合わせて小さく揺れ返している。誰よりよく喋る、誰より声の明るいあの子の声帯から、あの音が出ている。それが、茜にはいちばん恐ろしかった。 (返して) 糸に縫われたまま、茜は奥歯を軋ませた。 (こはるの声、返してよ……!) 群れの何匹目かが、満ち足りた唸りとともにこはるから降りた。白濁と蜜にまみれた白い内腿が、ひく、ひく、と力なく震えている。もう閉じ方を思い出せない脚の間から、注がれたものがとろりと路面へ垂れて、小さな水たまりを作り始めていた。使い尽くされた小さな入口は、閉じることを覚え直せないまま、街灯の光の下で呼吸のように小さくわなないている。 古株の濁った眼が、ゆっくりと隣へ滑った。 仰向けに大の字へ縫われたまま、歯を食いしばってすべてを睨み続けていた、百七十五センチの上で止まった。 澪を路面に留めていた糸が、一本ずつ引き剥がされていく。 最後の一本が剥がれた瞬間、澪は動いた。長い脚が真下から一匹を蹴り上げ、自由になった肘が別の一匹の喉へ入る。仕留められてから初めての、溜めていた本気の抵抗だった。二匹が転がった。三匹目が怯んだ。 だが群れは、数で答えを出した。 六匹、七匹。体重をまとめて浴びせられ、百七十五センチの長身は、こはるの隣、茜の真正面へ、うつ伏せに引き据えられた。両腕を背へ捻られ、腰だけを高く抱え上げられる。獣の交尾の形だった。長い背中がしなり、引き締まった腰から張りのある尻へ、鍛え抜かれた稜線が街灯の白光に晒される。大きな身体は、その大きさのぶんだけ、どの角度からも隠れようがなかった。暴れる姿がいちばん大きく、剥かれた姿がいちばんよく見える。守る側として生きてきた長身の、それが取り分だった。 顔だけを上げて、澪は言った。 「見るな、アカネ」 低く、平らな声だった。コートで指示を出すときと同じ声。これから自分がどうされるか分かっていて、その上でなお、先に茜の側を守りに来る声だった。 (ばか……そんな声、出さないでよ……っ) 逸らせなかった。こはるのときと同じだ。目を逸らすことは、澪をひとりにすることだ。だから茜は見ているしかない。見ていることしか、できることが残っていない。 一匹が澪の背へ這い上がった。針金じみた体躯に不釣り合いな太い切先が、涎に似た粘液を垂らしながら、割り開かれた脚の間へあてがわれる。検分の指が暴いたとおり、そこはもう濡れていた。本人の意思をどこも通らずに、瘴気だけが済ませた支度だった。 めり……めりっ。 狭い入口が、軋みながら拡げられていく。まっさらな場所を割られる衝撃に、長身がびいんと一本の弓になった。澪は、声を出さなかった。奥歯を噛み合わせ、息を鼻だけで通し、破瓜の痛みを丸ごと肺の底へ沈めていく。路面についた指先だけが、白くなるまでアスファルトを掻いた。 小鬼が腰を打ちつけ始める。ずちゅっ、ずちゅっ、と粘った音が拍を刻み、突かれるたび、長い黒髪が扇のまま前後へ流れた。引き締まった太腿が張り、形のいい尻肉が衝撃に波打つ。運動部の硬い筋肉の下で、それでも女の柔らかさだけが正直に揺れた。 澪は最後まで、声を殺し続けた。 どぷっ、どぷどぷっ。 最初の白濁が、最奥へ注がれた。 瞬間、長身がしなった。腰から背まで太い痙攣が駆け抜け、抱えられた腰ががくがくと二度、三度暴れる。胎を焼く熱は、こはるを一撃で頂へ攫ったのと同じ毒だ。身体は正直にしなった。しなりながら、澪は噛み殺した。首をねじり、汗の伝う横顔で、自分に注いだ小鬼を睨み上げる。 「それ、で?」 掠れて、震えて、それでも底の折れていない声だった。 群れの笑いが、一拍、途切れた。 (澪は、すごい) 茜は糸の下で、震えながらそう思った。あの熱を注がれて、跳ねる身体の上で、まだ睨んでいる。まだ声を渡していない。頼れる親友は、この地獄の底でもまだ、頼れる澪のままでいてくれる——。 二匹目が乗った。 最奥で果てた瞬間、噛み締めた澪の奥歯が軋んだ。声は出さなかった。だが、群れを睨みつけていた眼の角度が、ほんのわずかに下がった。まっすぐ見返していた眦が、心なしか伏し目がちになる。誰も気づかないはずのその変化を、茜だけは見逃さなかった。 三匹目が挿れられる間、澪は路面を睨んだまま、額に浮いた汗を拭う余裕もなく荒い呼吸を繰り返した。突き込みが再開されると、握られていた拳から、力がひとつ抜けた。白く固まっていた指の関節が、ほんの少しだけ、色を取り戻す。握りが緩んだぶん、痛みへ回していた気力が、どこか別の場所へ流れていくのが分かった。 三匹目が注いだ。長身はしなり、痙攣が背から腰へ駆け下りる。そのたび澪は、声だけは殺し通した。噛み締めた唇の端が切れて、細い血の糸が顎へ伝う。強制された絶頂の波を、澪は表情から先に上へ出さない。それでも、睨みの強さは確実に一段ずつ落ちていた。眼だけを研いで、順番を待つ群れを一匹ずつ睨みつけていく。その光が、最初の一匹を睨んだときと同じ強さではないことに、澪自身は、まだ気づいていなかった。 だが、この醜い群れは学ぶ生き物だった。 何匹目かが果てて降りたあと、押さえの一匹の長い指が、汗で滑って、尻の谷間を浅く掠めた。 澪の息が、詰まった。 ほんの一瞬だった。瞬きより短い、喉の引っ掛かり。誰も気づかないはずの綻びを、濁った黄色の眼は、見逃さなかった。 群れのざわめきが、質を変えた。欠けた耳の古株が、ゆっくりと首を伸ばす。 「……ウシロ。イマ、ナイタ」 「な——」 澪の声が、初めて乱れた。 長い指が今度ははっきりと、尻の谷間へ潜り込む。誰にも触れさせたことのない、性とはいちばん遠いはずの窄まりを、粘液に濡れた指先が円を描いてなぞった。 「や……っ、そこ、は……っ」 睨みが崩れた。低い声の底に、隠しようのない狼狽が滲む。膣を割られても中に注がれても揺れなかった声が、指一本で揺れた。窄まりの縁を揉むようにほぐされ、にちゅ、と粘液を塗り込まれるたび、鍛えた尻の筋肉がひくひくと意思を裏切って締まる。 「ソコ。……コエ、デル」 古株が、品書きへ新しい一行を書き足す声で言った。 指が引き抜かれ、代わりに一匹が澪の腰を抱え直した。切先があてがわれたのは、前ではなかった。 「ま……って。そこは、ちがっ——」 ぐ、ぐぽっ……。 窄まりが、こじ開けられた。 「ぁ……っ!?❤️」 声が、出た。 高く裏返った、澪のものとは思えない音だった。排泄のための孔を逆向きに割られ、腸壁を異物の熱がめりめりと進んでいく。痛いはずだった。痛みのはずだった。なのに澪の眼が、限界まで見開かれている。信じられないものを見る眼で、自分の腰のほうを振り返ろうとしている。 (澪……?) 小鬼が腰を引き、押し込む。ごりっ、ごりっ、と重い摩擦が刻まれるたび、長身の震えが変わっていった。痛みを堪える硬い震えではない。もっと深いところから緩んでいく、湯に落ちるような震え方。突かれるたび、澪の背がしなり、腰が、ほんのわずか拍に合わせて、後ろへ揺れ返り始めていた。本人の眼が、その腰を裏切り者を見る眼で見下ろしていた。 「ぅ……ぉ゛……っ❤️ な、んで……こんな、とこ……っ❤️」 低い声だった。裏返りが落ちて、腹の底から漏れる、掠れた低い音。噛み殺し慣れた声帯の、噛み殺し方を知らない場所から出る音だった。膣とは違う。注がれる熱とも違う。ここは瘴気の支度と関係なく、澪の身体そのものが、掘り当てられてはいけない場所だった。 「へい……き。わたし、は……へい——」 言い慣れた二文字が、途中で折れた。 ごりんっ、といちばん深い場所を抉られて、折れた言葉の断面から、低い嬌声がこぼれ落ちる。 「——ぉ゛……っ❤️❤️ く……ぅ゛……っ❤️」 平気。この地獄が始まってから、澪が茜とこはるに配り続けてきた二文字だった。庇って、抱え込んで、睨み返して、自分の被害だけ数えずにきた親友の、最後の持ち場だった。それが今、言い切れない。言おうとして、開いた唇から出てくるのは、湿った低い牝の音だけになっていく。 (やめて……澪のそれ、聞きたくない……澪が壊される音なんて、聞きたくない!) 自分が濡らされたときより、こはるの声が溶けたときより、それは茜の芯に深く刺さった。こはるは守られる側だった。でも澪は、守る側だった。茜と同じ側だった。同じ側の人間が崩されていく音は、明日の自分の音だからだ、そう気づいてしまった自分の醜さごと、茜は奥歯で噛み潰した。 一度だけ、澪は堪えようとした。 後ろを抉られるたび揺れ返そうとする腰を、太腿に力を込めて押さえ込もうとしたのが、茜にも分かった。強張った太腿の筋が浮き、震えながら踏ん張る。だが、次の一突きが最奥の壁を掘り当てた瞬間、その踏ん張りは呆気なく崩れた。押さえ込んだ分だけ大きく、腰は後ろへ揺れ返る。堪えようとした形跡だけが、余計に無様に見えた。澪自身、それに気づいたのだろう。喉の奥で、悔しさとも羞恥ともつかない音が短く鳴った。 空いた前の孔へ、別の一匹が潜り込んだ。 薄い壁一枚を挟んで、前と後ろが交互に突き上げる。ずちゅん、ごりっ、と二種類の水音が拍をずらして重なり、長身は二匹の小鬼の間で、どちらへ逃げることもできずに揺さぶられた。前を突かれた衝撃が薄壁越しに後ろの異物を締めさせ、後ろを抉られた疼きが前の襞から新しい蜜を押し出す。二匹は申し合わせもしないまま、澪の内側で互いの責めを増幅し合っていた。もう睨めていなかった。汗と涙で濡れた眼は宙の一点で焦点を失い、噛み締めていたはずの唇は半開きに緩んで、低い声が突き上げの拍のまま漏れ続けている。 「ぉ゛っ❤️……ん゛っ❤️……ぅ゛……ぉ゛っ❤️❤️」 押さえ込まれた指の中で、拳だけがまだ握られていた。手首から滑り落ちた黒いヘアゴムを、澪は最後の持ち物みたいに握り締めていた。 予兆は、脚から来た。 張り詰めていた内腿が細かくさざ波立ち、路面を掻いていたつま先が、きゅうっと内へ丸まっていく。腰の揺れ返しが拍とずれて大きくなり、息が浅く、速く、断続的になった。来る。見ているだけの茜にまで、それは分かってしまった。本人の意思のどの回路も通らずに、身体だけが頂へ押し上げられていくのが。 後ろの一匹が最奥で果て、前の一匹がそれを追った。 二つの熱が、薄壁越しに同時に弾ける。 「——ん゛ぅ……ッ、ぉ゛ぉ゛……ん゛ん゛ん゛ーー……ッッ!!❤️❤️❤️❤️」 長身が、限界まで反り返った。 声は最後まで低いままだった。低いまま、殺しきれなかった。歯の隙間から押し出される、遠吠えを喉の奥で潰したような長い唸りが、シャッターの並ぶアーケードに反響する。百七十五センチの全部が硬直し、二匹を咥え込んだ腰だけが、がくっ、がくっ、と大きくしなり続けた。強奪だった。差し出したのではない。奪われたのだ。それでもその痙攣は、誰の目にも、絶頂の形をしていた。 白く握られていた拳が、ほどけた。 黒いヘアゴムが指の間から滑り落ち、路面を小さく転がって、白濁の水たまりの縁で止まった。 波が引いても、余震は長かった。びくっ……びくっ……と間隔を空けて震える長身から二匹が降り、支えを失った腰が路面へ崩れる。解けきった黒髪が汗で頬に貼りつき、半開きの唇から細い涎が糸を引いた。焦点の戻らない眼が、それでも、のろのろと群れのほうへ動く。睨もうとしている。まだ、睨む形を探している。形にならないまま、瞼が震えて落ちかけた。 「……つよいメス。……ウシロ、オボエタ」 古株が満足げに喉を鳴らし、群れがそれに唱和した。覚えた、という言葉の意味を、茜は考えたくなかった。この群れは学んだのだ。頼れる澪の、声の出る場所を。この夜が終わるまで、そこが繰り返し使われるということを。 (澪……ごめん……あたし、なにも) 茜は糸に縫われたまま、祈るように親友の名前だけを噛み締めた。 そして、視界の端で、群れがゆっくりと隊列を組み替えるのが見えた。 濁った黄色の眼が、いくつも、いくつも、こちらを向く。最初から取り置かれていた最後の獲物、いちばん濃く匂う、いちばん小さな身体へ。 欠けた耳の古株が、裂けた口で嗤った。 「……ツギ。チビ」 糸が、一本ずつ引き剥がされていった。 右腕。左腕。足首。解かれた端から、その先を小鬼の手が抱え込む。自由になった瞬間など、はじめから存在しなかった。四肢を四匹に担がれて、茜は荷物のように宙を運ばれた。 「はなせ……っ、離せっての! 自分で歩けるっつーの……!」 下ろされた場所は、群れのど真ん中だった。白濁の水たまりの隣。右を向けばこはるが、左を向けば澪が、焦点の溶けた眼でこちらを見ている。二人から見える場所。二人が見える場所。逃げ場のない劇場の、舞台の中央だった。 仰向けに押さえつけられる。手首が路面へ。足首が。そして群れの手は、迷わなかった。 真っ先に、胸へ来た。 「ひっ……や、やめ、そこ、触んな……っ!」 左右から、長い指が同時に食い込んだ。 むにゅう、と白い乳肉が指の形に沈む。百四十九センチの細い骨格の上で、そこだけが誰の目にも過剰だった。掴みきれない量感が指の間から溢れ、押せば沈み、離せば揺れて戻る。小鬼どもは、それを確かめるのをやめなかった。揉む。潰す。持ち上げて、落とす。たぷん、と鳴って弾む白い肉に、囲みの喉がまた一斉に鳴った。押さえつけられた細い骨格が身動きひとつできないぶん、胸だけが別の生き物のように揺れて、狼藉のひとつひとつへ柔らかく応えてしまう。 「コレ。……ハジメ、カラ、ミテタ」 欠けた耳の古株が、真上から茜を見下ろして言った。 「チビ。チチ。……イチバン、イイ」 (〜〜〜っ!) 顔が焼けた。恐怖の芯を残したまま、羞恥だけが首から耳まで一息に血を上らせる。よりにもよって、そこ。速さでも読みでもなく、努力と何の関係もなく育った、隠すことだけ考えて生きてきた場所。それをこの化け物どもは、最初から狙っていた。品定めの列の最初から、あたしの胸を目当てにしていた。 「ちが……っ、そんなの、褒められても嬉しくもなんとも――ひゃうっ!?」 尖った先端を、指の腹が同時に押し潰した。 声が跳ねた。じん、と痺れていた薄桃色の頂は、瘴気に炙られ続けて、もう触れられる前から限界まで張り詰めていた。そこを摘ままれ、こりこりと揉み転がされるたび、覚えのない鋭さが下腹の熱まで一直線に落ちていく。 「や……っ、それやだ、やめ……んんっ!」 片方の頂へ、裂けた口が吸いついた。 ちゅうぅぅ、と音を立てて吸われる。生温かい口腔に先端ごと含まれ、ざらつく舌が転がすたび、腰の奥がきゅうと締まるのが自分で分かった。分かってしまうことが、いちばん嫌だった。 (感じてない。感じてないってば。こんなの、ただ吸われてるだけ――) 言い聞かせの下で、身体は正直に答案を書いた。吸われていない側の頂まで、触ってほしそうに硬く尖っていく。呼吸が浅くなる。押さえつけられた腰が、逃げるためではない角度に、小さく揺れた。 もう一方の頂にも、別の口が吸いついた。 左右同時に吸い上げられ、じゅる、じゅる、と下品な音が二重で鳴る。吸われるたび、乳房の芯から下腹まで、細い糸で直結されたみたいに疼きが走った。走った先で、まだ誰にも触れられていない奥が、また熱を漏らす。胸は、スポブラで潰して、腕で隠して、視線が来たら半歩引いて、そうやってこの二年、無いものとして扱ってきた場所だった。感じ方なんて知らないはずだった。知らないはずの場所が、いちばん大きな声で、身体中に快感を配っている。 (なんで……なんでよ。あんたなんか、ずっと、邪魔なだけだったのに……っ) 走れば揺れて邪魔をした。視線を集めて背中を冷やした。誇れるものは何ひとつくれなかった膨らみが、よりにもよって今、敵に回った。隠し通してきた年月ごと裏返して、未開のまま溜め込んだ感度を、醜い舌の上へ残らず差し出している。 「ミロ。チビ、チクビ、タッタ」 古株が指を差し、群れが哄笑した。二人の親友の前で、胸の反応を実況される。逃げも隠れもできない仰向けで、揉まれるたび形を変える自分の乳房を、茜は涙のにじむ眼で睨むしかなかった。 そして群れは、待たなかった。 両膝に手がかかり、鍛えた腿が万力の力で割り開かれる。街灯の白光の下、慎ましい花弁はもう、検分のときの比ではなかった。合わせ目から溢れたものが会陰を伝い、尻の下の路面に、小さな染みを作っていた。触れられたのは胸だけ。なのに、いちばん奥がいちばん濡れている。瘴気を誰より長く、誰より深く吸わされ続けた身体は、本人の知らない場所で支度を終えていた。 「ヌレテル。……モウ、イイ」 一匹が、開かれた脚の間へ這い上がった。膨れた腹の下で、粘液をまとった太いものが反り返っている。こはるを割ったのと、澪を割ったのと、同じ形。それが今、自分にあてがわれている。 「や……だ。やだ、来ないで……あんたなんかに、あたしの――」 ずむ……ずむむむっ。 狭い入口が、押し拡げられた。 みちみちと、まっさらな場所が異物の形に割られていく。痛い。痛いはずだった。確かに痛みはあった。けれどその痛みの膜のすぐ裏側に、灼けるような疼きがみっしりと詰まっていて、割られた襞が異物へ勝手に吸いついていくのが分かった。 そして、根元まで収まった。ただ、それだけで。 「あ……っ、や、なにこれ、まっ……ひぁ、あ、ああぁっ……!?❤️」 腰が、跳ねた。 つま先が一瞬だけ突っ張って、視界の隅がちかっと白く滲む。入れられただけ。まだ一度も突かれていない。なのに背骨の奥を、細い電流のようなものが駆け抜けて、押さえつけられた小さな身体が、びくっ、と一度だけ大きく震えた。それだけだった。瞬きよりわずかに長いくらいの、小さな痙攣。 (う、そ……うそ、いま、あたし……なに、が……) 処女を割られた、その瞬間に。 噂話でしか知らなかったことが、親友二人の痙攣に重ねて覚えたばかりのことが、いま自分の身体で起きたのかもしれない。挿れられただけで、軽く飛んだ。イった、と言い切れるほどの確信はなかった。ただの驚きかもしれない。そう思い込めるくらいには、小さな痙攣だった。 「チビ。イレタ、ダケ。……ハネタ」 古株の声に、群れが沸き返った。 「ちがっ……! 違う、いまのは、イッてない……! びっくりしただけ、こんなの絶対、イッたうちに入んない……っ!」 言い張る声は、自分の耳にも上擦って聞こえた。入んない、と言った先から、咥え込んだ襞がうねって異物を締めつけているのが分かる。言葉が否定するそばから、身体が肯定の判を押していく。二重帳簿は、とっくに片方だけ本物だった。 小鬼が、動き始めた。 ずんっ、ずんっ、と重い突き込みが刻まれる。揺れる。突かれるたび、押さえきれない胸が大きく波を打ち、たぷっ、たぷっ、と拍に合わせて鳴った。その揺れを群れの眼が追う。見られている。突かれるたび、恥ずかしい場所が全部揺れて、それを、こはるが、澪が見ている。 (見ないで……二人とも、見ないで……っ) さっき澪が言った言葉の意味が、今ごろ胸に刺さった。見るな。あれは、こういう意味だった。 「んっ、く……ふ、ぅ……っ、んん――っ」 茜は唇を引き結び、声を殺しにかかった。体育館の端まで届く自慢の声は、こんな場所で響かせるためのものじゃない。息を鼻へ逃がし、揺れる視界の中で天井の明かりだけを睨む。負けない。声くらいは、我慢する。 小鬼の動きが速まり、最奥で、止まった。 どびゅっ、どびゅるるるっ。 熱が、注がれた。 瞬間、世界が白く飛んだ。 胎の内側を直に炙られるような、熱いというより痛いに近い、けれど痛みでは絶対にない何かが、下腹の奥で爆ぜた。予兆ごと我慢を薙ぎ倒して、頂が、暴力の形で降ってきた。 「――ん゛あぁぁぁっ!?❤️❤️ あつ、なにこれ、あついの、やだ、やだやだ、イ……っ、く、ぁあああぁ――ッ!!❤️❤️❤️」 殺したはずの声が、天井まで抜けた。 腰が跳ね、背がのけぞり、丸まったつま先が痙攣に震える。長い。終わらない。注がれている間じゅう、熱は波を送り続け、そのたび身体は糸の中で跳ね続けた。時間の感覚が煮え溶けて、どれだけ跳ねていたのか、自分でも分からなかった。 やがて波が引いて、荒い呼吸だけが残った。びく……びくっ……と余震が間隔を空けて走る。跳ね上がっていた腰が路面へ落ち、突っ張っていたつま先が、ゆっくりとほどけていく。焦点の滲んだ眼に、無人の商店街の明かりがぼやけて映った。胸が上下するたび、汗に濡れた膨らみが重たく揺れて、その揺れすら今は刺激になった。 (いま、の……なに……) こはるのときに見た。澪のときにも見た。中に出されて、弾ける。それを外から数えていた自分が、いま同じ形で弾けた。しかも、二人より大きく。 「ソソグト、イチバン、ハネル。……チビ、イチバン、イイメス」 「〜〜っ、うっさい! 誰が……あたしは、こんなの、負けたうちに――」 言い終わる前に、次の一匹が乗った。 白濁の溢れかけた入口へ、こぽ、と栓をするように二本目が沈む。もう痛みはどこにもなかった。注がれたものと蜜に馴らされた内側は、二匹目を最初から歓迎の形で咥え込み、じゅぶっ、じゅぶっ、と粘り切った水音を立てて掻き回されていく。 波状が、始まった。 二匹目が果てる。跳ねる。三匹目。胸に吸いつかれながら注がれる。跳ねる。四匹目。突かれながら乳首を摘ままれ、注がれる前から小さく跳ねて、注がれて大きく跳ねる。頂と頂の間隔がどんどん詰まって、降りきる前に次が来る。数える。負けないために数えようとした。三回目。四回目。五回、そこで数字は熱に溶けて流れた。 何匹目かの途中で、身体が起こされた。 背後から抱え込まれ、膝の上に座らされる形で、下から串刺しにされたまま向きを変えられる。正面に、こはるがいた。澪がいた。仕掛けの意味を悟るより早く、下から、ずんっ、と突き上げられた。 「あ゛っ❤️ や、この格好、やだ……っ、みえ……ちゃ……ん゛っ❤️」 隠すものが、何もなかった。開かされた脚の間の結合部も、突き上げられるたび大きく弾む胸も、首まで染まった顔も、全部が親友二人の眼に正面から晒される。こはるの潤んだ眼が、ぼんやりとこちらを映していた。澪の半分落ちた瞼の奥で、瞳だけがまだこちらを追っていた。朦朧としている。分かっている。それでも、見られている。昼の世界で、視線から胸を隠すあたしを黙って庇ってくれた二人に、いま、何もかもを。 (みないで……おねがい、だから……いまのあたしを、みないで……っ) 祈りの途中で最奥に注がれて、祈りごと、跳ねた。晒された身体の全部で、二人の目の前で、牝の痙攣を披露した。 「まけ、な……っ、あたし、は……ん゛っ❤️ あ゛っ❤️ や゛だ、また、あついの……く、るぅ……っ❤️❤️」 言い張りは続けた。続けるそばから、論破されていった。 感じてない――尖りきった乳首が、揉まれるたび痺れを深くする。イッてない――注がれるたび、誰の眼にも明らかな痙攣で跳ねる。負けない――咥え込んだ襞は、引き抜かれる一匹を名残惜しげに締めつけ、次の一匹を滑らかに迎える。言葉が積み上げる否定を、身体がひとつずつ、物証つきで潰していく。首から耳まで上りきった血の色が、嘘の下手さを群れに晒し続けていた。 そして群れは、澪のときと同じことを、茜にもした。学んだのだ。 突き上げの最中に胸を強く揉まれると、中の締まりが跳ね上がること。乳首を摘まむ拍を突き込みに重ねると、声が一段高く裏返ること。醜い指どもは試し、確かめ、当たりの組み合わせだけを執拗に繰り返してくる。胸と奥。隠してきた場所と、暴かれたばかりの場所。二箇所を同時に責められると、否定の言葉を組む隙間が、頭のどこにも残らなかった。 「や゛っ❤️ いっしょ、だめ……むね、と、おく、いっしょはぁ……っ❤️❤️」 癖で、指を噛んだ。 押さえつけられた手の、届くかぎりの角度で自分の指の背を噛み、声を堰き止める。ストローを噛むのと同じ、考えるときの、我慢するときの癖。それが今は、嬌声を殺す最後の栓だった。 栓は、もたなかった。 ひときわ深い場所へ届いた一匹が、そこを執拗に捏ね始めたからだ。胎の入口。注がれるたび熱の爆ぜる、いちばん奥の壁。そこを切先でぐりぐりと押し上げられて、噛んでいた指が、ほどけた。 「ん゛ーーっ……ぷは……っ、あ゛っ❤️ だめ、そこ、おして、だめ……っ、おく、だめなの、そこされたら、あたし……あたしぃ……っ❤️❤️」 「ミロ。チビ、コシ、ウゴイタ」 古株の声が、静かに落ちた。 視線が、自分の腰へ集まるのが分かった。分かって、そして自分でも、分かってしまった。突き込みの拍に合わせて、押さえられた腰が揺れ返っている。逃げる方向ではなかった。迎える方向だった。誰にも命じられていない。あたしの腰が、あたしの許可を取らずに、動いている。 (ちがう……これは、ちがう、あたしじゃない、身体が勝手に……) 言い訳の途中で、そいつが果てた。 最奥へ、真上から釘を打つように。 来る、と分かった。 内腿が細かく震え出し、締めつけが自分で止められなくなり、視界の輪郭が滲む。来る。来る。堪えるための足場が、どこにも残っていない。丸まったつま先が宙を掻き、浅い呼吸が、ひ、ひ、と切れ切れに鳴った。 どびゅくっ、びゅるるるるっ。 「――ん゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ーーーっ!!❤️❤️❤️❤️」 喉が、割れた。 我慢の堰がまとめて決壊して、今夜いちばん高く、いちばん長い声が、アーケードの天井に反響した。体育館の端まで届く声だった。号令のための、チームを動かすための、自慢の声だった。それが今、誰の耳にも届かない無人の商店街で、牝の絶頂の音として響き渡っている。 ぷしっ、ぷしゃあっ……。 結合部の隙間から、透明な飛沫が弾けた。 「や゛っ!?❤️❤️ なに、これ……で、でちゃ……と、とまんな……ぉ゛ぉ゛……っ❤️❤️❤️」 注がれながら、噴いていた。自分の身体がそんなことをできると、茜は知らなかった。知らないことを、身体が勝手にやった。抱え込む小鬼の腹を濡らし、路面へ飛び散った証拠を、群れの眼が余さず見届けて、ひしゃげた歓声が上がる。頂は一度では終わらず、大きな波の背中に小さな波が次々と重なって、そのたび痙攣がぶり返した。どこまでが一回なのか、境目はもう、本人にも分からなかった。 跳ねる腰はもう降りてこなかった。余震のまま次が挿入り、余震ごと突き上げられ、次の頂が余震の上に重なって積まれる。白く飛んだ視界の端で、こはるの潤んだ眼と、澪の半分落ちた瞼が、こちらを向いているのが見えた。見られている。いちばん見られたくない二人に、いちばん見られたくない姿を。羞恥が疼きに変換されて、また一段、身体の温度を上げた。 「あ゛っ❤️ あ゛っ❤️ ひ゛っ❤️ ん゛っ❤️ あ゛ーーっ……❤️❤️」 突かれる拍のまま、声が刻まれて出ていく。もう言葉の形を保てなかった。組み立てようとしても、音が口を出る前に次の突き上げが来て、意味ごと粉々に散らされる。何匹目かも分からない。何回目かも分からない。注がれて、跳ねて、揺すられて、跳ねて。溢れきれなかった白濁が結合部から、こぽ、こぽ、と押し出されては腿を伝った。ツーサイドアップの片方が結び目ごと崩れ、栗色の髪が汗で頬に貼りついた。 鏡はなかった。なくても分かった。いま自分の顔は、さっき見ていられなかったこはるの顔と、同じ形にほどけている。半開きの唇。溶けた眼。突かれるたびこぼれる、獣の音。速さと読みと負けん気で作ってきた小日向茜の顔が、どこにも残っていない。 それでも喉の奥で、最後のひとかけらだけが、砕けずに残っていた。 「ま……け……っ❤️ ん゛っ❤️ まけ、な……ぃ……っ❤️❤️」 言い切れない言い切りを、群れの哄笑が呑み込んだ。 誰も聞いていなかった。聞く価値の消えた獲物の減らず口より、跳ねる腰と揺れる胸のほうが、群れにとっての返事だった。ずんっ、ずんっ、と突き込みは続き、そのたび小さな身体は跳ね、獣めいた声だけが、拍に合わせてこぼれ続ける。 「ふ゛ーっ❤️ ふ゛ーっ❤️……ん゛ぉっ❤️ ん゛ぉっ❤️……あ゛ぉ……っ❤️❤️」 注がれる。喉を反らせて、長く鳴く。降ろされる前に次が来て、また鳴く。三人の中でいちばん濃く匂った上物は、いちばん長く瘴気を吸わされ、いちばん強く毒に灼かれて、いちばん惨めに鳴く牝になった。群れの濁った眼には、路面の上のそれは、もうそうとしか映っていなかった。仕留めたときの威勢のいい獲物の名残は、汗で崩れた髪の結び目と、鎖骨で揺れる細い銀の光だけだった。 それでも、鳴き声の合間に、砕けた音の破片が混ざり続けた。 「……ま……❤️……け……❤️」 意味はもう組めない。組めないのに、その二音だけは、何度でも浮かんできた。負けたくない、の残骸なのか、ただの癖なのか、本人にももう分からない。分からないまま、破片は嬌声の底に沈んでは、また浮かんだ。 白濁の水たまりが、三人分になった。 こはるの下に、澪の下に、そして茜の下に。灰色の路面の上で、三つの染みはゆっくりと広がって、縁と縁で繋がろうとしていた。 その水面が、ふいに、震えた。 地鳴りに似た重い足音が、アーケードの奥から近づいていた。 群れが、割れた。 あれほど順番を争っていた矮鬼どもが、押し合いながら左右へ退いていく。水たまりを踏まないように、ではない。踏み荒らしながら、ただ道を空けた。空いた道の奥から、影が来る。矮鬼の倍はある。三倍かもしれない。シャッターの並びより高い位置に、二つの黄色い眼が灯っていた。 剛と呼ぶしかない体躯だった。 岩を積んで人の形に均したような、灰赤色の巨躯。丸太めいた両腕が膝の下まで垂れ、一歩ごとにアーケードの床材が軋む。矮鬼どもと同じ醜さを、そのまま何十倍の質量で鋳直した顔。裂けた口の端から覗く牙は、茜の指より太い。 路面に転がされた三つの身体の前で、巨躯は足を止めた。 そして、鼻を鳴らした。 ふご、ふごぉ、と湿った音を立てて、三人分の匂いを順に吸い込んでいく。こはるを。澪を。最後に、茜を。いちばん長く。 「……イイ、ニオイ」 腹の底から響く、岩を擦り合わせたような声だった。 (しゃべ……った) 霞んだ頭の隅で、茜はそれだけを理解した。矮鬼どもの片言とは重さが違う。数えきれない獲物から言葉ごと吸い上げてきた、古い、深い声。この夜でいちばん恐ろしい音が、いちばん静かにやってきた。 巨躯の眼が、三人をゆっくりと数えた。 「ミッツ。……ミッツ、ナエドコ」 群れが、沸いた。今夜いちばんの歓声だった。歓声の意味を、茜の頭は考えることを拒んだ。拒んだ思考の代わりに、群れの手が答えを並べた。三つの身体が抱え起こされ、路面へ横一列に並べ直されていく。こはる。澪。茜。腰だけを浅く抱え上げられた、揃いの形で。品評の列と同じ並び。ただし今度は、選ぶためではなかった。順に、使うためだった。 巨躯が、こはるの前に膝をついた。 力の抜けきった柔らかな身体が、丸太の腕に片手で掬い上げられる。人形を扱う手つきだった。開かされた白い脚の間に、それが見えた。矮鬼のものとはまるで違う。腕かと見紛う質量が、粘液に濡れて熱を立てている。 (むり……そんなの、こはるが、壊れ――) ずぶ……ずぶぶんっ。 入った。 入ってしまった。ぎち……ぎちぃっ、と軋む音が、茜のところまで届いた。矮鬼どもに散々拡げられ、白濁と蜜に溶かされきった場所は、壊れる代わりに、限界の輪を外へ描き直しながらそれを呑んだ。こはるの眼が真円に見開かれ、涎に濡れた唇から、言葉を失って久しい喉から、ひしゃげた音が押し出される。 「ん゛ぎ……ぉ゛……ん゛ぎぃぃ――っ!?❤️❤️❤️」 突かない。剛鬼は、ほとんど突かなかった。最奥へ届かせたまま、ずり、ずり、と数度だけ揺すり、そして。 どくんっ、どくどくどくっ……。 注いだ。 矮鬼の射精とは、音からして違った。脈のひとつひとつが重く、長く、こはるの下腹の上から見て分かるほどの量が送り込まれていく。柔らかな身体が弓なりに硬直し、白いつま先が空を掴んで、痙攣が、来た。長かった。矮鬼のどのときよりも長く、深く、こはるは声もなく波打ち続けた。波打つ獲物を片腕に提げたまま、剛鬼は満足げに喉を鳴らした。 「ウメ」 一言だった。 注ぎ終えた質量が引き抜かれ、こはるは水たまりの上へ、関節という関節から芯を抜かれた形のまま横たえられた。閉じない脚の間から、濃い白がどろりと溢れて、垂れる速さまで矮鬼のものと違っていた。溢れながら、こはるの下腹が、余震のたびに小さく波を打つ。焦点のない眼が虚空を映したまま、涎に濡れた唇だけが、音にならない音を刻み続けていた。ご、め、ん。読めてしまった。読めてしまったことを、茜は一生忘れないと思った。 次は、澪だった。 うつ伏せの長身が、腰だけを高々と引き上げられる。澪は最後の力で首をねじり、肩越しに巨躯を睨み上げた。焦点の合わない眼で、それでも睨む形だけは、作った。 剛鬼は、見もしなかった。 睨みごと、貫いた。 みし、と長身がしなり、噛み殺しの利かない場所から、低い声が割れて出る。 「ほ゛……ぉ゛お゛お゛ぉ゛――ッ❤️❤️❤️」 声を殺し通した澪の、殺しようのない声だった。長い脚が宙で突っ張り、引き締まった腰が、丸太の腕の中で仰け反る。百七十五センチの身体を、剛鬼は片腕で保持していた。矮鬼が六匹がかりで押さえたものを、片腕で。大きさで庇い、大きさで先に狙われ、大きさで暴れてきた身体が、より大きなものの前では、ただの獲物のサイズに戻された。 押し込まれた質量は、澪の腹の輪郭を内側から変えるほど深かった。突き上げられるたび、さっき矮鬼どもに暴かれたばかりの後ろの窄まりまで、薄い壁越しに重く痺れる。前だけを穿たれているはずなのに、覚えたばかりの場所が、勝手に連動して疼いた。二つの場所を同じ律動で炙られる感覚に、澪の背が、糸の切れた弓のようにたわむ。 「へ……き。わた、し……は……」 譫言のように、折れた二文字の破片が漏れる。もう誰かを守るための言葉には聞こえなかった。自分を繋ぎ止めるための、最後の杭。茜には、そう聞こえた。 路面を掻いた指が、アスファルトの上で白く突っ張った。歯は最後まで食いしばられていた。なのに、抱えられた腰のほうは、揺すりの拍をなぞって小さく戦慄き、その噛み締めを一拍ごとに裏切った。数度の揺すりの後、重い脈動が最奥へ落とされる。ぶびゅっ、ぶびゅうぅぅっ、と巨きな脈が刻まれるたび、鍛え抜かれた長身は抱えられたまましなり、しなるたび、殺しきれない低い唸りが漏れた。澪の指がアスファルトを掻き毟り、掻き毟った先に、何も掴むものはなかった。 (澪……澪、澪……っ) 名前を呼ぶことしかできなかった。声にもならなかった。呼んだところで、届いたところで、何も変わらない。それでも呼ぶのをやめたら、何かが終わる気がした。 「ウメ」 同じ一言で、澪も横たえられた。杭は、最後まで抜かれなかった。折れた形のまま、澪の唇に残っていた。 そして黄色い眼が、最後の一つへ向いた。 いちばん小さくて、いちばん濃く匂う、取り置かれていた上物へ。 「や……だ」 声が出た。砕けた破片しか出なくなっていた喉から、恐怖が声を絞り出した。逃げようとした。腕に力なんて残っていないのに、肘が勝手に路面を掻いた。半身も進まなかった。丸太の指が腰を掴み、荷物より軽く引き戻す。 仰向けに、返された。 視界の全部が、灰赤色の巨躯で塞がった。押し潰されるのではない。片腕一本で腰だけを持ち上げられ、百四十九センチの身体は、巨躯の前ではそれで固定が済んでしまう。開かされた脚の間に、熱があてがわれた。矮鬼を散々受け入れた場所が、それでも本能で悟って戦慄いた。格が、違う。なのに、恐怖がまだ叫んでいるその下で、閉じそびれたままの蜜口だけが、あてがわれた熱の太さを確かめるように、ひくりと縁を寄せた。粘膜が先に、受け入れる寸法を測っていた。 「ま……って。むり、それは、はいらな――」 ずぶんっ! 「――あ゛――っ!?❤️❤️❤️」 入った。 拡げられきったはずの場所が、限界の更に外へ押し拡げられる。内臓ごと持ち上げられるような圧に、息が肺から追い出された。痛みを探した。痛みがあってほしかった。なのに、瘴気と毒に作り替えられきった身体は、その圧さえも、みっしりと詰まった疼きに翻訳して届けてきた。最奥に、切先が触れている。矮鬼が捏ねたあの壁に、届いているどころではない。押し上げて、歪ませている。 見下ろした自分の下腹に、信じられないものがあった。臍の下の薄い皮膚が、内側から、埋められた質量の輪郭に沿ってわずかに持ち上がっている。百四十九センチの胴には、収める場所がもう、そこにしか残っていなかった。 (ふか、い……おなかの、上まで……きてる……っ) 巨躯が、揺すり始めた。 突きではなかった。埋めたまま、最奥だけを、ずり……ずりっ、と重く磨り上げる。そのわずかな振れ幅が、矮鬼の全力の突き込みより深い場所を、直接揺らした。 「ぉ゛っ❤️ あ゛っ❤️ だめ、そこ、うごかさな……っ❤️❤️」 予兆は、すぐに来た。 内腿の震えが止まらなくなる。咥え込まされた襞が、自分の意思のどこも通らずに、うねって巨きな熱に絡みつく。丸まったつま先が宙で突っ張り、視界の輪郭が白く滲み始めた。来る。この揺すられ方だけで、もう。数えるのをやめた頂の続きが、比べものにならない高さから、降ってこようとしている。 剛鬼が、低く唸った。 「ハラメ」 どびゅぐんっ……! びゅぐっ、びゅぐっ、びゅぐぅっ……。 熱、というものの定義が、塗り替えられた。 矮鬼の射精が火の粉なら、これは溶けた鉄だった。雌の胎というのは、注ぐ側の格をいちばん正直に量らされる器官らしかった。胎の最奥に直接、重い脈がひとつずつ据えつけられていく。ひとつ目で視界が白く飛び、ふたつ目で世界から音が消えた。弾けた、という感覚すらなかった。押し流された。誇りも、言い張りも、数える意思も、堰も、まとめて。 「――――ぉ゛……あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛――――ッッ!!❤️❤️❤️❤️」 自分の声だと、分からなかった。 小さな身体は丸太の腕の上で跳ね続け、跳ねの止まる隙間を、次の脈が埋めた。長い。終わらない。注ぎは延々と続き、受けきれない量が結合の隙間から音を立てて押し戻され、それでもまだ注がれた。時間が煮え溶ける。どこまでが絶頂で、どこからが次の絶頂なのか、境目ごと熱に呑まれて、茜はただ、鳴いた。 視界の端、路面に横たえられたままのこはると澪の眼が、焦点の溶けたまま、こちらを向いているのが見えた。もう何かを読み取れる眼ではなかった。それでも、いちばん見られたくない二人に、いちばん奥まで注がれる自分が映っている。それだけは、絶頂に押し流されながらも、茜の芯にちゃんと刺さった。 「ぉ゛っ❤️❤️ ぉ゛っ❤️❤️ ん゛ん゛ぉ゛ぉ゛――……ッ❤️❤️❤️」 (やだ……そんな、おくまで……やかれ、ちゃ……っ❤️❤️) やがて、質量が引き抜かれた。 ずりゅん、と長い抜去の感触が内壁を端から端まで撫で、栓を失った場所から、受けきれなかった白濁がごぼりと押し出される。路面に垂れてなお、それは煮えたような熱を保っていた。路面へ横たえられても、余震は去らなかった。びく……びくっ、と間遠に跳ねる下腹の奥で、注がれたものが重く、熱く、居座っている。矮鬼のものとは違う。分かる。分かってしまう。これは、居座るために注がれた熱だった。胎の入口が、その熱を確かめるように、ひくり、ひくりと収縮を繰り返す。あたしの身体が。あたしに断りもなく。受け取ったものの検分を、している。 (やだ……うごかないで……そこ、うけとらないで……っ) 祈りは、届かない場所への祈りだった。届かないまま、視界の端で、剛鬼が一歩退がるのが見えた。仕事を終えた者の、急がない一歩だった。 「ミッツ。……ウンダラ、マタ」 剛鬼が、列を見下ろして言った。 群れが唱和し、ひしゃげた歓声がアーケードを満たす。 ウンダラ、マタ。 砕けた頭の中で、その単語列が、ゆっくりと像を結んだ。 産んだら、また。 産まされる。この腹で。こはるも。澪も。そしてまた注がれて、また。 像は、勝手に続きを描いた。朝が来ない。来ても終わらない。次の夜、また三人で歩いた帰り道が澱んで、また並べられる。体育館で号令をかけていた声も、絆創膏を配っていた手も、スクリーンに入ってくれた背中も、ぜんぶこの路面の上の順番待ちになる。誰も気づかない。誰も来ない。ここは通学路の真上で、日常から膜一枚で、その膜は永遠に破れない。三人並べて、順番に、ずっと。あたしたちはもう、こいつらの―― 牝で。苗床で。それだけの―― (………………いや、だ) 真っ白に灼き潰された思考の底で、何かが、まだ燃えていた。 絶望が視界を塗り潰しても、そこだけは塗り残された。理屈ではなかった。誇りと呼べる形も、もう残っていなかった。ただの、燃え殻。速さと読みと負けん気だけで百四十九センチを立たせてきた、いちばん底の一点。 (負け……たくない) 右を見た。白濁の中で、こはるが小さく震えていた。左を見た。澪の指が、まだ路面を掴もうとしていた。 (この子たちを――渡さない) その瞬間。 世界が、茜色に染まった。 閃光だった。胸の奥で何かが噛み合う音がして、燃え殻に、どこかから風が通った。灼けた鉄を注がれた胎よりも深い場所から、まったく別の熱が噴き上がる。奪う熱ではなかった。立たせる熱だった。 光が身体の輪郭を走り、剥がされたはずの布が、布ではない何かへと、肌の上で編み上がっていく。肩と背を晒したトップス。翻るミニスカート。両の拳を包む、籠手めいた光の装甲。崩れかけたツーサイドアップの結び目から、炎のようにたなびく光のリボンが伸びた。 そして、不思議なことが起きた。 怖くなかった。 正確には、怖さも、恥ずかしさも、薄い膜の向こうへ遠ざかった。裸を晒し続けた羞恥も、注がれた熱の記憶も、消えてはいない。ある。全部ある。ただ、今はそれが、膝を折る理由にならなかった。 茜は、立ち上がった。 犯され尽くした脚が、産まされるはずだった身体が、まっすぐに立った。 「――嘘だろ……っ」 声は、アーケードの入口から来た。 白い小さな影が、転がるように駆け込んでくる。オコジョに似た、けれどオコジョではない生き物。黒い瞳が、並んだ三人と、群れと、立ち上がった茜色を順に映して、くしゃりと歪んだ。 「間に合わな……――いや、違う、まだだ! 聞け、少女! 君は適合した! その光は君の魔素だ!」 甲高い声が、必死に距離を詰めてくる。 「難しいことは後だ! 拳に纏え! 纏って――殴れ!!」 言われるまでもなかった。 身体が、もう知っていた。胸の奥の熱を細く練って、右の拳へ通す。籠手の上に、茜色の炎が音もなく灯った。 群れが、ざわめいた。ざわめきながら、それでも数を恃んで殺到してくる。今夜ずっとそうしてきたように。押さえて、剥いで、使うために。 最初の一匹が、跳んだ。 遅い。 コートで見てきたどのディフェンスより、遅かった。茜は半歩だけ沈み、すれ違いざまに拳を振り抜いた。炎をまとった一撃が矮鬼の胴を打ち、醜い体躯は声もなく吹き飛んで、シャッターに当たる前に、黒い霞と光の粒に散った。 還った。跡も残さず。 「そう、それだ! 怪異は魔素に還る! 遠慮は要らない――全部殴れ!!」 殴った。 二匹目を潜って掬い上げ、三匹目は跳ばずに床を蹴る足で薙いだ。四匹、五匹。群がる数の暴力は、速度の前では順番に並んだ的でしかなかった。低く、速く、誰よりも床に近く。ドリブルの代わりに炎を運んで、茜はアーケードを駆けた。糸を吐こうと口を開けた一匹は、開き終わる前に散った。こはるへ手を伸ばした一匹は、伸ばした腕ごと散った。 一晩じゅう、こいつらの手が決めてきた。誰を押さえるか。誰を剥ぐか。誰から使うか。その全部の順番を、今度はこちらの拳が決めていく。囲もうとした半円は囲み終わる前に崩れ、逃げようとした数匹は、逃げる方向を読まれて散った。どこへ走るか。どこが空くか。半歩先の絵は、コートでもここでも、同じように見えた。 (速い……なにこれ、あたし、こんなに――) 速かった。夜の底で、その速さだけが気持ちよかった。押さえつけられて、開かされて、一晩じゅう奪われ続けた身体が、いま、誰にも捕まらない。触れさせもしない。振り抜くたび、茜色の残光が尾を引いて、白い街灯の光を上書きしていく。 「いいぞ、そのまま! ……ああ、もう、なんて魔素の濃さだ……!」 白い生き物が、水たまりを避けながら叫んでいた。その声の底に泣くような色が混ざっていることに、茜はまだ気づく余裕がなかった。 気づけば、立っている矮鬼は残っていなかった。 黒い霞が晴れた道の真ん中に、灰赤色の巨躯だけが立っていた。 「……メス。ナマイキ」 剛鬼が、初めて構えた。 黄色い眼に、初めて獲物以外のものを見る色が差していた。それでも退がらない。退がる理由が、この巨躯の側にはひとつもない。ついさっきまで、その腕の中で鳴かされていた牝だ。纏いを剥げば、また同じ荷物に戻る。眼が、そう言っていた。 (言ってなさい) 丸太の腕が唸りを上げて振り下ろされる。速い。矮鬼とは比べものにならない。茜は横へ跳んで躱した。躱した路面が、拳の形に砕けた。当たれば終わる。適合したてのこの纏いで受けていい質量ではない。一発も貰えない勝負。下腹の奥では、こいつの注いだ熱がまだ揺れている。それでも、恐怖は膜の向こうで遠かった。近いのは、拍だけだった。相手の拍。自分の拍。ずらして、盗む。やってきたことと、同じ。 (でも――) 二撃目。三撃目。躱しながら、茜は視ていた。肩。腰。踏み込む足。この巨体は、打つ前に必ず、右の肩が先に沈む。 (――デカいだけの相手なら、コートでずっと視てきた) 四撃目の肩が、沈んだ。 茜は退がらなかった。前へ出た。出ると見せて急停止し、振り下ろしが空を裂いた半拍あとに、切り返して懐へ潜る。相手の重心が泳ぐ、あの永遠に等しい半拍。百七十のガードを出し抜いてきた緩急が、三メートルの巨躯にも、同じように通った。 懐は、がら空きだった。 胸の奥の熱を、残らず右の拳へ落とす。真っ直ぐな怒りだけが燃料だった。こはるの声を奪った。澪の「平気」を折った。あたしの夜を、踏み荒らした。 「返して、もらう」 踏み込みは、床を割った。 「――ぜんぶだ、ばかやろう!!」 どんっ!! 炎が、巨躯の中心を撃ち抜いた。 衝撃が茜色の波になってアーケードを走り、シャッターというシャッターが一斉に鳴った。剛鬼は声を上げなかった。上げる間もなく、灰赤色の巨躯は中心から崩れ、黒い霞と、ひときわ大きな光の粒の奔流になって、夜に散った。 静寂が、降りた。 シャッターの残響が消えると、あとには、街灯の白い光と、点々と続く水たまりと、荒い呼吸だけが残った。 光の粒は、しばらく宙に漂っていた。群れの分も、剛鬼の分も、区別なく混ざり合って、天井のほうへゆっくり昇っていく。きれいだ、と思ってしまって、茜は自分に少し腹が立った。きれいなわけがない。あれは今夜、三人分の夜を踏み潰していった連中の、残り滓だ。 「あたしの」 茜は、拳を下ろした。 「勝ち。文句、ないでしょ」 誰にともなく言い捨てて、振り向く。振り向いた先に、二人が倒れている。閃光のような数分だった。その数分の間だけ、忘れていられた。いま拳を振るったこの脚の間を、まだ熱いものが伝っていることも。背後に横たわる二人の腹の奥に、同じ熱が注がれたままであることも。勝利の火照りの下で、身体は何ひとつ、なかったことになっていなかった。 白い小さな生き物が、水たまりの縁で、立ち尽くしたまま茜を見上げていた。 先に動いたのは、光のほうだった。 宙を昇っていた粒の流れが、ふいに向きを変えて路面へ降りた。三つの水たまりの縁が、光を含んで淡くなっていく。白く濁っていたものが端から細かな粒に解けて、浮かんで、消えた。こはるの脚の間を汚していたものも。澪の腿に残った跡も。乾きかけた染みひとつ、路面に残らなかった。 そして茜は、自分の内側でそれが起きるのを感じた。 下腹の奥に居座っていた熱が、ほどけていく。胎の入口で重く脈打っていたものが輪郭を失い、光の粒になって、肌を透かすように抜けていった。痛みはない。ただ、注がれたときと正反対の向きの感覚だけがあった。出ていく。何もかも。 「主を失った魔素は、還るんだ」 白い生き物が、静かに言った。 「あいつらが君たちに注いだものも、全部。傷も残らない。跡も、何も残らない」 何も残らない。その言葉を、茜は変身の膜の向こうで聞いた。恐怖も羞恥も、まだ薄い膜の外に遠ざけられている。だから、今のうちだと思った。今のうちに、やることを全部やる。 茜はまず澪を抱き起こした。百七十五センチは重かったが、纏いの残る腕は文句を言わなかった。路面の布の山から澪の服を選り分けて、力の入らない長身に一枚ずつ着せていく。下着。シャツ。ボタンを上から留める。汗で貼りついた黒髪を顔から払ってやると、半分落ちた瞼の奥で、瞳がのろのろと茜を探した。 「……アカ、ネ?」 「そう。あたし。……もう終わったから。ぜんぶ終わったから、喋んなくていい」 路面に転がっていた黒いヘアゴムを拾って、澪の手首に戻した。指が、それだけは覚えている動きで、輪をきゅっと握った。 こはるは、抱き起こすと壊れそうだった。柔らかい身体は芯が抜けたままで、着せている間じゅう、瞼の裏で眼球だけが不安げに動いていた。水色の下着。ブラウス。スカートのホックを留めて、乱れた髪を指で梳く。ご、め、ん、と唇がまた動きかけたので、茜はその頭を胸に抱えて、動きが止まるまで待った。 「謝るな。謝るようなこと、あんたは何ひとつしてない」 届いているかは分からなかった。それでも言った。言い聞かせる相手が、こはるなのか自分なのか、それも分からないままで。 最後に自分の番になって、そこで、纏いが尽きた。 選んだわけではなかった。糸が切れるように光がほどけて、茜色の衣装は端から粒に還り、あとには素肌だけが残った。夜気が全身に触れる。 そして――膜が、消えた。 全部が、戻ってきた。 剥がれた瞬間の胸の冷たさ。品定めの眼。実況された声。跳ねた腰。噴いたもの。二人の眼に晒した、全部の格好。遠ざけられていた羞恥と恐怖が、利息ごとまとめて、堰を切って胸に流れ込んでくる。 「――ぁ」 膝が、落ちた。 立てなかった。ついさっき三メートルの巨躯を撃ち抜いた脚が、今は自分の体重ひとつを支えられない。心臓が遅れて暴れ出し、歯の根が合わなくなった。裸でいることが、急に、耐えられなくなった。 茜は震える手で自分の服を掴んだ。下着の前後を二度間違えた。シャツのボタンは、掛けては外れ、ひとつずつずれた。あの醜い指どもは一度も掛け違えずに外していったのに、自分の指は自分のボタンひとつ満足に留められない。それが無性に悔しくて、悔しいと思えたことに、少しだけ救われた。 着終えて、それでも立ち上がる勇気が出るまでの間、茜は路面に散らばったものを拾った。 絆創膏の箱。テーピングのロール。茶色い消毒液の瓶。転がった場所をひとつずつ辿って、こはるのマネージャーバッグへ戻していく。指はまだ震えていて、絆創膏の箱を二度取り落とした。二度とも、拾い直した。 四つん這いに近い姿勢で、灰色の路面を這うように進む。ついさっきまで自分たちが縫い付けられていた場所を、拾いものをしながら横切っていく。ここで剥がれた。ここで並べられた。ここで、跳ねた。場所のひとつひとつが覚えていることを、路面はもう何ひとつ証言してくれない。染みも、水たまりも、髪の一本も残っていない。残っているのは、転がった絆創膏の箱だけだった。世界でいちばん健気な落としものだけが、あの夜が本当にあったことの、最後の物証だった。 八百屋の台の下から、みかんがひとつ転がり出てきた。最初の一撃で散らばったやつだ。茜はそれも拾って、少し迷って、台の上へ戻した。誰も見ていない。誰も知らない。それでも、戻さずにはいられなかった。 部の誰かの膝のために几帳面に詰められていた小さな箱たち。転んだこはるの手から散らばって、群れに踏まれても、潰れただけで、ちゃんとそこにあった。 (あった。ぜんぶ、ある) 中身の順番は分からなかった。こはるの頭の中と同じ順番には、きっと戻せない。それでも全部詰めて、留め具を閉じた。留め具は、壊れていなかった。 その小さな事実に、どうしてか涙が出た。 膜を抜けるのは、一歩だった。 二人に肩を貸して、澱んだ光の際をまたいだ瞬間、世界に音が戻った。遠くで貨物列車の走る音。自販機の低い唸り。海からの風がアーケードの看板を軋ませる音。夜明け前の商店街は今度こそ本当に無人で、シャッターは眠り、氷の上の魚はもうどこにもなかった。 スマホが震えた。アンテナが戻り、画面は午前四時台を示していた。 「あれ」 澪が、立ち止まった。 自分の足で立てるようになっていた。立てるようになった顔から、何かが、潮が引くように抜けていくのを茜は見た。 「私たち……なんで、こんな時間に……」 「ぇ……? あれ……わたし、たち、スーパー……行って……」 こはるが目をこすって、辺りを見回す。怯えの色はもう、輪郭を失いかけていた。恐怖の記憶だけが選ばれて、砂のように指の間から落ちていく。二人の眼から、あの夜が消えていくのを、茜は黙って見ていた。 「終電、逃したの。あたしたち」 声が震えないように、腹に力を入れた。 「話し込んでて。……ばかみたいでしょ。ほら、帰るよ。怒られる前に」 嘘は穴だらけだった。それでも二人は頷いた。頷けてしまうように、二人の頭のほうが、勝手に穴を埋めていくのだった。 三人で歩いた。行きと同じ道を、行きと同じ並びで。真ん中の影だけ頭ひとつ短くて、左右の歩幅が真ん中に合わせてあるのも、同じだった。同じであることが、こんなに恐ろしいものだとは知らなかった。 裏路地の入口の前で、こはるの足が、一瞬だけ止まった。 「?」 本人が誰よりも不思議そうな顔で、自分の腕をさすっている。鳥肌が立っていた。理由は、こはるの中のどこを探しても、もう見つからないはずだった。 「こはる?」 「ううん。なんでも、ない。……なんだろ、今の」 澪が黙って、こはるの肩を抱いて路地から遠ざけた。理由を知らない者同士の、理由を知らないままの庇い合いだった。茜だけが、路地の奥の暗がりを一度だけ振り返って、それから前を向いた。 澪の家の前で別れ、こはるの家の前で別れた。じゃあね、また明日。おやすみ、茜ちゃん。手を振る二人の声は、驚くほどいつも通りで、いつも通りであることの意味を知っているのは、手を振り返している一人だけだった。 ひとりになった帰り道で、白い生き物は茜の肩に乗っていた。 「説明、しなきゃならないことが山ほどある」 「いい。歩きながらで」 「君は魔素に適合した。さっきの光と力がそれだ。僕は使い魔――適合者に付く案内役だよ。歪みの気配は僕が読める。戦うのは、君だ」 「あの二人は」 「忘れる」 白い生き物は、短く言った。 「歪みに引き込まれた一般人は、外へ出れば記憶を保てない。朝には、怖い夢の残り香くらいしか残っていない。それが、この世界の決まりだ」 「あたしは」 「適合者は忘れない。全部、覚えたままだ」 街灯の下を、茜は黙って歩いた。忘れられるなら、そのほうがいい。あの二人が何も知らずに笑えるなら、それがいちばんいい。本心だった。本心のはずなのに、覚えているのが自分ひとりだと言われた瞬間、夜道が急に広くなった気がした。 「記憶ってのは、荷物なんだ」と、肩の上の声が続けた。「誰かと分け合えるうちは、まだ軽い。君のは、今夜から、分けられない」 「頼んでないし。そういう説明」 「頼まれなくてもするのが使い魔だよ」 口の減らない生き物だった。減らない口の底に、さっきから同じ湿った色が沈んでいることにも、茜はもう気づいていた。気づいて、気づかないふりをするだけの余裕が、ようやく戻ってきていた。 「ひとつ、言っておかなきゃならない」 肩の上の声が、低くなった。 「君の魔素は濃すぎる。今夜のことは偶然じゃないんだ。怪異は君を、君の周りごと放っておかない。今夜が、終わりじゃない」 茜は足を止めなかった。止めたら、そこから動けなくなる気がした。 「上等」 それだけ言った。言い切るまでに、息をふたつ使った。 「……間に合わなくて、すまなかった」 絞り出すような小さな声は、聞こえなかったふりをした。そうしてほしそうな声だったからだ。 家は寝静まっていた。物音を立てずに風呂を沸かして、茜は湯に沈んだ。 広い湯船が好きだった。今夜は、狭くていいと思った。膝を抱えて、顎まで沈む。洗った。湯に入る前に、何度も洗った。跡なんてどこにも残っていないことは、誰より自分の身体が知っている。それでも洗った。泡を流すたび、醜い指の感触を思い出して、思い出した場所をまた洗った。洗うほど思い出すのだと分かってからも、やめられなかった。 湯の中で、自分の下腹に手を当てる。平らだった。何もない。注がれたものは光になって出ていって、傷ひとつ、この身体には残っていない。残っていないことが、いちばんおかしかった。あれだけのことがあって、何も残らないなんて。証拠が消えるということは、誰にも信じてもらえないということと、同じ形をしていた。 (なんで、覚えてるのが、あたしだけなのよ) 膝を抱える腕に、力がこもった。 湯気の中で、まばたきをするたび、瞼の裏に断片が来た。こはるのひらがなの泣き声。澪の折れた「平気」。自分の喉から出た、あの音。首を振って追い払っても、断片は順番を守って、また来た。忘れない、ということの本当の値段を、茜は初めて知りつつあった。忘れないのは、覚えていようと決めることではなかった。追い払っても追い払っても、勝手に戻ってくるものと、これから毎晩、同じ湯船に入ることだった。 (……泣かない。泣かないっての) 湯が、顎を越えた。目の縁が熱いのは、湯気のせいということにした。 浴室の戸の外から、小さな声がした。 「そろそろ上がったほうがいい。長湯は毒だ」 「あんた、名前は」 「ない。好きに呼べばいい」 「……ミル」 湯を見つめたまま、茜は言った。 「牛乳のミル。文句ないでしょ」 「安直だな」と声は言って、それきり何も言わなかった。戸の向こうで、白い生き物は朝まで、そこを動かなかった。 同じ夜の底で。 早坂こはるは、自分のベッドの中で目を覚ましていた。 怖い夢を見た気がした。中身は思い出せない。思い出せないのに、胸の鼓動が速くて、肌が汗ばんでいて、身体の芯に覚えのない熱が燻っていた。毛布の中で、手が、勝手に下りていった。どうしてそんなことをするのか、こはるには分からなかった。したこともほとんどないのに、指は迷わなかった。押し殺した息が、枕の綿に吸われて消える。記憶は薄れても、身体は覚えていた。与えられた熱の高さを、正確に。果てたあと、こはるは濡れた目で天井を見て、わけも分からないまま、小さく「ごめんなさい」と呟いて眠った。誰に謝ったのか、本人にも分からなかった。 戸倉澪は、部屋の床に座っていた。 ベッドに背を預け、膝を立てて、暗がりの中で自分の右手を見ていた。さっきから、その手が言うことを聞かない。腿を合わせても疼きは引かず、引かない理由が、澪にはひとつも思い当たらなかった。歯を食いしばって、手は、部屋着の中へ入っていった。声はひとつも出さなかった。出さない癖が、どこで身についたのかも知らないまま。終わったあと、澪は長いこと自分の手のひらを見つめて、それから手首のヘアゴムをひとつ鳴らし、何も見なかったことにして布団へ入った。 深層に刻まれたものの名前を、二人はまだ知らない。知らないままでいられる朝が、二人にはちゃんと来る。 朝は、いつも通りの顔で来た。 部室前の廊下に朝練の声が響いて、窓から差す光の中で、茜は牛乳パックにストローを刺した。二時間も寝ていない頭に、冷たい牛乳が染みる。 「おはよぅ、茜ちゃん! あのね、聞いて。昨日なんか、変な夢見た気がするんだよね」 こはるが、マネージャーバッグを抱えて駆けてきた。留め具のしっかり閉まった、中身の詰まったいつものバッグ。 「どんな」 「それがねぇ、覚えてないの。怖かったような、そうでもなかったような……。んー、なんだったんだろ」 首をかしげて、笑う。屈託のない、いつもの笑い方だった。 「夢の話は寝てからしてくれ」と澪が欠伸まじりに合流して、「なんか寝た気がしない」とこはるの頭に手を置いた。「アカネ、朝から牛乳。えらい」 「当然でしょ。可能性は毎日積むの」 軽口は、ちゃんといつもの形で口から出た。二人が笑う。何も知らない顔で、何も失っていない顔で、今日も隣で笑っている。それでいい。それがいちばんいい。あたしが守ったのは、たぶん、この朝のことだ。 茜はストローを噛んで、窓の外の晴れた空を見た。 あの夜を覚えているのは、あたしだけ。 それでいい――と言い切るまでに、牛乳は、一本まるごと必要だった。