1 「日が落ちたら、岬へ行かんようにな。今夜は海にも入らんこと」  夕食を運んできた民宿の老婆は、そう言った。  理由を尋ねると、盆の縁を握り直した。 「鮫が来る。お供えにも触らんでな。あれは、あんたらに出しとる物じゃない」  老婆が去ってから、男と連れは顔を見合わせて笑った。  夜九時、岬の岩棚には二人の懐中電灯だけが動いていた。  膝ほどの石の祠に、魚の皿と酒瓶が供えてある。連れがスマートフォンを構えると、男は瓶を持ち上げた。 「神様、一本だけ。明日返すから」  蓋をひねったとき、連れが沖へカメラを向けた。  月の映る海を、黒い三角が横切っていた。 「すげえ。鮫じゃね?」  連れが低い岩へ下りた。その足元へ、白黒の帯が掛かった。  男が声を掛けるより早く、膝が岩へ落ちた。爪が石を掻き、サンダルだけが縁に残った。  水音のあと、少し離れたところに顔が浮いた。  名前を呼ぼうとした男の目の前で、海が裂ける。  白い歯が並んでいた。口の上側は、懐中電灯の光から外れていた。  連れの頭が見えなくなった。  男は石段を駆け上がる。酒瓶はどこかへ捨てた。膝を打った痛みも、道へ這い上がってから気づいた。  海はもう下だった。手すりも、木もある。  背後で、濡れた縄を引きずる音がした。  振り返ると、白黒の帯が手すりを締めつけていた。鉄が曲がり、黒い鎌のような先端が道へ持ち上がった。  男の手から、灯りが落ちた。  翌朝、岩の割れ目には片方だけのサンダルが残っていた。  酒瓶には海水が入り、祠の魚は皿に載ったままだった。老婆は曲がった手すりを見て、立ち止まった。 「触るなと、言うたのに」  沖からは、朝の連絡船が近づいていた。その舳先の下まで、海は澄んでいた。 「下に魚がいる」  ベタモンが舷側を覗こうとして、遥の膝を押した。  彼女は小さな腹を抱き直し、背中の鰭へタオルを掛けた。甲板を通る乗客の目には、少し変わったぬいぐるみに見えるだろう。 「着くまで待っとき。あんた、さっきからウチの顎くすぐってるで」  島の斜面には瓦屋根が並び、その向こうに白い浜が見えた。  鞄には、拾った貝殻や硝子片を入れる小袋がある。島を選んだきっかけは硝子の浮き球の写真で、船を予約した決め手は、古い海唄の録音だった。  小都たちと過ごした夏から、一年が経っていた。海を見て、不意に胸が冷えることは今もある。それでも今回は、浜までの道や宿の朝食を調べる方に、ずっと時間を使った。  帰ったら、土産を見せたい相手がいたのだ。  日陰のベンチへ移ると、青い髪の女性が鞄を寄せてくれた。  足元には金具で補強されたケースが二つ。膝には薄い端末が載っていた。 「おおきに。ウチ、渚遥や。こっちはベタモン」 「小鳥遊。医者よ」 「先生も、ご旅行?」 「頼まれ事があってね。この荷物を浜へ置いて、泳ぐわけにもいかないでしょう」 「ほな、先にお宿へ預けんとあかんねえ」 「仕事の方も、そのくらい簡単に片づけば助かるわ」  小鳥遊は笑って端末を閉じた。ベタモンを見ても驚かなかったことに、遥は少し遅れて気づいた。  港へ迎えに来た村長は、宿へ向かう間に二度、電話を受けた。  道で出会うのは老人ばかりだった。祭りの掲示に『鮫迎え』とある。遥が足を緩めても、村長は気づかなかった。  民宿の食堂には、手をつけていない朝食が二人分並んでいた。 「二階のお客さんが、戻らんのです」  女将の言葉に、小鳥遊は鞄を下ろした。 「私に送られた報告には、載っていない二人ね」 「ええ。昨夜、岬へ出かけたらしくて。警察と海上保安の方には、連絡しております」  村長が差し出した写真には、曲がった手すりと、道端の懐中電灯が写っていた。  小鳥遊は女将を座らせ、最後に二人を見た時刻を確かめた。 「日が落ちたら行くなと、言いました。お供えに触るなとも」 「おばあちゃんが、ちゃんと止めてくれはったんやね」  遥は女将の手元へ湯呑みを寄せた。前掛けを握っていた指が、少しほどけた。 「鮫が来る晩なんです。沖の神様のお使いが」 「昨夜、その鮫を見た人は?」  小鳥遊に尋ねられ、女将は首を横に振った村長によれば、祭りの前後は夜の海を避け、皆が戸を閉めるという。 「お供えを持っていくと、帰ってこないんだよ」  戸口に、同じ顔の娘が二人立っていた。一人が祭りの皿を抱え、もう一人は畳んだ白布を持っている。近づいた音は聞こえなかった。 「……まだ捜してはる最中やろ。戻らへんて決めるんは、もうちょっと待ったげてな」  遥が言うと、二人は顔を見合わせた。小さく頷き、皿を壁際へ運ぶ。女将が立ち上がろうとすると、片方がすぐに手を貸した。 「祭りも、この子らがいなければ。二十代は、もう二人だけですから」  村長の説明に、遥は二人を見直した。 「……二十歳?怪しい双子キャラも、田舎の過疎化には勝てへんのやね」  膝の上でベタモンが首を傾げた。  小鳥遊の端末には、別の写真が開かれていた。港の一角が白く濁り、その中に黒い筋が見えた。 「これが、私を呼んだ理由よ。ここ数週間、魚の動きがおかしい。無線も途切れる。島の人が二人、行方不明になっている」 「その人らも、お供えに触らはったん?」  遥の問いに、村長は首を振った。一人は漁の帰り、もう一人は海沿いの道で姿を消したという。昼のことだった。 「この白い濁りも、昔から?」 「いえ、今年が初めてです」  小鳥遊は写真を手すりの方へ戻した。 「これは、陸側へ曲がっている。人が海へ落ちて掴んだだけなら、不自然ね」  遥はその脇に落ちた懐中電灯を見た。持ち主は、ここまで戻っていたのかもしれない。海に入らなければいい、という話ではなかった。 「皆さんには、岸から離れてもらって。私は写真を撮った人に会いたいわ」 「先生、ウチらにも手伝わせてもらえへん?」 「旅行に来たのでしょう?」  遥は冷えた二つの膳を見た。 「これ見たあとで、海が綺麗やなあ言うてるだけやと、落ち着かへんわ」  小鳥遊はベタモンへ目をやり、頷いた。 「勝手に海へ入らないこと。何か見つけたら、触る前に教えて」  村長が漁師へ電話を掛ける間、双子が白布を広げた。  低い歌声が重なった。  沖の瀬から お渡りなされ  魚を寄せて 舟は返せ  浜の灯落とせ 道あけろ 「そのお唄やわ。ウチ、それ聴いて、ここへ来てみたいなあと思ってん」  双子の手が止まった。遥が保存した録音を聞かせると、姉が「ああ、おじいちゃんたちだ」と笑った。 「舟は、返してもらうんやね」 「人を乗せてるから。昔、帰れなくなった舟を、大きな鮫が島まで連れてきてくれたんだって」  遥は頼んで、二人の歌声も録らせてもらった。  録音を止めると、小鳥遊の袖の下から控えめな声がした。 『先生。今の唄、もう一度聴いてもいいですか』  小鳥遊が袖を上げた。腕にはデジヴァイス01があった。 「あとでね。まずは仕事を済ませましょう」 「先生も、連れて来てはったんや」 「ええ。歌が好きな子なの」  遥は携帯電話を鞄へ戻し、二つの膳の脇を通った。 「ウチ、帰って来てほしいと思うてお供えしてはるんやったら、その気持ちは大事にしたいわ」 「待っている人まで、いなくならないようにしないとね」  小鳥遊は鞄を取り、玄関へ向かった。 2  写真を撮った漁師に会えたのは、昼を過ぎてからだった。  港で網を片づけていた彼は、白い濁りを見た場所を指した。防波堤の先だという。小鳥遊が岸から離れた場所で話を聞く間、遥は一艘の小舟を見ていた。  船尾が沈んでいた。隣の舟は緩く揺れているだけなのに、その舟だけが、戻らなかった。 「先生、あれ!」  船首の綱が張り、濡れた繊維から水が絞り出された。  持ち主らしい老人が駆け寄ろうとする。 「俺の舟だ。栓が――」 「綱から離れて!」  小鳥遊の声に、遥は老人の肘を取った。  引き戻した直後、綱が弾けた。折れた船縁の上へ、白と黒の細い帯を束ねたものが現れた。  一本がほどけ、岸壁へ伸び、先端の黒い鎌が、遥のいた場所を削った。 「ガオスモン!」  01から降りた影を、進化の光が包んだ。 『ガオスモン進化……デッカードラモン!』  低く長い顎と、発射器を並べた背。装甲の尾が振り抜かれた。 「ヘビーテイルフック!」  重い鉤が触手を海へ叩き戻した。老人が座り込んだ。 「ワニまで……」 「私の連れよ。立てるなら坂へ。ここには誰も近づけないで」  漁師が老人へ肩を貸した。  その向こうで桟橋が鳴った。別の漁船から渡ろうとしていた男が、板ごと海へ落ちた。 「先生、あの人はウチらが!」 「お願い。こちらで抑えるわ」  遥はベタモンを下ろし、青いD-3を握った。 「速い方で行こ。あの人、連れて戻ろな」 「よし来た」 『ベタモン、アーマー進化! 深海を駆ける誠実、ティロモン!』  誠実のデジメンタルの光から、装甲を纏う海竜が飛び出した。  荷揚げ用の斜面を滑り、水面へ細い波を残す。  男の頭は見えなかった。 「血のにおい。こっちだ」  ティロモンが桟橋の下へ潜った。デッカードラモンの牙から流れた煙が、その上を覆う。振り下ろされた鎌が煙を裂いたときには、ティロモンは男を背に載せ、斜面へ向かっていた。 「怖がらんでええ! その子につかまっとき!」  遥は備えつけの救命浮環を投げた。男が腕を掛けたところへ、白黒の束が水中から伸びた。 「オーシャンストライク!」  絞られた水流が触手を貫く。ティロモンは男を落とさないよう半身だけを捻り、浮環を斜面へ押し出した。  遥が綱を引くと、逃げかけていた漁師も戻って手を貸した。 「あの人、上がった?」 「上がらはった。あんたも戻っといで!」  濡れた男が咳き込んだ。自分の肘で、身体を起こそうとしていた。  その背後で、桟橋の支柱が水中へ引き込まれた。  デッカードラモンの足元にも、舗装の亀裂が走った。 「先生。下に回られています」 「海側で迎えるわ。メタルスピノモンへ!」  小鳥遊が倉庫の角へ退くと、彼は岸壁を蹴った。  飛沫の中で光が膨らみ、鈍い緑色の装甲と、背にそびえる円鋸が現れた。 『デッカードラモン進化! メタルスピノモン!』  横から襲った鎌を、機械の腕が受け止める。触手には吸盤がなかった。白と黒の帯が別々に動き、束になって腕の関節へ潜り込もうとしていた。 「ソニックソービット!」  背から放たれた回転鋸が海面を割った。  束が切れ、黒い刃が岸壁へ落ちる。メタルスピノモンは残る触手を掴み、沖へ引いた。  白い装甲が、水の上へせり出した。  遥には、見覚えのある重なり方だった。  砂の入った隙間を洗うと、嫌がって顔を背けた。色も、大きさも違う。それでも、知っていた。 「……シャークモン?」  装甲の隙間を黒い帯が通った。その奥で橙色の目が動いた。  水面に出ているのは頬の一部だった。頭の先も、身体の終わりも、白い濁りに隠れていた。  触手がメタルスピノモンの肩を締めた。  ティロモンが横から突っ込み、束を押しずらす。その隙に機械の爪が白い装甲へ掛かった。  硬い音がして、破片が岸壁へ跳ねた。 「追わないで! 人を上へ逃がすわ!」  小鳥遊の指示に、メタルスピノモンは浮上した。  白いものは沈み、港には割れた板と、空の籠だけが漂った。 「遥」  ティロモンが呼んだ。 「あの人、歩いてるよ」  助けた男は肩を借り、坂を上がっていた。振り返って、何度も頭を下げている。  遥は握りしめていた綱を、ようやく放した。  避難先は、坂の上の廃校だった。  崩れた岸壁を越えた水が、坂の下まで入り込んでいた。村長が車を出し、双子が家々の戸を叩いた。水の入った道では、シードラモンの姿になった相棒が、歩けない老人たちを背に載せて運んだ。  遥はその横で、盆を抱えた女将を呼び止めていた。 「神様を傷つけたのかい。ちゃんとお詫びをせんと、村まで……」  盆には魚の皿と酒瓶が載っていた。  遥は取り上げず、下から手を添えた。 「お参りするんやったら、上でしよ。帰って来てほしいんやろ。おばあちゃんまで、海へ行ってしもたらあかん」  老婆の足が一歩、坂の上へ動いた。  背後では、誰かが祟りだと呟いた。小鳥遊はその人へ、濡れた男に肩を貸してほしいと頼んだ。  教室に入ると、小鳥遊はすぐに負傷者を診始めた。  双子は水と乾いた布を運び、名前を呼んで人数を数えた。舟の鍵を取りに戻ろうとした老人が、戸口で止められていた。 「今戻ったら、おじさんも帰ってこなくなるよ」  妹が言い、姉がその後ろへ椅子を置いた。老人は黙って座った。  救助要請は届いたが、港は壊れ、海にはまだ何かがいる。  負傷者の処置が一段落するころには、陽が傾き始めていた。  小鳥遊は電話で患者の状態を伝えると、窓際で待つ自分の相棒へ向かった。  ガオスモンに戻った肩には、傷が残っていた。 「先生のお怪我は?」 「ないわ。あなたは?」 「動けます」 「それと、傷がないのとは別よ。診せて」  彼は素直に肩を向けた。  隣のベタモンが、小さく前足を上げた。ガオスモンも目を細めた。  処置を終えると、小鳥遊は港で拾った白い破片を機材の下へ置いた。  避難の際、宿のケースも運んでもらっていた。画面に映る断面を、遥が覗き込んだ。 「さっき、シャークモンだと言ったわね」 「この子の、前の姿やねん。本人は覚えてへんけど」  ベタモンは画面と遥を見比べ、その足へ身体を寄せた。  小鳥遊は資料と断面を照らし合わせた。 「形は合うわ。でも、元の構造が潰されている。そこへ、この黒い組織が通してある」 「身体を、材料にしてはるん?」 「その疑いが強い。生きたシャークモンから何かを剥がせば助かる、と考えるのは危険ね」  遥は相棒の背へ手を置いた。  廊下から、女将の唄が聞こえた。舟を返せ、と願う節だけを繰り返していた。 「あのお話を知ってて、鮫の形を選んだんやろか」 「まだ分からない。あの白いものが現れたのは、ここ数週間。それ以前の伝承とは、分けて考えた方がいいわ」 「先生は、神さんのお話は信じはらへんのやね」 「ええ。でも、皆が何を怖がっているのかは知っておきたい。それで、避難の仕方も変わるでしょう」  小鳥遊は試料の容器を閉じた。その蓋が、机の上で細かく鳴った。  窓硝子も震えていた。女将の唄が止まった沖の水面が、丸く持ち上がっていた。 3  白い頭が、防波堤の向こうからせり上がった。  顎から滝のように水が落ち、村の屋根より高いところで、橙色の目が次々に開いた。  その後ろには、鮫の尾がなかった。白黒の帯を束ねた触手が放射状にほどけ、海を叩いた。港へ入り込んだものも、岬に絡みついたものも、同じ巨体へ続いていた。  小鳥遊の脳裏に、昔見せられた映画の一場面がよぎった。好みでもない作品に何本も付き合わされたが、あの姿だけは妙に記憶へこびりついていた。 「あれは……シャークトパス!」 「シャークトパス……て、何なん?」 「『シャークトパス』シリーズのメインクリーチャーよ。鮫に蛸の触手を生やしたような怪物」  小鳥遊は腕のデジヴァイス01へ目を落とした。  分析表示の中で、推定全長の数値が変わっていた。水面へ出た輪郭が広がるにつれ、その値も大きくなった。 「四百五十メートル……まるでメガシャークみたいね」  画面から顔を上げる。その向こうで、白黒の触手が防波堤を跨いだ。 「メガシャークトパス……といったところかしら」 「先生、なんでそんなんに詳しいん?」 「昔、知り合いに嫌というほど見せられたのよ」  苦々しい返事に、コンクリートの砕ける音が重なった。  触手が防波堤を跨ぎ、村へ上がってきた。 「窓から離れて!」  小鳥遊が叫んだ。ガオスモンは校庭へ駆け出し、進化の光に包まれた。  メタルスピノモンの腕が、学校へ伸びた鎌を受け止める。 「この裏から山へ抜けられる?」 「水道のタンクへ上がる道が。その先なら、反対側へ」 「そちらへ。救助の連絡先にも、移動すると伝えて」  村長が裏口を開けた。  双子は歩けない人に肩を貸す者を決め、名簿を手に列を動かした。  女将だけが、盆を抱えて立ち尽くしていた。 「ほんとに、来なさった……」 「おばあちゃん、ウチと来て」 「舟を、返して……」 「拝んでてもええ。せやけど、足は止めんといてな」  遥が肘へ手を添えると、老婆はようやく歩き出した。  彼女を双子に預け、小鳥遊と校庭の端へ出る。石垣の下には、港へ続く道と海が見えた。  校庭の下で、回転鋸が触手を断った。  切り口から細い帯がばらばらに垂れる。その後ろには、もう次の鎌が迫っていた。 「先生。砲を使えば――」 「村が近すぎるわ。斜面に回る腕を止めて。あと少し、時間が要る」  メタルスピノモンは砲口を閉じ、海へ入った。  触手の根元を引き、巨体の下へ潜る。港で割った白い装甲へ爪を掛けると、鮫の頬が大きく剥がれた。  その下に、あるはずのものはなかった。  潰れた組織を黒い帯が貫き、顎を吊っていた。一束が裂けると下顎が落ち、別の帯に引かれて、ずれたまま閉じた。  橙色の目だけが、動き続けていた。  遥はベタモンを胸へ寄せた。背後では、杖をつく音が山道へ続いていた。二人並べない場所で、列が止まった。  黒い鎌が、その上へ掛かった。  メタルスピノモンが海中で触手を引く。刃が土を削り、避難する人々の頭上を通った。  今は止めてくれている。だが、彼の肩からも装甲が剥がれ落ちていた。  遥の耳へ、遠い水音が届いた。  目の前の波とは違っていた。去年から、消えていなかったもの。耳を塞いでも聞こえる、底のない海の音だった。  意識を向けると、手の中のD-3が暗く光った。 「先生。ウチな、別の海に繋がってるんや」  小鳥遊が振り返った。 「暗うて、底の見えへんとこ。そこにある力、この子の進化に使えるかもしれへん」 「試したことは?」 「あらへん」 「止められるかも、分からないのね」 「……そやから、先生にも知っといてほしかってん」  小鳥遊は彼女の手元を見た。光へ引かれるように、指の震えが強くなっていた。 「まず、その子と話しなさい」  遥は石垣の陰へ屈み、ベタモンと目を合わせた。 「ウチ一人で決めたら、あかんことやったね。怖いこと頼んで、ごめんな」 「遥は、向こうへ行くつもりか?」 「ここにおる。先生にも、傍にいてもらう」 「力をもらったら、帰れる?」  遥はすぐには答えられなかった。ベタモンの身体を、両手で抱き直した。 「帰れるようにする。ウチも、あんたも」  学校の方で窓が割れた。小鳥遊が01へ短く指示を送る間、ベタモンは遥の手へ前足を載せた。 「石、まだ拾ってない」 「せやね。せっかく来たのになあ」 「また、拾いに来よう」  遥は頷いた。 「うん。また一緒に来よな」 「やるよ。あの人たち、まだ逃げてるんだろ」  小さな額へ、自分の額を寄せた。その硬さも、腕に掛かる重さも、暗い海にはなかった。 「おおきに。ウチの声、よう聞いといてな」  小鳥遊が二人の前へ屈んだ。 「進化させるなら沖へ出しましょう。私の相棒に運ばせるわ」  01へ呼び掛けると、海から緑色の頭が上がった。 「了解です、先生」  鋸が触手を断ち、メタルスピノモンが岸へ戻った。  低くした背へベタモンを下ろすと、彼は装甲の溝へ爪を掛けた。 「お願いします」 「しっかり掴まっていてくれ」  ベタモンを背に載せた巨龍が、港の外へ向かった。  小鳥遊は遥の肩を掴み、顔を覗き込んだ。 「あなたの身体はここにある。私はそれを守る。でも、向こうへ行った意識を連れ戻せるかは分からない」 「せやから、ウチの名前、呼んどいてほしいねん」 「返事ができる間は、してちょうだい」  遥はD-3を両手で包んだ。  目を閉じると、暗黒の海はすぐ近くにあった。石垣も、小鳥遊の靴も遠ざかった。底のない水面の奥で、何かが待っていた。そこへ沈めば、もう何も抱えなくていい。そんな感覚が、懐かしいもののように身体へ馴染もうとした。 「渚さん」  肩に指があった。服の縫い目ごと、しっかり掴まれていた。 「……聞こえてる」  遥は石垣へ踵を押しつけた。眠る場所は家にあった。祖母と囲む食卓があった。旅行が終わったら、そこへ帰るつもりだった。  暗い水面へ青い光が落ちた。  その奥へ触れた瞬間、D-3が震えた。  冷たさが指から肘へ駆け上がった。腕を引こうとしても、動かし方が分からない。流れ込む力を、相棒へ続く光へ向けるだけで精一杯だった。 「目を開けて。私の声は?」 「聞こえて……る」  小鳥遊の顔の向こうに、暗い海が重なっていた。  遥はその顔を見続けた。 「ベタモン。ウチ、ここにおるさかい」  沖で、光が点いた。  メタルスピノモンが相棒を水面へ下ろし、身を引く。  小さな身体を包む闇から、鱗に覆われた頭が現れた。顎が伸び、さらに伸びた。濃紺の胴が海を押し上げ、二本の尾が水面を叩いた。  白い鮫の目が、一斉にそちらを向いた。  現れたものは、鰐に似ていた。ただしその口は、海を塞いでいた四百五十メートルの怪物へ向かって、なお大きく開いていった。  D-3に名が浮かんだ。  リヴァイアモン。 「……ウチの声、聞こえてるんやろ?」  額の赤い結晶が、ほんの一瞬、岸を向いた。  次の瞬間、巨大な顎が白い鮫を捉えた。 4  白い装甲が陥没した。メガシャークトパスの触手が巨鰐の首へ殺到する。幾重にも締めつけ、鎌で鱗を引っ掻いた。  リヴァイアモンは止まらなかった。  前足で束を押さえ、噛みついたまま頭を引く。触手が千切れ、村を覆っていた怪物が沖へ滑った。岬へ掛かった鎌が岩を削り、外れた。  ほんの少し前まで、両腕で抱いていた相棒だった。今は、港より大きな怪物を引き倒していた。  メガシャークトパスが海底へ触手を突き、身を起こした。橙色の鰭が夕空を遮る。鮫の口が、真下の相手へ落ちてきた。  それより早く、長大な顎が喉元を捉えた。濃紺の胴が捻れ、鮫の巨体が沖へ叩きつけられた。振り上げられた鎌は、尾の一撃でまとめて沈んだ。  勝てる、と遥は思った。  手の中の光が強くなった。  冷たさが、腕の付け根まで届いた。  引きずられる怪物から、長い触手が斜面へ伸びた。鎌が山道の石積みに掛かる。上には、避難の列の最後尾が見えていた。 「メタルスピノモン!」 「はい、先生!」  緑色の巨龍が波を割り、触手へ飛びついた。石積みから鎌を剥がした背へ、別の刃が突き立つ。肩の装甲が裂け、それでも彼は束を離さなかった。 「ソニックソービット!」  回転鋸が触手を断った。支えを失った怪物が、沖へ引かれる。  メタルスピノモンが泳ぎ抜けた直後、リヴァイアモンは咥え直した。  上顎で鮫の頭を押さえ、下顎の牙を、その後ろの白黒の組織へ沈める。  金褐色の腹が持ち上がった。  一回転。  白い装甲が裏返った。束ねられた帯が絞られ、引き千切られた。  もう一度、海が捻れた。橙色の目が砕け、統率を失った鎌が、ばらばらに落ちた。  高い水柱が二体を覆った。  飛沫の下に、濃紺の背だけが残っていた。リヴァイアモンの口から白い残骸が滑り落ちた。橙色の目は、もう光らなかった。 「メタルスピノモン」 「……無事です、先生」  小鳥遊は息を吐き、遥へ向き直った。 「倒したわ。もう、繋がりを断ち切っていい」  遥は頷こうとした。首がどこにあるのか、分からなかった。  目の前の海へ、暗い水面が重なっていた。敵が倒れたことは分かる。それなのに、冷たさは流れ込み続けていた。 「先生……手ぇ、放せへん」  小鳥遊が前へ屈んだ。 「私の顔を見て」 「まだ、あの子が向こうにおるんや。ウチが放したら……」 「ここにいるわ。あなたの正面に」  端末ごと指を包まれた。綱で擦った掌に痛みが走った。 「先生、ちょっと痛いわ」 「ええ。今、私が触れているの」  痛みを辿ると、手首があり、その先に自分の腕があった。  背中に石垣の硬さが戻った。吸った息は、濡れた土の匂いがした。  遥は沖を見た。  リヴァイアモンが、残骸へ口を開いていた倒すものはもういない。それでも、次に噛み砕くものを探すように、牙を波間へ巡らせていた。  指に力を込めるたび、D-3の光が膨らんだ。  失いたくなくて、繋がりを握りしめていた。その手で、暗い海から来るものまで掴み続けていた。 「……もう、ええんよ」  端末を持ち上げると、小鳥遊が肘を支えた。 「よう頑張ってくれたな。もう帰ろな」  額の赤い結晶が、岸を向いた。遥は暗い水面の奥を見るのをやめた。目の前にいる相棒を見た。袖に引っ掛かる爪と、頬へ触れる鼻先を思い出した。 「ウチ、ここにおる。ちゃんと待ってるで」  巨鰐の顎が閉じた。遥は息を吐き、指を緩めた。下には小鳥遊の掌があった。  冷たい流れが細くなる。途切れそうになっても、今度は追わなかった。  濃紺の輪郭に、淡い光が滲んだ。  メタルスピノモンが近づき、縮む巨体の傍らへ腕を入れた。二本の尾がほどけ、長い顎が消える。流れ込む波の間に、小さな橙色の鰭が浮いた。 「先生。連れて帰ります」  動く方の腕に抱えられていたのは、緑色の、小さな身体だった。  遥は両腕を広げた。布の上へ下ろされたベタモンは、目を閉じていた。小鳥遊が手を添え、胸の動きを確かめた。 「呼吸しているわ。休ませましょう」  小さな前足が動いた。爪が布を滑り、いつものように遥の袖へ掛かった。 「……よう戻ってきてくれたな」  声が震えた。遥はその足を指で包んだ。  石垣の下で、ガオスモンへ戻った相棒が横向きに伏せた。小鳥遊はすぐに傍へ膝をついた。 「先生、ベタモンは……」 「渚さんのところよ。あなたが運んでくれたでしょう」  遥が腕の中を見せると、ガオスモンは僅かに頷いた。起き上がろうとする頭を、小鳥遊が止めた。 「あなたも休むの。痛むところを教えて」  鞄を開く医師の指も、少し震えていた。  山道から、村長と双子の明かりが近づいた。皆、尾根の向こうへ逃げられたという。救助の船も、島の反対側へ向かっていた。担架が用意され、遥の肩には毛布が掛けられた。  立ち上がるには、人の手を借りなければならなかった。それでも腕の中の呼吸は、途切れずに続いていた。 5  遥が島を発つ朝も、救助の船は反対側の船着き場を使っていた。  壊れた港では捜索が続き、帰ってこない人々の家には、手のつけられないものが残っていた。  臨時の救護所へ挨拶に行くと、小鳥遊は住民の名前が並ぶ紙に書き込んでいた。 「先生は、まだ残らはるんやね」 「ええ。救護が落ち着いて、診療を引き継いでから帰るわ。あなたたちは家で休みなさい。待っている人もいるでしょう」 「……ほな、お言葉に甘えるわ。先生も、ちゃんと寝てな」 「ガオスモンにも言われたわ」  机の隅に、白い破片の容器があった。 「あれが何やったんか、分かった?」 「少しだけね。自然に発生したものではないわ」  小鳥遊は白い装甲を貫く黒い筋を示した。 「デジモンとは別種の生命体よ。何者かがシャークモンの身体を材料にして、あの姿に作り上げた」 「島の神さんに、よう似た姿で」 「ええ。でも、似せて作ったのか、似たものを持ち込んだのかは分からない。作った相手も、目的もね」  容器を机へ戻し、小鳥遊は続けた。 「私たちが倒したものは、この島の神様でも、その遣いでもない。それは確かよ」  遥は窓の向こうを見た。船着き場の脇に小さな木箱が据えられ、女将が魚の皿を置いていた。壊れた祠に代わるものらしかった。 「あのおばあちゃんらが大事にしてはったもんまで、壊したわけやないんやね」  小鳥遊が頷いたところへ、診察を待つ人の声がした。  彼女は試料をケースへ収め、返事をした。 「今度は、ゆっくり泊まりにおいで」 「おおきに。次こそ朝ご飯も、落ち着いて食べたいわ」  遥が答えると、女将は目尻を下げた。双子の手を借りて船へ乗る。座席に落ち着くなり、ベタモンが腕の中から顔を出した。 「次は、ガオスモンも一緒に石を拾おう」  見送りに来た小鳥遊が袖を上げた。 『楽しみにしている。島の唄の続きも、教わりたいな』 「まずは二人とも、治療を終えてからね」  小鳥遊が付け加えると、ベタモンは遥の包帯へ前足を触れさせた。 「遥もだよ」 「分かってるって。先生が二人になったみたいやわ」  綱が外れた。双子が手を振り、村長が帽子を取った。 「先生、ガオスモンも。ほんま、おおきにな」 「気をつけて。お祖母様にも、よろしく」  小鳥遊は船が離れるまで見送り、救護所への坂を上がっていった。  ベタモンは、その姿が見えなくなると遥へ身体を寄せた。 「今度は、遥を背中に乗せたい」 「そら楽しみやな」 「ちゃんと話せるくらいの大きさで。あのとき、遥がすごく遠かった」  遥の指が、背中で止まった。自分の手さえ分からなくなった冷たさが、短く蘇った。  前足が袖を引いた。 「今は、近い」 「……せやね。よう顔が見える」  少し屈むと、鼻先が頬へ触れた。  遥はくすぐったさに目を細めた。    ベタモンが頷く。船の後ろで、島が小さくなっていった。  数日後、島の北側の入り江へ、小舟が忍び込んだ。  男は船底に積んだ獲物を確かめ、濡れた手袋を舷側へ叩きつけた。  昼間、島の老人から、ここへ入るなと言われていた。禁漁の札だけでは足りないと思ったのか、沖の神様の通り道だという話までされた。 「神様にでも見張らせとけよ」  笑って船外機を動かした。  舟は進まなかった。  船底を何かが擦った。身を乗り出すと、灰色の面が通り過ぎていた。舟より長く、まだ先へ続いていた。  入り江の水が盛り上がった。巨大な鮫の頭が現れた。開いた顎の向こうに月が見え、すぐに隠れた。  叫び声は、舟の砕ける音に呑まれた。  翌朝、入り江には穏やかな波が寄せていた崖の上では、古びた禁漁の札が海風に揺れていた。