大聖堂の最奥、揺れる燭台の火すら削ぎ落とされた暗がりの中にその密室はあった。 外の音を遮断するように重々しく閉ざされた石扉の向こうでは羊皮紙が擦れる僅かな音と、老朽化した建築特有の冷たい気流の音だけが微かに響いている。端的に言えば隙間風だ。 最北の国ノースカイラムを統べる国王テオクラシア=グレイス=カイラムは、重厚な王衣を静かに揺らし、眼前で手持ち無沙汰そうに立つ人物を見つめていた。対峙するのは教団の聖職者でも、護衛の騎士でもない。ノースカイラムにおいて最も高度な頭脳と独自の洞察力を認められた、ただ一人の科学者——カンケルであった。 「……こんな夜中に直々に呼び出すからには、何か新しい機械の試作予算でも降りるのかと思っていたんですがね。わざわざ大聖堂の地下深くとは物好きな真似をされますな、陛下」 あくびを噛み殺しながら、気だるげに呟くのは科学者カンケル。杖をつきながら弱々しく歩く姿からは想像もつかないが、この科学者は宗教国家特有の敬虔さや王に対する尊敬など微塵もない。生まれも育ちもノースカイラムという人間では数人いるかどうかというレベルの、ただ神の存在を認めているというたったひとつの非科学的現象を受け入れただけの現実主義者だからだ。 テオクラシアはその不敬とも取れる態度を咎めることもなく、静かに手元の羊皮紙の束を滑らせた。 使い込まれた革のファイルに閉じられたその文書には教団の最高機密とされるテオクラシア自身の刻印が押されている。 そこに記されていたのは、一般の信徒はもちろん、教団幹部の中でもごく一部の者にしか知らされていない最高位神術のうちのひとつ、『天使化』に関する禁忌の記録であった。 かつて魔法の暴走により、第一王子を含めた家族も、国土の多くも奪われた。テオクラシアはその悲劇の渦中で第二王子から王となり、自らの身を神に捧げる祈りと引き換えに国家という崩壊寸前の器をかろうじて繋ぎ止めてきた。 だが、その信仰と慈悲の裏でノースカイラムにはあまりにも残酷で不可解な「絶対防衛の手札」が受け継がれ、それを知ったテオクラシアは今日までその情報を徹底的に封じていたのだ。 カンケルは提示された資料に目を落とすと、そこに並ぶ歪な事実や過酷な症例の記録をひとつひとつ慎重に指先でなぞった。 「つまるところ……神聖を身に纏い、爆発的な戦闘能力の向上を得る。ただし、効果時間が切れるとともに肉体は急激に過熱、炭化し、灰となって消滅する……。神聖は人の身には猛毒だが、一時的な加護によって強引に制御しているに過ぎない……か」 目を通していくうちにカンケルの言葉から軽薄さが急速に失われていく。 ポエミーな文章で実に聖書らしい言葉で装飾された欺瞞に満ち満ちている内容に既に嫌気がさしてきたのだ。 「私の代で、この術の存在そのものをノースカイラムの歴史から完全に消し去る」 テオクラシアの静かな声が、冷えた石造りの壁に低く反響する。カンケルが彼を見ると、その複雑そうな表情には王としての絶対的な意志と、これ以上誰も理不尽な死に方で失わせたくないという絶対的な感情が混ざり合っていた。 「生命を代償にするような信仰など、きっとソルマニカ様はお望みにはならない。……だが、魔王軍の脅威が日増しに強まる以上、国家の防衛という現実から目を背けるわけにもいかないんだ。ただ破棄するだけでは、手札を無駄に捨ててしまうだけになる」 テオクラシアは自らの内に秘めた葛藤を一切隠すことなく、カンケルを直視する。 「手札……ですか。誰か使う予定がおありで?」 カンケルが尋ねると、真っ直ぐにカンケルを見ていたテオクラシアは目を伏せてしまう。 「……私だ。というより、現在これを扱えるのは恐らく私だけだろう。徹底的に緘口令を敷き、存在そのものをあらゆる文書から消したからね」 「……気持ちはわかりますが……あなたが使うのは……」 「分かっているさ。しかしこの神術は……太陽教団の人間はごく一部の者しか知らない。まだ頭数は揃っていないが特別な騎士団を作る予定もあると聞いている。……きっと、これを知れば疑うことなく自らの命を投げ出す者も出るだろう」 「でしょうな」 カンケルの即答にテオクラシアは苦笑する。 「神への服従こそが絶対であると信じ切っている狂信者どもにはこの術の構造的な歪みなど見えますまい」 「そう言わないでくれ、彼等とて国や民を思う気持ちは本物なんだ。……だからこそ、神の教義を過信せず、起きた現象を現実的に事実として分析できる君に頼むしかないんだ」 テオクラシアが求めているのは、単なる兵器の開発ではない。「なぜ人が燃え尽きるのか」という現象の正体を突き止め、人間を犠牲にしない全く別の防衛システムへ変えること。それは、神術という超常現象を相手取った、気の遠くなるような解析作業の始まりを意味していた。 「……また随分と途方もない無茶ぶりをしてくれますな、陛下」 あきれ顔を見せながらも、カンケルはその羊皮紙の束を抱え直し、深々とため息をついた。 「良いでしょう、たった一度だけで人が炭になって消えるなんて科学者として見ても最悪だ。神の奇跡だか何だか知らないけれど、もっと理にかなったマシなシステムに置き換えられるか、やってみますよ」 大聖堂の地下深く、神への祈りだけが満ちていた空間で知識と論理をもって超常現象に挑む科学者の泥臭い戦いが静かに幕を開けた瞬間であった。 テオクラシアとの密談を終えたカンケルは、そのまま自身だけに立ち入りが許された暗く狭い書庫へと引きこもった。 机の上にうずたかく積まれたのは教団の奥底に封印されていた過去の記録、そして『天使化』を発動して消滅した極少数の事例に関する極秘資料。 実物の遺品として残されていたのは異様な熱で半ば溶け落ちた金属の装飾品と、まるで過剰な高熱で一瞬にして焼き切られたかのような、極めて微小な灰の塊……つまりは遺体の一部のみ。 さらに当時の観測記録には、発動現場の周囲で空間そのものが歪み、強い磁気や熱波が残留していたという不自然な現象が記されていた。 「『神の御威光に包まれ、身も心も浄化されて聖なる炭と化す』……相変わらず教団の記録は詩的すぎて反吐が出る。もっと現実的に事象を書けないものか」 カンケルは羊皮紙に並ぶ宗教的な文言を片っ端から別の羊皮紙に書き直していった。必要としているのはポエムなどではなくリアルなデータなのだから。 「御威光」という言葉を「未定義の高出力エネルギー供給」へと置き換える。 「浄化され昇華する」という表現を「生体組織の許容量を超えた急激な過熱と破壊」へと再翻訳する。 神術というオブラートを剥ぎ取り、純粋な物理現象として捉え直した瞬間、そこにはひとつの事実が浮かび上がってきた。 要するに『天使化』とは、人間という到底耐え切れない小さな器に対し、規格外の超高出力エネルギーを強引に詰め込み、ただただ流し込まれた力を放出しながら暴れ回る自爆攻撃に過ぎないのではないか、と。 例えるなら最新技術を詰め込んだコンピューターをただの計算機に詰め込むようなもの。どんなに中身の処理能力が高くとも、入れ物がその処理能力の速さに耐えきれず即座にオーバーヒートして爆発しまうのならそれはもう分不相応な力と言わざるを得ない。 解析を進める中で、カンケルの手がぴたりと止まった。過去の数少ない生還者——死に至る直前に術が解除された、あるいは発動の瞬間を目撃した者達の証言記録。 そこには共通して、発動者の耳に「恐ろしい唸り声が聞こえる」と記されていた。 教団はそれを「教団並びにノースカイラムに対して不敬を働く者を威圧する神の怒り」と解釈している。 乱雑に散らばる資料の中、カンケルは深い溜め息とともに髪を掻きむしる。神の恩寵という名の過剰な熱。それを人間が直接受け止めれば死ぬ。ならば、その熱の「波長」と「供給システム」のカラクリさえ解き明かせば、人間を燃やさずに別の形でその力を引き出す道が必ずあるはずだった。 『天使化』の正体が「不完全な器への過剰エネルギー供給による自爆」であると当たりをつけたカンケルは、すぐさま次なる段階へと移行した。 まず着手したのはのちに『カルキノス』と呼ばれることになる、移動装甲のその骨組みとも言える最初の「初期観測器」の組み上げだった。 恐らくこの作成、改良に最も時間をかけたと言っても過言ではなく、カンケル自身も「二度とこんなもの開発したくない」と苦虫を噛み潰したような顔で愚痴るほどだ。 無骨な金属フレームに無数の集光レンズ、見慣れぬ針が不規則に揺れる独自の計測機を取り付けたその機械を、カンケルは大聖堂の目立たぬ物陰や、儀式が行われる大広間の広場へと秘密裏に設置した。 ターゲットは日常的に行われる祈りと神術。 毎日欠かさず大聖堂で静かに祈りを捧げるテオクラシア。そして、国の防衛を担い、それぞれに強い信仰心を胸に抱く精鋭たち。 彼らが神へと意識を向け、深々と頭を垂れる場であったり重症者を神術の回復で癒すその瞬間の周囲の環境変化を観測器のメーター越しに凝視し続けた結果、決定的な異変を捉える。 強い祈り、例えるなら人間側からの「信仰の送信」が行われたその瞬間、観測器の針が狂ったように跳ね跳んだ。 目に見える変化としてはごく僅かな空間温度の上昇。しかし、カンケルが独自に組み上げたレンズを通して見ると、空気中に「見えない光」がまるで大量の触手が蠢くかのように目まぐるしく交錯していたのだ。 さらに驚くべきは、その直後に起きた現象だった。人間側からの祈りに反応するように……恐らく、仮にだが、『ソルマニカ様から』返ってくる「返信」の空間熱効率が、一気に跳ね上がったのである。 極寒の空気が和らぎ、包み込むような暖かさが広がる……その理屈を今、目の前で観測したのだ。 ぞわり。全身に鳥肌が立ち、毛穴が開く感覚すらする。 いるのか、いや、おわすのか。太陽神ソルマニカよ。今、そこに……いや、“ここ”に。 カンケルは先程のことがなくとも、ずっと昔から神の存在を認めている。この国が成り立っているのは間違いなく太陽神ソルマニカによる奇跡が重なった結果だと古い文献でずっと読んできたからだ。 しかし、それでも。本当にその見えもしない存在からの返答を直に見てしまうと流石のカンケルも背筋に寒気が走る。きっとノースカイラムの民としては感動すべき瞬間を観測したに違いないのに、『神』が実際にそこにいたのだと思うとぞっとする。 なるほど、これを信徒どもは毎日感じているのか。狂信者が現れるのも無理はない。 「……なるほどね」 背後か、もしくは目の前か。それともはるか上空の太陽に“いる”神の存在に冷や汗を流しながら再び羊皮紙に視線を落とす。 色々気付きたくないことにも気付きながらではあるが、同時に疑問もある。大量の触手のようなエネルギーは何故かほとんどが跳ね返っているように見えるし、「返信」はオーラのように祈った者の身体にまとわりつくような動きすら見せたからだ。 初期観測器が弾き出した膨大なデータの山を前に、カンケルの思考は過熱する回路のように加速していた。 机上に広げられた羊皮紙には、この時代には存在し得ない不気味な記号群がびっしりと書き殴られていく。 それは宗教的な神聖文字でもなければ、散々読まされたポエムのような現象説明書でもない。 カンケルが現象を客観的に捉えるために一から構築した、独自の「理論式」であった。 カンケルがこの時捉えた「見えない光」や「過剰な熱波長」の正体とは、まさに可視光、赤外線、紫外線や放射線と呼ばれる高エネルギー電磁波そのものである。 しかしながら、まだノースカイラムにはそんな概念や言葉すらも存在しない。カンケル自身もそれを「太陽の熱」とまとめて呼ぶほかなかったわけだが、長期間に渡る観察とデータ収集の結果、カンケルの理知はすでにその本質へと驚異的な精度で肉薄していた。 「……神が放っているのは世界を焼き尽くすほどの強烈な熱……?太陽の神なんだから当然だとは思うけど……いや違う、何を言っているんだ?」 当たり前すぎて忘れていた、もっと最初から答えが出ていたような事象が既にあるじゃないか。 「そもそも極寒地域のノースカイラムで、なんで国内だけがこんなに温かいんだ?普通に考えてありえないだろう!?」 国の外に一歩外に出れば白銀の雪景色が広がるような場所なのに、国内だけがそんなもの知らないとばかりに1年通してぽかぽかとしている。当たり前すぎて忘れていたが、当たり前である事自体がおかしいのだ。 「……そうだ、神は人を愛しているからこそ、それを……灼熱と言っても過言じゃない力を奇跡的な精度で減衰させ、人間に害のない『暖かな光』程度に変えて注ぎ込んでくれているんだろう」 恐らくその減衰の精度を左右しているのが、人間側からの「祈り」というシグナルだ。信徒が真摯に祈ることで、神はその場所に「愛すべき小さな生がある」と認識し、出力を慎重にコントロールする。しかし、どうやって?神なんだからそれくらいできるだろうという思考を押しのけてカンケルはしばらく悩み、ある観測データを突如思い出す。 「……あっ、あれか……あった、これだ!このオーラみたいなものこそが本当に加護なんだ!なんで光や熱のほとんどが跳ね返ってしまうのかと考えていたが、跳ね返っていかないと危険なんだ!それこそ……無差別な、天使化になるから」 このオーラも言うなればオゾン層のようなものだが、勿論この時点ではカンケルをはじめとして恐らく誰も分からないだろう。 そして様々な結果を改めて見直し、思わずカンケルはぞっとする。天使化の異常性にたどり着いてしまったからだ。 「……まさか『天使化』は、そのオーラを……安全装置を人間側の狂信で無理やり引きはがし、原液のままの熱線を直接身体に浴びる行為……いや、もしかすればソルマニカの熱そのものを身体に生み出してる可能性すらある。そんなもの……太陽の光を直接目にしただけで失明するのに、生身の人間が太陽の力そのものを受け止めれば、身体が一瞬で破壊されて炭化して死ぬのは当たり前じゃないか……! 」 解析が進むにつれ、カンケルの胸を締め付けたのは、過去に天使化を使い散っていった者たちへの憤り。 「天使化……なるほど全く言い得て妙だな、人如きがなれるはずもない天使になろうとして太陽の力を、ソルマニカからの力をフィルター無しに受け入れたのだからな。ネーミングだけは昔の人間にしてはいいセンスをしている」 愛する人間を守るために熱を抑えているのに、当の人間が自らその防護を破り、自分の目の前で焼け焦げていく。 きっと天使化の最中に響く「唸り声」とは、その絶望に耐えかねたソルマニカの悲鳴以外の何物でもなかったのだ。 「神だって、こんな形で人が燃え尽きるのを望んでなんていない……テオクラシアの言葉は正しかったな」 カンケルは乱暴にペンを置くと、自らの両手を見つめた。華奢で、戦場ではまともに剣も振えそうにない小さな手。だが、その頭脳だけは、この国の誰よりも「世界」を客観的に見つめることができた。 「なら……私が『器』を作ればいいわけだな?そうだ、加護の代わりにこの鉄と回路にその莫大な熱と光を背負わせればいいんだ。抑えて弾かれた熱を、人間じゃなく機械の側でキャッチして蓄えて……それをエネルギーに転用する。そうすれば、誰もその身を焦がさずに天使化並の力を得られる」 人間が自爆して一瞬の威力を得るのではない。祈れば祈るほど加護が対象者の周りを蠢くことまでわかっているのだから、どうにかして神の余剰エネルギーを「電池」に溜め込み、鉄の装甲を通じて安全に運用する。これなら誰も死ぬ必要はない。誰も灰になる必要はないのだ。 仲間を誰一人として炭なんぞにさせないため。 そして、「神の絶対性」という孤独な仮面を被り、一人で国の全てを背負おうとしている歪な賢王テオクラシアの肩の荷を少しでも軽くしてやるために。 カンケルは、震える手で真新しい巨大な羊皮紙を机いっぱいに広げた。 その中央に力強い筆致で題されたのは、のちにノースカイラムの科学技術を崩壊の淵から救い上げることになるエネルギーシステムの設計図であった。 「天使化……もとい電池化か。名前がよろしくないが大祈祷とでもいえば奴らは喜んでやるだろう……しかし実験が怖いな、実際に神の存在を知った以上、余計に怖い」 その後、カンケルがテオクラシアに提案することになる『信仰電池システム構造案』。 これも現代的に言うなれば太陽光発電のソルマニカバージョンというところだ。勿論まだそんな技術や概念はノースカイラムには存在しないのだが。 「……王には悪いが、天使化そのものの改良はまず不可能と考えるしかない。実験が成功しても失敗しても死ぬ可能性のある検証など認められるか。だが発見もあった……まずは祈りの送信と返信間のこのエネルギーをいくらか掠め取ってみよう……これくらいならいくらでも実験はできるし、なんなら全国民が被験者足り得るのだからな」 灯火の消えかけた地下研究室で、時代に先駆けすぎた孤独な天才のペン先が、未来を切り開く鋭い音を奏で始めていた。それは神の奇跡にすがるのではなく、人間の知恵と愛によって、悲劇の連鎖を断ち切るための最初の一歩であった。 天使化の解析を終えたその夜から、カンケルの研究対象は一気に増えた。 正確には増えたというよりも、今まで見向きもしなかったものを片っ端から掘り返し始めたのだ。 例の大聖堂地下の書庫。 そこには天使化だけではなく、やはりというか太陽教団が数百年という長い時間をかけて蓄積してきた数々の神術の記録が眠っている。 カンケルはひとまず実験の前にわかりやすい神術がどういうものなのか仮説を立てる事から始めることにする。 かき集めた書類に目を通したが、全てに記された神への賛美と美辞麗句に瞳を閉じる。わかりきっていた事だが無意味な文字群はカンケルにとって巨大な廃棄物の山だった。 教団にとって神聖な記録であろうとも、現象を調べる人間からすればそのほとんどは観測結果と感想が混ぜこぜになった不完全な実験記録に過ぎない。 だが、天使化を調べたことでカンケルは一つの確信を得ていた。 神術は無秩序な奇跡ではなく、少なくとも全てがそうではない。そこには必ず何らかの規則性が存在する。 太陽神ソルマニカが実在する、それ自体はもはや疑う必要がない。 しかし、神が実在することと、神の起こす現象が解析不能であることは同義ではない。むしろ逆だった。 神が世界に何らかの方法で干渉しているのであれば、その干渉は必ず世界のどこかに結果を残す。 光。熱。電。磁気。風。雲。大気。 それらの間にある関係性を一つずつ拾い上げていけば、神術という巨大な箱の中身を、少しずつ覗き見ることができるはずだった。 カンケルはまず最も単純な神術から手をつけた。 いや、単純というよりは太陽教団の騎士やメイジシーカー達が初期に覚える神術と言ったほうがいいか。 『ソルマニカの剣』 記録上では雲間より差し込む神聖なる光を術者の手元へ集め、あらゆる邪悪を断ち切る光の刃を生み出す神術とされている。 過去の記録には魔物を切断した、鎧を焼き切った、石壁を溶断したなどという証言が並んでいる。 しかしカンケルが注目したのはその威力ではない。当然だがソルマニカの剣は太陽そのものから剣を作っているわけではない。 書いてある通りなら太陽から降り注いでいる光を特定の条件下で極端に収束させ、そのエネルギーを一方向へ固定する……それならば、なぜ剣の形になるのか。 そこには神術そのものの性質が関わっている。 神術とは自然現象をそのまま再現する技術ではない。神の物語を人間が理解しやすい形に変換している。 雲間から差す光は本来、無数の現象が複雑に散乱するだけの現象だ。それを教団は「剣」という人間に理解可能な形へ変換している。 これは天使化に用いるような強力なエネルギーを剣として取り出し、そのエネルギーを術者が指定した形へ整形する。 カンケルはそこで初めて、神術というものが単なる奇跡の再現ではないことに気づいた。それは自然現象を利用した、一種の変換技術なのだ。 「……そうか、そういえば……確かそんなことを言っていた奴が昔居たな。確か……ヴェングルだったか」 かつての同僚はもしかして既にあの時点で気付いていたというのか?惜しむらくはヴェングルが魔法使いでとうに国からいなくなっていることだ。今ならば強力な仲間になったはずだが……いや、もう仕方がないか。 次に手をつけたのは、『ソルマニカの光の旗』だった。この神術については教団の記録が他の何よりもあまりに詩的だったが、これについては昔に観測したカンケル自身も仕方ないと思うところがある。 つまるところオーロラ現象を神術で常に発動できるようにした……それがソルマニカの光の旗だ。 天より垂れた光の幕、まるで信徒を包む祝福のように戦士の心身を高める聖なる旗。これが空にある限り、騎士達は身体に力が漲るという。まさしく効能以外は記された通りのオーロラ現象だったからだ。 ひとまずカンケルはそれらを全て無視した。 これは単なる精神的な士気向上ではないとカンケルはそう判断している。きっと、恐らく本当に力が漲っているんだろう。 人は太陽の光を浴びねばだんだんと体が弱っていく。もしソルマニカが返信に合わせて何か、身体が強くなるような効果も返していたなら?しかし夜空では太陽の光を浴びることができないため、オーロラにその力を代替させていたなら? オーロラそのものが味方を強化しているわけでもない。きっと「オーロラがたなびく」という現象も意味があるはずだ。 旗は風になびく。オーロラもまた、空間を流れるソルマニカの恵みが流れていく動きによって、まるで巨大な布のように揺らめく。 きっと過去の教団の人間はその現象を理解できないまま、見た形を神術の象徴として取り込んだ。それが正しい形とは知らぬまま。 カンケルはその事実に少しだけ興味を覚えた。人間は知らないうちに神の、自然の形を模倣していたのだから。 次に解析したのは雷だった。 『ソルマニカの雷』。そして、その上位術式である『ソルマニカの大落雷』。 これは最初から比較的簡単だった。というより雷そのものがどう起きるかを既にカンケルは知っているからだ。雲の中で電荷が分離し、巨大な電が生まれる。大気がその電位差に耐えられなくなった瞬間、絶縁が破壊され、一気に電荷が流れる。 教団が「神の槍」と呼んでいたものは自然界にも普通に存在する。ただし神術として再現された雷には、自然の雷とは違う特徴があった。 雲がなくても発生する。発動までの時間が極端に短い。そして術者が指定した場所へほぼ正確に落ちる。 つまり、神術は雷を作っているのではない。 雷が発生する条件そのものを、局所的に強制している。 空気を電離させる。電荷を移動させる。電場を形成する。絶縁破壊を誘発する。 カンケルは何度も図を書き直した。 自然の雷は雲の中で複雑な電荷の移動を経て発生するが、神術の雷はその過程を大幅に短縮している。だから異常に速い。 そして『大落雷』になると、その性質はさらに露骨になる。大量の電荷を一度に集め複数の放電経路を同時に形成する。 さらにそれらを一つの塊として制御する。 人間から見れば巨大な雷球だがカンケルの記録ではそれは単なる雷の球ではなかった。 無数の放電現象が、神術によって一つの攻撃単位として束ねられているだけだった。 雷そのものを巨大化させたのではなく落雷を大量生産している。そう考えればあの異常な破壊力にも説明がついた。 しかし雷の解析を続けているうち、カンケルは別の神術との奇妙な類似性に気づいた。 『ソルマニカの耳鳴り』。 記録によれば、広範囲にわたって敵の指揮系統を混乱させる神術。 発動すると敵兵は互いの声を聞き取れなくなり、更に魔法の発動が狂う神術。 だがカンケルが記録を読む限り、それは恐らく耳鳴りではない。 落雷が起きた時の轟音やそれに伴う空気の振動を音なしで出しているだけではないか?もしくは……落雷時にノースカイラム国内で稀に起きる停電……電気の切断以外の、広範囲にわたる異常な磁場変動。  しかも、その規模は通常の雷が作り出す電磁現象に近い。 違うのはそれをどのように使うかだけだった。 雷は電荷を一方向へ瞬間的に流す。耳鳴りは磁場を広範囲へ展開する。 前者が破壊なら、後者は撹乱。 つまり太陽教団は電気そのものを神術として利用していたのだ。 そしてカンケルが最も興味を持ったのは、声が雑音になるという記述だった。 生身の人間の声そのものを磁場で変質させているわけではない。そうしたものが強烈な電磁場によって狂わされれば、結果として「声が聞こえなくなる」という現象は起こり得る。 神術は人間の耳を直接攻撃しているのではない。 おそらく先程も考えた空気の振動。人間が声をキャッチする前に声の振動を更なる振動で破壊している。 それはどの術よりもカンケルには恐ろしく思えた。 戦場では、命令が届かなくなった瞬間に軍隊は軍隊ではなくなる。 指揮官が健在でも意味がない。兵士が勇敢でも意味がない。巨大な軍勢がただの個人の集まりへ戻ってしまう。 太陽教団がこの神術をどこまで理解しているのかは分からなかった。 恐らく何も理解していない。それでも彼らは何百年も前から、電磁現象を兵器として使っていた。 その事実にカンケルは奇妙な感覚を覚えた。 人間は理屈を知らなくても、現象だけは利用できる。神がそうしてくれたのだと信じているからだ。 そして次に目を向けたのは、さらに規模の大きな神術だった。 『太陽神の始まり』。 名前だけ聞けばカンケルには理解しがたいものだったが中身を見ればすぐに分かった。 記録によれば戦場の一部だけを灼熱の地獄へ変えたり逆に極寒の大地へ変えたりする。炎を生み出すわけではない。氷を作るわけでもない。ただ、その場所の気温そのものを変える。 天使化の研究の時点で分かっていたものだからだ。 太陽神の話……温かい陽だまりを作ったソルマニカが容赦なく熱を注ぐだけの行為を真似ただけにすぎない。いや、ならば極寒を作り出すのはどうやる? 暖かい空気を移動させれば、別の場所が暖かくなる。 冷たい空気を流し込めば、その場所は冷える。 つまり風を制御することは、熱そのものを運ぶことに等しい。 そうなると太陽神の始まりは熱を作っているのではなくその場の熱を移動させているのでは? そう理解した瞬間、カンケルの中でまた一つの神術が別の姿へ変わった。神術は「結果」を生み出す技術ではない。 原因となる自然現象を操作し、その結果を引き起こしている。 雷を落とすのではない。雷が落ちる条件を作る。 暑くするのではない。熱を運ぶ。 光を生み出すのではない。光を集める。 カンケルはそこで筆を止めた。 ならば。太陽神そのものは何をしているのか。それが次の疑問だった。 ソルマニカは光を放つ。熱を放つ。荷電粒子を放つ。 それらがノースカイラムへ届き、大気や磁場や大地を動かし、風を作り、雲を作り、雷を作り、生命を育てる。 つまり、太陽教団が神術として再現している現象の多くは結局のところ一つの巨大な源へ行き着く。 ソルマニカ。 その事実に気づいてから、カンケルは以前とは全く違う目で『ソルマニカの祝福』を見た。 例えるなら太陽の風。 教団の記録では術者の身体を包み、神術の負担を軽減する聖なる風とされている。 だが実際には風ですらないのではないか? 空気の流れではない。空間を飛び交う粒子の流れ。 それが相互作用し、大気へ影響を与える。オーロラも生まれる。磁気嵐も起きる。層にも影響する。そして神術の効率まで変わる。 光の旗。耳鳴り。雷。祝福。 バラバラに存在していた神術が、一本の線で繋がり始めた。 太陽風がある。磁場がある。粒子が流れる。空気が反応する。 その結果として様々な現象が発生する。 太陽教団は、その一部分だけを切り出して神術として利用している。 では、もっと根本にあるものは何なのか。 カンケルは『ソルマニカの盾』へ目を移した。 記録上、最も単純な防御神術の一つ。 術者の周囲に不可視の壁を作り、攻撃を無効化、あるいは大幅に減衰させる。 炎も矢も剣も雷も魔法もあらゆるものを防ぐ。 教団はそれを神の盾と呼んでいた。 カンケルはそれを見た瞬間、天使化の資料を隣に置いた。 ソルマニカの返信の大半を跳ね返した膜、これがそうなのではないか? 真正面から受け止めるのではない。流れを曲げる。外側へ逃がす。攻撃を止めているのではない。攻撃の軌道を変えているだけ。 エネルギーを吸収しているのではない。自分の身体へ届かない方向へ逸らしている。 そうだとすれば、剣撃や炎だけでなく、電撃や魔術まで防げる理由にも一応の説明がつく。 何かを受け止める盾ではなく、周囲に形成された特殊な場。その場の中へ入ってきたエネルギーの進行方向を変える。 神術としては恐ろしく高度だった。まさしく神の所業をそのまま再現しているのだから。こればかりはカンケルですらどうやっているのか分からないが、昔の人間はもしかしたらとうに気づいていたのに、敢えてこうして詩的にするに抑えた。 何故か?それは、多分、あの時ソルマニカの存在を感じた自分と同じだろう。 本当に“ここに”いる事に恐怖したんだ。きっと。 ここである発想がカンケルに一つの寒気を与えた。 ノースカイラムは極寒地域だがそれ以外の温かい地域や灼熱の地域に住む人々はどうやって太陽の恵みから身を守っているのか。 ソルマニカの加護無しで上から絶えず飛んでくるものをどうやって防……待て、そういえば何故太陽は世界を回る?ソルマニカ様は何故夜はお隠れになる? まるで世界そのものを駆け巡って巨大な盾を張っているかのように、また反対から太陽は登る。 カンケルはしばらく筆を置いた。 ここまで来ると神術を個別に解析することに意味がなくなってきた。 人間はあらゆる事象、それらを見上げて神の奇跡と呼んだ。 間違っているわけではない。少なくとも、カンケルにはそう思えなかった。 神は実在する。だからこそ、神が世界へ力を与えた結果として自然現象が生まれている可能性がある。 神術とは、神の奇跡の再現ではなくその自然現象を人間が意図的に再現するための技術。そう考えれば全てが繋がる。 そして、その体系の中で最も異質な存在こそが『天使化』だった。 カンケルはもう一度、あの術の記録を開いた。 そこには人間が灰になる過程が書かれており、次に他の神術と比べる。 どれも一度、何らかの形に変換されている。 人間が直接太陽そのものを受け止める必要はない。だから生きていられる。 天使化だけが違う。変換しない、減衰しない、逃がさない、安全装置を外している。 人間という小さな器に、巨大なエネルギーを直接流し込む。 それが天使化だった。 カンケルは天使化の横に大きく印をつけた。 危険。 そして、そのすぐ横にもう一つ言葉を書いた。 原始的。 天使化は強力なのではない。単純なのだ。 人間の身体を一時的な導体にして、莫大なエネルギーを直接通過させる。 その結果、身体が耐えられず破壊される。 カンケルの視線が机の隅に置かれていた金属片へ移る。 それは天使化によって半ば溶解した装飾品。かつて人間の身体に付着していたもの。 金属は熱に強い……少なくとも人体よりは。 ならばさらに熱に耐える素材を作ればいい。 電気を流せる構造を作ればいい。磁場を制御できる構造を作ればいい。 熱を蓄える仕組みを作ればいい。太陽の力を直接人間へ流すのではなく、一度機械へ受け渡す。 機械がそれを受け止める。蓄える。整える。必要な時だけ取り出す。 そして人間は、その機械を使うだけでいい。 全てがどこかで重なっている。完全に独立した神術など、一つもない。 ソルマニカ中心とした巨大な自然現象のネットワーク。 それを人間が部分ごとに切り出し、祈りという操作手順を与え、神術という名前を付けている。 カンケルは書き記したメモ達を見つめた。 今までカンケルが神術だと思っていたものは、きっと神の力そのものではなかった。 神が世界へ与えている力。その力によって起こる自然現象。さらにその自然現象を人間が模倣したものの三つが混ざっている。 そしてそこに奇妙なものが混ざる。 信仰。祈り。人間側から送られる意思。それに応じて神から返ってくる力。 カンケルは以前の観測データを再び取り出した。 祈りが強くなると観測器が反応して見えない光が増える。つまりは神から返ってくるエネルギーが増える。 そのエネルギーは人体へ届く前に減衰して加護となって身体を包む。 必要な分だけ届く。余分なものは弾かれる……それこそが安全装置。 そして天使化では、その安全装置を破壊する。 カンケルは長い間その記録を見つめていた。 ならば神術とは?勿論神から力を奪い取る技術ではない。少なくとも本来はそうだ。 人間が祈り、神が応え、世界へ力が流れる。 そして人間は、その力を自分たちが扱える現象へ変換する。 神術とはその循環の中に人間が作った制御装置を挟み込んだものなのではないか。 そう考えると、教団の古い神術が異様に合理的に見えてきた。 彼らは理屈を知らなかった。しかし、何百年にもわたる試行錯誤によって、結果的に危険な部分を避ける術式を完成させていた。 だからこそ天使化だけが異常だった。 それは失われた技術ではなく、むしろ古い時代の人間がまだ安全装置を理解していなかった頃の残骸なのかもしれないとカンケルはそう考えた。 神が人間に与えた力は、最初からあまりにも強すぎた。だから人間は祈りという操作方法を作った。 そうして少しずつ、人間が耐えられる形へ力を変えていった。その最終地点にあるのが、現在の神術なのだ。 カンケルはそこで初めて、自分が作ろうとしているものの正体を理解した。 神術という体系そのものを、人間の身体から切り離すための装置だった。 人間が神になる必要はないし人間が天使になる必要もない。人間が太陽そのものになる必要もない。 太陽の力を受け止めるための器を人間が作ればいい、それだけの話だった。 大聖堂の外では、夜が深まっていた。 ノースカイラムの国土は暖かいとはいえ雪に覆われている場所がある。 しかし王都の中心だけは凍りつくことなく穏やかな温度を保っているが、それもまたきっと神による奇跡。 この国そのものがずっとソルマニカから注がれる力を受け止め続けてきた巨大な器であることも、人々が祈るたびにその力が大地へ流れ込んでいることも、大気を温め、風を動かし、雪を遠ざけ、生命を守っていることも。 その巨大な循環のごく僅かな部分を、人間が初めて意図的に横取りしようとしていることも、きっとこれから全てが奇跡になる。 神の力は、人間の身体より遥かに頑丈な器へ移せる。 光は集められるし、熱は運べるし、電気は蓄えられるし、磁場は制御できる。 風は操れるし、雲は作れるし、雷は起こせる。 そして太陽の風すら、利用できる。 ならば。それら全てを一つにまとめることができれば。 神の奇跡を再現するのではなく。神の奇跡を受け止めるための、もう一つの身体を作ることができれば人間はもう、神の力を恐れて焼け死ぬ必要はない。 カンケルは羊皮紙の端に、最初の設計図を描き始めた。 光を受けるための板。熱を逃がすための管。 電気を蓄える容器。磁場を制御する輪。太陽風を受けるための装置。 それらを一つの骨格へ組み込む。巨大な鉄の身体。人間が乗り込むための空間。神術を変換するための回路。 そして、最も重要な動力源。祈りによって生まれた、あの目に見えない力。 カンケルはそこに小さく印をつけた。 まだ正式な名前はない。完成形もない。 ただ、これまで人間の身体が背負っていたものを、別の器へ移す。その発想だけがあった。 神が人間を守るために力を減衰させているのなら。その力を受け止められる器を、人間自身が作ればいい。 それならば、神も人間も傷つかない。 天使化という悲劇を終わらせることができる。 そしてそれはもしかしたら神術というものの意味そのものを変えてしまうことになる。 神に選ばれた者だけが奇跡を使う時代から。 神の力を理解し、制御し、機械によって運用する時代へ。 信仰だけでは届かなかった場所へ、知識によって手を伸ばす。それは神への反逆の意思ではないはずだ。 少なくとも、カンケルにとっては。 むしろ逆で神が人間を焼かないように力を抑えているのなら、その優しさを無駄にしないために、人間側もまた知恵を使って器を作らなければならない。 大聖堂地下の研究室。 祈りの声すら届かない暗い場所で、カンケルの設計図だけが少しずつ埋まっていく。 その線はやがて一台の機械の輪郭になった。 それは剣を持つための腕を持ち。 雷を放つための機構を備え。 磁場を操り。 熱を受け止め。 光を集め。 神の力を蓄える。 人間が天使になるための装置ではない。 人間が天使にならなくてもいいようにするための装置。 カンケルは最後に、その設計図の下へ一本の線を引いて、その線の上に記した。 『カルキノス』と。 この夜、ノースカイラムの未来を変える機械の心臓は、確かに紙の上で生まれ始めていた。