プロローグ  ピコデビモンの牙から、灯の襟が外れた。  砂に倒れ込んだまま、彼はもう一度それをくわえようとした。灯の足先には、まだ波が届く。あと少し奥へ運べば、満ちてくる潮にもさらわれずに済む。  だが、翼は動かなかった。爪を砂に立てても、身体が前へ出ない。  船が沈んでから、灯は一度も目を開けていない。海の上では襟をくわえて引き、足のつく浅瀬に入ってからは、波に逆らって後ずさった。翼があっても、この身体では人間一人を抱えて飛べない。見つけられた陸地は、この島だけだった。  砂浜には、海から続く一本の溝ができていた。その両脇に、小さな爪の跡がある。波は跡の浅いところから消していった。  ピコデビモンは灯の口元へ耳を寄せた。  息がある。  波音が大きすぎたのかもしれない。そう思って、もう一度確かめた。灯の胸は、かすかに上下している。 「……灯」  返事はない。いつもなら、呼びかけるだけで何か軽口を返すくせに。  その顔を見て、ピコデビモンは眼帯がないことに気づいた。船に乗ったときには、確かに右目を覆っていた。海に流されたのだろう。閉じた瞼の下に、灯が人目を避けてきた眼がある。  ピコデビモンは自分の右目を覆うベルトに翼を触れ、それから灯の顔へ翼を伸ばした。前髪だけでも、瞼の上にかけてやりたかった。翼の先は届かず、砂に落ちた。  浜の奥で、足音がした。  長い髪の少女が現れた。少女は海を見、それから波打ち際から灯へ延びる溝を見た。最後にピコデビモンへ視線を移す。  ピコデビモンは灯の前に立とうとした。片方の爪が砂を滑り、翼も十分には広がらない。それでも少女から目を離さなかった。  少女は数歩手前で止まった。 「この子は、あなたが運んだの?」 「近づくな」  ピコデビモンは牙を見せた。  その後ろで、波が灯の足に触れた。引いてゆく水に、靴の下の砂がさらわれる。次の波は、もう少し高いところまで来るかもしれない。  ピコデビモンは灯を見た。少女を追い払う力も、灯を運ぶ力も、もうない。 「……灯を、奥へ」  少女に向かって言うつもりはなかった。だが、ほかに動ける者はいない。  少女は二人の間に残された、短い距離を見た。 「分かりました」  そう答えて、砂に膝をついた。 1  少女は灯の傍らに膝をついた。ピコデビモンの牙が近づく。少女は手を引かずに、その小さな身体へ目を向けた。 「触れてもいいですか? ここはまだ波が届きます」 「……息はある。頭を揺らすな」 「ええ。気をつけます」  少女は灯の腕を自分の肩へ回し、ゆっくりと起こした。濡れた服から砂混じりの水が落ちる。灯を背負って立ち上がると、砂に埋まった自分の足を一歩ずつ引き抜き、浜の奥へ向かった。  ピコデビモンもついて行こうとしたが、二歩で脚がもつれる。少女は振り返り、空いた手を差し出した。 「我は歩ける」  そう言い終わる前に、ピコデビモンは砂に伏した。  少女は返事をせず、彼を拾い上げた。灯とは逆の腕に抱えられても、ピコデビモンはその顔を見上げ、右目を覆うベルトの下で険しく身構えていた。 「お前、何者だ」 「今は、この子を休ませたい者です。お話はあとで、いいですか?」  答えになっていない、と言う力は残っていなかった。灯の背中に耳を寄せれば、呼吸の音が聞こえる。ピコデビモンはそれだけを確かめながら、目を閉じた。  次に目を開けたとき、頭上にあったのは船室の天井ではなく、布の屋根だった。  木々の下に張られた小さな天幕から、海が見える。灯は敷物に横たえられ、濡れた上着は脇の縄に掛けられていた。少女は少し離れたところで器に水を注いでいる。  ピコデビモンは跳ね起きた。灯の胸が上下しているのを見て、ようやく翼を畳む。 「目が覚めたんですね。よかった」 「どのくらい寝ていた」 「少しの間です。あなたの分も水を用意しました」  少女は小さな器を示した。ピコデビモンは器へは行かず、まず灯の顔を覗き込んだ。額にこびりついていた砂は拭われている。失くした眼帯は、やはりどこにもなかった。  少女はピコデビモンの視線を追い、灯の右目のあたりで止めた。 「眼帯も探してみたのですが、浜にはありませんでした」 「……見たのか」 「顔を拭いたとき、瞼が少し開いていたので」  少女はそれ以上、眼について言わなかった。ピコデビモンは灯の傍から離れず、水の器にだけ目をやる。 「水を飲むのがご心配ですか?」 「そう言われて信用する者がいるか」 「ごもっともです。では、私が先に飲みましょう」  少女は水差しから自分の器へ注ぎ、一口飲んだ。ピコデビモンはなおしばらく睨んでいたが、結局、差し出された器に口をつけた。喉の渇きは疑い深さより厄介だった。 「ありがとうございます。声をかけてくださらなければ、あの子を見落としていたかもしれません」 「灯を見つけたのは我ではない。お前だ」 「それでも、岸まで連れてきたのはあなたですよね。よく頑張りました」  少女の視線は灯の方へ向いていた。ピコデビモンは返す言葉を探し、見つけられないまま器を置いた。  灯が目を覚ましたのは、日が木々の向こうへ傾き始めたころだった。  潮の匂いがする。身体を起こそうとして、全身が重いことに気づく。灯は天幕の屋根を見つめたまま、船内で聞いた最後の騒ぎを思い出した。 「……ピコデビモン」 「ここにいる」  顔のすぐ横から声がした。灯は身をひねり、敷物の上に座るピコデビモンを見る。その小さな翼にも、足にも、砂の擦れた跡があった。 「よかった。ピコデビモンも無事だったんだ」 「無事とは言い難いがな。お前と一緒に流された」 「そっか」  灯は手を伸ばした。ピコデビモンは一度その手を避け、すぐに自分から掌の下へ入る。 「僕、ここまでどうやって?」 「我が引っ張った」  灯は相棒を見下ろした。ピコデビモンは胸を張ろうとして、くたびれた翼を一度だけ動かした。 「うわ、僕を? ずいぶん骨の折れる拾い物だったね」 「当然だ。海水を吸ったお前は、流木より始末が悪い」 「ごめん。それと、ありがとう」  灯が抱き寄せると、ピコデビモンは文句を言いながらも離れなかった。  天幕の外から水差しを持って来た少女が、入口で足を止める。灯は彼女を見上げた。 「目が覚めたんですね。よかったです。まだ無理に動かないでください」 「君が助けてくれた人?」 「私は浜から運んだだけですよ。海からあなたを連れてきたのは、その子です」 「それでも、二人とも助けられた」  灯は笑って礼を言った。少女が器を差し出すと、彼は自分で受け取り、少しずつ水を飲む。 「僕、ずいぶん運がいいね。海に落ちて、目が覚めたらこんな綺麗な人がいる。……ねえ、名前を聞いてもいい?」 「口が回るなら、もう大丈夫そうだな。残念ながら」  ピコデビモンが呆れた声を出した。 「アンコといいます。あなたのお名前も聞いていいですか?」 「僕は宵月灯。こっちはピコデビモン。見ての通り、僕よりずっと頼りになる」 「灯くん、ですね」  アンコは名を確かめるように繰り返した。灯は頷き、それから、自分の顔に手をやる。指がいつもの眼帯に触れない。  右目を隠すように前髪を下ろした。アンコの視線がその動きを追う。 「眼帯は見つけられませんでした。ごめんなさい」 「仕方ないよ。眼帯一つで済んだなら、海にはずいぶん安く見逃してもらった方だ」  灯は軽く言ったが、髪を押さえる手は離さなかった。アンコは脇に置いていた布を折り、彼へ差し出す。 「よかったら、これを使ってください。結べば、しばらくは隠せると思います」  灯は少し驚いてから受け取った。右目を覆い、頭の後ろで結ぼうとすると、濡れていた髪が指に絡む。ピコデビモンが布の端をくわえて引き、どうにか形になった。 「どう? これでちょっとは格好ついた?」 「まずまずだ。今、鏡を見せたら笑うだろうがな」 「厳しいなあ」  灯が笑う。アンコも微笑んだが、彼の目元からすぐには視線を外さなかった。  船の名を聞かれ、灯はレッシェン・ジーク号だと答えた。  甲板にいたとき、何が起きたのか。ほかの乗客がどこへ流されたのか。灯は覚えていることを話し、わからないことはわからないと言った。アンコは途中で口を挟まずに聞いた。 「この浜で見つけたのは、お二人だけです」  灯は海を振り返る。水平線に船影はなく、遠くに島らしいものも見えなかった。 「そっか。誰か、別のところへ着けていればいいけど」  彼が立ち上がろうとすると、ピコデビモンが袖をくわえた。 「捜しに行くつもりか」 「浜くらいは見ておきたい」 「今の足取りでか」  灯は二歩進み、木の幹に手をついた。答えは出たらしい。 「今日は休んでいてください」とアンコが言った。「明るいうちに、私が浜の向こうを見ておきます」 「君はどうしてこの島に?」 「探し物があるんです。海から流れ着いたものを、いくつか」 「一人で?」 「ええ。自分で来ました。用が済めば戻ります」  それ以上の答えはなかった。ピコデビモンはアンコの顔を見たが、灯はまず頷いた。 「だったら、明日は僕も手伝うよ。歩けるようになってたら」 「無理をしてまで、手伝ってくださるんですか?」 「君には散々助けられたしさ。僕にも、ちょっとくらい格好つけさせてよ」 「格好つけるのは後だ。進化すれば島を出られる。今は休め」とピコデビモンが言った。 「わかってる。帰る前に、ほかの人が流れ着いていないか確かめたい。アンコさんにも、お礼がまだだしね」  アンコは二人を見比べた。灯が申し出た手伝いに、ピコデビモンはまだ賛成していない。それでも灯の隣から動こうとはしなかった。 「明日は島の奥まで行くつもりです。歩けそうなら、ご一緒しませんか? 海を見渡せる場所も通りますから」 「決まりだね」 「口約束は早い」とピコデビモンが言う。「朝、お前がまともに立てたら考える」 「じゃあ、朝までに回復しないと」  灯は笑い、再び敷物へ腰を下ろした。ピコデビモンもその膝に飛び乗る。乾きかけた翼が灯の腕に触れると、灯は布で覆った右目を気にするのも忘れ、その背を撫でた。  アンコは二人のそばに水差しを置き、天幕の外へ出た。  浜の方では、波がなおも寄せている。砂の上に長く残っていた溝は、もうどこから始まっていたのかわからなくなっていた。 2  翌朝、灯は二本の足で天幕の外へ出た。  昨日ほどふらつきはしない。昨夜ピコデビモンと結んだ布も、右目をしっかり覆っている。天幕の出口で足取りを確かめていた相棒が、翼で灯の額を軽く叩いた。 「今日は倒れるな。救助の二回目は割増料金だ」 「がんばるよ。今夜もピコデビモンの寝床を奪ったら、さすがに怒られそうだし」 「昨日は特別だ。今夜も奪うなら、せめて寝相を直せ」 「恩が積もってきたなあ。返す前に埋もれそうだ」  アンコは水差しを片づけながら、二人を見ていた。灯が気づいて挨拶すると、彼女も穏やかに返す。 「歩けるようですね。では、先に浜を見ましょう。ほかの方を探すんでしょう?」  灯の笑みが少しだけ薄くなった。足はもう浜へ向いている。布の結び目を確かめる指だけが、そこで一度止まった。  浜には流木と白い泡があった。三人は波の届かないところを選んで歩き、入り江を一つ越えた。灯は何度か立ち止まり、人の姿を探した。離れた海面にも、島へ続く岩場にも、動くものは見えない。  船内のものらしい白いタオルが岩に掛かっていた。灯はそれを外し、砂を払った。しばらく手の中で広げたままにしてから、浜の高いところへ置く。 「持ち主が探しに来るかもしれない」 「その方も、ここへ流れ着いたと思いますか?」とアンコが訊いた。 「わからない。でも、いなかったと決めるよりはいい」  ピコデビモンは灯の肩から海を見た。昨日、自分が進む先を選ぶのに精いっぱいだった海である。ほかの誰かを見つけたかと問われても、答えられない。  灯は何も訊かなかった。代わりに、肩に乗るピコデビモンの擦り傷を見て、歩く速さを落とした。  その先で浜は狭くなり、岩と木の根が入り組んだ入り江に出た。潮が満ちれば岩の隙間まで海になるのだろう。今は細い水路だけが残り、流れ着いた木片が積み重なっている。 「私が探していたのは、このあたりです」  アンコは木片を一本ずつ退かし始めた。ピコデビモンが高いところから隙間を覗く。灯も手を貸そうとして、大きな流木の端を持ち上げた。  流木の下、乾ききらない葉の間に、小さなデジタマがあった。 「見つけました」  アンコの声が明るくなる。彼女は灯に下がってもらい、葉を払ってデジタマを両手で掬った。表面に傷は見当たらない。灯の肩から力が抜ける。アンコは持参した布を広げ、卵の形に沿って包んだ。 「よかった。波に打たれ続けていたら、どうなっていたか」  アンコは布越しにそっと撫でる。拾い物を数えるような手つきではなかった。 「ずいぶん大事にするんだね」と灯が言った。 「これから生きる子ですから」 「誰のデジタマか、わかる?」 「今はわかりません。でも、ここから連れて帰れます」  アンコは答えながら、持ってきた籠の中へデジタマを収めた。灯はその横顔を見ていた。浜で自分たちを助けたときと同じように、彼女の動きにはためらいがない。 「卵なら」とアンコが言った。「生まれるときには、ここで遭った怖いことも知らずに済むかもしれませんね」  灯は籠を見下ろした。言葉を選ぶ間、右目を覆った布に指をやる。アンコの視線がその仕草を追った。彼女は何も訊かず、籠へ目を戻した。 「それなら、誰かに大事にされたことも、忘れてしまうのかな」 「新しく大事にしてあげればいいんです」  答えは優しかった。灯も頷いたが、口元から笑みが消えていた。籠の中の卵に手を伸ばしかけ、触れずに引っ込める。アンコはその様子に気づいても、続きを促さなかった。  ピコデビモンは岩の上から二人を眺めている。入り江を去る前に、アンコはもう一度木片の間を調べた。何も見つからず、デジタマの入った籠を抱え直した。  入り江からは、木々の間を抜けて島の奥へ登った。やがて岩棚に出ると、反対側の海まで見渡せた。船も、ほかの島も見えない。灯は目を細めて、白く光る水平線を探した。 「もっと高いところがあれば、また見え方も違うんだけど」 「島の先に、もう少し高い場所があります」とアンコが言った。「ただ、今日はそこまで歩かない方がいいでしょうね」  灯はもう一度、何もない海を見た。目を細めたままでは船が現れるわけでもない。歩き出そうとして足の重さに気づき、ようやく頷いた。ピコデビモンは何も言わず、彼の肩に乗る。  帰り道、アンコは籠を抱えたまま、灯の歩幅に合わせていた。枝が張り出すたび、デジタマを抱く側へ身体を寄せる。灯はその手元から彼女の横顔へ視線を移し、足元の根につまずきかけた。 「アンコさん」 「はい」 「今夜、浜を少し歩かない? こんな綺麗な人と二人で話せる機会、逃したくないからさ」  アンコは足を止めた。嬉しそうな顔ではなかった。灯も止まり、籠を抱えた彼女を振り返る。 「……そういうお誘いは、誰にでもなさるんですか?」 「綺麗で優しい人には、つい。……今の、減点?」 「ええ。少しだけ。今夜は休んでください」  灯は苦笑して、頭の後ろを掻いた。いつもならもう一言くらい挟むところで、黙って道を譲る。 「船でも似たようなことを言っておったな」とピコデビモンが口を挟む。 「しーっ。せっかくいいところだったのに」 「どこがいいところだ。口説いているところしか見ておらんぞ」 「うわ、身内の評価って辛いな」  灯が肩をすくめると、アンコはピコデビモンへ目を向けた。右目を覆うベルトに一瞬視線を留める。 「あなたは、あの船からこの人を運んできたんですよね」 「運ばねば死んでおった」 「頼まれていたんですか?」  ピコデビモンの表情が変わった。 「誰に」 「灯くんに。危なくなったら、必ず助けるように、と」 「そんな約束はしておらん」  アンコは黙って彼の返事を待った。灯は口を開きかけ、それからピコデビモンの方へ身体を向けた。 「我が見つけて、我が連れてきた。それだけだ」 「そうでしたか」  彼女は軽く頭を下げた。ピコデビモンはさらに何か言いかけて、やめた。灯は笑っていない。肩の上の相棒を見上げ、目が合うまで歩き出さなかった。  アンコは再び歩き出した。誰にでもあの調子なら、気を持たせて泣かせた相手もいるのかもしれない。彼の言葉には気をつけた方がいい。  天幕へ戻ると、アンコは籠を木陰に置き、持ってきていた食料を広げた。小鍋に水と干した野菜を入れ、乾燥させた穀物を足す。湯が沸くころには、潮の匂いの中へ温かい香りが混じった。 「僕にできることは?」と灯が訊く。 「灯には器を頼め」とピコデビモンがすぐに言った。「せっかく助かったのに、ここであいつの料理を食べる賭けはしたくない」 「先に言うことかな、それ」 「船では食事を出してもらえたから、我も忘れかけていた」  アンコが二人を見比べる。 「では、灯くんには器を並べていただけますか?」 「え、それだけ? 僕、そんなに料理下手に見える?」 「大切な役ですよ。みんなの分が要りますから」  灯は素直に器を三つ並べた。アンコはピコデビモンの分を浅い器によそい、十分に冷ましてから渡す。ピコデビモンは匂いを嗅ぎ、一口食べ、何も言わずに続きを食べた。 「どうやら、美味しいみたいだよ」と灯が代わりに言った。 「まだ二口目だ。うまいと断定するには証拠が足りん」 「二口目で判定は出てるよ」  アンコは小さく笑った。灯も湯気の立つ器に口をつけ、ようやく深く息を吐く。卵を包んだ布は、彼女の手の届くところにある。  食べ終えてから、アンコは灯に訊いた。 「あなたたちなら、島を出られるのでしょう? それでも探し物に付き合ってくださるのは、なぜですか?」 「命を助けてもらって、僕だけ手ぶらでさよならってのは落ち着かないんだ。それに、ほかの人が流れ着くかもしれないしね」 「灯くんは、義理堅いんですね?」  灯は空になった器を見つめた。縁を指で一周なぞってから、アンコではなく、器に向かって話し始める。 「昔、行くところがなくてね。教会の神父さんに拾われた。居場所をくれた人には、恩返しするのが筋だよ」 「それで、人を助けているんですね」 「それだけじゃないけど」  灯はそこまで言って、口を閉じた。言うつもりのなかったところまで来てしまったらしく、器を両手で持ち直す。ピコデビモンは追及しない。アンコも、次の言葉を待っていた。 「前に、友達を失くしてね。僕だけ助かった。たぶん、まだそのことを上手に話せない」  波の音が天幕の布越しに聞こえた。アンコは卵の包みから手を離し、灯を見る。 「話さなくてもいいですよ」 「ありがとう」 「ただ、ずっと苦しいままでいなくていいと思うんです」  灯の指が器の縁で止まった。少し遅れて、いつもの笑みを作る。 「神父さんにも、似たようなことを言われたよ」 「なら、聞いてあげてください」 「聞いてるつもりなんだけどね。どうも僕には、耳より先に手が動く癖がある」  ピコデビモンが鼻を鳴らした。  灯は両手を上げてみせた。アンコは、彼が話題を閉じたのを見て、それ以上は訊かなかった。  しばらくして、彼女は籠の布をかけ直す。デジタマは静かだった。灯はそれを見ながら言った。 「さっきの話だけど。生まれ直せたら楽になることも、きっとあるんだろうね」 「ええ」 「でも僕は、返したいものまで無かったことにはしたくないな」  アンコは灯を見た。やがて、急がずに答える。 「貰ったものと、苦しいこととは、別にしてもいいんですよ」 「そうできたら、いいね」  灯は否定しなかった。隣にいるピコデビモンの背に手を置き、そのままデジタマを見ている。アンコも頷く。ただ、二人が見ていたのは同じデジタマで、思い浮かべていたものは違っていた。  夕方、アンコは翌朝の行き先を確かめに天幕を離れた。ピコデビモンは彼女の籠を見てから、灯の膝へ飛び乗る。 「あの女、お前の右眼を気にしておった」 「変わった目だし、最初に見られてるからね」 「我のベルトにも目を留めておったぞ」 「……目元まで似た者同士だから?」 「そう思っておるだけなら、我も安心する」  灯は笑いかけて、やめた。布の上から右目に触れる。アンコがデジタマを抱く手つきは優しかった。だが、自分たちの眼に彼女が何を見たのかは、まだわからない。  浜から吹く風が天幕の裾を揺らす。デジタマは丁寧に包まれたまま、籠の中で静かにしていた。 3  翌朝、アンコはデジタマの入った籠を腕に掛けていた。灯が「僕が持つよ」と申し出ると、彼女は礼を言って首を振った。昨日のように卵を守りながら、先に立って木々の間を進む。 「昨日は浜を歩いて、今日は山登り。島に来たばかりなのに、予定が詰まってるね」 「まだ登り口だ」とピコデビモンが言う。「その台詞は頂上まで取っておけ」 「じゃあ、着いたらもう一回言うよ」  灯が笑うと、アンコも振り返って微笑んだ。昨日と同じ顔だった。ピコデビモンはその横顔を見ていたが、何も言わず灯の肩へ戻った。  木立を抜けると、前の日に立った岩棚より高い場所に出た。海岸線が島の向こう側まで続き、入り江がいくつも見える。灯は目を凝らした。人影はない。浅瀬に浮かぶ白いものを見つけ、身を乗り出したが、波の泡だった。息を吐いて身体を戻すと、ピコデビモンが肩を翼で押した。 「あの入り江には、まだ行っておらん」 「うん。今から下りてみよう」  灯は指で場所を確かめた。立ち上がるまでの間、指先が岩の縁を掴んだままだった。アンコは何も言わず、灯が示した入り江を見ている。 「アンコさんは、ここで休んでてもいいよ。デジタマを抱えてるし」 「私も行きます。探す目が多い方がいいでしょう?」 「でも、君も探し物があるんじゃない?」 「次の入り江はあとで見られます。まず、灯くんが気にしている方へ行きましょう」  彼女は籠を抱え直し、先に下りる道を探した。ピコデビモンは灯の肩からその背を見送る。灯は声を掛けられる前に歩き出した。  入り江の奥は、上から見るより深かった。潮の引いた岩の間に細い水路が残り、波が来るたび白い泡が這い上がる。アンコは籠を高いところに置いた。灯とピコデビモンが別々の岩陰を覗いている間、彼女は水際を見て回る。  灯が赤みのあるものを見つけた。岩の向こうへ踏み出すと、それは波に裏返され、救命胴衣だとわかった。灯は足を速める。ピコデビモンがその襟をくわえた。 「待て。中身が見えん」  アンコが先に水へ入った。膝のあたりで波が砕ける。彼女は胴衣を引き寄せ、岩に絡んだ紐をほどいた。軽いものを抱くように持ち上げる。 「誰か、いる?」 「いいえ。これは空です」  灯はそこで足を止めた。アンコが戻るまで、その場から動けなかった。救命胴衣が差し出されると、留め具を確かめ、裏返してから砂の上に置く。持ち主のことは何もわからない。 「脱いで、どこかに行けたのかもしれないね」 「ええ。そうかもしれません」  アンコは濡れた袖を絞った。灯がこれ以上の答えを欲しがっていないのを見て、それきり何も足さない。三人は岩の陰まで確かめ、潮が満ち始める前に救命胴衣を高いところへ運んだ。ほかには何も見つからなかった。 「明日も向こうの浜を見よう。帰ってから『もう少し先に誰かいたかも』って考えるのは、嫌だから」  灯は笑ってみせたが、救命胴衣の留め具を握った指は白い。昨日、ひとりだけ助かったことがあると話したときも、こんなふうに笑っていたのだろうかと、アンコは思った。 「見つからなかった誰かを、灯くんが置き去りにしたことにはなりませんよ」 「……そうだね」  アンコは並んで海を見た。灯がそれ以上答えないのを見て、何も訊かなかった。 「私も一緒に探します。明日も必要なら、付き合いますよ」 「君だって、デジタマを連れて帰りたいだろうに。あの子、生まれたあとも君が見てるの?」 「ええ。できるなら、ひとりきりにしたくありませんから」 「そっか」 「目の前に助けられる子がいるなら、手を伸ばしたいんです。灯くんも、同じなのでしょう?」  灯は彼女が濡れた袖のまま自分と並んでいるのを見た。軽い気持ちで頷くには、その袖も、救命胴衣を運んだ手も、冷たそうだった。何か返そうとして、喉につかえたらしく、先に笑みが出た。 「……ありがとう」 「我も探しておるぞ」とピコデビモンが横から言った。 「わかってる。ピコデビモンには、一日目から助けてもらいっぱなし」 「そうだろう」  アンコは小さく笑った。三人で岩棚へ戻る頃には、灯の足取りも朝より落ち着いていた。 「昨日の浜辺の散歩は断られたけど、今日は付き合ってもらえたね」 「今日はピコデビモンも一緒ですから」 「二人きりは、もう少し仲良くなってからか」 「そうやって、すぐお誘いに変えるんですね」 「素敵な女性は口説かない方が失礼だよ」  アンコは少し笑った。灯もそれ以上口説かなかった。彼女がさっき隣に立っていてくれたことは、冗談にせずに覚えておきたかった。  その日、三人はほかの浜も歩いた。アンコは灯が足を止めるたび一緒に海を見て、潮が満ちれば岩場から引き返した。デジタマを日陰に休ませるときも、灯を急かさなかった。夕方まで探しても、見つかったのは流木や船の破片ばかりだった。  夜、灯はピコデビモンを起こさないよう天幕の外へ出た。アンコがデジタマのそばで湯を沸かしている。火の近くに座ると、彼女は何も訊かず、温めた水を一杯よそった。 「まだ起きてたんだ。今日は僕の探し物に付き合わせちゃったね」 「私も探したかったんですから」 「ありがとう。……そうだ、あの子はどこへ連れて帰るの?」 「はじまりの街です。私も普段はそこにいます。デジタマが生まれるのを見守れる場所なんですよ」 「へえ。じゃあ、あの子がどんな子か、君が最初に知るかもしれないんだ」 「ええ。楽しみです。生まれたあとも、幸せにしてあげたい」  卵の話をするアンコの声は明るい。灯は器を両手で包んだまま、彼女が話し終わるのを待った。 「あの子を見つけたとき、あなたも喜んでくれましたね」とアンコが言う。 「君が嬉しそうだったからね」  灯は湯に口をつけた。答えるより先に、アンコの手元の卵へ目をやる。 「……はじまりの街の話、もっと聞かせてよ。君が好きな場所なんでしょ」  アンコは追及せずに頷いた。浜で誘われたときは、軽い言葉で相手を泣かせる人かもしれないと思った。今は、彼が自分のことより、助けたい相手や彼女の話を聞きたがるのを知っている。  翌日も、潮の引く時刻に合わせて島の反対側へ回った。ピコデビモンが岩の隙間を覗き、灯が波打ち際をたどり、アンコは二人の見落とした場所を確かめた。白いタオルと空の救命胴衣は、持ち主が戻っても見えるよう、それぞれ拾った場所の高いところに残した。  二日間探しても、生存者は確認できなかった。島の外へ流された人がいるかもしれない。その可能性だけは、誰にも確かめようがない。  夕方、三人は岩棚へ戻った。灯は海を見渡したまま、アンコから差し出された水を受け取る。彼女は飲み終わるのを待った。 「二日間、付き合ってくださってありがとうございます。灯くんとなら、助けたいという気持ちのことを、ちゃんと話せると思うんです」 「昨日も言ったでしょ。君の話なら聞くよ」  アンコは微笑み、彼の右目へ視線を向けた。 「その眼、今も痛みますか?」 「痛みはないよ。……前から気にしてたね」 「ええ。最初にお顔を拭いたとき、少し見えました。ずっと気になっていたんです」  灯は笑ったまま、右目を覆う布に指をやった。 「そんなに変だった?」  アンコの声は穏やかだった。灯を介抱したときも、デジタマを拾ったときもそうだった。だが、今の言葉を聞いて、ピコデビモンは灯の肩から翼を広げた。 「何が気になる」 「お二人とも、同じ側の眼を隠していますよね。偶然かもしれません。でも、灯くんの眼は、人間の眼とも、ただの傷とも違う」 「そこまで見てたんだ」と灯が言った。 「ごめんなさい。助けたとき、見ないわけにはいきませんでした」  灯は布から手を離した。失った右目に今あるのは、ピコデビモンと融合したあとに宿ったデジモンの眼だ。そこには、ピコデビモン自身にも宿るアンコクのデジメモリがある。灯はその眼が自分のものだと言い切ることも、相棒から借りたものだと言い切ることもできなかった。 「私の知っている力に、似ているんです」とアンコが続けた。「もしかして、アンコクのデジメモリが宿っているのではありませんか?」  ピコデビモンの翼が灯の頬に触れた。離れる合図だった。灯はすぐには動かなかった。 「よく知ってるね」 「以前、助けるために、あの力をある方へ渡しました。だから気づいたのかもしれません」  灯は籠の持ち手を握るアンコの指を見た。浜でデジタマを両手で掬ったときと同じ、丁寧な手つきだった。  アンコクのデジメモリを持つ人間はそう多くない。以前もこの力を狙って襲い掛かってきた人間がいた。ピコデビモンが一度殺された光景を、灯は今でも夢に見る。苦い記憶だった。  灯の脳裏には、クリスマスに家へ来た八千代の顔が浮かぶ。隣にはHALがいた。灯は二人から何もかも聞き出したわけではない。それでも、八千代に力を与え、彼らの関係にまで踏み込んだ相手がいたことは知っている。 「その人、八千代って名前?」  アンコが灯を見る。籠を抱く腕がわずかに締まった。 「八千代くんをご存じなんですか」 「友達だよ。HALも。クリスマスには、二人でうちに来てくれた」 「そうでしたか! お二人でクリスマスを……よかった」  アンコは一度、ピコデビモンへ目を向けた。灯の友人と聞いて、慎重にこちらを測るような視線だった。それでも、次の言葉には喜びが抑えきれないようだった。 「八千代くんにアンコクのデジメモリを渡したのは、私なんです。あの方に足りないものを届けられた。こうしてお二人の話を聞けて、私、本当に嬉しいです」  デジタマを見つけたときと同じ顔だった。灯は唇を結んだ。浜で二人を運び、この二日は自分たちと一緒に乗客を捜し、ピコデビモンの傷を洗ってくれた。その人が八千代とHALの人生に踏み込んだ相手でもある。何を見落としたのかと自分を責めても、見ていた親切まで嘘にはならなかった。 「……HALにも、何かした?」 「ええ、HALさんにも。ソウルリミックスを施しました。あの方にも、私にできることがあったんです」  アンコは言い終えても、灯から目を逸らさなかった。自分のしたことを、彼も良い行いとして聞いてくれると信じている顔だった。  八千代の物語は聞いていたが、何が起きたかを細部まで聞いたわけではない。灯は知ったふりをせず、アンコの顔を見た。彼が黙っていると、アンコは首を傾げ、喜びの残る目で言葉を継いだ。 「私は、あのとき必要だと思ったことをしました。今も、してよかったと思っています。灯くんも、苦しい人を見過ごせないでしょう? だから、わかってくれると思ったんです」 「助けたかった気持ちはわかるよ。君が本気なのも疑ってない」  言いながら、灯は海へ目を移した。船影のない水平線が、夕方の光を返している。 「もう一つ、聞いていい?」  アンコは頷いた。灯は下に見える入り江を見下ろしながら、言葉を探す。簡単な訊き方が見つからず、そのまま口にした。 「君は、どうしてこの島に来たの。デジタマを探すためなのは聞いた。でも、船が沈んだすぐあとに、ここを探せたのはどうして?」  アンコは籠へ視線を落とした。布の下でデジタマは動かない。 「船のいる海域は知っていました。このあたりへ流れ着くものがあると思って」 「沈むことも、知ってた?」 「もちろん、計画が立ったときから知っていました。招待状でテイマーを集めて、乗客ごと船を沈める。そこまでがデジモンイレイザーの罠です」  アンコの声は、ピコデビモンの傷を洗ったときと変わらない。灯は、彼女が船のどこまでを決めたのかは知らない。ただ、乗客を乗せたまま沈めると知って、それに賛成したのだ。 「僕が乗ってたのも、もしかして最初から知ってた?」 「それは、浜でお会いするまで知りませんでした」 「そっか。僕らを助けたのは、予定じゃなかったんだ」 「はい。見つけたのがあなたたちで、よかったです。目の前で助けられる方を、放っておけませんから」  アンコは当たり前のことを答えるように言った。困った顔もしない。灯が言葉を継げないでいる間にも、波の音は変わらず聞こえる。下の入り江に立つ人影は、やはりなかった。 「私は、この海へ流れ着くデジタマを迎えに来ました」とアンコは続けた。そこでまた、声が少し弾んだ。「怖い思いをした子も、生まれ直せばそのことを知らずに済むかもしれません。あの子を見つけたときは、間に合ってよかったと思ったんです」  彼女は布の上からデジタマを撫でた。灯の右目へ布を渡したときと同じ手だった。  籠の中のデジタマが、布を通して丸い影を作っている。灯もその子を見つけられてよかったと思った。だが、乗客ごと船を沈める計画に賛成した彼女と、その喜びを同じようには分け合えない。 「僕とピコデビモンを助けてくれて、ありがとう」 「ええ。お二人が元気になって、私も嬉しいです」 「でも君は、デジモンイレイザーの計画に賛同している。何より、八千代くんのことで何も感じないほど、僕は大人じゃない」  灯の声は震えなかった。彼は自分の拳が固く握られているのを見て、ようやく指を開く。ピコデビモンが肩へ飛び乗り、擦り傷の残る翼を灯の首筋に押し当てた。  アンコは二人を見つめた。怒りも弁解もない。波打ち際で自分たちを見つけて安心したときと同じ優しい眼をしている。そのことが、灯には怖かった。  アンコは籠を日陰の平らな岩に置き、布が飛ばないように端を押さえた。それから灯の前へ戻る。話をやめて去るつもりなら、いまが一番いいはずだった。灯は足を動かせなかった。 「神父さんに拾われたと、話してくれましたね」とアンコが言う。 「うん」 「あの日から、あなたが浜を歩くところを見ていました。何も見つからないとき、灯くんはご自分を責めているように見えたんです」 「……そんな顔してた?」 「少しだけ。前にご自分だけ助かったことがあると、話していましたよね。だから、いまも誰かを探しているのかと思いました」  灯は彼女を見た。そこから先は、アンコに話していない。船のことを聞いたばかりなのに、見られていた日々まで嘘にはできなかった。昼の入り江で救命胴衣を握っていた自分の手を思い出す。 「僕のことは、ずいぶん見てたんだね。君の話を聞くつもりでいたのに」  灯は笑おうとした。うまく笑えず、指先が布の上から右目に触れる。 「灯くんが苦しまずに済むなら、私は嬉しいんです。私に任せてください」  アンコは迷いなく言った。 「残念だけど、僕に君の『救済』は必要ない」  灯は首を横に振った。アンコの顔に失望は見えない。むしろ、怯えている相手を安心させようとする顔だった。 「汝、デジタマを信じなさい。さすれば救われるでしょう。大丈夫、あなたは苦しみを忘れ、あなたのパートナーもデジタマに帰してあげますね」  アンコは二人を見つめている。出会ったときから変わらない、優しい顔で。 4  灯の目の前で、差し出された手が青い爪に変わった。 「下がれ、灯!」  灯は爪の内側へ踏み込まず、斜め後ろへ身を引いた。さっきまで足のあった岩が砕け、細かな破片が頬を打つ。ピコデビモンは彼の肩を離れ、アンコの顔の前へ飛び込んだ。  少女の輪郭がほどける。白い体躯が肩を覆い、薄紅色の膜を張った翼が、相棒の小さな身体を押し退けた。  灯は後退しながらデジヴァイスバーストを取り出した。長い青い首が頭上へ伸びる。その影を見て、開けた岩棚から木立の側へ足を向けた。  翼に弾かれたピコデビモンが、岩すれすれで身体を起こした。 「ピコデビモン、こっち!」  相棒がこちらへ飛ぶ。その後ろで、邪竜の爪が持ち上がった。  灯は張り出した根を跨ぎ、踏ん張れる場所を選んだ。掌に生じたデジソウルの光を、デジヴァイスへ押し込む。 「デジソウルチャージ!オーバードライブ!」  光がピコデビモンを包む。小さな翼の影に、黒い鎧と金の角が重なった。 「ピコデビモン進化――タクティモン!」  灯へ振り下ろされた爪を、長大な剣の鞘が受け止めた。  衝撃が岩棚を走る。灯は腰を落とし、大きくなった相棒の背後から横へ抜けた。目の前で赤い裏地の外套が翻り、タクティモンX抗体が青い腕を押し返す。 「もう、頑張らなくていいんですよ」  邪竜の口から、アンコの声がした。  灯はデジヴァイスを握り締めた。聞き覚えのある声だとわかることが、今は嫌だった。  灯はデジヴァイスを握り締めながら、岩の陰へ移った。タクティモンの背も、パンドラモンの翼も見える。林へ退く道が、すぐ後ろにある。 「僕はこっちを使う。海側へ回して」 「その岩から離れすぎるな」  タクティモンの鎧へ、デジソウルが流れ込む。進化させたあとも、灯は力を送り続けていた。恐怖と怒りに混じり、相棒を手放したくないという願いが、その手に力を与えた。  パンドラモンが踏み込む。  タクティモンは爪の届く場所を外し、灯から離れる側へ踏み込んだ。背から外したタネガシマを左手に取り、彼女の足が岩を離れるより早く、引き金を引く。  パンドラモンが着地する先へ、砲弾が走る。翼が開くより早く、その翼が通るはずの空間を、別の砲口が捉えた。  彼女は身体をひねった。白い装甲の前で文字列が瞬き、砲弾が弾ける。その爆煙の上へ首を出したところで、三発目が来た。  砲口は、彼女のいない場所を先に捉えていた。アンコが動くたび、そこが逃げ道になる。灯はその射線を確かめ、自分へ通じる道が一つずつ塞がれてゆくのを見た。  タネガシマが手を離れ、宙に留まる。そこから同じ形の銃が生まれた。二つ、四つと増えた砲口が、海と岩棚の上へ散ってゆく。  灯は岩陰を伝い、デジタマの入った籠を引き寄せた。厚い根と岩に囲まれた窪みへ置く。 「あの子は、ここ。僕も動けるから、遠慮なくやって」  タクティモンが銃の配置を変えた。籠を巻き込まずに、彼女の退く先へ砲弾を送り込める。灯はその一発に合わせ、デジヴァイスへ力を注いだ。  鎧の赤い宝玉が強く輝く。砲弾を受けた文字列が、初めて大きく歪んだ。  パンドラモンの青い胴体が、岩の上を滑った。  灯は息を吐き、いったん力を緩める。胸の鼓動が速い。まだ始まったばかりなのに、掌の内側が熱かった。 「優しいんですね」  パンドラモンが言った。 「ご自分で戦えるようになるまで、お元気になってくださって……本当によかった」 「看病の甲斐があった、って顔だね」  灯は答えた。彼女の声を聞いている間にも、次に退く場所を見ていた。 「ええ。お二人を助けておいて、よかったです」  嬉しそうな返事だった。  パンドラモンの周りで、文字が輪を作った。  タクティモンの砲撃が、その中心へ集中する。彼女は砲弾を防ぎながら首を引き、閉じた翼の間へ光を集めた。  タクティモンが横へ踏み込む。背後の銃が一斉に角度を変える。 「システムフェイル」  光が岩棚を横切った。  タクティモンは、その正面にはいなかった。身を低くして踏み込み、鞘に収めたままの蛇鉄封神丸を振るう。  パンドラモンの青い腕が、鞘を受けた。衝撃で岩の表面が剥がれたが、光は止まらなかった。彼女が首を巡らすのに合わせ、タクティモンの退く先へ追ってくる。  灯は照射が始まる前に岩の裏へ移った。光の向こうに見える相棒は、さらに海側へ回り込もうとしている。  だが、パンドラモンが首を巡らすだけで、光はその退く先まで薙いだ。足でかわした一度目の光よりも、次の照射の広がりが速い。  タクティモンは踏み止まり、銃を彼女の首元へ回した。 「変異種・障壁――イリーガルプロテクト」  変異種の力が障壁となって立ち上がった。  光がその面へぶつかり、薄い膜を内側へ押し曲げる。タクティモンの外套が激しくはためいた。灯は岩越しにその姿を見て、デジソウルを送り込む。  デジソウルが流れた。  タネガシマの砲口が輝き、続けざまの砲撃が彼女の防御へ食い込む。障壁に亀裂が走るのと、パンドラモンの顔が押し上げられるのは、ほとんど同時だった。  光が岩棚の上へ逸れ、途切れた。  障壁の残骸が、細かな粒となって落ちた。 「いまの、受けたらどうなる?」 「あれは強制退化だ」  タクティモンは、次の砲撃を配置しながら答えた。 「僕がデジソウルを送っても、障壁は増やせないんだね」 「撃たれないようにするしか無い」  灯は汗の滲んだ手を一度服へ擦りつけた。指先に痺れがある。深く息を吸い、林側の岩陰へ移りながら、再び力を送り始める。  タクティモンの肩越しに、パンドラモンがこちらを見た。 「灯くん。そんなに怖いのに、まだ頑張るんですか」 「君の言うことを聞く方が、よっぽど怖いよ」 「けれど、もう一度失うことも怖いでしょう?」  その言葉だけが、爆煙を抜けて、やけにはっきり聞こえた。  タクティモンは、剣を岩へ突き立てた。鞘の先が地面に食い込む。  両手にタネガシマを取り、宙の銃を並べ直した。灯の退路と籠の窪みを内側に残し、幾重もの砲口が外へ向く。 「灯。ここで押すぞ」 「うん。長くは続かないから、一気にね」  灯は岩へ肩を預けた。掌に光を集め、さっきより強く、デジヴァイスへ送り込む。  赤い宝玉が脈打ち、浮遊するタネガシマがさらに増えた。砲口の間を埋めるように新たな銃が並び、パンドラモンの上空を塞いでゆく。 「八雷神!」  銃声が一つの轟音になった。  岩が砕け、海面に無数の水柱が立った。翼を広げて射線の上へ出ようとしたパンドラモンを、上空の銃が撃ち下ろす。防いだ砲弾の煙が晴れる前に、横から次の砲弾が届いた。  防御の文字列が幾つか弾け、白い装甲へ砲弾が当たる。彼女が翼を畳んだところへ、タクティモンが剣を引き抜いて踏み込んだ。  灯は送り込む力を緩めた。足が重い。肩を岩から離すと、額から落ちた汗が顎まで伝った。  砲撃は効いている。動きを止められた。  次に力を注ぐところを探していたとき、アンコの声がした。 「ソウルリミックス」  胸の奥で、何かが冷たく動いた。  灯は息を吸い損ねた。目の前には、砲煙と夕焼けがある。なのに、あのとき逃げた場所の暗さが、瞼の裏へ押し寄せてきた。  振り返らなかったことがある。  助けに戻れなかったことがある。  いま、目の前で大きな背が倒れたら。  灯の指が、デジヴァイスへ食い込んだ。  灯は岩を背に、足の位置を確かめた。目の前にいるのはタクティモンだ。まだ倒れていない。息を吸い直し、過去の暗がりへ目を奪われないように、その剣を追う。 「僕に触れるな…」 「閉じ込めておくから、苦しいんですよ」  アンコの声には、励ます響きがあった。 「怒ってもいいんです。悲しくても、怖くても。灯くんの中にあるものを、私には隠さなくていいんですよ」  灯は顔を上げた。  ここ数日、彼女が何も訊かずに隣へ座ってくれたことを思い出した。あの沈黙まで、この言葉へ続いていたのか。そう考えたとたん、胸の冷たさに、焼けるような熱が重なった。 「これは僕だけの痛みだ!」  デジソウルが強く燃えた。  灯はその光を、デジヴァイスへ注いだ。宙の銃が彼女の正面を捉え、砲撃の間隔が短くなる。  撃ち続けてほしいという思いが、恐怖に混じっていた。タクティモンはその力を受け取りながら、砲口を正面だけに集めず、左右へ散らした。 「灯、声を聞け」  相棒の声がした。 「我は、ここだ」  灯は黒い外套を見た。遠ざかる背を追って、二つ目の岩陰へ移る。相棒が自分の前へ戻らなくてもいいように、彼女の進む方から距離を取った。 「聞こえてる。こっちは動けるよ」  声を出すと、肺へ空気が入った。灯は掌をデジヴァイスへ重ね直す。指先の痺れは、手首まで広がっていた。  砲煙の向こうで、文字列が組み替わる。 「パンドーラ・メルトアウト」  タクティモンの左腕に、黒い筋が走った。  装甲の継ぎ目が歪む。宙の銃の一つが狙いを失い、海へ落ちた。もう一つは、輪郭を崩して消えた。  いまの砲撃では足りない、もっと深く撃ち込めという衝動が、戦況を読む思考へ割り込んだ。怒りの向かうままに追えば、次の光を受ける。その先まで見えているのに、剣を持つ手が進もうとする。  タクティモンは踏み込みを止め、残る銃を散開させた。左腕の異常は肩へ向かって広がっていた。見通した場所へ銃を動かそうとしても、その動きが遅れる。  灯は一門の銃が落ちるのを見た。デジソウルが、動く方の腕へ力を与えた。タクティモンは右手の剣を低く回し、遅れた砲撃の間を埋める。  灯は短く息を吐いた。視界の端が暗い。少し休みたかったが、彼女の首が持ち上がるのを見て、岩の裏へ回った。 「楽になりますよ。大切な方を失う怖さも、その方を守れなかったと思う気持ちも。デジタマに帰れば、持っていなくていいんです。いつか、みんながそうなれるように」  パンドラモンが再び光を放った。  タクティモンは障壁を展開する。光を押し留める面が、先ほどより激しく震えた。 「蛇鉄封神丸を抜くしかない…」  岩の裏から、灯が言った。荒い息の間に、どうにか言葉を挟む。  左腕の異常は消えていない。灯が力を送れば押し返せるが、彼女はまた光を放てる。いまの戦い方を続けるだけの余力は、もうなかった。  タクティモンは、鞘に置いた手を動かした。  灯は答えた。アンコが、目の前から消えてしまえばいい。ほんの一瞬、そう思った。  すぐあとに、器を冷ましてピコデビモンへ差し出していた手が浮かんだ。  掌が震える。灯はもう片方の手を重ね、細く送り続けていたデジソウルを強めた。 「あの人を止めるぞタクティモン」  タクティモンが頷いた。  蛇鉄封神丸が、鞘を離れた。  剣の縁に、夕日の色が映らなかった。  残った砲弾がパンドラモンの頭上で炸裂する。光が途切れた瞬間、タクティモンは踏み込んだ。  最初の一閃で、彼女の足元の岩がなくなった。  破片は飛ばなかった。そこだけが、何もなかったように欠けていた。 「悟の太刀――五稜郭!」  二閃、三閃。  斬撃から生じた衝撃波が、彼女の退く先へ走る。防御の文字列を貫いたところに、暗い切れ目が生じた。  灯がデジヴァイスへ力を注ぐ。タクティモンの右腕が、いっそう速く剣を返した。四つ目が翼の上を押さえ、五つ目が白い肩の外殻を掠める。  肩の縁が、細く消えた。  パンドラモンは、初めて口を閉じた。  タクティモンの剣を見つめ、欠けた外殻へ眼を移す。その短い沈黙に、灯の呼吸が入り込んだ。 「これは、少し面倒ですね」  アンコの声から、わずかに明るさが引いた。 「やれタクティモン」  タクティモンは剣を返した。  青い首が退く。タクティモンは、その先へ回り込むように斬撃を重ねた。 「無の太刀――六道輪廻!」  六つの斬撃が、海側で巨大な渦を作った。  砲煙が吸い上げられた。波頭が引き伸ばされ、渦の内側に触れたところから消える。タクティモンは六つの斬撃を重ね、砲撃で塞いだ退路へ、その力を送り込んだ。  灯はデジヴァイスへ、残していた力を押し込む。  渦が大きくなった。パンドラモンの防御を囲み、白い外殻の端を削る。その一角が消えるたび、彼女は翼を狭く畳まなければならなかった。  灯はそこで大きな出力を止めた。肩で息をしながら、弱くなったデジソウルだけを送り続ける。腕が重い。額の汗を拭こうとしても、デジヴァイスから手を離す余裕がなかった。  パンドラモンは渦の上へは出なかった。低く身を滑らせ、削られた岩棚へ降りる。  タクティモンは、すでに剣を引き戻していた。彼女の着地するところへ、残る砲も向いている。  砲撃が白い首の周りで弾けた。  その煙の内側に、光が満ちた。  タクティモンは踏み込もうとした。だが、異常が左肩から胸へ広がり、身体が一瞬遅れた。剣を届かせるために必要な間は、読めていた。その間に動けるはずの身体が、思考へ追いつかない。  彼女が首を上げた。 「システムフェイル」  扇状に広がった光が、岩棚を覆った。  タクティモンは障壁を張った。光は海側へも広がり、横へ退こうとする足を押し留めた。照射を妨げる砲撃がパンドラモンの周囲で弾ける。左腕から広がる異常は、もう銃の配置だけに留まっていなかった。 「灯、木立へ!」  灯はデジヴァイスを握りながら、根の内側へ退いた。相棒へ送る光は、まだ途切れていない。  それでも、障壁に走った亀裂は広がった。  タクティモンは最後の砲撃を彼女の首元へ集めた。  障壁が割れた。  剣を鞘へ収めた右腕に、光が触れる。  黒い装甲が、形を失ってほどけた。送り込まれたデジソウルが赤い宝玉を輝かせる。その輝きごと、装甲の輪郭が消えた。  灯は息を止めた。  まだ、力を送り込んでいる。その力を受け取る姿が、光の中で解かれてゆく。  金の角が消えた。赤い外套が光へ溶け、宙の銃が一斉に輪郭を失った。  大きな身体が、急速に縮んでゆく。 「ピコデビモン!」  光が途切れると、灯は岩陰から出た。脚に力が入りにくい。それでも倒れる位置を見て、二歩で距離を詰める。  デジヴァイスを服へ戻し、両手を伸ばした。  小さな身体が、腕の中へ落ちた。  砲声がやむと、波音が戻ってきた。  灯は岩に膝をついていた。相棒を受け止めたあと、立ち続ける力が残っていなかった。掌には擦り傷があり、デジヴァイスを握っていた指が、うまく曲がらない。  その腕の中で、ピコデビモンが息をしている。 「……聞こえる?」 「大声を出すな」  声は掠れていた。灯は頷き、息を吐こうとして、途中で喉を詰まらせた。  進化は解かれた。戦える姿ではなくなった。それでも、今、自分に返事をしている。  ピコデビモンが翼を動かした。 「立て。抱えておると、お前まで動けん」 「今日は、僕が担ぐよ」  灯は相棒を抱き直した。翼を潰さないように、腕の位置を変える。 「あと少しです」  彼女は穏やかに言った。 「あと一撃でその子はデジタマに戻るでしょう。あなたもようやく眠れますね」  白い爪が、一歩近づいた。  灯は片足を立て、岩を背にして立ち上がった。腿が震えている。力を送り続けた胸の奥が、まだ空気を欲しがっていた。ピコデビモンを抱く腕を内側へ寄せ、彼女から距離を取った。 「寝るなら、今夜も天幕で寝るよ」 「まだ、そこへ帰りたいんですか?」 「うん。君の用意してくれた寝床、気に入ってるから」  アンコは首を傾げた。  灯は笑おうとした。うまくいかなかったが、言葉だけは続いた。 「君を許せない、八千代くんやHALちゃんにしたことも、船のことも。」 「ええ。私にも、よくわかります。さっきより、ずっと」 「それでも、助けてくれたことには、まだ感謝してる」  灯は顔を伏せかけ、ピコデビモンと目が合った。そのまま俯かずに、アンコを見た。 「君を嫌いになれたら、もう少し楽だったかもね」  青い首が、ゆっくり低くなった。 「灯くんが私を信じてくださったこと、嬉しかったんですよ。信じてくださった分だけ、いまは私に怒れるでしょう?」  灯の腕が固くなった。  アンコは彼の顔を見つめていた。労わるような声に、隠しきれない喜びが混じっている。 「……助けた相手が、君と争うようになるのも嬉しいの?」 「お二人を見つけて、よかったと思ったのは本当です。生きていなければ、いまの気持ちも、この力も生まれませんから」  灯は彼女を見た。浜で受け取った布も、冷ましてくれた食事も、思い出すたびに胸が痛む。それを彼女は、嬉しいこととして眺めている。 「もう少し、お二人のお手伝いがしたくなりました」  灯はそう答えた。彼女の眼が、自分の顔を確かめるように動く。 「そんなにたくさん、抱えていたいんですか。怒りも、苦しみも。手放せば、楽になれるのに」 「楽には、なりたいよ」  答えはすぐに出た。 「君の言うとおり、苦しいよ。怖いし、怒ってるし。明日になっても、たぶん忘れられない」  彼はピコデビモンを抱いた腕へ、もう一度力を入れた。 「それでも明日、こいつと話したいんだ。君には笑われそうだけど、美人を見かけたら、また余計なことも言いたい。君の理想郷にそんな物は無いだろう」  パンドラモンは黙っていた。  青い爪は、それ以上近づいてこない。  灯の掌に、かすかな光が残っていた。怒りが消えたわけではない。恐怖も残っている。けれど、その光は、相棒の爪が袖を掴むたび、弱くても確かに灯った。  アンコの眼が、その光から灯の顔へ戻る。 「……もう少し、見ていたくなりました」  声に、明るさが戻った。 「私に怒っていて、怖がっていて。それでも、助けたい方のためなら、まだ戦ってくてるんですね」  灯は答えなかった。返事をすれば、また彼女の望むところへ運ばれそうだった。 「灯くんが笑っているときには、見えなかったものが、いまはよく見えます。私にまで、あんなに大きな力を向けてくださった。次は、もっと強くなれるでしょう。ここでデジタマに帰してしまうのは、少し惜しいですね」  ピコデビモンが牙を見せた。 「我らは、お前の見世物ではない」 「ええ。ですから、灯くんの望むようになさってください。お二人には、守りたい方がたくさんいるのでしょう?」  それは、説得に応じた声ではなかった。  灯は腕の中の重さを確かめた。いま、放してはいけないと思った。  邪竜の姿が、夕日の中でほどけた。  青い体躯と翼が消え、少女が岩棚に立っていた。灯はその姿を見ると、かえって一歩下がった。  アンコはそれ以上近づかず、籠へ向かった。布を開いてデジタマを確かめ、縁に落ちた砂を払う。その手つきは、初めて卵を拾った朝と変わらなかった。 「よかった。傷ついていませんね」  灯の肩が、わずかに下がった。  その動きを、彼女は見逃さなかった。 「あの子のことも、心配してくださっていたんですね」 「……君には、そこがよく見えるんだね」  灯は自分の指を見た。血の滲んだ掌で、ピコデビモンを支えている。彼を落とさないようにするだけで、腕が疲れた。 「今日は、デジタマには帰しません」  アンコが言った。 「その姿のままで、休んでください。天幕も、食料も、置いていきますから」 「今日は、か」  ピコデビモンが呟いた。  アンコは微笑んだ。訂正はしなかった。 「それから、二人に贈り物です」  アンコが、片手を開いた。  掌の上にデジメンタルの輪郭が浮かぶ。灯の右目の奥が、かすかに疼いた。ピコデビモンが顔を上げるより早く、その輪郭が細かな光へほどけた。  灯の服の内側で、デジヴァイスが鳴った。  彼は相棒を片腕で支え、すぐに端末を取り出した。光が画面へ吸い込まれてゆく。手で覆ったときには、もう新しいデジメンタルの情報が、その中に残っていた。 「暗黒のデジメンタルです。灯くんのデジヴァイスへ、お送りしました」  アンコは、嬉しそうに言った。  灯は画面を確かめ、その先の操作には触れなかった。ピコデビモンも、彼の腕から表示を覗き込んでいる。 「……贈り物なら、せめて僕の返事を待ってほしかったな」 「お礼は要りませんよ」  灯の指が、端末の縁で止まった。  アンコは微笑んでいる。何かを奪ったつもりも、押しつけたつもりもないらしい。水や布を用意してくれたときと同じように、足りないものを届けてあげた顔だった。 「八千代くんにも、そうやって力を渡したの?」 「彼の場合大きくデータを損なってしまいましたかね。アンコクのデジメモリで補強したんです。」  灯は端末を少し下げた。暗黒のデジメンタルは、もう自分の手元にある。 「怒りも、悲しみも、とても大きな力になります。いまのお二人なら、きっと、この力を育ててくださる。大切な方が傷つけられたとき、今度はもっと遠くまで手を伸ばせる。嬉しいことだと思いませんか?」 「我らを戦わせたいだけではないか」  ピコデビモンが言った。  アンコは彼にも、優しく頷いた。 「守りたい方がいらっしゃるなら、力がある方がいいでしょう?」 「僕らが、君を止めるために使うかもしれないよ」 「ええ。どうか、そうなさってください。そのときは、お二人とも力を惜しまないでしょう?」  灯はアンコを見た。こちらから刃を向けられることまで、彼女には贈り物の続きらしい。  アンコの声は弾んでいた。 「使っても、使わなくても。お二人には、きっと、素敵なことが起こりますよ」  灯は口を閉じた。  彼女は、返事を待っていなかった。使うと言わせようとも、思い直させようともしていない。まだ何も決めていない自分の向こうに、もう何かを見つけて喜んでいる。 「……何が起こると思ってるの?」 「次にお会いしたとき、聞かせてくださいね」  アンコは小さく首を傾げた。  灯がどちらを選んでも、その先に出来事が待っていると、知っているような顔だった。  ピコデビモンの爪が、灯の腕を軽く叩いた。 「いまは触るな。帰ってから、我も確かめる」 「うん」  灯は表示を閉じ、デジヴァイスを服の内側へ戻した。空いた手で、ピコデビモンの身体を支え直す。  贈り物を喜ぶ言葉は、出てこなかった。 「八千代くんには、君に会ったことを話すよ。」 「ええ、ぜひお話ししてください。八千代くんが何を思ってくださるのか……私も楽しみです」  アンコは籠を腕に掛けた。  灯は道を塞がなかった。彼女をここで追えば、自分たちがどこへ行き着くか、考えられるほどの力もなかった。  それでも、言っておきたいことはあった。 「君がまた、ああいう計画に手を貸すなら、僕も止めるよ。助けてもらったこととは、別に」  アンコは足を止めた。 「灯くんは、やっぱり、助けたい方を見過ごせないんですね」  彼女は、どこか誇らしげに笑った。 「どうか、その気持ちを大切にしてください」  灯は返事をしなかった。  アンコも待たずに、木々の間へ歩いてゆく。籠を枝から遠ざけるため、また身体を傾けた。  その姿が見えなくなるまで、灯は動けなかった。 「……重くないか」  ピコデビモンが訊いた。  灯は相棒を見下ろす。身体を起こそうとするので、背を支えている手を少し高くした。 「君は、僕よりずっと軽いよ」 「比較する相手が悪い。海水を吸った人間に勝っても、嬉しくはない」  灯は短く笑った。  目元が熱かったが、拭うためには片手を離さなければならなかった。 「天幕まで、運ばせて」 「転ぶなよ」 「わかってる。今度は、僕の番だからね」  灯は足元を見て歩き始めた。  岩棚には、剣に切り取られた、破片のない窪みが残っていた。それを避け、木の根を跨ぐ。服の内側で、デジヴァイスが身体に当たった。そこに記録されたデジメンタルの名を思い出し、灯は唇を引き結ぶ。  怖さも、怒りも、薄れてはいなかった。アンコの声は、まだ耳に残っている。  灯は腕の中の相棒へ目をやった。  ピコデビモンの爪が、袖を掴んでいた。  灯はその爪が離れないよう、抱く位置を直した。 エピローグ 天幕へ戻ったとき、灯は入口で膝をついた。  腕の中のピコデビモンを敷物へ下ろし、背中に回していた手を抜く。指がすぐには伸びなかった。掌に乾いた血が付いている。相棒の身体に擦りつけていないか確かめてから、灯はその隣へ座り込んだ。 「……着いたね」 「途中で落とされなくて何よりだ」 「お客様の無事が第一ですから」  ピコデビモンは翼を畳んだ。灯が水差しへ手を伸ばすのを見て、もう一度だけ顔を上げる。 「我の分だけではないぞ」 「わかってるよ」  器を二つ並べるだけで、少し時間が掛かった。  灯は浅い方の器を相棒の前へ置き、自分の分も飲んだ。空にした器を膝の上に載せていると、まだ手が震えているのがわかった。  天幕の中は、朝とほとんど変わっていない。干した穀物の袋も、畳まれた布も、手を伸ばせば届くところにある。アンコが三人分の食事を作っていた場所には、小鍋が残されていた。  灯はそこをしばらく見つめた。  親切だった、と今でも思う。その言葉のあとへ、何を続ければいいのかはわからなかった。 「灯」  相棒の声に、顔を戻す。 「腹は減っておらんのか」 「……減った。かなり」 「よし。まずはそれだ」  灯は小さく頷いた。  掌を洗って布で押さえ、残された食料を出す。鍋に入れる分を取ろうとすると、ピコデビモンが袋の口を翼で叩いた。 「半分でいい」 「そんなに遠慮しなくても」 「遠慮ではない。水を吸えば増える」 「そっか。危うく今夜も海難事故を起こすところだった」 「鍋の中だけにしておけ」  灯は言われた分を戻した。出来上がったものは、アンコの作った食事より味が薄かった。それでも、二人とも残さず食べた。器を置いたあと、灯の身体がゆっくり傾いた。肘をつくつもりだったのに、そのまま横になってしまう。 「片づけ……」 「明日でよい」 「明日の僕に悪いなあ」 「今日のお前よりは、働けるだろう」  ピコデビモンが、灯の肩の横へ移った。  灯はその身体を確かめるように指先で触れ、目を閉じた。  翌日は、二人ともほとんど眠って過ごした。  目が覚めれば水を飲み、食べられるだけ食べた。灯が起きている間にピコデビモンが眠り、ピコデビモンが目を開けたときには、灯が敷物に頬を押しつけていた。  海を見に行こうと腰を浮かせたこともあった。だが、傍らで眠る相棒を見て、灯はもう一度座った。その背に掛かっていた布を直すと、自分も敷物へ横になった。  もう一度、朝が来た。  灯は自分で靴を履き、天幕の外へ出た。足裏に砂の感触がある。少し離れたところまで歩いて戻ると、ピコデビモンが入口で待っていた。 「どうだ」 「今日は、ちゃんと帰れそう」 「我もだ」  灯は頷いた。急いで次の言葉を足すことはしなかった。  持っていく分の食料を分け、残りは天幕の中へ戻した。袋の口を結び、水差しと一緒に日陰へ置く。天幕は畳まず、そのままにしておいた。 「誰かが来たら、使えるしね」  ピコデビモンは一度、中を覗いてから灯を追った。  浜へ出る道には、二人の足跡がまだ残っていた。  灯は波の届かないところを歩き、ピコデビモンが自分を引き上げたあたりで止まった。海から引きずられてきた溝は、もうない。砂は朝の光を受け、踏まれる前のように平らになっている。  ピコデビモンが隣へ下りた。 「ここだった?」 「もう少し、波に近かった」  灯は足元を見た。  ここまで襟をくわえてきた相棒が、どんな顔で自分の呼吸を確かめたのか。尋ねようとして、やめた。代わりにしゃがみ、ピコデビモンの背へ手を置く。 「よく、離さないでいてくれたね」 「お前を海へ置いてきたら、あとで何を言われるかわからんからな」 「うん。たぶん、ずっと言う」 「だろうと思った」  灯は笑い、手を離した。  立ち上がって海を見ると、白い波が浜へ寄せていた。  船で言葉を交わした人々の顔が浮かぶ。名前を聞いた人も、聞けなかった人もいた。もう一度会うつもりで別れた顔も、食事を運んでくれた人の声も、沈んだ船と一緒に思い出される。  いま、どこにいるのかはわからない。別の岸へたどり着いた人がいるかもしれない。誰かの助けを待っている人も、いるかもしれなかった。  灯は息を整えた。  右手を額へ、胸へ、左肩へ、右肩へと運ぶ。 「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」  ピコデビモンは黙っていた。  灯が両手を合わせると、掌の傷が少し痛んだ。強く押しつけず、指を揃え直す。 「主よ、この海でいのちを落とした方々を、あなたのもとにお迎えください」  声は波音に紛れるほど小さかった。 「永遠の安息を彼らに与え、不滅の光で彼らを照らしてください」  そこで言葉を切った。  目を閉じると、捜し歩いた入り江が浮かぶ。白いタオル。空の救命胴衣。近づいて確かめるたび、誰もいなかった岩陰。 「いまも助けを待つ人のもとへ、どうか、誰かの手が届きますように。帰りを待っている人たちを、お支えください」  風が前髪を揺らした。右目を覆う布に、髪の先が触れる。  灯はそれを直さずに続けた。 「僕らをここまで連れてきてくださったことに、感謝します。……ピコデビモンを、どうかお守りください」  隣で、小さな爪が砂を掻いた。 「僕が、これから何をするのかも、お導きください」  少し間を置いて、灯は囁いた。 「アーメン」  もう一度十字を切り、手を下ろした。  ピコデビモンは海を見ている。  灯も、すぐには歩き出さなかった。祈り終えても、浜には二人しかいない。水平線のどこかから、返事が来るわけでもなかった。 「帰ったら、ほかの人の消息も確かめよう」  灯が言った。 「そうだな」 「誰かとまた会えたら、嬉しいね」 「お前の口説き文句を覚えている者も、いるかもしれんぞ」 「だったら、なおさら無事でいてもらわないと。返事も聞けてないんだから」  いつもの調子に戻そうとして、最後の言葉だけ少し掠れた。  ピコデビモンは茶化さなかった。  灯は相棒へ手を差し出した。翼を動かして腕へ上がってくる身体を受け止め、顔を寄せる。 「帰ろうか、ピコデビモン」 「ああ。今度は濡れずに帰るぞ」 「ぜひ、お願いします」  灯の掌に、デジソウルが灯った。  まもなく、島が足元へ遠ざかり始めた。  灯は進化した相棒につかまり、浜を見下ろした。木々の下に残した天幕が、ほんの少し見える。入り江を分ける岩も、歩き続けた海岸線も、上からなら一度に見渡せた。  目を凝らす。最後まで、人影は見つけられなかった。  相棒が海へ向き直る。  灯も、その背から顔を上げた。