--- # 千の願いの、その先に(男性主人公編) 稲守(いなもり)神社の朝は早い。けれど、その神様の朝はもっと早かった。 まだ山の端が白みはじめたばかりの頃、湊(みなと)が石段を上りきると、拝殿の前の賽銭箱に腰かけた女性が、絵馬の束を膝に広げて唸っていた。 月の光を溶かしたような銀白の髪。その頭頂からは三角の耳がぴんと立ち、緋袴の裾からは、ふさふさとした尾が九本、扇のように広がっている。 「『腰の痛みが治りますように』……ふむ、これは源さんじゃな。畑仕事は程々にせいと言うておるのに。『孫が無事に生まれますように』、『隣町までの道で事故に遭いませんように』、『飼い猫のタマが帰ってきますように』……タマは昨日、裏山の祠で昼寝しておったのう。あとで鈴を鳴らして知らせてやらねば」 ぶつぶつと呟きながら、彼女は一枚一枚に指先で触れていく。そのたびに小さな狐火がぽうっと灯って、願いが空へ昇っていくのが湊には見えた。 白穂(しらほ)さま。もとは田の実りを守る豊穣の神だったはずが、頼まれれば断れない性分のせいで、いつのまにか縁結びも、安産も、交通安全も、迷い猫探しまで引き受けるようになってしまった神様だ。 「白穂さま、また徹夜ですか」 声をかけると、白穂さまの耳がぴくりと跳ねた。振り返った顔に、ぱっと花が咲くような笑みが広がる。 「おお、湊ではないか。こんな朝早くにどうしたのじゃ」 「油揚げ、炊いてきました。どうせ何も食べてないんでしょう」 包みを差し出すと、白穂さまは尻尾を千切れんばかりに振って受け取った。そして一口かじると、目を細めて湊を見上げる。 「そなたは小さい頃から変わらぬのう。転んで膝を擦りむいて、泣きながらここへ来ておった童が、今ではこうして、わらわの世話を焼いてくれる」 「もう二十七ですよ、俺」 「わらわから見れば、まだまだ可愛い坊やじゃ」 そう言って、白穂さまは湊の頭に手を伸ばし、よしよしと撫でた。昔から変わらない、柔らかくて温かい手のひら。 それが嬉しくて、同時にたまらなく苦しかった。 湊がこの神様を好きになったのは、いつだったろう。きっと、台風の夜にずぶ濡れになって川の堤を見回る彼女の姿を見たときだ。神様なのに、村人一人ひとりの家の灯りを確かめて、泣きそうな顔で「大丈夫じゃ、大丈夫じゃ」と繰り返していた。 誰よりも人の願いを叶えようとするこの人の願いは、いったい誰が叶えるのだろう。そう思った日から、ずっと。 「白穂さま」 「うん?」 「俺にも、叶えてほしい願いがあるんです」 白穂さまは油揚げを置いて、居住まいを正した。神様の顔だった。 「申してみよ。そなたの願いなら、わらわは何でも――」 「あなたを、甘やかしたい」 白穂さまの耳が、ぴたりと止まった。 「千の願いを聞いて、万の願いを叶えて、それでも一つも自分のために使わないあなたを、俺が大事にしたい。恋人として。……ずっと、好きでした」 長い沈黙が落ちた。朝の風が杉の梢を揺らし、遠くで鶯が鳴く。 やがて白穂さまは、ふっと息をこぼした。頬が、夜明けの空よりも赤い。 「……困ったのう。わらわは縁結びも司っておるというに、己の縁だけは、怖くて結べなんだ」 「え……」 「人の子はすぐに老いて、去っていく。だから、そなたが大人になっていくのを、ただ眺めておるだけにしようと決めておった。……決めておったのに」 九本の尾が、おずおずと湊の腰に巻きついてくる。 「そんなことを言われたら、もう我慢などできぬではないか」 白穂さまが背伸びをして、唇が触れた。油揚げの甘い出汁の味がして、湊は思わず笑ってしまった。 「……笑うでない」 「すみません。嬉しくて」 もう一度、今度は湊のほうから口づけた。 *** 本殿の奥、御簾の向こうには、白穂さまが寝起きする小さな座敷があった。畳の上に敷かれた褥は、干した稲藁と日向の匂いがした。 「ほれ、まずはここへ」 白穂さまは正座して、自分の膝をぽんぽんと叩いた。 「いや、俺が甘やかすって話だったんですけど」 「長年の癖じゃ、許せ。……それに、わらわも一度、こうしてそなたを独り占めしてみたかったのじゃ」 促されるまま頭を預けると、緋袴越しの太腿は驚くほど柔らかかった。白穂さまの指が髪を梳き、耳の縁をなぞり、首筋をくすぐる。尾がふわりと体を包んで、まるで温かな雲の中にいるようだった。 「いい子じゃ、いい子じゃ。毎朝石段を上ってきて、偉いのう。仕事も頑張っておるのう」 「……白穂さま、それ、ずるいです」 「何がずるいのじゃ?」 くすくす笑う声が降ってくる。見上げれば、銀の髪のすだれ越しに、金色の瞳が甘く蕩けていた。 湊は身を起こし、白穂さまの頬を両手で包んだ。 「今度は俺の番です」 白衣の衿に指をかけると、白穂さまは小さく息を呑み、それから恥じらうように目を伏せて頷いた。 紐をほどき、衣を肩から滑らせる。現れた肌は、障子越しの朝の光を受けて、白磁のように淡く輝いていた。湊は鎖骨に、肩に、胸元に、一つずつ口づけを落としていく。 「ん……っ、み、湊……そなた、いつのまにこのような……」 「ずっと、こうしたかったんですよ」 柔らかな膨らみを手のひらで包むと、白穂さまの耳がへにゃりと寝た。尾の先が畳を掃くように震えている。先端を唇で含めば、甘い声が座敷にこぼれた。 「あ……っ、だめじゃ、そのような……わらわは神ぞ……」 「知ってます。だから、今日くらいは神様をお休みしてください」 緋袴の紐を解き、腿の内側をそっと撫で上げる。指先が熱く濡れた場所に触れたとき、白穂さまは湊の肩にしがみついた。 「みなと……みなと……」 名を呼ぶたびに、狐火がぽっ、ぽっと宙に灯る。抑えきれない神気が、あたりを蛍のように漂った。 ゆっくりと、ひとつになる。 白穂さまの中は火傷しそうなほど熱く、湊を迎え入れるように柔らかく締めつけた。九本の尾がいっせいに湊の背に回り、離すまいとするように絡みつく。 「……っ、苦しくないですか」 「苦しいものか。……千年生きて、こんなに満たされたのは初めてじゃ」 涙を浮かべて微笑む顔があまりにも綺麗で、湊はたまらず唇を重ねた。 揺れるたびに、白穂さまは甘く啼き、湊の背中に爪を立て、そして何度も「よい子じゃ」「愛しい子じゃ」と囁いた。甘やかされているのか、甘やかしているのか、もうわからなかった。わからなくていいと思った。 やがて高みへ昇りつめたとき、本殿じゅうに狐火が咲き乱れ、まるで秋の田に金色の穂が一斉に揺れたかのようだった。 *** 日が高くなった頃、湊は白穂さまの尾に包まれたまま、うとうとと微睡んでいた。 「のう、湊」 「はい」 「そなたの願い、ちゃんと叶ったかの?」 「まだです。これから毎日、叶え続けるので」 白穂さまはきょとんとして、それから耳まで赤くして湊の胸に顔を埋めた。 「……ならば、わらわも新しい願いを一つ持とうかの」 「何ですか?」 「そなたと、できるだけ長く一緒にいられますように」 それは千年のあいだ、誰の願いばかりを聞いてきた神様が、初めて自分のために口にした願いだった。 「それなら、俺が叶えます」 拝殿の外では、村の誰かが鈴を鳴らしている。白穂さまは名残惜しそうに耳を動かし、それでも湊の腕から出ようとはしなかった。 「……もう少しだけ、神様はお休みじゃ」 --- # 狐火の灯る縁側で(女性主人公編) 雨は三日三晩降り続いた。 ようやく雲が切れた夜、千景(ちかげ)が稲守神社の石段を駆け上がると、拝殿の縁側に、ぐったりと伏せている人影があった。 「白穂さま!」 「……おお、千景か。案ずるな、少し……疲れただけじゃ」 銀白の髪は泥に汚れ、自慢の九本の尾はしっとりと濡れてしぼんでいた。この三日間、白穂さまは山崩れが起きそうな斜面を支え、川の水嵩を押しとどめ、峠道を走る車を一台ずつ見守っていたのだ。豊穣の神には、本来、関わりのないことばかり。けれど村人に「どうかお守りください」と手を合わせられれば、白穂さまは決して断らない。 「誰も怪我をせなんだ。それで十分じゃ」 へらりと笑う顔を見て、千景の胸がぎゅっと締めつけられた。 千景は二十五歳。神社の宮司の孫娘で、物心ついた頃から白穂さまの姿が見えていた。泣けば膝に抱いてあやしてくれ、叱られれば一緒に謝ってくれた。初恋だと気づいたのは、中学の頃だ。それから十年以上、この想いは誰にも言えずにいる。 「もう……ちょっと待っててください」 千景は社務所から手ぬぐいと湯を張った桶、それから着替えの白衣を抱えて戻ってきた。 「濡れたままじゃ風邪ひきますよ。神様だって」 「神は風邪などひかぬ」 「いいから」 有無を言わさず、千景は白穂さまの髪を拭きはじめた。耳の付け根を手ぬぐいで包むと、白穂さまが「ふにゃ」と気の抜けた声を出す。尾を一本ずつ、毛並みに沿って丁寧に拭っていく。 「……千景は、いつからこんなに手際がよくなったのかのう。昔はわらわが、そなたの濡れた髪を拭いてやっておったのに」 「いつまでも子どもじゃないんです」 「わかっておるよ。立派な娘御になった」 その言い方が、まだ子ども扱いのようで、千景は唇を噛んだ。 「白穂さま」 「うん?」 「白穂さまは、縁結びの神様でもあるんですよね」 「いつのまにやら、そういうことになっておるのう」 「じゃあ……私の縁、結んでくれますか」 白穂さまの尾が、わずかに強張った。それから、ゆっくりと穏やかな笑みが戻ってくる。寂しそうな笑みだった。 「……もちろんじゃ。そなたが想う相手を、申してみよ。どこの誰であろうと、わらわが必ず――」 「白穂さまです」 手ぬぐいを持つ手が震えた。それでも千景は、まっすぐに金色の瞳を見つめた。 「私が好きなのは、ずっと、白穂さまです。誰かのために泥だらけになって、それで『十分じゃ』って笑う、あなたが好きなんです。だから……あなたが自分のことを大事にしないなら、私が大事にしたい」 風が止み、軒先から雫が一つ落ちた。 白穂さまは、何かを言いかけては口を閉じ、また開いた。耳が伏せられ、頬に朱が差していく。 「……ずるいのう、千景は」 「え?」 「わらわは、そなたが誰かと結ばれる日のために、とっておきの縁を用意してやろうと……何百回も、何千回も考えては、そのたびに胸が痛うて、やめてしもうた。縁結びの神が聞いて呆れる」 濡れた尾が一本、おそるおそる千景の手首に絡みついた。 「わらわも、そなたを好いておる。童のそなたではなく、今の、この千景を」 千景の目から、ぽろりと涙がこぼれた。白穂さまはそれを指先で拭い、そっと唇を寄せた。 雨上がりの夜気の中で交わした口づけは、ひんやりとして、すぐに熱を帯びた。 *** 本殿の奥の座敷に、ふわりと狐火が灯った。 「着替えさせてくれるのであろう?」 濡れた白衣のまま、白穂さまは悪戯っぽく首を傾げた。千景は頷き、震える指で衿元の紐を解く。衣が肩を滑り落ち、月光のように白い肌が露わになった。 息を呑む千景の手を、白穂さまがそっと取って、自分の胸元へ導く。 「緊張しておるのう。可愛い子じゃ」 「か、からかわないでください……」 「からかってなどおらぬ。……ほれ、そなたも」 白穂さまの指が、千景のブラウスのボタンを一つずつ外していく。その手つきはどこまでも優しく、まるで壊れものを扱うようだった。肌が夜気に触れて粟立つと、九本の尾がふわりと千景の体を包み込む。乾きはじめた毛並みは、陽だまりの匂いがした。 「寒くはないか?」 「……あったかいです」 褥の上に横たえられ、白穂さまが覆いかぶさってくる。銀の髪が帳のように二人を囲った。 首筋に、鎖骨に、胸元に、柔らかな唇が降りてくる。白穂さまは一つ口づけるたびに、「綺麗じゃ」「愛しい」と囁いた。千年の時を生きてきた神様の声は、蜂蜜のように甘く、千景の耳から体の芯までとろとろに溶かしていく。 「ん……っ、白穂さま……」 「よい、よい。声を堪えずともよいのじゃ。ここには、わらわしかおらぬ」 胸の膨らみを掌で包まれ、先端を舌でなぞられて、千景は背を反らせた。腰のあたりを尾の先がくすぐるように撫でていく。逃げ場のない甘やかしに、千景はただ白穂さまの肩にすがるしかなかった。 細い指が、内腿をゆっくりと這い上がってくる。 「千景。……触れても、よいか?」 こくりと頷くと、白穂さまは千景の額に口づけを落としてから、いちばん熱い場所にそっと指を沈めた。 「あ……っ!」 「大丈夫、大丈夫じゃ。わらわに任せておれ」 幼い頃、雷に怯える千景をあやしたのと同じ声。けれど今その声が呼び起こすのは、安らぎではなく、体の奥から込み上げる甘い痺れだった。指がゆるやかに動くたび、波が寄せては返す。白穂さまは千景の表情を一つも見逃すまいと、金色の瞳でじっと見つめていた。 「そんな顔をするのじゃな、千景は。……千年生きても、知らぬことがあるものよ」 「見ないで……ください……っ」 「嫌じゃ。ずっと見ておりたい」 やがて大きな波にさらわれ、千景は白穂さまの名を呼びながら、その腕の中で震えた。宙に漂う狐火が、いっせいに明るく瞬いた。 *** 荒い息が落ち着いた頃、千景は身を起こし、今度は白穂さまを褥に横たえた。 「千景?」 「今度は、私の番です。……白穂さまの願いを、私が叶えたい」 白穂さまの耳が、驚いたようにぴんと立った。それから、とろりと伏せられる。 「わらわの、願い……」 「何でも言ってください」 長い沈黙のあと、白穂さまは消え入りそうな声で呟いた。 「……わらわも、甘えてみたい」 千景は微笑んで、白穂さまを胸に抱き寄せた。銀の髪を撫で、耳の付け根を指先で揉みほぐし、尾の付け根に優しく触れる。 「ひゃ……っ、そ、そこは……」 「ここ、弱いんですね」 「言うでない……っ」 いつも余裕たっぷりの神様が、自分の腕の中で頬を染め、甘い声を漏らしている。千景は愛しさで胸がいっぱいになった。白い肌に口づけを重ね、教わったばかりのやり方で、今度は千景が白穂さまを高みへ導いていく。 「ちかげ……ちかげ……っ」 尾が千景の背に、腰に、脚に絡みつき、離すまいとする。白穂さまが果てた瞬間、狐火が花火のように弾けて、座敷じゅうが金色の光に満たされた。 *** 明け方、雨上がりの空には虹がかかっていた。 縁側に並んで座り、千景は白穂さまの尾の一本を膝に抱えて、櫛で梳いていた。 「のう、千景」 「はい」 「明日からも村の者の願いは聞く。それがわらわの務めじゃからの。……じゃが」 白穂さまは千景の肩に頭を預け、照れくさそうに耳を揺らした。 「夜くらいは、そなたに甘えてもよいかの?」 「毎晩でも」 即答すると、白穂さまは声を立てて笑い、千景の頬に口づけた。 拝殿の鈴が、朝一番の参拝客の訪れを告げる。白穂さまは名残惜しそうに立ち上がり、それでも、絡めた指をなかなか離そうとしなかった。 「行ってらっしゃい、白穂さま」 「……うむ。行ってくる」 振り返った神様の笑顔は、今まで千景が見たどの笑顔よりも、幸せそうだった。