**# 第1話 落着予測** **## 2018年 北京** 沈嵐は、2枚の画像を重ねて表示したまま、30分以上動かずにいた。 左は昨年の秋に月周回機が撮った月の裏側、南寄りの高地の一角で、右は同じ場所を今年の春に撮り直した画像だった。太陽の高度は近い値を選んである。クレーターの縁の影の長さも、岩塊の位置も、2枚でほとんど一致する。一致しないのは中央付近の1画だけだった。 そこに、幅のある溝のような筋が走っている。筋は斜面を横切って途中で途切れ、途切れた先には浅い陥没が3つ、間隔を置いて並ぶ。昨年の画像では、同じ斜面は灰色のなだらかな砂地にすぎない。 35歳の沈は、冷めた茶の入った保温ボトルを引き寄せ、蓋を開けたまま口をつけずに戻した。国家天文台の解析室には、サーバーの冷却ファンの低い唸りが満ちている。窓のない壁には、誰かが3年前に貼った月面地質図が、日焼けして反り返っていた。 まず疑ったのは自分の処理だった。位置合わせの誤差、再サンプリングで生じる縞、センサーの劣化。彼女は生データから処理をやり直し、別の補正パラメータでも繰り返した。筋は消えなかった。 次に隕石の衝突を考えた。月面には新しいクレーターが毎年のように生まれている。ただ、衝突であれば放出物が周囲へ飛び散り、明るい放射状の模様を残すはずで、その痕跡は見当たらない。月震による斜面崩壊も検討した。崩壊にしては、筋の走り方が直線的すぎる。光の当たり方が作る錯覚という説明は、太陽高度を揃えた時点で成り立たなくなっていた。 沈は米国の周回機が公開している高解像度画像のアーカイブを開き、同じ一帯を探した。公開されている撮影は、変化が起きたとおぼしい期間の前と後に1回ずつしかない。しかも後のほうは、中央の1画だけ太陽が低すぎて影に沈んでいた。偶然の観測条件かもしれない。向こうは同じものを見ていて、公開していないのかもしれない。どちらとも決められないまま、彼女は公開画像の撮影日時を表に写した。 ドアが開き、上司の温研究員が書類の束を抱えて入ってきた。 「まだいたのか」 「見ていただきたい画像があります。誤差だとは思えません」 温は画面を30秒ほど眺めた。眉の動きが止まる。それから廊下に人がいないことを確かめるように振り返り、ドアを閉めた。 「報告書にできるか」 「原因の説明がつきません。つかないものを、どう書けば」 「観測された変化、とだけ書きなさい。原因は空欄でいい。米国の公開画像との比較は載せるな。載せたら、向こうに見られていると言うのと同じだ。うちの解析精度を、うちが漏らすことになる」 沈は何か言いかけて口を閉じた。次期月面探査計画の予算審査が来月に迫っていることは知っている。温の背中に、研究所の人員の半分の生活がかかっていることも知っていた。 「内部報告の扱いにする。承認は私が取る」 温が出ていったあと、沈は2枚の画像に戻った。重ね合わせの境目をスライダーで動かすと、灰色の斜面に筋が現れ、また消える。消えた瞬間の月は、どこにも傷のない、見慣れた顔をしていた。 **## 2021年 北京航天飛行控制センター** 着陸機が撮影した最初のパノラマ画像が正面スクリーンに展開したとき、管制室の後方から拍手が起きた。 着陸点は異常区域の縁にあたる平坦な谷底で、3年をかけた検討の末に選ばれた。画面の上半分は黒い空で、下半分には灰色の砂地が続く。地平線の手前に、着陸機の脚の影が長く伸びていた。月の昼は地球の時間で2週間ほど続く。彼らに与えられた観測時間は、その2週間がすべてだった。 沈嵐は後方の分析席にいた。3年前に画像の中の筋を見つけた彼女は、いまは異常区域の担当として、この任務の科学チームに名を連ねている。手元の端末には、先週まで何度も作り直した観測計画が表示されていた。小型の走行車が降り、筋の縁に沿って進み、土壌の断面を撮る。それだけの予定だった。 走行車は2日目に降りた。3日目には筋の縁に達し、カメラが砂地の断面をとらえた。層の乱れは、ただの地すべりの痕とは違って見えた。沈は結論を急がないと決め、画像に「要追加観測」と書き込んだ。 着陸から10日目の未明、管制室は静かだった。夜勤の担当者たちが、紙コップのコーヒーを前に画面を見ている。そのとき、加速度センサーの値が一瞬で振り切れた。 「姿勢レート、異常」 若い担当者の声が裏返った。次の瞬間にはバス電圧が落ち、アンテナ指向を示す表示が赤に変わった。受信強度を表す線が階段状に落ち、やがて平らになった。 誰かが再送信の指令を打った。誰かが地上局のスケジュールを確認した。沈は席を立って前方へ歩き、最後に受信された画像をスクリーンに呼び出した。 地平線が傾いていた。傾いた画面の右端から、暗い塊が縁を覆うようにかかっている。レゴリスの陰か、レンズの汚れか、機体の一部の影か。拡大すると輪郭は粒子に溶け、何であるかを言える画素は残っていなかった。 彼女は3日かけて、受信できた全データを調べた。衝撃は1度ではなく、数秒のあいだ継続して加わっている。微小隕石であれば時間はもっと短く、向きも一定にならない。機体は側面から押され、傾き、おそらく倒れた。報告書の原因欄に、沈は「外部からの機械的入力による転倒、原因不明」と記した。 その言葉が、4日後には政府の声明の中にあった。外交部の報道官は、他国による探査活動への妨害行為の疑いがあるとして、重大な関心を表明した。国営放送の画面の下を、同じ文が帯になって流れていく。 沈は帯を見ながら、自分が書いた脚注を思い出した。月の裏側の縁に静止している着陸機を遠隔から壊せる手段を持つ国があるなら、その手段は地上の追跡網に打ち上げの痕跡を残す。何も残っていない。彼女はそう書いた。最終版を確認したとき、その1文は消えていた。 削ったのが誰なのかを、彼女は確かめなかった。保温ボトルの茶は、その日も冷めていた。 米国とロシアの回答は、その夜のうちに届いた。どちらも関与を否定し、逆に中国側へ全データの開示を求めている。自国の追跡記録は見せないままに。 **## 2021年 カリフォルニア州パサデナ** 壁の月面図には、赤いピンが7本刺さっていた。 プリヤ・ラマンは、ジェット推進研究所の会議室でその前に立ち、6本目のピンの横に付箋で日付を書き足した。ロシアの周回機が高度を下げた直後に通信を絶ったのが、先月のことになる。隣のピンは、インドの小型着陸機が降下の最終段階で信号を失った地点を示していた。 月面異常合同解析チームは半年前に発足した。名称は当たり障りのないものにされ、構成員の所属は3つの省庁と2つの国立研究所に分かれている。宇宙軍の連絡将校がひとり、いつも壁際の席に座り、メモを取らないまま全部を聞いていた。 午後の多国間通話は、いつもどおり遅れて始まった。スピーカーフォンの向こうで、モスクワの担当者が、前置きのあとに、米国の周回機が過去数年に撮影した該当区域の全画像の提出を求めた。北京の回線が割り込み、同じ要求を別の言い回しで繰り返した。ブリュッセルは両者に、手続を1つずつ踏むことを穏やかに提案した。 「全画像を出せば、うちの周回機の撮影能力と軌道をそのまま開示することになります」 宇宙軍の将校が、隣のプリヤにだけ聞こえる声で言った。「出せません。皆さんも同じでしょう」 彼の言うとおりだった。プリヤのノートには、各国から届いた断片的なデータの一覧がある。そのどれもが、送ってきた国の能力の輪郭をわずかに含んでいる。それを分かったうえで、誰も出し切らない。 通話が膠着するあいだ、彼女は壁のピンを見ていた。7本のうち、国籍で並べても意味のある模様は出ない。位置で並べると、ほぼ同じ円の内側に収まっていた。 「国籍で並べても、何も分かりません」 彼女がスピーカーの沈黙を割って言うと、各国の席が静かになった。 「場所で並べると、7件とも同じ範囲に入ります。どの国の機体かには関係なく、その区域に入った機体が止まっています」 数秒の空白のあと、モスクワの担当者が言った。「その範囲は、貴国の画像ではどう見えているのかな」 質問の狙いは、彼女の発見よりも、彼女の持つデータにあった。プリヤはそれを理解したうえで、「まだ検討中です」と答えた。 通話は1時間後、次回の日程だけを決めて終わった。会議室に1人残った彼女は、赤いピンの円の中心付近に鉛筆で小さな丸を書いた。そこに何があるのかは、誰にも言えない。探査機が止まる範囲が、その丸の内側に収まっているということだけが、壁に貼った数字から言えることのすべてだった。 **## 2022年 ジェット推進研究所・運用室** 着陸機ケストレルは、丸の外縁から十分に離れた高地に降りた。 運用室の前面スクリーンには、機体前方を向く2台のカメラの映像が並び、その下をテレメトリの数値が流れていく。月までの電波の往復には2秒半ほどかかる。指令を打ってから結果が戻るまで、運用室の全員が小さな間を挟んで動いていた。 プリヤは航法席にいた。いまは合同解析チームの仕事に加えて、この任務の運用にも籍を置いている。着陸から30時間、機体は静止したまま周囲を撮り続け、画像は予定どおりの顔つきで届いていた。稜線は低く、砂地はなだらかで、空は黒い。 31時間目、前方カメラの映像の端で、稜線の影が動いた。 太陽の動きによる影の移動は、一定の遅い速さで進む。いまの動きは速すぎ、しかも途中で止まった。プリヤは自分の席のモニターに映像を引き出し、再生速度を落とした。 稜線の向こうから、何かが現れた。 最初は岩に見えた。灰褐色の表面に、鱗とも装甲板ともつかない継ぎ目が走っている。岩は継ぎ目のところで割れ、そこから赤い組織が湿った光沢をのぞかせた。肉と殻を合わせたようなものが、稜線の上に身を乗り出している。機体の脚の影と比べると、その高さは、着陸機の数倍はあった。 運用室の誰かが、短く息を吸った。 それは動いた。歩くとも滑るともつかない動きで、一定の間隔をおいて前肢のような部分を砂に突き、体を押し出してくる。突くたびに砂が低く跳ね上がり、空気のない空間で、弧を描いて落ちていく。音はない。ヘッドセットから聞こえるのは、運用室の警告音と、誰かの浅い呼吸だけだった。 「画像を保存しろ。全チャンネル。全部だ」 運用責任者の声が、遠くで響いた。 プリヤの手は、キーボードの上で止まっていた。いま見ている映像は、すでに1秒以上前の出来事だった。向こうでは、それは今ごろ機体の目の前に来ている。 次のフレームで、その塊は画面の半分を占めていた。継ぎ目の奥の赤が、はっきり見える。カメラのレンズに砂が散った。傾いた。前肢のようなものが、画面の右上から降りてきて、そこで画面が回転した。 最後の1枚は、灰色の板の一部だけをとらえていた。姿勢レートの表示が上限に張り付いたまま、電圧の線が落ち、通信は途切れた。 運用室は、誰も動かなかった。 プリヤは、自分の席で最後の数10フレームを拾い出し、1コマずつ見直した。2台のカメラの視差から奥行きを出す。塊の位置は、機体との間隔の変化として、数値で並んでいく。影も落ちていた。太陽の方向と一致する角度で、砂の上に、塊の影が伸びている。 カメラの故障であれば、影は生じない。他国の機体であれば、打ち上げの記録が残る。彼女の頭の中で、壁に貼った赤いピンの円が、ひとつの像に重なった。 運用責任者が、背後で言った。「ラマン、確認できたか」 「立体で確認できました。実在する物体です」彼女は自分の声が震えていることに気づき、それを抑えようとはしなかった。「生き物なのか機械なのか、判断がつきません。ただ、動いて、機体を壊しました」 その夜、彼女は最後のフレームを紙に印刷して、自分のデスクのモニターの縁に貼った。 **## 2022年後半 ワシントン** 空軍中佐ダニエル・リーヴスは、その映像を窓のない小部屋で見た。壁も床も防音処理され、携帯端末は預けてある。統合参謀本部の月面状況対処チームに配属されて4か月、彼が受けた説明は、探査機が数機壊れたという事実と、原因は不明であるという言葉の繰り返しだった。そこへ、ケストレルの最後の映像が流れた。 12人いた部屋で、再生中に席を立った者はいなかった。終わってから、誰かが水を飲む音が聞こえた。分析官のひとりが、静止画に固定した1コマを指して、「大きさの基準になるものが、写っていません」と言った。そう言うほかない、という口調だった。 3週間後、その映像の15秒ほどが、匿名の投稿者によってネットに流れた。出所の確認はなく、画質も落ちていて、広がった先の反応はほぼ同じだった。生成AIだろう、よくできている、数年前なら騙されたかもしれない。リーヴスは昼休みに、自分のデスクで画面をスクロールしながら、書き込みを最後まで読んだ。本物の映像の全体を見た人間が、自分を含めて10数人しかいないという事実を思った。 公式発表は、そこからさらに3か月後に行われた。ワシントン、北京、モスクワ、ニューデリー、ブリュッセルほか、複数の国と機関が、同じ日にほぼ同じ時刻に声明を出した。月面に未知の可動体が存在すること、それが複数の探査機の喪失に関与したと評価されること、生物であるか機械であるかは判断できないこと。声明の最後には、地球に到達する能力と意思の有無について、現時点で確認できる事実はない、と書かれていた。各国の宇宙機関が公開した生データには、独立した複数の観測系統の記録が含まれていた。ネットの書き込みの調子は、そこでひっくり返った。 夕方、リーヴスは車で帰る途中、給油のために寄ったガソリンスタンドの売店で、テレビがその声明を流しているのを見た。 「月の上にいるだけだろ」レジの前の男が、誰にともなく言った。「来月の医療費のほうが先だ」 隣の女性は、何も言わずに画面を見たまま、財布から札を出していた。外のポンプのそばでは、少年が携帯の画面を母親に見せている。拡大された映像の1コマが、拡大されるたびに粗くなっていくのが、遠目にも分かった。 リーヴスは、軍服の上着を車に置いたまま給油の列に並んだ。月に何かがいると世界が知らされた夜の、売店の蛍光灯の下で、人々は普通に買い物をしていた。そのことを、彼はどう受け取ればいいのか分からなかった。 **## 2023年から2026年 ワシントン** 上院軍事委員会の公聴会で、ウォレン・ブレナー議員は、証人席のリーヴスの上官に、まず時間を割いてくれた礼を述べた。それから、月面の監視・研究・防衛構想の年次予算の要求額を読み上げた。議事録に載る数字だった。 同じ党のハロルド・オストランダー議員が、その数字の途中で手を挙げた。 「月に何かがいることは、認めます。ただ、月の表面で探査機に近づく何かに対して、我々は何を撃つのですか。弾が届く距離でもない。この金額があれば、同じ年度に、閉鎖が決まった地方の病院を1つでも減らせる。彼らに、なぜ月が先なのかと聞かれて、私は何と答えればいいのでしょう」 質問は、反対のための反対には聞こえなかった。リーヴスの上官は、数秒の間を置いてから、迎撃の手段はまだ仮説の段階にすぎないと認めた。 ブレナーが言い返した。「脅威が確認されてから観測網を作り始めても、完成は確認の後になります。確認の後で足りなかったと分かっても、誰の責任にもならない。それが一番困るのです」 議場は割れた。野党席にも、増額を支持する者と、削減を求める者がいた。与党席にも、同じように2つの声があった。 最終的に通った予算は、要求の半分ほどだった。月周回の監視機が追加され、宇宙軍の追跡センサーの一部が月方面に振り向けられ、NASAと軍の合同解析チームは恒久の組織になった。緊急連絡の計画も作られた。月面に対して攻撃できる兵器の開発も、地球への飛来物を確実に迎え撃つ網の整備も、予算書のどこにも載らなかった。 翌年も、その翌年も、同じ攻防が繰り返された。そのたびに、予算額は少しずつ動いた。 ロシアによるウクライナ侵攻は、3年目、4年目の冬を迎えた。砲弾の備蓄と補給の問題が、国防総省の廊下の会話の中心を占めた。2026年に入ると、米国はベネズエラに対する軍事行動に踏み切り、続いて米国とイスラエルがイランへの攻撃に踏み込んだ。ホルムズ海峡では航行の危機が続き、エネルギー価格の変動が国内の政治を揺らした。 リーヴスの部屋の月面図の上には、いつの間にか、ホルムズ海峡周辺の航路図が重ねて貼られていた。月面状況対処チームは、4人から3人に減っていた。 毎朝6時に、月面監視の1枚の報告書が届く。見出しは「異常なし」で、その日も、その前の日も、同じだった。リーヴスはそれに目を通して署名し、次の報告書の束へ手を伸ばした。 **## 2026年 ジェット推進研究所** 午前2時の運用室で、プリヤ・ラマンは、月周回監視機の定時データを確認していた。4年前に壁に貼った赤いピンの月面図は、いまは端末の画面の中で、毎日更新されている。41歳になった彼女は、合同解析チームの軌道解析班を率いていた。モニターの縁には、色褪せた1枚の印刷が、4年前から貼られたままになっている。 自動検知の通知が、画面の隅に出た。区域の反射率が、3フレーム連続で規定値を超えている。 彼女は画像を開いた。丸の内側の斜面から、塵が細い柱になって立ち上がっていた。空気のない空間では、塵は広がらず、放物線を描いて落ちていく。その柱の先に、塵とは別の、輪郭のある影があった。影は、斜面から離れていく。 「第2の観測系統で、同じ時刻を出して」 若い解析官が端末を叩いた。3分後、別の衛星の画像が出た。同じ影が写っていた。 プリヤは、消去できるものから順に消していった。当該時刻に、地上からの打ち上げ記録はない。衝突閃光の記録もない。2つの独立した機器が同じ像を出している以上、センサーの異常でもない。反射光の強さから見積もられる大きさは、人工衛星の域を明らかに超えていた。 運用室の空気が変わった。彼女は、壁際の席に座る宇宙軍の連絡将校、ティボドー少佐を振り返った。少佐はすでに受話器を耳に当てていた。 「軍の深宇宙追跡網を、月方面に切り替えます。30分で追跡の第1報が来ます」 地上の望遠鏡と、軍の追跡網と、研究所の計算が、並行して動き始めた。最初の軌道解は、解ごとにばらついた。誤差の楕円は大きく、月の近傍に留まる解も、地球をかすめて抜ける解も、同じ表の中に並んでいる。観測点が1つ増えるごとに、解は絞られていった。プリヤは、更新のたびに計算の前提と誤差の見積もりを見直し、軍の解との差を書き出した。 「宇宙軍の第2報です。月の重力圏を離れる軌道です」ティボドーが言った。 3度目の更新で、2つの解の差は、誤差の範囲に収まった。 物体は、地球に向かっていた。 運用室の誰も、すぐには声を出さなかった。プリヤは自分の椅子の背に体を預け、1度だけ目を閉じた。モニターの縁の印刷の、傾いた地平線と、灰色の板の一部が、まぶたの裏に残っていた。 「これからは、目標物体と呼びます」彼女は静かに言った。「月から来たとだけ言える対象です。内部に何があるかは、確認できていません。着地の位置の見積もりは、まだ出しません。誤差が大きすぎます。更新を待ちます」 彼女は受話器を取り、NASAの当直責任者に、短く状況を伝えた。続けて、軍と共有する計算の手順を決め、解析班の全員に、休憩を取る順番を告げた。それから、画面の隅に表示された誤差の楕円を見つめた。楕円は、地表に投影すると、まだ大陸をいくつもまたいでいた。 **## 2026年 ペンタゴン** 国家軍事指揮センターの正面には、大型のスクリーンが横一列に並んでいた。左端はウクライナ戦線の地図で、その隣にペルシャ湾の艦艇の配置、さらに隣にホルムズ海峡周辺の航空と海上の交通が続いている。いちばん右の画面だけは、半日前から別の表示に替わっていた。月と地球を結ぶ細い弧が描かれ、地球側の端は、誤差の楕円となって霞んでいる。 ダニエル・リーヴス中佐は、当直の作戦担当将校として、その画面の見える席にいた。右手の下には、今朝6時に届いた報告書がある。見出しは「異常なし」のままで、日付だけが過去になっていた。彼はそれを裏返して机に置き、冷めたコーヒーを1口飲んで、紙コップを元の位置に戻した。 部屋は静かに忙しかった。航空と宇宙の監視部署から、短い報告が絶え間なく上がってくる。北米航空宇宙防衛司令部の連絡席が、追跡情報の共有状況を読み上げた。民間航空への警告手順の確認は、すでに2度目の読み合わせに入っている。決定を待つ前に準備できることは、すべて机の上に並べられていた。決定そのものは、この部屋の誰のものでもなかった。 月面状況対処チームの3人は、全員が昨夜からここにいた。毎朝の報告書の署名欄に、リーヴスはこの4年、同じ綴りの自分の名前を書き続けてきた。 中央の席から、当直責任者のハリス大佐が通信席へ声を向けた。 「NASAは」 「JPLの軌道解析班が、20分後に第4報を出すと連絡がありました。宇宙軍の解も同じ時刻に出る予定です」通信席のソレンセン少佐が答えた。「両方の解を、そちらの画面に重ねます」 「前回の第3報は」 「地球に到達する軌道は確定。落着の範囲は、北米西部から太平洋にかけての広い帯です。誤差範囲の更新待ち、とのことでした」 リーヴスは右端の画面を見た。楕円は前回より狭くなっている。それでも、大陸の西岸から太平洋にまたがって、沿岸の都市をいくつも覆う大きさだった。どの都市の上にも、まだ線は引かれていない。 通信席の受話器が鳴ったのは、予定より少し早かった。ソレンセン少佐が出て、「こちらNMCC」と短く言い、そこからは聞く側に回った。彼女の左手が、机の上のメモ用紙へ動いた。ペンが1度、止まった。 宇宙軍の連絡席から、先に声が上がった。「宇宙軍の解が出ました。第3報から絞り込まれています。NASAの解との照合を始めます」 照合は数10秒で終わった。画面の楕円が2つに分かれ、1つに重なった。重なった領域は海を離れ、北米大陸の内側へ入っていた。 少佐は受話器を耳に当てたまま、体をゆっくりと室内へ向けた。ハリス大佐が彼女の顔を見た。 「大佐、NASAから最新の報告が入りました」 部屋のあちこちで、キーボードの音が止まった。 「読みます」少佐はメモ用紙の文字を確かめた。「NASAからの最新報告です。落着予測地点は――アメリカ合衆国、カリフォルニア州トゥーレアリ郡。バイセイリア周辺」 最初に動いたのは、航空監視席の若い大尉だった。「バイセイリア」と口にしながら立ち上がり、その拍子に椅子が背後の机にぶつかった。彼が手元の端末に地名を打ち込むと、右端の画面が切り替わり、カリフォルニア州の中央部が拡大された。セントラルバレーの平坦な農地を、幹線道路が南北に貫いている。東にはシエラネバダの山並みが長く延びていた。その平野のほぼ中央に、小さな赤い印が灯った。 「もう1度」ハリス大佐が言った。「地名を、もう1度」 「トゥーレアリ郡、バイセイリア周辺。NASAは、誤差範囲の更新を続けています」ソレンセン少佐が、同じ文を同じ調子で繰り返した。 「宇宙軍の解は」 「重なっています。同じ領域です」連絡席の声が裏返った。 リーヴスは立っていた。いつ立ち上がったのか分からなかった。右手に紙コップを持ったまま、画面の赤い印を見ていた。ハリスが席を立ち、椅子の脚が床を擦った。誰かが電話を取り、別の誰かがもう1台を取り、受話器の向こうへ名前と所属を告げる声が重なっていく。 「議長の執務室に回せ。今すぐだ」 「北方軍に同じ地名を」 「民間航空の担当へ回線をつなげ。発令はまだだ。つなぐだけだ」 「その地名の人口と、周辺の施設の一覧が必要です」 「NASAに、第4報の誤差範囲の全文を送らせろ」 リーヴスは紙コップを机に置いた。コーヒーが縁で揺れ、少しこぼれて、朝の報告書の裏側に染みた。彼は染みに構わず、ハリスの席へ向かって歩き出し、途中で1人の将校の肩にぶつかった。 通信席では、ソレンセン少佐が受話器の向こうの誰かに、もう1度、同じ文を読み上げていた。