「ほら、メディウス。早くしないと置いてっちゃうよ?」 そう言って、彼女は僕の手を取る。 優しくて、柔らかくて、ほんの少しだけ温かい手。 「‥‥別に、そんなに急がなくてもいいだろ」 「だーめ。メディウスってば、すぐお昼寝するんだから。わたしがちゃんと連れていってあげないとね」 得意げに胸を張るファインメルト。 僕よりほんの少しだけ先を歩きながら、彼女は振り返って、にっこり笑った。 「メディウスったら、私が居ないと駄目なんだから!」 「ファインメルトだって、さっき転びそうになってたじゃないか」 「そ、それは‥‥!ちょっと考えごとしてただけだから!」 「ふうん」 「もうっ、メディウスったら!」 頬を膨らませた彼女が、僕の手を少し強く引っ張る。 その仕草がなんだか可笑しくて、僕は思わず笑ってしまった。 すると、ファインメルトもつられたように笑った。 温かな木漏れ日の光が、彼女の横顔を優しく照らしている。 風に揺れる髪も、少し赤くなった頬も、僕を見つめる瞳も。 ファインメルトは、誰にでもこんなふうに振る舞うわけじゃない。 むしろ、知らない人の前では驚くほど静かになる。 急に話しかけられると途端に声が小さくなって、返事をする前に一度助けを求めるようにこちらを見たりする。 初めて会う年下の子が相手でも同じだ。僕の後ろに半分隠れて、服の裾をちょこんとつまんでいることさえある。 なのに、僕と二人きりになると途端にこれだ。 「だ、だからっ。メディウスは放っておくと、すぐふらふらどこかに行っちゃいそうなんだもの。わたしが見ててあげなきゃ、って‥‥」 言い訳みたいに、言葉が次々と飛び出してくる。 でも、その声はだんだん小さくなっていった。 僕は彼女の手を見た。 いつの間にか、さっきまで僕を引っ張っていた指先が、遠慮がちに緩んでいる。 まるで、僕が嫌がったら、いつでも離せるように。 そんなこと、しなくていいのに。 「いいよ」 「‥‥ほんと?」 「うん。別に、嫌じゃないし」  そう答えて、今度は僕のほうから、彼女の手を少しだけ握り返した。 「っ‥‥!」  ファインメルトの肩が、ぴくりと跳ねた。  驚いたように僕を見つめ、それから慌てて前を向く。 「そ、そう! それならいいの! ちゃんとついてきてね、メディウス!」 「分かったよ、で、次の授業ってどっちだっけ?」 「ふふ、任せて。ちゃーんと調べてきたから!」 僕が何か言うより先に手を取って、行きたい場所へずんずん歩いていく。 時々、自分のほうが転びそうになったり、人に話しかけられて僕の後ろに隠れたりするくせに、二人きりになると決まって得意げに笑う。 そんなファインメルトが。 「‥‥あ、あのね、メディウス」 「うん?」 「その‥‥えっと‥‥」 今日はなぜか僕の隣なのに、もじもじしている。 まるで、知らない人の前の彼女のようで。 「‥‥なんでもない」 「そう?」 「う、うん」 なんでもないと言うわりに、彼女の歩き方はどこかぎこちない。 いつもなら半歩先を歩いているはずなのに、今日は僕の隣から離れようとしなかった。 それどころか、時折、肩が触れそうなくらい近づいては、慌てたように少し離れる。 「‥‥メディウス」 「なに?」 「て‥‥」 「て?」 「‥‥手」 ファインメルトの視線が、僕の右手に落ちた。 そして、すぐに逸らされる。 「その‥‥ね?」 「うん」 「‥‥手、つないでも‥‥いい?」  あんまり小さな声だったから、最初は聞き間違えたのかと思った。 「‥‥え?」 「だ、だからっ‥‥!」  ファインメルトは顔を真っ赤にして、僕を見上げた。 「手‥‥つないでも、いいかなって‥‥」 最後のほうは、ほとんどもごもごとして聞き取れなかった。 僕は思わず、彼女の顔をじっと見てしまう。 だって。 「‥‥今さら?」 「い、今さらってなにっ!」 「いや、だってファインメルト、前は何も聞かずに手を掴んで引っ張ってたじゃないか」 「そ、それは‥‥!そうなんだけど‥‥」 彼女は何か言いかけて、口をつぐんだ。 そして、困ったように眉を下げる。 「‥‥だって、前とは違うもん‥‥こ、恋人に‥‥なったから」 その言葉を口にするだけで、彼女の頬がまた赤くなる。 僕までつられて、顔が熱くなった。 「だから、なんだか‥‥手をつなぐの、恥ずかしくて‥‥」 いつものあの、得意げな笑顔はどこにもない。 ただ、僕の返事を待っている。 知らない人に話しかけられたときみたいに、おっかなびっくり。 けれど、逃げたりはしないで真っすぐにこちらを見つめてきている。 「‥‥いいよ」 ようやくそう答えると、ファインメルトはぱっと顔を上げた。 「ほ、ほんと?」 「うん。もちろん‥‥いまさらでしょ」 「‥‥そっか、うん、そうだよね」 ほっとしたように微笑んで、それから彼女は、おずおずと右手を差し出して、途中で止める。 僕の手を見て、自分の手を見て。 指先を少し曲げてみたり、伸ばしてみたり。 「‥‥ファインメルト?」 「ま、待って。今、ちゃんとするから‥‥」 指先が、僕の手に触れる。 ぴくっ、と彼女の肩が跳ねた。 「‥‥っ」 「ファインメルト?」 「な、なんでもない‥‥!」 なんでもないと言いながら、彼女はもう一度、そっと僕の手に触れた。 最初は指先だけ。 次に、手のひら。 それから、僕の指を一本ずつ確かめるようにして、ようやく、きゅっと握る。 「‥‥‥‥」 「‥‥‥‥」 妙に気恥ずかしくて、二人とも黙ってしまった。 昔は、こんなことなかったのに。 ファインメルトはいつも、当たり前みたいに僕の手を握っていた。僕も、当たり前みたいに握り返していた。 なのに今は、彼女の手の柔らかさも、指先の温かさも、やけにはっきりわかる。 互いの心臓の鼓動が伝わる気がする、手に汗をかいてないか心配になる程緊張してしまう。 「‥‥ね、ねえ、メディウス」 「な、なに?」 「‥‥あったかい」 ぽつりと、ファインメルトが呟いた。 昔は、どちらかが転びそうになれば、何も考えずに引っ張り合っていた。 今は、指先が触れるだけでお互いにどぎまぎして、歩く速ささえ少しおかしくなる。 前よりずっと近くにいるはずなのに、前よりずっとぎこちなくなって。 「‥‥メディウス」 「なに?」 「‥‥手、離さないでね」 ファインメルトは前を向いたまま、小さく言った。 僕は、彼女の手をそっと握り直す。 昔は、彼女のほうから僕の手を引いていた。 少しお姉さんぶって、得意げに笑いながら。 恋人同士になったばかりの頃は、あんなに照れていた。 『‥‥メディウス。手、握ってもいい?』 そんなふうに、おそるおそる尋ねてきたこともある。 それが今では。 「メディウス、ちょっと見て?」 「ん?」 呼ばれて振り返るより早く、僕の左手が温かくなった。 ファインメルトが、ごく当たり前のように僕の手を握っていた。 指を絡めるわけでも、強く引っ張るわけでもない。 ただ、そこに僕の手があったから、握った。 そんな自然さだった。 「このお店、前に話したところだよ。覚えてる?」 「ああ。焼き菓子がおいしいって言ってた」 彼女は店先を覗き込みながら、僕の手を握ったまま歩いていく。 午後の陽射しが降り注ぐ石畳の道、ファインメルトの左手には買い物籠。 右手は、僕の左手と重なっている。 「そうだ。メディウス、今夜は何が食べたい?」 「ファインメルトの作るものなら、なんでも」 「もー、そういうのが一番困るんだよ?」 そう言って、少し頬を膨らませながらも、楽しそうに笑う。 「じゃあ、シチュー‥‥出来れば、虹色じゃない奴で」 「もう、メディウスったら。芸術が分かってないなぁ?」 「‥‥ご飯に芸術性って必要かなぁ、それも前衛的な奴」 「‥‥もう!日々の彩りは大事だよ?」 「彩りって、そういう意味じゃないと思うんだけどなぁ‥‥」 笑いあうなかで、ファインメルトは握った僕の手をきゅっと強めた。 僕も自然と、彼女の手を握り返す。 指と指が、しっかりと絡む。 「‥‥メディウス?」 「ん?」 「どうしたの? にこにこして」 「‥‥なんでもないよ」 「ふふ。変なの」 ファインメルトはそう言って笑い、僕の腕にそっと身を寄せた。 昔は、僕の前を歩いて引っ張ってくれて。 恋人になってからは、僕の隣で恥ずかしそうに手を差し出していた少女。 そして今は。 「‥‥ねえ、ファインメルト」 「なあに?」 「これからも、よろしくね」 彼女は少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、すぐに花がほころぶように、ふわりと笑った。 「‥‥うん」 そして、つないだ手をぐっと握る。 「こちらこそ。これからも、ずーっとよろしくね。メディウス」 僕たちはまた歩き始めた。 もう、どちらが先を歩くこともない。 どちらが手を引くのでもない。 ただ同じ速さで、同じ道を歩いていく。 時々、彼女の指が僕の指を撫でる。 僕がそれに応えると、彼女は何も言わずに微笑む。 きっとこれからも、こうやって過ごしていくんだろう。 ずっと、ずっと‥‥繋いだ手の温度が、離れないことを祈って。 その温もりを抱いて、僕たちは静かに家路についた。