一手前 師匠の榊九段が死んだのは、七夕の朝だった。医者は心臓発作と診断した。 その三日後、線香をあげに訪ねた私を、玄関で迎えたのは、師匠の一人娘の澪だった。 二十二歳。大学の数学科に通っている。 私たちは二年前から付き合い、彼女の卒業を待って結婚するつもりでいた。 師匠にその許しを求めたのは、亡くなる少し前の晩だった。 「島田さん。父の日記を、一緒に読んでもらえますか」 澪は私を座敷に通し、小さな手帳を差し出した。 私は表紙に手を置いた。 この手帳を見るのは、初めてではなかった。 地方から出てきた私に、師匠は部屋と食事を与えてくれた。 将棋以外に何もできなかった私を、棋士になるまで育ててくれた。 恩人だった。そのことに間違いはない。 プロになってからも、私は何かを変えるたびに師匠に相談した。 研究会を移るとき。部屋を借りるとき。 相談のつもりで話し始めて、いつの間にか許しを求めていた。 「まだ早い」 そう言われれば、それ以上は進めなかった。 澪との結婚についても、返ってきたのは同じ言葉だった。 「おまえは、自分のことも満足にできていない」 私は、その日の対局で師匠に勝っていた。 それでも、ひと言も言い返せなかった。 「誰がおまえを、ここまで食わせてきたと思っている」 畳に置いた私の手が、少し動いた。 その言い方をされたのは、初めてだった。 「私たちは、お父さんの駒じゃない」 澪が言った。 師匠は娘を見たあと、私を見た。 私が何か答えるのを待っていたのかもしれない。 だが私は、頭を下げたままだった。 帰り道、澪は私の袖を引いた。 「反対されたままでも、二人で暮らせばいいでしょう」 「もう一度、先生と話してみる」 「また、そう言うのね」 私は澪と暮らす部屋を探してすらいなかった。 いつも師匠に言われていた。 お前の指し手には考えが足りないと。 「最後のページなんです」 澪が手帳を開いた。 子供のころから、よく考える娘だった。 私がまだ詰将棋の読み筋を追っているうちに、答えを口にすることがあった。 師匠もそれを面白がった。誕生日の祝いまで暗号にして渡し、澪が解くのを待つ。 「おめでとうって、普通に言えばいいのに」 澪が笑うと、師匠は「普通に言ったら、それで終わりだ」と言った。 師匠の字は大きかった。 掌に収まる手帳に、句読点も一字ずつ、律儀に並べてある。文字だけは、いつも決まった場所に収まっていた。 最後の日付は、七月六日だった。 七月六日 歩をろくに前へ出せ ず、めずらしく負け た。きっと歳のせい だ。がらにもなく、 少しえらそうに言っ た。まだ遅くはない が、お茶が冷めてい る。明日は私から話 しかけてみようか。 澪は、最後の一行をしばらく見ていた。 「何か、隠していると思いますか」 私はもう一度、日記を読んだ。 負けた将棋。冷めた茶。明日の話。 あの朝に読んだのと、同じ文章だった。 「先生らしい日記だと思うよ」 「はい」 澪はうなずいたが、手帳を閉じなかった。 「七月六日……」 その指が、書き出しのあたりで止まった。 机の脇には将棋盤があった。駒は、平手の初形に並べてある。 澪は歩を一つ進めた。 それから、元の升へ戻した。 私は、幼かった澪に師匠が将棋を教えていた日のことを思い出した。 「筋は右から、段は上からだ。先手の歩は、ひとつ上へ進む」 師匠は澪の小さな手を取り、歩を動かした。 「初手、七六歩。なら、一手前にはどこにいた」 澪が答えると、師匠は満足そうにうなずいた。 「行き先ばかり見るな。出発点を忘れるな」 いま、澪は黙って日記を読んでいた。 私は、彼女が顔を上げるのを待った。 庭で何かの葉が擦れる音がした。 やがて澪が言った。 「おまえがきめろ」 私は、手帳から目を離せなかった。 「父が、隠した言葉です」 澪は少し笑おうとして、やめた。 「私たちのこと、考え直していたのかもしれません」 七文字を聞いたあとでも、日記の見え方は変わらなかった。 同じ字が、同じ場所に並んでいた。 ただ、最後の一行だけが、ひどく読みづらくなった。 明日は私から話しかけてみようか。 その明日に、私が訪ねた。 師匠は、何か言いかけた。 私はその前に、茶を勧めた。 心臓に王手をかける薬入りの。 「明日、話すつもりだったんですね」 澪が言った。 「……遅かった」 口にしてから、私は顔を上げた。 澪がこちらを見ていた。 「何がですか」 私は答えられなかった。 湯呑みを洗った手の感触を、覚えている。 師匠の机を調べた。手紙を確かめ、日記も読んだ。私の名前があれば、その紙は持ち帰るつもりだった。 何もなかった。 そう思って、元の場所へ戻した。 「先生を殺したのは、私だ」 澪の手が、手帳から離れた。 窓の外を車が通った。 外から聞こえる車の音が消えるまで、私は何も言えなかった。 「どうして」 私は、あの夜に言われた言葉を繰り返そうとした。 誰が食わせてきたと思っている。 まだ早い。 おまえはプロの世界では勝てない。 けれど、それを口にする前に、澪が帰り道で何と言ったかを思い出した。 反対されたままでも、二人で暮らせばいいでしょう。 私は黙った。 澪も、何も言わなかった。 私は彼女の顔を見ていた。次に何をすればいいのか、また誰かに教えてもらおうとしていた。 しばらくして、澪は手帳を閉じた。 「自首しても、私は許せないかもしれません」 私はうなずいた。 「でも、どうするかまで、私が代わりに決めることじゃありません」 手帳が、私の前に戻された。 私は、向かいの空いた座布団を見た。 いつもなら、私が指す前に先生の声が飛んできた。 考え直せ,一手戻せ。おまえには、まだ早い。 いまは、何も聞こえない。 「おまえがきめろ」 澪が読み解いた七文字だけが、頭の中に残っていた。