①  朝の教室に入ると、日野 勇太は肩幅を確かめるように背を丸めた。  182cmの身体は、机の並ぶ通路を歩くには少し嵩張る。濃紺のブレザーが机を擦らないよう鞄を胸の前に抱え直し、長い赤毛の前髪と眼鏡のフレームで視界の上半分を遮った。 窓際に集まった数人の声が、朝の乾いた空気を揺らしている。 「昨日の行事の打ち合わせ、B組の久世君が全部回してくれたんだって」 「さすが光の彼氏だよね。先生からも頼られてるし、見てて気持ちいいもん」  クラスメイトの森下 紗季の明るい声だった。足元では白い耳を垂らしたテリアモンが、机の脚に背を預けてのんびり首を振っている。別クラスの久世 玲司の名前は、このA組でも当たり前のように通っていた。  勇太はそちらを見ないまま、席へ抜ける狭い隙間を選んだ。後ろをついてきたヴォーボモンが、黒い鱗の尻尾で床を軽く叩く。  その時、前の席で立ち上がった瀬尾 奏の手から、資料の束が滑り落ちた。隣のコテモンが短い腕を伸ばしかけて止まる。  勇太の足先に白い紙の角が当たった。拾って渡せば済む距離だった。膝を折りかけた瞬間、横から赤橙色の爪が飛び出した。 「僕に任せて!」  ヴォーボモンが鼻先を突っ込み、勢いよく前足をかけた。乾いた音を立てて留め具が外れ、紙の束が扇状に崩れて床へ広がる。 「あっ」  ヴォーボモンの短い声が落ちる。勇太は何も言わず、すぐに片膝をついた。散らばった紙を一枚ずつ引き寄せ、印字の上下を確かめて指先で端を揃える。  ヴォーボモンも慌てて端の一枚を押さえたが、爪の先が紙の縁をわずかに折ってしまった。  窓際から、くすっと空気が漏れる音がした。 「朝から賑やかだね、日野君のところは」  紗季の軽い声に、テリアモンも「いっぱい広がったねえ」と眠そうに相槌を打つ。 「ありがとう、日野君。助かったよ」  一緒に屈み込んだ奏が、束を受け取りながら言った。コテモンも面の下で小さく頭を下げる。 「…ううん。崩したの、こっちだから」  勇太は紙の角をもう一度だけ指で揃えて手渡し、立ち上がった。奏の礼は確かに聞こえていたのに、耳の奥に残ったのは窓際の笑い声の温度ばかりだった。席に鞄を下ろすと、机の下へ潜り込んだヴォーボモンが、丸めた背中を勇太の脛に押しつけてきた。 …  昼休みのチャイムが鳴り終わる頃、鬼塚光の机の周りには自然と人が集まっていた。 「選択科目の提出先、どこだっけ」 「職員室の前の箱だよ。あとで一緒に行ってあげようか」  友人の相談に答えながら、光は紙パックのジュースにストローを刺した。机の脇で赤い鼻先を上下させていたギルモンが喉を鳴らす。 「光、ギルモンの分は?」 「分かってるわよ。はい、クリームのパン。袋、破かないように開けんのよ。」  紙ナプキンの上に置いてやると、ギルモンは短い前足で押さえて口に入れた。その頭を撫でてから、光は椅子の背に掛けていた鞄を引き寄せた。  金具に、小さなテイルモンのぬいぐるみのひもが引っ掛かっている。指先でひもを直し、左耳の付け根へ親指を滑らせた。そこだけ、水色の糸で三針ほど縫い直した跡がある。昔、母の秋子が直してくれた縫い目だった。  糸の感触が指の腹に触れ、小学生の頃の記憶が浮かぶ。  このぬいぐるみをからかわれた日、言い返せずにいた光の前へ立った少年がいた。特別に強いわけでも、立派な言葉を知っていたわけでもない。ただ「やめろよ」と声を出し、地面に落ちたぬいぐるみを拾って、光の手へ返してくれた。あの時の少し震えていた手を、光は覚えている。  光は耳の縫い目から指を離し、教室の隅へ目を向けた。  窓から遠い席で、勇太は前髪の奥に視線を伏せたまま、スマフォから顔を上げない。机の下の黒トカゲと小声で話すだけで、誰とも関わろうとしない。  (…)  どうしてあんなふうに縮こまっているのか。自分から壁を作って、傷つかない場所で楽をしているだけだ。 「ねえ光、今度の行事も久世君が仕切るんでしょ? ほんと頼りになるよね」 向かいに座った紗季が、スマフォから顔を上げて笑いかけてきた。 「え? ああ、うん。そうね」  半拍遅れて、光も口角を上げた。クリーム色のベストの裾を机の下で引き、紗季の声に調子を合わせて笑う。その後ろで、鞄のひもを指先がもう一度だけなぞった。 ②  放課後の教室には、傾きかけた陽が差し込んでいた。  勇太は特美研の部室へ行くため、鞄を肩に掛けて後ろの出口へ向かった。引き戸の前では、光が行事の当番表を手に立ち止まっている。 足元のギルモンが「光、今日はすぐ帰るって言ってたのに、またB組のところ行くの?」と首を傾げた。 「断ったんだけど、久世がもう名前書いちゃったから」  光は小さく息を吐き、近づいてきた勇太に気づいて視線を上げた。 「なに。通るなら開けてよ」  引き戸に手を掛けたまま、勇太は光の手元の紙を見た。光の指先が、ぬいぐるみの揺れる鞄のひもを強く握り直している。それを見た瞬間、口から言葉が落ちた。 「…鬼塚さん、断ったんだよね。あの人、嫌がってても、聞かないじゃん。昨日も他の人の話を遮って決めてたし」  普段のぼそぼそとした声より、輪郭がはっきり出てしまった。  光の肩が揺れ、赤紫色の目が真っすぐに勇太を向いた。 「は? 日野に何が分かるの」  白銀の髪が揺れ、強い語尾が出口に響く。勇太は半歩後ろへ引きかけ、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。 「いつも隅で下向いてるだけの陰キャオタクが、知ったような口利かないでよ。久世はみんなのために動いてるの。何もしてないあんたに言われる筋合いないでしょ」  足元でヴォーボモンが「勇太は変なこと言ってないよ」と身を乗り出し、ギルモンが「日野が光を怒らせたんだぞ、黒いの」と鼻を鳴らして前に出る。 「ヴォーボモン、いいから」 「ギルモンも、こんな黒トカゲなんか相手にしなくていい」  二人に止められ、ヴォーボモンとギルモンは互いを睨みながら鞄の陰へ引っ込んだ。  勇太は床に視線を落とした。あんな言い方をやめればよかったと、喉の奥が苦くなる。けれど、さっき光が見せた困ったような横顔と、 自分が口にした中身だけは、取り消したいとは思えなかった。 「…そうだね」  短く切って、勇太は光を見ないまま教室を出た。窓に映る自分の猫背から目を逸らし、特美研のある棟へ曲がった。  特美研の部室の引き戸を開けると、換気扇の低い唸りとともに、乾燥しかけた塗料と木屑の混ざった匂いが鼻先を突いた。  中央の作業机の上には、勇太が貼り重ねている最中の繊維強化プラスチックの胸部装甲が置かれている。伝票を持たせたヴォーボモンが購買へ資材の受け取りに出ているため、室内には顧問の千年桜 織姫と勇太の二人だけだった。 「遅かったじゃないか、日野君。待ちくたびれて、この角を勝手に私様好みの漆黒に染め上げるところだったぞ」 146cmの小柄な理事長兼顧問は、義足の左足を丸椅子に浅く乗せ、金髪の毛先を鮮やかな橙色に揺らして筆を回した。 「…やめてください。そこ、暗くすると、スタジオの照明を当てた時にディテールが全部潰れますよ」 「潰れるかね? 影が濃い方が、闇から這い出してきた凄みが出ると思うのだがね」 「そういうものですか?カメラ詳しくないんすけど…スマフォのカメラとかだと潰れるように思うんすけど」「ふふ、まだまだだね、ビルドのハザードフォームみたいな凄味が出るんだよ」  織姫はスプレーガンを置き、削りかけの装甲を持ち上げると、卓上のアームライトにかざした。勇太は眼鏡を押し上げ、長い前髪の隙間から手元を見る。 「斜めから光が入った時に、塗料の黒が光を吸っちゃって…段差の影とベースの境界が白飛びして、ただの塊に見えるんです。  映像に残すなら、青み寄りの濃いグレーで一段落とすくらいが一番…」  早口になりかけたところで、自分が話しすぎていることに気づいて言葉を切った。教室なら、誰かが笑うか、聞き流して別の話題を被せてくるところだった。  だが、織姫は装甲の角度を細かく変えながら、ライトの照り返しをじっと見つめているだけだった。勇太の言葉が途切れても急かさず、パテの粉を指先で払い、次の言葉を待っている。ここでは、話し終わるまで待ってもらえる。 「…だから、その、一段明るい色で試したいんです」 「なるほどね。光の反射角の計算か。小道具の質感に嘘をつかない姿勢は嫌いじゃないよ」  織姫は満足そうに頷き、装甲を作業マットの上に戻した。勇太は胸の奥で小さく息を吐き、工具箱の横から試作中の変身スキャナーを取り出した。  小型カメラと液晶画面、高輝度のLEDを組み込んだ撮影用の小道具だ。  スイッチを入れるとオレンジ色の光が放たれるが、背面の液晶には白く滲んだ光の反射が広がり、装甲の表面は白飛びして輪郭がぼやけていた。 「相変わらず眩しいな。目眩ましには満点だが…」 「演出用の光が強すぎて、ヘッドの目のライトしては…目潰しを兼ねてるのかい?」  特撮美術研究部…特美のスーツは、その実用性を重視していた。  特撮のスーツはあくまで、番組用の映えを重視する…多くのヒーローの物語で語る実用性、戦闘能力と番組としての映え、有り体に言ってしまえば外連味とは真逆である。  しかし、特美はそのスーツに敢えて実用性の物語を独自の解釈で加える。それがスーツに本物としての意味を持たせる。  織姫が自身の作り上げる物にどういった意味合いを籠めてるのかを勇太は知らない。それは、本人達の深いところにある思想であり、本人が語るその時までは他人がどうこう言うべきではないと勇太は考えていた。  ある漫画で読んだ表現が的確に思えたのは「他人に自分のケツの穴を見せたりはしない。そういうものだ。」恥部と言いたい訳ではないが、それを晒し合うという事は、情事の様に心を重ねる事であると考えた。  勇太にとってスーツの意味は、現在作成しているコピー品でもなく自身だけのオリジナルの仮面ライダーのスーツが示す通り、まさしく「変身」であった。  勇太は細いドライバーで可変抵抗を回し、出力を絞ってレンズの角度をわずかに下へ傾けた。画面の白飛びが収まり、装甲の溝が陰影を伴って浮かび上がる。 画面を見つめる勇太の指先が止まった。散らばったプリント、窓際の笑い声、放課後に出口で光から浴びせられた言葉が喉の奥を刺す。 「…本物のヒーローなんて、現実にはいないですけどね」  ドライバーを置いた指先が机の端をなぞる。 「助けようとしても、やり方を間違えて笑われるだけです。本当は…それなら…きっと最初から何もしない方が、迷惑にならない」  織姫は勇太が感じ取った方向を見て、少年の性格から大まかな出来事を悟った。  この少年とは短い付き合いであるが、ある意味ではとてもまっすぐでナイーブな内面を織姫は知っていた。  織姫は、スーツのパワードスーツ部分の動作におけるテストプログラムを起動させて、静かに言った。 「君は…好きなもの…自身の心にあるヒーローまで、周りに決めさせるのかい?」 「え…」 「日野君…よく語られる話であるが、ライダーと怪人は元は同じもの…だがその両者を別けたものはなにか考えてみるといい。  心までは自分で消してしまわないことだ。さ、ヴォーボモンが戻る前にハンダ付けを終わらせなよ」  勇太は黙ってハンダごてのスイッチを入れた。先端から立ち上る熱が、冷えた空気をわずかに押し広げる。 ③  下駄箱の並ぶ昇降口で、久世 玲司が光の鞄に手を伸ばした。 「光、荷物重そうじゃん。半分持ってやろうか?」 「いいよ、別に重くないし」 「遠慮すんなって。彼氏に鞄持たせるくらい普通だろ?」  隣で紗季がくすくすと笑う。 「いいなあ、久世君ってほんと気が利くよね。光が羨ましいよ」 「だろ? 紗季ちゃんも手伝いいるなら言ってよ」 久世が軽く手を挙げ、周囲が楽しげに笑い合う。光は口元に笑みを貼りつけ、鞄を引き寄せた。 「ありがと。でも大丈夫だから」  渡り廊下の角を曲がり、紗季たちが離れて二人きりになると、久世の歩調が緩んだ。 「さっきの備品運びさ」 低くなった声に、光の背筋がかすかに強張る。 「なんで断ろうとしたわけ? 俺、光と一緒にやりたかったから枠取ったのに」 「…家の方で用事があるって、昨日も言ったでしょ」 「すぐ終わる用事だろ? それに最近返信も遅いしさ。付き合ってるんだから、俺の予定にも合わせてくれてもよくない?」 怒鳴るわけでもなく、自分が正しい前提の穏やかな声で横顔を覗き込んでくる。 「空気悪くしたくないんだよね。みんなの前で断られると、俺の立場もないしさ」 「立場って…」 言い返そうとして、言葉が喉でつかえた。ここで拒絶すれば明日の教室がどうなるか。紗季たちの怪訝な顔が浮かび、光は視線を逸らした。 「…悪かったわよ。次から気をつけるわよ」 冗談めかして受け流すと、久世は満足そうに口角を上げた。 「分かればいいよ。じゃ、部活終わったら連絡するから。借りてたノート持ってきて」  去っていく背中を見送り、光は足元を見た。知ったような口利かないでよ、と日野にぶつけた言葉が蘇る。縮こまっていると馬鹿にしたあいつより、顔色を窺って言葉を飲み込んでいる自分の方が、よほど逃げているのではないか。その痛みが胸に刺さっていた。  薄暗い自宅のリビングに入り、壁のスイッチを押して蛍光灯を点けた。  ダイニングテーブルの上には、母の秋子が用意した総菜とメモが一枚置かれていた。 『光へ。二人とも職員会議と作業が長引きそう。冷蔵庫に煮物があるから、温めて食べてね。遅くなってごめんね。』  丁寧な文字の横には、父のティーバッグの小皿がある。愛されていることは分かっている。それでも、静かな部屋の中で二人分の席が空いているのを見ると、胸のあたりに小さな冷たい隙間が空いた。 「光、お腹すいた?」 後ろから入ってきたギルモンが、赤い耳を揺らして膝に鼻先を擦り寄せてきた。 「うん?いや、まだよ。」  椅子に腰を下ろすと、ギルモンが寝床のクッションから何かを咥えて戻ってきた。テーブルの上に置かれたのは、昼のクッキーの残り半分だった。 「これ、光の分」  ギルモンは前足で小袋を押し出し、光を見上げた。 「あんた、自分の分なくなっちゃうじゃん」 「ギルモンはもう食べたからいいの。光、お昼あんまり食べてなかったから」  何の計算もない目に、光は小さく笑って袋をつまんだ。 「ふっ、ありがと。じゃあ、あとで半分ずつにしましょうか。間食のし過ぎは乙女の敵だしね。」 「は~い、敵~。」  頭を撫でていると、スマートフォンが震えた。久世から『部活終わった。いつもの橋の近くで待ってる』とメッセージが入っている。  借りていたノートを返せば済む。それだけ渡して、すぐ帰ってくればいい。 「ギルモン、ちょっと出るよ。すぐ戻るから」 「ギルモンも行く!」  ノートを鞄に入れ、玄関へ向かった。ドアノブに手を伸ばし、鍵を掛ける直前、光はふと立ち止まって鞄のテイルモンのぬいぐるみに指を触れた。水色の三針の縫い目を親指で確かめると、少しだけ指先に力が戻る気がした。 ④  川沿いの遊歩道には、夕暮れの冷たい湿り気が立ち込めていた。  借りていたノートを渡し終えて踵を返そうとした光の腕を、久世の手が背後から掴んだ。ブレザーの袖の上からでも、指先の強さが伝わってくる。 「待てよ、光。まだ帰る時間じゃないだろ」 久世は遊歩道から逸れる、街灯の届かない河川敷の階段の方を顎で指した。 「あっち、静かだし少し話そうぜ。ノート渡してすぐバイバイなんて寂しいじゃん」 「…今日はもう帰るって言ったでしょ。手、離して」  光は腕を引いたが、久世の指は解けなかった。苛立ちを押し隠した笑みが、薄暗がりの中で光の顔を覗き込む。 「付き合ってるのに、なんでそんなに警戒すんの? 俺のこと信用してないわけ? 彼氏なんだから、これくらい普通だろ」 「そういうのはまだ嫌だって、前にも言った」  断定的な声で拒絶し、もう一度強く引いた。だが、久世は掴む位置を手首へと滑らせ、距離を詰めてくる。 「光、離して!」  足元からギルモンが割り込もうとした瞬間、青いボクシンググローブをはめたガオモンが、無言でその進路を塞いだ。ギルモンは歯を剥いてガオモンを睨みつけながら、光の足元と帰路を庇うように低い姿勢をとる。 「嫌だって言ったでしょ。離して!」  光の声が、夕暮れの川面に鋭く跳ね返った。  少し離れた橋の袂の陰で、部活帰りの勇太は足を止めていた。  身体をコンクリートの橋脚に押しつけ、ポケットから端末を取り出す。画面には教員の緊急連絡先が表示されていた。だが、通話ボタンを押そうとする指が硬直する。  ―知ったような口利かないでよ。  放課後の光の冷たい声が脳裏をよぎる。今ここで自分が割って入れば、また邪魔扱いされるのではないか。助けようとして余計に事態を悪化させ、笑われるのではないか。失敗への恐れが足元に鉛を流し込み、一歩が踏み出せない。 「離して!」  もう一度、光の鋭い声が聞こえた。  自分の足がすくんでいる情けなさを恥じる間もなく、足元から小さな影が飛び出した。 「勇太、どうするの? …僕、行くよ!」  ヴォーボモンが恐怖を振り切るように叫び、短い足でアスファルトを蹴った。 その背中を見た瞬間、勇太の足が勝手に動いていた。 「その手を、離してください!」  勇太は橋脚の陰から飛び出し、二人の間へ割って入った。  久世が不快そうに舌を鳴らし、振り返る。 「またお前かよ、日野。鬱陶しいんだよ!」  久世が光の手首を離すと同時に、踏み込んできた。  鈍い音とともに、勇太の頬に強い衝撃が走った。殴られた痛みに視界が傾き、眼鏡が鼻先からずり落ちる。 「勇太!」  ヴォーボモンが爪を立てて久世の足元に飛びかかり、光も久世の胸元を力任せに押し返した。 「なにしてんのよ! やめて!」  勇太は膝をつきかけながらも眼鏡を掛け直した。光が久世の手から逃れ、四人が揃って後退する。 思い通りにならない苛立ちから、久世の顔が歪んだ。視界に入った光の通学鞄の金具に乱暴に手を掛け、引っ掛かっていた白い塊を、顔も 見ずに引きちぎった。 「うぜえんだよ!」  久世が腕を振り抜き、白いものが夕闇の空へ放り投げられた。 「あ――っ!」  光の悲鳴が裂けた。  重い水音が川面から響く。水飛沫の向こうへ沈んでいったのは、左耳に水色の糸が残る、テイルモンのぬいぐるみだった。  管理歩道の向こうから、犬の散歩をしていた近隣の住民が声を上げて近づいてくる足音が響いた。光の拒絶と、殴られても退かない勇太の視線、そして第三者の接近を悟り、久世は舌打ちをした。 「…行こうぜ、ガオモン」 久世は背を向け、足早に闇の中へ去っていった。倒されたわけでも、反省したわけでもない。ただ場が悪くなったから離れただけの足取りだった。 ⑤  川沿いには、水流の音だけが残されていた。 光は勇太たちに背を向けたまま、護岸の斜面へ駆け寄った。泣いている顔を見せまいとするように唇を噛み締め、浅瀬へ足を踏み出そうとする。 「光、ダメ! 服濡れちゃう、危ないよ!」  ギルモンがブレザーの裾を必死に咥えて引っ張り、光を安全な管理歩道へ引き戻した。  勇太は光の震える肩へ手を伸ばしかけ、触れてよいのか分からず、指先を空中で引っ込めた。 「…あ、えっ…俺も、探すよ」  慰めの言葉など何ひとつ思い浮かばない代わりに、鞄から試作中の変身スキャナーを取り出した。 「それ…部活のおもちゃでしょ」  ギルモンが掠れた声で言いかけたが、勇太がスイッチを入れると、調整された青白いLEDが川面を扇状に切り裂いた。橋の下の暗がりが液晶画面に映し出されると、ギルモンも息を呑んで画面を覗き込んだ。  四人で歩道から目を凝らし、水面を追う。だが、夕方の冷たい風に波立つ水面は照明を激しく乱反射させ、光が跳ね返るばかりだった。 「あそこ、白いのがある!」 ヴォーボモンが指さした先へスキャナーを向ける。だが、ズームした画面に映ったのは、水草に引っ掛かった破れたレジ袋だった。 「違う…あれじゃない」  光の掠れた声が落ちる。  川の流れは緩やかだったが、暗闇は容赦なく広がり、白い影はどこにも見当たらなかった。  勇太は唇を噛み、スキャナーの角度を慎重に変え続けた。助けようとして飛び出したのに、結局殴られ、目の前で大切なものを奪われてしまった。何も格好いいことなどできなかった。  光は勇太の方を見ないまま、唇を震わせた。 「別に…あんたに頼んでなんか…」  言いかけて、その言葉は途中で途切れた。最後まで拒絶の言葉を紡ぐことができず、光はきつく俯いた。  画面の中で揺れる青白い光の反射と、光が強く握り締めた鞄の、千切れて空になった細いひもだけが、夕闇の冷気の中に残されていた。  完全に陽が落ちると、川沿いの気温は急速に下がっていった。  水面を照らす青白い光の届く範囲は限られており、流れていく水と護岸の隙間は黒い口を開けているばかりだった。足元でギルモンが、光の冷え切った指先に自分の温かい鼻先を擦り寄せた。 「光、手、すごく冷たいよ。もう帰ろう?」  その声に、光の奥歯が小さく鳴った。  見つかるわけがない。川の流れがどれほど穏やかでも、布製の小さなぬいぐるみは水を吸って沈むか、下流の暗闇へ流されてしまったに違いない。ここに残って探せば探すほど、失ったという事実だけが浮き彫りになる。何より、頬を腫らした日野の前でこれ以上惨めに立ち尽くすことも、怪我までさせた相手に迷惑を掛け続けることにも耐えられなかった。 「…もういい」  光は掠れた声で言った。 「もういいから。あんたたちも帰って」 「えっ、あっ…だって…。」  勇太が驚いたようにスキャナーから顔を上げたが、光はそれを見ずに背を向けた。千切れた鞄のひもを握り締め、早足で遊歩道の街灯の下へと歩き出す。  自宅に戻ると、光は遅れて帰ってきた両親へ、適当な嘘の話を手短に話した。秋子とジンバーアンゴラモンは光の無事を確認し、硬い表情で話を聞き届けてくれた。一人で抱え込まずに話せたことで、喉の奥の強張りはわずかに緩んだ。 光の了承を得て、ギルモンが連絡アプリから勇太のアカウントへ短いメッセージを送った。 『光、おうちに着いたよ。日野さん…あとヴォーボモン、ありがと。』 画面を見つめる光の横で、ギルモンは静かに端末からのアクセスを閉じた。  端末の画面に届いたギルモンからの短い文面を見て、勇太は小さく息を吐いた。光が無事に家へ着いたことが分かり、胸の奥のつかえがひとつ下りる。 「勇太、光、帰っちゃったね」 足元でヴォーボモンが首を傾げた。スキャナーの青白い光が、管理歩道のアスファルトを丸く照らしている。 「…うん。でも、俺、もう少し探すよ」 「帰れって言われたのに?」 「恩を売りたいわけじゃないんだ…えっとそういうのじゃなくて…」  勇太は眼鏡のフレームを押し上げ、川面の暗がりを見つめた。 「あのぬいぐるみ、鬼塚さんのお母さんが昔縫い直してくれたやつなんだ。昔から大事にしてたの、知ってるから。…まだ、探せる場所があるなら、探したいんだ」  捜索は、地道で単調な作業の繰り返しだった。  深夜を回り、風の冷たさが制服のブレザーを通り抜けていく。 「勇太、あそこ! 白いのが引っ掛かってる!」  ヴォーボモンが身を乗り出した先へ、勇太は慎重に引き上げたのは…水を含んで重くなった、泥まみれの厚紙の切れ端だった。 「…また…紙だ。この川変な噂でも流れてるのかな…。」  勇太の呟きに、ヴォーボモンがその場にへたり込んだ。 「ごめん…僕、見間違えた。僕がもっとちゃんと見てれば、なんの役にも立たないのに…」 丸まった相棒の背中を見て、勇太の口から自然と言葉が出た。 「そんなことない。ヴォーボモンが見つけてくれようとしたから、確かめられたんだよ。役に立たないなんて言うなよ」 自分がいつも自分にかけている呪いのような自己否定を、相棒が口にした時、初めてそれが間違いだと分かった。 「少し休憩しよっか」  寒そうに鼻先を丸めるヴォーボモンの姿を見て、近くのベンチへ腰を下ろした。  自販機で買った温かいココアのタブを開け、湯気を吸い込みながら、一人で抱え込んで耐えることだけが誠実さではないのだと、小さく息を吐いた。  缶を握りながら、勇太は録画したスキャナーの映像を最初からスロー再生で見返した。  揺れる水面の乱反射、水草、散乱する泥。 ―その時、画面の右隅で指が止まった。 橋の下、川の中央にある流木留めの網のあたりに、水流の動きとは違う、同じ位置に留まり続けている小さな白い陰影があった。 「勇太!」「うん!」  東の空が白み始め、夜の冷気が朝の青白い光へと溶けていく。  結局目星は付いても簡単には見つからず、気付けば遠くから、学園の始業を告げる鐘の音の予鈴が、かすかに風に乗って聞こえてきた。  それでも、諦めきれず黙々と身体を動かした。通りがかる人の視線が辛い…。  学園の始業ベルが遠くで鳴り響いた後も、川沿いの管理歩道には静かな朝の光が満ちていた。  腕時計の針は九時を回っている。一時間目の授業はとうに始まっていたが、日野勇太と織姫は、歩道の手すりから身を乗り出すようにして川面を見つめていた。  夜の間にスキャナーの映像が捉えていた、橋の中央の流木留め。朝の自然光の下で角度を変えて目を凝らすと、金網の隙間に絡みついた白い布の塊が、はっきりと視界に飛び込んできた。 「…あった」  水流に揉まれながらも、網の太いワイヤーに引っ掛かって留まっている。勇太はスキャナーをズームし、露出を合わせた。濡れてくすんだ白い毛並みの端、左耳の付け根に、見覚えのある水色の糸が三針、しっかりと残っていた。偶然流れてきた漂流物ではない。探していた、あのぬいぐるみだった。 「勇太!」「うん!」  歩道の上へ引き上げられたぬいぐるみは、泥と水を吸ってずっしりと重かった。勇太はその場に膝をつき、持参したタオルで表面の泥を慎重に拭い取った。短時間で完全には乾かせないが、水分をできる限り吸い取らせ、通気性のある紙袋の中へ収める。 ふと気づけば、勇太のブレザーの袖やズボンの膝、隣で見守っていたヴォーボモンの足元は、跳ねた泥で酷く汚れていた。 「一回着替えに帰る?」 「…次の休み時間、一言だけ、鬼塚さんに返してからでいい?  ヴォーボモンも先に帰ってていいよ。」 「うんうん一緒に行くよ。勇太にだけいい恰好させたくないもん。  それに…。」 「それに?」 「連絡してないから多分、帰ったらめっちゃ怒られるし…僕だけ先に怒られるって損じゃん。」 「…たしかに」 ⑥  二時間目が終わるチャイムが鳴り、A組の教室はざわめきに包まれた。  自席に座る光は、机の木目をじっと見つめていた。昨晩、両親に話を聞いてもらったことで混乱からは抜け出せたものの、胃の奥に残る重い疲労感は消えていない。  久世との関係は終わらせる。心中ではそう決めていたが、本人にどう切り出すべきか、その後の教室の空気をどう耐えるべきか、答えは出ないままだった。 その時、教室の後ろの引き戸が開き、ざらりとした空気が入り込んできた。 「うわ、なに日野君。服、泥だらけじゃん」  廊下側から、紗季の遠慮のない声が上がった。 「その格好で教室入ってこないでよ、汚いよ。こっち来な外で泥落としてあげるから。」 テリアモンも「どろんこだね」と呟き、周囲の何人かが怪訝そうに視線を向ける。  光が顔を上げると、泥まみれの勇太が立っていた。膝も袖も汚れ、眼鏡の奥の目は充血している。徹夜明けの重い足取りで光の机の前まで歩いてくると、抱えていた紙袋を静かに置いた。 「…これ…あった」  掠れた、短い声だった。  光は息を呑み、震える手で紙袋の中を覗き込んだ。  清潔な布に包まれていたのは、冷たく湿ったテイルモンのぬいぐるみだった。表面の泥は丁寧に拭き取られており、左耳の付け根には、母が昔縫ってくれた水色の三針が、確かにそこにあった。  昨晩、あんたたちも帰ってと怒鳴ったのに。 目の前の泥だらけの姿を見れば、どこで探してくれたのかは痛いほど分かった。喉の奥が詰まり、声が出ない。 「あ…」 光が大きく息を吸い込んだ、その瞬間だった。 「光。」 教室の入り口から、よく通る声が響いた。B組の久世が、ポケットに手を突っ込んで入ってきた。  久世は光の机の前に立つ勇太を一瞥し、鼻で笑った。 「なんだよ日野、朝からサボりか? すげえ格好だな」  久世の視線が机の上の紙袋に留まる。躊躇いもなく手を伸ばし、袋の中からぬいぐるみを引っ張り出した。 「昨日の今日で、早速プレゼントかよ。抜け目ねえな」 昨晩、自分が川へ投げ捨てた物だとは欠片も思っていないようだった。顔も見ずに放り投げた白い塊と、目の前にある濡れたぬいぐるみが、久世の頭の中で結びつくことはなかった。 「…違。それに、あんたが昨日―」  勇太が否定しようとした声を、久世は遮った。 「聞いてねえよ。ていうかさ、光もこんな泥だらけのボロ、もらって嬉しいわけ?」  久世がぬいぐるみを指先でつまみ、耳の解れを嘲笑うように揺らす。 「耳のところ糸で繕ってあるし、薄汚れてんじゃん。捨てるようなゴミ、わざわざ押しつけに来るなよな」  光が立ち上がり、久世の手からぬいぐるみを奪い返した。 「…やめて!」  光は冷たく濡れたぬいぐるみを胸元に強く抱き寄せ、鞄の中へと滑り込ませた。その横顔は唇を噛み締め、傷口を押さえるように強張っている。  その光の表情を見た瞬間、勇太の中で、何かが音を立てて弾けた。  自分が殴られた痛みでも悔しさでもない。ただ、誰かが大切にしているものを、何も知らない人間が土足で踏みにじったことに対する怒りだった。  勇太の背筋が、すっと伸びた。 「やめろ…それは鬼塚さんが大事にしてる物だろ」 「は?」  教室のざわめきを切り裂くような、静かで、驚くほど明瞭な声だった。 「人が大事にしてる物を、笑うなって言ってんだよ」 久世が眉を跳ね上げた。 「あ? なんだお前、調子乗ってんの?」 久世の嘲りの言葉が続く前に、勇太の手が伸びていた。体躯を踏み込ませ、久世のブレザーの胸倉を力任せに掴んでいた。 教室が静まり返る。 「日野、待って!」  光の悲鳴のような制止が聞こえたが、勇太の視界には目の前の久世の顔しか映っていなかった。自分が今どれほど無謀かも、周囲がどんな目で見ているかも、すべてが白く吹き飛んでいた。 久世の顔から笑みが消え、屈辱に染まった冷たい目に変わる。 「…教室で騒ぐなよ。来いよ、日野」  久世は勇太の手を払うと、腕を掴んで出口へと引きずり出した。勇太は引っ張り返すこともせず、そのままついていってしまう。 「勇太!」  ヴォーボモンが必死に叫んで追い、廊下からは青いグローブのガオモンが続いた。  光は勇太の明瞭な声を思い返しながら、連れ出される二人へ次の言葉を出せず、ただ立ち尽くして深く俯いた。  通路の隅では、瀬尾奏が隣のコテモンと目を見交わし、職員室のある階段へと駆け出していた。  教室の扉がガタリと音を立てて閉まり、窓ガラスに反射した勇太の後ろ姿が見えなくなった。 ⑦ 「へぁ…」  白いカーテンの隙間から差し込む光の眩しさに、勇太は情けない声と共にまぶたを持ち上げた。  意識が戻った瞬間、頬から顎にかけて鋭い痛みが走り、思わず奥歯を噛み締める。指先でそっと触れると、冷たい湿布が貼られていた。隣のパイプ椅子の上では、小さな身体のあちこちに包帯を巻かれたヴォーボモンが、規則正しく腹を上下させて眠っている。  鼻を突く消毒液の匂いと見慣れない白い天井で、自分が保健室のベッドに寝かされていることに気づいた。腕時計の針を見れば、五時間目の始業ベルが鳴り終わったところだった。 「気がつきましたか」 カーテンが静かに引かれ、養護教諭の苫澤 覇路がカルテを手に歩み寄ってきた。 整った眉をわずかに動かし、手際よく勇太の体温と脈を確かめる。 「校舎裏で倒れていたところを運ばれたんですよ。必要な処置は済んでいます。ご家族への連絡も既に取ってあります…あと、昨日連絡もせず帰らなかった事でご家族が激怒してましたが、自分達でどうにかするように。」  破れて泥のついたブレザーの袖、身体の節々に残る鈍い痛み、そして痛そうに寝息を立てる相棒の姿から、あの後の経緯は痛いほど分かった。徹夜明けの重い身体、喧嘩への不慣れさ、焦り、そして久世とガオモンの慣れた連携の前に、一方的に打ちのめされたのだ。 「まぁ、まずは身体を休めなさい」  覇路は淡々とした口調で告げると、扉の方へ視線を向けた。 「鬼塚さんとパートナーが運んで来てくれました。ずっと廊下で待っていますけど会う意思はありますか?」  勇太は一瞬喉をつまらせたが、小さく頷いた。  カーテンが開けられ、鬼塚光とギルモンが入ってきた。光の手には、教室で渡したあの通気性の紙袋が、皺が寄るほど強く握り締められていた。  勇太は腫れた頬を庇うように顎を引き、ベッドの上で猫背を丸めた。 「…ごめん騒ぎにして。はは…いつもみたいに余計に出しゃばって…鬼塚さんまで、教室で変な目で見られて」 またみっともないところを見せてしまった恥ずかしさから、防衛のような皮肉が口をついて出た。  だが、光は怒鳴り返さなかった。丸椅子をゆっくりと引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろすと、真っすぐに勇太の顔を見つめた。 「謝るのは私の方よ。…日野のことを陰キャオタクって呼んで、紗季たちの前でも知らんぷりして。迷ってグズグズしてたせいで、あんたたちを巻き込んで…」  掠れた声だったが、視線は決して逸らさなかった。 「私がはっきり断らなかったから、日野が殴られて―」 「鬼塚さんの所為じゃないよ」  勇太は光の言葉を遮った。 「鬼塚さんの所為じゃない。…俺も、いきなり胸倉掴んだりしなきゃよかったんだ」  自分の感情的な失敗をそのまま認めると、光は息を呑み、胸元に抱えていた紙袋をそっと膝の上に置いた。 「…ありがとう、日野。探してくれて」  十分に間を置いて落とされたその言葉に、勇太の胸の奥で固まっていた澱が、静かにほどけていくのを感じた。  足元では、ギルモンが包帯を巻かれたヴォーボモンの前にしゃがみ込んでいた。 「ヴォーボモン…いつもからかってごめんね。怪我、痛い?」 「全然!それにギルモンも光のこと守ってたの、見てたよ!」  目を覚ましたヴォーボモンが、屈託のない顔のまま前足を伸ばし、ギルモンの鼻先を軽く突いた。 ⑧ 「…あ~久世と、大丈夫だった?」 勇太が尋ねると、光は口元をきつく引き締めた。 「あの後、ギルモンに『光、ほんとにここにいるの?』って聞かれて、教室を出て追いかけたの。そしたら久世が『日野は大したことなかった』って笑いながら戻ってきて…どこに連れてったのか聞いたら、また腕を掴まれたから」  光は感情を交えず、淡々と言った。 「股間、思いっきり蹴り上げて離させた」  勇太が目を丸くし、ヴォーボモンも思わず尻尾をピンと立てた。 「もう二度と近づくなって言って、別れるって伝えたわ  一回ハッキリ言ったらせいせいしたわ。」  ((こわ…。))  光のいつもの勝気な声が戻り、四人の間にふっと小さな笑いが漏れた。  カーテンの外から覇路の呆れたような声が飛び、室内の張りつめた空気が一気に緩んだ。  光は椅子から立ち上がり、ベッドの縁に一歩近づいた。 「あのさ…私も昔、ぬいぐるみを守ってくれた時のこと、覚えてたわよ…あんたが変わってないところがあって…嬉しかった」 光は一度言葉を切り、勇太の目をしっかりと見つめた。 「でも、私、今の日野のこと全然知らない。もっと知りたい」  差し出された光の右手。 「こんなになってから…言うのもその…おかしいんだけどさ。  あんたの事…もっと教えてよ。私も…その話すから…日野が…良かったらだけど。」  勇太は目を見張った。からかわれているのかと疑う防衛心が頭をもたげかけたが、光の差し出した掌は微動だにせず、ただ返事を待っていた。 勇太は長い前髪の奥から手を伸ばし、その手をしっかりと握り返した。 「…よろしく、日野」 「…うん。鬼塚さん」 光は視線を落とし、ベッド脇の相棒にも微笑みかけた。 「よろしくね、ヴォーボモン」 「うん!」 二人の手と、二体の視線が重なり、互いの距離がわずかに縮まった。  二日間の休養(ガチ説教と罰としてのマイナー映画レビュー)を挟んだ次の登校日、A組の空気にはまだ事の余波が微かに漂っていた。  教室の隅の勇太の席には、まだ頬に薄い湿布の跡が残っていた。 「日野君、これ。休んだ日のノート、コピーしといたから」  前の席の紗季が控えめに声を掛けてきた。勇太は驚きながらも、「…ありがとう、紗季さん」と頭を下げた。  窓際の席では、瀬尾たちが少し戸惑ったように視線を遠ざけている。全員がすぐに味方になるわけでも、劇的に教室が変わるわけでもない。 その時、前の引き戸が開き、光が入ってきた。  光は周囲の視線を気にする様子もなく、真っすぐに勇太の席の前へと歩いてきた。空いている前の席の椅子をガラリと引き、勇太の方へ向き直って腰掛ける。以前のように誰かの顔色を窺って笑うのではなく、手元のスマホを広げている勇太の顔を真っすぐに見つめた。 「オタク君さぁ…またスマホ?…ねぇそれ、何観てるの?」  光が指さしたのは、勇太がノートの端に描いていた変身スキャナーの基板図だった。  勇太は眼鏡のブリッジを押し上げ、長い前髪を少し払った。 「…説明…長くなるけど」 「知ってる。だから聞きに来たんでしょ」  光が小さく笑うと、机の下ではギルモンとヴォーボモンが、互いの尻尾を押し合いながら狭い足元の場所を取り合っていた。