その音によって、彼女の禊は果たされる。身の程を知らずに戦いを挑んでごめんなさい、 メスごときが男性様に逆らってごめんなさい、お詫びのマンコが緩くてごめんなさい―― もはや怒りを通り越して失笑しか漏れぬ。いや、漏れているのは彼女の尿道からもである。 人目を憚らずに小水を垂れて、ぴょん、ぴょん、と人語も忘れたように繰り返して。 ビルボード上位の栄誉ははや遠く、名前が三流ゴシップ誌からも消えてどれだけ経ったろう。 顔と言わず胴と言わず、男たちに煙草の吸い殻や小便を引っ掛けられたりしながら、 俺なら自殺しているね、そこまでして生きたいのかよ――そう罵られるのも日常茶飯時だ。 その理由こそがまさに、彼女がそうまでして生きねばならぬ理由そのものでもあった。 足音の消えたのをその兎譲りの聴覚でしっかり確認してから、女はぷっ、と鼻の血を吹く。 ついで、鉄の味のする痰を、壁と一体化したゴミ袋の上に吐き捨てて唇を拭う。 無言のまま、内外の――特に女性器内にある白い塊を残尿と共に地面に出し切ってしまう。 それが済めば、誰にも聞こえないようひっそりとした一回きりの舌打ちを終えて、 不利を悟った瞬間に脱ぎ捨てておいた一張羅に、改めて袖を通すのである。 さっさと脱いで裸体を晒してしまえば、服を踏みにじられることこそあるものの、 無理やり破られて貴重なコスチュームを失ってしまうリスクを最小限にできる。 ただでさえ、今の体型に見合うサイズを調達するのは容易ではないのだから―― 因幡の白兎を思わせる白く長い髪、負けじと高い耳、丸い尻尾。そして裏腹の褐色の肌。 赤い瞳はどこか怯えたように、倦怠感に霞む夜闇に視線を投げかける。 そして筋二つは先のビルの谷間を抜けてくる男物の靴の足音に、彼女は無意識に背を震わせた。 場合によっては家に着くまでに、この醜態をもう一二度は演じる必要があるかもしれない―― ほとんど無意識に、彼女の手は決して身体から離れてくれない厄介者の上に添えられていた。 また舌打ちが出る。兎のごとき身体能力、常人を遥か超える運動性能、 それらはそのお荷物によって、見る影もなく毀損されてしまっていた。 ようやく辿り着いたねぐら。ほとんど水のようなシャワーを浴びて汗を流しながら、 水垢に汚れた鏡に、己の身体を映す。それは無残なまでに変わり果てていた。 あの括れた腰は、ぴっちりと割れた腹筋はどこに行ったというのだろう? 肌の色に負けぬほど、その存在感を増した乳首のみっともない色といったら。 コスチュームの下からでも、じんわりと色が滲んで――そのあまりの広さを誇示してしまう。 拳を握って、“そこ”に当ててみる。どうしてあの連中は、それを悪びれもせずできるのだろう? ごつごつとした指の骨越しに返るその感触を確かめると、もう彼女には何もできない。 自然と零れた悪態は、“それ”か、自分か、“そう”したあの牛野郎に対してか。 女の身で、欲のために暴力を惜しまない悪党どもと渡り合っていたのだ。 噛み合い方一つで、彼女が――若い肉体を、優秀な“個性”を持つ女ヒーローたちが、 次世代の悪党を生産するための肉穴に作り変えられてしまうことは珍しい話ではない。 双方合意の上での婚姻ですら、個性と個性の掛け合わせを目的として行われるのだから、 高い身体能力を持った子をひり出す可能性の高い彼女など――言うに及ぶまい。 そして彼女を破ったのは、同じく獣じみた体躯と筋肉量を誇る、台風のような牛男であった。 お互いに強化された肉体、ならば男女の膂力差は埋まることなく厳然としてそこに残る。 敗北を悟った瞬間に、脱兎のごとくに跳んで逃げても見せるのが最善手であったろうが、 彼女がそうしなかったのは、ひとえに己の実力へのプライド、過信のほかに―― 男勝りな性格、二十の半ばも過ぎてまだ番の一人もいない恋愛遍歴も影響していただろう。 そうされたことも――口づけの経験すらもないのに、当時の彼女は男を口汚く罵った。 オスがメスの膣内にペニスを挿入するということの意味を教科書でしか知らぬおぼこのくせに、 それを指す言葉だけは豊富に、相手を怒らせる文句を不用意に吐いた。 突き立てられてなお、単なる挿された痛みだと――減らず口と憎まれ口の雨あられ。 だが彼女は、雄の槍の吐き出すものが、己の中でどうなるかを、身をもって知ったのである。 その場を凌いで逃げたとて、よもや薬局に駆け込むわけにもいくまい。 なにせようやく五指に入ったところ。顔も名前もあちこちで売れている女が、 お忍びで緊急避妊薬を買い求めたともなれば――一番良くて熱愛報道と引退速報のゴシップ。 九分九厘、例の牛男が名乗り出て犯されたことが世間の知るところとなるだろう。 それは彼女の性格上、とても許容できるものではなかった――大丈夫に決まってんだろ、 そう呟いては体重計に乗る。まだ変化の兆しのない腹囲を摘んでは安心感に縋る。 だがそれも、事実の前には無力な努力だ。むくむくと膨れて押し上がってくる子宮によって、 否定のしきれない嘔吐感は日ごとに増し、けれど、体重はその分だけしっかり増えていく。 ヒーロー稼業の最中にも、目眩や頭痛を感じること暫し、危うく敵を取り逃しかけたことも。 ぽってりとした盛り上がりが手のひらにも余るようになってきた頃――ほんの一瞬、 そこに在る生命を刈り取る選択肢を考慮もしたのだが、やはりそれは不可能だった。 産婦人科、あるいは潜りの誰かに頼んだところで、話を抑えきることはできないだろう。 そして彼女の耳には――既に形成されたもう一つの心臓の鼓動が、はっきりと聞こえていた。 これを止めるということは――と想像すると、もう、それ以上踏み出すことはできないのだ。 内臓の圧迫の時点ですら、ヒーローとしての活躍をじりじりと邪魔していたものが、 第三者から見てもはっきりとわかるほどに大きくなってしまえば、それは新たな弱点となる。 元より倫理観などを捨て去ったような連中だ。身重の女の腹部など、いい的にしかならない。 そしてそこを狙うぞ、との圧力を掛けるだけで、彼女の動きは無意識に鈍るのである。 たった一撃、相手の延髄に蹴り込めば済むのに――腹部を敵前に晒すのを避けようとして、 酷く切れのない足刀を払い、結局手痛い一撃を貰うこともあった。 煙草の煙や酒気を武器とする個性の持ち主に、ほとんど近付けずに終わったこともあった。 みるみるうちに順位は下落し――代わりに低俗な雑誌に名前の出る頻度が上がり、 もうそこらのチンピラ風情にすら、彼女の“攻略法”は知れ渡っていた。 あとはもう、自分からガキ入り緩マンコをデリバリーする変態女として扱われるだけである。 男達への媚び方、謝り方も、その過程で自然に覚えてしまったものだ。 撮影され、録音され、そのデータがネット上のあちこちにあるのは知っていても、 彼女にはもうどうにもできない。だからといって、ヒーローとしての生き方も諦められない。 身の程を知らずにまた悪党に挑んでは、負け、犯され、打ち捨てられ、ボロボロの身体で、 何も得るもののないまま、身体だけは臨月のそれへとしっかり出来上がっていく。 表に出るような華々しい活躍――それに繋がる依頼もできなくなれば、彼女の選べるのは、 とても妊婦産婦にやらせるようなものではない、後ろ暗い内容のものばかり。 ホルマリン漬けの、ラベルの貼られた個性婚の失敗作の成れ果てを片付けさせられた時には、 己の胎内のそれと大差ないというのに、思わず、涙がこぼれて仕方なかった。 あの牛男と、兎女の自分の子――どちらに似たとて、異形のパーツは避け得まい。 どう考えてもそれは忌まわしき存在になるほかなかった。なのに――産まないという選択肢は、 彼女には取れない。何としてでも、産まねばならぬと思った。 そして彼女の背後には、まだ耳に残っているあの蹄の音がする。 にちゃにちゃと笑いながら、自分の種を仕込んだ雌を嬲りものにするために追ってきている。 妊娠してから、彼女は兎の生態について調べ直した――重複妊娠、という恐ろしい語のことも。 あの男に捕まれば、また延々と犯され――胎内に出産を控えたこの子がいるのに、 そのすぐ横に、新たな受精卵を仕込まれ、胎の空く日は永遠に来なくなるだろう。 胎内でぐずぐずと動いて母を足止める我が子を苛立ち紛れに叱りながら、身体を無理に動かす。 あの牛男の子を産み、そのための乳を搾られ続ける人生など――まっぴらごめんであるからだ。