1・泥棒かささぎの序曲と、いささか形而上学的な二トントラックについて 四月のよく晴れた日曜日の午後三時に、僕は台所でスパゲッティを茹でていた。ラジオからはFM放送のクラシック番組が流れていて、ロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲をアバド指揮のロンドン交響楽団が演奏していた。湯気の立つ大きなアルミ鍋のそばで、僕はタイマーの数字がゼロに近づくのを、まるで遠い国のあまり重要ではない選挙の開票結果を見守るような気持ちで眺めていた。
 実を言うと、僕はそのとき猛烈にビールが飲みたかった。冷蔵庫の中には、昨日作ったトマトソースの残りと、しなびたセロリが半分、それに使いかけのマスタードの瓶がひとつ入っているだけだった。ハイネケンの缶は一本も残っていなかった。昨日の夜、古い友人の電話に付き合って二時間ほどとりとめのない話をしているあいだに、最後の三本をぜんぶ飲んでしまったのだ。
 僕はガスレンジの火を止め、茹で上がったばかりのスパゲッティをざるにあげてから、少し迷った末に近所のコンビニエンス・ストアまで走ることにした。往復で四分、レジで一分。戻ってきたときには、スパゲッティはまだ十分に温かいはずだ。もっとも、少しばかり麺が伸びてしまうかもしれないが、それは人生において僕たちが日常的に受け入れなければならない数多くの小さな妥協のひとつに過ぎない。 僕は洗いざらしの薄いブルーのボタンダウン・シャツの上に、灰色のコットン・カーディガンを羽織り、履き慣れたニューバランスのスニーカーに足を入れた。外に出ると、四月の風はまるで生まれたばかりの仔猫の毛並みのように柔らかく、どこか頼りなかった。通りの向こう側にある小さな公園では、小学校低学年くらいの女の子が二人、ひどく真剣な顔つきでブランコを漕いでいた。彼女たちのスカートが風にはためくたび、春の光が少しずつ削り取られて地面に落ちていくように見えた。
 信号のない横断歩道の前で、僕は一度立ち止まり、左右を確認した。右からは車は来ていなかった。左からも、やはり車は来ていないように見えた。少なくとも、最初の〇・五秒間はそうだった。
 しかし次の瞬間、僕の視界の左端を、巨大な白い塊が塗り潰した。それはいささか不自然なほど鮮やかな白さで塗装された、いすゞのエルフ——いわゆる二トントラックというやつだった。トラックの荷台には『迅速・丁寧・あなたの街の引越センター』という青い文字が書かれていたが、その走り方には丁寧さのかけらもなかった。時速にしておそらく七十八キロメートル、あるいは八十二キロメートル。運転席のガラスの向こう側で、野球帽をかぶった中年の男が、まるで世界がまるごと自分の手の中から滑り落ちてしまったかのような、ひどく当惑した表情でハンドルにしがみついているのが見えた。彼の口は半開きになっていて、そこから何か意味のない音節がこぼれ落ちていたかもしれない。しかし僕にはその声は聞こえなかった。僕の頭の中ではまだ、ロンドン交響楽団の弦楽器セクションが、華やかでどこか軽薄なクレッシェンドを続けていたからだ。 やれやれ、と僕は思った。
 このままでは、台所のざるの上で湯気を立てているはずの百五十グラムのスパゲッティは、誰にも食べられることなく冷え切ってしまうだろう。それはスパゲッティにとっても、僕にとっても、あまり幸福な結末とは言えなかった。僕はかつて一九九八年の秋に、付き合っていた女の子と別れた日の夜、やはり同じように誰にも食べられなかったスパゲッティを三角コーナーに捨てたことがあった。そのときの冷たくて重たい小麦粉の塊の感触が、どういうわけか驚くほど鮮明に指先に蘇ってきた。
 ブレーキの音が、乾いたアスファルトを鋭利なナイフで切り裂くように響いた。ゴムの焼ける匂いが春の風を一瞬にして追いやり、僕の鼻腔を満たした。
 それから、衝撃がやってきた。
 それは痛みというよりは、むしろ巨大な百科事典のセットを積んだ本棚が、そのまま僕の胸の上に倒れ込んできたような、純粋に物理的な質量そのものだった。僕の身体は、重力という古くからの友人の手を振り切って、地上から二メートルほどの高さまでふわりと浮かび上がった。空中から見る近所の風景は、いつもより少しだけ平べったく、そしてひどくよそよそしく見えた。公園のブランコに乗っていた女の子の一人が、こちらを指差して何かを叫んでいた。僕の左足からニューバランスのスニーカーが片方だけ脱げて、放物線を描きながら郵便ポストの向こう側へと消えていった。
 意識が遠のいていく最後の数秒間、僕が考えていたのは、自分の死後の世界のことでもなければ、これまで犯してきた数々のささやかな過ちのことでもなかった。ただ、あの冷蔵庫の奥に残された半分だけのセロリは、いったい誰が処分するのだろう、ということだけだった。 2・白い部屋の女神と、あまりに巨大なバスト、および『ステータス・オープン』の構造的欠陥 目が覚めたとき、僕はどこかの古いホテルのロビーにあるような、深い緑色の革張りのソファに座っていた。
 周囲には壁もなければ天井もなかった。ただ、どこまでも続く純粋な白い空間が広がっているだけだった。それはたとえば、真冬の北海道の牧場に降る雪を、そのまま理念として結晶化させたような白さだった。床さえもが白く、自分の足がどこからどこまで地面に接しているのか、よくわからなかった。不思議なことに、郵便ポストの向こうへ飛んでいったはずの左足のスニーカーは、ちゃんと元の場所に戻って紐まで結ばれていた。
 僕の正面には、ガラスの天板が載った低いローテーブルがあり、その向こう側の同じような緑色のソファに、一人の若い女の子が座って足を組んでいた。
 彼女は歳にして十七か、あるいは十八くらいに見えた。あるいは二千歳くらいなのかもしれないが、外見からそれを判断するのは不可能だった。彼女はギリシャ悲劇の舞台衣装を思わせるような、薄いシルクの白いドレスを着ていた。髪は溶かしたプラチナのように輝く長いブロンドで、その隙間から、実に完璧な形をした小さな耳が覗いていた。僕がこれまでの人生で見てきたどんな耳よりも、それは精巧で、優美な曲線を描いていた。耳たぶのすぐ下には、小さな真珠のピアスが揺れていた。
 しかし、彼女の身体の中で最も僕の目を引いたのは——正直に告白しなければならないのだが——その耳ではなく、ドレスの胸元を不自然なまでに押し上げている、あまりにも巨大な二つの乳房だった。それは人間の解剖学的なバランスというものを、最初から最後まで完全に無視したサイズだった。まるで誰かが悪質な冗談で、彼女の華奢な胸郭に二つの大きなマスクメロンを貼り付けたみたいに、それは圧倒的な存在感をもってそこに鎮座していた。彼女が息をするたびに、薄いシルクの生地が悲鳴を上げんばかりに張り詰め、その谷間には深い井戸の底のような影が落ちていた。 「目が覚めたみたいね」と彼女は言った。その声は、よく冷えた白ワインをクリスタルのグラスに注ぐときのような、澄んだ響きを持っていた。
「ええ、どうやらそのようです」と僕は言った。「ここはどこですか? もしここが順天堂大学病院の集中治療室だとしたら、ずいぶん前衛的なインテリアですね」
 彼女はくすりと笑った。彼女が笑うと、その巨大な胸が、ゼリーを載せた皿を揺らしたときのように微かに波打った。僕はなるべく彼女の耳のあたりに視線を固定するように努めた。
「残念ながら、ここは病院ではないわ。もっと概念的な場所よ。あなたたちの言葉で言えば、生と死の狭間にある待合室のようなものかしらね。そして私は、このセクションを担当している女神よ」
「女神」と僕は繰り返した。
「そう。女神。名前は一応あるけれど、あなたたちの言語体系では正確に発音できないから、ただ『女神』と呼んでくれて構わないわ。それより、何か飲む? カティーサークと、氷と、ソーダ水なら用意できるけれど」
「悪くないですね」と僕は言った。「ハイネケンはありますか?」
「ビールは置いていないの。管轄が違うから」と彼女は少し申し訳なさそうに言った。「でも、ウイスキーなら悪くない年代のものがあるわよ」
 彼女が白く細長い指をぱちんと鳴らすと、ガラスのテーブルの上に、カットグラスが二つと、カティーサークのボトル、それに銀色のアイスペールが音もなく現れた。彼女は手慣れた手つきでグラスに氷を入れ、ウイスキーを注ぎ、ソーダ水で割って僕の前に置いた。 僕はグラスを手に取り、一口飲んだ。確かに悪くない味だった。死後の世界の待合室で飲むスコッチ・ソーダとしては、文句のつけようがない。
「それで」と僕は氷をカランと鳴らしながら言った。「僕は死んだわけですね。あの引越センターの二トントラックに撥ねられて」
「ええ、そうよ。とても気の毒な事故だったわ。運転手は前日の夜に、妻の浮気相手と電話で三時間も口論して、ほとんど眠っていなかったの。本来なら、あなたはあと四十二年は生きているはずだったし、そのあいだに三度引っ越しをして、二度ほどあまり実りのない恋愛をして、最終的には海辺の小さな町で前立腺の病気で静かに息を引き取る予定だったのよ。こちらの帳簿の手違いで、トラックのブレーキホースの劣化具合を計算し損ねてしまったの。本当に申し訳なく思っているわ」
「やれやれ」と僕は言った。「つまり、僕の人生は、誰かの計算ミスによって四十二年分もショートカットされてしまったわけですか」
「そういうことになるわね。システムというのは、どれほど精巧に作られていても、ときどきそういうバグを起こすものなのよ。まるで古いレコードの針が、目に見えない埃のせいで不意に飛んでしまうみたいにね」
「で、僕はこれからどうなるんです? 天国へ行ってハープの練習をするか、あるいは地獄へ行って永遠に石を積み上げるか、そういう二択ですか?」
 女神は自分のグラスのウイスキーを少し舐めてから、ゆっくりと首を振った。プラチナ・ブロンドの髪がさらりと揺れ、あの完璧な耳が再び姿を現した。
「あなたには特別の補償プログラムが適用されることになっているわ。つまり、別の世界——あなたたちの世界で言うところの『異世界』へ、現在の記憶と人格を保ったまま転生してもらうの。もちろん、ただ放り出すわけにはいかないから、向こうの世界で何不自由なく暮らしていけるように、特別製の能力、いわゆる『チートスキル』というものを付与してあげるわ」 僕はソファの背もたれに深く身を沈め、天井のない白い空間を見上げた。異世界転生。そしてチートスキル。僕は自分がまるで、深夜の郊外の書店で平積みにされている、表紙にパステルカラーの髪の少女が描かれた文庫本の中に迷い込んでしまったような気分になった。
「その異世界というのは、どういう場所なんです? たとえば、マイルス・デイヴィスのレコードや、まともなペペロンチーノを食べられるレストランはあるんでしょうか?」
「残念ながら、ジャズはまだ発明されていないわね。パスタによく似た小麦の麺ならあるけれど、オリーブオイルの質はあまり期待しない方がいいわ。基本的には、剣と魔法が支配する中世ヨーロッパ風の封建社会よ。街の外にはゴブリンやスライムやドラゴンがうろついているし、北の大陸には魔王がいて、定期的に人間たちの領域を脅かしているわ」
「ずいぶん騒がしそうな場所ですね」と僕は言った。「僕はどちらかと言えば、休日に家でアイロンをかけたり、古い小説を読み返したりする方が好きなんですが」
「大丈夫よ。そのためのチートスキルなんだから」と女神は言い、その豊かな胸を少し張った。ドレスの縫い目がミシリと小さな音を立てたような気がした。「あなたには、向こうの世界のあらゆる物理法則や魔法体系を凌駕するステータスと、二つのユニークスキルを与えておいたわ。ひとつは『全言語理解』。これで向こうの人間とも問題なく会話ができる。もうひとつは『概念の井戸』というスキルよ」
「概念の井戸?」
「ええ。あなたが頭の中で『井戸の底に捨てる』とイメージしたあらゆる対象——それは物理的な肉体でもいいし、魔法のエネルギーでもいいし、あるいは悪意や呪いといった抽象的な概念でもいいのだけれど——それを、文字通り存在しないものとして深い井戸の底へ消滅させることができる能力よ。それに加えて、あなたの基礎ステータスはすべてカンスト、つまり測定限界の九百九十九に設定してあるわ。あなたがくしゃみをしただけで、中級のドラゴンなら風邪をひいて死んでしまうくらいの強さよ」 「ずいぶん大雑把な設定ですね」と僕は言った。「そんな過剰な力を一人の人間に与えてしまって、その世界の生態系やパワーバランスは崩れないんですか?」
「崩れるかもしれないわね」と女神はこともなげに言った。「でも、正直なところ、私たちにとって個々の世界のバランスなんて、昨日降った雨の量を気にするくらいどうでもいいことなのよ。大事なことは、被害者であるあなたのクレーム処理を迅速に行い、帳簿の辻褄を合わせることだけなの。役所の仕事というのは、どこへ行ってもそういうものよ」
 彼女はグラスに残ったウイスキーを一気に飲み干すと、すっと立ち上がった。
「さて、そろそろ時間よ。向こうの世界へ行ったら、まずは心の中で『ステータス・オープン』と唱えてみるといいわ。あなたの現在の状態が、視覚的なウィンドウとして網膜に投影されるようになっているから。とても便利よ。何か最後に質問はある?」
「ひとつだけ」と僕は言った。「うちの台所に置いてきた、茹でたてのスパゲッティはどうなりますか?」
 女神は少し考えるように小首をかしげ、それから静かに微笑んだ。
「三日後に、あなたの部屋を訪ねてきた大家さんが見つけて、とても悲しい顔をしてゴミ袋に入れることになるわね」
「そうですか」と僕は言った。「それを聞いて安心しました。誰にも見つけられないまま、永遠に台所で乾き続けるよりはずっといい」
「ええ、私もそう思うわ。それじゃあ、良い旅を。もし向こうで退屈したら、ときどき私の耳のことでも思い出してちょうだい」
 彼女がもう一度指を鳴らすと、僕の座っていた緑色のソファの底が抜け、僕はそのまま底なしの白い闇の中へと真っ逆さまに落ちていった。 3・始まりの街のギルドと、頭脳の足りない大男たちの解剖学的考察 次に気づいたとき、僕は背の高い草が生い茂る緩やかな丘の上に立っていた。
 空は驚くほど青く、まるで誰かが巨大なペンキの刷毛で塗り上げたばかりのように見えた。空気には湿った土と、名前も知らない野草の青臭い匂いが混じっていた。排気ガスの匂いも、アスファルトの熱気もそこにはなかった。遠くの地平線には、ノコギリの歯のように鋭く尖った山脈が連なっており、その手前に、灰色の石壁でぐるりと囲まれた中世風の街が見えた。
 僕は自分の服装を確認した。洗いざらしのブルーのボタンダウン・シャツに、灰色のカーディガン、そしてチノパンにニューバランスのスニーカー。ポケットに手を入れると、小銭入れと鍵の束のかわりに、ずっしりと重い革の袋が入っていた。中を覗くと、鈍い光を放つ金貨が三十枚ほど入っていた。女神が用意してくれた当座の生活費というやつだろう。
 僕は試しに、少し照れくさい気持ちを我慢しながら、心の中で『ステータス・オープン』と唱えてみた。
 すると、僕の目の前の空間に、半透明の青いボードのようなものがふわりと浮かび上がった。それは一九八〇年代のSF映画に出てくるコンピュータのモニター画面に似ていたが、フォントはもう少し洗練されていた。 名前:僕(仮名)
 年齢:29歳
 職業:異世界からの漂流者(無職)
 レベル:999
 体力:99999/99999
 魔力:99999/99999
 筋力:999
 敏捷:999
 知力:999
 幸運:999
 固有スキル:『全言語理解』『概念の井戸』『完璧なパスタの茹で加減を計測する能力』 一番最後のスキルについては、女神は何も言っていなかった。おそらく彼女なりのささやかなジョークか、あるいは餞別のようなものなのだろう。いずれにせよ、異世界で生きる上でどれほど役に立つのかは甚だ疑問だったが、ないよりはマシに違いなかった。僕は手で空中のボードを払うようにして消し、石壁の街に向かって歩き始めた。
 本来なら丘から街までは歩いて一時間はかかりそうな距離だったが、僕の敏捷性が九百九十九になっているせいで、普通に一歩踏み出すだけで身体が五メートルほど前に進んでしまった。僕はまるで月面を散歩する宇宙飛行士のように、ひどく奇妙な歩幅を調整しながら、わずか四分ほどで街の城門に到着した。 街の入り口には、槍を持った衛兵が二人立っていた。彼らは僕のカーディガンとスニーカーという奇妙な出で立ちをちらりと見たが、特に呼び止めることもなく通過させてくれた。きっとこの世界には、僕よりもずっと奇妙な格好をした連中が日常的に出入りしているのだろう。
 街の中は、活気と悪臭に満ちていた。石畳の通りには馬車が走り、あちこちに馬糞が落ちていた。露店では、見たこともないような紫色の果物や、まだ血の滴っている何かの動物の肉塊、それにひどく大雑把な作りの鉄の剣などが売られていた。すれ違う人々の中には、人間だけでなく、背が低くて立派な髭を蓄えたドワーフや、犬のような耳を頭に生やした獣人たちの姿もあった。
 僕は通りすがりの果物屋の老人に尋ねて、『冒険者ギルド』の場所を教えてもらった。こういう世界に来たからには、まずは冒険者ギルドに行って身分証を作り、小遣い稼ぎの依頼を受けるのが、古今東西の物語における逃れられない手続きであるように思えたからだ。 冒険者ギルドは、街の中央広場に面した、ひどく頑丈そうな二階建ての石造りの建物だった。看板には、交差した二本の剣とジョッキの絵が描かれていた。
 重い木の扉を押し開けて中に入ると、そこは昼間から酒と汗の匂いが充満する広大なホールになっていた。左半分が酒場、右半分が受付カウンターという構造だ。酒場のテーブルには、革の鎧や鎖帷子を着た屈強な男たちがたむろし、エールを飲みながら下品な笑い声を上げていた。
 僕が中に入っていくと、ホール全体のざわめきが、まるでラジオのボリュームを急に絞ったみたいにすっと静まった。数十人の荒くれ者たちの視線が、一斉に僕のニューバランスのスニーカーと灰色のカーディガンに突き刺さった。
 すると、入り口に一番近いテーブルに座っていた三人組の男たちが、椅子をガタリと鳴らして立ち上がった。真ん中の男は、身長が二メートル近くあり、顔にはまるで下手な外科医が縫合したような大きな傷跡が斜めに走っていた。頭は綺麗に禿げ上がっていて、肩には棘のついた鉄の肩当てをつけている。両脇の二人も、それぞれ棍棒や大剣を背負った、見るからに知性の欠如した大男たちだった。彼らはまるで、三流の映画監督が『酒場の悪党』というカタログからそのまま注文して取り寄せたような、完璧なまでのステレオタイプだった。 「おいおい、見ねえ顔だな、坊主」と、真ん中の傷跡の男が、底の抜けたバケツを叩くような声で言った。彼の口からは、安物のエールと腐った玉ねぎの混じったような匂いが漂ってきた。「ここはな、お前みたいなヒョロヒョロの貴族のお坊ちゃんが、ピクニック気分で入っていい場所じゃねえんだよ。迷子になったんなら、ママのおっぱいでも吸いに帰りな」
 酒場の中から、下卑た笑い声がどっと湧き上がった。
 僕は立ち止まり、カーディガンのポケットに両手を入れたまま、その二メートルの大男を見上げた。
「いくつか訂正しておきたいことがあります」と僕は静かな声で言った。「まず第一に、僕は貴族のお坊ちゃんではありません。東京の世田谷区にある築二十五年のアパートで一人暮らしをしていた、ごく普通の二十九歳の市民です。第二に、僕の母親は六年前の冬に他界しているので、残念ながらもうおっぱいを吸うことはできません。そして第三に、あなたがたのその肩についている鉄のトゲですが、それは狭い場所で仲間とすれ違うときに、非常に危険なのではないですか?」 男の顔から薄笑いが消え、額に太い青筋が浮かび上がった。どうやら僕の解剖学的および構造的な指摘は、彼のプライドを著しく傷つけたらしい。
「てめえ、俺様を誰だと思ってやがる! この街で『首狩りのボルグ』を知らねえとは言わせねえぞ! Cランク冒険者のこの俺をナメた口ききやがって、生きてここを出られると思うなよ!」
 ボルグと名乗った男は、丸太のような右腕を振り上げ、僕の顔面に向かってまっすぐに拳を突き出してきた。
 ところが、僕の動体視力と敏捷性は九百九十九に設定されていたため、彼の拳はまるで深海の中を漂うウミガメの遊泳のように、絶望的なまでにゆっくりと近づいてくるように見えた。僕はその拳が僕の鼻先に到達するまでのあいだに、セロニアス・モンクの『ラウンド・ミッドナイト』の冒頭のフレーズを頭の中でハミングし、さらには今日の夕食に何を食べるべきかについて短い考察を行うだけの十分な時間があった。
 僕は半歩だけ横にずれ、彼の巨大な拳をやり過ごした。それから、彼の手首のあたりに人差し指をそっと添え、ほんの少しだけ——冷蔵庫のドアを閉めるときくらいの力で——床に向かって押し下げた。
 ズドン、というすさまじい音が響き、ギルドの建物全体が震도三くらいの地震のように揺れた。
 石畳の床が蜘蛛の巣状に砕け散り、ボルグの身体はその中心に、まるで最初からそこに埋め込まれていた現代アートのオブジェのように、顔面からめり込んでいた。彼はピクリとも動かず、ただお尻だけを天井に向けて突き出していた。 ホールは再び、墓場のような静寂に包まれた。誰一人として言葉を発する者はいなかった。誰かが落とした木製のジョッキが、床を転がってコツンと乾いた音を立てた。
 両脇にいた二人の子分たちは、顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。
「ひ、ひいいっ! ボルグの兄貴が、指一本で……!」
「ば、化け物だあーっ!」
 二人はボルグの巨大な身体を無理やり床から引き抜くと、彼を両脇から抱え上げ、扉を突き破らんばかりの勢いで外の通りへと逃げ出していった。文字通り、捨て台詞すら残さないほどの迅速な撤退だった。
 僕はやれやれと肩をすくめ、何事もなかったかのように受付カウンターへと歩を進めた。 カウンターの向こうには、べっ甲縁の眼鏡をかけた、二十代半ばくらいの女性が立っていた。彼女は紺色のきちんとした制服を着ており、黒髪を後ろでひとつにまとめていた。その耳の形は女神ほどではなかったが、それでも十分に知的で好感の持てる形をしていた。彼女は床に開いた大穴と僕の顔を交互に見てから、小さく咳払いをした。
「えっと……ギルドへのご登録でしょうか?」と彼女は、努めて事務的なトーンを保とうとしながら言った。
「ええ。もしそれが可能なら」と僕は言った。「床を壊してしまったことについては謝ります。力加減というものが、まだよくわかっていないもので」
「いえ、あのボルグという男には、ギルドとしても日頃から手を焼いておりましたので、修理代は彼の報酬から差し引いておきますわ。私は受付のエレナと申します。では、こちらの魔力測定用の水晶玉に、片手を置いていただけますか? あなたの基礎能力を測定して、ギルドカードを発行いたします」
 エレナはカウンターの上に、バスケットボールほどの大きさがある透明な水晶玉を置いた。
 僕は言われた通り、その冷たいガラスのような表面に右手を置いた。
 次の瞬間、水晶玉は内部から激しい虹色の光を放ち、キィィィンという耳鳴りのような高音を響かせたかと思うと、パリン、という実に軽やかな音を立てて、無数の細かい破片となってカウンターの上に飛び散った。それはまるで、熟れすぎたザクロが自らの重みに耐えかねて弾けたような光景だった。 エレナは眼鏡の位置を中指で直し、砕け散った水晶玉の残骸をじっと見つめた。
「……これは、創業以来初めてのケースですわね」と彼女は言った。「この測定器は、Aランクの上位冒険者の魔力までなら問題なく計測できるはずなのですが。どうやらあなたの能力値は、この世界の既存のスケールを完全に超過しているようですわ」
「つまり、登録はできないということですか?」
「いいえ、そういうわけにはまいりません。規則ですので、最初は一番下のFランクからのスタートになりますが、カード自体は発行できますわ」
 彼女は引き出しから小さな金属のプレートを取り出し、何かの魔道具で文字を刻印して僕に手渡した。
「それから、登録したばかりの新人さんには、最初の仕事として『始まりの森』での薬草採取か、あるいはスライムの討伐をお願いしているのですが……あなたの場合、森そのものを消滅させないようにお願いしたいところですわね」
「気をつけます」と僕は言った。「僕は自然破壊には反対の立場ですから」 4・森の中の銀髪エルフと、オークたちの極めて非音楽的な振る舞いについて 街の東門から歩いて十五分ほどのところに、『始まりの森』と呼ばれる広大な森林地帯が広がっていた。
 木々はどれも樹齢数百年はありそうな巨大な広葉樹ばかりで、高い梢が太陽の光を遮り、森の中はまるで古い図書館の書庫のようにひんやりと薄暗かった。足元にはシダ植物が生い茂り、あちこちに見たこともないような青いキノコが群生していた。
 僕はエレナから渡された薬草の図鑑(といっても、羊皮紙に手描きで雑草のような絵が描かれているだけのものだったが)を片手に、森の中をゆっくりと散策した。ときどき、草むらの陰から、直径三十センチほどの青いゼリー状の生き物——スライム——がぴょこぴょこと飛び出してきた。彼らは僕を見ると、一応は敵意のようなものを示して体当たりをしてこようとするのだが、僕の靴先に触れた瞬間に、僕自身の防御力の高さによる反作用で、勝手にぷるんと弾き飛ばされて木の幹にぶつかり、そのまま小さな魔石を残して消滅していった。
 僕は彼らに対して、ある種の同情を禁じ得なかった。彼らはおそらく、スライムとしての本分を全うしようとしただけなのだ。それなのに、ただそこに立っているだけの男のニューバランスに触れただけで死んでしまうというのは、あまりにも不条理な運命だった。僕はしゃがみ込んで、草の上に落ちた小さなビー玉のような魔石を拾い集め、カーディガンのポケットに入れた。 そうやって二十個ほどの魔石と、十数本の薬草を集めた頃、森の奥から、この静謐な自然環境にはまったく不釣り合いな騒々しい音が聞こえてきた。
 それは金属と金属がぶつかり合う鋭い音と、下品な豚の鳴き声のような咆哮、そして若い女の子の切迫した叫び声が混ざり合ったものだった。
 僕はため息をつき、音がする方へと足を向けた。こういう場合、見て見ぬふりをして街へ帰り、冷たいエールでも飲むというのが最も賢明な大人の態度であることは間違いなかった。しかし、悲鳴を上げている女の子を放置して帰った場合、僕のその後のビールは、おそらくひどく後味の悪いものになるだろう。僕は自分のビールの味を守るために、現場へ向かうことにした。 木立を抜けた先の小さな空き地で、その典型的な悲劇は進行していた。
 そこにいたのは、一人の少女と、五匹の醜悪な怪物だった。
 少女は、まるで月光を紡いで作ったような、長く美しい銀色の髪をしていた。瞳は深いエメラルド・グリーンで、透き通るような白い肌をしていた。そして何より特徴的だったのは、その銀髪の間から突き出ている、長く尖った耳だった。エルフだ。彼女の耳は、これまで僕が見てきた人間の耳とはまったく異なる幾何学的な法則に基づいてデザインされていたが、それはそれで驚くほど魅力的で、完成された美しさを持っていた。彼女は白と緑を基調とした軽装の鎧を身につけていたが、そのあちこちが破れ、白い太ももや肩の肌が痛々しく露出していた。手にした細身のレイピアはすでに折れており、彼女は木の根元に背を預けて、荒い息をついていた。
 彼女を取り囲んでいる五匹の怪物は、身長が二メートル半ほどもある、二足歩行の巨大な豚人間——オークだった。彼らは腰に汚らしい毛皮を巻いているだけで、丸太のような棍棒を持ち、だらだらと唾液を垂らしながら、実に卑猥で非音楽的な笑い声を上げていた。 「グヒヒ、エルフの小娘め、もう観念しろ!」と、リーダー格らしき一際大きなオークが言った。『全言語理解』のスキルのおかげで、彼らの野蛮な唸り声まで完璧な日本語として僕の脳内に翻訳されてしまうのは、いささか困りものだった。「お前ら高慢ちきなエルフの女は、人間どもの闇市に売り飛ばせばいい金になるんだ。だがその前に、俺たち全員でたっぷりと可愛がってやるからな、ブヒヒヒ!」
「くっ……近寄らないで、この汚らわしい獣ども!」とエルフの少女は、エメラルド色の瞳を涙で潤ませながらも、気高く睨みつけた。「私に指一本でも触れてごらんなさい、あなたたちの魂を精霊の業火で焼き尽くしてやるわ! ……と言いたいところだけれど、残念ながら今の私の魔力残量は、全体の三・四パーセントほどしか残っていないの。だから、もしあなたたちに一片の理性と美的感覚があるのなら、このまま静かに立ち去ってくれるととても助かるのだけれど」
「グハハハ! 何をわけのわからねえことを言ってやがる! やっちまえ、野郎ども!」 オークたちが一斉に彼女に飛びかかろうとしたまさにその瞬間、僕は空き地の中へと足を踏み入れた。
「ちょっと待ってください」と僕は言った。
 五匹のオークと、エルフの少女の視線が、同時に僕へと向けられた。
「なんだあ、てめえは?」とリーダーのオークが眉をひそめた。「変な服を着た人間の雄じゃねえか。邪魔をする気なら、てめえから先にミンチにしてやるぞ!」
「邪魔をするつもりは毛頭ないんですが」と僕は言った。「ただ、あなたがたのその笑い声は、森の静寂に対してあまりにも配慮が欠けているように思えるんです。それに、嫌がっている女性に対して一方的に肉体的な接触を試みるというのは、どの世界においても感心できる行為ではありません。もしよかったら、このまま森の奥へ帰って、ドングリでも探すというのはどうですか?」
「ふざけるな! 死ねや、人間!」
 二匹のオークが、丸太のような棍棒を振り上げて僕に突進してきた。地面がドシン、ドシンと揺れ、枯れ葉が舞い上がった。 僕は特に身構えることもせず、ただ頭の中で、自分がかつて大学時代に住んでいたアパートの裏手にあった、古くて深い枯れ井戸のことを思い浮かべた。暗くて、冷たくて、底がどこまで続いているのか誰にもわからない、概念としての井戸だ。そして僕は、目の前の五匹のオークたちの存在そのものを、その井戸の底へとそっと放り込んだ。
 音はしなかった。光も出なかった。
 ただ、次の瞬間には、空き地から五匹のオークの姿が綺麗さっぱり消え失せていた。彼らが持っていた棍棒も、彼らが垂らした唾液も、彼らが発していた獣臭い体臭さえも、まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように、跡形もなく消滅していた。あとにはただ、木々の間を吹き抜ける風の音と、遠くで鳴く小鳥のさえずりだけが残された。 僕はエルフの少女の方に向き直り、しゃがみ込んで彼女に手を差し伸べた。
「怪我はありませんか? 立てますか?」
 少女はしばらくのあいだ、まるで自分の目の前で太陽が西から昇って東へ沈むのを目撃したかのような、呆然とした顔で何もない空間を見つめていた。しかしやがて、彼女はハッと我に返ると、差し出された僕の手をパシッと払いのけ、自分の力でふらつきながら立ち上がった。彼女の白い頬は、夕暮れの空のように赤く染まっていた。
「か、勘違いしないでほしいのだけれど!」と彼女は、少し上擦った声で言った。「べ、別にあなたに助けてもらったわけじゃないんだからね! 私はただ、あの豚どもをどうやって最も効率的かつ芸術的に撃退するかについて、確率論的なシミュレーションを行っていたところなのよ! あなたが余計な手出しをしなくても、あと十二秒後には、私が隠し持っていた切り札で彼らを全員片付けていたはずだわ!」
「なるほど」と僕は言い、引っ込めた手をカーディガンのポケットに戻した。「それは大変失礼なことをしました。僕はてっきり、あなたが絶体絶命のピンチに陥っているものだとばかり思っていたものですから」
「ち、違うと言っているでしょう!」と彼女は足を踏み鳴らした。その拍子に、彼女の長く尖った耳がピョコンと可愛らしく跳ねた。僕はその耳の動きから目を離すことができなかった。「……でも、まあ、その、結果的に私の手間を省いてくれたことに関しては、ほんの少しだけ感謝してあげないこともないわ。私はセレスティア。ハイエルフの誇り高き魔導剣士よ。あなたは? ずいぶん奇妙な服を着ているけれど、どこの国の宮廷魔導師なの? 今のはいったい何の階層魔法?」 「僕はただの新人冒険者です」と僕は言った。「ついさっきギルドに登録したばかりで、今のランクはFです。宮廷とも魔導とも、何の関係もありません」
「Fランクですって?」セレスティアは美しい眉をひそめた。「嘘をおっしゃい。Fランクの冒険者が、上位種のハイ・オーク五体を、詠唱もなしに一瞬で消滅させられるわけがないでしょう。あなた、何か理由があって素性を隠しているのね?」
「隠しているわけではありません。本当に今日から始めたばかりなんです。それより、その服の破れ方は、そのまま街へ帰るには少しばかり刺激が強すぎるように見えますが」
 僕がそう指摘すると、セレスティアは自分の胸元や太ももが露わになっていることにようやく気づいたらしく、「きゃあっ!」と短い悲鳴を上げて両手で身体を隠した。
「み、見ないでよ、この変態! いいこと、今のことは絶対に誰にも言わないでちょうだい!」
 僕は自分のグレーのカーディガンを脱ぎ、彼女の肩にそっとかけてやった。彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに顔を背け、カーディガンの襟元をぎゅっと握りしめた。
「……少し、奇妙な匂いがするわね、この服」と彼女は小さな声で言った。「なんだか、とても遠い場所の、乾いた風と、それから茹でた小麦のような匂いがするわ」
「さっきまで家でスパゲッティを茹でていたんです」と僕は言った。「もっとも、それを食べる前にここへ来てしまったんですがね」 5・宿屋のサンドイッチと、呪われた奴隷少女の買収に関する道徳的ジレンマ 街へ戻ると、セレスティアは「この借りは必ず返すから、宿屋を決めたら教えなさい」と言い残して、自分の滞在している宿へと足早に去っていった。もっとも、僕のカーディガンを着たまま帰ってしまったので、いずれにせよもう一度会って返してもらう必要があった。お気に入りのコットン・カーディガンだったのだ。
 僕はギルドへ寄って薬草とスライムの魔石をエレナに渡し、わずかな報酬を受け取ってから、彼女に紹介してもらった『眠れる羊亭』という中堅どころの宿屋に部屋を取った。
 部屋は二階の角部屋で、それほど広くはなかったが、シーツは清潔だったし、窓からは街の西側の広場が見下ろせた。僕は女神からもらった金貨を一枚、宿の主人に渡して、一ヶ月分の部屋代と食事代を前払いした。それから厨房を少し借りて、パンと、薄く切ったハムと、キュウリによく似た緑色の野菜、それにマスタードを使って、自分好みのサンドイッチをいくつか作った。主人は最初、見知らぬ東洋人の青年が厨房に入ってナイフを握るのを警戒していたが、僕が作ったサンドイッチを一切れ食べてみると、まるで啓示を受けた預言者のような顔になり、「いつでも好きなだけ厨房を使ってくれ」と言った。 翌日、僕は少し遅めに目を覚まし、黒ビールとサンドイッチで簡単な昼食を済ませてから、街の市場を歩いてみることにした。この世界の経済システムや流通している品物を知っておくのは、悪くない考えに思えたからだ。
 大通りから一本外れた、少し日当たりの悪い路地に入ったところで、僕は奇妙な一団を見かけた。
 そこには黒い天幕が張られており、その前に鉄格子のはまった大きな檻がいくつも並べられていた。檻の前には、シルクハットのような奇妙な帽子をかぶり、指にいくつも宝石の指輪をはめた、見るからに強欲そうな小太りの男が立っていた。彼は手に革の鞭を持ち、通りかかる裕福そうな商人や冒険者たちに向かって、愛想笑いを浮かべながら声をかけていた。
「さあさあ、旦那方、いい掘り出し物が入ったよ! 戦場で捕獲されたばかりの屈強なドワーフの戦士に、夜の伽にはもってこいの美しい人間の娘、それに珍しい獣人族の子供まで揃ってる! どいつもこいつも、服従の魔法陣が刻まれた首輪がついてるから、絶対に主人に逆らうことはねえよ!」 奴隷商人だった。
 僕は立ち止まり、檻の中を順番に眺めていった。確かに、こういう異世界の物語において、主人公が奴隷商人のもとで不遇な扱いを受けている美少女を買い取り、彼女から絶対的な忠誠と愛情を向けられるというのは、ロッシーニのオペラにおけるクレッシェンドと同じくらい定番の様式美だった。しかし、現代の民主主義社会で教育を受けた人間として、人身売買というシステムに積極的に加担することには、やはり強い道徳的なためらいがあった。
 ところが、一番奥の小さな檻の中に目をやったとき、僕の足はそこに釘付けになった。
 そこには、歳にして十四か十五くらいの、小柄な少女がうずくまっていた。彼女はボロボロの麻袋のような服を着ており、頭には、黒くて柔らかい毛並みの『猫の耳』が二つ、ちょこんと生えていた。そしてお尻の方からは、同じように黒い尻尾が伸びて、力なく床に垂れ下がっていた。彼女の首には、不気味な赤黒い光を放つ鉄の首輪がはめられており、そこから伸びた鎖が檻の柱に繋がれていた。
 彼女は顔を上げ、琥珀色の大きな瞳で僕をじっと見つめた。その瞳には、恐怖もなければ、絶望もなかった。ただ、冬の午後の誰もいない水族館の水槽みたいに、深く静かな諦念だけが湛えられていた。 「おや、旦那、お目が高いようで……と言いたいところですがね、そいつはやめといた方がいいですよ」と、奴隷商人が揉み手をしながら僕の隣にやってきた。
「どうしてですか?」と僕は尋ねた。
「そいつは黒猫族の『ミ아』という娘なんですがね、生まれつき強力な『不運の呪い』を持っていやがるんですよ。そいつを買った前の主人は、翌日に馬車に轢かれて足の骨を折り、その前の主人は、愛人との密会現場を奥方に踏み込まれて全財産を失っちまった。しかも、首についているのは古代の呪われた隷属の首輪でしてね、解除の呪文が失われているから、死ぬまで外すことができねえんですわ。今じゃ誰も買い手がつかなくて、明日にでも鉱山の廃棄物処理場にタダ同然で引き渡す予定なんですよ」
「いくらですか?」と僕は言った。
「へ?」
「その娘を、僕が買うとしたら、いくらになりますか?」
 奴隷商人は目を丸くし、それからニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「旦那も物好きですなあ。まあ、処分に困っていた不良在庫だ。金貨五枚……いや、金貨三枚で手を打ちましょう。もちろん、買ったあとで旦那の身にどんな不幸が降りかかろうと、当商会は一切の責任を負いませんぜ」 僕はポケットから金貨を三枚取り出し、商人の手のひらに載せた。
「契約書は要りません」と僕は言った。「檻の鍵を開けてください」
「へいへい、毎度あり!」
 商人が鍵を開けると、僕は檻の前にしゃがみ込み、ミアと呼ばれた黒猫の少女に目線を合わせた。
「今日から君は自由だ」と僕は言った。「鉱山へ行く必要もないし、誰かの命令に従う必要もない。とりあえず、お腹は空いているかい?」
 ミアは琥珀色の瞳をぱちくりとさせ、頭の上の黒い猫耳をピクリと動かした。
「……ご主人様、私を、ぶったりしないの?」と彼女は、鈴を転がすような、しかしどこか擦れた声で言った。
「僕は人をぶったりはしない主義なんだ」と僕は言った。「それから、その『ご主人様』という呼び方もやめてほしい。なんだか自分が、十九世紀のプランテーションの経営者にでもなったような落ち着かない気分になるから」
「でも、この首輪がある限り、私はあなたの奴隷よ。絶対に外れない呪いの首輪なんだから」
 僕は彼女の細い首にはめられた、赤黒く光る鉄の輪を見た。
「ちょっとじっとしていてくれ」と僕は言い、その首輪に右手の指先をそっと触れた。そして、昨日オークたちに対して行ったのと同じように、その『呪いと鉄の首輪』という概念を、頭の中の深い井戸の底へと落とした。
 パチン、という小さな音がして、彼女の首から鉄の輪が消え失せた。そこにはただ、少し赤くなった白い首筋だけが残されていた。 「あ……っ!」と奴隷商人が、目玉が飛び出そうなほど驚愕した声を上げた。「ば、馬鹿な! あれはAランクの解呪師でも外せなかった、古代遺物の首輪だぞ!? いったいどうやって……!」
 ミアは自分の両手で、何もなくなった首筋をペタペタと触り、それから信じられないものを見るように僕の顔を見上げた。彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと透明な涙の粒がこぼれ落ちた。
「……消えた。ずっと、苦しかったのが、消えたわ……」
「さて、行こうか」と僕は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。「僕の宿に、悪くないハムとキュウリのサンドイッチがある。君がもしキュウリを嫌いでなければの話だけどね」
 ミアは涙を袖で拭うと、小さく頷き、僕の指先を自分の小さな手でぎゅっと握りしめた。彼女の手は、生まれたての鳥のように温かくて頼りなかった。 6・魔王軍四天王の襲来と、露天風呂における蒸気と実存の考察 それから三日のあいだに、僕の周囲の人間関係は、いささか奇妙な形で定着していった。
 翌朝、僕が宿の一階の食堂でミアと一緒に朝食をとっていると、新しい服に着替えたセレスティアが、綺麗に洗濯してアイロン(おそらく魔法によるものだろう)までかけられた僕の灰色のカーディガンを持って訪ねてきたのだ。
 彼女は僕の隣で美味しそうにミルクを飲んでいる黒猫耳のミアを見ると、最初はエメラルド色の瞳を細めて「やっぱりあなたはロリコンの変態だったのね!」と激しい非難を浴びせてきたが、僕が事情を説明すると、納得したようなしないような複雑な表情で同じテーブルに座り込んだ。そして「あなたのような世間知らずで無防備な男を放っておくと、この世界の秩序にどんな悪影響を及ぼすかわからないから、私が監視してあげるわ」という、極めて論理的整合性に欠ける理由をつけて、そのまま『眠れる羊亭』の隣の部屋にチェックインしてしまったのだ。 そして四日目の夕方、僕たちは宿の裏庭にある『露天風呂』にいた。
 なぜ中世ヨーロッパ風の異世界の街の宿屋に、日本の温泉旅館にあるような岩造りの露天風呂が存在するのか、僕には皆目見当がつかなかった。宿の主人に尋ねてみたところ、「三百年ほど前に、東方からやってきた『温泉の勇者』という男が、街の地下に温泉脈を掘り当て、さらに男女混浴という崇高な文化を遺していったのだ」という説明を受けた。どうやらこの世界には、僕以前にも何人かの日本人がトラックに撥ねられてやってきていたらしい。彼らは魔王を倒すかわりに、醤油やマヨネーズや露天風呂といった文化をこの世界に広めていったのだ。やれやれ、と僕は思った。日本人の温泉に対する執着というのは、時空の壁さえも容易に越えてしまうらしい。 僕は腰に白いタオルを一枚巻いた状態で、肩までお湯に浸かり、夕暮れの紫色の空を眺めていた。お湯の温度は摂氏四十二度くらいで、わずかに硫黄の匂いがした。悪くないお湯だった。
 僕のすぐ横には、大きな岩で簡単な仕切りが作られており、その向こう側が女湯になっていた。もっとも、仕切りと言っても申し訳程度の高さしかないため、湯気越しにお互いの気配は完全に伝わってくる構造になっていた。
「……ねえ、本当にそちらから覗いていないでしょうね?」と、岩の向こうからセレスティアの警戒するような声が聞こえてきた。
「覗いていませんよ」と僕は言った。「僕は今、十九世紀のロシア文学における農奴制の問題と、このお湯の硫黄成分の相関関係について考えていたところです」
「わけのわからないことを言わないでちょうだい。もし少しでもこちらを見たら、絶対零度の氷柱であなたの眼球を串刺しにするわよ」
「ご主人様……じゃなくて、あなた、背中を流しましょうか?」と、ミアの無邪気な声がした。パシャパシャという水音とともに、岩の仕切りの端から、白いバスタオルを胸に巻いたミアがひょっこりと顔を出した。濡れた黒髪に、黒い猫耳がぺたりと張り付いていて、それはそれで実に愛らしかった。
「ち、ちょっとミア! 勝手に向こうへ行っちゃダメよ!」と、セレスティアが慌てて彼女を引き戻そうとして、自分もバスタオル一枚の姿で仕切りの向こうから飛び出してきた。 湯気の中で、二人の少女の肢体が夕暮れの光に照らし出された。
 セレスティアの肌は、まるで最高級の磁器のように白く滑らかで、バスタオルの上からはみ出した胸の膨らみは、女神ほどではないにせよ、十分に豊かで美しい曲線を描いていた。長い銀髪が濡れて白い肩に張り付き、そこから滴り落ちる水滴が、鎖骨のくぼみに小さな水たまりを作っていた。
 彼女は僕と目が合うと、耳の先端まで真っ赤に染め、両手で自分の胸を押さえた。
「み、見たわね! 今、確実に私の胸と、それから鎖骨のあたりを、とても分析的な目で見たわね!」
「不可抗力です」と僕は言った。「僕だって人間ですから、目の前に美しいものが突然現れれば、網膜がそれを受容するのは避けられない物理現象です。もしそれが気に入らないのなら、アイザック・ニュートンか、あるいは光の屈折率そのものに文句を言ってください」
「このっ……屁理屈ばかりの変態!」
 セレスティアが片手で水面を叩き、僕に向かってお湯をバシャッと浴びせかけた。ミアはそれを見て、何か楽しいゲームが始まったと思ったらしく、「わーい」と言いながら一緒になってお湯をかけてきた。
 僕は顔にかかったお湯を拭いながら、奇妙な既視感にとらわれていた。なぜ僕は、異世界の露天風呂で、銀髪のエルフと猫耳の少女から同時にお湯をかけられているのだろう? そこには何か、宇宙の根本的なシステムに関わる重大なバグが潜んでいるように思えてならなかった。 そのときだった。
 空が突然、不気味な赤黒い雲に覆われ、街全体にサイレンのような鐘の音が鳴り響いた。
 ドォォォン! というすさまじい爆発音が遠くから響き、露天風呂のお湯が大きく波立った。
「な、何なの、この魔力の揺らぎは……!?」セレスティアが表情を引き締め、空を見上げた。
 赤黒い雲の切れ間から、巨大な黒い翼を持った何かが、街の中央広場の上空へと舞い降りてくるのが見えた。それは全長が二十メートルはありそうな漆黒のドラゴンと、その背中に乗った、全身を禍々しい黒鎧で包んだ男だった。
 男の声は、拡声魔法か何かによって増幅され、街の隅々にまで雷鳴のように響き渡った。 『愚かなる人間どもよ、聞くがいい! 我が名は、魔王軍四天王が一人、暗黒竜騎将のヴァル・ザ・ダークネス・ブラッド・オブ・ケイオス! 貴様らのこのちっぽけな街は、今この瞬間をもって、我が暗黒竜ファフニールの獄炎によって灰燼と帰すであろう! 絶望に震えながら死ぬがいい、フハハハハハ!』 僕は湯船の中で、濡れた髪をかき上げながら、深い、実に深い溜息をついた。
「……ずいぶん長い名前ですね」と僕は言った。「役所の書類に署名するときなんかに、枠から文字がはみ出して困るんじゃないでしょうか」
「そんな感心をしている場合じゃないわよ!」とセレスティアが叫んだ。「あれは魔王軍の四天王よ! 本来なら、王国の騎士団とAランクの冒険者パーティーが十組は揃わないと太刀打ちできないレベルの災厄だわ! どうしてこんな辺境の『始まりの街』なんかに現れたのよ!?」
「おそらく、物語の進行ペースを早めるためのテコ入れというやつでしょう」と僕は言った。「とにかく、お湯が冷めてしまう前に、ちょっと行って静かにしてもらってきますよ」
「ちょ、ちょっと、あなたそんな格好で行く気なの!?」
 僕は湯船から上がり、腰のタオルの上から、脱衣所に置いてあったバスローブのような白い麻のガウンを羽織り、素足にニューバランスのスニーカーだけを履いた。これなら、深夜に近所のコンビニへアイスクリームを買いに行くときの格好と大差ない。 7・羊をめぐる冒険者たちと、終わらないハーレムの憂鬱 僕が宿の屋根の上にひょいと飛び乗ると、中央広場の上空に浮かんでいる暗黒竜と四天王の姿がよく見えた。
 広場では、衛兵や冒険者たちがパニックに陥って逃げ惑っていた。エレナがギルドの入り口から顔を出し、必死に避難誘導をしているのも見えた。
 黒鎧の男——ヴァル・ザ・ダークネスなんとか——は、ドラゴンの頭の上に仁王立ちになり、両手を天に掲げて、巨大な暗黒の火球を作り出していた。その火球は直径が十メートルほどもあり、周囲の空間をジリジリと歪ませていた。 『見よ、人間ども! これが我が究極奥義、暗黒竜王破滅烈火弾(ダークネス・ドラゴン・カタストロフィ・フレア)だ! この一撃で、街ごと地図から消し去ってくれるわ!』 僕は屋根の瓦の上に立ち、バスローブのポケットに両手を突っ込んだまま、彼のその見事な口上を聞いていた。実のところ、彼がどれほど強いのか、僕にはよくわからなかった。ただひとつ確実に言えることは、彼がこの街を消し去ってしまったら、僕が明日の朝に食べる予定だった『眠れる羊亭』の焼きたてのライ麦パンと、せっかく見つけた悪くない黒ビールの樽まで一緒に消えてしまうということだった。それは僕にとって、看過しがたい損失だった。
 僕は屋根の上から、広場の上空に向かって、ほんの軽くジャンプした。
 筋力と敏捷性が九百九十九のジャンプというのは、ほとんどロケットの発射と同じだった。僕の身体は音速をわずかに超えるスピードで夜の空気を切り裂き、次の瞬間には、暗黒竜の鼻先の、ちょうどヴァル・ザ・ダークネスなんとかの目の前の空間に、ふわりと静止していた。空中を蹴ることで滞空するというのは、物理法則からすればひどくおかしな話だったが、この世界の空気は僕の足の裏に対して非常に協力的だった。 『なっ……!?』と、黒鎧の男が兜の奥で目を剥いた。『き、貴様は何者だ!? 飛行魔法も使わずに、どうやってこの高度まで跳躍してきた!? それに、その白い布切れと妙な靴はいったい何の装備だ!?』
「こんばんは」と僕は言った。「お風呂に入っていた途中で申し訳ないんですが、あなたの声が少しばかり大きすぎて、湯船の中でリラックスすることができないんです。それと、その頭の上で作っている黒いボールですが、それを下に落とされると、僕の明日の朝食のパンが焼成される前に炭になってしまいます。もしよかったら、このまま北の大陸へ帰って、ビル・エヴァンスのピアノ・トリオでも聴きながら静かに夜を過ごすというのはどうですか? もっとも、この世界にビル・エヴァンスがいればの話ですがね」
『な、何を愚弄している、この下等生物めが! 貴様など、我が暗黒竜ファフニールのブレス一発で塵にしてくれるわ! やれ、ファフニール!』 漆黒のドラゴンが巨大な顎をカッと開き、喉の奥に赤黒い炎の渦を収束させた。ドラゴンの口からは、百年くらい歯を磨いていない肉食動物特有の、ひどく生臭い熱風が吹き付けてきた。
 僕は右手をバスローブのポケットから出し、親指と中指を合わせて、パチン、と軽く指を鳴らした。
 それは『概念の井戸』を使ったわけではなかった。ただ単に、指を鳴らすことで生じるわずかな空気の振動——ステータス九百九十九の筋力によるデコピン程度の衝撃波——を、彼らの方向へ向けて放っただけだった。 ボフン、という、どこか間の抜けた音がした。
 その衝撃波は、まず彼らが頭上に掲げていた十メートルの暗黒火球を、まるでお誕生日のケーキのろうそくを吹き消すみたいに一瞬で掻き消した。さらに余波はそのままヴァル・ザ・ダークネスなんとかの黒鎧を粉々に吹き飛ばし、暗黒竜ファフニールの巨大な身体を、木の葉のようにくるくると回転させながら、北の空の彼方へと弾き飛ばしていった。
『ば、馬鹿なあああああーっ! 我が暗黒の力が、指パッチンひとつでえええええーっ!? 覚えていろよおおおおーっ!』
 四天王とドラゴンは、夜空の遠いところでキラーンと小さな光の星になり、そのまま地平線の向こうへと消えていった。それは僕が子供の頃にテレビで見た、何か古いアニメーションの悪役の退場シーンに驚くほどよく似ていた。 僕は重力に従って、広場の石畳の上に音もなく着地した。
 周囲は、水を打ったように静まり返っていた。
 数秒の沈黙のあと、広場にいた数百人の住民と冒険者たちから、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
「す、すげえ……! あの魔王軍の四天王を、一撃で吹き飛ばしやがった!」
「あのお方はいったい誰なんだ!? 白い衣を纏った、伝説の聖者様か!?」
「いや、足元を見ろ! 『N』という古代文字が刻まれた神話級の靴を履いていらっしゃるぞ! 『N』の勇者様だ! 『N』の勇者様が街を救ってくださったんだ!」
 ニューバランスのロゴマークが、いつの間にか古代文字の刻印ということにされてしまっていた。僕は訂正しようかと思ったが、今から彼らにアメリカのボストンにある矯正靴メーカーの歴史について説明するのは、あまりにも骨が折れる作業に思えたので、そのままにしておくことにした。 人混みをかき分けて、バスタオルの上に急いで服を引っ掛けたセレスティアとミア、それにギルドの受付嬢のエレナが駆け寄ってきた。
「あ、あなたって人は……!」セレスティアは呆れたように、しかしどこか熱っぽい瞳で僕を見つめた。「本当に規格外にもほどがあるわ。でも……その、街を救ってくれて、ありがとう。あなたが私のパートナーで、少しだけ誇らしい気分よ」
「ご主人様、すごかった!」ミアは僕のバスローブの裾に抱きつき、黒い猫耳を僕の胸にすり寄せた。「私、一生あなたについていくわ!」
「あの、もしよろしければ」とエレナが眼鏡を直しながら、少し頬を染めて言った。「今回の件で、あなたを特例としてSランク冒険者に昇格させる手続きを取りたいのですが……そのお祝いとして、今夜、私と二人きりで食事でもいかがですか? 実は私、美味しいワインが手に入ったんです」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、そこの眼鏡!」とセレスティアが割って入った。「彼は私の監視対象なのよ! 抜け駆けは許さないわ!」
「むー、私の匂いがついたご主人様をとらないで!」とミアも威嚇するように小さな牙を見せた。 三人の美しい女性たちが、僕の両腕やバスローブを引っ張り合いながら、にぎやかな口論を始めた。周囲の男たちは、まるで世界のすべての幸福を一人で独占した男を見るような、羨望と嫉妬の入り混じった視線で僕を見ていた。
 いわゆる『ハーレム状態』というやつだった。 しかし、その喧騒のただ中に立ちながら、僕の心は不思議なほど静まり返っていた。
 僕は夜空を見上げた。そこには、僕がいた世界のものとは違う、大小二つの月が並んで浮かんでいた。ひとつは青白く、もうひとつは薄いオレンジ色をしていた。
 どれだけステータスが九百九十九になろうと、指先ひとつで暗黒竜を吹き飛ばせようと、あるいは美しいエルフや猫耳の少女たちに囲まれようと、人間が抱える根本的な孤独の総量というものは、きっとどの世界へ行っても変わらないのだ、と僕は思った。僕たちはみんな、それぞれの不完全なステータスを抱えながら、見知らぬ異世界の街角で、失われたスパゲッティの茹で時間を数え続けているに過ぎないのかもしれない。 「やれやれ」と僕は小さく呟いた。誰の耳にも届かないくらいの、小さな声だった。
 お湯はもう、すっかり冷めてしまっているに違いなかった。僕はバスローブの襟を少しだけ合わせると、明日からの新しい依頼と、まだ見ぬ魔王の城と、それからどうやってこの世界でまともなオリーブオイルを手に入れるかということについて考えながら、彼女たちと一緒に『眠れる羊亭』へと続く石畳の道を歩き始めた。風が吹いて、街路樹の葉がさらさらと、まるで古いジャズのブラシ・ワークのような乾いた音を立てて揺れていた。