# 第1話:錆びた羅針盤と、口の悪い給仕女  潮風と石炭の煤が混じり合った重い湿気が、港の石畳を黒く濡らしていた。  新大陸ノヴァ・テラの玄関口、港湾開拓都市『ラスト・アンカー』。外洋の荒波を越える大型連絡船のタラップを降りてから一刻あまり、アレンの三半規管にはまだ船底の揺れが微かに残っている。見上げた夕空の向こうには、街の屋根々々を圧倒して聳え立つ古代の黒鉄塔――『始まりの錨』の巨大な影が、青白い魔素光を帯びた雲を突き刺していた。八百年前の開拓英雄が魔素の嵐を鎮めるために打ち込んだと古文書に記されるその塔の周りだけ、不思議と雲が円形に裂け、冷たい夕陽が港湾都市を照らし出している。十四年前に突如として外洋の嵐が弱まり、この大陸への航路が開けて以来、ここは一攫千金を夢見る者たちが押し寄せる巨大な坩堝となっていた。  開拓庁や大商会の白亜の建物が並ぶ第一区の大通りを抜けて第二区の職人街へ入ると、整然とした石造りの街並みは急速に雑多な木造と煉瓦の継ぎ接ぎへと変わった。鍛冶屋の鎚音と獣脂の焦げる匂い、それに荷車を引く労働者の怒号が夕霧の中で渦を巻いている。  アレンは路地裏の軒先に吊るされた真鍮製の古いランタンと、その下で軋む『錆びた羅針盤』という木看板を確かめてから、厚い樫の扉に手をかけた。  扉を押し開けた瞬間、むせ返るような麦酒の酸っぱい匂いと、魚介を鉄板で焼く香ばしい油煙が顔面を打った。  アレンは敷居を跨ぐと同時に、歩幅を半歩だけ詰めて立ち止まった。視線を動かさず、まず耳と肌で店内の空気を測る。正面奥に厨房とカウンター、右手の壁際に二階への階段、そして左手の樽積みの陰に裏路地へと続く細い勝手口がある。天井の梁は低く、万が一店内で乱闘になっても長柄の槍や大剣は振り回せない高さだ。靴底を通じて伝わる床板のわずかな傾斜と、勝手口から吹き込む隙間風の筋を頭の中の地図に刻み込んでから、彼はようやく壁際の小さな二人掛けの丸テーブルへと足を向けた。  初めて入る建物で真っ先に「自分一人で逃げ切るための退路」を数えるのは、旧大陸の北端、凍土と魔獣の群れに挟まれた辺境の村で生き延びてきた彼に染みついた癖だった。  隣の樽席では、迷宮から戻ってきたばかりらしい古参の冒険者たちが、ジョッキを打ち鳴らしながら声高に噂話を交わしていた。 「おい、聞いたか。第三区の外れで不法採掘をやってたならず者の一味が、また一晩で全員顎を砕かれて衛兵所に放り込まれたそうだぞ」 「ああ、『白銀の掃除屋』の仕業だろう。防壁の外の『深度酔い』の霧の中で、血も流さずに悪党だけを掃除していくっていう、あの正体不明の特級冒険者か……」  アレンは耳の端でその噂を拾いながら、左胸の内ポケットに指先を触れさせた。  そこには、連絡船の運賃として背負った銀貨三十枚の借用書と、青い結晶に侵食されて折れた小さな短剣の欠片が革布に包んで収められている。  注文した安エールと白身魚の香草焼きが運ばれてくると、アレンは懐から数枚の羊皮紙を取り出して卓上に広げた。  先ほど港の開拓庁の登録窓口を出たところで、各ギルドの勧誘員たちから押し付けられた求人ビラだ。一番上にあるのは、鮮やかな深紅のインクで牙の紋章が刷られた『紅蓮の牙』第三勧誘小隊のビラ。その隣には、黄色い紙に天秤の紋章が描かれた大手採掘ギルド『黄金の天秤』のビラが並んでいる。 「『新人歓迎、支度金として銀貨五十枚を即時前貸し、高純度触媒の貸与あり』……か」  アレンはジョッキの縁に唇をつけながら、低く呟いた。  半刻前、港の開拓庁窓口の前で別れたトーマという気の良い若者の顔が脳裏に浮かぶ。連絡船の三等船室で同室だったその農村出身の青年は、この黄色いビラを受け取るなり目を輝かせたのだ。 『よせ、トーマ。新人にいきなり銀貨五十枚の前貸しなんて、どう考えても裏がある』 『心配性だなアレンは! 旧大陸の三年続きの不作でうちの親父が作っちまった借金、こいつで一気に返してくるよ!』  そう言ってアレンの制止を振り切り、トーマは『黄金の天秤』の受付天幕へと駆けていった。確かに銀貨五十枚という額面は、渡航費の借金を抱えるアレンにとっても喉から手が出るほど魅力的な数字ではある。  だがアレンの指先は、ビラの最下段に虫のような小さな文字で記された契約条項の但し書きを冷ややかに弾いた。前貸し支度金の複利計算、貸与装備の破損時における三倍賠償規定、そして何より『小隊長の指示による深層採掘護衛任務への拒否権放棄』。三年前の雪山で仲間たちを殺した契約書と、インクの匂いまでそっくりだった。 * 「ご機嫌よう、お兄さん。ずいぶんと熱心に紙くずを睨んでいらっしゃるけれど、そちらの空いている椅子、お借りしてもよろしくて?」  頭上から落ちてきたのは、酒場の濁った喧騒とはまるで波長が違う、鈴を転がすように澄んだ声だった。  アレンが顔を上げると、そこには奇妙な風体の女が立っていた。  年の頃は二十歳を少し過ぎたあたりだろうか。艶のある銀色がかった黒髪を後頭部で整然とまとめ、氷の中に銀の星を閉じ込めたような独特の蒼銀色の瞳がアレンを見下ろしている。何より目を引いたのはその衣装だった。油と酒の染みがこびりついたこの安酒場において、彼女は塵ひとつない黒のロングスカートに白のエプロン、袖口に繊細なフリルをあしらったクラシカルなメイド服を完璧に着こなしていた。  手には錫製の給仕盆ではなく、小さな革鞄ひとつだけを提げている。 「構わないが……他の席もいくつか空いているぞ」 「あちらの樽席は鉄板の油が跳ねるし、中央のテーブルは安酒で出来上がった連中の唾が飛んでくるもの。消去法でここが一番マシですわ」  女はアレンの返事を最後まで待たず、流れるような所作で向かいの木椅子を引いて腰を下ろした。スカート裾が床板に触れる気配すらなく、古びた椅子が軋む音もしない。  彼女は通りがかった給仕に指を一本立てて黒麦酒を注文すると、組んだ両手を卓上に置き、アレンが広げていた求人ビラを覗き込んだ。 「ふうん。連絡船から降りてきたばかりのピッカピカの新人さんかと思えば、さっそく『紅蓮の牙』に『黄金の天秤』、おまけに中堅の『鉄鎖団』まで揃えたわね」  次の瞬間、女の唇からしとやかな給仕の笑みが消え、代わりにひどく小気味よい毒を含んだ笑みが浮かんだ。 「で、お兄さん。その色とりどりの『死亡同意書』の中から、どれに署名して自分の臓物を切り売りするか決まったの?」 「……死亡同意書とは穏やかじゃないな。だが安心してくれ、この中のどれにも血判を押すつもりはないよ」  アレンがビラの最下段を指先で示すと、メイド服の女はほう、と面白そうに片眉を上げた。 「あら。銀貨五十枚の即時前貸しよ? 連絡船の三等船室から降りてきた懐の寒い新人なら、普通は尻尾を振って飛びつく条件じゃない」 「一番下の但し書きに、貸与装備の三倍賠償と『深層採掘護衛への拒否権放棄』が書いてある。前貸し金で首輪を嵌めて、絶対に断れない危険な場所へ送り込むための契約書だ。甘い汁の匂いが強すぎる場所には、それに見合うだけの罠が口を開けてるものさ」  アレンが淡々と答えると、女は運ばれてきた黒麦酒のジョッキを掴み、上品な見た目とは裏腹に豪快な喉音を立てて一口呷った。泡のついた唇を親指の腹で拭う仕草には、屋敷の奉公人というより、荒野の野営地を何年も渡り歩いてきた手練れのような不敵さが滲んでいる。 「合格点ね、お兄さん。小さい文字までちゃんと読める目を持ってるじゃない。でもね、このラスト・アンカーの求人票の本当のタチの悪さは、その但し書きのもう一段奥にあるのよ」  女は人差し指の爪で、『紅蓮の牙』第三勧誘小隊長ガッツォの名が刷られた深紅のビラをトントンと叩いた。 「たとえばその『支度金銀貨五十枚と高純度触媒の貸与』。実際に署名するとね、現金なんて一枚も渡されないわ」 「現金が渡されない? じゃあ何が貸与されるんだ」 「その小隊長と裏で繋がってる指定商会から、原価銀貨十枚にも満たないナマクラの鉄剣と、不純物だらけの粗悪なガラス管触媒を『銀貨五十枚分のローン』として押し付けられるのよ。で、その日から『初心者でも安心の大型前衛部隊』っていう名の、大人ひとり分はある八貫の魔晶石袋を担ぐ荷運びロバの出来上がりってわけ」 「現物支給の名を借りた、商会とのキックバックか」 「ええ。しかも、いざ迷宮の浅層で魔獣の群れに遭遇すれば、上位の精鋭様が安全に撤退するための『足止め役』として通路に置き去りにされる。死ねば貸与装備の三倍賠償規定で遺留品から身ぐるみまで没収、運良く生き残っても複利で借金が膨らんで一生その小隊から抜けられない。ね、文字通りの『死亡同意書』でしょう?」  アレンは黙って女の顔を見つめた。  但し書きの条文から自分が警戒していた罠が、この街ではすでに完成された産業として回っているらしい。港の窓口前で天幕へ走っていったトーマの背中が脳裏をよぎり、奥歯に苦いものが広がった。 「……ずいぶん内部の金の流れに詳しいんだな。あんた、どこかのギルドの監査役か何かか?」 「まさか。この格好はただの趣味兼、ちょっとした仕事着よ。ま、これでも昔はいろんなギルドの台所事情を内側から覗いてきた渡り鳥だからね。どこもかしこも、看板の裏をめくれば腐った脂がこびりついてるってだけ」  女はジョッキの底を卓に鳴らしながら、値踏みするように細めた氷のような瞳でアレンを真っ直ぐに射抜いた。 * 「言っておくけど、私はなにも『紅蓮の牙』が組織まるごと脳みその腐った連中だって言ってるわけじゃないわよ」  女はフォークの先で、アレンの皿の端にあった香草焼きのレモンを勝手に突き刺しながら言葉を継いだ。 「あの最大手ギルドの上層部――特に第一監察官あたりに座ってる連中は、反吐が出るほど合理的で、腕っぷしも化け物揃いよ。開拓都市っていう底なしの胃袋を維持するために、毎日どれだけの人材と魔晶石をすり潰せば帳尻が合うか、冷徹に算盤を弾いてる。だからこそ始末が悪いの。連中は組織が肥大化しすぎて、ガッツォみたいな末端の小隊長が看板の威光を笠に着て新人を食い物にしていても、魔晶石のノルマさえ上がっていれば基本的には見て見ぬふりをする。ただし、そいつが規定外の横領をやったり街中で看板に泥を塗るようなヘマをやらかせば、トカゲの尻尾切りで容赦なく切り捨てるけどね」 「上は冷徹な算盤ずくで、下は虎の威を借る狐か。旧大陸の商会や領主軍と変わらないな」 「ええ。で、そういう巨大ギルドの派閥争いと息苦しさが嫌になって私が次に移ったのが、そっちの黄色いビラ――『黄金の天秤』傘下の中堅採掘ギルドだったってわけ」  女の声から、ふっと軽薄な温度が消えた。  酒場のざわめきが遠のいたかのように、彼女の周囲だけ空気の密度が変わる。彼女は無意識なのか、メイド服の胸元――白いフリルが重なる鎖骨の下あたりに、そっと左手の指先を触れさせた。 「中堅どころは『アットホームな実力主義』なんて謳ってたわ。翻訳すれば『死ぬ時は新入りから順番の人柱互助会』って意味よ。新大陸の大地に満ちてる高濃度の魔素『蒼銀脈』はね、まともな導脈銀の触媒を通さずに生身や安物の鉄器で無理やり引き出す『直結同調』をやると、血管や神経が内側から蒼い霜みたいに凍りついて結晶化する。一度でも結晶化した肉は二度と元には戻らない」  彼女の蒼銀の瞳が、卓上のランタンの炎を映して静かに揺れた。 「二年前、そのギルドのベイルっていう隊長がね、採掘ノルマを達成するために何も知らない新人たちに『出力が上がる特製の触媒だ』って嘘をついて粗悪品を握らせたの。結果、廃坑の奥で魔獣に囲まれたとき、新人たちの腕は蒼い霜が吹いて動かなくなった。ベイルはどうしたと思う? 掘った魔晶石の袋だけ抱えて、命令に逆らって新人を庇った副隊長ごと坑道の扉を外から閉めようとしたわ」  その言葉が落ちた瞬間、アレンの脳裏に三年前の凍土の雪山と、懐にある折れた短剣の欠片が鮮烈に蘇った。  あの日も、全く同じだった。凍土の村にやってきた旧大陸の大商会の勧誘員が「安全な魔素鉱脈の護衛だ」と甘い言葉を並べ、アレンの幼馴染たちはそれを信じて雪山へ入った。そして粗悪な触媒の暴走で腕から凍りつき、採掘物だけを回収した商会の連中に坑道の扉を外から閉められて生き埋めにされたのだ。その大商会が資本を移した先こそが、この新大陸の『黄金の天秤』だった。誰が、どの規定であの扉を閉めさせたのか――それを突き止めることこそが、アレンが借金を背負ってまで海を渡った理由だった。  卓上のジョッキを握るアレンの拳に、無意識のうちに白い筋が浮く。 「……それで、その廃坑の連中はどうなったんだ」 「決まってるじゃない。私がそのベイルって隊長の顎を蹴り砕いて、魔晶石の袋を全部谷底へ捨てさせて、扉の内側にいた副隊長と新人を全員担いで地上まで引きずり上げてやったわよ。おかげで私は違約金請求と業務妨害でそのギルドをクビになったけどね」  女はなんでもなさそうにエプロンの端を指で弾いて、残りの黒麦酒を飲み干した。  冗談めかした口ぶりだったが、アレンには分かった。高濃度魔素が渦巻く坑道で、動けない負傷者を複数抱えたまま魔獣の包囲網を単独で突破するなど、並の前衛冒険者にできる芸当ではない。 「それに、お兄さん。あんたが最初から誰の言葉も信じてないことくらい、足元を見れば分かるわよ」 「ほう。俺の足元に何か書いてあるか」 「あんた、さっきこの店に入ってきたとき、テーブルを探すより先に勝手口の位置と天井の梁の高さを確かめたでしょう。それに、そのブーツ」  女は顎をしゃくって、テーブルの下にあるアレンの足元を示した。 「連絡船の長旅と港からの泥道を歩いてきたはずなのに、靴底の外側も内側も偏って減っていない。常に足の裏全体で床板の傾斜を測って、いつでも一人で後ろへ跳んで逃げられる位置に重心を残して歩いてる証拠よ。何より――」  彼女の視線が、アレンの左腰に佩かれた飾り気のない片手直刀へと移った。 「鞘の塗装は剥げてるのに、柄の巻き革には緩みひとつない。鍔元の鯉口に至っては、親指で一分押せば音もなく抜けるように油と削り具合が完璧に調整されてる。旧大陸のどっちの辺境かは知らないけれど、あんた、過去に甘い言葉でひどい火傷をして以来、自分の剣と自分の逃げ道しか信じなくなった人間ね」  アレンは息を呑み、自分の腰の無銘刀の鉄鍔にそっと親指を添えた。 「……参ったな。そこまで正確に言い当てられたんじゃ、言い訳もできない。ところで、あんたはいったい何時から俺を見ていたんだ? 店に入った時、俺は客の顔ぶれも一通り確かめたはずだが」 「あら、店の中だけだと思った? 港の開拓庁の窓口の前で、あんたが同室の若い子が『黄金の天秤』へ走るのを止めようとしていた時からずっとよ」  女は悪戯っぽく片目を閉じて笑った。退路と死角を完璧に測っていたはずのアレンが、港からこの酒場まで尾行されていたことに気配すら気づけなかったという事実が、彼女の底知れない実力を何よりも雄弁に物語っていた。 「俺はアレンだ。仰る通り、今日着いたばかりで連絡船の借金はあるし、甘い言葉には反吐が出るタチでね。どこのギルドも似たような穴が掘ってありそうで思案していたところさ」 「やっぱりね。アレン、あんたみたいに自分の足元を正確に測れる人間が、大手の荷運びや粗悪触媒の実験台ですり潰されるのは、見ていて寝覚めが悪いのよ」 *  女は空になったジョッキを卓上に置くと、小さな革鞄の留め金を外し、中から一枚の古びた硬貨を取り出した。  彼女の白く細い指先が、硬貨から離れるのを惜しむように、ほんの一拍だけ微かに躊躇った。  だが次の刹那には、パチン、と澄んだ金属音を立てて、それがアレンの求人ビラの上に置かれる。  現在流通している開拓庁の丸い銀貨よりもひと回り厚く、縁が不揃いな古い銀貨だった。表面の刻印は長年の摩耗ですっかり擦り減って灰色の猫の横顔のようにも見えるが、裏返してみると、そこには刃物で精密に彫り込まれたような微細な幾何学紋様がくっきりと残っていた。指先で触れると、ただの銀とは違う、氷のように冷たくて硬い独特の質量感がある。 「もしあんたが、見栄えばかりの巨大な看板や、甘い前貸し金の言葉に興味がないなら――明日、第二区と第三区の境にある『古時計塔』を訪ねてみなさいな」 「古時計塔? そこに何があるんだ」 「開拓庁への登録名は『灰猫の針』。ま、通りの連中や馴染みからは建物の名前そのままに『白夜亭』って呼ばれてる小さなギルドよ。所属してる人間は片手で数えるほどしかいないし、大手がやってるみたいな派手な歓迎会も支度金の貸し付けもない。一階はいつ潰れてもおかしくない喫茶兼仕立て屋になってるから、ギルドの看板を探しても無駄よ」  女は立ち上がり、メイド服のエプロンの皺を優美な手つきで整えた。 「ただ、あそこにいる連中は全員、私がこれまで見てきた中で唯一、同じ風の中で背中を預けても裏切らない変わり者ばかりよ。新人に粗悪な触媒を握らせることもなければ、上前のピンハネもしない。その代わり、自分の足で立てない半端者は門前払いだけど……あんたなら、そこの偏屈な店主が淹れる苦い珈琲くらいはご相伴に与れるんじゃない?」 「待てよ。あんた、その『灰猫の針』とやらの人間なのか?」  アレンが問い返すと、女は肩越しに振り返り、涼やかな瞳を細めて不敵に笑った。 「さあてね。私はただの、お節介で口の悪い通りすがりのメイドよ。その銀貨は昔そこの店主から預かった紹介証みたいなものだから、嫌ならそのまま今夜の酒代にでも使えばいいわ。……ああ、私の名前はロザリア。もしあんたが明日まで誰かの飼い犬にならずに生き残っていたら、またどこかで会いましょう」  ロザリアはひらりと片手を振ると、酒場の入り口へと背を向けた。  ちょうどその時、隣のテーブルで酔っぱらった大柄な冒険者が椅子ごと後ろへ倒れ込み、手にしていたエールの大ジョッキが床板へ落ちかけた。  アレンが反射的に腰を浮かせたよりも早く、すれ違いざまのロザリアのつま先が、目にも留まらぬ速さで宙のジョッキの底を軽く蹴り上げた。ジョッキは一滴の酒もこぼさぬまま放物線を描き、倒れかけた大男の胸元へとすっぽり収まる。大男自身、何が起きたのかすら気づいていない。  そしてアレンの目を釘付けにしたのは、その一瞬の体捌きで翻った彼女のメイド服の裾だった。  黒い布地の裏側、幾重にも縫い込まれた白銀の糸が、酒場の薄暗い魔素灯の光を吸って、生きている脈動さながらに鮮やかな燐光を走らせた。しかも、彼女が古い床板を踏みしめて扉の外へ滑り出るまで、靴音はただの一度も鳴らなかった。  嵐のような女が去った後のテーブルで、アレンは一人、指先に挟んだ古い銀貨を見つめた。  ただの給仕女や事務員があんな無音の歩法を使えるはずがないし、あの裾に織り込まれていた輝きは、高価な魔導触媒『導脈銀』の糸に違いなかった。正体を隠して新人を値踏みしていたのは明らかだが、不思議と不快感はなかった。彼女が包み隠さず暴いたギルドの裏事情には一切の嘘がなかったし、何より、あの鋭い眼差しはアレンの剣と傷を真っ向から見据えていたからだ。 「『灰猫の針』に、古時計塔の『白夜亭』、か」  アレンは卓上に広げていた『紅蓮の牙』と『黄金の天秤』の求人ビラを無造作に折りたたんで懐の奥へ押し込むと、擦り減った銀貨を親指で弾いて受け止めた。  氷のように冷たい金属の感触が掌に残る。新大陸での最初の夜は、どうやら退屈せずに済みそうだった。 # 第2話:紅蓮の看板を笠に着る狗、鎖を引く飼い主  夜明け前の港湾開拓都市『ラスト・アンカー』は、外洋から押し寄せる濃い朝霧と、幾つもの鍛冶炉に火を入れる石炭の黒煙で白く霞んでいた。  アンカー暦十四年、蒼風月の十六日。新大陸に上陸して二日目の朝を、アレンは第二区の旅籠の硬い藁布団の上で迎えた。格子窓の外からは夜通し稼働していた港湾の荷揚げ起重機の重い軋みと、朝一番で地下迷宮へ向かう冒険者たちの鉄靴の音が石畳を揺らして響いてくる。旧大陸の凍土の村では聞いたことのない、巨大な胃袋が絶えず何かを咀嚼しているような都市の唸りだった。  アレンは木桶に汲み置かれた冷水で顔を洗い、眠気を振り払ってから身支度を始めた。使い込まれた革鎧の胸当てと脛当ての留め具を、一つずつ指先の感覚で確かめながら締めていく。どれか一つの革紐でも緩んでいれば、咄嗟の踏み込みで重心が一拍遅れる。辺境の雪山で魔獣と対峙していた頃から、出立前の点検を怠ったことは一度もなかった。  最後に左腰の帯革へ、旧大陸からずっと苦楽を共にしてきた無銘の片手直刀を差す。親指の腹で鉄鍔を軽く押し上げると、油の馴染んだ鯉口が音もなく一分だけ開き、いつでも抜刀できる滑らかな感触を掌に伝えてきた。  軋む木階段を降りて一階の帳場を抜けると、路地を吹き抜けるひんやりとした潮風が頬を撫でた。  アレンは歩き出しながら、右手の親指と人差し指の間で、昨夜ロザリアから預かった古びた銀貨をゆっくりと転がした。表面は長年の摩耗ですり減り、灰色の猫の横顔のような輪郭がやっと判別できる程度しかない。だが裏面に刻まれた微細な幾何学紋様は、朝霧を透かした鈍い陽光を受けて硬質な影を落としていた。ただの銀貨よりもはるかに重く、指先の皮膚にピリリとした微弱な冷気を伝えてくるのは、内部に高純度の『導脈銀』が練り込まれているからだろう。 「第二区と第三区の境にある『古時計塔』……開拓庁への登録名は『灰猫の針』、通称『白夜亭』だったか」  独り言めかして呟きながら、アレンは職人街の湿った石畳を北東へと歩を進めた。  まだ太陽が防壁の端に顔を出したばかりだというのに、大通りにはすでに多くの冒険者や荷運びの人足が溢れ返っていた。湯気を立てる麦粥の屋台や、研ぎ上がったばかりの鶴嘴を並べる露店の間を縫って歩きながら、アレンは周囲を行き交う探索部隊の顔ぶれに自然と目を走らせた。そして十間も歩かないうちに、昨夜酒場でロザリアが吐き捨てていた辛辣な言葉が決して誇張ではなかったことを肌で理解した。  石畳の中央を我が物顔で闊歩しているのは、深紅の外套や黄金の天秤の紋章を掲げた大手ギルドの小隊ばかりだった。  先頭を行く古参の剣士たちはよく手入れされた鋼の胸甲を着込み、身軽な武装で高笑いを浮かべている。ところがその背後に続く十数人の若い新人たちは、自分の背丈ほどもある木枠の背負い袋と予備の松明、さらには採掘用の鉄杭まで担がされ、迷宮の入り口に着く前からすでに肩で荒い息をついていた。  アレンの目が、その荷運びの列の最後尾を歩く一人の若者に止まった。 (……トーマか)  昨日、港の開拓庁窓口の前で別れたばかりの農村の若者だった。すでに彼の肩には八貫を超えそうな木枠の荷袋が食い込み、腰には安物の鋳造鉄剣が不格好に吊るされている。足取りに至っては、背中の荷物の重さに耐えかねて、一歩ごとに踵の内側へ不自然に体重が落ちていた。あれでは魔獣に奇襲された瞬間、自分の足首を捻って転倒するのがオチだ。  さらに痛々しいのは、トーマたちが首から革紐で下げている濁ったガラス管の魔素触媒だった。内部に封入された低純度の鉄粉が街の空気に漂う魔素と不自然に擦れ合い、ジジ、と焦げ臭い紫の火花を散らしている。そのガラス管が胸元に触れるたび、トーマは顔色を悪くして乾いた咳を漏らしていた。アレンが声をかけようと半歩踏み出した瞬間、先頭の隊長が「遅れるな荷運びども、日当から罰金を引くぞ!」と怒鳴りつけ、列は足早に第三区の迷宮ゲートの方へと消えていった。 「……あれが、前貸し支度金のローンで買わされる粗悪装備の群れか」  ロザリアが『死亡同意書』と呼んだ理由が、これ以上ないほど生々しく目の前に転がっていた。  アレンは唇を噛み、荷運びの列とは別の路地を選んで北東へと歩いた。  第一区の華やかな大通りから離れて第三区の防壁際へ近づくにつれ、建物の背は次第に低くなり、代わりに頭上に張り巡らされた蒸気導管や魔素灯の古い配線が蜘蛛の巣のように空を区切り始める。朝霧の切れ間からは、都市の中央背後に聳える古代黒鉄塔『始まりの錨』の威容が、天を突く巨大な墓標さながらにぬっと突き出していた。  その時だった。第二区の職人街が途切れ、古い煉瓦造りの資材倉庫が並ぶ袋小路の交差点へ差し掛かったところで、アレンの鼻先を強い安酒の臭気と、錆びた鉄の混じった不快な匂いが掠めた。  アレンは即座に歩みを止め、重心を靴底の中央へ落とした。  前方の路地の角から、深紅の肩章をつけた五人の男たちが朝の薄霧を裂くようにして現れ、通りを塞ぐように広がった。 * 「おいおい、誰かと思えば昨日の夕方に港の窓口で俺様の声を無視して通り過ぎた田舎者じゃねえか」  路地の幅いっぱいに立ち塞がったのは、熊のように分厚い胴体に真新しい鎖帷子を着込んだ三十がらみの巨漢だった。  赤茶けた顎鬚を無造作に蓄え、右肩には最大手ギルド『紅蓮の牙』の紋章が金糸で縫いつけられた深紅のハーフマントを羽織っている。背後の路地には下卑た笑みを浮かべた四人の前衛隊員が控え、いつでも腰の剣を抜ける体勢で半円を描くようにアレンの左右を囲みかけていた。  アレンは巨漢の顔に見覚えがあった。昨日、連絡船を降りた直後の港湾広場で「支度金銀貨五十枚の即時前貸し」を大声で触れ回っていた、『紅蓮の牙』第三勧誘小隊長のガッツォだ。 「何か用か。俺はこれから人を訪ねる約束があるんだが」  アレンは背後の退路と左右の煉瓦壁までの距離を測りながら、努めて平穏な声で返した。右側の倉庫の軒下には空の木箱が積まれており、左側の壁には雨樋の鉄管が走っている。万が一五人がかりで斬りかかられても、木箱を盾にしながら一人ずつ狭い通路へ誘い込める地形だった。 「用があるから足を止めたんだろうが、この野郎」  ガッツォは石畳に痰を吐き捨てると、分厚い革張りの書類挟みを指先で叩きながら一歩前に出た。 「昨日は俺様の配った求人ビラだけ貰っておいて、挨拶もなしに消えやがったよなあ。今朝の第三層・外縁浅区の採掘護衛に、荷運びがちょうど一人足りねえんだよ。てめえ、その貧相な革鎧を見りゃまだどこのギルドにも登録してねえ無所属だろう。今から俺様の第三小隊に入れてやるから、この前貸し契約書に親指の血判を押しな」 「断る。昨日のうちに募集要項の但し書きは隅まで読ませてもらったが、俺は三倍賠償のローンを組んで荷運びロバになる趣味はないんでね」  アレンが淡々と言い放つと、取り巻きの男たちの間から下品な嘲笑が漏れた。ガッツォの額に太い青筋が浮き、酒焼けした頬がみるみるうちに赤黒く染まる。 「ああん? 辺境上がりの泥靴が、このラスト・アンカーで一番デカい『紅蓮の牙』の看板に唾を吐く気か!」  ガッツォは胸元の深紅の紋章を親指で強く叩き、倉庫の屋根がビリビリと震えるほどの大声で怒鳴り散らした。 「いいか小僧、この街じゃ俺たち『紅蓮の牙』の機嫌を損ねたら、どこの商会からも宿からも爪弾きにされるんだ。俺様がわざわざ声をかけてやったのを光栄に思え! それとも何か、その腰の錆びたナマクラと、指先に挟んでるゴミみたいな古銭で生き残れるとでも思ってんのか!」  ガッツォの充血した目が、アレンの右手にあった『灰猫の銀貨』に止まった。 「なんだそりゃ。すり減って文字も読めねえじゃねえか。おい、勧誘の手間賃代わりにその銀貨と腰の刀をここへ置いていけ。そうすりゃ片腕をへし折るだけで勘弁してやるよ!」  完全に言いがかりだった。  おそらく今朝の採掘部隊の頭数が揃わず、上役からノルマ未達で叱責されるのを恐れて宿屋街をうろつき、手頃な無所属の新人を力づくで連行しようとしていたのだろう。口ではギルドの威信だの教育だのと喚いているが、ロザリア風に翻訳すれば『ノルマに追われた末端の共食い』に過ぎない。  アレンは銀貨を懐の革袋へ静かに収めると、細く息を吐いた。 「看板がどれだけ大きくても、それを背負ってるあんたの足元は随分と浮いてるぞ。深度酔いだか二日酔いだか知らないが、朝の往来で無所属の新人を恐喝したとあっては、その深紅の紋章が泣くんじゃないか」 「てめえ……っ、口だけは達者だな! 『紅蓮の牙』の小隊長に逆らうとどうなるか、骨の髄まで教え込んでやる!」  ガッツォが獣のように吠えた。  背中の肉厚な片手戦斧を引き抜く。同時に、左手で首元の粗悪な鉄製触媒を握り潰すようにして魔素を流し込んだ。  バチッ、と不協和な紫電が爆ぜた。大気中の『蒼銀脈』を調律もなしに引きずり出す、粗悪触媒の『直結同調』だ。ガッツォの首筋の血管がどす黒く膨れ上がり、戦斧の刃に濁った魔素の焔が纏わりつく。周囲の空気が一気に鉄錆と焦げた脂の臭いで満たされた。 「小隊長、やっちまいな!」 「手足を砕いてから契約書に指を押し付けりゃ同じだ!」  取り巻きが路地の出口を塞ぐ。ガッツォが石畳を踏み割る勢いで突進してきた。  魔素の筋力強化に任せた、ただ速くて重いだけの直線的な踏み込み。振り上げられた戦斧が、風を裂くうなりを上げてアレンの鎖骨めがけて振り下ろされる。 *  速い。だが軌道が丸見えだった。  凍土の雪山で飢えた氷狼の群れを何百回と捌いてきたアレンの目には、ガッツォの肩の収縮と重心の偏りが手に取るように映っていた。魔素で無理やり筋力を底上げしているせいで、踏み込んだ右足に体重の八割が乗り、急停止も方向転換もできない死に体だ。  アレンは左腰の直刀を抜かなかった。こういう輩を相手に往来で白刃を抜けば、正当防衛でも開拓庁の役人に言いがかりをつけられる。  戦斧の刃が鼻先三寸に迫った刹那、アレンは靴底を湿った石畳に滑らせて半歩だけ左斜め前――ガッツォの懐の死角へと身を沈めた。  空を切った戦斧が轟音とともに石畳を砕く。火花と鋭い石礫が四方へ散った。 「なっ――!?」  ガッツォが目を見開いた時には、アレンの左手はすでに腰の鉄鞘の鞘尻を掴んでいた。  相手の突進力に逆らわず、運動量の向きを最小限の接触で横に逸らす辺境流の体術。アレンは低く沈めた腰の回転を使い、硬い鞘尻をガッツォの伸び切った右膝の外側関節へと正確に打ち込んだ。さらに返す動きで一歩踏み込み、がら空きになった巨漢の脇腹へ右肘の当て身を添えて押し流す。 「ぐ、おああっ!」  自らの突進力に足を掬われたガッツォは、巨体を制御できずに宙で一回転し、路地の窪みに溜まった泥水へと顔面から激突した。  ドシャッ、と黒い汚水が跳ね上がる。手から離れた戦斧が石畳を滑って乾いた金属音を響かせた。 「しょ、小隊長!?」 「なんだ今の動きは……刀も抜かずに小隊長を投げ飛ばしたぞ!」  取り巻きの四人が顔色を変えて剣の柄を握り直したが、アレンはすでに三歩後ろの間合いへ音もなく戻り、自然体で立っていた。呼吸ひとつ乱れていない。 「ぐうっ……こ、この野郎! よくも俺様に泥を……!」  鼻血と泥水にまみれたガッツォが、血走った目で四つん這いから立ち上がった。落とした戦斧を拾い上げた彼の左手では、握りしめられた粗悪触媒のガラス管がひび割れ、前腕の皮膚にチリチリと『蒼い霜』のような初期結晶化の斑点が浮き出始めていた。だが逆上したガッツォはそれに気づく様子すらなく、周囲の煉瓦壁ごと吹き飛ばしかねない乱暴な魔素の渦を戦斧へ集束させた。 「ぶっ殺してやる! お前らも全員抜け、この場で八つ裂きに――」 「――そこまでだ。貴様ら、その深紅の紋章を掲げて朝の往来で何を晒している」  声は決して大きくなかった。  それなのに、その低く冷徹なバリトンが路地に落ちた瞬間、ガッツォの怒号も、取り巻きたちの荒い息遣いも、遠くの街区のざわめきさえもが、分厚い氷の壁に押し潰されたようにピタリと止まった。  アレンの背筋に、かつて経験したことのない種類の悪寒が走った。  路地の表通り側、朝霧が立ち込める石畳の向こうから、規則正しく寸分の狂いもない歩幅で歩いてくる一団があった。  先頭を歩むのは、深紅の縁取りが施された漆黒の監察官外套を纏う長身の青年だった。年の頃は二十代半ばだろうか。氷塊を彫り上げたように整った顔立ちには一切の感情の揺らぎがなく、灰青色の双眸が絶対零度の光を宿して路地を見据えている。腰には『紅蓮の牙』の上位幹部のみに許される導脈銀鋼の幅広大剣が佩かれており、背後には同じく黒外套を着た四人の監察部員が一糸乱れぬ足並みで控えていた。 「ひっ……! ヴァ、ヴァルター第一監察官殿!?」  取り巻きの一人が、喉をひきつらせて悲鳴のような声を上げた。  泥だらけのガッツォの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。戦斧の刃に集めかけていた濁った魔素の焔が、絶対的な上位者への恐怖で霧散する。 「ち、違いますヴァルター様! こいつが、この無所属の新入りが我が『紅蓮の牙』の看板を侮辱しやがったんで、俺様はギルドの威信を守るために教育を――」 「弁明は不要だ」  ヴァルターと呼ばれた黒外套の青年は、歩調を一切変えなかった。  カツ、カツ、と石畳を踏みしめる軍靴の音が、処刑台の太鼓のように均等な拍子で近づいてくる。場の空気そのものが、彼の歩幅に合わせて重苦しく脈動していた。 「開拓庁の登録記録は確認済みだ。第三勧誘小隊長ガッツォ、お前が指定商会と結託して粗悪な触媒を新人に押し付け、規定外の金利で私腹を肥やしていた裏帳簿も今朝すべて押収した。その上で、白昼の往来で無所属の冒険者に私闘を仕掛け、あまつさえ抜刀もしていない相手に無様な泥を舐めるとはな。お前のような腐り肉が、我が『紅蓮の牙』の規律を汚す」  ヴァルターとガッツォの距離は、まだ三間以上あったはずだった。  追い詰められたガッツォが、恐怖のあまり反射的に戦斧を構え直そうと指を動かした、その刹那である。  アレンの視界から、ヴァルターの姿が消えた。  いや、消えたのではない。地面を蹴る予備動作も、魔素が膨れ上がる前兆すら一切なく、気づいた時にはガッツォの真横に漆黒の外套の裾が翻っていた。  ヴァルターは腰の幅広大剣を抜刀すらしていなかった。ただ左手で握った大剣の鞘ごと、重厚な導脈銀の柄頭を、最短の直線軌道でガッツォの首筋――延髄の急所へと無造作に打ち込んでいた。  タン、と拍子木を合わせたような乾いた音がひとつだけ鳴った。  直後、ガッツォの巨体からすべての力と意識が糸の切れた操り人形のように抜け落ち、白目を剥いたままうめき声すら上げずに石畳の上へ崩れ落ちた。柄頭から精密に流し込まれた導脈銀の魔素衝撃が、皮膚も骨も傷つけず、脳の意識だけを刈り取ったらしかった。 「……っ!」  路地の奥、わずか数歩離れた場所に立っていたアレンは、息を呑むことすら忘れて硬直していた。  見えなかった。  先ほどガッツォの戦斧を余裕でいなしたアレンの動体視力をもってしても、ヴァルターが三間の距離を詰めて柄頭を打ち込むまでの「途中の動作」が、認識の隙間をすり抜けるように完全に抜け落ちていたのだ。  ヴァルターが淡々と黒外套の袖口を整えるのを見ながら、アレンは自分の右手の掌にじっとりと冷たい脂汗が滲んでいることに気づいた。心臓が一拍遅れて、肋骨を内側から叩くような早鐘を打ち始める。 (もし――今の一撃が、殺意を持って俺の首に向けられていたら)  背骨を氷の刃で撫で上げられたような戦慄が全身を駆け抜けた。自慢の鯉口を親指で切るどころか、相手が踏み込んだと脳が認識する前に、自分の首は確実に宙を飛んでいただろう。これが『ラスト・アンカー』の最大手ギルドを束ねる第一監察官。看板の威を借る末端のならず者とは次元が違う、新大陸の頂点に君臨する本物の化け物の実力だった。 * 「連れて行け」  ヴァルターは足元に転がったガッツォに一瞥もくれず、背後の監察部員たちに短く命じた。 「第三勧誘小隊長ガッツォおよび同行隊員四名は、本日付をもって『紅蓮の牙』より除名とする。その男の意識が戻る前に開拓庁の治安維持局へ引き渡し、不正融資と往来での私闘の罪状で懲罰採掘区へ送れ。今後五年間、二度と表の街の太陽を拝ませるな」 「はっ!」  黒外套の部下二人が無言で進み出ると、意識を失ったままピクリとも動かないガッツォの両脇を抱え上げ、残りの二人が真っ青になって膝から崩れ落ちた取り巻きたちの武器を没収して手際よく捕縄を打った。怒号も混乱もない、冷酷なまでに整然とした組織の自浄処理だった。ただ、引きずられていくガッツォのだらりと垂れた左腕に浮き出た『蒼い霜』の斑点だけが、朝の鈍い光の中で妙に生々しくアレンの目に焼きついた。  元小隊員たちの足音が表通りの霧の向こうへ遠ざかると、ヴァルターはそこで初めてアレンの方へと顔を向けた。  氷のような灰青色の双眸が、アレンの低い重心、乱れていない呼吸、そして先ほど鞘尻でガッツォの膝を突いた左腰の無銘直刀を順に撫でた。 「無所属の新人と言ったな。我がギルドの末端が見苦しい真似をした。怪我はないか」 「……ああ。おかげさまで、かすり傷ひとつないよ」  アレンは全身の筋肉が勝手に臨戦態勢を取ろうとして強張るのを必死に抑え込みながら、なんとか普段通りの声を作って答えた。 「抜刀もせず、鞘尻ひとつで魔素強化したガッツォの重心を崩したか。辺境仕込みにしては、基礎の体捌きと距離の測り方だけは悪くない。……名を聞いておこう」 「アレンだ」 「そうか、アレン。もしお前が、今のような末端の腐り肉ではなく本物の前衛部隊で剣を磨く気があるなら、明日にでも第一区の『紅蓮の牙』本部へ来て私の名を出すがいい。前貸し金のような安い餌は出さんし、規定の歩留まりは厳しく課すが、監察部直轄の正規試験を受ける権利をやろう」  思いがけない言葉だった。最大手ギルドの第一監察官自らによる、正規のスカウトだ。  だがその直後、ヴァルターの視線がふとアレンの懐――先ほど『灰猫の銀貨』をしまった革袋のあたりに落ちた。ヴァルターの眉がほんのわずかだけ動く。 「……いや、待て。その懐から漏れる微弱な導脈銀の波長……そうか。昨日連絡船で上陸したばかりで、すでに『古時計塔』の掃除屋に唾をつけられたか」  アレンは思わず息を詰めた。厚い革袋と革鎧越しに、あの古い銀貨が放つ微かな共鳴波長を正確に感知したというのか。 「掃除屋、とは誰のことだか分からないがね。俺はただ、昨夜酒場で相席になった口の悪いメイドから、珈琲の美味い店を教えてもらっただけさ」 「ふん。相変わらず趣味の悪い手口だ」  ヴァルターは静かに踵を返して黒外套の裾を翻した。 「ならば一つだけ忠告しておく、新人。私の出した正規試験の誘いはいつでも有効だが、もしあの『白夜亭』の女に付いていく気なら覚悟しろ。あそこが首を突っ込んでいる『第一の楔』の領域は、今お前が相手にした下郎どもの百万倍はタチが悪い。あの女の隣に立つ気なら、今の程度の剣では三日と保たんぞ」  その言葉だけを冷たい朝風に残し、第一監察官ヴァルターは来た時と同じく、寸分の狂いもない重厚な歩調で朝霧の向こうへと去っていった。  路地に完全な静寂が戻ってから、アレンはようやく肺の奥に溜まっていた空気を長く吐き出した。  張り詰めていた神経の糸が緩むと、足元の石畳から伝わる湿気がひどく冷たく感じられる。彼は自分の右手を広げ、まだ微かに震えている指先をじっと見つめた。 「……化け物め。上があれじゃあ、ロザリアが『反吐が出るほど合理的で腕っぷしも化け物揃い』って言っていたのも納得だな」  しかもヴァルターは去り際、あの街の背後に聳える『始まりの錨』のことを、確かに『第一の楔』と呼んだ。「第一」ということは、この大陸には二番目、三番目の錨が存在するということか。  安全で確実な出世を選ぶなら、ヴァルターの言った『紅蓮の牙』本部の正規試験を受けるのが賢明なのだろう。だが、アレンの足は少しも第一区へ引き返そうとはしていなかった。先ほど表通りで見たトーマの咳き込む背中と、ヴァルターが罰しなかった「規定内の仕組み」。そして何より、あの絶対的な神速の一撃を間近で肌身に浴びたことで、旧大陸の辺境で頭打ちになっていた自分の剣の視界が、乱暴にこじ開けられたような熱い疼きが胸の奥に灯っていた。  アレンはもう一度だけ左腰の無銘刀の鯉口を親指で確かめると、袋小路を抜けて第三区との境界へと足を早めた。  そこから百歩も歩かないうちに、蒸気導管が低く入り組む石畳の坂道の突き当たりに、目当ての建物はひっそりと姿を現した。  周囲の煉瓦倉庫よりもはるかに古い建築様式で建てられた、外壁の半分以上が青みがかった蔦に覆われた石造りの『古時計塔』だ。てっぺんの大時計の文字盤は風雨に晒されて掠れ、長針と短針はとっくの昔に止まっているらしく、十二時と三時の間――ちょうど十二時から八目盛りほど進んだ「十二時八分」の位置で赤く錆びついて動かない。一階の軒先には、ギルドの看板ではなく『珈琲・洋装仕立て 白夜亭』と控えめに記された木製の小さな看板だけが下がっており、出窓には厚い深緑のカーテンが引かれていた。  アレンは擦り減った石段を三段上がり、黒く塗られた重厚な樫の木扉の前に立った。  真鍮製のドアノブの下、古びた鍵穴の周囲の金属板にだけ、昨夜受け取った銀貨の裏面と同じ精密な幾何学紋様が薄く彫り込まれているのが見える。  懐の小袋から『灰猫の銀貨』を取り出し、その紋様の窪みへとそっと重ね合わせた。  キィン――と、人間の耳にやっと聴こえるか聴こえないかというほど高い、氷柱を弾いたような澄み切った導脈銀の共鳴音が扉の内部で響いた。  次の瞬間、誰も内側から触れていないはずの重い木扉が、重厚な蝶番の音すら立てずにすっと細く開いた。  開いた扉の奥からは、丁寧に焙煎された深い珈琲豆の香りと、どこか懐かしい上質な鋼と防錆油の匂いが混じり合って流れ出してくる。 「さて、本当に美味い珈琲が出てくるといいんだがな」  アレンは銀貨を懐へ戻し、薄暗い古時計塔の店内へと迷いなく一歩を踏み出した。 # 第3話:古時計塔『白夜亭』と白銀の掃除屋  重厚な樫の木扉が内側から音もなく開くと、外の職人街に立ち込めていた石炭の煤煙と喧騒が、別の世界の出来事だったかのように遠のいた。  アレンは靴底で床板の硬さを確かめながら、薄暗い店内へと足を踏み入れた。背後の扉が再び静かに閉まり、微かな導脈銀の共鳴音が空気の中に溶けて消える。  古時計塔の一階は、奇妙なほど静謐な空間だった。  高い天井には巨大な真鍮の歯車と振り子の支柱が剥き出しのまま組まれており、壁際には仕立て途中の黒外套や繊細なレース生地を掛けたトルソーが幾つも並んでいる。その一方で、店の奥半分は磨き込まれた黒檀のカウンターと数卓の丸テーブルが置かれた喫茶室になっていた。窓の厚い深緑のカーテンが外光を遮り、代わりにカウンターの上に吊るされた淡い琥珀色の魔素ランプが、ガラス製の抽出器具を柔らかく照らし出している。  アレンは入口のマットの上で自然に立ち止まり、店内の空気を肺の奥まで吸い込んだ。  深煎りの珈琲豆が爆ぜる香ばしい匂いの奥に、最高級の防錆油と、研ぎ澄まされた導脈銀特有の冷たい金属の匂いが混じっている。ただの喫茶店や洋装店ではないことは、その空気の肌触りだけで明らかだった。 「――おや。ずいぶんと静かで、それでいて面白い拍子の足音ですねえ」  カウンターの向こうから、穏やかで深みのある老人の声が響いた。  ガラスフラスコの下の魔素ランプの火力を絞りながら顔を上げたのは、仕立ての良い灰色のベストに白シャツを着こなした、六十代ほどの白髪の老紳士だった。  だが丸眼鏡の奥にある双眸と目が合った瞬間、アレンはわずかに息を呑んだ。老人の細められた長い耳の先端は木の葉のように鋭く尖っており、何よりその深い翠色の瞳には、大樹の年輪を幾重にも重ねた多重の虹彩が浮かんでいた。旧大陸の文献でしか聞いたことのない、新大陸先住の長命種『樹冠の民』に違いなかった。 「営業中かどうかも分からなかったんだが、外の鍵穴にこいつをかざしたら扉が開いたんでね。邪魔をしたかな」  アレンが懐から取り出した『灰猫の銀貨』を指先で見せると、老紳士は銀貨の摩耗した表面に目を止め、ふわりと目尻に深い皺を寄せて微笑んだ。 「いいえ、よくおいでなさいました、若木の君。まさかあのお嬢さんが、あれを酒場で手渡してくるとは思いませんでしたが……なるほど、その呼吸と重心の置き方。どこかで見た魂の型ですねえ。いえ、樹冠の民の古い記録の中で、ですが」  老紳士は意味深な独り言を呟きながら、森の梢が風に揺れるような独特の拍子で白い陶器のカップを温め始めた。 「さあ、立ち話もなんですから、そちらのカウンターへお掛けなさい」  促されるままにアレンがカウンターの丸椅子へ腰を下ろすと、目の前に淹れたての黒珈琲が置かれた。  立ち昇る湯気には雑味が一切ない。一口含むと、鮮烈な苦味のすぐ後から、果実のような澄んだ甘みが舌の上で広がった。今朝方、路地裏で『紅蓮の牙』の第一監察官ヴァルターから浴びせられた絶対零度の威圧感で強張っていた指先が、内側からじんわりと解けていくのが分かる。 「美味いな。旧大陸の辺境じゃ、麦を焦がした代用珈琲しか飲んだことがなかったが、こいつは本物だ」 「ふふ、それは光栄です。私はセオドア。この古時計塔『白夜亭』の仕立て屋兼店主にして、開拓庁の書類上は『灰猫の針』という小さなギルドの代表を務めておりますよ」 「俺はアレンだ。昨日連絡船でこの街に着いたばかりの新入りだよ」  アレンがカップをソーサーに戻した、ちょうどその時だった。  店の奥にある螺旋階段の上から、パタパタと軽い布擦れの音が降りてきた。 「あら、セオドア。朝から珍しい客の匂いがすると思えば、本当にここまで辿り着いたのね、お兄さん」  螺旋階段の手すりに片手を添えて姿を現したのは、昨夜『錆びた羅針盤』で相席になった、あのクラシカルなメイド服の女――ロザリアだった。  艶やかな銀黒髪を後頭部で整然とまとめ、塵ひとつない黒のロングスカートに白のエプロンを纏った姿は昨夜と寸分違わない。ただ、朝の室内の魔素灯の下で見る彼女の蒼銀の瞳は、酒場の薄暗がりの中で見た時よりもいっそう鋭く澄み渡っていた。  アレンは片眉を上げ、カウンターに肘をついて彼女を見上げた。 「『通りすがりのメイド』が聞いて呆れるな。銀貨を預かったどころか、あんたがここの看板娘そのものじゃないか」 「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。私は本当にただのしがない給仕兼、お掃除係ですわよ」  ロザリアはすました顔で階段を降りきると、アレンの隣の椅子へ音もなく腰を下ろし、セオドアから自分の分の珈琲を受け取った。その一連の動作にはやはり、衣擦れの音すら立たない異常なまでの重心制御が宿っている。 「それで、アレン。ここへ来るまでの道中、第二区の表通りはいかがだったかしら? 私の言った通り、美しい開拓精神に満ちた健全な職場ばかりだったでしょう?」  皮肉たっぷりに弧を描くロザリアの唇を見て、アレンは口の端をわずかに緩めた。 「ああ、おかげさまで朝からいい目の保養になったよ。連絡船で同室だったトーマって若者が、首から粗悪なガラス管の触媒を下げて咳き込みながら八貫の荷袋を担いでいくのを見たすぐ後に、あんたが昨日名指ししていた『紅蓮の牙』のガッツォ小隊長殿と路地裏で鉢合わせになってね」  ロザリアの眉がピクリと跳ね、カップを持つ手が止まった。 「ガッツォと? あいつ、まさかあんたに前貸し契約書を押し付けようとしたの?」 「荷運びが一人足りないから血判を押せとさ。お断りしたら逆上して、粗悪触媒の『直結同調』で戦斧を振り回してきたよ。もっとも、刃を抜くまでもなく鞘尻で泥水を飲ませてやったがな」  アレンが事もなげに言うと、ロザリアは目を丸くした後、すぐに愉快そうに喉を鳴らして笑った。 「あははっ! やったわね、あんた。あいつ、魔素強化に頼りきりで踏み込みの右足がいつも前に流れすぎるのよ。……で、取り巻きもいたはずだけど、どうやって振り切ったの?」 「振り切る前に、向こうの『飼い主』がお出ましになったのさ」  アレンはカップの黒く澄んだ水面を見つめ、少しだけ声を落とした。 「漆黒の監察官外套を着た、ヴァルターという男だ。三間の距離から予備動作もなしに踏み込んで、抜刀すらしない大剣の柄頭ひとつでガッツォの意識だけを刈り取っていった。そのままガッツォたちを規定外の横領と私闘の罪で即座に除名して、治安維持局の懲罰採掘区へ連行させていったよ」  その名前が出た瞬間、ロザリアの表情から笑みが消え、代わりに苦い薬でも噛み潰したような渋面が広がった。カウンターの向こうで珈琲豆を挽いていたセオドアも、「ほう」と興味深そうに多重虹彩の瞳を細める。 「……ヴァルター・フォン・クライス。よりによって、上陸二日目の朝にあの堅物と顔を合わせたわけ? あんた、悪運が強いのか弱いのか分からないわね」 「知り合いなのか。あいつは俺に『前貸し金のような餌は出さんが、紅蓮の牙の本部へ来て監察部直轄の正規試験を受けろ』と誘ってきたぞ。そのすぐ後に俺の懐の銀貨の波長に気づいて、『古時計塔の掃除屋に唾をつけられたか』『あの女の隣に立つ気なら今の程度の剣では三日と保たんぞ』と言い残していったがな」 「っ、あいつ、人の見つけた新人に横から唾をつけた上に余計なことばかり吹き込んで……!」  ロザリアは忌々しそうに舌打ちをして、白いエプロンの端を握りしめた。しとやかな給仕のメッキなど、もはや影も形もない。 「いいこと、アレン。あの男は『紅蓮の牙』の第一監察官にして、このラスト・アンカーの規律を文字通り力づくで縛り上げてる番犬の頭領よ。ガッツォみたいな末端の腐り肉を往来で切り捨てたのも、あんたを助けるためじゃなくて、看板に泥を塗った無能を掃除しただけに過ぎないわ。……で、どうなの? あの男が直々に正規試験へ誘うなんて滅多にないことよ。今からでも第一区の本部へ引き返せば、少なくとも日当の安定したエリート街道は歩けるわよ?」 「いや、あっちの試験はご遠慮しておくさ」  アレンは自分の右手を軽く握りしめ、真っ直ぐにロザリアを見た。 「正直に言えば、ヴァルターが柄頭でガッツォを沈めた一撃は、途中の動作が全く見えなかった。もしあの矛先が俺の首に向いていたら、鯉口を切る前に死んでいただろう。……だが、あいつは『規定外の金利』は罰しても、トーマたちの首に粗悪なガラス管を下げさせている『規定内の仕組み』そのものは止めない男だ。俺は三年前の雪山で、そういう正しい顔をした大組織の契約書に仲間を殺された。だから、大きな看板の下で飼い慣らされる気はない」  アレンが静かに言い切ると、ロザリアとカウンター越しのセオドアが、言葉もなく視線を交わして微かに頷き合った。 「ふふ、やはり面白い若木ですねえ、ロザリア君。どうやら私の淹れた珈琲だけでは、彼のお腹は満たせそうにありませんよ」  セオドアが穏やかに促すと、ロザリアは不敵に口角を釣り上げて立ち上がった。 「ええ、そうね。せっかくヴァルターの正規オファーを蹴ってまでここへ来たんだもの、うちの『本業』の空気を吸わせてあげるわ。アレン、付いてきなさい」 *  ロザリアに先導されてカウンターの脇にある隠し扉を抜けると、そこには時計塔の裏手へ張り出した石造りの吹き抜けホールが広がっていた。  表の喫茶室の静けさとは打って変わり、そこは紛れもない実戦ギルドの作戦室だった。壁一面に新大陸沿岸部と地下迷宮『錨の縦坑』の精密な等高線地図が貼られ、棚には手入れの行き届いた導脈銀の触媒管や魔素測定器、各種の解毒薬が整然と並んでいる。  ただし、部屋の中に置かれた机と椅子の数は、五つしかなかった。 「くんくん……あれえ? ロザリアの姉御、本当に連れてきたじゃん!」  頭上の高い木組みの梁の上から、弾むような少女の声が降ってきた。  アレンが視線を上げるより早く、灰色の小さな影が天井の梁から音もなく宙を舞い、アレンの鼻先一間の床へとふわりと着地した。膝のバネだけで落下衝撃を完全に吸収した、羽毛のように軽い着地だった。  目の前に立っていたのは、アレンより頭一つ分小柄な、十七歳前後の少女だった。くせのある銀灰色の短髪の間から、ピンと立った大きな灰色の獣耳が覗いており、革ベストの腰からは同じ色のふさふさとした尻尾が揺れている。新大陸や辺境で斥候として知られる獣人種『灰耳族』だ。  少女は大きな琥珀色の目をキラキラさせながら、遠慮もなしにアレンの周りをぐるりと一周し、ひくひくと鼻先を動かして匂いを嗅いだ。 「へええ。姉御が酒場で拾ってきたっていうからどんなツラかと思えば、コイツ、新入り特有の『風下で腐り木を焚く匂い』が全然しないじゃん!」 「腐り木を焚く匂い?」  アレンが眉を寄せると、獣耳の少女はニッと白い犬歯を見せて笑った。 「見栄っ張りな嘘つきの匂いと、恐怖で浮き足立った汗の匂いのことさ! ウチはニカ。『灰猫の針』の主任斥候だぜ。アンタ、さっきこの部屋に入ってきたときも、ウチが梁の上にいるのにすぐ気づいて重心を後ろに残したろ? 鼻と耳は悪くなさそうだけど、防壁の外の魔素風の中でその足が使えるかどうかは別だからな!」 「手厳しいな。覚えておくよ、ニカ」 「――騒ぐな、ニカ。まだこいつがうちの敷居を跨げるかどうか決まったわけじゃない」  部屋の奥、武具立ての前から、地響きのように低く重みのある男の声が飛んできた。  丸太のような腕で巨大な黒鉄の大盾に油を塗り込んでいた男が、ゆっくりと立ち上がった。戸口の鴨居に頭がつかえそうな、六尺五寸に迫る背丈だ。アレンよりもはるかに高く分厚い胸板を持つ、三十代半ばの巨漢だった。顔の中央には古い刀傷が走り、左目は黒い眼帯で覆われている。  先ほど路地で遭遇したガッツォも大柄だったが、目の前の隻眼の巨漢から放たれる圧力は質が違った。ガッツォのそれが虚勢で膨らませた風船だとするなら、この男は幾千もの暴風を受け止めてなお微動だにしない岩壁そのものだった。  男は布で手の油を拭うと、重厚な足取りでアレンの前へ歩み寄った。  その袖が捲れた右前腕を見て、アレンの視線が止まった。男の逞しい前腕の皮膚の一部が、内側から蒼い氷を埋め込まれたかのように硬質に変色し、鈍い光を放っている。そして大盾の縁に残る、坑道の落盤を受け止め続けたような無数の深い削れ跡。  アレンは昨夜ロザリアが語っていた「二年前、ベイルという隊長に廃坑へ閉じ込められかけた新人たちを守った副隊長」の話を思い出し、静かに口を開いた。 「……あんたが、二年前の廃坑で新人たちを庇って殿に残った副隊長か」  隻眼の巨漢の眉が、わずかに動いた。隣にいたロザリアが「あら、もう気づいたの」と目を細める。 「……あの日、扉の内側にいたのが俺だ」  男はそれだけを低く肯定し、残った右の隻眼でアレンの腰の無銘直刀とブーツのつま先を射抜くように見つめた。 「俺はグレアム。このギルドで盾を預かっている。ロザリアがあの銀貨を渡すからには、それなりの筋はあるんだろう。だがな、新入り。俺は自分の目で実戦を見るまで、どこの馬の骨とも知れん奴に背中は預けん。うちのギルドは頭数合わせの補充は絶対にしないからな」 「そういうことよ、アレン」  ロザリアが一歩前に出て、白いエプロンのリボンを後ろ手でキュッと締め直した。 「うちの入団試験はシンプルよ。この古時計塔の地下訓練場で、推薦人である私と一対一の模擬戦をしてもらうわ。合格条件は一つだけ――砂時計の砂が落ちきるまでに、私に本気の魔導礼装を起動させた上で、私の身体か礼装の銀糸一本にでもあんたの刃を『届かせる』こと。それができなければ、あんたはここで門前払いよ」 「砂が落ちきるまでに、あんたに一太刀届かせること、か」  アレンはロザリアの細い肩と、フリルのついたメイド服を改めて見遣った。  昨夜の酒場で見せた無音の蹴りだけでも、彼女が尋常ではない体術の使い手であることは分かっていた。隣でニカが「うわあ、姉御に刃を届かせるなんて、大手の小隊長クラスが束になっても無理なのにさ!」と無邪気に笑っているのを見ると、どうやら想像以上の嵐が待っているらしい。 「異存はないよ。ちょうど今朝、自分の剣がどこまで通用するか試したくてウズウズしていたところだ」  アレンが左腰の無銘直刀の柄に手を添えて頷くと、ロザリアは満足げに涼やかな瞳を細めた。 *  作戦室の奥にある螺旋石階段を深く降りていく途中、アレンは地下の最下層へと分岐する横穴の奥に、異様な扉があるのに気づいた。  周囲の石壁とは明らかに年代の異なる、分厚い古代黒鉄の二重扉だ。中央の鍵穴には、一階の木扉と同じく『灰猫の銀貨』の幾何学紋様が刻まれているが、その周囲にはさらに三重の複雑な導脈銀の封印鎖が張り巡らされており、アレンの懐にある銀貨が微かに拒絶するような冷たい振動を返してきた。この銀貨だけでは開かない、時計塔の最深部の封印庫らしかった。 「よそ見しないの。訓練場はこっちよ」  ロザリアに促されて抜けた地下訓練場は、時計塔の外観からは想像もつかないほど広大なドーム空間だった。都市が建設されるはるか以前から地下に存在していた古代の石造遺構をそのまま利用しているのだろう。天井までの高さは優に五間を超え、床には魔素の衝撃を吸収する灰黒色の玄武岩が隙間なく敷き詰められている。壁際の魔素灯が一斉に青白い光を灯すと、冷たく張り詰めた空気が肌を刺した。  訓練場の中央で、アレンとロザリアは五間の距離を置いて向かい合った。  壁際の観覧席では、セオドアが大きな硝子の砂時計を石の台座の上に置き、ニカとグレアムが腕を組んで見守っている。 「模擬戦とはいえ、鈍器の貸し出しなんて野暮な真似はしないわよ、アレン」  ロザリアは両手を自然に下ろしたまま、涼やかな声で告げた。 「あんたの強みは、その手入れし尽くされた無銘刀と身体が一つに馴染んでいることでしょう。遠慮はいらないから、最初から真剣を抜いて打ち込んできなさい。……もっとも、私の服に泥をつけたら、不合格にした上で一ヶ月間タダ働きの皿洗いにしてやるけどね」 「丸腰のメイド相手に真剣を抜くのは気が引けるんだが……その立ち姿を見てると、手加減を考える方が失礼らしいな」  アレンは息を吸い、重心を腰へ落とした。  目の前のロザリアには、武器らしきものは何一つ握られていない。それなのに、彼女がただそこに立っているだけで、周囲の空間の隙間がすべて塞がれているような錯覚を覚える。 「では、始めますよ」  壁際のセオドアが、ゆったりとした手つきで砂時計を反転させた。  サラサラ、と白い珪砂が落ち始める音が、地下の静寂に響く。  動いたのはアレンが先だった。  親指で鯉口を切る。同時に、石畳を蹴って低空を滑るように踏み込んだ。  五間の距離を一息で詰める。抜刀の閃光とともに、ロザリアの右肩口めがけて鋭く抑制の効いた峰打ちの一閃――辺境仕込みの神速の抜き打ちの袈裟を走らせた。  だが――。  キィンッ! と、甲高い金属の激突音が訓練場に木霊した。  アレンの目が驚愕に見開かれる。無銘刀の鋼の棟を受け止めていたのは、武器ではなかった。ロザリアが軽く持ち上げた左腕の『白い袖口のフリル』そのものが、鍛え抜かれた鋼鉄の籠手さながらに硬質化し、火花を散らして刀身を弾き返していた。 「へえ、初手からいい踏み込みじゃない。靴音も消えてるし、峰打ちに切り替える手首の返しも悪くないわ!」  至近距離でロザリアが艶やかに笑った。  直後、彼女の右足が黒いロングスカートの裾を翻して、下段からアレンの脇腹を蹴り抜いた。  アレンは咄嗟に刀を引き戻し、鉄鞘と刀身を交差させてその蹴撃をガードした。  ドォンッ! と、砲弾でも受け止めたかのような衝撃が両腕の骨を軋ませる。アレンの身体は靴底で玄武岩の床を削りながら、後方へ三間以上も吹き飛ばされた。 「ぐ……っ!」  膝をつかずに踏み止まったものの、鞘を握る左手の指先がビリビリと痺れている。  しかも驚いたことに、ロザリアが蹴りを放った瞬間、彼女の袖口のフリルの襞から青白い魔素の熱気がプシュッと排気され、ロングスカートの裾からは極細の導脈銀糸が数本、生き物のように床へ垂れ下がっていた。 (袖の襞から熱が抜けた……あのフリル、ただの飾りじゃないのか!?)  アレンの脳裏に、昨夜の酒場で聞いた古参冒険者たちの噂と、今朝ヴァルターが吐き捨てた言葉が閃光のように結びついた。  防壁の外の濃霧の中で、鎧も着ずに悪党や魔獣を単独で一掃する正体不明の特級冒険者。そしてヴァルターが呼んだ『古時計塔の掃除屋』という異名。 「まさか、あんたが……街で噂になっていた『白銀の掃除屋』なのか!?」  アレンが叫ぶと、壁際のニカが「アタリだぜ、新入り!」と口笛を吹き、ロザリアがすっと右手を胸元のリボンに添えた。 「気づくのが一拍遅いわよ、アレン。……さあ、私の礼装『銀糸の従者服』を起こすわ。ここからが本当の試験よ!」  彼女が深く息を吐き出した瞬間、メイド服の縫い目から鮮やかな青白い脈動光が一斉に噴き上がった。  パァン、と大気が弾ける。幾重にも織り込まれた導脈銀糸が外界の魔素と共鳴し、彼女の全身を白銀の流星へと変貌させていく。それこそが、鎧を着ずに深層を駆ける『白銀の掃除屋』の本当の姿らしかった。  ロザリアの姿が掻き消えた。  今朝のヴァルターに迫る超高速の踏み込み。  だがアレンの瞳は、今度こそその初動を捉えていた。一度ヴァルターの「見えない神速」を肌で浴びた神経が、ロザリアの衣擦れの風圧を拾い上げる。  右から迫る銀糸の回し蹴り。アレンは半歩沈んで紙一重で潜り抜けた。  頭上から振り下ろされる踵落とし。斜めに構えた無銘刀の腹で受け流し、衝撃を床へ逃がしながら横へ跳ぶ。  カン、カァン、ガァンッ!  鋼の刀身と導脈銀糸の礼装が激突する猛烈な連音が吹き荒れた。ロザリアはスカート裾から伸ばした導脈銀糸を天井の梁や石柱へ瞬時に引っ掛け、張力を利用して三次元の高速機動を繰り出してくる。右から蹴りが来たと思えば、次の刹那には真後ろの死角へ回り込み、高周波で振動するエプロンの縁が刃となって首筋を掠める。  十合、二十合、三十合。  アレンの革鎧の肩口が裂け、頬から鮮血が散った。肺が焼けるように熱い。無銘刀を握る右手首が悲鳴を上げている。防戦一方で、まだ銀糸一本にすら刃を届かせられていない。壁際の砂時計は、すでに残り一割を切っていた。 (速い。しかも重い……だが、魔素の流れには必ず『拍子』がある!)  アレンは血の滲む唇を噛みしめ、視覚に頼るのをやめた。  目を細める。靴底から伝わる玄武岩の振動と、『銀糸の従者服』がフリルから魔素を放熱する際の微かな空気の膨張音だけに意識を澄ませた。  ロザリアの立体機動は完璧に見えた。しかし、彼女がスカート裾の導脈銀糸の張力を牽引から打撃へと切り替える刹那――ほんの瞬き一つにも満たない一瞬だけ、魔素の共鳴波長が途切れる『無拍子の空白』が存在していた。 「時間切れよ、アレン!」  ロザリアが天井の梁を蹴り、白銀の閃光となって斜め上空から急降下してきた。導脈銀糸を右脚に集束させた飛び蹴りだ。  いつもなら、アレンはここで後ろの退路へ跳んでいた。  だが退けば砂時計が落ちきる。  奥歯を噛む。床のわずかな傾斜に、重心を預けた。  踏み込んだ先は、ロザリアの落下軌道の真下――退路のない懐のど真ん中だった。  ロザリアの右脚が着地と同時に魔素の張力を打撃へ切り替えた、まさにその『無拍子の瞬間』である。 「――そこだっ!」  無銘直刀が、下から上へと閃いた。  切っ先がロザリアの蹴りの軸足を外側から掬い上げる。返す刀の棟が、ロザリアの白い喉元へと迫った。  届いた――と、アレンが思った瞬間だった。  首筋が、冷たい。  アレンの身体が凍りついた。  極細の導脈銀糸が、頸動脈の上でピタリと止まっている。ロザリアの左手の指先から伸びた糸だ。アレンの刀の棟が彼女の喉元に届くより、一拍早く。  アレンの刀を見つめるロザリアの瞳には、まだ余力が残っていた。無銘刀の棟は、彼女の喉元まであと一寸の宙で完全に止められている。  完敗だった。実戦であれば、アレンの刃が届く一拍前に、彼の首は銀糸で撥ね飛ばされていた。  だが、その静止した空間の中で、何かがほどけた。  プツリ、と微かな音がして、ロザリアの左袖のフリルから導脈銀の糸が一本だけ断ち切られ、床へと舞い落ちた。先ほど掬い上げたアレンの切っ先が、確かに彼女の礼装の銀糸を掠めていたのである。  同時に、壁際の石の台座の上で、砂時計の最後のひと粒が静かに落ちきった。 * 「……一拍遅れね、アレン。実戦なら、あんたの首が先に飛んでるわよ」  静寂を破ったのは、ロザリアの涼やかな声だった。  彼女が指先の力を抜くと、アレンの首筋に食い込んでいた導脈銀糸がスッと袖口の中へ収納され、メイド服を包んでいた脈動光が静かに収まった。  アレンは大きく息を吐き出し、無銘刀を鉄鞘へと納めた。鯉口がカチリと鳴った瞬間、全身の緊張が解け、彼はたまらずその場に片膝をついた。 「はあっ、はあ……ああ、俺の負けだ。自分のために退路を捨てて踏み込んだつもりだったが、そのさらに一手先に罠を張られていたとはな」  悔しさで唇を噛むアレンの前で、ロザリアは床に落ちた一本の導脈銀糸を拾い上げ、指先で弄びながら悪戯っぽく笑った。 「でもま、試験の条件は『私の身体か礼装の銀糸一本にでも刃を届かせること』だったわね。まだ第三段階の最大出力は使わなかったとはいえ、初見で私の銀糸の切り替えの拍子に気づいて、この『銀糸の従者服』の糸を一本でも断ち切った新入りなんてあんたが初めてよ」  ロザリアはアレンの前に歩み寄り、白く細い右手を差し出した。 「合格よ、アレン。まだ私の『隣』に立つには一拍も二拍も足りないけれど、少なくとも私の『後ろ』を歩いて荷物以上の働きをする資格があることは証明されたわ」 「……後ろを歩く資格、か。手厳しいな。だが、いつか必ずその一拍を埋めて隣に立ってみせるさ」  アレンはロザリアの手を握り返し、自分の足で立ち上がった。 「へえ、やるじゃんアレン! 一拍遅れたとはいえ、姉御の銀糸の隙間に踏み込むなんて大した度胸だぜ!」  壁際から歩み寄ってきたニカが、尻尾を揺らして笑った。隣に並んだグレアムは、腕を組んだまま厳しい隻眼でアレンを見下ろしている。 「……試験は試験だ、新入り。地下の箱庭で糸を一本切ったからといって、外の泥の中で命を預けられるかどうかは別問題だ。明後日の初陣、自分の足で証明してみせろ」 「ああ。見ていてくれ、グレアムさん」  簡単に褒めないグレアムの言葉が、アレンにはかえって心地よかった。  そこへ、砂時計を手にしたセオドアが穏やかな歩調で歩み寄ってきた。彼は懐から小さな黒革のケースを取り出し、アレンの前で開いた。ベルベットの内張りの上に収められていたのは、導脈銀で精巧に作られた、灰色の猫の瞳と一本の細い針を象った小さなギルド徽章だった。 「本日ただいまより、君を『灰猫の針』――通称『白夜亭』の五人目の正式メンバーとして迎え入れます。世界の綻びを縫う私たちの工房へ、ようこそ、アレン君」  アレンは恭しくその銀の徽章を受け取り、自分の革鎧の胸元へと留めた。  大手の深紅の紋章のような派手さはない。けれども、指先に伝わるその確かな重みと冷たさが、今の俺には心地よかった。 「さて、歓迎ムードはここまでよ」  ロザリアがパン、と両手を叩いて、鋭い実務者の声に戻った。 「最初に言っておくけど、うちは離脱率こそゼロだけど、扱う案件は他のギルドが怖気づいて投げ出した厄介事か、開拓庁が表沙汰にできない境界線の『掃除』ばかりよ。特にここ最近、大手ギルド連中が深層で無茶な採掘を繰り返しているせいで、防壁の外にある『風鳴りの回廊』の魔素観測杭が、今月だけで三本も前触れなく沈黙したの」  ロザリアの涼やかな瞳が、冷たい光を帯びてアレンを見据えた。 「明日の丸一日で装備の点検と休養を済ませなさい。明後日の早朝、私とニカ、それにグレアムも加えた四人で『風鳴りの回廊』へ潜り、沈黙した三本目の観測杭を調べるわ。そこは磁針も三半規管も狂う『深度酔い』の領域よ。もし私の後ろで足を引っ張ったら、今度こそ給仕服を着せて一ヶ月間皿洗いからやり直しだから、覚悟しておきなさいな」 「メイド服はごめんだが、露払いなら任せておけ」  アレンは胸元の新しい徽章に指を触れ、力強く頷いた。  アレンとロザリア、ニカ、グレアムの四人が賑やかに言い合いながら一階の喫茶室へと続く石階段を上がっていく。  最後に残ったギルド長セオドアだけが、地下訓練場の入り口でふと足を止め、天井の遥か上――古時計塔の頂上を見上げた。  夕暮れの迫る『ラスト・アンカー』の空の下、誰もいない時計塔のてっぺんで、何百年も「十二時八分」の位置で赤く錆びついて止まっていたはずの大時計の長針が、ギィ――と乾いた鉄錆を零した。  そして七目盛り目へと、一目盛りだけ逆向きに軋んで動いた。  セオドアの年輪を刻んだ多重虹彩の瞳が、静かに、そして深く細められた。 「……いよいよ、潮目が変わり始めましたか」  老調律師の誰にも聞かれない呟きが、地下の深い闇の中へと溶けて消えた。