ゴッサム・シティに降る雨は、決して街を洗わない。 それは空に澱んだ鉛と煤、そして数世紀にわたってこの土地の土壌に染み込んだ悪意を、ただ地上へと還すための冷たい循環に過ぎなかった。 ブリーク・アイランドの南端、かつて十九世紀末に屠畜場として栄え、今や不法占拠者とネズミの巣窟と化した赤煉瓦の集合住宅。その四階の一室で、空気は鉄錆と汚物、そして異様なほど濃厚なアドレナリンの 잔滓で飽和していた。 割れた窓ガラスから吹き込む夜風が、天井から吊るされた裸電球を揺らす。鈍いタングステン光の振り子が、床に転がる五つの死体の輪郭を規則的に撫でていた。 バットマンは、血の海に沈んだ部屋の入り口で、影そのものから切り出された彫像のように佇んでいた。 強化繊維とセラミック・プレートを幾重にも接合した灰色の装甲スーツが、微かな雨水を弾いている。首元から垂れ下がる漆黒のケープは、床に広がる凝固しかけた血液の縁をわずかに避けていた。カウルの奥、白く発光するコンタクトレンズのディスプレイが、室内の熱源と化学物質の残留濃度を冷徹な数値へと変換していく。 「検視官の連中が来る前に、お前さんに見ておいてもらいたかった」 部屋の隅、剥がれ落ちた壁紙の前で、ジェームズ・ゴードン市警本部長が湿った煙草を揉み消しながら言った。トレンチコートの襟を立てた老刑事の顔には、深い疲労の轍が刻まれている。数ヶ月前、自らの顔の皮を剥ぎ取って舞い戻ったジョーカーが引き起こした狂乱の夜――市警本部が血に染まり、ゴードン自身が死の淵を彷徨ったあの事件以来、この街の空気はどこか決定的に壊れていた。 「死後四時間から五時間。外傷による失血死ではないな」 バットマンの声は、地下深くの岩盤が擦れ合うような低くざらついた響きを持っていた。彼は音もなく歩を進め、最も近くに倒れている男のかたわらに片膝をついた。 死んでいたのは三十代の男だった。安価な合成繊維のジャケットを着て、痩せこけた頬には長年の薬物濫用の痕跡がある。だが、異様なのはその死に様だった。 男の両手の指先は、すべて第一関節から先が潰れ、白い骨が剥き出しになっていた。床の古いオーク材の板には、その指で狂ったように掻き毟った無数の溝が刻まれ、爪の破片と肉片がこびりついている。そして男の顔は、顎の関節が外れるほど大きく見開かれた口と、眼球が眼窩から飛び出すほどの驚愕で凍りついていた。 「自分の喉を掻き毟って窒息した奴が二人。壁に頭蓋骨が割れるまで頭を打ち付けた奴が一人。残りの二人は……急性心不全だ」ゴードンが眼鏡の奥の目を細め、吐き捨てるように言った。「外部から誰かが押し入った形跡はない。内側から鍵が掛けられ、家具でバリケードまで築かれていた。連中は、この部屋の中で何かから必死に逃げようとしていたんだ。何もない空間からな」 クレインの仕業だ」 バットマンは死体の顎を掴み、硬直した首をわずかに傾けた。耳の後ろ、延髄に近い皮膚の表面に、極めて細い注射針が貫通した紫色の斑点が残されている。 「スケアクロウだと? だが、奴が使う恐怖ガス特有の臭気も、空気中の残留成分も検出されていないぞ。ガスマスクを着けて突入した鑑識の連中も、空気はクリーンだと言っていた」 「ガスではない。カウルのセンサーも大気中の毒素は検知していない」バットマンはガントレットの指先から極小の採血針を伸ばし、死体の頸動脈から黒ずんだ血液のサンプルを採取した。「直接、脳脊髄液に近い部位へ高濃度の液体として注入されている。気化性を奪う代わりに、神経系への定着率と持続時間を極限まで高めた新型だ」 採取された血液が、ガントレット内部の分光分析器にかけられる。カウルの視界の端に、複雑な化学構造式と、バットケイブのメインコンピューターとの照合結果が赤い警告文字となって羅列されていった。 従来の恐怖ガス(フィアー・トキシン)は、扁桃体を過剰刺激してパニックを誘発するものだった。だが、今この死体から検出された化合物は、それとは比較にならないほど悪質だった。合成アドレナリンと遅効性の神経毒、さらに人間の脳内で生成される「安堵」や「忘却」を司る神経伝達物質の受容体を物理的に焼き切る成分が配合されている。 「連中は、ただ幻覚を見ただけじゃない」バットマンは立ち上がり、血の海に落ちる自らの影を見下ろした。「この毒は、脳が恐怖に慣れることも、気絶して意識を手放すことも許さない。覚醒状態を強制的に維持させたまま、対象が抱える最も根源的なトラウマを、一秒が永遠に感じられるほどの密度で再生し続ける。……彼らが自らの肉体を破壊したのは、狂ったからではない。その無限の拷問から抜け出すための、唯一残された『合理的な手段』として死を選んだんだ」 ゴードンは呻くような息を吐き、無意識のうちにコートのポケットから新しい煙草を取り出しかけて、その手を止めた。老刑事の脳裏にもまた、数ヶ月前にジョーカーによって見せられた地獄の記憶が蘇っているのを、バットマンは鋭敏に感じ取っていた。 「犠牲者の身元は?」 「全員、前科持ちのチンピラだ。一週間前から行方不明になっていた連中だよ。共通点は、先月ブラックゲート刑務所から仮出所したばかりだということくらいだ」ゴードンは濡れた窓の外、ネオンサインが毒々しく滲むゴッサムの摩天楼を見やった。「クレインの奴め、アーカムから脱走して以来、ドブネズミのように地下に潜んでいたかと思えば……こんな悪趣味な実験を繰り返していたとはな。だが、なぜこんな連中を?」 「単なる臨床実験の被験者に過ぎない。クレインは調整を終えたはずだ」 バットマンは死体の衣服の繊維に付着していた微細な結晶体に目を留めた。拡大されたレンズが、その結晶の構造を捉える。それは一般的な土壌には存在しない、高濃度の硫酸塩と古い石灰岩、そして特殊な工業用冷却剤の混合物だった。 ゴッサムの地下地質図が脳内で展開される。この成分比率が一致する場所は、市内でも限られていた。十九世紀末に建設され、数十年前に閉鎖されたオールド・ゴッサムの地下浄水施設――通称「溺死者の聖堂(ドラウンド・カテドラル)」。 「どこへ行く気だ?」 ゴードンが振り返ったとき、すでに部屋の入り口に黒い影はなかった。開け放たれた窓枠に雨粒が打ち付け、破れたカーテンが冷たい風に虚しく揺れているだけだった。 バットモービルのジェット・エンジンが、濡れたアスファルトを焼き切るような咆哮を上げて夜の街を疾走していた。 重装甲の車体は、ゴッサムの狭く入り組んだ路地を暴力的なまでの速度で駆け抜ける。コックピットの暗い空間で、ブルース・ウェインの瞳はフロントガラスに投影される無数のデータストリームを追い続けていた。 『――マスター・ブルース。血液サンプルの詳細な解析が完了しました』 通信回線から響くアルフレッド・ペニーワースの声は、いつものように冷静で、どこか遠い静寂を孕んでいた。 『あなたが推測された通り、ジョナサン・クレインの従来の処方とは根本的に異なります。特筆すべきは、毒素のキャリアとして使用されている特殊なナノ脂質です。これは血液脳関門を瞬時に突破するだけでなく、視床下部と前頭葉の連絡を遮断します。つまり、いかに強靭な精神力を持つ人間であっても、「これは幻覚である」という論理的思考そのものが機能しなくなるのです』 「解毒剤の生成は可能か」 『既存の抗毒素をベースに合成を試みておりますが、ナノ脂質の構造が極めて複雑です。完全な中和剤の作成には、少なくともあと六時間は必要かと。……マスター・ブルース、今夜は特に、単独での突入は控えるべきです。ナイトウィングか、あるいはレッドロビンに連絡を――』 「その必要はない」 ブルースの声は、絶対零度の刃のようにアルフレッドの言葉を断ち切った。 コックピット内の通信パネルには、かつて彼の背中を預けた仲間たちの通信チャンネルが表示されている。ディック・グレイソン、バーバラ・ゴードン、ジェイソン・トッド、ティム・ドレイク、そしてダミアン。だが、そのすべてのインジケーターは暗い灰色のまま沈黙していた。 ジョーカーとの死闘の果てに露呈した、ブルース自身の隠蔽と不信。家族と呼べるはずだった絆は、あの夜、ジョーカーの哄笑とともに決定的な亀裂を生んでいた。彼らが去ったのではない。ブルース自身が、自らの秘密主義と傲慢さによって彼らを遠ざけたのだ。 『……失礼いたしました』アルフレッドの短い沈黙には、老執事だけが許された深い憂慮が滲んでいた。『ですが、くれぐれもお気をつけて。クレインがこれほど精密な神経毒を精製するには、高度な医療設備と、そして何より大量の「失敗作」が必要だったはずです』 「わかっている。通信を切るぞ、アルフレッド」 バットマンはコンソールを操作し、ステルス・モードへと移行した。エンジンの咆哮が消え、車体は音もなく滑走する黒い亡霊へと変わる。 前方に、オールド・ゴッサムの崩れかけた煉瓦造りの街並みが見えてきた。かつてこの街の創設者たちが誇ったゴシック様式の建築群は、今や酸性雨に削られ、 gargoyle(ガーゴイル)たちの顔も判別できないほどに溶け落ちている。その地下深くに、街がまだ若く、そして今と同じように狂っていた時代の遺物が眠っていた。 地下浄水施設「溺死者の聖堂」への入り口は、廃棄された地下鉄の保線用トンネルのさらに奥、錆びついた鉄格子の向こう側にあった。 バットマンは油圧式のカッターで鎖を音もなく切断し、垂直に落ち込むメンテナンス・シャフトへと身を躍らせた。ケープが翼のように広がり、湿った闇の中を滑空する。数秒の落下の後、彼のブーツは水深数センチの汚水が溜まった石畳の上に、水音ひとつ立てずに着地した。 そこは、地下に穿たれた巨大な空洞だった。 高さ三十メートルを超える穹窿(きゅうりゅう)天井を、無数の太い石柱が支えている。かつてゴッサム中の汚水を集めて濾過していた巨大な円形の貯水槽が幾つも並び、その周囲を錆びついたキャットウォークが蜘蛛の巣のように巡っていた。空気は氷のように冷たく、腐敗した水とカビ、そして消毒液の強烈な臭いが混ざり合っている。 カウルのサーマル・ビジョン(熱源探知)を起動した瞬間、バットマンの視界が異様な光景を映し出した。 暗闇の奥、貯水槽を取り囲むように設置された数十個の鉄の檻。その中に、無数の人影が蠢いていたのだ。 バットマンはワイヤー・グラップルを天井の梁に撃ち込み、音もなくキャットウォークの上へと跳躍した。鉄骨の隙間から下を見下ろす。 檻の中に閉じ込められていたのは、ゴッサムの路上から攫われてきたホームレスやジャンキーたちだった。だが、彼らはもはや人間としての原型を留めてはいなかった。ある者は声帯が潰れるまで意味のない絶叫を続け、ある者は自らの腕の肉を歯で食い千切り、またある者は虚空を見つめたまま絶え間なく痙攣している。異なる配合の毒素を投与され、恐怖の深淵に突き落とされた「実験動物」たちの成れの果てだった。 その地獄絵図の中央、干上がった最大の貯水槽の底に、白衣を着た異形の男が立っていた。 いや、白衣の上にボロボロの麻袋と藁を纏った、痩せぎすの男だ。顔全体を覆う粗い麻のマスク。縫い合わされた口元と、暗い穴のような二つの目。ジョナサン・クレイン――スケアクロウ。 彼は手に持ったデジタル・タブレットの画面を眺めながら、まるでオーケストラの指揮者ででもあるかのように、檻の中から響く断末魔の悲鳴に耳を傾けていた。 「美しいとは思わないか、バットマン」 クレインが顔を上げることなく呟いた。その声は、枯れ葉が乾いた石畳を擦るような、ひどく掠れたバリトンだった。施設全体に設置されたスピーカーが、彼の声を反響させ、聖堂のような空間に不気味なエコーを生み出している。 「お前がそこに来ていることはわかっている。お前の纏う恐怖の匂いは、この地下のどんな悪臭よりも濃厚だからな。……いや、正確に言おう。お前が他者に植え付ける恐怖ではない。お前自身が、その分厚い装甲の下で必死に押し殺している、お前自身の恐怖の匂いだ」 バットマンは返答しなかった。ただ、キャットウォークの影の中で、貯水槽の周囲を警護している六人の男たちの生体反応をスキャンしていた。 ライフルやマチェットで武装した屈強な傭兵たち。だが、カウルのセンサーが示す彼らのバイタルデータは、明らかに異常だった。心拍数は全員が毎分五十回前後で完全に一定。発汗なし。筋肉の微細な緊張も、瞳孔の揺らぎもまったくない。まるで精巧な死体が武器を持って立っているかのようだった。 「彼らに威嚇は通じないぞ」クレインがゆっくりと顔を上げ、麻袋の奥の暗い瞳をキャットウォークの闇へと向けた。「私が外科手術によって、彼らの脳から扁桃体と帯状回の一部を完全に切除してやったからな。彼らは痛みを感じる。状況も理解する。だが、『恐怖』という感情だけを物理的に処理できない。お前という存在の根幹をなす最大の武器――闇への畏怖が、彼らには一切通用しないのだ」 バットマンは一切の躊躇なく、キャットウォークから身を投げた。 黒い影が重力に従って加速し、一番端に立っていた傭兵の頭上へと降り注ぐ。全体重を乗せた両足のブーツが男の鎖骨を粉砕し、鈍い破砕音とともに男が石畳に沈んだ。 通常の人間なら、仲間が一瞬で闇に葬られたその光景だけで、わずかな動揺や後退を見せるはずだった。そのコンマ数秒の隙こそが、バットマンが常に支配してきた戦場の間合いだった。 だが、残りの五人は瞬きすらしていなかった。 心拍数は一拍たりとも跳ね上がらない。彼らはまるで工場の作業員が不良品を処理するかのような無機質な動きで、一斉に銃口をバットマンへと向け、引き金を引いた。 乾いた銃声が地下空間を引き裂く。 バットマンはケープを翻して銃弾の軌道を眩ませながら、床を転がって次の男の懐へと潜り込んだ。下から突き上げるような掌底が男の顎を砕き、返す刀で放った肘打ちが別の男のこめかみを捉える。さらにバットラングを投擲し、離れた位置でライフルを構えていた二人目の手首を貫いた。 しかし、手首を貫かれた男は悲鳴すら上げなかった。血が噴き出す腕を気にする素振りも見せず、即座に左手でマチェットを引き抜き、バットマンの首筋へと迷いなく斬りかかってきたのだ。 (……なるほどな。生存本能そのものが欠落している) バットマンは紙一重で刃をかわし、男の肘関節を逆方向にへし折った。骨が皮膚を突き破る音が響くが、男はそれでも止まらない。折れた腕をぶら下げたまま、頭突きを食らわせようと突進してくる。 恐怖がないということは、自らの肉体が壊れることへの躊躇がないということだ。彼らは防御という概念を捨て、ただ標的を破壊するためだけに自らの肉体をすり潰す肉塊と化していた。 背後から、最初に鎖骨を砕かれたはずの男が立ち上がり、バットマンの背中に組み付いてきた。砕けた骨が肺に刺さり、口から血泡を吐き出しながらも、その腕は万力のような力でバットマンの首を絞め上げる。そこへ残りの三人が一斉に群がり、ナイフと鈍器を振り下ろした。 セラミック・プレートが火花を散らし、鈍い衝撃がブルースの肋骨を揺らす。 加減は無意味だった。通常の制圧術――痛覚や恐怖による戦意喪失を狙う技はすべて通じない。完全に運動機能を物理的に断つしかなかった。 バットマンは背後の男の頭部を掴み、自らの肩越しに石畳へと叩きつけた。さらにその喉元をブーツの踵で踏み抜き、気道を完全に潰す。 同時にガントレットから高圧電流を放出し、組み付いてきた二人目の筋肉を強制的に硬直させると、三人目の膝蓋骨を横蹴りで粉砕した。骨が砕け散り、物理的に立つことができなくなった男が倒れ込む。 残る二人。バットマンは飛来するマチェットをガントレットの刃で受け止め、そのまま金属の刃をへし折ると、男の胸部に強烈な連打を叩き込んだ。心臓の真上への正確な打撃による心臓震盪。男が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。 最後の一人の首を掴み、石柱へと叩きつけて意識を刈り取った瞬間だった。 死角となっていた貯水槽の縁から、クレインが異様な速度で跳び出していた。その痩せた腕が、まるで蟷螂(カマキリ)の鎌のようにしなり、先端に長い金属針を備えた注射器をバットマンの首筋へと突き立てようとしていた。 バットマンは即座に身を捻った。針は首の動脈を逸れたが、肩の装甲プレートの継ぎ目――可動域を確保するためにケブラー繊維のみで構成されたわずかな隙間に、深々と突き刺さった。 「入ったぞ!」 クレインの歓喜に満ちた絶叫が鼓膜を打つ。 注射器のピストンが押し込まれ、蛍光色の禍々しい液体がブルース・ウェインの血流へと送り込まれた。バットマンは反射的にクレインの鳩尾を蹴り飛ばし、自らの肩から注射器を引き抜いて床に叩き割った。しかし、遅すぎた。 焼けるような冷たさが、左肩から心臓へ、そして頸動脈を通って脳へと駆け上がっていく。 カウルの視界が激しく明滅した。システムエラーではない。彼自身の視神経が、ナノ脂質に包まれた毒素によって直接ハッキングされ始めていたのだ。 「さあ、見せてくれ、ダークナイト!」後方に転がりながら、クレインが血の混じった唾を吐き、狂ったように笑った。「お前の脳は、どんな地獄を隠し持っている!? 恐怖を支配すると嘯く男が、退路を断たれた己のトラウマの中でどうやって自我を保つのか、私に観察させてくれ!」 ブルースは片膝をつき、ガントレットのユーティリティ・ベルトから試作段階の神経抑制剤を掴み取ろうとした。だが、指先の感覚がすでに失われつつあった。 周囲の景色が、黒いタールのようにドロドロと溶け落ちていく。 地下浄水施設の石柱が歪み、ねじれ、やがて巨大な墓石の列へと姿を変えた。足元の汚水は、いつの間にか温かい鮮血の海へと変わっている。 (幻覚だ……クレインの毒が前頭葉の論理回路を遮断しようとしている。惑わされるな。心拍数を制御しろ……) ブルースは奥歯を噛み締め、自らの精神を繋ぎ止めようとした。彼は何十回となくスケアクロウのガスを浴び、そのたびに精神力だけでそれをねじ伏せてきた。父トーマスと母マーサが路地裏で撃ち殺される光景など、すでに何万回も反芻し、自らの燃料へと変えてきたはずだった。 だが、今回クレインの毒が引きずり出したのは、クライム・アレイの記憶ではなかった。 アルフレッドの警告が脳裏に蘇る。『「これは幻覚である」という論理的思考そのものが機能しなくなるのです』。 この毒が暴き出すのは、過去の傷ではない。「今、最も恐れている未来と現実」だった。 血の海の中から、白い手が伸びてきた。 無数の手が、バットマンのブーツを、ケープを掴み、泥濘へと引きずり込もうとする。 見下ろしたそこには、ディック・グレイソンの死体があった。胸を裂かれ、虚ろな目でブルースを見上げている。その隣には、車椅子ごと炎に焼かれるバーバラ・ゴードン。バールで頭蓋骨を砕かれたジェイソン・トッド。首を折られたティム・ドレイク。そして、胸を剣で貫かれた息子、ダミアンの小さな亡骸。 『お前のせいだ、ブルース』 死体たちが、一斉に口を開いた。その声は彼らの声でありながら、どこかあの白い顔の道化師――ジョーカーの甲高い笑い声が混ざり合っていた。 『お前が僕たちを兵士にした。お前が僕たちにマスクを被せ、お前の終わらない妄執の盾にしたんだ』 『なぜジョーカーを殺さなかった? なぜあいつに、私たちの正体を知る機会を与えた?』 『お前はゴッサムを救ってなんかいない。お前という狂気が、この街のさらなる狂気を呼び寄せているだけだ』 「違う……」 ブルースの口から、掠れた声が漏れた。 論理的な思考回路が焼き切られ、言葉がただの事実として脳髄に突き刺さる。否定することができない。なぜなら、それは彼自身が毎夜、バットケイブの冷たい暗闇の中で自問し続けていた「罪悪感」そのものだったからだ。 視界の奥から、巨大な影が迫ってくる。 白い梟(フクロウ)の仮面を被った無数の亡霊たちと、顔の皮を剥がれたジョーカーが融合したような、悍ましい怪物の群れ。彼らが笑いながら、血の海に沈む家族たちの死体を踏みつけにして歩いてくる。 恐怖ではない。ブルースの心臓を鷲掴みにしたのは、底なしの「絶望」と「無力感」だった。自分が費やしてきた人生のすべてが、愛する者たちを破滅させるための壮大な喜劇に過ぎなかったという、絶対的な確信。 脳が悲鳴を上げている。神経系がオーバーロードを起こし、この苦痛から逃れるために、今すぐ自らの舌を噛み切るか、首の骨を折れと命令を下している。ブリーク・アイランドで死んでいたあの五人のチンピラたちと、まったく同じ衝動がブルースの肉体を支配しようとしていた。 「そうだ……それでいい、バットマン!」 現実の世界で、クレインが歓喜に震えながら近づいてくる声が、遠い水底からの響きのように聞こえた。 「膝をつき、自らの爪でその装甲を引き裂け! お前もまた、ただの脆い肉の塊に過ぎないことを証明しろ!」 クレインの影が、うずくまるバットマンの目の前に落ちた。スケアクロウが最後の仕上げとばかりに、腰から巨大なメスを抜き放つ。 その瞬間、ブルースの脳内で、焼き切られたはずの理性の代わりに、もっと原始的で、もっと獰猛な「何か」が牙を剥いた。 (……そうか。俺が狂気を呼び寄せたというのなら) (俺の存在が、愛する者たちを傷つける毒だというのなら) 幻覚の中の血の海で、ブルース・ウェインは自らの胸に手を突き立てた。 家族たちの死体が彼を責め立てる。その声を、彼は拒絶しなかった。逃げることも、目を背けることもしなかった。すべてを受け入れた。その罪悪感も、絶望も、孤独も、すべてが事実だと認めた上で――彼はそれを、ただの「燃料」として飲み込んだ。 (ならば俺は、この街のすべての悪夢が俺一人を食い尽くすまで、決して倒れるわけにはいかない) 逃避としての死など、彼には最初から許されていなかった。なぜなら、彼自身がすでに、あの路地裏の夜に死んでいたからだ。死者がもう一度死ぬことなどできない。 現実の世界で、バットマンの目がカウルの奥で血走った。 彼は動かない左腕の代わりに、右手を自らのユーティリティ・ベルトへと叩きつけた。取り出したのは解毒剤ではない。暴徒鎮圧用の高出力マイクロ・テーザー(電気ショック装置)だった。 バットマンは、その電極を自らの首筋――先ほど注射針が刺さった傷口の真上に直接押し当て、最大出力のスイッチを入れた。 バチッ、という激しいスパークとともに、青白い電光が彼の首元で炸裂した。 肉が焦げる臭いが立ち昇る。何万ボルトもの電流が、中枢神経系を直接焼き、毒素によって暴走していた脳内の電気信号を、物理的な暴力によって強制的にリセットしたのだ。 「ぐ、おおおおおおっ!!」 獣の咆哮にも似た低い唸り声が、地下聖堂の空気を震わせた。 心停止すら招きかねない自傷行為。常人なら即座にショック死しているその激痛の奔流を、ブルースは純粋な闘争本能へと変換した。脳内の幻覚が、ガラスが砕け散るようにノイズ混じりに吹き飛んでいく。 目の前に、驚愕に目を見開いたスケアクロウの麻袋の顔があった。 「な、にを……お前、自分の神経を焼いたのか!? 狂っている、それでは脳が――」 クレインが後ずさろうとした瞬間、バットマンの右腕が閃いた。 鋼鉄のワイヤーが束ねられたような筋肉が収縮し、セラミックのナックルがクレインの顔面へと吸い込まれる。 麻袋のマスクが裂け、その下の顎の骨が砕け散る鈍い音が響いた。クレインの痩せた身体が、まるで紙屑のように宙を舞い、数メートル先の石柱に激突してズルズルと崩れ落ちた。 バットマンは荒い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がった。 左半身はまだ痙攣しており、視界の半分は赤いノイズに塗れている。鼻と口からは、血圧の急上昇による鮮血が滴り落ち、顎を伝って灰色のスーツを黒く染めていた。 彼は足を引きずりながら、石柱の根元で呻いているクレインの元へと歩み寄った。 「ば、化け物め……」クレインは折れた顎から血を垂れ流しながら、震える手で床を這った。「あの毒は……人間の精神が耐えられる限界を超えるように設計したはずだ……なぜ、なぜお前は壊れない……!」 バットマンはクレインの胸倉を片手で掴み上げ、石柱へと押し付けた。 カウルの白いレンズが、至近距離でスケアクロウの瞳を射抜く。 「お前は恐怖を研究しているつもりだろうが、クレイン。お前は何も理解していない」 バットマンの声は、血に濡れた声帯を震わせる、地獄の底からの囁きのようだった。 「恐怖とは、逃げるための感情ではない。……前に進むための鎖だ」 彼はユーティリティ・ベルトから、クレインの研究データを吸い上げるためのフラッシュ・ドライブを取り出し、近くに落ちていたタブレット端末へと接続した。そこには新型毒素の化学式と、ナノ脂質の分解プロトコルがすべて記録されているはずだった。これで、檻の中にいる被害者たちの解毒剤を作ることができる。 データを転送し終えたバットマンは、なおも震えているクレインの顔を睨みつけた。 麻袋の裂け目から覗くクレインの瞳には、先ほどまでの狂気じみた優越感は微塵も残っていなかった。そこにあったのは、理解不能な深淵を覗き込んでしまった人間が抱く、純粋で圧倒的な「恐怖」そのものだった。 「お前が作った毒の解毒剤は、アルフレッドが数時間以内に完成させる。だが、お前自身の恐怖を治す薬はどこにもないぞ、ジョナサン」 バットマンが一撃をクレインの顔面に叩き込むと、スケアクロウは白目を剥いて完全に意識を失った。 一時間後、地下浄水施設への入り口は、ゴッサム市警のパトカーの赤色灯と、救急車のサイレンで埋め尽くされていた。 アルフレッドから送信された緊急の中和処置プロトコルが救急隊員たちに共有され、地下の檻から救出された被験者たちが次々とストレッチャーで運び出されていく。 激しい雨が降り続く地上の路地裏、廃ビルの屋上の縁に、バットマンは一人立っていた。 左肩の傷は応急処置を施し、アルフレッドがドローンで緊急輸送した初期段階の抗毒素を注射したことで、神経の麻痺はようやく引き始めていた。だが、脳の奥底に焼き付いたあの幻覚の残滓――血の海に沈む家族たちの顔は、抗毒素が効いた後も決して消えることはなかった。 『マスター・ブルース。バイタルデータは正常値に戻りつつありますが、脳波に強いストレス反応が残っています。直ちに帰還し、休息をとられることを強く推奨します』 「まだ夜は終わっていない、アルフレッド」 ブルースは眼下の街を見下ろした。 ゴードンが現場の指揮を執りながら、ふと視線を上げ、このビルの屋上を見たような気がした。しかし、老刑事は何も言わず、ただ濡れたコートの襟を直して再び部下たちのもとへと戻っていった。それでよかった。 ゴッサムの夜は、どこまでも深く、暗い。 この街の土壌に染み込んだ悪意が消えることはなく、明日になればまた新しい狂気が産声を上げるだろう。そして、ブルース・ウェインが背負った孤独と罪悪感もまた、彼がこのマスクを被り続ける限り、決して癒えることはない。 だが、それでいいのだと、彼は冷たい雨に打たれながら思った。 安らぎなど必要ない。救済もいらない。 ただ、この街の闇よりも深く、どんな狂気よりも強靭な「怪物」としてそこに在り続けること。それだけが、彼に許された唯一の贖罪なのだから。 雷鳴が轟き、一瞬だけ白く照らし出されたガーゴイルの隣から、黒い影が音もなく闇の中へと溶けて消えた。