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大乗仏教スレ黄色が大乗仏教オ
無題 名無し 10/04 2408
真言では如来にたいしてなぜ
マタンギ神よお救いください
と唱えるのですか?
そして何故それらによって証があらわれるのですか?
簡潔にお答えしてほしいのですが
無題 名無し 10/04 2409
すいません
哲学的な方ですね
密教は実践的な経験が大事ではありますが
それらは神仏との関係性によって生じます

心というものは確かに錯覚なのであります
意識の主観に対してその他の五感感情思考その他もろもろを統御している主体性のあるものが生じさせております
これらの感覚との相違または暴走が医学的にいえば統合失調症であり昔でいえば狐憑きのたぐいといえます

チベット密教などではこれにわざと相違を起こさせる方法をタルパの法といいます
私自身は意識と思考の補助以外の有用性はわかりませんがその他の方法とあわせて何かを為すためのものだと思います

その統御している主体性のあるものに対して働きかけるものが真言系の神仏やマントラですが体験するならば雑念の多い方は不動明王の前で真言を108回ほど唱えてみるのも有効かもしれません
ただ懸念として灌頂などを受けてみないと効能が薄い場合もあります
密教の密 秘密とは普通の人には考えが及ばない所のものであるとしていましてなかなか自分の求める答えを持っている方語れる方とはあえずにおります
無題 名無し 10/05 2410
>これあかんの?
宗派によって立場は少しづつ違いますが、だいたいに共通する大事な要素ではないかと思ってます。そもそも受、から話が始まってる、ということの敷衍ですね
実体と実体化させたものが同じなら楽な話なんですけど
彼岸を私物化してしまうみたいなことですから、例えば空海さんくらいの人にしか許されないことなのでは
>マタンギ神
その辺自分は不勉強で申し訳ないのですが、確かマタンギ神(シヴァの妻)が不浄の旃陀羅の格好をしてシヴァ神と会い、彼女を娶るためにシヴァ神が旃陀羅のカーストに変わった、という話があったように思います。
めっちゃいい話でカーストって何ってことへのアンサーの一つにもなってるし、流石シヴァ神人気も出るわって感じですよね。証についてはよく分かりません。
無題 名無し 10/05 2411
>すいません
>哲学的な方ですね
ついさっきまでも古い説を自慢げに脳内から垂れ流しにしてました。あまりろくなもんじゃないです
>心というものは確かに錯覚なのであります
>意識の主観に対してその他の五感感情思考その他もろもろを統御している主体性のあるものが生じさせております
その主観、というもの外界からの反応で発生したものであれば、つまりは錯覚、執着である時がほとんどですからね。
たいがいが心の仮の平安求めて傷付くのを避けようとしたりマウント取ろうとしたり居場所無くしたり無理やり居場所作ろうとしたり右往左往してるだけですし
ていうかその辺のそちらの仰ってる主観って個人的な主観の方ではなくて、真我とか大我とか、阿頼耶識がどうとか法蔵とか如来蔵とかの方だと思うんですよね。色んな宗派で呼ばれてるそれが釈迦の時代からどんな理由で展開され示されて行ったのか、ちょっと確認してみたくてこの駄文を垂れ流しております
無題 名無し 10/05 2412
主観、というもの錯覚の産物である場合がある可能性があるよ、ということがあります。
人間の主観が求めるのはたいがいが結局は緩い自己肯定自己満足、自尊心が保たれる世界、ということになってたりするわけですから。それが邪魔されるのが何よりの苦しみ、とか考えてたりするわけですから。私らは人間ですから、いわゆる無我の境地とはほど遠いものを求めることになってる可能性が常につきまとってるわけです
元々の釈尊が言ってたであろう言説には、五蘊(色、受、想、行、識)はアートマンにはあらず(非我)、というのがあります。この非我という視点からアートマンは有るのか無いのか、という話になり、釈尊は無記という立場を取られたというのは有名な話です
無題 名無し 10/05 2413
諸法無我と言ってるのに、誕生仏は天上天下唯我独尊と言ってるのって変じゃね?というのは皆さん一度は考えたことがあるでしょう。釈尊の否定する我と釈尊が尊ぶ我の二つをどう位置付ければいいんだよ、っていう問題がずっとありました。
それらは釈尊の生前は釈尊に聞けば解決した問題だったんですが、釈迦滅後は人間がいちいち前例に当てはめて仮の答えを出すしか無くなって行った。
そこでいつの間にか前例踏襲主義になっていた説一切有部、いわゆる上座部仏教に対抗して人無我なんじゃね?法無我なんじゃね?というカウンターが初期の大乗仏典として生まれることになるわけです

続きを見る14日13:33頃消えます









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