害獣駆除ファイル9  「飼いたぬき」



害獣駆除を生業とする男は、この日街の郊外にある空き地の草むらである一匹のたぬきの捜索を行っていた。
この地域の属する自治体ではたぬきは発見次第即刻駆除することが認められており、以前までは定期的にスラムの掃討とパトロールが行われ徹底的な排除が実行されていた。
ここまで偏執的な対処がされているのはたぬきが引き起こしたある事件が原因であるが、ここでは割愛する。
そのようなたぬ害ゼロを目指す自治体においてたぬきが発見されたという事でその始末のため専門家である男が派遣されてきたのである。

「ふぅん…コレは、アレだろ…」

依頼を受けた際に男に回されてきたのは一般通行人がスマートフォンで撮影した道端をこそこそしながら歩くたぬきの写真、そして撮影場所の住所である。
写真に写るたぬきの姿を男は目を細めて見た。
まずはその緑色の服を模した毛皮である。
鮮やかな緑色を発するそれは、まるで洗濯糊を効かせたようにパリッと整えられている。
さらにその胸元には金色に輝く金属製の勲章が誇らしげに踊っていた。
その材質は野良の個体が間に合わせで用意したようなガラクタや草木の束のような簡素なものではなく、明らかに勲章として最初から製造されている立派なものだ。毛皮と勲章を繋ぐリボンも赤地に白のラインの入った上質な拵えのリボンである。
ふさふさの尻尾は丁寧に櫛で溶かしてあり、なだらかで美しく透き通るような光沢を放っている。
そして先端部には尻尾の毛先がばらつくのを防ぐためか上品なピンク色のリボンが蝶々結びしてある。
頭髪も尻尾と同じく艶やかに整えられており、毛先はくるんとカールしてそのキューティクルを誇示していた。
そして何よりもその顔が特徴的だ。
たぬきという存在は満ち足りない思いを長いことしていると見るものを不快にするへちゃむくれたションボリ顔になって表情が固定される。
だがこの写真の個体の顔は常ならば垂れ下がっているへの字口の両端が持ち上がりにっこりとしたVの字を描いていた。
明らかに野良の個体に見られない特徴を複数持ち合わせている。

『飼いたぬき』

それがこの個体に対する男の見解である。
現在、たぬきに関する法整備は牛歩ではあるが進みつつある。
そのなかでもっとも早く決定したのは、アライグマなどの害獣と同様に特定外来生物法による規制対象に指定したことである。
虚空から湧き出したかのように突如として現れたたぬきを『外来生物』に指定して良いのかという点では物議を醸しているが、ともかく関わってはならない生き物であるという点を法として明文化することができたのは大きい。
これに指定された生き物は飼育、運搬、輸入、放逐が禁止され罰則が課せられることとなる。
たぬ木によって生物であり植物でもあるため栽培、たぬ木の実を撒くこともまた同様に規制されるのだ。
違反者には基本的に三年以下の懲役か三百万円以下の罰金が課せられることとなる。

だが、人間とは時として愚かな判断を下す。
それはかつてのアライグマがテレビアニメの人気により大量に輸入され、その本質すら知らずに可愛いからと育て成長して手に負えなくなったら放逐し、害獣として生活圏を脅かすようになった過去をなぞるかのように。
たぬきもまた見かけだけならば可愛らしく人語を解するという他にない特徴を持ち、接触当初は妖精のような存在としてちやほやとされていたものである。
ニュースでは連日『ツッタカター』や『チックタック』などのSNSに投稿されたたぬきの可愛らしい動画が放送され、ペットショップのショーケースには成体のたぬきやちびたぬき達が丸まって作ったたぬき玉が所狭しと並びどれもが飛ぶように売れる。
そんな今にして思えば悪夢のような光景が何年かの間に渡って続いたのである。
当時、男を含む駆除業者はかつてのアライグマが人気者であった頃を思い出し、また未知の生物を研究するため試験的に飼育を行っていた研究機関は詳しく分かっていない生き物のあまりにも浅はかなペット化の波に警鐘を鳴らしたものだが、世間の流行りを止めることは到底できなかった。
程なくしてたぬきの化けの皮が剥がれた後に待っていたのは、やはり野生への放逐。
たぬきは生物として極めて弱いがそれをカバーするために勲章を持つ優秀な個体はリポップによって命を繋ぎ、たぬ木から纏まった数のちびたぬきが生まれることによって数と質を種族単位で確保する生態をしている。
たぬき飼いが全国で流行することによりその生息域の拡大に人間が手を貸してしまったのだ。
そしてその数を爆発的に増やし、正比例してたぬ害を撒き散らしながら今に至る。
販売が禁止された頃には全てが手遅れといった惨状であった。

「まだたぬきを飼おうなんてバカな奴がいるとはな…」

草むらをかき回してたぬきの痕跡を探しながら呟く男の声色には隠しきれない侮蔑の色が滲んでいた。
アライグマが顕著な例であるが、その他多種多様な外来生物という悪しき前例があるというのに何故人は同じ過ちを繰り返すのだろうか。
あるいはたぬきが会話可能な存在であることが勘違いを助長してしまうのかもしれない。
こんなに素直に言うことを聞いてくれる良い子なのだから世間で言われているようなことは起こらない。
他はともかくうちの子だけは特別だ。
殺されるだなんて可哀想だ。守ってあげないと。
そうした上っ面だけの優しさが行き着く先は、悲劇であるとも知らずに。

「これは…近いか。」

そうして男は遂に見つけた。
地面に刻まれたたぬき特有の丸い足跡。
それは空き地の奥、特に草深いエリアへと続いていた。
そう広い空き地でもない。
多少賢い個体ならば人間が自分を探し回っていると勘づけばすぐに逃げ出すだろう。
身を潜め、息も潜め、存在を関知されないうちに仕留める必要がある。
幸いにも写真という事前情報によって勲章持ちであることは確定している。
そしてこの場合、勲章は優れたたぬきであるという証左ではなく人間に飼育されているということを示す記号である。
男はゆっくりと慎重な足取りで草むらの奥へと続く足跡を辿っていった。


＊



「探せ！まだ近くにいるはずだ！」
「畜生、たぬきどもめ…！」

ある一匹のたぬきの覚えている一番古い記憶。
微睡みから覚めた彼女を迎えたもの、それは人間たちの発する怒号と乱暴に地面を蹴る激しい衝撃に彩られていた。

「ｷｭ…ｷｭｩｩ!」

まだ生まれて間もないちびたぬきであった彼女に、それらの刺激はあまりにも強かった。
押し寄せるストレスを緩和するため本能に従いもちもちの手足をちたぱたと動かし、鳴き声を上げようとする。

「ちび…！静かにするし…！見つかっちゃうし！」
「ｷｭ…」

そんな彼女の身体を優しく抱き締め小さな口にもちもちの手を押し当てて鳴き声を塞いだのは成体の親たぬきであった。
声を潜め、ちびたぬきの鳴き声を制した親たぬきは柔らかな頬をすりすりと擦り合わせる親愛のほっぺたもちもちをすることによってちびたぬきを落ち着かせようとする。

「ｷｭ…ｷｭｩ〜♪」

親たぬきの暖かい体温ともちもちを受け、ちびたぬきは途端に安心感に包まれすっかり気も緩み親たぬきの頬に全身を預けてｷｭｩｷｭｳとハミングをし始めた。
その様子を確認した親たぬきはほっと胸を撫で下ろす。

「ふぅ…落ち着いてくれてよかったし…」

今、この親子は公園の植え込みの中に隠れている。
葉っぱで出来た壁から一歩でも外に出ればたぬきを探し回っている人間に見つかって殺されてしまうのは明らかだった。

「なにするし！？やめてし！ダッ！？ダヌゥゥゥ！？」
「ちび！ちびぃぃぃ！やめてし！お願いだし！ちびを潰さないでし！」
「やだし！やだしぃぃぃぃぃ！」

親たぬきの耳の奥にはほんの数分前まで仲良く食事をしていた仲間達の断末魔の叫びが今もリフレインしていた。
目を閉じると浮かび上がってくるのは一緒に植え込みに逃げ込もうとした友達たぬきの最後の姿。
走っていたところを追い付かれ、尻尾を踏みつけられ、つんのめるように地面に顔面を強打した友達たぬき。

「やぁっ！やだし！助けてし！」

擦りむいて真っ赤になった顔を上げ、必死にもちもちの手を伸ばして一足先にちびを連れて植え込みに逃げ込んだ親たぬきへと助けを求める。
親たぬきは動くことができなかった。
自分とちびの命が何よりも惜しかったのだ。
そして、勇気を振り絞って飛び出したとしても人間に捕まったたぬきを助けることなど決して出来ないと事実が足枷のように親たぬきの動きを封じていた。

「ひっ、ひどいし！たぬき達ともだ、じっ！？」

植え込みの奥に隠れ、目を伏せ顔を背ける親たぬき。
友達たぬきは自分が見捨てられたという事実を否応なしに理解させられた。
最期に出てきた非難の叫び声は、しかし直後にうなじに深々と突き刺された駆除用の槍によって喉が潰されたことで強制的に中断させられる。
喉を突き破って生えてきた冷たい金属の穂先を引き抜こうとして、助けを求めるために伸ばした手で自身の血にまみれて真っ赤になった穂先を掴もうとするが、それ以上は叶わずもちりと地面に力無く落ちた。

「じ…げ、ぼ、ごぼ…」

湧き出す血の混ざった断末魔の叫びは最早言葉になってはいなかった。
ずるずると命の灯火の消えた物言わぬ肉塊が人間に引きずられていく。
それまでのごく短い間、友達たぬきの痛みで見開かれた瞳は恨めしげに親たぬきを見つめていた。
先ほどまで聞こえていた悲鳴は、友達たぬきのものを最後にもう聞こえない。
この公園には親子を含め二十匹ものたぬきが住み着いていたが、うち十八匹は既に駆除された。
残るはこの親子のみである。

「ごめんし…ごめんし…」
「ｷｭ？」

襲ってくる罪悪感に耐えきれず親たぬきは意味のない謝罪の言葉を漏らした。
頬に抱きついているちびたぬきは親たぬきのしょんぼりとした様子を見てとったのか、慰めるために今度は自分からほっぺたもちもちをする。

「ちび…」
「ｷｭｳ〜♪」

愛しい我が子の健気な姿に心打たれた親たぬきは震えるもちもちの手足を打って再び立ち上がった。
ちびを守ることが出来るのは自分だけだ。
なんとしてもこの窮地から脱出しなければならない。
そんな使命感は胸中を支配していた罪悪感を払拭し、この場で取るべき最適な行動を模索する意欲を芽生えさせた。

「植え込みもくまなく探せ！」
「わかった！」
「ひぃっ…し…」

しかし親子に残された時間はもうない。
人間たちは公園の遊具の影や公衆トイレなどの主な隠れ場所を探し尽くし、最後には親子の隠れている植え込みにまで捜索の手を伸ばしつつあった。
遠くの植え込みが掻き分けられ、そこに槍がドスドスと突き込まれていくのが遠目に見え、いよいよもって余裕がない。

「どうすれば…どうすれば助かるし…！？」

公園の構造は単純なま四角の敷地を金属製のフェンスで囲んだごく標準的なものである。
その内側に植え込みがあり、出入り口は北と南にそれぞれ一つずつ。そしてその両方ともに人間が門番のように立ちはだかっており、脱出は困難な状況であった。

「し…」

親たぬきは自身の背後にあるフェンスを見た。
金属網の目はたぬきのでかい頭が通るほど荒くはない。
ちびだけならば無理やり通せば出られる見込みはある。
だが親たぬきは知っている。
外の世界は生まれたばかりのちびたぬきが一匹で生きていくにはあまりにも過酷なのだ。
この公園という安住の地を見つけるまで、親たぬきは外の世界で辛酸を舐め尽くした。
ちびだけならばこのまま逃がすことは出来る。
しかしその後に待っているのはほぼ確実な死だ。
だがこのままこの場にとどまっても人間に見つかって絶対に殺されてしまう。

「そっちはどうだ？」
「何もない！」
「じゃあこっちを始めるぞ。飛び出してくるかもしれん、備えておけ。」
「了解。」

そうしている間にも人間が植え込みを探る音はどんどん近づいて来ている。
もう一刻の猶予もない。
親たぬきは決意した。
確実な死よりも僅かでも生き残る可能性のある方に賭けたのだ。

「ちび…」

親たぬきは頬に身を預けご機嫌でうどんダンスの歌詞をハミングするちびたぬきを愛おしげに撫でた。
そうして覚悟を決めると、別れの言葉を絞り出すように愛するちびへと伝える。

「ちび、よく聞くし。これからちびを、あそこから逃がすし…ママは一緒には行けないし…強く生きて…幸せになるし…！」
「ｷｭ？」

親たぬきは首をかしげるちびたぬきを抱えあげるとフェンスの網目に押し込んだ。
思った通り、ちびたぬきの大きさならばすんなりと通る。
しかし自分の頭はやはりちっとも通らない。

「ｷｭ？ｷｭｩｩ！」

フェンスの向こう側、歩道のコンクリートへともちもちころころと転げ出たちびたぬきは親たぬきと離れてしまったことで寂しくなって戻ろうとした。
しかし非力なちびはまだ二本足で立つことも出来ない。
フェンスの網目を通り抜けるなどまだ不可能だったのだ。

「ちび、行くし！」
「鳴き声だ！」
「こっちにいるぞ！」

バキバキと乱暴に植え込みを掻き分ける音が聞こえる。
人間達に気付かれたのだ。

「…しっ！」

親たぬきは未練を断ち切るかのようにちびたぬきから目を逸らして踵を返した。

「しぃぃぃ！」

そして大声で叫びながら植え込みから飛び出したのである。
少しでもちびが遠くに逃げるため一秒でも長く時間を稼ぐ、そのために敢えて人間達の前に姿を晒したのだ。

「だしぃぃぃ！たぬきはここだしぃぃぃ！」
「でやがったぞ！」
「そいつで最後だ！絶対に逃がすな！」

公園にいた人間達は一斉に親たぬきを追いたて始めた。
両側の入り口に陣取っている二人を除き、全員が必死に逃げる親たぬきに注目する。

「ｷｭｳ…」

ちびたぬきは何がどうなっているか全く分からなかった。
ただ恐ろしく、自分の尻尾を抱いて震えることしか出来ない。

「しぃぃぃ！離すし！」
「手こずらせやがって…おい、そいつは勲章は持ってるか？」
「いや…無冠だな。」
「よし、始末するぞ。」

どたどたと人間が走り回る足音はすぐに聞こえなくなった。
小さくだが親たぬきの声も聞こえる。
ちびたぬきはフェンスに顔を押し付けて少しでも親たぬきの声が聞こえるようにしていた。

「ダヌゥゥゥ！ダァヌゥゥゥゥ！？ちびぃぃぃ！」

最後に聞こえたのは、親たぬきの甲高い断末魔の叫び声。
あまりの恐ろしさにちびたぬきはひっくり返ってフェンスからコロコロと転がって離れてしまった。

「ｷｭ…ｷｭｩｩ！？」

そして恐怖心に駆られるままに四本足でよちよちと逃げ出す。
少しでも遠くに離れるため必死にぽてぽてともちもちの手足を動かしていた。
時刻は夕方、オレンジ色の太陽は既に沈みかけており辺りは暗くなり始めている。
この状況においてちびたぬきにはいくつもの幸運が訪れていた。
まずひとつは駆除に駆り出された業者が公園のたぬきは全滅したと認識していたこと。
ちびたぬきが生まれたのはほんの数日前、業者達がたぬきを駆除するため事前調査を行った頃には彼女はまだたぬ木の実の中で身体を形成している最中であった。
調査で判明したたぬきの頭数に彼女は含まれていなかったのだ。
そしてもうひとつはこの時間帯。
夜の帳が降り始め、街灯の周辺以外の足元は暗く小さなちびたぬきの姿を確認するのは困難だ。
公園の出入り口に張っていた業者達の視線も気を引くために大声を上げて出ていった親たぬきに集まっており、人からすればのろのろとした速度のちびたぬきが公園から離れていくのを見つけることは無かった。
そして何よりも天敵となるたぬきもどきやカラス、野良猫などの野生動物はたぬきの一斉駆除のついでとばかりに町から駆逐されており、今のちびたぬきを脅かす存在はいなかったのである。
公園から徒歩で一分ほどの距離をちびたぬきは一時間かけて移動した。
彼女にとっては命がけの大移動も身体のサイズが何倍も違う人間からすれば軽く歩く程度で追い付けてしまう。
しかし人間が追ってくることはなかった。
彼らは公園に集まり仕留めたたぬきの死骸と事前確認した頭数とを比較して全滅させていることを確信すると死骸と血の始末を始めていたのだ。
最後の生き残りであるちびたぬきが駆除の手から逃れたことなど知るよしもなかった。

「ｷｭｳ…ｷｭ…」

しかしそこまで進むとちびたぬきの体力も限界であった。
生まれて数日の未成熟な身体でよく頑張った方ではあった。
これ以上は一歩も動けないとばかりに仰向けに寝っ転がるとひゅーひゅーと荒い息を吐く。
このまま疲れのままに眠り込んでしまえば、夜間に下がる気温の影響をもろに受け低体温症となって小さな身体はたちまちに死体へと変わるだろう。
たとえ根性で動き続けて体温を保ったとしても、彼女はエサの取り方も安全な住み処の探しかたもなにも知らない無垢なちびたぬきである。
親たぬきが予見したように遠からず死を迎えることは確実であった。
しかし、そんな彼女にこの日一番の幸運が訪れることになる。

「はぁ…今日もまた怒られちゃった…」

ちびたぬきが寝転がる道路の向こう側から、レディースのスーツを着崩したややくたびれた印象の二十代程の年頃の女が歩いてきていた。
気落ちしているのか足元はおろそかである。
そして、寝転がるちびたぬきに気づかず靴の爪先が当たってしまった。

「ｷｭ!?ｷｭｩｩｩﾝ!」

軽くであるが蹴られてしまったちびたぬきは驚き、叫びながらじたばたを始めてしまった。

「えっ？あっ、ご、ごめん…？」

反射的に謝るOL。
その視線は足元でまだじたばたを続けるちびたぬきをしっかりと捉えた。

「た、たぬき…？」
「ｷｭｩｩｩ!」

嫌々をするようにじたばたを繰り返すその姿は彼女にとってとても愛らしく思えた。
思わずちたぱたするちびを抱えあげてしまう。
両手の暖かさを感じたちびたぬきは、生まれてはじめてそのしょんぼりした目を薄く開いた。
そして目の前の大きな人間を親と認識したのである。

「ｷｭ…ｷｭｩｩﾝ…」

離ればなれになってしまったと親に再開できたと思い込んだちびたぬきは自身を抱える手にひしと抱き付き、決して離れないよう指に尻尾を絡ませる。

「たぬきだわ…たぬき…でも…」

その様子を見たOLの頭には一瞬、どうするべきかという迷いが生じた。
たぬきは駆除の対象になっているということは知っていたが、だからと言ってこんなに小さくか弱い生き物を法律で決まっているからといって見殺しにしたり出来るのか？
迷いは、しかし必死にしがみつくちびたぬきの姿を見てすぐに消えてしまった。
潰してしまわないように慎重にその小さな身体を抱き締める。

「大丈夫よ…私が守ってあげる…」
「ｷｭｩ…」

彼女の心は決まった。
周囲を見回し、誰にも見られていないことを確認するとちびたぬきを抱いていそいそと自宅へと足早に帰っていったのである。
本当の親たぬきを含めた公園に住み着いていたたぬき達の死骸をパンパンに詰め込んだビニール袋を載せた業者達の軽トラがその道を通過して行ったのはその僅か五分後であった。


＊


それからちびたぬきとOLの密やかな生活が始まった。
彼女は善良であり正義感に溢れ、また同時に救いがたい愚者でもあった。
地域一帯でたぬきの一斉駆除が行われていることはなんとなく聞いてはいたが、何故それが行われているか理由について深く考えることはなかった。
ちびたぬきの可愛らしい見た目と所作そして何よりもそのもちもちの触り心地にすっかりメロメロになってしまい、こんな可愛い生き物を駆除してしまうなんてどうかしているとすら思った。
虐げられる生き物を助け、秘密のうちに守り育てる。
それは平凡な日常に鬱屈としていた精神を解放するには十分であり、後ろ暗い楽しみは彼女の生活に彩りを与えたのである。

「さぁキューちゃん、ご飯よ！」
「ｷｭ！ｷｭｩ〜ﾝ♪」

彼女はちびたぬきに名前を与えた。
その鈴を転がすような可愛らしい鳴き声から取って『キューちゃん』とそう名付けたのである。
今、キューちゃんはOLの左の手ひらの上に乗り、半分にちぎったマシュマロを受け取って大喜びでもしゃもしゃと小さな口を一生懸命に動かして白くて柔らかい甘味の塊を味わっていた。

「ｷｭｳ〜ｹﾌｯ…」
「は〜い残さず食べてお利口ね、こっちもどーぞ！」

ちびたぬきの体長は尻尾を除けば10cmにも満たない。
半分にちぎったマシュマロであっても全て食べればお腹も膨れるというものだった。
更に乾いた喉を潤すため、ガーゼに染み込ませた人肌まで温めた牛乳を吸わせる。

「ﾁｭｩ…ﾁｭｳ…ﾌﾟﾊｯ！」
「かーわいっ！」

ガーゼに吸い付いて牛乳を吸って喉を潤したちびたぬきはすっかりご機嫌である。
まだ声帯が未発達であるのでうどんダンスの歌を歌うことは出来ないが、OLとの生活の中で野良では決して味わうことの出来ない甘味や暖かい安全な寝床を得たちびたぬきはすくすくと成長し、遂には二足歩行へと至ろうとしていた。

「ｷｭｳ…ｷｭｯ!」

成長し、目覚めた身体は今なら行けるとちびたぬきの本能は語りかける。
それは無意識か、それとも自発的にやろうとしたのか。
暖かい手のひらの上で幸せに満ち足りたキューちゃんはよっちよっちと両の手足を突っ張り、更に尻尾を手のひらに付けて身体の支えにして起き上がろうとする。

「ｷｭｩｩ…ｷｭｩｩ!」

小さなしょんぼり顔に一生懸命な表情を浮かべるキューちゃん。
その様子に、OLは何をしようとしているのかを察した。

「もしかして…立とうとしてる…？」
「ｷｭｳｯ!」

背筋の要領でキューちゃんの小さな身体は一瞬のけ反り、直立姿勢を取った。

「ｷｭ…！？」

しかしそれも一瞬のこと。慣れない体勢に戸惑ったことでバランスがとれなくなりキューちゃんは再び四つん這いの体勢に戻ってしまう。
だがキューちゃんは決して諦めなかった。再び直立姿勢になるため身体を反らせようと力を込める。

「ｷｭｩ〜…ｷｭｩｩｩｩ!ｷｭｷｭｷｭ!」
「キューちゃん頑張って！」

OLはというと努めて手のひらを水平に保ちながらキューちゃんの奮闘を応援して見守っていた。
小さな身体を一生懸命に反らせて立ち上がろうとする様は、さながら逆上がりに失敗しても何度も挑戦する女児のようでなんとも愛らしい。
ある時は反りが足りずにそのまま手のひらにもちっと頭を沈み込ませ、またある時は反りの力が強すぎてでんぐり返ってもちもちころころと手のひらを転がる。
キューちゃんなりに試行錯誤を重ね、回数を繰り返すごとに姿勢は正しく直立になりつつある。
そして遂にその時が来た。

「ｷｭｩｩｩｩ!」

気合いのこもった一声と共にキューちゃんは一際大きく身体をそらせた。
そしてそのまま万歳のポーズをするかのようにもちもちの両手を天に突き出したのだ。
その姿勢はピシッと見事なＹ字の直立状態で固定されていた。
成功である。

「…ｷｭ?」

しばらくの間、キューちゃんは自分が二足姿勢に成功したことが理解できずに固まっていた。
しかし視線が何時もよりも高いことに気がつくと、万歳していた両手をおずおずと下ろして自分の足元を見下ろした。
なんと自分の後ろの足が見える。ここでようやくキューちゃんは成功に気がついたのだ。

「ｷｭｳ…！」

キューちゃんはそれを飛び上がって喜んだ。
勿論立ち上がるのに成功したばかりで飛び跳ねれば着地に失敗する。
またもやバランスを崩してころころと転がってしまったが、OLは手のひらを丸めてキューちゃんが転げ落ちないようにしてあげていた。

「ｷｭ！」

コツを掴んだのか、キューちゃんは今度は容易く立ち上がることができた。
そして手のひらの上で高くなった視界を存分に満喫するかのように初めて二本の足でもちり、もちりと最初の一歩を踏み出したのである。

「キューちゃん…なんてお利口なの…」

手のひらの上でもちもち歩くキューちゃんの姿にOLの脳ミソは完全に焼かれてしまっていた。
空いた手でスマートフォンの録画機能を起動させてこの感動の場面を切り取る。
彼女は今、間違いなく幸せの絶頂にいたのだ。


＊


OLの無機質な会社勤めの生活はキューちゃんとの出会いによってまさしく一変した。
定時が終われば弾かれたように会社から飛び出し直ぐ様帰宅、家で待ってくれている愛しの『家族』を抱き締めてもちもちする。
そのためならどんな仕事でも苦ではなかった。
それにここ最近の感染症対策で近々彼女の会社にもリモートワークが導入される予定になっているのだ。
会えない時間に寂しい思いをさせるということはほぼ無くなっていた。

「キューちゃん…♪」
「ｷｭｩ〜ﾝ…♪」

彼女は日常のあらゆる場面をキューちゃんから片時も離れず共にした。

「いただきまーす。」
「ｷｭｷｭｷｭｩｰﾝ…」

食事も勿論一緒である。
たぬきは皆甘いものが大好物。
キューちゃんはその中でもふかふかのマシュマロやプルプルのゼリーがお気に入りだった。
もちもちのたぬきは柔らかくて甘いものを特に好むのだ。

「美味しい？」
「ｷｭ!」

OLはニコニコ満面の笑みでゼリーを頬張るキューちゃんに問い掛ける。
キューちゃんは元気に片方の手を上げてそれに応えた。

「そのうちキューちゃんとお話しできたらいいな…」
「ｷｭ?」

頬の周りをゼリーだらけにしながらキューちゃんは首をかしげた。
たぬきは出来ることの多さと身体の成長段階によってその名称を少しずつ変える。
木に実った卵とも言えるたぬ木の実、そこから産まれるとちびたぬきと呼ばれ、二足歩行とぎこちないながらも一応の発話が可能になれば子たぬきと呼ばれるようになる。
そして、完全な会話とたぬき特有のうどんダンスを一人で踊ることが出来るようになれば晴れて一匹の大人のたぬきとして認められるのだ。
キューちゃんは二足歩行が可能になったとはいえ、まだ話すことは出来ないため分類としてはちびたぬきの部類にあたる。
しかし最近はいつも語りかけているOLの発音にあわせてキューキューと鳴いており、成長の片鱗を覗かせていた。

「ごちそうさまでした。さ、キューちゃんもお口ふきふきするわよ。」
「ｷｭｷｭｷｭｩ〜…」

OLのご馳走さまでしたの手を合わせる所作に合わせてキューちゃんも両手をもちりと合わせた。
あとは柔らかいハンカチでキューちゃんのベタベタになった口の周りを拭くのだ。

「ｷｭｳ!」
「こーら、動かないの…これでよし、と。綺麗になったわよ。」

食事が終われば次はお風呂の時間である。
とは言っても尻尾が水に濡れることを極端に嫌がるたぬきの入浴にはそれなりの工夫というものが必要だ。

「綺麗にしましょうね〜♪」
「ｷｭｷｭｰｩ♪」

たぬきを安全に入浴させるための手順は多い。
まずは最初にやることは緑色の服を模した毛皮を脱がせてあげることである。

「キューちゃん、ばんざーいして。」
「ｷｭｩｰ…」

キューちゃんも慣れたもので、言われたとおりに素直に両手をあげる。
OLはてきぱきと毛皮のボタンのような部分を外し、それを脱がせてあげた。たぬきの頭は胴回りよりもでかいので頭を通して脱がせるというのは出来ない。ジャケットなどのように後ろから脱がせるのだ。
同じ要領でスカートのようになっている部分も脱がせる。

「ｷｭ…」
「それじゃあふきふきするわよ。」

一糸纏わぬ裸ちびになったキューちゃん。
次にやるのはウエットティッシュやおしぼりのような湿り気を含んだ布類で身体全体を拭いて水気に慣れさせることだ。
OLは冷たさにビックリさせてしまうことがないようにぬるま湯に付けて暖かくしたおしぼりをよく絞って使っていた。
豊かな栗色の髪の毛はもちろん尻尾、そして特に汚れの溜まる部分である脇の下、首の周り、尻尾の付けね、おまたなどを重点的に拭き上げていく。

「ｷｭｳﾝ♪」

優しく全身を撫で回される感覚に、キューちゃんはうっとりと目を細めてOLの手付きに身を任せている。
全身を拭き終われば次はいよいよ入浴の時間だ。
風呂場のドアを開けて暖かい蒸気に満ちた浴室へとキューちゃんを連れていく。

「ｷｭ…」

こうまでしてもたぬきの水濡れ嫌いは克服し難い。
キューちゃんは不安そうな顔をしてOLの足首に抱きついている。
これは毎日のことで、この徹底的な水嫌いは恐らく野生環境下では水濡れは溺死や凍死の危険性を孕む重篤な状態であるため忌避するのだろうという意見が研究者達の間では通説となっている。
風呂場の中央に置かれている風呂桶には浅くお湯が貼ってある。

「ｷｭｳ〜ﾝ…」

キューちゃんは風呂桶のフチにもちりと両手を付いてその中を覗き込んだ。
浅く張られたお湯は湯気を立てているが温度は火傷しないよう人肌に調整してある。

「ｷｭｩ…」

キューちゃんは顔を上げてOLのことを見上げた。
まだ言葉を話すことはできないが、その表情は「ホントに入らないとダメだし…？」と雄弁に語っている。

「だーめ。綺麗にしてないと色々大変なんだから…」

呆れたように言いつつも彼女の顔は笑っていた。
このやり取りはもう毎日行われているいわば天丼のようなものなのだ。
最初は本気で嫌がっていたキューちゃんも何回か強引に洗ってしまえば後はもう諦めたのか以外と気に入ったのか、抵抗しなくなっていた。
それに身体の清潔を保つというのは見映えや匂い以外にも病気の予防などのために大切なのだ。
野生個体のたぬきは水濡れを極端に嫌い、砂浴びのような代替手段も取らないためとにかく汚い。
汚れから来る感染症によって命を落とすたぬきも多いのだ。

「ｷｭｰ…」

両脇を抱えあげられてキューちゃんは風呂桶のなかにゆっくりと入っていった。
垂れ下がった尻尾がお湯に触れた瞬間、びくりと動いたがそれ以降は甘んじてそれを受け入れているようでお出汁に入れられるうどん麺のようにするりと風呂桶に収まった。

「ｷｭ…」

お湯の暖かさは心地よいが尻尾が濡れるのは好きではない。
複雑なたぬき心のキューちゃんはしょんぼりともにっこりともつかない微妙な表情でお湯に浸かっていた。

「さあて、やるわよ！」

その間にもOLは次々と準備を進めている。
用意したのはボディーソープ、シャンプー、リンスーの三つのボトルとボディータオルだ。
ちびたぬきであるキューちゃんの肌はまだ弱く、それらは全て赤ちゃん用の肌に優しい作りのものを買ってきていた。

「さ、キューちゃん、ごしごしの時間よ！」
「ｷｭｷｭｰｩ!」

十分に身体が暖まったところでキューちゃんを風呂桶から出し、遂に洗髪が開始される。
神妙な顔で椅子代わりの石鹸ケースに腰掛けたキューちゃんはしょんぼり目をぎゅっと瞑ってその時に備えた。
OLは手のひらにシャンプーを垂らすとかき混ぜて泡立てキューちゃんの髪の毛へと手を伸ばす。
高級な布材を撫で付けるかのような慎重な手付きで、OLは栗色の髪の毛を洗っていった。
たぬきには人間にはない尻尾も存在しているため、こちらもシャンプーで洗うことになる。

「次は尻尾よ、お尻向けて…」
「ｷｭ!」

キューちゃんはそう言われると素直に背中を見せて尻尾を出した。
意外なことに、キューちゃんは身体や髪を洗われることは嫌がってはいない。
むしろ揉み解される感触を気に入ってすらいた。

「むふふ…泡泡よキューちゃん。」

みる間にキューちゃんの全身は白い泡で覆われた。
その姿はまるでもこもこもの羊のようである。
しかしそれもすぐにお湯で洗い流される。
さっぱりとしてしまえば次はリンスーの出番である。
汚れを落とすだけならばシャンプーでも事足りるが、艶やかなさわり心地の髪の毛を保つためには保湿効果を持つリンスーも必須なのだ。

「ｷｭ…」

泡を流され、リンスーをつけられている間もキューちゃんはじっと目を瞑って終わるのを待っていた。
なにも見えなくてもOLの触れる手の暖かさがあれば心配することは何もないと分かっているのだ。

「ふう、こんなもんね…次は身体を洗うわよ。」
「ｷｭ…」

リンスーが効果を発揮するまでの間に身体を洗うのがデキる女の美容術というものである。
自分自身の髪と身体でさんざんそれを実践してきていたOLは躊躇うこと無くボディータオルにボディーソープを垂らすと擦りあわせて泡たててからキューちゃんの身体を優しく洗い始めた。

「痛かったら言ってね〜」
「ｷｭ!」

先ほどウエットティッシュでやったように、身体の間接部の汚れが一番たまる部分を重点的に擦って綺麗にしていく。
擦り付けられるボディータオルは目の細かい赤ちゃん用のものであり、その柔らかさは同族同士のもちもちまでとはいかずとも程よい心地よさをキューちゃんに与えていた。

「またもこもこになったわね…」
「ｷｭ?」

素肌の部分を綺麗に洗い上げられたキューちゃんは再び泡まみれのもこもこちびたぬきになっていた。
だがそれもすぐに頭のリンスーと一緒に洗い流される。
長くつけていれば良いというものでもないのだ。

「そろそろ流すわよ、キューちゃん。」
「ｷｭｩｩ…」

頭の上からゆっくりと多すぎない量のお湯をシャワーでかけて、OLはキューちゃんの全身を洗い流していった。
これでキューちゃんのお風呂は完了である。

「ｷｭｷｭｰｩ！」

キューちゃんは全ての行程が終わったと分かると一直線に風呂場の出口に駆け出した。

「走っちゃ危ないわよ！」

しかし十歩も走らぬうちにOLの伸ばした手に掬い上げられる。
流した泡もまだ残っている風呂場の床を走れば当然危ない。
転倒からの頭部強打は人間とて死に至るダメージがあるのだ。
頭がでかく尻尾でバランスを取らないと歩けないたぬきならば尚更のことである。
捕らえられたキューちゃんは湯冷めしないように迅速に乾いたタオルを全身に巻き付けられた。

「ｷｭﾑ…」

何枚か使って露出しているのは顔だけという具合になっている。
こうなるとキューちゃんの力では身動きが出来ない。

「乾くまで待っててね…」

風呂場の脱衣スペースには温風装置が置いてあり、タオルで身体を乾かしている間のキューちゃんが凍えてしまうことはない。
この乾燥を待つ時間を使ってOLは風呂を浴びるのだ。

「お待たせ、お利口に待ってた？」
「ｷｭﾑｩ…」

手早く入浴を済ませたOLは相変わらずミイラのようにぐるぐる巻きになっているキューちゃんを持ち上げ、タオルを剥がすとドライヤーの一番弱い出力で全身を丹念に乾かしていく。
一番強い温風を浴びせるとキューちゃんの肌には辛いのだ。
だから事前にタオルで乾かしておく必要があった。

「よーし…これでいいわ。キューちゃん、終わったわよ！」
「ｷｭ!」

全身が乾いたことを確認すると、OLはキューちゃんに服を着せてやった。
これは入浴前に脱がせた自前の毛皮服ではなく、OLが手作りしたハンドメイドの品である。
頭と両手を通すための三つの穴が開いた作りの貫頭衣であり、生地の色は元々の服に合わせて緑色であった。
さながらワンピースのようなそれの裾をなびかせながら、キューちゃんは居間へと大喜びで駆けていった。

「あ〜…可愛いわぁ…」

その様子を微笑ましげに眺めながらOLは最後に残された仕事を始める。
キューちゃんの元々の服の洗濯だ。
たぬきの服はあくまでもそれを模した毛皮である。
工場で生産された服とは違い、洗濯機に入れて回してしまうと容易く崩れてしまいただの毛の塊になってしまうのだ。
それを防ぐためには伝統的な手洗いが必要になる。
桶に水をためてごしごしと洗剤を落としながら服を洗うOLは、横目で今にいくつも置かれた小さなボールを転がして大喜びで遊び回るキューちゃんの様子を見守っている。

「…うん、大丈夫そう。」

汚れが落ちたことを確認した彼女は水切りをしてそれを洗濯ばさみで挟んで室内干しし始めた。
本当は昼間の間に太陽の光で自然乾燥させた方が良いのだが、今のご時世にたぬきの服を外に干しているということはたぬきを飼育しているとご近所に大声で触れ回るようなものである。
そんなリスクはさすがに犯せないと考えるだけの頭が彼女にもあった。

「ｷｭｷｭ!」

選択を終わらせた彼女のもとにキューちゃんがボールを抱えてやってくる。
一緒に遊ぼうと誘っているのだ。
それを見た彼女は満面の笑みでそれに答えるのだった。



＊



「ｷｭ…ｸｧ…ｷｭｩ…」

時計の針が夜の九時を指す頃、一杯食べて遊んだキューちゃんはすっかり眠くなったのか小さな口を大きく開けて可愛らしい欠伸をするとボールを転がして遊んでくれていたOLの元にとてとてと歩いていってその膝に抱きついた。

「キューちゃん、眠くなっちゃった？」
「ｷｭ…」


OLを見上げるキューちゃんのしょんぼり目は常よりもしょぼしょぼとしており、時折くしくしともちもちの手で擦っている。
眠気でふらふらのキューちゃんをOLは優しく抱き上げると寝室へと連れていった。
彼女の自宅の寝室はかつてはベッドが設置してあったが、キューちゃんとの生活を始めるに当たってそれは撤去し床にカーペットと布団を敷くようにしていた。
そして、その布団の横にはキューちゃん専用の揺りかごのようなベッドが置いてある。
寝相でころころ転がっていかないようにと配慮したもので、狭めの空間で柔らかい毛布に包まれればキューちゃんはすぐに眠りへと落ちていき、すぅすぅと寝息をたて始める。

「お休みなさい、キューちゃん。」
「ﾀﾇ…ｼｭﾋﾟ…」

キューちゃんは既に夢の中だ。小さな毛布を抱き締める安らかな寝顔を堪能したOLはゆっくりと部屋のドアを閉めて常夜灯を付けた。
キューちゃんはよく寝てよく遊びよく食べることが仕事だが、彼女にはやらなければならないことはたくさんある。
居間へと戻った彼女はしまってあったノートパソコンを取り出して起動させるとインターネットを経由してとあるページを開いた。

「このサイトが残ってて助かったわ…」

心意気は人一倍であるがたぬきの飼育についてはまったくの無知であった彼女はその知識をネットの海に求めた。
そうして巡りあったのが今見ている個人ブログだ。
たぬき飼育の全盛期に開設されたこのブログには、完全に未知の生き物であるたぬきの最適な飼育方法を手探りで割り出そうという試みの元、毎日の様子と何をしたかが写真付きで克明に記録されている『日記帳』とそこから得られたフィードバックをまとめた『たぬきの飼育方法』そして写真のみを掲載した『アルバム』の三つのページで構築されている。
その中で最も役に立ったのが飼育方のページだった。
食べ物ひとつとっても食べて良いものと悪いものがある。
例えばたぬきは甘いものが大好きだが、ちびたぬきに蜂蜜を与えてしまうとボツリヌス菌に感染して高確率で死んでしまう。

「多くの犠牲の上にキューちゃんは生きているのね…」

このブログでさまざまな知識を覚えながら彼女が思ったことは、想像以上にたぬきという生き物は脆く死にやすいということである。
ブログの記念すべき一ページ目に記録されたたぬきの「まつ」はなんと二日目の記録の時点で死亡が報じられた。

ペットショップのたぬき玉から買われてきた一匹目のたぬき「まつ」は初めのうちは居なくなってしまった姉妹を探して家中をキューキュー鳴きながらぽてぽて歩いて探し回っていたが、やがて何処にもいないということを理解してしまうと部屋の隅で自分の尻尾を抱き締めてじっとうずくまり、差し出された食べ物や水にも手をつけることなく衰弱死してしまったのである。

二匹目である「くり」はまつの失敗を鑑みて寂しくないように小さなたぬき人形が用意された。
試みは成功しちよは人形を抱いて疑似たぬき玉を作り、食べ物も飲み物もしっかりと食べてどんどん成長していく。
しかし片時も人形を手放すことがなく、ある日テーブルの上でご飯を食べていたところたぬき人形の尻尾を踏みつけて転んでしまいそのまま床に落下。もちもち肌のお陰で即死には至らなかったが頭から落ちたことが原因か脳死状態となり心臓は動いているものの全身がピクリと動かすことすらできなくなり必死の看護の甲斐無く三日後に死亡した。生存日数はちょうど一週間。

三匹目である「ちょこ」はそれらの問題も解決することができたが、１ヶ月かけてもトイレトレーニングを完了させることができなかった。具体的に言うとトイレをする場所は一ヶ所でそこ以外ではしてはいけないということは理解できていたが、肛門括約筋や膀胱を引き締めてたぬうんちやたぬしっこを漏らさないようにすることができなかったのである。
やってはいけないと言われたことをやってしまっていることへのストレスと、まとわりつく排泄物の不快感からおまたに付いたたぬうんちを落とそうともちもちの手で擦り付けてしまい、最終的には炎症を起こした肛門腺が腫れ上がって肛門の出口を塞いでしまい排泄不全に陥って死んでしまったのである。

このように夥しい死を重ねながら投稿主はたぬきの飼育知識を蓄積し、各種問題やそれに対する解決策などの情報をまとめ同じような悲劇が繰り返されるかとがないようにと情報共有に務めていたのである。
最終的に二十匹を越えた辺りで所謂定石を確立するに至った。
二十匹目のたぬき「まろん」は多くの同胞の死の経験から完璧な飼育と躾が行われ、家事などのお手伝いも積極的にしてくれる小さな可愛らしい同居人となってブログの顔として大人気となっていた。
アルバムのページの大半は頭に小さなナプキンの頭巾を巻いて掃除のお手伝いをする姿や、花柄のエプロンを身につけてフライパンで目玉焼きを作る姿、投稿主と公園を散歩する姿など微笑ましい画像がたくさん残されている。
ブログはたぬきの飼育が禁止されることを受けて惜しまれながらも更新を凍結させた。
日記帳の最後のページにはまろんの一歳の誕生日を祝って授与するための勲章を用意したという一文を最後に終わっており、それ以降の更新はない。

「トイレトレーニング…うまく行くかしら…」

目下のOLの悩みはそこである。
ちょこの犠牲から確立されたトイレトレーニング方法はこうだ。
まず、言葉を話せるようになって歩けるようにもなった子たぬきの時期から始めなければならない。
ちびたぬきの段階では全身の筋肉が未発達であり本たぬきの意思では排泄欲求を我慢することが出来ないのである。
人間から言われている言葉はある程度理解することが出来るしそれをやらなければならないということも理解することが出来る。
だが肉体がそれに追い付かないという解消不可能なジレンマを抱えさせることになるのだ。
そうならないためにもトレーニングの開始は子たぬきになってからなのである。
それまでは排泄は付きっきりで世話をしないといけない。
家の何処で催してもいいようにOLは常にポケットにウエットティッシュを携帯している。
たぬうんちにせよたぬしっこにせよまだ小さいので大した量ではないことが幸いして始末にはそう苦労していない。
だがキューちゃんの成長は著しく、やがてはそうではなくなるだろう。
悩みはつきないが、それ以上に愛しいキューちゃんを育て上げたいという気持ちも強かった。
OLは決意を固めるとノートパソコンの電源を落として寝ることにした。
パジャマに着替え、寝室の布団に潜り込む。
すやすやと眠るキューちゃんの可愛らしい寝顔を眺めて微笑むと、彼女もまた眠りへと落ちていった。


＊



夜が明けた。
カーテンの隙間から差し込む朝日を受けながらOLは目覚める。
背伸びをして起き上がり、隣のキューちゃんが寝ているゆりかごベッドを覗き込む。
キューちゃんは相変わらずぐっすりと寝ていた。
OLは微笑んでその頬を指先で軽くつつく。

「キューちゃん、おはよう。」
「ｷｭﾆｭ…ﾀﾆｭ…」

キューちゃんはしばらく寝ぼけているのかふにゃふにゃと言葉にならない鳴き声を出していたが、やがて意識が覚醒して視界が定まってくると見下ろすOLの顔を認めて小さな口を開いた。

「ｷｭ…ｵﾊﾖ、ﾀﾞｼ…」
「…！キューちゃん、あなた！」

OLの眠気は一瞬で吹っ飛んだ。
キューちゃんが初めて人の言葉を話したのだ。
毛布をはね除けて飛び起きると顔を近づけてキューちゃんとのはじめてのお話をしようと言葉を繋ぐ。

「キューちゃん、もう一回言ってみて！」
「ｵﾊﾖ、ﾀﾞｼ！」
「やっぱり！話せるようになったのね！」

彼女にとってはまさに青天の霹靂である。
最近は言葉に合わせた音程の鳴き声をするなどして真似ようとする兆候はあったが、ここまでしっかり言葉に出してくれるとは思ってもみなかったのである。
嬉しくなって彼女はキューちゃんを抱き上げた。
キューちゃんも嬉しくなってどんどん言葉をはなそうと頑張った。

「ﾀﾉｼ、ｼ！」
「楽しいのね！私も楽しいわ！キューちゃんとお話できてとっても嬉しい！」
「ｳﾚｼ、ｼ！ｵﾊﾅｼ、ｽﾙｼ!」

感極まった彼女達は頬を擦りあわせて親愛のもちもちをした。
人とたぬきでは肌のもちもち具合は全然違うがそんなことはお互い全く気にならなかった。それくらい嬉しかったのだ。
こうしてはいられないとOLはキューちゃんを下ろすと充電していた携帯電話を取り出して職場へと電話をかけ、非常に元気の良い声で病気になったので休むことを伝えると電話を切った。
キューちゃんとはじめてお話しできた記念すべき日である。
出勤している暇などありはしない。
それからというもの、OLはキューちゃんとお話を繰り返した。
たぬきの語彙力はこれまでの会話から培われるとされる。
色々な言葉を教えるため、テレビの教育番組や幼児番組を一緒に見たりもした。
キューちゃんは何かみたことの無いものや知らないことがあると都度OLに聞いてくるので教えてあげるとまるでスポンジのように知識を吸収していったのだ。
そうして数日もしないうちにたどたどしい話し方は鳴りを潜め、人と変わらないほどの滑らかな発話を可能としたのである。

「おトイレはここでするのよ。」
「わかったし！」

懸念していたトイレトレーニングは拍子抜けするほどにいとも容易く成し遂げてしまった。
簡易トイレを置いてあげればそこで用を足すし、したことをちゃんと言ってくれるので片付けも簡単とくればもうあまりの利口さに感嘆する他ない。
このように言葉を話せるようになりちびたぬきから子たぬきへと成長したキューちゃんの知能指数は加速度的に増加していった。
視界にはいるもの全てがキューちゃんの興味の対象で、好奇心旺盛に家の中のあらゆるものを知りたがり触りたがる。
この時期に学習した内容がたぬきの内面を形作る重要な要素となると参考にするブログにはあった。
だから彼女はキューちゃんが「良い子」になれるよう教育に心を砕いたのである。
ただ甘やかすだけが育てるということではない。
やってはいけないことをした時は心を鬼にしてしっかりと叱り、何がいけないのかを理解させることもまた愛情なのだ。

「キューちゃん、ティッシュで遊んじゃ駄目でしょ？」
「キュウン…わかったし…ごめんなさいですし…」

ある時ティッシュ箱のティッシュを全部出してしまうイタズラをしたキューちゃんは、それを見つけたOLの捕まえられて小一時間ほどお説教を受けた。
叱られるキューちゃんは申し訳なさそうにうつむき、尻尾も耳も力無くだらんとしている。
しかし利口なキューちゃんは一度言われたことはすぐに理解することができた。
頭の出来はたぬきの個体ごとの差が大きく出る。
キューちゃんは並みいるたぬきのなかでも上位の素直さと賢さを兼ね備えた良いたぬきだったのだ。

「もうしないわね？」
「はいですし…はんせいしますし…」
「……分かったわ。それじゃあ、ご飯にしましょうね。」
「ごはんだし！たぬきもお手伝いするし！」
「良い子ね…じゃあ一緒にやりましょうか。」

最近のキューちゃんはOLのやっていることを真似ようと色々なことの手伝いを申し出てきていた。
掃除や料理などの家事を手伝ってくれるのは彼女にとっても助かるので、危なくないように注意しながら手伝いをしてもらっている。

「そろそろいいかしら…」
「どうしたし？」
「ううん、なんでもないわよ。」

ポテトサラダをお皿に盛り付けるキューちゃんの後ろ姿を見見守りながら、OLはそろそろ飼いたぬきにとっての一大イベント「うどん始め」の時期が来たと確信した。
たぬきの大好物は基本的に甘いもの全般であるが、一つだけ例外が存在する。それが「うどん」だ。
小麦粉を練って作った麺を醤油ベースの出汁に入れていただく伝統的な日本食であるこれは、何故だかたぬきにとっては神聖で特別な意味を持つ食べ物だとされる。
不思議生物であるたぬきの不可思議さの一端を担うこの嗜好は、同じくたぬきのアイデンティティを担ううどんダンスと密接に関わっているのだ。
親たぬきからうどんダンス教わることの出来ない飼いたぬきがうどんダンスを習得するにはうどんを食べる他ない。
何故だかは分からないが、そういうものなのである。
少なくともOLが参考にするブログにはそうあった。
しかし最初の一回である「うどん始め」においては軽々しく食べさせてはいけない。
うどんが大切なものであると認識させるためにも、何かのご褒美として与えるのが肝要である。

「うーん…なにか良い方法は無いかしら…」

これについてはブログにも掲載されていないので自分の頭で考える必要がある。
なにか記念になるような思い出を作るうどん、そういうのはなかなか思い付くものではない。
キューちゃんが寝入った夜中にネットサーフィンを繰り返していた彼女の視線は、通販サイトのある商品をじっと見つめていた。
そして天啓を得たのだ。

「これよ…これだわ！」

即座に購入を決定した。商品が送られてくるのは三日後である。その時のことを楽しみにして、気持ちの悪い笑みを浮かべながらOLもまた布団に潜り込み、キューちゃんのもちもちもふもふの身体を抱き締めて堪能しながら眠りに落ちていった。




＊




三日後、宅配員から商品の箱を受け取ってサインをしたOLはホクホク顔でキューちゃんの待つ居間へと戻ってきた。
キューちゃんも見たことのない箱に興味津々である。

「わ、わ！それ、それなんだし！？」
「ふふーん、気になる？気になるわよねぇ…」

彼女は勿体つけながらその包装を外していった。
そして現れたのは一つの木箱。
『たぬきうどん入門キット』と銘打たれたそれは、たぬき飼育の全盛期に開発されたたぬき用高級娯楽の一種である。
たぬきにとって神聖な価値を持つうどんを自らの手で作るためのセット一式であり、人間用のものを流用して作られている。
飼育違法化に伴い本来の価格の百分の一の値段で投げ売りされていたため非常にリーズナブルな価格設定であった。

「今日のご飯はこれで作るのよ！キューちゃん、手伝ってくれる？」
「はいですし！」

元気よく返事をするキューちゃんにOLは満足そうに頷いて早速うどんの作成に取りかかった。
手順はさまざまな段階に渡るが、まずは生地の準備である。

「これよ…見て！まんまるだわ…！」
「真っ白でまんまるだし…きれいだし…」

うどん生地を作る際、最初にやるべきことは踏むことである。

「作り方を説明するわね、よく聞くのよ。まずは…踏むわ！」
「えっ？食べ物を踏んで大丈夫なんだし？」
「ええ、ビニール袋越しに踏むみたいね…キューちゃん、お願い！」
「たぬきにお任せだし！」

キューちゃんは早速ビニール袋に入れられたうどん生地に飛び乗った。
そしてそのもちもち両足をえっちらおっちら動かし始める。

「こう…だし？たぬきちゃんとできてるし…？」
「良い感じよキューちゃん！」

もちもちのたぬきは同じくもちもちのうどん生地と相性がいいのか、生地は瞬く間にぺたんこになった。

「おお〜…まるまるがペタンこのまんまるになったし…」
「次は…折り畳んでまた踏むみたいね…あと四回同じようにするらしいわ。」
「頑張るし！腕がなるし！」

キューちゃんの気分はすっかり職人さんである。
真剣な顔で一生懸命にもっちもっちと足踏みをしては生地を畳んでまた踏む作業を繰り返す。
四回終われば次の行程である。

「頑張ったわねキューちゃん…次はお団子を作るみたいよ。」
「お団子だし…！」

平らに伸ばした生地をまた丸める。
一見同じ作業の繰り返しに見えるが、生地に空気を入れるために必要な回数と行程なのである。
ここを疎かにしたうどんは喉ごしが悪くボソボソとした食感になってしまい美味しくなくなる。

「ふんし…ふんし…か、固いし…でも頑張るし…！」
「ファイトよキューちゃん！」

OLから応援されてキューちゃんは頑張った。
もちもちの手でうどん生地を丸めていくのだ。
吸い付くような感覚が手に残るなか、キューちゃんはついにやりとげた。

「まんまるに戻ったし…！」
「よく頑張ったわねキューちゃん…しばらく休憩よ。」
「はいーし…」

頑張ったキューちゃんにお水を飲ませながらOLは次の行程を確認する。
次にするのは熟成だ。
団子になった生地を再びビニール袋に入れて一時間ほど寝かす必要がある。
この間はキューちゃんは休憩時間だがOLはそうではない。
うどんのスープとなる出汁も箱には同梱されているが、これはまだ保存のため冷たくなったままだ。
冷製うどんでもなければこのままかけて食べることは出来ない。
出汁をヤカンへと移し変えて暖めたりと準備を惜しまない。
そうしている間に一時間はあっという間に過ぎていった。

「そろそろ良いわね…キューちゃん、次は伸ばしよ。これを使って生地を伸ばすの。」
「伸ばすし…生地を伸ばすし…」

たぬき用の伸ばし棒は小さな身体のたぬきでも扱えるように棒の内部がくり貫かれコルクを詰めることで軽量化を図っている。
サイズも重量もたぬき用に調整してあるのだ。
キューちゃんはこの伸ばし棒を軽々と扱い、打ち粉の撒かれたシートの中央においた生地を伸ばしていく。
生地自体はそれなりの固さのため、身体を押し付けて体重をかけて伸ばしていくのだ。

「ふんし…！ふっし…！」

打ち粉で顔を真っ白にしながら、キューちゃんは縦に横にと棒を転がし生地を伸ばしていく。

「いいわね…順調よ。次は伸ばした生地を棒に巻いてまた伸ばすみたいね。一人で出来る？」
「勿論ですし！たぬきのたぬパワーまっくすだし！」

伸ばし作業は順調に進んでいった。
巻いては伸ばすを繰り返して最後には中心に伸ばし棒を下ろし、そこから外側にずらすように生地を広げる。
そうして見事に厚み３㎜、伸ばし棒と同じくらいの広さの生地伸ばしが完了した。
この伸びた生地の裏表には再び打ち粉を撒く必要がある。

「ぱらぱらし…白い粉はきれいだし…」

キューちゃんは打ち粉の入ったビニール袋を片手に生地へと丁寧に撒いていく。
裏表が終われば次は生地全体を三等分の屏風畳みにする作業だ。

「三つに分けるのは難しいし…どこから折ればいいんだし…？」
「う〜ん…たぶんこの辺ね…？」

ああでもないこうでもないと試行錯誤しながらなんとか屏風畳みを完遂する。
今や生地はぴったりと折り畳まれて最後の段階に移るのを待つのみであった。

「最後は切らないといけないわ。ここは私が」
「むむっ！たぬきにやらせて欲しいし…気を付けるからし…やってみたいんだし…お願いし…」

上目遣いに見上げてくるキューちゃんの可愛らしさに心打たれたOLは暫くの間考えた後に後ろから一緒にやるのを条件に包丁を使わせてあげることにした。

「それじゃあキューちゃん、気をつけて私の手の動きに合わせて動かすのよ。いいわね？」
「わかったし！わくわくし…！」

プラスチック製の子供用包丁ではあるが扱いを謝れば大人だって怪我をするのが刃物である。
猫の手などはたぬきの手では出来るはずもないので後ろから手を添える形で包丁を生地にいれていく。

「とんとんし♪とんとんし♪」

一人と一匹による親子の共同作業でうどん生地を均等な幅でカットしていく。
切り分けられて縦長になった生地はよくほぐして打ち粉を落とさなければならない。
これが残りすぎていると茹でる時にダマになってしまう。

「ぱたぱたするし…粉おとし…」

キューちゃんが麺を解している間にOLはお湯を沸かせる。
鍋に規定量の水を注いでコンロの火を入れ、蓋を閉めて暫く待つのだ。
気泡が立ち始めた頃にはキューちゃんは粉おとしを終えて熱くない位置でスタンバイしている。

「そろそろだし…」

OLはキューちゃんからボウルにまとめられたうどん麺を受けとると沸騰したお湯の上から落とすように麺をいれていく。
この作業は気を付けないと本当に危ないのでOLが全て受け持っていた。
弾みで沸騰したお湯でも跳ねたら大惨事だ。

「いいわね、うどんって感じだわ。」

菜箸で麺をかき回しながら茹で続ける。
マニュアルによると十四分ほどがよい案配のようだった。
しかし換気扇を回していても熱気は伝わってくる。
OLの首もとを汗が伝った。

「ふぅ…」
「これ使ってし！」 
「ありがと！」

袖で汗を拭おうとしたところに、キューちゃんがタオルを差し出す。とても気の効く良い子だった。
そうして遂に麺が茹で上がったのである。
しかしこれからすぐに食べられるというわけではない。
麺の歯応えを左右する最後の行程が残っている。
それが水洗いである。

「これで仕上げよ。」

金属製の大きなボウルに水切りザルを被せたそれに鍋の中の麺をお湯ごと移す。
そのごもう一つ用意した水を満たした金属ボウルにザルで麺だけを取り分けて浸して表面の滑り、つまり残った打ち粉を取り払うのだ。
ザルを軽く振って水切りをした後は一瞬だけお湯に浸け直してまた湯切りをする。
あとは暖めた出汁の入った器に麺を取り分けるだけである。
こうしてうどんは完成したのであった。

「さあ、うどんの完成よ！」
「これがうどん…すごく美味しそうだし…！」

出汁の芳醇な香りが漂うなか、キューちゃんはフォークを片手に食い入るようにうどんを見つめて生唾を飲み込んだ。
たぬきにとってうどんとはどんな美食よりも価値のある食べ物なのだということを本能で理解している。
焦らすのも可愛そうだしせっかくのうどんが伸びてしまっては台無しなのですぐに食べることにした。

「いただきます。」
「い、いただきますし！」

両手をもちりと合わせて食材への感謝を伝えたキューちゃんはフォークでうどん麺を絡め取ると小さな口を開いてぱくりと一口した。
そして何時もはしょんぼりと下がった瞳を見開くと再び一口食べて咀嚼する。

「ど、どう？」

無言なキューちゃんを見てOLは僅かに不安そうに聞いた。
自分でうどんを作って食べるときはスーパーで売られている袋麺を使っていたから、生地から作るというのは彼女にとっても始めての経験である。
もしやうまく出来ていなかったのではないかと思ったのだ。

「た…たぬぅぅぅん！美味しいし！ほっぺが落ちちゃうし！」

キューちゃんはほっぺたを押さえて全身でうどんの喜びを表現していた。
それを見てOLも一口。
具も何もない素うどんのはずなのに、それはこれまで食べたどんなうどんよりも美味しく感じられた。

「美味しいわぁ…キューちゃんが頑張ってくれたお陰ね！」

一人と一匹で同じ卓を囲み食事を共に楽しみ笑いあう。
理想的な共存の関係がここにはあった。
この暖かな時間がずっと続けばいいのにと両方が心から願っていたのだ。
家の中には楽しげな笑い声が満ち、それは夜が更けるまで続いた。


＊


記念すべきうどん始めの日から数日、キューちゃんの肉体と精神には目に見えて変化が訪れていた。
たぬきにとっては神聖な食べ物であるうどんを自作して食したという事実は、脳を活性化させ急激な成長を促していたのである。

「大きくなったわねぇ…」
「成長期？になったし…お母さんのおかげだし…」

出合った頃は手のひらに乗るどころか親指程の大きさであったキューちゃんは今や生後数ヵ月の赤ん坊もかくやというほどの大きさに成長していた。
毛皮服もサイズが合わなくなり、成長速度に生える速度が追い付かず生え変わっては着れなくなることを繰り返している。
そのため今は手製のワンピースがキューちゃんの普段着だった。
生えてくる不完全な毛皮服は毎晩ファーミネーターで落とすことが日課になっている。

「ムキュ…お母さん…おトイレしたいし…」
「分かったわ。おまるだすわね。」

身体の成長に合わせて変化したのは服だけではない。
その他の生活様式もガラッと変わっている。
排泄行為はペット用のトイレパレットではなく幼児が使うようなおまるに変わった。
跨がれる大きさに成長したがゆえである。
またお風呂のときも入るのは風呂桶から浴槽へと変わっている。
それらの変化はまるで本当に子供ができたかのようで、OLの母性はおおいに満たされていた。
寝る時もゆりかごベッドに身体が入らなくなったので今では同じ布団で添い寝するようになった。
成長して潰してしまう心配がなくなったからだ。
今ではOLは温かくもちもちふわふわのキューちゃんを存分に抱き締めて快眠に至っていた。

「お爺さんとお孫さんは何時までも幸せに暮らしましたとさ…めでたしめでたし…」
「感動だし…お爺さん幻気になってよかったしぃ…」

しかしそれらの肉体的な成長を凌いで大きく成長したのはむしろ精神の方であった。
OLはキューちゃんがちびたぬきの頃から情操教育のため絵本の読み聞かせを頻繁に行っていた。
それに対してこれまでのキューちゃんは内容を理解しているというよりも、OLと何かをしている、話しているということ自体に喜びを見いだしていた。
だが今は絵本の内容をしっかりと理解しており、登場人物に対する共感や先の展開への興味を示すようになっていったのである。
キューちゃんは健全に成長をしていた。
善悪の区別がつくようになり、なぜそれがいけないことなのか理由を親であるOLに言われたからではなくこれまでの経験から導きだしてしっかりと認識できるようになっていたのである。

「うどん…たぬき…うーん…なんか違うし…」
「キューちゃん？ごはんよー？」
「はーいし…今行くしー」

心身共に一回りも二回りも大きくなったキューちゃんは、それからというもの居間などの広いスペースがあるとその真ん中で何かを考え込むように立ち尽くすことが多くなった。
そしてああでもないこうでもないとぶつぶつ呟きながら跳び跳ねたり身体を伸ばしたりといった体操のような動きをするようになっていたのである。
それはうどんダンスの発露であった。
たぬきがうどんダンスを習得する方法は二つ。
親や友達たぬきなどの既にそれを知っている親しいたぬきから教えて貰うこと。
そしてもう一つはうどんを食べることによって自力習得することである。
野生環境下でうどんを食べる機会など存在しないため大体のたぬきは前者の方法が当てはまるが、キューちゃんは後者であった。

「キューちゃん…頑張るのよ、ファイト！」

OLは試行錯誤を繰り返しダンス未満の奇怪な動きをするキューちゃんの姿を陰ながら見守っていた。
情報源であるブログによるとこれを邪魔してはいけない。
先にうどんダンスを踊るたぬきの動画などの正解を見せてしまうと脳の働きが阻害されて二度とうどんダンスを踊ることが出来なくなってしまうらしい。
そして大切なうどんダンスを奪われたたぬきはそれまでどんなに幸せでも一瞬で絶望の底まで落ち込んでしまい、生きることを諦めて蛹になってしまう。
ブログに載っていた十七匹目のたぬき「とら」の最期の姿、そのグロテスクな様相にぎょっとしたOLは愛するキューちゃんがそんなことになってしまわないようリモートワーク時以外はネット断ちをしていた。
そんなある日、遂にその時が訪れたのである。

「お母さん…見せたいものがあるし…」
「なぁに？」
「こっちだし…」

それは夕食前のことだった。
料理に集中してキューちゃんから暫くの間目を離していたのだ。
そろそろ完成するのでキューちゃんに味見でもして貰おうかと振り返ると、これまでに見たこともない程の神妙な顔をしたキューちゃんが足元にいてズボンの裾を引っ張っていた。
OLは促されるがままにコンロの火を消してぽてぽて歩く後ろ姿を追う。
そして居間の真ん中に陣取ったキューちゃんは暫く不安げに床を見ていたが、やがて意を決して真正面を見据える。

「…し！やるし！」

そうして始めてのうどんダンスが始まった。

「きっつっね…たっぬっき…！」

右手は真正面に突き出すように、左手は腰にあてて六歩前へと進む。

「てんぷっらっ！」

一区切りの間に背を見せて尻尾を一振、そのままの勢いで身体を左に捻って両手を若干下向きに開く。

「つっきっみっ！」

体制を維持したまま右方向に軽やかに二回ステップ、三回目に右足を高くあげてジャンプ。

「おっにっくっ！」

ぶれること無くジャンプからの着地を決め、胸の前で両手を前後にくるくると回す。

「ひっがしっまるっ！」

回していた手を片方は腰へ、もう片方は頬へもちりと当て交互にそれを行う。

「うどんうどんうどん！」

右、左、右、とうどん一言につき一回腰を突き出す。

「すーぷっ！」

足を開き、軽くジャンプしながら右手で空を指す。

「うっ！うっ！」

そして最後の締めに腰に手を当て右、左と順にお尻を突き出す。

「ふぅ〜し…ふぅ〜し…」

全身全霊のうどんダンスを疲労したキューちゃんは荒い息を吐きながらゆっくりとOLの顔を見上げた。
そして不安そうに聞く。

「ど、どうだったし…？たぬきの始めてのうどんダンス…ちゃんと踊れてたし…？」
「キューちゃん…！」

終わるまで決して邪魔すまいと無言を貫いていたOLは感極まってキューちゃんに抱き付いた。

「最高だったわ…最高のうどんダンスよキューちゃん…！」
「ほ、本当だし…？本当に本当し…？」
「嘘なんて言うもんですか！あーもう、なんてかわいいの…！？」

ハグともちもちを繰り返すこと十分、ようやく落ち着きを取り戻した一人と一匹は改めて向き合った。

「こほん…それじゃあキューちゃんには渡さないといけないものが出来たわね。」
「なんだし…？」
「こっちよ…」

今度は先ほどのやり取りの真逆である。
OLはキューちゃんを抱えると寝室へと連れていって、タンスの一番上の段を開けて小さな木箱を取り出した。

「箱だし…何が入ってるし…？」
「開けてみてからのお楽しみ、よ。」

OLは木箱を開けて見せた。
それを見てキューちゃんははっと息を飲む。
箱の中には金色の輝きを放つメダル型の勲章が一つ納められていた。
ピカピカに輝くその中央にはにっこりと得意気に笑うたぬきの顔が彫り込んである。

「く…勲章…だし…！？」

たぬきの本能に深く刻まれた勲章。
それはこれまで勲章のくの字も知らなかったキューちゃんの口からするりと出てきた。
目を輝かせてそれを見るキューちゃんにOLは努めて厳粛な表情をしながら語りかける。

「キューちゃんもダンスを踊って立派なたぬきになったわ…これまでずーっと良い子でいたし、この勲章はそのご褒美よ。」
「つ…つけていいんだし！？」
「ええ勿論、キューちゃんは勲章に相応しい良いたぬきよ。さあこっちにきて…つけてあげるわ。」

神妙な空気のなか、OLはキューちゃんの毛皮服に勲章を取り付けた。
胸元に下がるずっしりとした重さに、キューちゃんはそれを両手で抱える。
不思議と重いとも邪魔だとも感じなかった。
在るべき物が相応しい場所に収まったような、そんな感じがしたのである。

「ありがとうし…！大事にするし…！」
「ええ…！」

その日キューちゃんはずっと勲章を抱いていた。ご飯を食べるときやお風呂に入るときは流石に止めていたが寝るときも決して離すことはなかった。
OLはそれを微笑みながら見ていた。
こんな日がずっと続けば良いと思ってキューちゃんと眠った。
だが破滅の足音は気がつかないうちに直ぐ近くまで迫ってきていたのだ。



＊


何時ものように起きて何時ものようにお母さんを起こして朝御飯を作る手伝いをする。
そんな朝の日課をこなしていたキューちゃんはおまたに妙な感覚を覚えた。
尿意かと思いおまるに跨がるが何時まで待ってもたぬしっこは出てこない。
不思議に思ってその日はおまるを設置したままにしていた。
その後に普通にたぬしっこもたぬうんちも出たが、だからといっておまたの妙な感覚が消えることはない。

「たにゅう…おかしいし…変だし…」

トイレを終えた後にトイレットペーパーでおまたをふきふきしている時、キューちゃんは衝撃を受けた。
今までのたぬ生では一度も感じたことのない快楽がおまたから登ってきて能天を突き抜けたのである。

「たにゅっ！？へ…変だし！たぬきのおまたおかしくなっちゃったし…！？」

未知の快感を受けてキューちゃんが感じたの喜びではなく恐怖だった。
知らないことが自分の身体で起こっている。
恐ろしくて彼女は寝室の布団に飛び込んだ。

「ひぃんし…ひぃんし…お母さん…怖いしぃ…」

ぶるぶると震えるキューちゃんだが、OLはリモートワークのため別室に籠っている。
助けを求めることは出来なかった。

「しぃ…しぃ…」

この時キューちゃんの肉体はさらなる変化が起こっており、成体のたぬきとしての最終成長段階に入っていた。
それはブログにも載っていない知られざる最後の成長。
勲章を得るほどの優れたたぬきにのみ発現するそれは、多くの生物に見られる発情期と呼ばれるものである。
野良のたぬき達が「まんし」と呼ぶそれが発現するには様々な脳のセーフティを突破しなければならない。
まず一つ目は肉体の成長である。
ちびたぬきや子たぬきの未熟な身体ではまんしになっても出来ることはない。生存に集中するために脳はホルモンバランスを調整してまんしにならないようにしている。
二つ目は健康、栄養状態。
肉体が成長しきったとしても、負傷や病、飢えによって満足に動くことの出来ない要介護たぬきでは意味がない。
三つ目は能力である。
運良く命を拾ってきたような実力不足のたぬきには次代のちびたぬきを育てるだけの資格無しとしてホルモンが分泌されることはなくなる。この条件は勲章を得たことによって生じる喜びの感情がトリガとなって満たされるのだ。
最後に四つ目、それは周囲に自身を除いた同族のたぬきが存在しないことである。
既に十分な数が存在するのならば無理に増える必要はない。
たぬきは同族との親愛のもちもちをすることによって勲章による喜びのホルモンとはまた別種のホルモンが分泌され、それがまんしを阻害するのである。
つまりキューちゃんは、そしてほぼ全ての一年以上飼育されている飼いたぬきはこの条件を容易く満たすのである。
たぬき飼育が禁止された所以がここにある。

「だめだし…おまた…汚いし…触っちゃだめだし…」

布団にくるまってもじもじと身体を捩らせながら、キューちゃんは熱を持つおまたをいじろうと勝手に降りていくもちもちの手を抑えるのに必死だった。
おまたはたぬしっことたぬうんちが出る汚いところだから身体を洗ったり拭いたりする時以外は触ってはいけない。
それはお母さんからの大事な教えの一つだ。
キューちゃんはそれを守ろうと必死に欲求と戦っていた。

「キュゥゥゥン…たぬぅぅぅん…」

言葉にならないか細い鳴き声をあげながらキューちゃんは尻尾を抱き抱える。
丁寧に整えられた毛並みは、毎晩お母さんとお風呂に入って櫛で鋤いている努力の証だ。
脳裏に微笑むお母さんの姿を思い浮かべれば、だんだんとおまたの疼きも治まってくる。

「しぃ〜…しぃ〜…」

汗だくになったキューちゃんはずりずりと布団から這い出した。
荒い息を吐きながらペタンと床にへたりこむ。
何か良く分からないことが自分の身に起こっていたことは分かった。だが一体どうやってこれを解決すればよいのだろうか。
ずっとおまたが疼き続ける生活なんて嫌に決まっていた。

「分かんないし…お水飲むし…」

キューちゃんは尻尾を引きずりながらひとまず喉の渇きを潤すために寝室から台所へと向かおうとした。
そのとき、ふと机の上を見るとOLの残したノートパソコンが開かれたままの状態で置いてある。

「すーぷっ！うっ！うっ！」
「ｷｭｯ!ｷｭｯ!」

聞こえてきたの大人たぬきのうどんダンスの歌声と、それに合わせるようにしたちびたぬきの鳴き声。
キューちゃんの胸の奥で何か枷のようなものが外れる感覚がした。

「し…し…」

喉の渇きのことなどすっかり忘れてノートパソコンへと歩み寄るキューちゃん。
背の低い机を這い上がって登り、置かれたパソコンの画面を凝視する。
それは数年前に投稿された飼いたぬきがうどんダンスをちびたぬきに教えている光景を録画したものだ。
OLが参考にと見ていたものである。キューちゃんが無事うどんダンスを習得したので解禁されたたぬき動画であった。

「さあちび達、たぬきの躍りをよく見るし！いっぱい踊っていっぱい飼い主さんに可愛がって貰うし！」
「ｷｭｩｰ!」
「ﾜｶｯﾀﾁｰ!」

たくさんのちびたぬきに囲まれて楽しそうに踊るたぬきの姿にキューちゃんは感銘を受けた。
そして利口な彼女は理解した。
なぜおまたが疼いてたのかそれをはっきりと認識したのである。

「ちび…ちびだし…」

画面の中のちびたぬきに触れようとしてキューちゃんは前に踏み出した。
その弾みでF5キーを踏んでしまい、開かれていたページの再度読み込みが行われる。
しかしたぬきがパソコンの機能について知るはずもない。
触れあおうとしたちびが目の前から急にいなくなってしまったようにキューちゃんには思えた。
寂しさがまた余計にちびたぬきに会いたいというたぬきの本能から来る欲求を駆り立ててしまう。

「お外にはたくさんちびがいるし…皆もちびを見かけたら保護してあげて欲しいし…」

一方パソコンの動画は冒頭から再生されていた。
飼育違法化前に作られたこの動画の投稿者はたぬき好きであり、動画の始めには常に野良たぬきや野良ちびの保護を飼いたぬきを通じて呼び掛けていた。
現在は違法行為であり、動画を見ていたOLも今は帰らぬ昔の事情を嘆くくらいに留めていた。
だがキューちゃんがそんなことを知るよしもない。
ちびが外にはたくさんいる。
それだけ分かれば十分だった。

「ちび…たぬきが今行くし！」

キューちゃんは決意に満ちた凛々しい顔で立ち上がると机から飛び降りてもちもちボディで衝撃を吸収、ころころ転がって立ち上がると浅知恵で考えた外で生きていくために必要なものをかき集めてたぬバッグに入れ、玄関へとひた走った。
OLはその暴挙を知るよしもなく別室でリモートワーク中である。

「お母さん…たぬきは立派なたぬきになりますし…ちびを連れて…必ず帰ってきますし！みんなのうどんダンス期待しててし！」

一瞬だけ後ろ髪を引かれる思いをしたが、それよりもずっと大好きなお母さんにちび達と一緒に踊るうどんダンスを見せたいという気持ちが強くなっていたのだ。
決心して大きく頷くとキューちゃんは玄関ドアに取り付けられたペットドアから身を乗りだし、外の世界へと旅立っていった。

「キューちゃん？どこのなの〜…？あ、分かった！かくれんぼね！見つけるわよぉ〜…」

キューちゃんが家から姿を消したとOLが気づくのはそれから数時間後のことであった。
リモートワーク中構って貰えなかったキューちゃんがすねてかくれんぼをしていたという事態が前にもあったので、発覚が遅れたのだ。
OLが半狂乱になってキューちゃんを探し始めた頃には、とうのキューちゃんはもずっと遠くへと行ってしまっていた。



＊



男は残された足跡を追い、時間経過や草を踏んだであろう見えない箇所の進路を予測して次の足跡を見つけ出す。
ターゲットである飼いたぬきは人間に育てられたためか所謂箱入りだ。
足跡のほとんどはくっきりと残っている。
時折見つけられる不自然に折れた草むらや泥の付着した草から徐々に方向を絞り込んで行く。
そうして、遂にたぬきの住処を発見した。

「チッ…本格的だな。」

それは背の高い雑草を編んで仕上げた即席のテントのような代物であった。
草深い地域に住む個体はこのような家を作る場合もある。
その上この草テントには支柱としてたぬ木が中央に立っている。
まだ背は低いものの葉っぱは青々と茂り、木の葉の間にはたぬ木の実がぽつぽつと実を付けていた。
たぬ木の実はまだ青く、中にちびたぬきが形成される段階にすら至っていなかったのは幸運である。
折角長い間の地道なパトロール活動で地域一帯のたぬきやたぬきもどきを駆除したというのに、また増え始められてはたまったものではない。
だがこの場でたぬ木を即座に斬り倒したとしても、育てていたであろう飼いたぬきを葬ることは出来ない。
むしろ住処を特定できたこの状況を有効に活用すべきである。
そう考えた男は、たぬ木に実ったたぬ木の実を全て摘み取りバッグにしまい、次にカセットテープ本体を取り出すと幾つかあるテープのうちテプラで「ちび・親呼び」と書かれた物を入れて再生を開始した。

「ｷｭｩｩｩﾝ!ｷｭｩｩｩｩﾝ!」

男にとっては聞きなれたちびたぬきが親を呼ぶための甲高い鳴き声が流れる。
これを聞き付ければ飼いたぬきは保護本能を刺激されちびが生まれたと思って一目散に駆けてくるだろう。
そこを捕えるのだ。
男はカセットを住処の奥に設置するとそのまま草むらに潜り込みその時をじっと待ち始めた。

「ふんし…ふんし…」

当のキューちゃんは家から旅立つときに持ち出したたぬき用の小さなコップに川の水を汲んで住処まで帰る所だった。
たぬ木は多少の悪環境にはへこたれないかなり強い植物だが、それは生存に限った話。
ちびが生まれてくるたぬ木の実を実らせるためには水と太陽の光が必要なのだ。
OLとの生活のなかで自分自身の種族に関する情報をかなり知ることのできたキューちゃんは、立派な親たぬきとなってちびを育て上げ、うどんダンスを覚えさせてまた大好きなお母さんの待つ暖かい我が家に帰るという目的を果たすため精力的に働いていた。
その甲斐あってか萎びかけていたたぬ木はみるみる元気を取り戻し、今では葉も茂りたぬ木の実が実るまでに回復した。
実が成熟し、落ちてちびが生まれる日もそう遠くはないのだ。
努力が報われた気がしてキューちゃんの足取りは軽い。
そうして住処まで戻ってきた時、その垂れた耳に待望の声が響いてきたのである。

「ｷｭｩｩｩｩﾝ!ｷｭｩｩｩｩｩﾝ!」
「…！ちびの声だし！」

遂にちびが産まれてくれた。
その喜びからキューちゃんはコップを放り出して一直線に住処へと駆け込む。
上を見上げてたぬ木を見ると、実っていたたぬ木の実は全て無くなっていた。
ということは全員産まれてくれたということで、嬉しさで一杯になったキューちゃんはちびの鳴き声のする住処の奥へとワクワクしながら進む。

「ちび…！ままが帰ってきたし…！はやく可愛いお顔を見せて欲しいし…♪」

暗がりへと足を踏み入れたキューちゃんの足は、しかしそこで地面に縫い付けられでもしたかのように固まってしまった。

「えっ…なんだし…これ…？」

そこにあったのは愛しいちび達ではなく、録音された音声を機械的にリピートするだけのカセットテープ。
再生を終えたテープを巻き直し、また一から再生を始める。

「ｷｭｩｩｩｩﾝ!」
「ちび…ちびは何処だし！？」

キューちゃんは半狂乱になってカセットテープを持ち上げてちびが何処かに隠れていないかと必死に探し始めた。

「そんな…そんなことはないし！木の実は全部無くなってたし…！ちびは何処かにいるし…！」

その時である。
住処の入り口を何かの大きな影が覆った。

「し…？」

キューちゃんがその事に気がついた時には既に何もかもが遅かった。
入り口から伸びてきた手が握った丸い玉が地面に叩きつけられ、激しい炸裂音と閃光がキューちゃんの意識を真っ白に染め上げる。

「やっ…やだしぃ！」

蝶よ花よと育てられたキューちゃんにこの突然の刺激は強すぎた。
本能に従いじたばたを繰り返してこの事態が収束するのを必死に待つ、最もやってはいけない行為をしてしまったのである。

「ひっ！？なんなんだし！？」

じたばたを繰り返すたぬきは良く言ってエサ、悪く言ってゴミである。
伸びてきた手はキューちゃんの尻尾を掴むと容易く住処からその身体を引きずり出した。

「やぁぁ！やめてし！」

宙吊りにされ、それでもじたばたを続けるキューちゃんはしかしそれを行った人物と目があった。

「あっ…ひぃ…やぁ…いやだし…」

キューちゃんが帰ってくるまで待ち伏せをしていた男の目、大好きなお母さんと色は同じな筈なのにその眼光はあまりにも冷たくこれから行われるであろうことを嫌がおうにも意識させられてしまう。

「尻尾が痛いし…やめてしぃ…たぬきはなにもしてないし…！」

逃げ出そうにも万力のような力で締め上げられる尻尾はキューちゃんに一切の行動の自由を許しはしなかった。
じたばたを繰り返してもどうにもならないどころか頭にだんだんと血が上ってくる。
男は無言でナイフを抜いた。
よく磨ぎ上げられた鋭い刃がその眼前に翳される。

「ひぃぃぃ！やめてし！そんなの近づけたら…怪我、怪我しちゃうし！危ないからやめてし！」

キューちゃんは絶叫して身体を反らせて少しでも刃から離れようと全力を振り絞った。
刃物が危ないものであるということは知っていた。
しかしそれはご飯の支度のお手伝いの時に怪我をしないために注意するもののはずであり、自分に敵意をもって向けられるなど未だかつて経験したことすらなかったキューちゃんである。
その恐怖は尋常なものではなく、これまで一度もしたことのなかった粗相をしてしまう。
ちょろろ…とたぬしっこがおまたから漏れでて黄色い液体が綺麗だった服やリボンを汚した。
それはキューちゃんにとってあまりにもショックだったのだ。

「あ…や、やだしっ！止まってし…！止まってしぃ！」

必死に身体をそらせて短いもちもちの手を伸ばして意思に反してたぬしっこを垂れ流すおまたを抑えようとするが、それは漏れでたたぬしっこが顔面に直撃するだけな結果を生んでしまう。
しかしそれだけで終わるはずもない。
キューちゃんが粗相をしている間に男の手はその胸元の立派な勲章へと向けられていた。

「え…だ、ダメだし！それはたぬきがお母さんからもらった大事な勲章なんだし！取っちゃダメだし！勲章がほしかったら良い子にするし！こんなことしちゃダメだし！」

もちろん男がこの言葉に耳を貸すことなどない。
真鍮を薄く伸ばしてメダルに加工し、メッキで金色に仕上げ表面には満足げなたぬきの顔が彫られた本格的なたぬきの勲章は、しかしナイフでリボンを切り落とされ地面へとまっ逆さまに落ちていった。

「あ…やだしっ！やだしぃぃぃぃぃ！」

大切な勲章を奪われた悲しみはキューちゃんの身体をがむしゃらに暴れさせた。
完全に破れかぶれになったその暴れ方は本来ならばなんの意味もないはずであったが、なんの奇跡かその身体は男の手から解放され地面へと落ちる。

「ぶぎゅっ…」

もちもちの肌が衝撃を吸収し、落下のダメージはない。
しかし男はまだすぐ近くにいる。
逃げなくてはまた捕まる！
キューちゃんはそれだけを胸にじたばた欲求を押さえ込み、もちもちの手足をぽてぽてと必死に動かして逃走を開始した。
勲章はあまりにも惜しかったが、それ以上に一秒でも早くこの恐ろしい人間のそばから離れたかったのだ。
走るキューちゃんの背後からは男が追ってくる足音と草むらの掻き分けられる音がずっと聞こえてくる。
振り返ったら捕まるとキューちゃんは思った。
だから走って走って、とうとう空き地から抜け出したのである。

「もうやだし！帰るし…！おかあさんのところに帰るし…！」

キューちゃんの心はもう完全に打ちのめされていた。
あんなに苦労してたぬ木を育てたのにちびが産まれる前に邪魔をされてしまった。
大切な勲章も取られ、自慢だった綺麗な服も、お母さんに結んだもらったリボンも汚れてしまっている。
旅に出ると決心したときの万能感や高揚はとっくに消え去り、今の彼女の心を満たすのはただ帰りたいという望郷の念だけだ。
キューちゃんは痛む尻尾を引きずりながら家路に付く。
その毛皮服の襟首に小さな発信器が取り付けられているなど夢にも思わずに。



＊



OLはこの数日間を失意のどん底で過ごしていた。
キューちゃんの行方不明。
それは何よりも彼女の心に暗い影を落としていた。
一年半を過ごした愛しい家族が置き手紙ひとつ残して消えてしまったのだ。
そのうえ世間はたぬきに全く優しくない。
この町ではたぬきは見つけ次第駆除業者への連絡が推奨されているほどにたぬきを嫌っており、そんななかでキューちゃんが見つかればどんな目に遭わされるかなど想像したくもなかった。
この数日間、彼女は仕事もなにもかも放り出して必死にキューちゃんを探し回っていたが、成果は全くといって良いほどなかったのである。

「キューちゃん…どこなの…」

夜の散歩に連れ出した時のルートは勿論、昔にたぬきの群れが暮らしていたという公園も探し回ってみたがキューちゃんは影も形もない。
疲れはて、やつれた彼女は家の玄関でぼんやりとキューちゃんが還ってきてくれるのではないかという望みだけを胸に座って待つことが多くなっていった。
玄関のペットドアからまたあの可愛らしい顔を覗かせてくれることを何度幻視したかわからない。
今日もまた、ぼんやりと脱け殻のように玄関で彼女は家族の帰りを待ち続けている。
そんなある日のことである。
ペットドアが急に開き、愛しい家族が姿を表したのだ。

「キューちゃん…！」
「お母さん…！」

どうして居なくなったのだとか、そう言うこと聞こうとした考えは一瞬で吹っ飛んだ。
今はようやく帰ってきてくれた家族を抱き締めたかった。

「心配…したんだから…！」
「ごめんなさいし…ごめんなさいし…！」

再開を果たした家族は熱い包容を交わす。
キャーちゃんはよく見れば尻尾を怪我しているし全体的に汚れてしまっていてすごい匂いを放っている。
お風呂にいれて怪我の手当てをしてあげなければならない。
これからのことについて考えてキューちゃんを抱き上げたOLは、直後に鳴ったドアチャイムの音を聞いてその場に凍りついたように固まった。
誰かにキューちゃんと一緒にいるところを見られるわけにはいかないのだ。

「ちょっと待っててね…すぐに終わらせるから…」
「はいですし…」

キューちゃんを物陰に隠し、OLはドアを軽く開けて訪問者へと対応する。

「どちら様でしょうか…」
「ご迷惑をお掛けします、私はモトダ防疫のモトダという者です。」

ドアの隙間から覗くツナギ姿の男はモトダと名乗った。
防疫とは要するにネズミなどの害獣を駆除する仕事の呼び名であり、つまりこの場合はたぬきを駆除するためにやってきたということなのだ。

「ど、どういったご用件ですか…？」
「実は近辺で発見されたたぬきの駆除にやってきたのですが…取り付けておいた発信器の反応がこの家に続いているんですよ。たぶん、このペットドアから中に逃げ込んだと思うんですがね。」

全てばれている。
その確信は背筋を震え上がらせるに十分だった。
しかし声色にはそんなことは微塵も出さずに明確な拒絶を突きつける。
彼女にとってここが正念場だった。
この冷たい世間からキューちゃんを守るためにはここで騙し通すしかない。流石に家のなかに押し入ってきたりは出来ないのだ。

「たぬきなんて知りません！迷惑だから帰ってください！」
「…そう、ですか。」

それを聞いた男は片眉を急角度に吊り上げながら目の前の女がたぬきを飼育していることを確信する。
しかし明確な証拠は存在しないし発信器の反応があるからといって無理やり家屋に入る訳にもいかない。

「分かりました…近くでたぬきを見かけましたら、すぐに役所やもよりの業者にご連絡ください。一応、名刺になります。」

男はここで策を講じた。
こちらから入ることが出来ないならば向こうから出てきてもらえば良いのだ。
聞き分けよく帰るような言動をしつつ、バッグに入れた名刺ケースを取り出して女へと渡す。
その時、飼いたぬきから奪い取った立派な勲章を地面へと落としたのである。
その動作はあまりにもあからさまだった。
玄関の奥からでも何を持っているのか分かるよう、見せつけるようにリボン部分を持ってぱっと手を離したのである。

「おっと…」
「っ…！」

地面に落ちた勲章は、あまりにも見覚えのあるものだった。
うどんダンスを立派に踊って一人前のたぬきとして成長したキューちゃんにあげた、自分で手作りした勲章。
ずっとキューちゃんの毛皮服の胸元で誇らかに輝いていた、一人と一匹の揺るぎない信頼と絆の証。
それが地面に落とされ、ぞんざいに扱われている。
彼女はそれが隠れたキューちゃんをおびき寄せるための行動だと嫌でも分かった。
いくら彼女が口で存在を否定したとしても、姿を晒してしまえばなんの意味もない。
そして今からではキューちゃんに警告することも出来ないのだ。
彼女に出来ることは灼熱した怒りを必死に堪え、キューちゃんが飛び出してこないことを祈ることだけだ。

「しぃぃぃぃ…！」

そしてキューちゃんは利口な良いたぬきだった。
大切な勲章に酷いことをされたとしても飛び出してはいけないことは重々承知していたのだ。
これまでのたぬ生の中でも一度も抱いたことのない強烈な感情、怒りと憎しみが腹の中を満たしすぐにでも勲章を取り返したかったが、ちびの鳴き声で騙されたキューちゃんは男がたぬきを騙すということを既に学習していた。
だから、勲章に酷いことをするのもたぬきを騙すためだと理解できていたのだ。
もちもちの手を真っ白になるほど強く握りしめ、キューちゃんは自身を必死に抑えていた。
次に男が発した言葉を、聞いてしまうまでは。

「失礼、ゴミを落としてしまった。」

それはキューちゃんのなけなしの自制心を吹き飛ばしてしまうには十分すぎる一言だった。
お母さんと自分の大切な勲章をゴミ呼ばわりする。
それはキューちゃんにとっては許すことも見過ごすことも出来ない絶対的な侮辱だった。
考えるよりも先に身体が動いた。
物陰から飛び出し落ちた勲章へと飛び掛かる。

「ゴミじゃないじぃぃ！」
「ダメッ！だめぇぇぇぇ！」

怒りのあまり掠れたキューちゃんの叫び声と、OLの悲痛な叫び声が玄関に響く。
一方で男の方は無感動な顔でほぼ確信であった疑念が確定された証拠であるわざと逃がした飼いたぬきの姿を確認する。
落とした勲章は素早く拾い上げられ、キューちゃんは玄関の冷たいタイルに身体を強かに打ち付けてしまった。

「ギャウン！？」

もう本能から来るじたばたの欲求を抑えることすらできなくなったキューちゃんは、玄関に揃えられた靴を撥ね飛ばしながら怒りの感情を爆発させる。

「ゆるざないじぃぃぃ！」

OLはその光景を真っ白になった頭の中でぼんやりと眺めていた。
もうなにもかもおしまいだ。
キューちゃんは見つかってしまった。
この悪魔のような男に連れていかれ、殺されてしまう。
自分もまた終わりだ。
キューちゃんと暮らしていることが露見してしまった。
仕事も家もなにもかも失ってしまう。
何故？どうしてキューちゃんと穏やかに暮らすことすら許してくれない？
自分もキューちゃんもなにも悪いことなんてしていない。
誰にも迷惑をかけていない。
なのにどうして…？

「嫌よ…駄目…こんなの…こんなのおかしいわ…」

床にへたりこむようにして崩れ落ちたOLを男は冷ややかな目で見据えた男は、それきり一瞥もくれることなく携帯電話を取り出すと警察へと連絡を取った。
たぬきの対処は自身が、人間の犯罪者への対処は警察がする。
それが人間社会のルールというものである。
実のところ、こうしてたぬきに絆され法を破って飼う人間の数は意外なほどに多い。
たぬきの飼育が違法となってからも毎年数百単位の人間がたぬきを違法飼育しては発見され、検挙される事例は枚挙に暇がない。
そしてその度にこのような『悲しいお別れ』の場面が繰り返されるのだ。
たぬき駆除をやりたがる人間が少ない理由の一端がここにある。

「返すし…！たぬきとお母さんの勲章を返すしぃぃぃ！ダヌゥゥゥゥゥ！ダァヌゥゥゥゥ！」

キューちゃんに宿った憎悪の感情はこれまで一度も発露したことのなかったダヌー癇癪をも引き起こさせた。
持たざるものであるたぬきの本能に刻み込まれた精一杯の怒りの表現、多くの場合受け入れられることのないそれは振り回されるもちもちの手足同様に空を切るだけである。

「嘘よ…こんなの…許されて良いわけがないわ…」

OLの目線は暴れまわるキューちゃんと警察への通報を終わらせて携帯電話をしまう男の間をふらふらと揺れていた。
そして、彷徨う視線は靴箱の上に飾られた生け花とそれを刺している尖った剣山でピタリと止まった。
全く冷静ではない狂った思考はぐるぐると回り、常識外の行いのやり方をクリアーに脳内に示す。

「そうよ…全部夢…悪い夢よ…起きないと…キューちゃんと朝ごはんを作るのよ…そして…そして…」

ゆっくりと立ち上がったOLは生けられた花をすっと取り外し、それを眺めた。
赤いカーネーション。
それを、ダヌー癇癪を起こしているキューちゃんを取り押さえようとしゃがみこんだ男の頭に投げつけた。

「お前…！」

花に気をとられた隙に、固く握りしめた剣山を男の頭へと振り下ろす。
尖った鉄の針は男の頭を穴だらけにして粉砕する…ことはない。
直前で男の片腕が剣山を握った腕を掴んだのである。

「やめないか！」
「いなくなるのよ！あなたさえいなければ！アタシもキューちゃんもこんなことには…！消えなさいよ…！消えろ！」

完全に狂気に墜ちたOLは目の前の不幸の源をこの世から消すため信じられぬほどの力を発揮していた。
所謂火事場力とも言うべきもので、逆に押さえ込もうとしている男の力と拮抗しつつある。

「お前なんか消えちゃえばいいんだし！」

早速お母さんから影響を受けたキューちゃんもダヌー癇癪で全身に満ちたアドレナリンのお陰か男の足から背中へ這い上がるとそのうなじに噛みつこうとする。
だがそこまでだった。

「いい加減にしろ！」
「ぎゃあっ！？」
「ぎゅぶっ！？」

いかにOLが火事場力を出したとしても所詮は女の細腕、その上男は肉体労働者である。
全力で振りほどくと背中にとりついたキューちゃんは吹っ飛んで靴箱に激突して再び玄関タイルに落下、OLは剣山こそ握りしめているものの尻餅をついてしまう。
だがその戦意は未だに失われてはいない。
濁った瞳に殺意を滾らせOLは立ち上がり男を惨殺せんと迫った。
対する男は臨戦態勢で構えつつも開け放たれた玄関ドアから一歩二歩と後ろに退く。
警察への通報は済ませているのだからこれ以上危ない橋を渡る必要など微塵もないのだ。

「何をしている！やめなさい！」

OLが剣山を振り上げたその時、第三者の声がその場を制した。
振り返ってみれば二名の警察官が緊張した面持ちで駆けてくるところであった。

「あ…あぁ…」

今度こそ言い逃れもなにもない終わりである。
絶望にうちひしがれたOLは剣山を手放す。
ごとり思い音がして、彼女は後ずさった。

「そいつ…！そいつが悪いのよ！そいつがキューちゃんを連れていこうとしたの！悪いのはそいつよ！」

この期に及び、OLはまだ抵抗しようと半狂乱の叫び声を上げた。
しかし通報を受けてやってきた警官は事情など分かっている。

「ええ分かりましたとも。取り敢えず署までご一緒願います。」
「事情は署の方で伺いますのでどうか…」

二名の警官はOLが逃げることが出来ないように両サイドから肩を抑えていた。
捕らえられたOLは生気が抜けたような顔で何事かをボソボソと呟いていたが、やがて床で伸びているキューちゃんを見ると突如として大声で叫んだ。

「キューちゃん、逃げて！」
「ちょっと！？」
「やめなさい！」

その言葉で伸びていたキューちゃんは意識を覚醒させた。
たぬきにあるまじき勢いでがばりと起き上がると這ってその場から逃げ出そうと玄関ドアへと向かったのである。
しかしそこには男が待ち構えていた。

「やっ！やだしぃぃぃぃぃ！」

間一髪のところで男はキューちゃんの丁寧に整えられた手触りのよい毛の生えた尻尾を踏みつけた。
加減などないそれは、尻尾の骨を折り砕くには十分すぎる力を持っている。
ごきりと骨が砕ける音と感覚が男の足の裏に広がった。

「ギュゥゥゥ！」

苦悶の声を上げるキューちゃんに呼応してOLもまた死に物狂いで暴れたが、警官二名の拘束を振りほどくほどではなかった。
抵抗を封じられた彼女はゆっくりとパトカーへと引きずられていく。

「キューちゃん…嫌よ…もっとお話したかった…いろんな所で一緒に遊びたかったのに…側にいてくれるだけでよかったのよ…なのに…なのに…どうしてなのよぉぉぉ！」

嘆きの叫びは、パトカーのドアが閉められる音と共にパタリと止んだ。
エンジンの音が響き、それは次第に遠くなっていく。
愛する飼いたぬきの罪の告発を信じきっている本人の前でやるほど男は悪趣味ではなかった。

「やだし！お母さん！お母さん助けてし！」

助けを求める叫び声は男がキューちゃんの頭の天辺をがしりと掴むまで続いた。
そして右方向へと向いてはいけない角度まで曲がるように強い力が籠められる。
抵抗するためキューちゃんは息を止め全力で首を左側を向くように力んで捻った。
力は一瞬拮抗するかのように思われたが、次の瞬間男は捻る方向を左方向へと急転換させる。
キューちゃんの頭はぐるりと180°回転した。

「ｵｷﾞｭ!」

生後数ヵ月の赤ん坊ほどもある成長しきった身体を突き動かす抵抗のためのじたばたはビクビクとした痙攣へと移り変わった。

「じ…じぃ…じび…」

首が捻られたことにより頚椎と喉笛は破壊されている。
喉の奥からせり上がってくる血の塊が口の端から垂れて地面に続く赤い柱ができつつあった。

(いたいし…なんでしっぽがまえにあるし…？へんだし…)

キューちゃんの意識は急速に薄まりつつある。
痛みが全身を支配していたが、苦痛の叫びを上げることもじたばたをすることもできない。
ただただ自分の命が血と共に流れ落ちていくのを見つめるしかなかった。

(さむいし…おかあさん…どこだし…たぬきはここだし…もちもちしてし…)

定まらなくなっていく思考の中で求めたのはお母さんの手の温もり。
寂しい時や頑張った時にいつももちもちしてくれたすべすべの両手を今際の際にキューちゃんは幻視した。

(ｷｭｩｰ!)
(ｷｭｯｷｭｯｷｭｯ!)
(あ…ぁ…きこえるし…ちびのこえだし…)

既に何も見えなくなっていたキューちゃんの視界には、彼女が求めてやまなかった幸せな暮らしの光景が広がっていた。
大好きなお母さんと愛しいちび達に囲まれた自分。
うどんダンスを踊り出せば、利口なちび達も一緒に完璧な振り付けで後に続く。

(スープ！うっ！うっ！)
(ｷｭｯ!ｷｭｯ!)
(凄いわキューちゃん！ちびちゃん達も頑張ったわね！)
(むほほ…くすぐったいしぃ…)

完璧なうどんダンスを披露したキューちゃん達をお母さんは抱き上げてもちもちするのだ。

(お母さん…たぬきずっと前からお母さんに言いたいことがあったし…今から…言っちゃうし…！)
(なぁに…？)

それはちびたぬきの頃からずっと言おうとしていたことだった。
こんなにもたくさんのものを貰って、その感謝を言葉にして伝えたいとずっと考えていたのだ。
本当はちびと旅から帰還した時に真っ先に言おうとしていた言葉だった。

(たぬきは…お母さんのことが…だいす)

男は死の間際の痙攣を続けるキューちゃんの回転した首を真後ろに大きく折り曲げた。
ゴキリと音がして首が完全に断裂する。
死の苦しみを長引かせぬ、それは慈悲だった。
残された肉体はそのまま全ての力を失って重力に従いだらりと脱力する。
筋肉の収縮がストップしたことにより体内のたぬしっことたぬうんちは押し留められることなく垂れ流しとなった。
パリッと糊の効いた毛皮服が汚物にまみれるが、それを気にするものはもうだれもいない。
男はその肉の塊を常に携帯している黒いビニール袋に入れて口を固く縛る。
そして最後にポケットにしまっていた立派なごみを取り出すとそれをぎゅっと握りしめた。
メキメキという嫌な音がして、使用後のティッシュペーパーのように乱雑に丸められたゴミを玄関先にあったゴミ箱に捨てると男は主のいなくなった家から立ち去る。
愛車へと歩みを進める男の表情は険しい。
たぬきとはなんと度し難い生き物であることか。
人を殺めてでも守りたいと思って愛してくれる人間の庇護下にいて尚、ちびへの欲求を押さえることが出来ない。
男はこれまで何件ものたぬきの違法飼育の現場に立ち会い、飼われているたぬきを始末してきた。
その経験から言って、このケースは飼いたぬきがちび欲求を抑えることが出来れば露見はしなかったはずである。
たぬきの寿命である五年近くの日々を愛されながらなに不自由なく過ごせる、それを捨てたのはたぬき自身なのだ。
こうした「悲しいお別れ」はここ最近は少なくなってきたが法規制直後は本当に多かった。
泣こうが喚こうがたぬきは始末せねばならない。
そうした光景を幾度と無く見せつけられ、ベテランの駆除業者も日雇いのバイトも例外無く次々と心を病んでいったのだ。
男とて、何も感じないわけではない。
しかし仕事と割りきっているしたぬきの醜悪な本性も知っている。それに危うく殺され掛けた怒りの方が遥かに大きい。
連行されたOLはたぬきの違法飼育と逃亡した同個体の育てたたぬ木の違法栽培による特定外来生物法のダブルスコアは免れないだろう。
実際に実ったたぬ木の実から産まれたちびが再びたぬ害を引き起こすことは疑いようがなかった。
たぬきは誰も幸せにしない。
愛車の荷台に死骸の詰まったビニールを投げて運転席に座った男の胸を寂寥感が駆け抜けていった。