


「ちび…お返事してし…」
抱きかかえたちびたぬきに呼びかけるが、返事はない。
成体まであと少し、というぐらいの大きさだった。
「ほら…お肉まだあるし…食べて元気出すし…」
シッカリ洗って血を落とした肉を口元にあてがう。
少し前なら、喜んで開かれたはずだった。
しかしもはや、への字に結ばれた口が開かれることはない。
ちびの幼い顔はむくみ、通常よりもはるかに腫れていた。
しかし顔色は血の気が引いて、青白くなっている。
やがて、必死になって子を支えていた親たぬきの腕からも力が抜けていく。
「……し…」

───周囲のあちこちに、たぬきの死体が転がっていた。



No. 64「感染」



巨大な湖を抱える広大な自然公園と、近隣のゴミ捨て場はたぬきとカラスとの戦場でもあった。
たぬきが啄まれて片目をなくせば、報復に翼めがけて石を叩きつけた。避けられた。
たぬきが子を食われれば巣を狙いたかったが届かないので、顔を赤くしてジタバタするしかなかった。
互いの生存を懸けたいつ終わるともしれぬ戦いは───しかし唐突に終焉を迎えた。


自然公園あちこちに、黒い塊が落ちている。
丸まって見えるそれは、よくよく見てみれば力尽きたカラスだった。
原因はたぬき達にはわからなかったが、群れの中で勇気ある個体が枝の先で突いても反応がなかった。
普段であれば、カラスの怒りを買って死ぬまで突き返される事だろう。
泣いてもジタバタしてもやめてもらえない事は、仲間の死をもって理解していた。
カラスの無抵抗を知った途端、遠巻きに眺めていた他ぬき達も茂みの中からわらわらと姿を現す。
そして次に取った行動は、
「こいつ！こいつめし！」
「死ねし！」
もうとっくに動かない死体を相手に勝ち誇りながら、石でがつがつと叩き潰す。
「こいつらにちびをたくさん食われたし…」
「恨みが晴らせたし…うれしいし…」
「カラスどもの顔見るし…顔パンパンに腫れててぶさいくだし…」
「ほんとだし…あわれな奴らだし…たぬきのモチモチほっぺとは大違いだし…」


反撃を受けず、一方的な攻撃を済ませ肩で息をしていた野良たぬきの1匹がふと、お腹のたぬきをぎゅるるるる！と唸らせる。
「…そういえばカラスもお肉だし」
「食べれるんかし？」
「食べたいし…」
「…やってみるし」
生き汚い野良たぬきに衛生観念など存在しないが、邪魔な羽をむしり血をじゃぶじゃぶと洗うぐらいの発想は持ち合わせていた。
幸い水場は公園の中心にいくらでもある。
ぐうたらな個体は飲み場に使う池の水で血を落とし、またある個体は身体を洗う小さな溜池で血を洗い落としていた。
各々が好きなところで血を落とし、綺麗になったカラスのお肉を持ち寄って再び集まった。
「宴の時間だし…」


どれほど飢えていても、仲間のお肉を食べればたぬきもどきになってしまう。
理性なのか、単なる意地なのか、ここのたぬき達は迷信を疑わず仲間やちびが死んでも決して口にしてこなかった。
ゆえに、カラスの死体は公園のたぬき達にとって生まれて初めて味わう、他の生き物のお肉だった。
火は使えないので、生のままだ。
ピンク色のお肉を手づかみで口に運び、ションボリ顔をほんのり緩める。

「がつがつし…」
「むしゃむしゃし…」

生きている。
今自分達は、他の命を喰らって生き延びている。
血肉の味以上の、えもいわれぬ感覚に身体が悦んでいた。
とはいえ無遠慮にかぶりついて内臓まで噛み砕き、エグ味に顔をしかめて吐き出す個体もいた。
それでも生ゴミよりはマシなので、
「濃厚な味わいがする気がするし…」
などとのたまって気にせず食べている個体も存在した。


「ちび達…ごはんだし…いっぱいあるし…慌てず食べるし…」
これまでひもじい思いをさせてきたちび達にも躊躇なく分け与える。
まだ歯の生え揃っていない仔らのために、噛み砕いたものを吐き出し、食べられる葉っぱや同じように噛み砕いた木の実と混ぜて離乳食のような何かを完成させた。
「ﾑﾁｭ…ｷｭー♪」
「ｷｭｯｷｭｳ♪」
両手で口の周りを汚しながら、ちびたぬきが歓喜の鳴き声をあげる。
「ふふ…し…ちびも喜んでるし…」
「これならきっとすぐに大きくなれるし…」


これまで天敵だったカラス達に襲われる危険がなくなった上、そのまま食糧になってくれる。
「これはきっと…たぬき達をいじめる悪いカラス達に“てんばつ”が降ったんだし…
「…し…？」
「“てんばつ”…て何だし…？」
「”さんぱつ”とは何が違うし…？」
「“てんぷら”なら知ってるけどし…」
言ったたぬきも雰囲気で言ってみただけなので、きちんと説明は出来なかった。
とにかく、自分達を脅かすモノはいなくなったのだと理解していた。



「やっぱりたぬきの方が優れてるんだし…」
「あいつらはダンスも踊れないし…」

空を舞う黒い影に怯え、実際に襲われればなす術もなく泣きながらジタバタして喰われるだけのたぬきだったが、さしもの死体相手には強気を崩さなかった。

「きっつっね♪たっぬっき♪」
「ｷｭｯｷｭｯｷｭ♪ｷｭｯｷｭｯｷｭ♪」
これまで開けた場所で踊っていればカラスに襲われるか、ちびを連れ去られていた。
今はもう近くのゴミ捨て場に向かう必要もなくなり、自然公園の中だけで生活が完結するようになった。
たぬき達はのんびりと生きられるようになり、生きるためには特に必要でないうどんダンスに興じていた。

「ほうらちび…高い高いだし…」
「ｷｭｳｰｯ！ｷｭ！ｷｭｳ♪」
「まま…とってきたし！」
「よくやったし…今度はあっちに投げるし…」
「ｷｭー♪まてまてしー♪」
あるいは餌集めでこれまでろくに構ってやれなかった分を取り戻すかのように、ちびを抱き上げてやったり投げた石をちびに取ってこさせる遊びなどを楽しむ親たぬきもいた。
何しろ、ごはんはあちこちに落ちている。
探す事に時間をかける必要がない。
おまけに、何故だか公園内を出歩く人間も見かけなくなっていた。
「公園はたぬき達のものになったんだし…」 
1匹がぽつりと呟いた。
単なる孤たぬ言だった。
しかしどのたぬきもが、そのような尊大な思い上がりに浸って頷いた。


    ❇︎      ❇︎      ❇︎


異変が起きたのは、2日後の事だった。
いつだって、影響を受けるのは身体の小さなちびたぬきから───食糧に恵まれ、あれほど元気に走り回っていたちび達が、突然動けなくなった。
顔が腫れたようにむくんで、パンパンになっている仔さえいた。
約束されていたはずの未来に暗雲が立ち込め始める。
「ちび達まっててし…」
「お肉たくさん取ってくるし…」
たぬき達は疑問を覚えながらも、皆一様に頭たぬきだったのでその原因がカラスのお肉だとは思い至らなかった。
たくさん食べさせてあげれば元気になるはずだし、程度の考えで公園内を練り歩いた。


「あったし…？」
「うーん…ないし…」
「一緒に連れてきたちびもだんだん元気なくなってきたし…」
「……ｷｭﾑｩ」
「まま…ちび、あるけないし…だっこしてし…」
「仕方のないちびだし…よいしょ、し…」


カラスのお肉は公園内の複数の群れが食べ始めていたので、少しずつ手に入りづらくなっている。
このまま“てんばつ”が降るカラスより食べるたぬきの方が増え続ければ奪い合いになるかもしれない───そんな不安感を覚えながらも、目先のちび達の危機を救うためにはお肉探しをやめられなかった。


トボ、トボ…と猫背気味に首を突き出し、しっぽを引きずりながら緩慢な動作で歩みを進める。
カラスも人間も見当たらなくなった公園内では、たぬき達はこんな警戒心皆無の歩き方でも無傷でいられた。
しかし、現状はいつも通りの歩行とは違った。
たぬきの脚がうまく動かせないのだ。


お腹がいっぱいのはずの身体は妙に重苦しく、こわばった筋肉は伸び縮みする事を拒否していた。
「おかしいし…身体が…いうこときかないし…」
先頭を往くリーダーたぬきは、ついには何もないところでつまずいて転んでしまった。
起き上がらなければ。
手をついて身体を押し上げようとするたぬきの視線の先では、久々にたぬき以外の生き物が動いていた。


白い防護服に身を包んだ人間達が、続々と公園に現れる。
物々しさにただならぬ雰囲気を感じながら、
リーダーたぬきは、すでに手足が自分の思い通りに動きにくくなっている事に気がついた。
緩慢な動作で、立ちあがろうとしても叶わない。


「たぬき…どうなるし…？」
近づいてきた防護服の人間は黙って何かを指し示す。
たぬきのためにではなく、現場へやってきた他の人間に対しての行動だった。
たぬきがおそるおそる振り返ると、そこには。

「動け…ないし…」
「たすけ、て…し…」
ある者は悲鳴をあげて、ある者は呻いている。
共通するのは、小刻みに震えるだけで横たわったまま動けないという仲間達の姿だった。

「ｷｭ…ｷﾞｭｴｴ…」
「ちび…手を伸ばすし…たぬきはもう手が動かないし…こっちに…来るし…」
「まま…まま…みえないし…どこにいるのし…」

公園のあちこちで死んでいたカラス達は、鳥インフルエンザに感染していた。
あっという間に公園内の群れで蔓延し、感染した死体を食べ続けた事でたぬきにも影響が出始めていただけの事だった。

公園内への立ち入りは禁止された事で、防疫が完了するまで公園内に動くモノがたぬきしか見当たらなくなっていたのだ。
ちび達の顔が妙にむくんでいたのも、単にたくさん食べさせていたからではなかった。
状況を鑑みれば、因果関係を推察する事はできたが、辿り着けないのがこの公園のたぬき達の限界だった。

男と同じ、防護服に身を包んだ駆除業者がまだ生きているたぬきも、もう死んでいるちびも構わず火挟を用い処理袋に入れていく。
カラスは別の袋に入れられていた。
カラスはもちろんの事、感染したたぬきを別の動物が食べてしまう事による感染拡大を防ぐためだった。
たぬきはそんな事を理解できないので、いじわるされているのだとしか思わなかった。

「や、やだし…」
たぬきに説明する義理も時間もないので、仲間達が袋に詰められていくのを見つめているしかない。
「たすけて欲しいし…」
駆除業者達は無言で作業を続ける。
「まっ、まってし…たぬき達、何も悪い事してないし…」
そうかもしれない。
例え公園にて食い散らかしたカラスの死骸がさらに劣悪な環境を生み出したとて、たぬき達が直接悪を冒したわけではない。
生きるために喰らう。
どんな生き物でもやっている事だ。
何が悪かったと言えば、“運が悪かった”それだけの事なのだろう。
だが、だからといってかわいそうなたぬきにやさしく手を差し伸べる者は誰もいない。


たぬきが伸ばした手は空を掴み、何も得る事は出来なかった。
ついに神経がうまく働かなくなり、ぽてん、と地に落ちた。
たぬきを無視した人間は仲間の元へ向かい、何事か話し合うと公園内の別方向へ歩いていった。
あちらに大量のたぬきの死体があるから、それらを先に回収しよう───そんな声が聞こえていた。
人間達が向かう方角には、たぬき達の巣があった。
中にはまだ、たくさんの動けないちび達がお腹を空かせてたぬき達の帰りを待っているはずだった。
人間の言葉通りならすでにこの世を去っているか、生きていたとしても結末は同じだろうと、頭たぬきの想像力でも窺い知れた。


どうしてだし。

やっとごはんをいっぱい、食べれるようになったんだし。
ちびもこれから大きくなるんだし。
たくさんのちび達に囲まれて、幸せに暮らすつもりだったんだし。
お願いだし。
たぬきを、いじめないで欲しいし…。

───とめどなく溢れる想いを、言語にするチカラはたぬきには残されていない。
許されたのは、か細い鳴き声だけだった。


「うっ、うっ、うっ…」
その場には仲間にも男にも取り残されたたぬきの漏らした嗚咽だけが響いていたが、それもやがて静かに消えた。


オワリ