No.65「声」


「うどんダンスをおどりますし…気に入ったらごはんくださいし…」
駅へと向かう横断歩道の近くで、1匹のたぬきが信号が変わるのを待つ人間達に呼びかけた。
たぬきが自分の頭より小さなダンボール箱を掲げ、そっと脇に置く。
箱の中には丸めたレシート、味のしなくなったガムを包んだ紙、うんち、空き缶、期限切れのクーポン…ロクなものが入っていない。
空き缶などは水を運べるのでまだマシと言える方だった。
このままでは水を汲んできて飲むしかなくなってしまうので、たぬきは必死に腰を振った。
「きっつっね♪たっぬっき♪てんぷっら…」
途中で信号が青に変わり、立ち止まっていた人間達が歩き始める。
ちなみに、信号待ちの間はほとんどの人間が手元のスマートフォンに目を注いでいてたぬきの踊りは見ていない。
「…みがしまる♪うどん♪うどん♪すーぷっ…うっ♪うっ♪」
踊りを生業とするつもりなだけあってそこそこ踊れてはいるが、踊り終えるまで足を止める人間はいなかった。
たぬきはションボリ顔のままおひねりを待ったが、何も入ってこないので再び信号待ちの人間達が集まる頃合いを見計らって呼びかけた。
「…ではもう一度おどりますし…」


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憐れに思ったのか何か入れていってくれる人間もいれば、単にゴミ箱としか思っていない人間もいる。
一度、火のついたタバコの吸い殻を入れられて大慌てしながらも火を消したそれをじっと見つめた後、意を決して飲み込んで吐いてしまい酷い目に遭った事もあった。

───そうやって、通行人から施されたおこぼれで何とか食い繋いでいた。
明らかに踊りで消費するカロリーと摂取できるカロリーが釣り合っていないのだが、このたぬきにはこれしか生きていく方法が思いつかなかったらしい。
「ありがとうございましたし…」
もらえるたびに頭を下げるが、今日の分をお仕舞いにする際にはさらに深々と頭を下げて去っていく。
明るく、活動できる時間は長くなってきているとはいえ、1日中踊り続けた踊りたぬきの足はボロボロだった。
人間に連れられた飼いたぬきが同情して入れてくれた、割れたクッキーの入った袋や齧っていたちくわなど、今日はまだ食べられそうなものも入っている。
時々コロコロの丸いうんちを放っていくたぬきもいてビックリするが、こういう施しを受けられるのはありがたかった。

踊りたぬきはダンボール箱を大事そうに抱えて、他所の野良たぬきやカラスなどに奪われないよう最大限に警戒しながら帰路につく。

「ｷｭ…ｷｭｳｳ…ｷｭー…」
歩道脇の溝から、か細い鳴き声が聞こえてくる。
目をやると、仰向けのまま起き上がれぬちびたぬきが、丸い胴体から少し飛び出た程度の小さな手足を揺らしていた。
ちびを拾えばこの生活は瓦解すると悟っていた野良たぬきは、ダンボールを抱えて寝床に帰る途中、ポップしたらしいちびたぬきを幾度となく見捨ててきた。
「ごめんし…たぬきには、無理だし…」
今日も、まるで踊る事とワンセットのように出会ったちびに謝罪の言葉を口にして泣き声に耳を伏せる。
体型のせいで頭頂部に位置する耳には、頭を垂れるほど前に傾けないと手は届かず塞げないので、たぬきの中には意識を集中させて耳を自在に動かせる個体が存在するのだ。
───本当は、この箱の中に迎え入れてやって。
あちこちモチモチしたい。存分に可愛がってやりたい。
欲求に抗いながら、次に通った時には見捨てたちびが道端で仰向けに乾いているのを目にする度に心を痛めていた。
それでも、ごはん抜きの日々が続く事も珍しくない生活ではちびを育てられないのだと諦めている。
救けを求める鳴き声を遮断するためだけでなく、心情を表すかのように耳をぺたんと伏せながら、踊りたぬきは歩き去っていく。


うどんダンスに見惚れた人間が飼ってくれるという奇跡でも起きない限り、自分がちびを育てられる未来はない。
心のどこかで期待しながらも、未だダンスを評価してもらえない日々にションボリしていた。


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───今日もいつものように信号機の近くにダンボールを置き、踊る。
歌詞をなぞり、淀みなく動きを披露していた踊りたぬきは近づいてくる藍色のコートの人間が何かを手にしている事は気づいていて、期待しながらも踊りは中断せずにステップを踏み続けた。

「おっに…しッ！？」
顔に何かを吹きかけられた事に驚いて、飛び退いた際に尻餅をついてしまう。
「だだだだし…」
にぶい痛みに悶えながら、自分がおかしい事に気づく。
いだだだし…と言おうとしたはずが、言えていない。
「だし…！？」
慌てて立ち上がり、胸や喉をぺたぺたと触る。
「だだし…だし、だし…！」
思い通りに喋れないことに気がついて、慌て始める。

結局、錯乱した踊りたぬきはダンスどころでなくなってしまい、
その日はほとんど収穫がないままに巣へと帰った。

「だだし…」
ぽつりと呟き、涙を流す。
踊りたぬきが嘆き悲しんでいるのは、喋れなくなったからではない。
元々孤独に生きてきたので、コミュニケーションには飢えていなかった。
人間達には話しかけたって、ずっと無視されてるし。
不安が頭をもたげるのは、今まで生活の基盤となっていた行為が全て出来なくなるからだ。
たぬきは文字を書けないので口頭で伝えられなければ箱の中におひねりを入れて欲しいとお願いもできない。
そもそも、歌詞が言えないのではうどんダンスとして成立しなくなってしまう。
いいダンスを踊れなければ、きっとごはんがもらえなくなる。

どうか、元に戻ってほしいし。どうか、どうか───。
踊りたぬきは恐怖と寒さに震えながらボロ切れのようなタオルに包まって、祈りながら眠りについた。


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1日経てば、言語は戻った。
踊りたぬきはけほけほと咳き込みながら、
「しゃべれる…し？」
自分の喉がきちんと発声出来ている事を確認して涙を流す。

しかし、またも生活のために踊っていると何処からともなく現れた藍色のコートの人間に人語抑制スプレーを吹きかけられた。
「だし…だし…！？」
そうなるともうダンスも踊れないのでその日は寝ぐらに帰り、穴が空いて生地が崩れ始めているタオルを頭にかぶり水を飲むしかなくなる。

それでも人目について、邪魔にならない場所は限られている。
踊りたぬきは、染み付いた生き方をやめられなかった。

踊っているうちに近づいてくる藍色のコートを着た人間の姿を見ては怯え逃げようとするも、回り込まれて───シュッ。
また何かを吹きかけられてしまう。

“だし”としか、喋れなくなる。
水を飲むだけの生活。
しばらくはその繰り返しが続いた。


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───数日が経過した。朝から踊り続けているが、藍色のコートを着た人間は現れない。
今日は来ないし…？
と疑いながら踊り、周囲を見渡す踊りたぬき。
首を巡らせているため身体の軸がぶれ、踊りはめちゃくちゃになっている。
揺れる視界の中で、たぬきは望まぬ訪問者に怯え続けていた。

来た。

藍色のコート───何度も恐怖した色合いだけをその目に映した途端、生命線であるダンボール箱すら投げて捨てて逃げていく。
今度は、背格好も性別も違う人間だった事に踊りたぬきは気づかなかった。

「やだし、やだし、やだしぃぃ…っ…！」
走った。
ただひたすらに走った。
擦り切れた足がさらにさらにボロボロになるのも構わず、胸や背中が痛むのを感じながらも走り続けた。

どれだけ走り続けたのか───たぬきにとっては長い悪夢のような遁走であったが、大して距離は開いていない。

しかし幸いな事に、振り向いても藍色のコートは見えなかったので踊りたぬきは安堵のため息をついた。
車道の上と気づかずに。
そして、道路の染みが一つ増えた。
雨に洗い流されるまでの間しか、残らない染みが。
───スプレーを吹きかけていた人間はもうとっくに飽きて踊りたぬきの事など忘れ去り、踊りたぬきは生き地獄から解放されていたのだが、そんな事は知る由もなかった。



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「だー♪しー♪」
人の往来の少ない静かな公園にて、耳障りな声が聞こえてくる。
たぬきのものだが、語尾が伸ばされるとまるで違う生き物のようだ。
1匹の野良たぬきが、ミュージカルのように大げさな動きと伸ばした語尾を、得意げに振りまいていた。

「今日もお空は青ーいでーすしー♪」
芝居がかった動作で両手を広げ、片足立ちした足を軸にクルクル回る。
普通のたぬきではまず不可能な芸当だ。
足を捻って転倒し頭を打ってジタバタするか、一歩間違えれば足を折って二度と踊れなくなるだろう。
体幹が強いだけでなく運動神経も良いらしく、うどんダンス以外の動きを誇らしげに披露している。
「いつもよーり多ーく回ってますーしー♪」
こいつ全然ションボリしていない。
公園に散歩にやって来た人間は、不快感を露わにしながらミュージカルたぬきに話しかけた。

「ねえちょっと」
「はーいし♪なんでーすかしッ…？」
シュッ、と音を立てて噴射されたそれを真正面から受け止めた。
けほけほ、とむせていたミュージカルたぬきだったがやがて発する声はだしだし、に変わる。
「…だし！？」


喋る事が、できない。
「だーしー…」
かろうじて伸ばせるが、それだけだ。
時折エサ探しに出た街中で人の発する言葉や光る大きな看板から流れてくる音を知識として蓄え、ここまでの言語能力を獲得した。
流暢に言葉を話し、踊りもうどんダンスの動き以外をこなす事が出来る。
他ぬきとは違うのだという自負があった。
「だし…だし、し…」

この人語抑制スプレーは飼いたぬきを躾けるための簡易版で、1日経てばまた元の声に戻るはずだが野良たぬきがそんな事を知るはずもない。
自分は二度と“だ”と“し”しか発音する事ができず、
理想を叶えるための表現力を奪われてしまったと錯乱した。
感性が高く、知能もあった故に自分の先行きを想像し過ぎてしまったのだった。


人語抑制スプレーを吹きかけた人間は明日になったら治るよ、とは告げずに去っていった。

「だし…だ…し…」
残されたミュージカルたぬきは頭上の空よりも青ざめた表情でその背中を見送った。


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ミュージカルたぬきがションボリしながら戻った寝ぐらには、宝物にしているゴミ捨て場で拾った品々───ダンスの本、ミュージカルのチラシなどが積まれている。
文字は読めないが、日がな写真を眺めては持ち前の知能で想像し、自己流で再現し取り入れてきた。
うどんダンス以外を認めない同族からは爪弾きにされ、人間からは薄気味悪がられ拾われることもなかった。
もう少し人目につくところであれば、見世物になると思った誰かが類稀なる才を見い出してくれていたかもしれない。

それがたぬきの望む形かどうかは別として、誰かに見てもらえるたぬ生を送ることが出来たかもしれなかった。

しかし、そうはならなかった。

ミュージカルたぬきはもう一生このままなんだし…と早とちりしてしまった。
下手に想像力が働く分、悲観に暮れる速度が尋常でなかった。
夜が明け、暗い空が茜色染まり始めた頃には───これからのたぬ生を悲観した末に舌を噛んで死んでいた。
公園の木の根元で噛み切った舌を露出させ、あかんべーをしたような見た目で横たわるそれは、もどきか駆除業者が来るまで放置され続けた。


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「おーーい…たぬき達聞くし…」
「ごはん、分け分けするし…」
「お腹空いてるたぬきはこっち来るし…」
ゴミ袋を引きずって公園の真ん中に現れたのは、群れで移動する野良たぬきの一団だった。
燃えるゴミの日のゴミ捨て場を派手に荒らし、食べきれない分は公園の野良たぬき達に振る舞う。
時として仲間に入りたいと申し出るたぬきもいて、そうやって群れを大きく強くしてきた。
義賊の真似事でもしている気分らしい集団たぬきだった。

「ありがたいし…」
「ちび…好きなの選ばせてもらうし…」
「ｷｭｳー♪ちびはこれがいいシ！」
「はいし…大事に食べて欲しいし…」
野良たぬきはほんのりニッコリしながら、はしゃぐちびが望んだ泥のついたメロンパンを渡してやる。

「ありがたいし…」
「おいしいし…」
「ｷｭｷｭｳ〜♪」
労せずして食事にありつける事を聞き、集まった野良たぬき達によって、早朝の公園はにわかに活気付いていた。

袋たぬきの1匹が、コッソリ木の陰から様子を伺うたぬきを見つけて声をかけた。
「お前は欲しくないし？」
声をかけられた野良たぬきはこくん、と頷いた。
のっそりと木陰から現れる。
これと、これ───端っこがカビた食パンと、葉っぱのしなびたキャベツの残りを手で指し示す。

「わかったし…」
声をかけた袋たぬきの1匹は、特に疑問も持たずに無言たぬきが望んだものを渡そうとする。
「待つし…」
リーダー格らしき袋たぬきが、手を突き出して割って入る。
むすっとした面持ちのまま、ふんすと鼻息を鳴らした。
「お礼も言えないたぬきはダメだし」
「…たしかに、それはそうだし」
「恥ずかしがり屋なのかし…？」
「だとしてもありがとうぐらいちびでも言えるし…」
「ちびいえるシー！ありがとシー！」

それでも無言を貫くたぬきは、フルフルと首を横に振る。
肩を落とし、涙を滲ませながら諦めてトボトボと去っていく。
袋たぬきのリーダー格は、たった一言があれば渡そうと思っていたので拍子抜けしたように無言たぬきの背中を見つめた。
「なんだし…変なやつだし…」


無言たぬきは、生まれつき声が出ない個体だった。
耳は聞こえているので意思の疎通は可能だが、自分からの発信は出来ない。
お礼も言えないダメなたぬき───全くその通りなのだが、説明を求められれば出来ないので諦めてその場を離れていくしかない。



近頃、やけにたぬきが騒がしい。
おまけに、ゴミ捨て場も荒らされている。
どう考えても、犯たぬはあいつらだろう。
たぬき達が盛り上がる様を眺めていた人間が、手にしたスプレーを離れていく無言たぬきも逃さず全たぬに吹きかけて回った。

ゴミ捨て場を荒らした上に、その中身を公園で配るという組織的な犯行。
おそらく回収役、見張り役、作戦立案役など役割は多岐に渡るのだろう。
だがそれも全て、言語がなければ成立しない。
近づいてくる人間がいても“だし！だし！”と叫ぶだけでは数も距離も伝えられないし、そもそも作戦を話し合う事が出来なくなる。
たぬきの数が多いのでその場で殺しきれないと判断した人間は、たぬき間のコミュニケーション手段を奪うために人語抑制スプレーを噴射した。

こちらは1日限りでなく、たぬきが纏うションボリの量に応じて効果時間が持続するというものだった。
喋れないうちにションボリする出来事が起こればさらに持続時間は加算されていく。
突然ガスを吹きかけられ、ビックリしてジタバタしていた野良たぬき達だったが、その後危害を加えずに人間が去っていったので不思議そうにしながらも起き上がる。

“助かったし…”
“怖かったし…ちょっぴり漏らしたし…”
“命取られなくてよかったし…”
“なんでみんなだしだし言ってるんだし…”
“ちょっと何言ってるかわかんないですし…”
“ふざけないでほしいし…ちゃんとこれからの事話し合うし…”
“ちび…急に喋れなくなったし…”
“まま…きゅうにしゃべれなくなったし…？”
“うちの子ばかになったし…”
“ままがおかしくなっちゃったし…”
これらは全て、発している本たぬ以外は「だし…」あるいは「ﾀﾞｼ…」としか聞こえていない。

“そっちがその気ならいいし…たぬき怒ったし…”
“いい加減にしてほしいし…”
“たぬきもう知らないし…”
“やばいし…ちびが何言ってるかわかんなくなったし…捨てるし…”
“あっ待ってしまま…ちび置いてどこいくし…”
“ついてくんなし…何言ってるかわかんないし…”
“やだしー！ちび置いてかないでしー！”
まだ気づかず、たぬき達は「だしだし」と呟いている。
その場を離れていく親たぬきと、慌てて追随するちびたぬき。
ちびは涙目で騒ぎ立てるが、ﾀﾞｼﾀﾞｼ言うだけなので無視され次第に距離が開き、置いて行かれている。

“ダヌゥゥ！まだふざけてるし！”
“だしだし言うのやめるし…”
癇癪を起こして手足をバタバタさせる個体が現れ、連鎖的に何匹かがジタバタし始める。
そのうち、疲れてジタバタをやめた個体がのっそりと立ち上がり眉根を寄せて呟いた。
“おまえ、なんでずっとだしだし言ってるんだし…”
“まさか…し…”
“たぬきも…だし、しか言えてないし…？”
頭たぬきでも流石に気がついたのか、口元に手を当てて不安げな表情に変わっていく。


他ぬき達が混乱に陥る中、無言たぬきだけは違った反応だった。

本来であれば元々機能していない声帯が働く事はない。
「だし…?」
しかし“だし”としか喋れなくなる人語抑制スプレーの成分にたぬきの身体が上書きされ、逆に“だし”と喋る事が出来る様になっていた。
たぬきの適当な生態が、声帯に奇跡を呼び起こしたのだ。
そして、元無言たぬきは困惑した。
元々ないものを奪われても痛くも痒くもないどころか、むしろ与えられた。
自分が一度も発することのできなかった声が、たとえ言葉を限定されていても聞こえてくる。
───たぬきの声は、こんな音だったんだし。
憧れながらも決して叶わなかった声の獲得に、抑えきれなかった感情が溢れ出していく。
「だし…だし、し…」
たぬきはションボリ顔ながら、口元のへの字を緩め、ぽろぽろと涙をこぼす。
それは悲しみの涙ではなく、歓喜の涙だった。



今までは余計な音を立てず、孤独にひっそりと生きてきた。
“出来ないこと”があると周囲に知られることは、野良生活においては迫害の原因にしかならない。
他ぬきも同じように“だし…”としか喋れないならば、自分だけが劣っていると浮く事はなくなる。
「だし…だしし…だし…」
狂宴の中、1匹だけが意味もなく呟きを繰り返していた。


だしだし喚いて泣きながら何かを訴える同族の中で1匹だけニッコリしながらだしだし呟く元無言たぬき。
視線が集まり、ほんのわずかな静寂が訪れる。
当然のように気味悪がられたが、目下の問題の前には些末な事だった。
変なたぬきへの興味はすぐに失われ、だしだしと騒がしさを取り戻す。


「だしだし…だし」
「だし！だだし！」
「だだし！だしだしだしー！」
一部の袋たぬき達が、食糧の取り分を巡って争いを始めていた。
後で話し合って分けるつもりだったので、誰がどれを食べるかは決めていなかった。
「だし！だし！」
「だしーー！」
「だだし！」
“これはたぬきのだし”とか“このお肉はたぬきが狙ってたし！”と本たぬなりの主張を行なっていたが、通じるわけもなく。
痺れを切らしたらしいたぬき達がモチモチと殴り合い始めた。
普段なら話し合いで解決できる知能のある袋たぬき達だったが、言語を奪われた今となっては暴力だけが語り合う手段となっていた。

争いの輪に入るわけにもいかず、結局1匹きりにされてしまった元無言たぬきは瓦解していくたぬき達に背を向けて、ションボリしながら寝床に帰る事にした。

元無言たぬきは寝ぐらに帰って、ダンゴムシだとかそのへんの草で夕食を済ませた後は、声を出すのをやめられなかった。
「だし…だしし…」
思わず可笑しくなって、笑うように体を揺らす。
その声を聞きつけた存在があった。
横倒しにしたダンボールハウスに顔を突っ込み、黒い鼻をヒクヒクさせる。
「キュウ？」
「だし！？」
「キュウウウン！キュウキュ！」
「だし…だだし…」
猫背のように首を突き出しても頭が擦れるほどの狭い空間。
ダンボールの壁を背に、行き場のないたぬきが何事か呟く。


声が出せるようになった事によって、今まで悟らせていなかった居場所を知られ、たぬきもどきに寝床を暴かれてしまった。
食い殺される危機に瀕した元無言たぬきは力の限り、
「だしーーー！だしーーーーー！」
と叫んだという。


オワリ