No.70「たぬき夜行」


「飼い主さん…お願いだし…」
ケージの中に1匹のたぬきがいた。
中の掃除は行き届いており、糞も飛び散っていない為、たぬき自身もトイレをしっかり覚えているのが伺える。
成体にはやや手狭だが、毛布だけでなく遊び道具のちびたぬき人形とゴムボールまで置いてあった。
「ねぇねぇし…」
音色としては野太い、けれども弱々しく消え入りそうな呟きが暗闇に投げかけられた。
「お外にだしてし…」
悲痛な願いに、応える者はいない。


「たぬき…お話したいし…」
身体を丸めて足を投げ出したたぬきが、何かを拝むように両の手をモチモチと擦り合わせながらぽつりと呟く。
何十回目になるかわからない、ただの独り言を繰り返した。
飼い主さんとただお喋りがしたいだけのたぬ生だった。
だが飼い主である人間はとっくに寝てしまっている。
明日の朝も早いので、ケージを揺らしたりすると怒られる。
しかし、飼い主さんが目を覚ます頃にはたぬきはしっぽを抱えて眠り込んでいる。
飼い主さんの使い古しのブランケットをかぶり、大きすぎる頭だけ出してうつ伏せで寝る姿は土下座しているようにしか見えなかった。
この子いつも寝てる…と呆れられ、飼い主は仕事に向かう。
たぬきは外が暗くなり始めた頃に目を覚まし、活動を始める。
「おかえりなさいし…」
という言葉だけが、飼い主さんにかけてまともに返答を貰えるものだった。
飼い主は夕食とお風呂を済ませると、動画視聴に時間を割いた後は寝てしまう。
平日はそんなすれ違いの連続だった。
実は、あまり知られていないがたぬきという生き物は夜行性なのだ。


昼間ションボリしているのは眠たくて耐えているだけで、実際目はショボショボしてあまり開けていられない。
とはいえ夜に突然はつらつと動き出すわけではなく、単に夜の活動時間の方が長いだけだ。
それでも野良たぬきは夜中にうどんダンスを踊るので騒音の元として駆除される。
ペットショップのたぬき達は開店時間は無理やり起きているので元気がなく、店員達が帰ってから活発におしゃべりなどしているのだ。
だから売れ残ったりもするのだが。


夜中の公園に行けば、巣にしている木の根元や茂みの裏からゾロゾロ…と出てくるたぬき達が見られるだろう。
昼間は人間達に占有されているため、ブランコや滑り台でちびを遊ばせているうちにちび共々完全な夜行性になってしまった野良たぬきなどもいる。
しかしその場合は早朝には眠気に勝てなくなるためゴミ捨て場からエサを得る事が難しくなるが、マナーの悪い人間が夜中に出す場所を知っているのでちゃっかりエサにありついたりする。

しかし夜の闇を好むたぬきは、それだけ危険に出会うことも多い。
素行の良くない人間達にちびを取り上げられたり、その場でタバコを目に押し付けられたり。自重でちぎれるのも構わずしっぽから吊るされたりするなど、ひどい目にあわされる。
死の経験から成る記憶を持ち越して、何となく夜が怖い、と感じるちびたぬきが次代にポップしたりもするがたぬき全体から見れば僅かなものだ。

この飼いたぬきも、ちびたぬき時代に眠たくてペットショップでくたっと突っ伏している所をかわいいと勘違いされ、飼われていた。
ちびの頃はボール遊びをしたり、うどんダンスを褒めてもらっていたが、どうやら飼い主は飽きてしまったらしい。
あるいは、成長した事でちびの頃のかわいさが失われたからかもしれないが、とにかく相手にされていなかった。
夜、帰宅した時にエサと水は補充してくれるが話しかけもしてくれないし撫でてもくれない。
触れてほしくてわざとエサ皿に寄って座っていると押しのけるために手が触れるだけだ。

「あの…飼い主さん…」
「もう寝るから。おやすみっ」
意を決して話しかけても、無視される事がほとんどなので就寝の挨拶があるだけ今日はマシと言えた。
「おやすみなさいし…はあ…し…」


“ｷｭｳｳー”
「よしよし…ちび寂しいし？抱っこしてあげるし…」
“ﾌﾟｷｭｯ”
当然だが、ちびなどいるはずもない。
お話しできないならせめてちびが欲しいとねだった時に、
『今は飼えないから、これで我慢してね』
と渡された、ケージの中にちょこんと座っているちびたぬき人形が声の主だ。
お腹のところを押すと“ﾌﾟｷｭｰ” とか“ｷｭｷｭｳー”といった、ちびの鳴き声に似た空気音がするのが特徴だった。
質感もゴム製ではあるが中が空洞になっていることでモチモチとした弾力を感じられる。
たぬきのちび欲求を満たすために開発され、多くの飼いたぬきに与えられているロングセラー商品だ。
たまに持ち主の飼いたぬきが死んだり不要となり、ゴミ捨て場に捨てられたちび人形を拾ってきて一向にエサも食べず大きくならないちびに首を傾げながら一生を終える野良たぬきもいるほどの出来栄えだ。

この飼いたぬきはちび人形を手慰みの道具ではなく、疑似的な話し相手として扱っていた。
ぐにぐにとお腹を押しながら、何度も話しかける。
「今日も飼い主さんは忙しそうだったし…いつもお疲れ様だし…」
“ｷｭｷｭー”
「ちびもそう思うし…？やさしいちびだし…」
“ﾌﾟｯｷｭ”
空しい一たぬ芝居だとわかっていても、やらずにはいられなかった。


飼いたぬきは決して増長してワガママを言っているわけではない。
ちびから成体に成長した事で精神性は大人になり、コミュニケーションの取り方が変わっただけで、根底には甘えたいという欲求があるだけだった。
昔、飼い主さんの膝の上に載せてもらってたくさん話しかけてもらった事が今でも忘れられなかった。

飼いたぬきとしては恵まれていた。
エサも十分にもらえるし、なんとたまにはオヤツも出してもらえるのだ。
うどんダンスは飼い主が起きている間だけだが許されている。
下の階に住人がいないからで、入居があればそれも禁止されてしまう事をたぬきは知らない。
ただしたぬきが踊っている間、飼い主はワイヤレスイヤホンを装着しそちらを見向きもしないのであまり意味はないが。
自らが要望する会話をしてもらえないという不満を差し引いても、たぬき程度には破格の扱いだった。



飼い主さんは休みの日は家におらず、出かけてしまうのでたぬきと遊んではくれない。
ちびの時はたくさん構ってくれたのに。
早くお話をしたくて、聞こえてくるテレビの音声などで頑張って言葉を覚えたのに。
ただし、幼い頃から夜間にｷｭーｷｭー鳴いてうるさいのでションボリに結びついて眠くなるスプレーを吹きかけられていた事は覚えていない。


　　❇︎      ❇︎     ❇︎

単なる思いつきだった。
朝食の際にペットボトルのアイスコーヒーをコップに注いだ後、目線の先に飼いたぬきがいただけだ。
たぬき用の水皿の予備に、思いつきを形にしたものを注ぐ。
「これなんだし…？」
「早く飲んでね」
訝るたぬきだが、基本的に飼い主さんは美味しいモノをくれるのでクンクンしと鼻を近づけつつも、甘い香りが漂ってきたのを確認するとすぐに舌を伸ばした。
「おいしいし…ペロペロし…」

中身がなくなるやすぐに補充してもらえて、飼いたぬきは喜んで追加分も舐め尽くした。
「おかわりもあるし…？うれしいし…」
久々に構ってくれている。
もしかしたら、ゆっくりお話できるのかもしれない───たぬきの期待は、すぐに打ち砕かれた。
これで夜は静かになってくれるだろうと、飼い主はケージに取り付けた給水器に水を足し終えるや否や仕事に出掛けてしまった。
わずかな罪悪感から、いつもよりたぬフードは多めに盛ってやっていた。

　　❇︎     ❇︎     ❇︎

「寝れないし…」
いつもなら遠くなっていく飼い主の背中に手を振った後、夜になるまで二度寝するのだが、それが出来ない。
夜に眠くなるように、カフェインたっぷりのコーヒーを飲まされて昼寝できなくされていたのだった。
もちろん砂糖とミルクを大量に入れて味を誤魔化している。
けれどもちょうど良い温度のそれを何杯分も舐め尽くしてしまえば大量のカフェイン摂取で眠れなくなるのはたぬきも人間と同じだった。
むしろ摂取したことのない分、カフェインの効果は絶大となる。


飼いたぬきはソワソワと落ち着かない様子でケージの中を歩き回っていた。
猫背気味でないと頭頂部が当たるので、まるでゲームやゾンビ映画のゾンビのような挙動だった。

「目が…目が閉じれないし…」
普段は半分以上降りている瞼が強引に押し上げられ、身走った目が丸く見開かれている。
呼吸は荒く、緊張した身体はプルプルと小刻みに震えている。

鼻の頭に違和感を覚え、手を伸ばすとぬるっとした感触が手のひらに伝わる。
「鼻から血…出たし…」
触れた部分が赤くなった事で、自分は出血しているのだと理解した。
脳の血管が切れ、眉間から鼻腔に伝わる部分まで血管が破裂していたのだ。

「アタマ…くらくらするし…」
貧血のような症状を自覚して、なんだか額が痛くなってきた。
飼い主さんが帰ってきたら病院に連れて行ってもらおう。
それまで寝てしまわないと待ち時間が長すぎる───と考えて横になるが、眠れない。
「まぶしいし…」
普段は寝入っているせいで気がついていなかった、日光の眩しさも疎ましく感じられる。
事態は何も解決しないまま、独り言だけが積み重なっていく。

　　
　　❇︎       ❇︎       ❇︎


眠い───というかこのまま意識を失ったら二度と目を覚まさないのではという恐怖が飼いたぬきを満たしていた。
部屋に入る西陽はオレンジ色に変わりつつある。
飼い主が帰ってくるまで、まだ2時間以上あった。
横たわったままの飼いたぬきの目尻から涙がこぼれる。
結局、一度もそれらしいふれあいが出来ていない。
飼い主さんのお話を聞いてみたかった。
外に出る事が叶わなくても、テレビの内容についての他愛ない話でも出来れば心は満たされるはずだった…。


「たぬきはただ…おはな……し…」
ただひとつ。
このたぬきは飼い主に懐いていて、コミュニケーションを取りたかっただけだった。
たぬきのモチモチと呼ばれる行為は同族間では不安を解消するコミュニケーション手段で、触り心地のよい肌は人間にとっても快楽をもたらす場合もある。
しかし所詮ペットとしか認識せず、ケージ飼いで風呂にも入れていない人間が飼い主であれば忌避されてしまう。
このたぬきは飼い主さんがあまり撫でてくれない事から、ボンヤリとではあるがモチモチするのは嫌いなのだと感じ取っていた。
だから、言葉によるふれあいを求めた。

ただ、それだけ。
要求したのは、それだけだったのに。
ヒトとたぬきの生活習慣の違い。
ただそれだけで、このたぬきは命を失う事になってしまった。
いつの間にかケージの中で突っ伏して、それは普段の日中での姿勢と何ら変わりはなかった。
ただ、息をしていないだけだ。

しかし───飼い主さんはたぬきが死んだ事にも気づいていない。
翌朝、エサを入れようとたぬきをどけるために触れた際に冷たく固くなっていた事に気がつけば、落胆しながらもゴミ袋の用意を始めるだろう。
あるいは、飼い主さんが言語抑制スプレーの事を知っていればこのたぬきはもう少し生き延びられたかもしれないが、いずれ迎えるストレス死のタイミングがずれるだけの話だった。


ようやく飼いたぬきにかけられた、帰宅したばかりの飼い主さんからの言葉は。
「やっと静かになってくれた…たぬきってもっとおとなしいって聞いてたのに。うるさいったらないわ」
ただ、それだけだった。


オワリ
