No.72「衛生」


噴水や水飲み場のある公園ならば、野良たぬきでも水を得る事はできる。
しかし、それらが無い公園に住むたぬきにとっての水場は限られている───。

親1匹仔1匹のたぬき親子がトボトボ…と公衆トイレにやって来た。
ちびは四つん這いではあるがやっと歩行できるようになった程度の幼さだ。
遊び疲れた今は親たぬきに抱っこされてご満悦だった。
歩けるようになった記念に、親たぬきと泥遊びをした後なので2匹とも泥に塗れていた。
親たぬきは自身よりもまず、ちびの汚れを落とす事を優先するたぬきだった。
抱き上げていた我が子を、鈍い銀色で構成させれた空間にやさしく下ろす。
まま、ありがとし！とでも言いたげなちびは小さな手足をちたぱたと動かした。
「ちび…ここはお水いっぱい流れるし…ここでキレイキレイするし…」
「ｷｭｷｭ〜♪」
「…どけ！」
「ヌヌーッ！？」
突如、左方向に蹴り飛ばされる親たぬき。
個室のトイレの内側に開くドアにぶち当たり、そのまま奥へと突っ込んでいく。
「ｷｭｷﾞｭｯ…！？」
愛しい親たぬきが眼前から消え、2本の脚で立つ巨大な初めて見る生き物に、ちびたぬきは恐怖した。
黄色い液体を染み出させ、わなわなと震えている。


「そこ、風呂じゃねえから」
尿意を催し、近くの公衆トイレに立ち寄った男にとって小便器を塞ぐ親たぬきは邪魔でしかなかった。
「人間用の小便器だ」
最近のは詰まりや臭いを防ぐために少量の水が自動的に流れるようになっている。
たぬき達からすれば、頭上から水が流れ落ちてくる謎の空間といった所だろうか。
ここの公園は最近工事が入って設備が新しくなっていて、公園住まいのたぬき達にも評判の場所だったのだ。
もちろん、たぬきが使う事は想定されていない。


「えっ…だってし…」
タイルに顔をぶつけた親たぬきは四つん這いの姿勢で、こちらにお尻を向けたまま頭を上げた。

「そこにもお風呂あるし？」
振り向いて示したのは、個室の中の和式便器だった。
トイレ内は定期的な清掃が行われているが、数多くの野良たぬき達が利用しているのであまり綺麗とは言えない。
この場所がトイレが風呂かの認識はたぬきによって違うらしい。
手洗い場の蛇口には背が届かないので、必然的にたぬきに使える水場は便器のみになる。
洋式便器を浴槽のように扱ったり、ウォッシュレット機能を使って抱え上げたちびのしっぽの根元を洗ってやる親たぬきもいるほどだ。

「たぬきよくそこで身体洗ってるし…服も洗濯してるきれいなたぬきですし…」
「きったね！」
男は、飛び込んだ勢いのままに蹴り飛ばしてしまったことを後悔する。
とはいえ、このたぬきはまだマシな方だった。
水に濡れる事を嫌がり、砂風呂だし…などとのたまって砂場に身体を埋めたりゴロゴロと転がった後に砂を払い落として綺麗になったし…と満足して歩き去っていく野良たぬきに比べれば汚れを落とすために水に浸かるという発想がある。
問題は汚水で身体を洗っているため結局そこまで綺麗ではないという事だ。

「ひどいし…ちゃんとそこの白いやつで身体も拭いてるし…」
たぬきが示すのは、備え付けてあるトイレットペーパーの事だ。
濡れたままだとションボリしてかわいそうなので、ちびをぐるぐる巻きに包んで水気を取ってやればしっぽが濡れても喜んでいる。
ちゃんとしているはずなのに、とでも言いたげで納得がいかない様子のたぬきに構っている余裕は男にはない。
公衆トイレを訪れた時点で尿意はすでに限界に達しており、チャックを下ろす動作に澱みはなかった。


「ｷｭｳｳ〜？」
見慣れてきて落ち着いたのか、小便器に収まったまま、こちらを見上げてくる小汚いちびをすぐさま摘み出したいが手袋などない。
何より、時間がない。
なので、出来る事はひとつ───。
じょぼぼぼぼ！
「ｷｭｷｭｳｳー！？」
生後一週間程の幼いちびは、天から降り注ぐ排泄物のシャワーを浴びる事となった。
トイレの水浴びしかした事のないちびは生暖かい温度に驚いて、ビックリして泣き声をあげた。
目尻に溜めた涙も、勢いよく放たれた尿に流されていく。
「あ、やめてし…ちびにひどいことしないでし…」
未だ痛みのせいで突っ伏したまま立ち上がれないたぬきは我が子の悲鳴に気がつき、ささやかな抗議の声をあげる。
「いや、そこの水で身体洗ってるのあんまり変わらないよ？」
危機を脱し、スッキリした男性は穏やかな表情で下半身を上下させて残りの尿を切った。
「…ｷｭ…ﾋﾞｭ…」
涙か尿かも判別がつかないぐらい濡れたちびは力無く鳴いた。
命に別状はないが、幼くして心に大きな傷を負ってしまったようだ。
追い打ちをかけるように、自動洗浄機能で水が流れ落ちてくる。
背面を伝う冷たい感覚にぶるっと震え、たぬきの特性により水に濡れた事で全身から力が抜けたちびたぬきはぐったりしてしまった。


「二度と近づかないでね。くさいしきたねえから」
男性は洗面台で手を洗い、ポケットから取り出したハンカチで手を拭うと侮蔑の言葉を吐き捨てて出ていった。


「ｷｭｴｴｴﾝ…ｽﾝ…ｽﾝ…」
ちびは理解しているのかいないのか、その場から動かず泣きじゃくっていた。
ただ、遅れてやってきたショックに悲しんでいるだけなのかもしれなかった。
「たぬきくさくないし…きたなくないし…クンクンし…」
心外な言葉を投げつけられ、落胆したのはむしろ親たぬきの方だった。
アンモニア臭は、トイレに通い詰める内にすでに自分達のニオイとなっているのでどれだけ嗅いでも臭いかどうかはわからない。


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ひどいし、ひどいし。
たぬき誰にも迷惑かけてないし。
トイレはみんなのものだって、誰かが言ってたし。
だったらたぬきも使っていいはずだし。
生まれたばっかりのちびに、おしっこかけるなんてひどいし。
あんなにかわいいのに、モチモチしてるのにし。
人間もちびに触ってみればきっとわかるし。
そうだし、今度会った人間にはちびを触らせてあげるし。
きっと考えを改めると思うし。


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「ｷｨｨ…ｨｴｴｴ…」
「ちび…こっち来るし…」
たぬきは気を取り直し、男性の尿まみれになってあどけない瞳を潤ませている我が子を抱き上げようとして、目の前が黒い影で覆われた事に気がつく。

定期清掃の巡回にやってきた清掃員は、ポケットに入れていた用具入れの鍵を使い、備え付けのゴム手袋を装着した。
トイレットペーパーを巻き出し、適当な所でちぎって便器の中に放る。
あっ人間だし───と親たぬきが認識しているうちにしゃがみ込んで、小便器の中でうずくまっているちびをそっと掌に乗せてくれた。
「……ｯｷｭ？」
突然の浮遊感と、目に映る景色の高さが変わったちびは戸惑いの声を上げたが、親たぬきは特に抗議はしなかった。
丁寧に手袋をつけた人間はきっとちびをかわいがってくれるに違いないと思い込んでいた。
人間の存在に気づいたちびは先ほどの心の傷を抉り返されたようで、立ち上がった清掃員の手の中でジタバタともがいていた。
親たぬきは、静かに見守っているだけだ。
期待を込めた眼差しを送る親たぬきの前で、清掃員はちびが抵抗できないようしっぽを捻り切った。
「ｼﾞｯ…！？」
「えっ」
次はバランサーであるしっぽを失ったショックと痛みでジタバタする力をなくしたちびの首を捻り、胴体から分離させる。
「ﾋﾞﾁﾞｯ」
たぬきに対して激昂する事もなく、淡々と始末してしまった。
水が跳ねないよう、クッション代わりのトイレットペーパーが落とされた和式便器の中にちびの遺体が放り込まれる。
すぐさまレバーが倒され、タンクの水が解放された。
じゃぼぼぼぼっ──────。
親たぬきは、事務的に処された我が子が流されていくのをただ見つめる他なかった。
３つに分割されたそれは詰まりを起こすことなく、激流が奏でる轟音に飲み込まれていく。
「や…！ちび…やだし…！」
我が子だったものがあっという間に消えていく様を呆然と眺めていた親たぬきは、慌てて和式便器に駆け寄るがどうしようもなかった。
ちびが生きていた証である赤い水すらも流れきってしまった。
手遅れだ。
下水管の奥に消えていった我が子の最期に落ち込み、ションボリとしていた親たぬきはこちらを見下ろす視線に気がついて顔をあげた。


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自由に使えるおみずが手に入って、暑くなってきても過ごしやすくなって。
これからちびを増やそうと思っていたのに。
たぬ生の展望は、ちびの喪失と熾烈な殴打によって徹底的に打ち砕かれた。
人間を、侮っていた。
人間は怖い。
人間のいる所には、近づいてはいけない。
たぬき特有の思い上がり。
浅ましさ。
一打ごとに唾液と涙と血が身体を汚し、たぬきの歪んだ思考は矯正されていった。


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「ひぃぃ…し…！」
その後、清掃員にブラシで滅多打ちにされた親たぬきは、あちこちを内出血で青あざに染め、ぼこぼこに腫らしながら公衆トイレを去っていく。
清掃員はその後ろ姿は見送らず、ため息をつくと業務を再開した。
幼体は小さくして水に流せるが成体はそうもいかない。
清掃が業務なのだから死骸で汚すのは本末転倒だ。
あの生物に対して特別な感情は抱いていないが、邪魔はしないでもらいたかった。

予備のトイレットペーパーはたぬきには手の届かない高さに保管してあるが、トイレットペーパーホルダーに入れてある分はどうしようもない。
別の個室でむちゃくちゃに引き出されて床に接地してしまった分を途中でちぎり、持ち去られて中身が無くなっているホルダーに紙を補充する。
平常通りトイレ内の清掃を行なった後は、たぬき忌避剤を巻いてたぬきが近寄らないようにする。
しかしそれもしばらくの話で、時間が経てば効力が薄れ、先程のように足繁く通ったり住み着こうとするたぬきが現れるだろう。
新たにポップして、何も知らないたぬきからすれば自由に使える水場はここだけなのだ。
用具入れの鍵を閉め、嘆息して次のトイレを目指す。
そこにもきっと、たぬきはいるだろうから。


オワリ