No.74「借用」


夏が来ました。
早すぎました。
短すぎる梅雨を経て“雨に濡れるションボリとした日々から解放されたし…”と喜んだ野良たぬき達は、あまりの温度変化に目を回しました。
たくさんのたぬきやちびたぬきが、急激な暑さにあちこちで乾き死んでしまっていたのです。

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「ちび…待っててし…」
「……ｷｭ…ｽﾋﾟｨ……」
安らかな寝息を立てているのは、この親たぬきの元で生き残った最後のちびでした。
あるちびは風に吹かれ道路上を舞うビニール袋を追って車に轢き潰され、あるちびは暑さのあまり川に顔を突っ込もうとして高低差を想定しておらずそのまま落ちて死んでしまい、残る2匹のうち1匹はエサ探しに連れ歩いているうちに熱中症にかかってしまいました。
親たぬきの懸命の看護も虚しく、朝には動かないお肉に成り果てていて、それでも埋めてあげられるだけ他の2匹よりはマシな最期でした。


生き残ったちびはかなり幼く、まだ立ち上がる事すら出来ません。
親たぬきは木のうろに寝かせたちびたぬきに、青々とした葉っぱを被せて隠していました。
ちびが起きているうちに出て行こうとすると、いつもお尻に抱きついて泣き喚くので今のうちに出るしかありません。
夏場は暑くて活動しづらいだけでなく、ゴミ捨て場のゴミも腐りやすいので時間との勝負でした。
親たぬきはせめて残ったちびにお腹いっぱい食べさせてやるんだし…と巣を後にしました。



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「ｷｭ…？」
”まま、どこだし？”
被せられていた葉っぱをかき分け、四つ足で這い出たちびたぬきは、ブルブルと全身を震わせました。
不安な気持ちが強くなって、つい泣き出しそうになりますが───ぐっと堪えました。
“ままがいない時は泣いちゃだめだし…お姉ちゃん達みたいになってしまうし…”
という、親たぬきの教えが染み付いていたからです。
ヨタヨタと立ち上がって鼻先をクンクンし、とひくつかせて───ひとまずは親たぬきの匂いを辿ろうとします。
ぷしゅーっ。
顔を突き出していたちびたぬきが何かひやっとした感覚に身を震わせたのも束の間、思い切り吸い込んでしまった何かにより、強烈な眠気に襲われて昏倒してしまいました。



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ちびたぬきってかわいいよなぁ。
辛気臭くて身体も臭いたぬきだけど、ちびだけは愛でる対象になると思うんだよな。
というわけで、時々ちびたぬきを借りて遊んでいる。

動物プロダクションによるレンタルちびサービスというのもあるが、ちゃんと無事な姿で返さなければならないので気を遣うせいかこちらも精神を消耗してしまう。
その点野良なら遊んでいて時折腕やしっぽがちぎれてもゴメンねで済む。

今日は1匹で親に置き去りにされたのかキョロキョロしているちびを見つけたので、たぬきのションボリと結びついて作用を発揮する睡眠スプレーで大人しくさせ、クーラーボックスの中に入れてここまで連れてきた。

優しく掬い上げ、ひんやりとしたフローリングの床に置いてやる。
睡眠からさらに保冷剤に包まれての仮死状態に陥っていたちびが起き上がり、眠たげに目をこする。

「ｷｭ……ｷｭｯ！？…ｳｳ〜…？」
目が覚めて、いきなり知らない部屋にいる事に驚く姿は、とっても可愛らしい。
寝ぼけた様子で風に揺れる猫じゃらしのように頭を左右に振っていたちびが現状を理解してビックリするあまり粗相してしまうのもまた可愛らしいものだ。
床を黄色く濡らし、そのまま歩き始めたせいで自分のしっぽをおしっこまみれにするのも浅はかで可愛い。
しかし好奇心は抑えきれないのかﾌﾝﾌﾝと鼻を鳴らし、口元のへの字を強くするあまり顎を梅干しのように皺くちゃにしていた。

警戒しながらもキョロキョロと辺りを見渡し、冷房の風がよく当たる地点に気がついた時には。
「ｷｭｯｷｭ〜♪」
と両手を挙げてその場でぐるぐる回り出すのが可愛らしい。

「おうい、ちび」
なるべく優しく声をかけたつもりだが、ちびたぬきがビクリとして立ち止まる。
固まったちびは油の切れた機械のようにゆっくりと首を振り向け、初めて見るらしい巨大な生き物との遭遇に驚愕したようだ。
「ｷｭｳｯ！？ｷｭ、ｷｭ、ｷｭｳｳｳ！」
ちびたぬきは全身の毛を逆立てながらも慌てて隠れる場所を探し始める。
しかしちびにとっては広大なフローリングの床から壁やイスは遥か彼方であり、すぐには辿り着けない。

結局どうにもできずに顔を短い手で両手で覆い、伏せたままお尻を天に突き出している。
短いしっぽをぶん回す様から、焦りが見て取れた。
思わず踏みつけたり蹴り飛ばしたくなる衝動を堪えながら、怯える小さな背中をそっと撫でてやった。

再びビクッ！と身体を跳ねさせたちびは次第に恐怖で振動し始める。
チョロチョロチョロ…とまだ残っていた水分を排出し床の水溜まりを増やしていく。

まずは警戒を解かないとな。
震えるちびの身体を落ち着けるために掌を沈まない程度に載せて深呼吸をする。
ゆったりとした呼吸にこちらの掌の感触と体温が伝わり、次第にちびの震えが小さくなっていく。

ちびの背中を努めて繊細な指さばきで撫でていると、そのうちコリっとした部分が見つかる。
「………ｷｭ」
反応があった。
ここか。
ちびの気持ちの良いところを探りあてると、重点的にぐにぐに押したり、円を描くように繰り返し撫でさする。

野良生まれの、しかも親と隔離されたちびが簡単に懐くはずはなかった。
しかし、頭たぬきと称されるほど思考能力が低いたぬきにおいて幼体のちびは更に快楽に弱い。
「ｷｭ、ｷｭﾜ……ｷｭｳ〜♪」
たぬき同士のモチモチとは違った感触とマッサージの刺激に、すぐに甘えた声をあげる事になる。

さて、警戒心が解けた所で最初にやる事と言えば。
尿まみれになってしまったのもそうだが、野良なので衛生状態はよくないので、
「まずは遊ぶ前にキレイにしようか」
「ｷｭ〜？」
お風呂に連れて行く事だ。

この生き物…なんだし？とでも言いたげに首を傾げてこちらを見上げてくるちびをキッチンペーパーで優しく包み、尿を拭き取り優しく揉む。
水気が取れて元気になったちびを背中から掴んで持ち上げて飛行機の旋回のように動かしてやると、訳もわからず浮遊感に混乱してジタバタする。
おっと、やり過ぎるとまた漏らしたり吐いたりしちゃうな。

両手で包み込むようにして、ちびの視界を隠して安心させてやる方向に切り替える。
前は恐怖による吐瀉物で喉を詰まらせていきなり死んだちびとかいたし。


何もかも白く、用途のわからない道具の並んだ空間にちびたぬきは興奮していた。
洗面器にぬるま湯を張り、そこにちびを優しく下ろす。
常備している、ちびたぬきの肌にも優しいシャンプーとボディソープを使い分け、くすぐるように洗ってやる。

「ｷｭｳ？ｷｭ、ｷｭｯ…ｷｭｳｳ…♪」
ぐにぐにとした感触がこちらにも気持ちが良いが、ちびたぬきも快感らしく嬌声をあげる。
破かず脱がせるのが手間なので服ごとだが、泡まみれの中で汚れが落ちていく。

「目、つぶってろよ」
次は頭部だ。
泡が目に入ると泣き出すので事前に忠告しておく。
言葉を理解しているのかいないのか、先程以上に表情をしわくちゃにしてちびたぬきが硬直する。
先程のマッサージと同じように泡を撫でつけるようにして、頭皮を指の腹で回してみたりすると次第にうっとりし始め、
「ｷｭ〜♪ｷｭ〜♪」
とちょっと耳障りな声をあげてこちらの嗜虐心を刺激してくる。
ちょっといじわるするか。

シャワーを使って頭からぬるま湯を浴びせかける。
温度は危険ではないが、集中豪雨のような勢いにちびはなす術もない。
｢ｷｭｷﾞｭｷﾞｭｷﾞｭｷﾞｭ」
呼吸もできない激しさに揺さぶられ、シャワーの狙いから外してやると目を回している。
気持ちよさも手伝って今度は大を漏らしたかな？
洗面器を傾けて汚くなった水を流すと、ずぶ濡れのちびたぬきだけが洗面器の中に横たわっている。
「…ｷｭ…ｷｭｳ…」
弱々しく呼吸をしながらこちらを見つめるのは涙目だったがまた撫でてやるとほっとした様子で目を閉じていた。
よほど撫でられる事が気に入ったらしい。


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タオルで優しく拭いた後は、火照った身体を冷房の風で冷まして上気したちびに氷をプレゼントしてやる。

｢ｷｭｯｷｭｷｭ…♪ﾚﾛﾚﾛ…ｷｭｳ♪」
ご機嫌な顔で受け皿の上の氷に抱きついてぺろぺろしと舐めている。
甘くなくてもこんなに喜んでくれるんだからかわいいものだ。
これが成体なら“ジュースぐらいないし…？ガッカリだし…”などとほざくのでたぬき自身をミキサーにかけてジュースにしてやるところだ。

「ｷｭｳｯ！ｷｭｳｳ！」
すっかり懐いてきたのか、指先を差し出してやればモチモチとした全身を押しつけてじゃれついてくる。
ああ、なんてかわいいんだ。
こんなに無警戒で、この子は生きていけるのだろうか。
この後の事を想像し、ぞくっと肩を震わせたこちらを見上げて、
「ｷｭ〜？」
ちびは不思議そうな声をあげた。


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「ｷｭｳｳ…」
氷によって熱気と喉の渇きを落ち着かせたちびが空腹からお腹を抑え始め、せつなげな声を漏らす。
ｸﾞｩｩ…とお腹のたぬきも応じるように鳴いて小さな合唱を奏でる。
「待ってな」
「……ｷｭｳ？」
急に姿が消えて不安がるちびが追いつく前に素早く冷蔵庫から目当てのものを取り出して戻る。
食べ物を取り出すところを見られるとそこから動かなくなってしまうからだ。

冷蔵庫からちびたぬき用にストックしているプリンを出してあげた。
見たところ歯も生え揃っていないようなちびだし、これなら食べられるだろう。
窒息しないようスプーンで掬った分だけを差し出す。

ちびは鼻先をスプーンに近づけ、クンクンしと匂いを嗅ぐ。
野良生まれらしく食べられるものなのかを探るが、甘い芳香にすぐに気がつく。
クンクンしの勢いは増していき、舌がチロチロと出始めるのがこちらにも見てとれた。
「ｷｭｳｯ…ｷｭｳ！」
右手を差し出し、ぐちゃ…と崩れたプリンの柔らかさに驚きつつもゆっくり口に運ぶ。
なめらかな食感と共に脳天を突き抜けるような甘さがちびの口内に広がった。
「ｷｭ…！ｷｭｳｳ！ｷｭｳｳｳーーー！」

興奮したちびは手についたプリンの残りをペロペロしと舐め始める。
忙しなく右手を舐めていたと思えば、左手を舐める。
左手を舐めながら右手に視線を移し、しばらく自分の右手を見つめていたちびは唾液まみれの右手を再び舐め始めた。

夢中になるちびを見ていると、自分の心のひび割れたり欠けている部分が修復されていくような不思議な気分になる。
ああ、やっぱりちびってかわいいよなぁ───。


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こうして、たぬ生で初めて甘味を口に運んだちびはさらに元気になっていきました。
男はゴムボールを取り出し、両手を挙げてパタパタさせるちびに見せつけてから転がしてあげます。
ちびは勢いよく転がるボールを追いかけてはつまずき転んで泣いて、あやしてもらってはまたボールを追いかけてはつまずいて転んで、を何度も繰り返していました。
その無能ぶりに満足した男性は頭や背中を撫で回してやりました。
男性の掌に体重を預け、撫でられる事に飽きればまた好きに駆け回ります。
ヨチヨチ歩きのはずが、しっかり栄養を取れて障害物のないフローリングの床で体重のかけ方を覚えたちびはトテテテッと走れるようになっています。
やがて充分に幸せな気持ちになったちびは遊び疲れたのか、追いついたボールにもたれかかりました。
転がろうとするボールを抑える力はなく、ちびの身体から逃れていき───。
「ﾁﾞｯ」
支えを失った無防備な顎を打ちつけて軽い脳しんとうを起こし、ちびは動かなくなりました。
死んだわけではなく、勝手に大人しくなってくれたちびをわざわざ起こす必要もありません。
連れてきて4時間あまり。
夏場は日中が長いので窓の外はかなりの明るさを保っています。
「…ま、こんなもんか」
男は立ち上がり、手足を伸ばしてぐでんとなっているちびを見下ろしました。


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親に置いていかれたのかもしれないけれど、たぬきは自然に生きるべきだと考えた男は拾った場所までクーラーボックスを運びました。

たくさん、遊んだし。
もう、飽きたし。

「ちゃんと返すよ」
こうしてちびは炎天下に放置されてしまいました。
しばらくはスヤスヤと寝入っていましたが冷暗所から取り出され、徐々に身体を包む寝苦しさにちびたぬきはﾁﾞｪ…と短く苦悶を漏らしました。

「かわいいちびが死ぬところなんて見たくないからな───さ、明日は違う所でちび探そ」
男はあれだけ可愛がっていたちびたぬきに目もくれず、スタスタと歩き去っていきました。
葉っぱや砂利だらけの地面の不快な感触に気を取られていたちびは、遊んでくれた存在が離れていく事に反応するのが遅れてしまいます。

「……ｷｭ？ｷｭｳｳ〜！…ｳ〜…」
甘えた声をあげて“まってー、まってしー”と呼び止めようとしましたがちびたぬきのヨチヨチ歩きでは追いつけるはずもありません。
太陽光に熱されたアスファルトに、何の躊躇いもなく飛び出してしまいます。
生来の甘えん坊な性格に、先程散々甘やかされたので危機意識が欠如してしまっているのでした。

「………ｷｭｳ？」
やがて走るのを諦めたちびは見捨てられた事が理解できぬまま、首を傾げました。
地面に近過ぎる小さな身体がじりじりと焼かれていてもその場から動きませんでした。
やがて熱くて飛び跳ねたくても、へたり込んだまま立ち上がれなくなってしまったのです。

そのうち、あのしっぽのない大きなたぬきがすぐに涼しい所へ連れて行ってくれるはずだし。

と、いった感じのことを考えていました。
人間という生き物を見た事がないちびは、男のことを大きなたぬきだと思い込んでいました。
有効期限の切れた可愛げを振り撒いてみますが、優しくしてくれる者は誰もいません。
熱くなっていく身体に、緩慢になっていく血流。
「……ｷﾞｪ…ｷﾞｭﾁﾞ…ﾁﾞｨｨ…？」
モチモチしていた身体から水分が抜け、ガサガサになって萎れていきます。
どうしてこんな事になっているのか訳もわからず、長い時間をかけて遠くなっていくちびの意識の中で、親たぬきの事はカケラも思い出される事はありませんでした。


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「見るし…あんな所でちびが死んでるし…」
涼を求め、我が子の手を引いて日陰を進んでいた野良の親たぬきが、道端で死んでいるちびの遺体を見つけました。
俯いて寝ているようにも見えますが、これほどの熱を持つ日向でジタバタもしていないのは明らかに異常なので、すぐにわかりました。
「…あんな風に暑い時に陽の当たる場所にいたらめっ、だし…ちび、わかったかし…？」
「ｷｭｳｳ…」

おともだちが死んでいる事を悲しむちびに対し、親たぬきはちびの死骸を我が子に言い聞かせる為の教材としてしか見ていません。
周囲には、他にも干からびて死んでいるたぬきがたくさんいました。
仰向けにへの字口を結んだまま、ガサガサの肌で一回り小さくなっている豆たぬきの集団や、力尽きるまで暴れ回ったのか、叩きつけた手足をあらぬ方に向けたまま舌を出して動かないたぬきなどが放置されていました。
そんな中で、今いる日陰から次の日陰へと移動しようとした野良たぬきの親子を呼び止める者がいました。
「あの…うちのちびを知りませんかし…？」

成体のたぬきでした。
足元やしっぽは擦り切れてボロボロで、服には汗が染み込んでいます。
相当な間、この暑さの中を歩き回っていた様子が窺えます。

「さぁ…知らんけどし…そこで乾いて死んでるちびならいるし…」
「えっ…し………あ！」
親たぬきがガサガサの手で示した先を見た途端、ぽてぽてと走り出した野良たぬきは日光に晒された亡骸を前にして泣き崩れました。
野良たぬきがずっと探し歩いていた、はぐれてしまったちびが変わり果てた姿で鎮座していたからです。
「あっあっあっ…これ、ちびだし…たぬきの…たぬきのちびだし…！」
カラカラに干からびて何の反応も見せないそれは、確かに我が子の面影を残していました。
「ちびぃぃ…どうしてし、どうしてしぃぃ…………じ、じぃ……」
親たぬきはわんわん大泣きして抱きしめて、貴重な水分を放出し続け───疲れたのか、やがてその場で動かなくなってしまいました。
仲の良い親子のように寄り添った1組の死骸が出来上がります。
たぬきのくせに『人』の字を表すアートのように成り果てていました。


その様子を無感動に見つめていた親たぬきは冷ややかな視線を送りました。
「ばかなたぬきだし…この暑い日にあんなに水分を消費してたら自分も乾いて死ぬし…たぬきだったら死んだちびは見捨てるし…」
そこまで言って、手を握っているちびが強く握り返してくる事に気がつき、口をつぐみました。

「…なんだし。ちび、文句でもあるのかし…」
「……ｷﾞｭ」
こちらを見上げてくるちびは何も言いませんでしたが、明らかに不満を強く示していました。
不和が生じた親子たぬき達はぎくしゃくしながらも、トボトボと歩き去って行きました。
引きずるしっぽの毛は地面の熱でちりちりと縮れ、ぽたぽたと滴る自身の汗でしっぽが濡れて不快な思いがさらに強まりました。

夏はまだ、始まったばかりです。


オワリ

