No.76「目撃」


1匹のたぬきが、土手の上を歩いていました。
見た目は何の変哲もないたぬきです。
しかし、他ぬきを思いやる心を持つたぬきでした。
今日も、うだるような猛暑の中、日陰と食べられるものを求めて彷徨っています。
汗を流しながら歩いていると、ばしゃばしゃと跳ねるような水音が耳に飛び込んできました。

土手を下った草むらの向こうの河川で、あっぷあっぷと溺れながら流されていく他ぬきがいました。
たぬきは泳げない上に水に濡れると力が出ないので、もはや死を待つだけの存在です。
たぬきはかわいそうだし…と思いながら助ける事は出来ませんでした。
たぬきの短すぎる手は届きませんし、飛び込めば二の舞です。
たぬきはどうにか助ける方法を足りていない頭を駆使して知恵を絞ります。
頬杖をつくような仕草で少し考え込んで、しっぽを垂らせば届くかもしれないしと思いついた時には。
溺れている他ぬきは遥か彼方へと流れ去っていました。
たぬきは短くため息をついて、歩き始めました。

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たぬきが熱を持ったアスファルトの上に、汗を垂らしながら歩いていると。
ぽってぽってと、親たぬきの後を歩いているちびがいました。
前を行く親たぬきは痩せ細っていて、身体もあまり大きくありません。
見かけたたぬき自身もそうですが、あまりごはんが手に入らないのでみんなお腹が空いています。
「ｷｭｳｳ〜♪」
ちびは親とのお出かけが余程嬉しいのか、暑さにもめげずにご機嫌な様子で鳴き声をあげています。
ちっちゃなおててを振り回し、よたよたと歩く様子を見ると歩けるようになったばかりのようでした。
親たぬきはあまり振り返らず周囲を見渡しています。
1匹きりで留守番を任せるよりは連れ歩いた方がマシだと判断し、それだけに危険は大きい為ちびよりも周囲に気を配っているようでした。

何かを見つけたらしく、側溝に身を乗り出したちびは通りかかった車が巻き起こした熱風に背中を押され───。
「ｷｭﾜﾜｧｧｧ！？」
ぽてん、と転がり落ちてしまいました。
ちびの悲鳴を聞いて親たぬきが振り向き、歩くちびを見守っていたたぬきも近寄っていきます。

「ちび…たすけるし…」
「……ｷｭ…ｳｳｳ……」
大声を上げられないほどの痛みでうずくまっているちびを助けようと手を伸ばしますが、短い手では届きません。
しっぽを垂らして釣りの要領で助け出そうと思いついたようでした。
たぬきは感心してしまいました。
いつか、川で自分がそうしようとしていた事は忘れてしまっているようです。
あるいは状況ごとに当てはめるという発想が出来ないだけかもしれません。
「ちび…のばすし…手をのばすし…」
「ｳ、ｳ、ｷｭﾜｧｧｧﾝ！」
ようやく立ち上がったちびは泣きながらも親への恋しさに両手を挙げてぴょいんとしっぽにしがみつきました。
「だ…ダヌッ…！？」
ちびの全体重を引き受けた栄養失調のたぬきはそのまま踏ん張りをきかせられず一緒に側溝へと滑り落ちてしまいました。
ちびをお尻で押し潰したのでは、とたぬきは息を呑んで確認しましたがどうやらちびは無事でした。
「ｷｭｳ…ｳｳｳーーー！ｷｭﾜーーー！」
しかし頭を打ちつけたらしく、痛む後頭部を触れずに泣き出してしまっています。
「ちび…しっかりするし……たんこぶできてるし…」
「ｳｱｯ…ｷｭｱｱﾝ！ﾜｧｱｱﾝ！」
「おお…よしよし…よしよし…」
 
ちびを撫でてそのままモチモチと肌を合わせて落ち着かせてから、どうにか脱出できないものか親たぬきは思案しました。
たぬきの丸い手ではどこかに引っ掛けて登る事は出来ません。
思いの外深い側溝と、栄養状態が良くないので大きくない親たぬきの身長で手を伸ばしても淵に届かないという状況が絶望を強く訴えてきました。


「おねがいだし…ちびだけでもたすけてほしいし…」
親たぬきは首への負荷もいとわず、首を突き出したまま自分の頭頂部にちびを載せて抱え上げますがたぬきの身体の構造上短い手でちびを掲げても自分の身長より僅かに大きい程度です。
また引き上げる側のたぬきも腕力が足りず、ともすれば巻き添えに落下してしまいそうな危険性が感じられました。

「あれはダメだし…助からんし…」
騒ぎを聞きつけて側溝を覗き込んでいた通りすがりの他ぬきが首を振って去っていきます。
親たぬきはぶるぶると震え、力尽きて膝を折ってしまいました。
「…ｷﾞｭｳｳｱｱ！ｱｱｱ！」
側溝の底から、見捨てられたと理解したちびの、つんざくような悲鳴が聞こえてきました。

たぬきはどうしたものかと悩んでいると、こちらを見上げるちびと目が合いました。
潤んだ瞳で、まだ喋れないなりに救いを求めて訴えかけてきます。
「ｷｭｳｳ〜…ｳｯ、ｳｯ…」
親たぬきが手を尽くしても駄目だったのに、どうにか出来るわけがありませんでした。
たぬきも悲しい気持ちになりながらその場を後にします。
またもや悲鳴が聞こえてきて、たぬきは耳をぺたんと伏せてしまいました。

ドブ臭い溝の底でどうにもならない現実に押し潰されるように、やがてちびは飢えと高熱で動かなくなってしまいました。
横たわった親たぬきはちびを抱いたまま、諦めて目を閉じ後を追いました。

───後日。
側溝のたぬき親子を気にして、たぬきが通りかかった時の事です。
近所の人が、丸くなって死んでいるたぬきとちびの遺体を火挟で摘み上げゴミ袋に入れて固く口を結びました。
あまりにも簡単に持ち上げて、さっさと放り込む一連の流れをたぬきは何とも言えない表情で見つめた後、やがてトボトボと歩き去りました。


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ある日、空に立ち上る黒煙が見えて、たぬきは発生源を目指して歩きました。
ようやく辿り着いだ先では黒煙を吐き出す民家を囲むたくさんの人だかりと、何かが焦げるような鼻につく匂いが目立ちます。
人間達の足元をなんとかくぐり抜けて、初めて見る火災現場にたぬきは恐怖を覚えていました。

「消防車まだかよ」
「もう誰か呼んだらしいよ」
「この家の人は？」
「隣の人が電話して今こっちに向かってるって」
などと話している人間達の声を聞きながらたぬきが注目していたのは、黒煙を吐き出す部分より下でした。
一階の窓際から見える3匹のちびが身を寄せ合い、泣き叫んでいました。
「ｷｭｳｷｭｳーーｯ！」
「ｷﾞｭｴｪｪｴｴｴﾝ！」
「ﾀｼﾃｹｼ…ｱﾂｲｼ…！」
燃え盛る炎の熱さと、黒煙に包まれる恐怖でぶるぶると震えて助けを求めています。

こんな時に親たぬきはどこにいるのかと見渡すと、家の門扉の近くにしっぽを焦がして地面にへばりついて泣いているたぬきがいました。
「しっぽも燃えたし…やだし…じじ…」
火傷を起こした体からぶすぶすと焦げ臭い匂いを漂わせるところを見るに、とても動けそうにありません。
「たぬきわるくないし…レンジで、おイモあっためただけだし…」
ブツブツと何かを呟くばかりで、我が子の危機に立ち上がれもしない親らしきたぬきを見てたぬきはため息をつき視線をちび達に戻しました。
「ﾁﾞｯ…ﾁﾞﾁﾞｯ……」
「ｹﾞﾎｯ…ｹﾞﾌﾞｫ……」
「ｹﾎ、ｹﾎ！ﾏﾏｧ……！」
黒煙に巻かれ、燃え上がる炎とは対照的にちびたちの命の灯火は今にも消え去りそうです。
　
たぬきはふと、街頭で見たドラマか何かの映像を思い出しました。
近くに置いてあったバケツの水を被って───ずぶ濡れになったたぬきは歩き出せませんでした。
力が入らず、ただの濡れたぬきが一丁出来上がり、ぽたぽたと雫を毛先から垂らしながら窓際を見つめていました。
もしかしたら、涙が混じっていたかもしれません。
いつの間にか、窓際から3匹のちびは見えなくなっていました。
酸欠により気を失ったのかもしれません。
周りの人間達はまるで注目せず、燃え盛る家に光る板を向けているだけです。
助けてあげて欲しいし、とすら言えずたぬきはトボトボとその場を後にしました。
現着した消防車の車輪に、赤黒い何かがこびりついていて、たぬきは辺りを見渡しましたが地面に臥していた親らしきたぬきが見当たらない事に気がつきました。

───後日、火災現場跡から３つの小さな黒い塊が発見され、それが絶望の中で焼け死んでいったちびたぬきであったという事は、誰も気にはしなかったそうです。


　　　❇︎     ❇︎       ❇︎

川の水を飲み、渇きを潤したたぬきのしっぽが、近くでションボリしている仲間の気配を察知しました。
辿った先で待っていたのは、アスファルトに仰向けで倒れているたぬきでした。
「みず……おみず……ぅ…」
今にも干からびそうな様子で、水が欲しいと訴えています。
たぬきは慌てた様子で、しかし大して速度は出せずに川へと引き返して向かいました。

たぬきは困ってしまいました。
あの仲間に水を飲ませてあげたいのですが、掬うものがありません。
容器などを探して辺りを見渡していると、ちびの入ったダンボール箱が流れてきました。
「たしけて…たしけてし…」
人間のいたずらか、親たぬきに捨てられたのか───察する事は出来ませんが、中身を確認する間に助けるタイミングを逃してしまいました。
ダンボールはどんぶらこと岸から離れていきました。
「あっ、あ……なんでし！たしけてしぃぃーーーッ！」
ガタガタと揺れていますが、どうしようもありません。
そうして助け損ね見送ってからあのダンボールに水を入れればたくさん運べたかもしれない事に気がつきました。


結局たぬきは丸い手で少しだけ水を掬い、慎重に歩いてもだんだんと少なくなっていく手のひらの水分に泣きそうになりながら、干からびたぬきの元へと戻りました。
乾ききったたぬきは微動だにしません。
誰にも顧みられないまま、そこにありました。
たぬきは自分の汗だかなんだかわからないほんの少しの雫をだらんと伸びた舌にかけてやると、干からびた遺体を後にして歩き始めました。
口に含んで運ぶという事は、最後まで思いつかなかったようです。


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どうして人間は、あんなにたくさんのたぬきが大変な目に遭っているのを助けてくれないんだろし。
このたぬきはいつも、心を痛めています。

このたぬきは他ぬきを労わり思い悩むだけの心を持ち合わせていました。
ただいくじなしで、頭も足りなくて、何もできないだけなのです。
それ故に苦しみ、悩み、ションボリして生きていく事しかできません。

たぬきはふと、空を見上げます。
茜色から薄紫へと変わり始めた空を、カラスが翼を広げて飛んでいました。
その脚には1匹のちびが掴まれ、弱々しくぶら下がっています。
もう死んでいるのか、スッカリ諦めているのか声も上げられていません。
たぬきが偶然見上げなければ、気がつきもしなかったでしょう。
しかしやはりどうする事も出来ませんので、諦めて目線を正面に戻しトボトボと歩いて行きました。

───この街では、このたぬきが他ぬきの死や危険を見つけるたびにションボリが濃く発露するので、他の地域より多くたぬきが散見されています。
そしてその分だけたぬきが死に、また発生しまた死んでいるのです。
まさか自分が遠因であると思いも寄らず、たぬきは明日もションボリし続けるのでした。


オワリ

