
No.80「必死」

必死でした。
頑丈な住処を持たないたぬき達は、強大な勢力を保ったまま接近してくる台風を凌ぐためにとにかく必死でした。

「お願いですし…開けてし…入れてし…入れてし…」
1匹のちびたぬきをお腹にしがみつかせて、親たぬきが民家のドアを叩いています。
ただでさえ柔らかいたぬきの手は普段でもぽふぽふとした音しか立てませんが、濡れている事で余計に情けない音しか出せません。
たぬきからすれば懸命な声も風雨にまぎれて届いてはいません。
何匹もいた我が子は、すでに1匹となっていました。


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風が唸りをあげ、雨粒が地面にいくつもの直撃跡を描き始めた頃。
のんきに昼寝をしていたたぬき親子は完全に出遅れてしまっていました。

台風直撃によって人の姿が見えなくなった公園───通常はたぬきが闊歩していられる場所ではありません───の遊具の下は他ぬきが占領していました。
しかしそれさえも、濡れそぼった親たぬきが震えながら既に動かなくなったちびたぬきを抱きしめているような状況でした。
どうにかして潜り込める隙間はないかと探しても、あちこちは既にたぬきでいっぱいだったのです。
「ここはいっぱいだし…どう詰めてもちび1匹までだし…」
「入ってこないで欲しいし…」
どこのたぬきも余裕はなく、ドライな対応に見えますが彼女達もまた必死でした。

この親たぬきが育てていたちびたぬきは4匹。
避難を決断したときにはまだどの仔も健在でした。
公園を離れ、ちびを引き連れて歩いて安全な場所を探して歩き始めてから悲劇が起こったのです。


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1番上のちびは風に乗って飛んできた空き缶が額に直撃し、痛みで姉妹の手を離した途端に風に飛ばされ鳴き声も聞こえないままにどこかへ消えてしまいました。

手を繋いでいた姉が風にさらわれる瞬間を目の当たりにしてしまったちびは追いかけてつまずいた拍子に溝にコロコロと転がり落ちてしまいます。
「ｷﾞｭﾝｯ……ｷﾞｭｨｲｲｨｨｨｨ……！…！」
反応の遅れた親たぬきは手を伸ばす間もなく、溢れんばかりの濁流に呑み込まれ消えていくちびを見送ることしか出来ません。
風に飛ばされたちびが居なくなっていたのも、追いかけて溝に落ちたちびがおねぇちゃーー！と悲鳴を上げながら駆け出してから気がついたのでした。


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「人間さん…ちびが川に落ちちゃったし…助けて欲しいし…」
と、声をかけている別の野良たぬきを見て、親たぬきも道ゆく人に声をかける事にしました。
主に、おうちに入れてし…というお願いをするためでした。
「あの…聞いてし…待ってし…」
脛の辺りまで雨水が跳ねるような勢いの中を傘だけで帰路についている人々はたぬきに意識を向けてはくれません。
結果として、散々無視されてしまいました。

「ｷﾞｭｳｳｳｯ！ｷﾞｭｳーーー！」
愛する“まま”が無碍に扱われて怒りだした1匹のちびが濡れた身体のどこにそんな力があるのか、地面に仰向けに倒れ込んでジタバタと駄々をこね水飛沫を跳ねさせて感情を全身で爆発させます。
まだ言葉はわかりませんが、おかしいし！と理不尽に対して怒っているのは親たぬきにも感じ取れました。
それでも誰1人として相手にはしません。
家路を急ぐ車は、路面で動く小さな塊など意に介さず、一瞬で轢き潰してしまいました。

頭は良くありませんが、親想いのちびだったものが辺り一面に散らばります。

悲鳴は轟音にかき消され、親たぬきは一瞬ちびが何処かへ飛ばされたのかと頭を左右に巡らせました。
結局、雨に打たれて揺れる肉片と赤黒いシミが我が子だとわからされてしまいます。
車輪が跳ねた水溜りと血肉を浴びた親たぬきでしたが、止めどなく流している涙もろとも、雨が洗い去ってしまいました。

自分が不甲斐ないばかりに、生育不良を起こして小さかったちび達。
まだ何も美味しいものを満足に食べさせてあげていません。
まだ何ひとつ、大切なことを教えてあげられていません。
まだ、何もかも───。

何も悪い事をしていないのに、何の喜びも楽しみも知らないまま死んでしまった我が子達を嘆きながら、親たぬきは安全な場所を探して歩む足を止めませんでした。
まだ1番幼い仔が残っているからです。
歯も生えていないちびは、への字口をキュッと結んで親たぬきにしがみつきます。
正直歩きにくい事この上ないですが、親たぬきもまた決して離すまいと小さな命を抱きしめました。


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「たぬきをたすけてし！このままじゃしんじゃうし！」
微かに聞こえてきた同族の悲壮な声に気がつき、そちらに目をやるとドロドロの姿で民家のドアをモチュモチュと叩き続けているたぬきがいました。
 泥か糞が判別もつかないものまみれのたぬきに応対する人間などおらず、門扉は固く閉ざされたままです。
「せめてちびたちだけでもいれてほしいし！ちびたちはうどんダンスじょうずだし…！」
たぬきはなりふり構わず必死になってアピールを続けました。
唯一聞き入っていた親たぬきはなるほどし、と納得しました。
こんな状況なら人間にお願いしたほうが助かる可能性は高いと思えました。
でもあのたぬき、1匹だけです。
ちび達がどうとか喚いているのは他ぬきから見ても異様でした。
首を傾げた親たぬきの行く前には、高いところから落下して潰れたようなお肉の塊がいくつか散らばっていました。

自らの経験もあって、何となくそれが何であるか理解した親たぬきは、お腹に抱きつくちびを抑える力を強め、ションボリを深めて歩き始めました。

「どうしてだしぃぃーーー！いじわるしないでしぃぃ！」
ずっと無視され続けていたたぬきは開かずの扉の前で仰向けになり、ジタバタと暴れました。
どれだけ絶叫して手足を振り回しても誰も反応しません。
そう、誰も。
共鳴すら起こらないまるで孤独な状況にふと、気がついて。
たぬきは、がばっと起き上がりました。
「…ちびたちいないし…？どこいっちゃったしぃぃい！」
ｷｭーｷｭーと鳴き声を上げ一緒になって人間に呼びかけていた大切なちび達がいつの間にか居なくなってしまった事に気がついた時には、痩せ細り軽くなってしまっていたたぬきを風が舞い上げて───子供たちの後を追う事になりました。


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次第に強くなっていく雨風でずぶ濡れのちびたぬき達が空腹と寒さに震えながら木の下で輪になってたぬき玉を作っていました。
1番上のちびが先程から元気のない姉妹を励ましますが、モチモチし合おうと持ち上げた手は力無くぽてんと降ろされてしまいます。

“ままー、ままー…どこだしー…”
”おなかすいたし…ごはんちょうだいし…”
“さむいし…”
“みんながんばるし…きっともうすぐ、ままかえってくるし…”

ｷｭーｷｭーと鳴く声に含まれた意味を理解できる親たぬきはとっくに排水溝に流され、この世から旅立っていました。

そんな孤児ちび達にも気がつかず、親たぬきは先程のたぬきに倣ってひとつの民家に狙いを定めたのです。


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親たぬきは必死でした。
しかし、どれほどお願いしても中の人間は出てきてはくれません。
インターホンなんて知らないたぬきはずっとドアをモチンモチンと叩き続けました。
「早く…早く開けてし…！」
どうにかしてこの箱の中の人間に自分達の危機を知らせて、中に入れてもらわなければ。
この箱の中の人間はかなり鈍感らしく、たぬきの懸命の訴えにも気がつきません。
どうしよう、どうしようし───。
強い雨で白くなる視界に焦りながらも他に入り口がないか探し回っていると、玄関口の横にたぬきがちょうど片手で持てる大きさの石を見つけました。
親たぬきはぽかんと開けた口元のへの字を強く結ぶと拾い上げ、

かんっ。かんっ。かんっ。

自分達の前に立ちはだかる壁に向かって打ちつけました。
助かりたい一心を一打ごとに込めて、何度も何度も何度も叩きます。

しばらく打ち続けていると、ガチャリと音がして突如ドアが開かれました。
打ち据えていた目標が消失し、振り下ろした一打を外した親たぬきは迫り出してきたドアにおでこをしたたか打ちつけました。
願いが通じたのか、家主が姿を現したのです。
たぬきはおでこを抑えながら涙を浮かべて、願いが通じた事に歓喜しました。
しがみついていたちびは慌てて後ろに回ったので潰されずに済み、親たぬきを心配そうに揺すっていました。


家主の人間は、しゃがみ込んで顔を上げた親たぬきと目が合います。
「あっ…人間さんだし…やっと開けてくれたし…」
話しかけてくるたぬきが石を持っている事に気がつきました。
家主の人間はすぐさまたぬきを押し退け、扉の正面側に回りました。
確認するとグレーのドアには凹み、白い引っ掻き傷がいくつもつけられていました。
「一応聞くけど、ドア叩いてたのお前か？」
たぬきはコクリと頷いて何故か誇らしげに右足を一歩踏み出して答えました。
「この石いい音鳴りますし…この石あげるから中に入れて欲しいし…」
涙と鼻水まみれの顔をどうにか引き締めて立ち上がると、親たぬきは手にした石を差し出してきます。
家主の人間はちょうど近い位置に出された右足を踏み潰し、後ろにいるちびを無言で摘み上げてドアを閉めてしまいました。
「ギュグウ！？ヒギッ…ダヌゥオアアァーーッ……ア…！ア…！」
激烈な痛みと衝撃的な対応とちびとの別離を一度に処理しきれない親たぬきは“どうして”の声も出せず一時的に言語を失い人間には何も言えませんでした。
ドアが閉じられる瞬間、別れの言葉も交わせなかったちびの泣き顔が隙間から見えた気がしました。

「……ちびだけでも中に入れてもらえたし…よかったし…」
潰された足は出血こそありませんが、確実に骨折していました。
それでも命を取られるまではいかずちびは保護してもらえたので親たぬきはひとまず安堵しました。


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こんな日に侵入を試みていたらしい不届きたぬきのちびを捕まえた家主の人間の行動は迅速でした。
逃げ出せないよう尻尾をちぎって下の服を剥ぎ取り、オムツを穿かせるまで僅かな時間で済ませてしまうのは手慣れた所作故でした。

生ゴミ処理用に三角コーナーに同じような処置を施して座らせていたたぬきが死んだのでちょうどよかった、と考えていました。
オムツは元々たぬき用に用意したものですがちびにはサイズが合いませんのでテープをベルトのようにぐるぐる巻きに留めました。

「ﾁﾞｨﾔｧｧｧ！ｱｧｧｧ゛ｧ゛ｧ゛！」
親と引き離された不安からか、しっぽをちぎられた痛みからかちびは大いに泣き喚き、ろくに歩けなくはしましたがジタバタと暴れ回るのが案外目障りで、前の生ゴミ処理たぬきは大人しかったのだと家主の人間は嘆息しました。
単に野良生活で生ゴミ食に慣れていたのと雨風の危険がないので甘んじていただけで、食中毒で死ぬまでずっとションボリしていたなど家主の人間は知りません。

ちびたぬきでは容量も小さいし、使い物にならないな。
あっちの親たぬきを使えばよかったか。
もう逃げたか、生きては居ないだろうなと肩を落としつつ───家主の人間はちびに親がドアを傷物にした責任を取らせるため縄を取り出しました。

　　
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「ちびは…どうしてるし…」
ちびを連れ込まれて数時間、親たぬきは家の玄関口の屋根の下でじっと雨宿りをしていました。
じくじくと響く足の痛みのせいで動けませんし、何より台風はどんどん強さを増しています。
中に入れてもらえれば嬉しいですが、何よりちびの姿をもう一目見たかったのでした。

濡れていやな匂いをさせる親たぬきの耳がピクンと動きました。
何かが動く音と、ちびの声が聞こえた気がしたからです。
這いつくばって庭に向かったたぬきは潜り込んだ茂みの中から、雨合羽を纏って庭に出てきた家主の人間がちびを何かに結びつけているのを目撃しました。
ジタバタしているちびは、何だか苦しそうに見えます。
親たぬきは雨粒に邪魔される視界の中でもすぐに我が子の異変に気がつきました。
「しっぽ、ないし…」

下半身の服がなく、オムツを穿かされているちびは赤と茶色と黄色いシミの彩りを小さなお尻に添えていました。
家主の人間は強い雨に打たれながらも手際よく、物干し竿にちびの胴体に腕を押さえつけるように巻いた縄をきつく括り付けました。
気をつけの姿勢のまま、プラプラと揺れるちびたぬきは、
「ﾁﾞｨ……」
と一鳴きして、自由に動く首を巡らせて恨めしそうな表情で人間を見つめることしか出来ませんでした。

家主は強風に煽られて振り子のように揺れるちびをカーテンの隙間から眺めて溜息を下げる事にしたのです。
また、このちびをたぬき寄せに使って生ごみ処理用のたぬきをまた適当に見繕うつもりのようでした。
たぬきではどうしようもない高さに吊るされているちびをションボリ見つめているたぬきであれば捕獲は容易だろうと考えのようです。
その時にちびの生死を問う必要はありません。
しっかり固定された事を確認すると引き戸は容赦なく閉じられ、
「ｷﾞｭｪｪ…ｷﾞｨｨ…ｪｪｴｴﾝ…」
というちびの泣き声だけが残されました。


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台風はまだ弱まる事を知らず、雨風は激しさを増してちびは雨晒しの目に遭わされ、必死になって親たぬきを呼び続けました。
「ｷｭｳｳ…ｷﾞｭ……ｷﾞｭｪｪ……」
親たぬきは一度這いつくばったら潰された足の痛みのせいで立ち上がる事もできず、大して雨を防げない茂みの中でぶるぶると震え続けて、ちびの呼びかけには応えてあげられませんでした。


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雨が止んだそこかしこでたぬきやちびたぬきの死体が上がる中、生き残れたたぬきもいました。
ちびを抱いたままずっと家の前で懇願し続けていた別のたぬきは遂にドアが開かれた事に涙しました。
「…ちびを…助け……し……」
どうにかそれだけ搾り出し、残る力で差し出したちびは、とっくに冷たくなっていました。
ちびが助かると判断できた安心感で眠るように息を引き取ったたぬき共々、ゴミ袋に入れられ燃えるゴミ行きとなりました。


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一晩中、暴風雨の元で吊るされて過ごしたちびは鬱血した手足を紫にし痩せた胴体に食い込む縄の痛みで眠れぬ夜を過ごしました。
オムツは黄色と茶色のシミをさらに色濃く浮かび上がらせつつこんもりと膨らんでいます。
やがては縄の痛みに苦しむ声も出せなくなり、ただぶらぶらと風に吹かれて揺れるだけの生き物になってちびは泣き叫ぶ元気もありません。

親たぬきはその場から動かず、茂みからちびの様子を窺っていました。
花壇に生えている色とりどりの雑草やうろつく虫を取って食べて生き延びました。
初めからこうやって、雨が止むまでちびと我慢していればよかった。
いやダメだ、成体の自分ならともかくちびは耐えられなかったと首を振ります。
しかしちびのこの扱いは、人間は可愛らしいちびだけでも保護してくれるものと思い込んでいた親たぬきにとってあまりに想定外でした。
台風が過ぎ去って、雲の隙間から覗くきつい日差しがじりじりとちびの小さな肉体を焼きます。
呻き声も、随分前から聞こえなくなっていました。


助けてあげたい。
想いに反して、助け出す術はありません。
二度と無事に降ろされる事はないであろう我が子を見上げている親たぬきは浅慮を悔いるばかりです。
茂みから様子を窺う自分の姿は、ちびには見えていないようです。
許しを乞おうにも、家主は相変わらず箱の中にこもったままです。


この仔は、必ず死ぬ。
そして、その後は自分も───。
親たぬきは涙を流しながら、見上げ続ける他ありませんでした。


オワリ