No.81「約束の日」


「こいつをさ、預かって欲しいんだ。10日ほど」
座布団の上で胡座をかき、座卓に出された麦茶に口をつけていた男は顔を上げた。
友人が別の部屋から幼いちびたぬきの首根っこを掴み上げて連れてくる。

抵抗もせず、地面に顔を向けしっぽや手足をプラプラと垂らしたままのちびは無気力そのものだった。
激しくジタバタと抵抗したところで、結果は見えているからだ。
この高さから落とされて首が折れたりぐちゃぐちゃに潰れた姉妹の姿も見てきたちびたぬきは、無心に努めていた。

「いいのか、そんな持ち方で」
「ああ、いいんだよ。ちびのうちは。しっぽ持つと嫌がるしな」

───しばらくの間、実家の手伝いでこの家を空けねばならないが長距離移動に身体の小さいちびたぬきを連れて行く事は出来ない。
そこで戻ってくるまでの間、男にこのちびたぬきを預かって欲しいというのが友人からの相談だった。
　
「お礼はするしさ、お前しか頼る相手がいないんだ…いいだろ？」
自分にしか頼めない事と、こんなに小さな生き物の行き場がないと言われてしまえば断りづらかった。
これまでも何度か別のちびたぬきを預かった事もある。
便利に扱われている気がしないでもないが、ちびたぬきは可愛いので少しの間だが独身生活にハリが出る。

摘まれていたちびも流石にケージに入れられる時はぐっと力を入れて堪えるような仕草を見せた。
本来の飼い主と離れるのが嫌なのだろうか。
預かる以上は、上手く関係性を作らねばならないと男は密かに意気込んだ。


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「じゃあな」
親や姉妹を散々痛めつけ、果ては殺してしまった憎き人間が放った一言に、ちびたぬきの耳はピクリと動いたがそれを察知できたのはただ1人だった。
このまま解放されるのだろうか？
それともこの別の人間も自分をいじめるのだろうか？
疑念と新たに芽生えた不安が頭をもたげたちびたぬきは、ケージの中で人間達を見上げながらも少しも鳴く事なく無言を貫いた。


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ケージを持ち帰り、アパートまで徒歩で帰ってきた男性は鍵を開け、ワンルームの我が家に腰を落ち着ける。
座卓にケージをやさしく載せ、その中で体育座りでうずくまるちびたぬきに声をかけた。
「さて…と。今日からよろしくなぁ」
やけに無口なちびは、ケージの中でうつむいたままだ。
への字を結んだ口元を一向に開こうとしない。
全くと言っていいほど心を動かさないちびたぬきにため息を見せないようにしながら、努めて明るく振る舞う。
「まずはお風呂かなぁ」

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ユニットバスの風呂場で洗ってやってもいいが、ちびはまだ小さいのでキッチンの流しで洗ってやる事にした。

風呂場から持ってきた洗面器にお湯を張り、浴槽を用意する。
ちびの服を脱がそうとしたが、気をつけの姿勢で踏ん張っているので、しっぽに水をかけてやると力が抜けた。
恨めしそうな顔でこちらを見上げてくるちびに苦笑しながら、服のような毛皮を破かないよう丁寧に脱がせ、畳んでちびの見える所に置いてやる。
初めて預かった時はたぬきの服が大切な一張羅とは知らず、雑に破いて泣かせてしまった。
本来の飼い主である友人はいいよいいよと笑っていたが、あの時のちびは返すまでずっとはだかのままで、小さな歯を剥き出しにして威嚇されてしまったのが心苦しかったものだ。
申し訳ない事をしたと思いプリンや甘いものばかり食べさせてしまったが、後日あの子はどうしたかと聞くと甘いものしか食べなくなり糖尿病になって死んでしまったらしい。

まずはマッサージから始めようか。
ベビーオイルを取り出して、たっぷりとちびの髪や身体に撫でつけた。
何を塗られているのかわからず警戒し沈んだ面持ちのまま、身体を硬直させているちびの背中を撫でてやる。
歯を食いしばるように無言を堅持しているちびだったが、何度も掌が行き来するうちに気持ちよくなってきたのか、少しずつ緊張がほぐれてきていた。


───かなり人見知りだから、気を遣わせると思うけどかわいがってやってくれよな。
ちびの緊張が解けそうになり、こちらも気を緩めかけた男は友人の言葉を思い出し、細心の注意を払い直す。

力加減を気をつけないと、人間はたぬきよりかなり力が強いらしいから内出血や擦過傷を引き起こしてしまうかもしれない。

初めてで失敗して以来、男はたぬきを預かった時には細かくマニュアルを文面に起こしてスマホに送ってくれていたので特に苦労する事はなくなった。

マッサージで少し柔らかくなったような気がするちびの身体にそっと泡をつけて優しく撫でる。
顔にかからないように留意しながら髪の毛やしっぽの毛を泡に包む。
「目、つぶってるんだぞ」
伝わっているかは判然としないが、男は努めてやさしい声音で言う。
熱すぎない程度のお湯を背面からかけてやり、泡を流す。
花をイメージした芳香だけが残り、ちびたぬきの身体はとても綺麗になった。

お湯を張った洗面器の浴槽に入れてやると、丸まったままで相変わらず一声も鳴かないがほかほかのお湯を浴びて身体を上気させたちびは、ほんのりとほっぺたを赤く染めていた。
毛が濡れた分、ひと回り小さくなったようにも見えるが緊張の緩んだ様子は感じられる。
男はほっとして、タオルで丁寧に髪の毛や身体を拭いてやると、綿棒を取り出して耳の周囲でクルクルと回したり自分の時間をちびたぬきのために惜しげもなくたっぷり使った。


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次は食事だ。
友人から預かった飼育用具一式の中に入っていたちび用たぬフードを皿に盛る。
「ごはんだよ。どうぞ」
エサ皿をちびに見せてから置いてみるが、ちびはケージの隅にへばりついたままで手を出そうとしない。
じーっとエサ皿を睨んだまま微かに眉をひそめ、鼻先をピクピクと動かしているので食欲はありそうだが、果たして。
顔を背けた食べ盛りのちびの身体からは、ｸﾞｷｭｳｳｳｳ〜と、お腹を震わせる振動音が聞こえてきた。
こんなに幼いちびなのだ。
どれだけ意地を張っても、お腹のたぬきは無言を貫くのは難しかったようだ。
「お腹すいてるんだろ、やっぱり」
返事はないが、そうだろうという確信は得られた。

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「たぬフードが駄目なら、こっちはどうだい」
男は手間を惜しまなかった。
くたくたになるまで茹でたうどんを、濃度に気を配った出し汁につけ、取り出して細かく切ったものを出してやった。
これならちびたぬきでも噛まずに飲み込める。
暖かい掌を背にして、弱々しく身体をよじつていたちびだったが、美味しそうな匂いのせいか空腹が限界に達したのか大人しくなった。
男はちびの小さな身体を大切に扱い、ケージの隅からエサ皿の前に移動させた。
ちびはたぬき好みの出汁の香りを捉えて、小さな鼻先をヒクヒクさせている。

「食べるんだ」
強要する響きはなかった。

「食べて、生きなきゃ」
淡々としているようで、やはり優しい声色だった。

ちびはやはり、最初は抵抗した。
口元に食べ物を持って来られても弱々しく首を振り、イヤイヤと身体をよじる。

このちびにとって餌とは、餌皿に顔を押し付けられ無理やり食べさせられるものでしかなかった。
初めはごはんが食べられる事にはしゃぎ、喜んでいると頭を叩かれた。
イケナイ事なのだと学習して、親姉妹を見習い両手を使って行儀良く食べていてもデコピンを後頭部に受けた。

そのうち、ごはんに混ぜられた様々な薬品のせいで姉や母は“だし…”としか喋れなくなったり、しばらくしてから痺れて動けなくなったり───人間が与えるものは即ち毒だという認識を刷り込まれているちびからすれば食事の時間は恐怖でしかない。

警戒心により口元のへの字を強く結び、差し出されたごはんに手をつけずにいると、そのうち餌皿に無理やり顔を押し付けられるようになった。

つらい記憶に支配されてぶるぶる震え出したちびを見て、お腹は空いてるけどこれが食べ物だとわかっていないのかなと判断した。
男はクタクタのぬるいうどんを箸でつまみゆっくりと口に運び飲み込んでから言う。
「ああ、おいしい」
ぬるく、味も薄いクタクタのうどんは人間にとって決して美味なものではない。
それでも男は心底美味しそうに食べてみせた。
これは毒でなく、安全なものだとわかるように。

そもそも、危ないものは入っていないと証明するために、調理工程もちびを桶に入れて安全を確保してから見せてくれていた。
それを眺めていたちびは何より、時間をかけて自分のためにごはんを用意してくれている気遣いが理解できた。

もちろんこれも、友人からの指示によるものだった。
たぬきはうどんが好きだから、見える位置で調理していれば興味を持って食べてくれるはずだよ、と。

ちびたぬきはじっと見つめたまま動かないので、もしかすると見られていたら緊張して食べられないのかもしれないと男はケージから離れる事にした。
火傷する心配はないし、浅い餌皿に麺を盛って出し汁をかけた程度なら顔を突っ込んで死ぬ事もないだろう。

風呂から出てケージの中を確認すると、餌皿が空になっていたのを見て、男は安心した。


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翌日も、ちびは心を開く事はない。
威嚇もしない代わりに押し黙り、
一切のふれあいを拒否し続けていた。
ほっぺたを指で摘んでぷにぷに抑えても何の反応も示さない。
モチモチという接触行為を好むはずのたぬきという生き物に対する認識が揺らいでしまう。
まるでちびが生きる事すらも望んでいないかのような錯覚すら覚える。

それでもこのちびはおもちゃの人形ではない。
呼吸をし、お腹をすかせ、生きている。
この幼さでこれほどまでに頑なに心を開かないのは困り果てたが、生きる以上は他の命と関わっていかなければならない。

男は過去の経験からたぬきというのは初めはあまり人に懐くものではないと思っていたので辛抱強く接した。
ただ、ちびに癇癪を起こす気力や、噛みつきに使えるような歯が無いことはお互いにとって幸いだった。

結局ちびは容易には懐かず期限付きの時間だけが悪戯に過ぎて行った。
バイトで家を空けねばならない時にはエサ皿と給水器の中身をしっかり補充して出ていけばきちんと減っているしウンチも所定の場所で行なっている。
心なしかケージの中に置いていたボールやおもちゃの配置が変わっているのを見るに自分がいない間はリラックスして過ごしているのかもしれない。

実際には男がいつ戻ってくるか怯えながらエサや水を口にするため動いた時にボールやおもちゃに身体を当ててしまい、慌てて直して寝床に逃げているのを繰り返しているだけなのだが男が知る由もない。
男が家を空ける事すら、油断させるための罠だと思い込んでいた。

男は焦る事もなくちびたぬきのお風呂も食事も最初に来た時と同じ丁寧さを保ち、一時も手を抜かなかった。

友人からの連絡に申し訳ないけどまだ苦戦している旨を伝えると“そいつは特に人見知りだからな”と期待に添えない事を特に責める素振りも見せない。

いくら打ち解けていないと言ってもあまりに身体を動かさないでいると成長を阻害するので遊んでやってくれと話を締めくくられてしまった。
「ちょっとだけ、外に出ようか」
ちびにとっては広い部屋の中の方が落ち着かないかもしれないが、案外身体を動かしているうちに気にしなくなるかもしれない。
人間も身体を動かしているうちに余計な事は考えるなくなるものだ。
あくまで人間の基準に従って、男はちびをケージから出す事に決めた。
嫌がってケージにしがみつこうとするので、若干無理やりではあるが外に出す。
スポイトでしっぽに水を垂らすと、ちびたぬきの手から力が抜け背中を優しく摘むとむにっとした感触に心地良さを覚えながらちびが気持ち良くなるようなポイントを探る。
スキンシップを繰り返し、少しでも歩み寄れるよう辛抱強く接し続けた。

気分を変えようと、ちびを撫でる手を止めて箱からある物を取り出す。

じっと動かないちび目掛けて、箱から取り出したボールを転がす。
スポンジ製のそれはゆるゆると転がっていきぽてん、とちびの背中に当たる。
振り返ったちびは、不審そうな目で転がり離れていくそれを見つめていた。

痛くない。
このニンゲンがしてくる事は、自分にとって痛みを伴わない。
騙そうとしているにしては、手間をかけすぎていると直感的に悟っていた。

あの酷い事しかしない人間はもう現れない。
だとしたら、本当に自由になれたのかも。
それは、ちびたぬきがずっと待ち望んでいた状況だった。
本来なら手放しで喜び、生を謳歌したい所だった。

少なくとも、ここはあたたかい。
この人間は、やさしい。
辛抱強く自分に向けられ続けるやさしさに応えるためにどうすればいいのか、ちびは考えた。

「ｷｭｳ」

小さく鳴いた。
男は聞き逃さなかった。
生きている事を主張するように、ちびが鳴いたのだ。



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「ほら、ちび。いくぞー」
「ｷｭｳｯ…」
男がちびたぬきに向かって転がしたのは、柔らかなスポンジ製のボールだ
転がる勢いもそれ程出ず、たぬきのモチモチの肌を傷つけることもない。
その軽さ故にちびの力でも押して転がす事ができる。
ともすれば自らが歩くより早い速度で転がるボールを、自分の力で押し出せる満足感に、ちびは興奮を抑えて切れていなかった。
そのうち自分で押して転がしたボールをヨタヨタと追いかけ、ｷｭ〜♪と鳴いて全身で抱きつく様子はかわいらしいの一言だ。

友人がケージと共に貸し与えてくれたおもちゃは、元気になってきたら使わせてやってくれと言われたので1週間も箱の中だった。
ウレタンで出来た積み木や、プラ製のおままごとセットまである。
赤色のミニカーはまんまるいフォルムでどことなくたぬきのようだなと男は微笑んだ。
やっとこれらを使って、存分に遊んでやれるなと安堵したのだった。

ちびたぬきも本来はまだまだ甘えたい盛りで、同族が近くにいないならば人間の庇護者に頼るのは自然な事だった。
警戒心の塊だったちびも、ようやく心を開いてくれたらしい。

「ｷｭｳｯ！ｷｭｳ〜♪」
トントントン、と音を立てる男の手の動きを真似ておままごとセットで調理のような所作まで見せ始める。
道具を理解して使いこなすなんて、かしこいちびだと感心してしまった。

食事を摂る前はモチモチと手を合わせて神妙な面持ちでｷｭｷｭー…と鳴いたり、男のことをよく観察し、再現しようと工夫する賢さも感じられますますかわいく見えてくる。

ウレタンの積み木を好きに積んで、自分より高くしてみせると、
「ｷｭｳﾝ…」
まるで“どうだし…できたし…”と言っているように若干誇らしげなそぶりで胸を張る。
「すごいすごい」
男が軽く拍手をして心底感心した様子を見せるので、ちびは口元をV字に変えて頬を染める。
創意工夫とこちらの反応を窺う様子から鑑みるに元来の性格はやっぱり賢く、人懐っこいのかもしれない。
男は今回のちびは付き合うのが大変だった分すごくかわいいな、とこれまでにない充足感を味わっていた。


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ちびたぬきは、健やかに成長していた。
本来の飼い主に成長を抑制する薬を打たれていた為、喋ることは叶わなかったが様々な動きで感情を表現するようになった。

もういじめられないんだし。
ここならちびは、楽しいし。

親や姉妹は教える余裕もなく、生まれてから見たことがなかったのでうどんダンスは踊れなかったが、本能によってリズムに乗って身体を動かすことを好んだ。
手をバンザイしたり下ろしたり、胸の前でぐるぐるとかき混ぜるような動作と、おしりをふってしっぽを揺らすぐらいしか出来なかったが、男はそれでもすごいすごいと褒めてくれた。

ちびは承認欲求が湧き上がり、ますます動きを覚え工夫するようになった。




当初は濡れるのを嫌がって泣いていたお風呂も大人しく受け入れるようになり、洗う際に触れてやると掌を通してちびの身体がトクントクンと高鳴っているのが直に感じられる。

お風呂の後はスキンシップを兼ねたマッサージも欠かさない。
ちびはすっかり男の掌の上で撫でられる事に至福を覚えていた。
そもそも、初めの頃も意地を張って我慢していただけで本当は気持ちがよかった。
嬉しかった。
人間のすべすべした手で撫でてもらったり、気持ちの良いところを探してもらうのはくすぐったくてあたたかかった。
朝でも昼寝の後でも、目が覚めれば男の手を求めて歩み寄り、差し出された指先に頬擦りするようにまでなっていた。


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「お、そろそろ寝るかい？」
「…ﾑｷｭ……」
1日中男と遊んでいたちびは頭を振りながらも眠気には勝てずに、ぐしぐし…と目をこする。
まだまだ遊びたいけれど、“飼い主さん”はきっと明日も遊んでくれる。
また、明日。
そう思ってちびは柔らかなタオルにくるまって眠りについた。


───その日の夜。
ちびたぬきは夢の中では自分より小さなちびとボールを追いかけたり、他の同い年ぐらいのたぬき同士で追いかけっこをして遊んだ。
積み木を重ねてたぬきのおうちを作ったり、かと思えばボールを当てて崩すなど気ままに過ごした。
現実とは違って思い通りの振り付けでうどんダンスを踊っていると、いつの間にか生き別れた姉妹や生死の不明な親たぬきまで輪に加わっている。
みんなで歌をうたい、追いかけっこや隠れんぼに興じた。
楽しい時間。
起きていても、寝ていてもちびは幸せだった。

そしてこれが、ちびと男が別れる直前の日の総てであった。


　　　❇︎      ❇︎      ❇︎

今日も男と気が済むまで遊ぼうと思っていたちびは、男の手で優しくケージに入れられてしまった。
「ｷｭｳｳー？」
どこかへお出かけだし？
ちび、広い所でボール遊びしたいし…！
とワクワクする気持ちを抑えきれず、上目遣いで“飼い主さん”に問いかけるつもりで顔をあげる。

───ぴた。

見上げて、ちびが動作を止めた。
呼吸をするのも忘れ、声を失った。
もう出会う事はないと、記憶の奥底に沈めていた人間の顔がそこにあったからだ。
どこか下品な口元と、汚泥を詰めたように濁った眼差しがちびの視界を埋める。

「ｷｭ…ｷﾞｭｳ？」
なんでだし…。
どうしてだし？
もうばいばいしたはずだし？
ここには、きちゃだめだし…。
やだし…やだし…。

ちびは顔を青くし始める。
額やこめかみに冷や汗が浮き、たまったものが流れ落ちる。

「ｷﾞｭﾜ…ｱｱｱｱーーー！ﾌﾞｱｯ…ﾁﾞｨｨｨ！」
“いやっ…いやぁぁああし！”
受け入れがたい現実を覆そうと必死に叫び声を上げた。
ちびたぬきの短い手では頭を抱えようとして果たせず、耳を伏せたまま丸まって震えているしかなかった。
「おーおー、すっかり懐いたみたいなのに悪いな」
「いや…飼い主はお前だし」
「…ｷｭ！？」
信じられない言葉を捉えた耳をピン！と尖らせて、ちびが驚愕の声をあげた。
「まぁなー。久々だから恥ずかしがってるのかな」
そういうものか、と男はケージの中のちびを見遣った。
「…ｷｭﾝ…ﾁﾞｭｳﾝ……！」
ちびは両手で顔を覆ったまま泣きじゃくっている。
なんだかこちらまで別れが惜しくなってしてしまうな、と約束の期日を迎えた男は顎に手をやった。


「あのさ…」
男が言い淀む様子を見せ、友人は視線をちびたぬきから戻して応じる。
何も言わず、男の言葉を待つ。
男が言葉を選び続ける限り終わらない無言の空気の中で、ちびが鼻水を啜る音だけがやけに大きく鼓膜を打った。


「どうした？」
訝しむ友人に対してこの子を譲ってくれ、とは言えなかった。
あと一歩を踏み出す事が出来ず、男は情が湧いたちびとの別れを受け入れてしまった。

「…なんでもない。あのさ、たまにはそいつに会いに行ってもいいかな？」
「いいとも」
それが友の精一杯の譲歩だと理解した友人は、表情を変えずに答えた。
まるで収監された服役囚のようなちびはケージに手をかけて泣き喚く事もなく、ただただ震えながら、こちらに手を振る男を見つめていた。

もう会えないんだし…。
ここが、自分の居場所じゃなかったなんて。
やだ、やだ、やだし。
あそこには行きたくないし。
こんな事なら、もっとあの人に甘えれば良かったし。
お願いですし。
どうか、どうか許してくださいし───。

あれだけ跳ねていたちびの心は重石を載せられたように沈み込んだ。　


　　❇︎      ❇︎      ❇︎

「さて」
ケージが無造作に置かれる。
床との距離があったため、落下の衝撃でちびは一瞬ふわりと浮いた後にケージの底に叩きつけられた。
「ﾁﾞｯ…」
悲鳴をあげれば余計に行為がエスカレートすると無自覚に学んでいたはずなのに、楽しい日々で無垢な心を取り戻したちびたぬきはすっかり忘れていたらしい。

「アイツから聞いたよ。お前のこと、いらなくなったんだって」
「………ﾁﾞ……」
本来の飼い主は、友人である男の言葉を勝手に代弁した。
ちびの頭では信じたくなくとも、ここに戻されたという事実が実感を伴わせてしまっていた。


言葉責めが効いたらしく、ちびは頭を抱えて小刻みに震えている。
“コイツには”他人に預ける前提で生まれてから肉体的な欠損は与えていない。
代わりに親姉妹はしっぽを抜いて歩けなくしたり足を折ったり高所から叩き落としたり色々やった。
自分以外の家族が傷つけられ、人間への不信感がいっぱいになったところで、アイツに預けたのだ。
今ではもう全ての親姉妹がこの世にはいない。
このちびを預ける前に大体死んで、生き残りもちびを回収する前に死に絶えてしまった。


今回のちびは肉体的な苦痛よりも精神的な苦痛を与えてやるのが目的だった。
そしてそれは、預けたアイツが優しい程に強烈な毒になると信じていた。
ケージの中で絶望の底に叩き落とされたちびを見ていると温泉を掘り当てたかのようにアイディアが湧き続けた。



男からのお別れの言葉を書いた手紙を預かってきたと宣言し、読まずに破り捨てた。
もちろんただの白紙だ。

文字が読めなかろうが、ちびたぬきは破片を拾い集めようと必死だった。
「ﾝｷﾞｯ…ﾁﾞｨﾔｱｱｱーーーー！ｱｱーーーーーｯ！」
集めきれない紙片を残らず掃除機で吸ってやると、このちびから聞いたこともないような大声で泣き叫んでくれた。

よかった。
感情は死んでいると思ったがアイツのおかげで取り戻せていたみたいだ。
よっぽどかわいがってもらったんだなぁ…。


「アイツはもう来ないよ」
「ｷﾞｭﾁﾞｨｨｲ！ﾌﾞｨｨｨ！」
お前の毛が臭いから、手にいやな匂いがつくから捨てたんだと説明してやると、ちびは涙を浮かべながら頭やしっぽの毛を自分で毟りだした。

「……ｯｸﾞ……ﾋｸﾞｯ…」
所々ハゲてしまったちびはｽﾝｽﾝと泣きながら男との再会を待ち望み続けた。
飼い主は肉体的に虐めてもまた無気力に戻るだけだと思っていたので、精神的な責め苦を続けた。

どうして嫌いになったのか、ここに戻されたのかという事を徹底的に教えるため録音したアイツの音声を聞かせてやった。
録音が再生され、聞き覚えのある声に反応したちびの耳がピクク…と揺れる。

『いや…誰だって嫌いだろ、あんなの。触りたくない…っていうか見たくもないよ。もし見かけたら？速攻で潰すかな…スリッパで叩いてもいいし、洗剤が効くらしいし泡責めがいいんだよなー』

ゴキブリについてどう思うか？という質問の答えだった。
質問の部分は編集して切り取ってある。
何度も耳にした聞き間違えようの無い声で、おそらく自分の事を言っているのだと錯覚したちびはうつ伏せのまま震えていた。

生きる事を諦めていたが、心の底では誰かに甘えたかった。
可愛がって欲しかった。
一度男のあたたかさに包まれてしまったちびはどんな責め苦よりも、寂しさを厭うようになっていた。

それからはスリッパをケージの傍に置いてやるだけでビクリと身体を震わせ、お風呂は泣きながら嫌がるようになった。
無理やり泡に包んでやれば綺麗にされたはずが、仰向けで過呼吸を起こしている様子は打ち上げられた魚のようだった。
「………ｾﾞ､ﾋｨ……ﾋﾟｷﾞｨｨ………」

それでもちびは“飼い主さん”との再会を夢見ていた。
最期の、その時まで───。


　　❇︎      ❇︎      ❇︎


「よう。会いに来たよ」
男は友人がリビングに出してくれたケージの中でゴロゴロと寝そべっていたちびたぬきに声をかけた。
「ｷｭ……？ｷｭー♪」
ちびたぬきは来訪者に気がつくと甘えるような声をあげ、両手を差し出すようにしてぴょんぴょん飛んでいる。大して浮いていない。

別れ際の大泣きが嘘のようにすっかり元気な様子だ。
預かっている間、あれだけ食べたのにあまり大きさが変わらなかったからか、今もあまり成長していない。

「元気になってよかったな」
「まぁな」
「抱っこしてもいいかな？」
「ああ、いいよ」

「ｷｭｳｳ〜…♪」
ちび特有の高い体温が、掌にじんと伝わってくる。
ああ、やっぱりちびはかわいい。
元気そうでよかった。

安心した様子の男を見て、友人もまた安堵した。
男には、たぬきの見分けがついていない。
あのちびはとっくに死んでいる。
やさしさもぬくもりも上書きするような責め苦の果てに、男との再会を渇望しながら死出の旅路へと放り出されたのだ。

今、男の掌に体重を預けて小さな手足をバタバタさせているのは、3日前にポップしたちびだ。
『まだ』何もしていないので、人間に対する警戒心は希薄だ。
純真さと好奇心の塊のような、まっさらなちびだった。

時間が出来たので会いたいという連絡が来た時、どう説明しようかと思案していたらリポップ誘引剤に引き寄せられてここで生誕したちびだ。
もしかしたら、あのちびの生まれ変わりかもしれない。

男は気づいていない。
今、自分が愛でているのはなんの縁もゆかりもないちびたぬきだと。

ちびたぬきは気づいていない。
今、自分を愛でてくれているのはなんの縁もゆかりもない人間だと。

これから本来の飼い主にどんなひどいことをされるのか、その前フリのためだけに可愛がられているという事を知らない。


数いる預け先のうち、最もちびを大切に扱ってくれるのはこの男だった。
あいつに可愛がられたちびは、連れ戻されるだけで死にそうな悲鳴をあげてくれる。

ばかなやつは“いつかまた迎えにしてくれるし…”とあり得ない希望を抱いて死んでいく。
賢いやつは再会が叶わぬと絶望して死んでいく。

「ほんと、持つべきものは友達だよな」

真実を知るのは1人だけ。
しかしこの場においては、全ての人間とたぬきが幸せな気持ちでいられたのだった。


オワリ


