No.83「逢魔」


不意に強い風が吹いて、用意が不十分だった薄着の身体を震わせた。
空を仰げば紫色が視界を埋め、陽が落ちるのも早くなってきたものだと感じられる。
歩み進む国道の左を向けばなだらかな山と畑、右を向けば住宅街というやや寂れた感のあるベッドタウンを通り、家路へと急ぐ俺の耳に聞こえてきたのは軽やかな音色だった。
「ﾋﾟｭｲ〜♪ﾋﾟｭｲ〜♪」
1匹のちびたぬきが、柵にもたれかかり口をすぼめて口笛を奏でていた。
ションボリしてる癖にどこか得意げな様子だ。
おかげで機嫌がいいのか悪いのかわからない。
ふと、帰宅への歩みを止めて薄暗い空の下で口笛を吹くちびたぬきに視線を注いでしまった。

すごいなぁ、あのちびたぬき。
たぬきの口の形で器用なもんだ。

「ﾋﾟﾋﾟ〜♪ﾋﾟﾋﾟ〜ﾋﾟ〜♪」
ちびたぬきは何が楽しいのやら、飽きもせず口笛を吹き続けている。
「ちび…こんな所にいたし…もう晩ごはんの時間だし…」
茂みをかき分けて、ぬっと現れた親らしき成体のたぬきが髪や身体中を葉っぱでデコレーションしながら現れる。
国道を挟んで山側に住むたぬきらしい。

この周辺のたぬきは住宅街には住処を構えていない。
害獣対策のなされている畑には足を踏み入れず、時々国道を渡って自治体によって対策のまちまちなゴミ捨て場の生ゴミを取りに来るぐらいだ。
今日も国道には行き交う車によって何度もすり潰されて原型の残らないたぬきだったものが散見される。
時間が経てば烏が死骸をついばみ、残りは雨で洗い流される事だろう。
確か今夜は雨の予報だ。

「…ちび、また口笛吹いてるし…」
「ﾋﾟｭ〜ﾋﾟｭｳ♪」
家を抜け出した口笛ちびを心配して探しにきていたらしい親たぬきは口笛のおかげですぐ見つけられたのだろうが、呑気なちびは口笛で返事をする。
「それどうやってるし…訳わかんなくて怖いからやめてし…」
親たぬきは仔の特技に感心というより畏怖の情を抱いているようだ。
口笛ちびは首を振り、口笛で返事をした。
「ﾋﾟﾋﾟ〜…♪」
「お前そんなんだからお姉ちゃん達からも仲間はずれにされるし…」

口笛ちびは流石に親の言い草にムッとしたのか口笛をやめて、への字口を思い切り強くした後、口を開き両手を挙げて抗議らしき様子を見せた。
「ｷｭｲｷｭｲ､ｷｭｲ…」
「なんだし？…特技を披露してれば珍しいたぬきとして自分だけ飼ってもらえるかもしれないし…？」
「ｷｭｲｯ…」
「一理あるし…それはそれとして自分だけ、ってお前性格わるいし…引くし…」

「ﾋﾟｭｳ♪ﾋﾟｭﾋﾟｭｲ〜♪」
ちびはどこ吹く風といった様子で口笛吹きを再開する。
「やめるし…帰るし…」
「ﾋﾟﾌﾞｭ…ｷﾞｭ！ﾁﾞｭｳｳｳｳ！」
「じゃますんなしじゃないし…ほら帰るし…」
しっぽをピンと逆立てて反抗的な態度でジタバタと手を振り回し地団駄を踏む口笛ちびに、親たぬきはすっかり困り果てている。

このちびが口笛でうどんダンスの曲を吹いて姉妹が踊れば結構いい見せ物になりそうだし飼い主も見つかりそうなものだが、どうも残念ながら姉妹仲は良くないようだ。

変なもの見たな。
そろそろ帰ろう。

止めていた足を踏み出すと、
「…！？ﾋﾟﾋｭｲｰ！ﾋﾟﾋｰｯ！」
ちょっとこちらに期待していたらしいちびがムキになって口笛を更に強める。

そんな頑張ってアピールされても、夜中にﾋﾟｨﾋﾟｨ吹かれたら近所迷惑になる。
親たぬきみたいにやめさせようとして歯向かわれるのも嫌だ。


───なんか、静かになったな？

口笛ちびはどうして口笛をやめてしまったんだろうと振り向くと。
いつの間にか背後から忍び寄っていたらしい蛇に巻きつかれ、その小さな体躯を絞めあげられていた。
「ﾋﾞ…ｷﾞｪｼ…」
ちびの体格では抜け出す事も叶わず、顔だけ出してプルプルと震えるのが精一杯の抵抗らしい。
口笛どころか、苦悶のうめきも満足にあげられなくなってしまったようだ。
この辺は半分山だからたまに出るんだよね、蛇。
もっと小さいちびたぬきだと丸呑みにされるらしい。
親たぬきに助けを求めながらジタバタしている所を巻きつかれ、全身の骨を折られてから呑み込まれていくちびと喉元が膨らんだ蛇の動画を見た事がある。
このままだと動画の再現になりそうだ。


「えっ…ちび！？あああし…へびこわいし…どしたらいいし…！？」
ショックのあまり無我に陥っていた親たぬきが仔の危機に慌てふためいている間に、別の茂みからホクホク顔の他ぬきが現れる。
両手には生ゴミの詰まった袋を抱えていた。

「ししし…いっぱいあったし…これで今夜はごちそうだしぃ…♪」
「……あっ！どろぼうだし！それたぬき達の晩ごはんだしぃぃ！」
見覚えのある袋と中身に再び驚き、その場でぴょんと跳ねる。
大して浮いていない。

興奮する親たぬきに見咎められた他ぬきは開き直るでもなく、申し訳なさげに答えた。
「えっ…このごはんは空き家に捨てられてたし…誰もいなかったし…ちびいたならごめんし…」
「えっ…お留守番してたはずだし…ちび達はどうしたし…？」
「知らないし…ちびいないならたぬきがもらっていくし…これだけあれば動かなくなったうちのちびも喜んで起き上がるし…」
確かめたいが、さりとて危機的状況にある口笛ちびから離れられない親たぬきの脇を通り抜けて山へと入っていく泥棒たぬき。
その後ろには、無言のちびたぬきがぞろぞろと付いてきている。
暗くてよく見えないがそのちび達はやけに薄ぼんやりして脚がなかった、気がする。
え…マジ？


風に紛れてガサガサっとした音と枝を踏み折る音が聞こえてきて、思わず緊張した身体がこわばる。
次に茂みをかき分けて出てきたのは───上はドライ生地のパーカー、下はハーフパンツにレギンスという出立ちのいわゆるキャンパーといった様子の男性だった。
今日はやたら茂みから何かが出てくる日だな。


「いやーちょうど良かった。野良のちびはいい着火剤になるんだよな」
国道の左の山には余った空間を利用したキャンプ場がある。
たぬきは脂肪や毛のおかげでよく燃えるし変な煙も出ないので手荷物や焚き火の手間を減らしてくれるとの事でキャンパー達に人気があった。
定期的にやってくるキャンパー達がその辺を歩いている野良たぬきを捕獲し、手足やしっぽをもいで炎に投げ込むのでこの周辺でたぬきが増えすぎない一因にもなっている。
これから雨らしいのに、豪気な人だなぁと感心してしまった。

コンビニ袋の中で揺れているのは、入れられてしまったちび達だろうか。
袋を突き破ろうと、頭や手らしき何かがあちこちに張り出している。
袋の口は固く結ばれていて、脱出は不可能だろう。
くぐもった悲鳴のようなものが聞こえる。
「ﾁﾞｨｨ！ﾋﾞｨｴｴｴ！」
「ﾔﾀﾞｼｯ…ﾔﾀﾞｧｧｼｨｨ！」
「ﾏｧ！ﾏ､ﾏｧ！ｱｱｰｯ！」

「あっ…ちび…だめだし…！これから色んなこと教えなきゃいけないんだし…」
親たぬきは去っていく人間と蛇に巻きつかれた口笛ちびを見比べて───どうしようもできず立ち尽くすしか無かった。


突然、大きな木の枝がガサガサと揺れ始め、吹き荒ぶ風には雨粒が混じり出した。
そういえば降雨開始の予報が早まったらしく急な雨風に注意ってスマホに出てた気がするな。
早く帰らないと。

「に、人間さん…ちびを…助け…」
絞殺されそうになっているちびがウェロロロロロと嘔吐を始め、その中に赤いモノが混じっていることに気がついた親たぬきは意を決してこちらに話しかけてきた。
ここらのたぬきは普段なら人目を避けて暮らしているので人間に恐怖を覚えているはずだが、我が子のために勇気を振り絞ったらしい。
見上げた親たぬきだ。

獲物を捕らえた蛇はちびへの絞めつけを緩める事なく───シューッ、シューッと威嚇を始めている。
怖っ。
ごめん、俺にはそんな勇気ないや。
関わり合いになりたくないので親たぬきの呼びかけには聞こえないフリをした。

そういえば、夜に口笛を吹くと起こる悪い事があったなぁ───。

蛇が寄ってくる。
泥棒がくる。
幽霊が現れる。
人さらいがくる(この場合はたぬさらいか)。
嵐がくる。

すごいなぁあのちび。
コンプリートしてるよ。
やっぱたぬきが特技なんて身につけるもんじゃないな。
俺も夜に口笛吹くのはやめよう。

強くなってきた風を背に受けて、家路を辿る足を早める。
背後から何らかの悲鳴が聞こえてきた気がしたが、すぐに風の音に紛れ聞こえなくなった。

オワリ