

No.45「飼い主」


「ｷｭ…ｷｭ？ｷｭｳｳ…」
“まま、こんにちはだしーーー”
たぬ木の実から産まれたばかりのチビたぬきは外界の眩しさに顔をしかめながらも、鳴き声をあげます。
本能的に、天から自分を覗き込んでいる目の前の存在をそう呼びました。
チビたぬきは、鳥類の刷り込みと同じように目の前の自分より大きな存在を母親だと思い込むように出来ています。
しかしーーーままではない、自分は飼い主だ、とやんわり否定され、チビたぬきは生まれて10秒ほどでションボリとした気分を味わうことになりました。
「ｷｭｳ…ﾝ…」
ままと飼い主の違いがよくわからないチビたぬきでしたが、匂いを刷り込むために頬をモチモチしてもらうと、その心地よさに包まれて、先ほどの疑問は何処かへと流れ去ってしまいました。
柔らかくて小さな手が、チビの身体のあちこちをくすぐります。
「ｷｭｷｭｯ♪ｷｭｳｯ…♪」
やはりまだ子供ですので、世の厳しさを知らないチビたぬきは甘えた声を上げました。


チビたぬきが存在を許された空間は透明な壁に囲まれていて、飼い主さんはずっとこちらを見ています。
台の上に置かれた箱の高さは、飼い主さんの胸の高さぐらいで、飼い主さんが覗き込むとチビの頭上は飼い主さんの優しそうな顔でいっぱいになります。
もっと近くで、飼い主さんに抱っこされたり触れてみたいとチビは思いました。
「ｷｭｷｭ〜…ｷｭｳ！」
“そっちへ行きたいし！”
と、壁の中から出してほしいと訴えると、それはできない、と首を振られてしまいチビはますますションボリを深めます。
しかし代わりにたくさんモチモチしてくれるので、チビはまたもや甘えてその身を委ねました。

「あんた、ちゃんと最後まで育てられるんでしょうね？」
「…ｷｭ…ｯ…？」
飼い主さんとはまるで違う、手足の長い生き物が突然現れて、チビたぬきはビックリしました。
大丈夫、と飼い主さんは振り返らずに返事をしてまたモチモチを繰り返します。


そのうち、飼い主さんはモチモチをやめて、しばらくチビたぬきを観察し始めました。
透明な箱の中で、自由になったチビたぬきが最初に取った行動は。
自分がたぬ木の実の果汁に濡れていたのを気にして、手をペロペロと舐め始める事でした。
けれど、手や舌の届かないしっぽの付け根や背中はどうしようもありません。
特にしっぽが濡れているのは元気が出ないので、落ち込みながら先っちょだけでも舐めていると。
急にふんわりとした何かに視界を遮られ、チビたぬきは驚きの声をあげました。
「ｷｭ…ｷｭｴ…」
飼い主さんが、よしよし、と小さな手を使って、やわらかい布で身体を拭いてくれたのです。
「ｷｭｷｭ…ｷｭｳｳﾝ♪」
チビたぬきはくすぐったそうな声をあげました。
かわいい、と言ってもらえてさらに嬉しい気持ちが込み上げてきました。


しかし、だんだん拭きにくい所や汚れの取れにくい場所へと到達すると。
勢いが増し、拭き方が雑になっていきました。
「ｷﾞｭ…ｷﾞｭﾍﾞ…」
もみくちゃにされて、短く悲鳴をあげますが飼い主さんには伝わっていないようでした。
チビは、息苦しそうにしながらも何とか耐えていました。
「あーあ、やっぱ下手くそなんだから」
飼い主さんはうるさげにため息をつきながらも交代し、手足の長い生き物が布を手にすると、丁寧に、かつ素早く拭きあげられたチビの果汁濡れの身体が綺麗になっていきます。
「ｷｭｳﾝ…♪ｷｭ､ｷｭｷｭｳ…」
この生き物も悪いやつじゃないな、と幸せな気持ちになって、チビはうとうと、まどろみ始めーーーお昼寝を始めました。
拭くのに使った布と別の柔らかい布をかけてもらって、安心したチビたぬきはしばし眠りの世界へと落ちていきました。


目を覚ましたチビは、まだ眠たい目をこすりながら、足を投げ出して座り、ゆらゆらと身体を揺らしていました。

そのうち、ｷｭﾙﾙ…とお腹のたぬきが鳴き始めたので、チビたぬきはのっそり立ち上がると両手を上げて、
「ｷｭｷｭｳ…ｷｭー、ｷｭー…」
“おなかすいたし…ごはんちょうだいし…”
と訴え始めました。
飼い主さんが出してくれたのは、チビたぬき用たぬフードです。
まだ生まれて間もなく、歯が生えていないためカリカリタイプは食べられないので、しっとりとした成形キューブタイプを与えてくれました。
お皿にはお水を入れて、いつでも舐められるようにしてくれています。
キューブに顔を近づけてクンクンし…と匂いを嗅いで。
これは食べられるものだ、むしろおいしそうだと判断したチビたぬきは。
「ｷｭ…！」
“たべるし…！”
置かれたキューブを持ち上げ、自分の座っていたスペースへと運びます。
まだ足腰が弱いので、何度もフラフラしながら運び終えました。
そのままぺたんと座り、両手で抱きしめたキューブをペロペロと舐めて分解し、少しずつ飲み込んで食べ進めます。
時々、誰かに取られないかキョロキョロ辺りを見渡してからキューブを置くと、お水のある皿まで向かいこちらもペロペロと舐めました。
ごはんを誰にも奪われない事に安心し、ゆっくり食べ終えたチビたぬきは、いつの間にか飼い主さんの姿が見えなくなっていたことに気づき、不安げに鳴きました。
「ｷｭ…ｷｭｳ…？」
“どこだし…？飼い主さん…”
箱の端、壁の直前までヨチヨチと歩いていくと、テーブルに座っている飼い主さんが見えました。
フォークやスプーンなどの食器を使って、お皿の中のあたたかそうなものを食べています。
「おいしいでしょ。今日のは自信作」
手足の長いよくわからない生き物も、同じものを口にしています。
飼い主さんは無言でコクンと頷いて、カチャカチャと音を立てて食器を使っていました。
透明な壁に阻まれて、チビはその様子を見ているしかありませんでした。
ごちそうさまでしたと手を合わせ食器を持って行った飼い主さんが、箱の前に戻ってくると、チビたぬきは途端に騒ぎ出しました。
「ｷｭｷｭｯｷｭ…ｷｭｳｰｷｭ！」
自分だけ仲間はずれはイヤだ、同じものが食べたい、と訴えると。
あれはダメ、と言われてしまいチビたぬきはションボリしてしまいました。
まだ胃腸も弱く、消化能力の発達していないチビの段階では。
人間が食べているようなものは、身体が受け付けないのです。
そのうち食べられるようになる、と飼い主さんは言いました。
「ｷｭｳｷｭｳ…ｷｭ…」
だから早く大きくなって、と残念そうに鳴くチビの頭を撫でてくれました。


「ｷｭ…ﾌﾝｯ…ｷｭｳ…」
“うんち…したいし…”
飼われた経験のないたぬきは、大抵どこでも、したいと思った時にうんちをしてしまうものでした。
しかし、飼い主さんはトイレはここでするように、と砂を詰めた箱を指して言います。
ここ、と決めた場所でしなければ怒られてしまうのでした。
どこでもいいじゃないかし、とちびは不満げに思っていました。
「ｷｭｷｭｳ…ｷｭｳ〜ｷｭ！」
飼い主さんに、好きなところでさせて欲しいと抗議しました。
飼い主さんは、首を横に振りました。
チビの思いは通じませんでした。
どうしてわかってくれないんだし。
涙目で抗議の目線を送り続けていると。
飼い主さんは、自分もちゃんとそうしてるから、と答えました。


やがてチビたぬきは成長して少しずつ手足も伸びきてきて、長い間立ったまま、バランスを取る事が出来る様になってきました。
そうなれば飛んだり跳ねたりも、難しくありません。
「ｷｭｷｭｳｳ〜…ｷｭｷｭｷｭ！」
“うどんダンスを踊るし！”
飼い主さんは踊り方を教えてくれませんので、たぬきの本能に従い、自分で手足をヨチヨチと動かします。
まだダンスの形にもなっていませんが、チビなりに頑張りました。
踊り終えて、こちらに向けられる視線に目を合わせてじっと見つめます。
褒めてもらえると期待しましたが、その様子を見守っていた飼い主さんには、ダンスは嫌い、とそっぽを向かれてしまいました。
「あんた、ヘタクソだもんねー」
手足の長い生き物に笑われて、飼い主さんは両手を上げて怒っていました。

「まあいいじゃない。あんたは別に踊れる必要なんてないし。この子は、踊れてもいいかもしれないけど」
テーブルに座り、頬杖をついて優しく見守っていた手足の長い生き物が言いました。

「さ、お風呂入っちゃいなさいよ。後でやる事もあるでしょ」
手足の長い生き物に促されて、飼い主さんはどこかへ行ってしまいました。
「ｷｭｳｳ…」
もっと傍で、見ていて欲しいのにーーーチビたぬきは長い手足の生き物が飼い主さんに何か言うたび、イヤな気持ちになり、ジタバタを繰り返していたのでした。

寝る時は透明な箱の奥側の隅っこで、飼い主さんが置いてくれたピンク色のクッションに身を預け、ふんわり柔らかいチョコレート色の毛布に包まります。
1匹きりでたぬき玉を作れないチビたぬきにとって、これが寝る時のお決まりの形でした。
でもやっぱり寂しくて、もの悲しげな声をあげてしっぽをしゃぶります。
「ｷｭｳﾝ…ｷｭｳﾝ…」
“飼い主さんと、いっしょに寝たいし…”
そうしたら寂しくないし、もっとあったかいはずでした。
チビの願い虚しく、一度たりとも箱の外には出してもらえませんでした。


そんな日々の中でもチビたぬきは、かわいがられながらすくすくと成長していきました。
そして、現在ーーー。
飼い主さんの姿は、チビが入っている箱の前にはありません。
テレビの前に陣取って、光と音に夢中になって、こちらを見向きもしなくなってしまいました。
チビたぬきが何か悪いことをしたわけでもなく、自然とそうなっていたのでした。
トイレだって覚えましたし、ワガママも極力減らして、うどんダンスの練習も飼い主さんが見ていないうちにコッソリ行っていました。
もちろん、いつかはフルでダンスを見て欲しい。
よくできたと褒めて欲しいという願いは胸のうちにありましたけれども。
ただ、チビの気持ちとは逆を行くように、飼い主さんは少しずつモチモチしてくれる事が減り、箱の中を覗き込んでくれる回数が減っていったのでした。


「ｷｭｳ…ｷﾞｭ、ｷﾞｭ…」
飼い主さん、飼い主さん。
ごはんをくださいし。
もうずっと、何も食べてないし。
おみずも、お皿にいれてもらってないし。
チビ、もう動けないし。
モチモチしてほしいし。
ダンスおどりたいし。
おねがいですし。
飼い主さん、飼い主さんーーー。


透明な箱の中には食べられるものは何もなく、クッションと毛布しかありません。
遊び道具にキラキラとしたラメ入りのスーパーボールを入れてくれていましたが、チビには弾力が強すぎて、跳ねた弾みで顔にぶつかって泣いてしまってからは、触ろうともしていません。

一言も喋れないまま、顔を横に向けて倒れ伏したチビたぬきはそのたぬ生を終えようとしています。
それでも、何故か飼い主さんはある日突然、見向きもしなくなってしまいました。
放置され、乾いていくチビたぬきはもはや鳴き声もあげられません。
やがて動かなくなり、中のモノ諸共捨てられてしまうでしょうーーー。


「もういいの？」
手足の長いよくわからない生き物に尋ねられ、
飼い主さんは言いました。
「もう飽きたから、いらないし！」


オワリ