No.52「予感・前編」

この冬は越えられないという予感だけが、確かにあった。


あるところに、冬の寒さを群に属さず生き抜こうとする野良のたぬき親子がいた。
そこのちびたぬきはまだ小さいが、早い段階から喋れるようになっていて、親たぬきはこれ程賢いならば大人になるまで生きられると期待して育てていた。
だが、冬の寒さの前ではたぬきの個体差など僅かな誤差でしかない。
連日の寒さは、野良として生きる全てのものに厳しかったが、爪も牙も道具も持たないたぬきには更に厳しかった。
備蓄に回す余裕などなく、その日食べるものにも困る日々が続くうちにちびはすっかり弱りきっていて、
「まま…おなか…すいた…し…さむい…し…」
所詮小さいうちから喋れたところで、苦悶を言葉にする事が出来るだけだった。
親たぬきはちびの手を引いて歩いていたが、ちびの歩みには力がこもらず、親たぬきの身体に寄りかかってくる。
親たぬき自身も当然空腹で、もたれかかってくるちびをやっとの事で受け止めた。
「もう…あるけない…し…」
「わかったし…待っててし…ままが食べものさがしてくるし…」
「やだし…いっちゃやだし…ちびおいてかないでし…」
「置いていかないし…でもこのままじゃちび、ずっと動けなくなっちゃうし…」
幼い我が子に死の概念を教える余裕はなく、親たぬきは何とかなだめようと必死だった。
また対するちびも、親の必死さだけは感じ取っていて、今自らが危険極まりない状況である事は無意識に察していた。
だからこそ離れたくないと、本能が叫んでいる。
「やだし…ひとりぼっちは、やだしぃ…！」
「…困ったし …」


寄りかかった体勢から、そのまま親たぬきの腰にしがみつくちびたぬき。
よそのたぬき親子が何匹もの子供を連れ、そのちび達が仲良く手を繋ぎ歩くのを見て、
“まま…ちびも妹ほしいし…”
とせがんできたのが思い出される。
いつも1匹で震えてお留守番をしているしかなかったのが、よほどイヤだったらしい。
冬場は特に必要な食糧が増えた分だけ生存率が下がるため、あんなに大家族のたぬき親子は生き残る算段があるのだろうかと親たぬきは疑問に思っていた。
ある日、そのたぬき親子が全て冷たくなってカラスに貪られていたのを親子で目撃してからは尚更2匹きりで生きていくことを決めていたのだった。


「……ｽｩ…ｽｩ…」
抱きつかれてしばらく身動きが取れなかった親たぬきは、その冷えた身体を受け止め続けていた。
大人しくなったと思ったら、寝息が聞こえてくる。
泣き疲れ果て、眠ってしまったらしい。
こぼれ落ちた涙が一筋の軌跡を描き、がさがさの肌を滑り落ちていく。
───今のうちだし。

親たぬきは我が子を冷たい地面ではなく、なんとかベンチの上に押し上げて寝かせてやった。
同年代と比べて明らかに軽く、親たぬきの不安がさらに増す。
とにかく、寝ているちびを待たせすぎないように辺りに気を配って鼻をスンスンと鳴らす。
何か食べ物───できれば温かく、やわらかいものはないか探し回った。
そんなものが、簡単に見つかるはずがない。
見つかっていたら、ちびをあんなに弱らせたりしなかった。
それでも一縷の望みにかけて、公園の中をうろうろする。
もし落ちている食べ物があれば、この辺りの野良たぬきがすぐに持っていってしまうだろう。
それぐらい、冬の公園での奪い合いは激しかった。
だが、今年の年末にかけては生乳が余っており───ホットミルクの移動販売車がこの街の至る所で見られた。
この公園でも、日曜日ということもあってそれなりの人の出があると見込まれてやってきていた。
格安で売られているので、人間が捨てたくしゃくしゃの紙コップを広げ直し、残ったわずかな滴を“ペロペロし…”と舐めまくる野良たぬきは珍しくなかった。
出来れば、残りではなく丸々入ったものが欲しい。
うちのちびは少しずつ大きくなっているので、お腹を壊す事はないだろう。
栄養満点なあれが手に入れば、ちびもきっと元気を取り戻すはず───どうにかして手に入れられないものかと思案する野良たぬきの前を通りかかったのは、クマの着ぐるみを纏った1匹の飼いたぬきだった。飼い主らしき人間が、後ろを歩いている。
「ゴクゴクし…これおいしいし…♪」
ちょうどよい温度のホットミルクを与えてもらい、ご満悦の表情だった。
口元はへの字でなく、Vの字に吊り上がっている。
同じたぬきとは思えないほど、ションボリしていなかった。


たぬきは元来、ドライな生き物だ。
同族であっても、異なるコミュニティであれば互いに干渉しない。
ちびを拾う時もそうだ。
かわいい、かわいそうという理由で簡単に我が子として扱う一方で、だめだと判断すればあっさり切り捨てる。
血縁が存在しない故にあっさり結びつき、手に負えなければあっさり離れるのがたぬきという生き物であるから、そうした関係性しか作れない。
他の命のために無理をしないのが、元来のたぬきという生き物だ。
飼われているたぬきなど別次元に生きているものとして、尚更関わろうとはしないはずだった。


ただ、このたぬきは少々例外だった。
我が子を救うためならば、別次元の生き物にも懇願することができるたぬきだった。
悠々と歩く着ぐるみたぬきの前に出て、おずおずと切り出した。
「あの…すみません、し…」
「野良がなんか用だし？」
露骨にいやそうな顔をしながら、話だけは聞いてやるかと着ぐるみたぬきは立ち止まった。
「その…手に持ってる飲み物…よければ、譲っていただけませんかし…」
たどたどしく言い終えて、頭を下げて返事を待つ。
飼われていて簡単に手に入るならば、執着せずに譲ってくれるかもしれないという淡い期待感からの申し出だったが、
「えっ？やだし…」
着ぐるみたぬきは、無慈悲に拒否した。


「し…しっぽでも、服でも、何でも渡しますし…！」
小憎らしく拒否をする相手に尊厳を投げ出すのは、この野良たぬきにとっては何も惜しいことではなかった。
しっぽを失えば立てなくなり、今以上にエサを探すことは難しくなる。
冬に服を失えば、越冬はさらに困難になる。
残念ながら野良たぬきは、そこまで考える余裕は持ち合わせていなかった。
それ程までに、ちびを助けたい一心は強かった。
あまりに必死な様子に、着ぐるみたぬきはしばし考え込んだ。

服ならいっぱい持ってるから、いらないし。
野良の汚くてくさいしっぽなんてどうでもいいし。
着ぐるみたぬきは興味なさげだったが、ふと何かを思いつき、野良たぬきに問いかけてみる事にした。
「勲章もってるし？」
もし持っていれば、この飲みかけと交換してやってもいいし。どうせ半分も残ってないし。
どんなものでも勲章はあるだけ良いと、飼いたぬきは考えていた。
「…持って、ないし…」
野良たぬきは力無く答える。
困窮している自分に、そのようなものに触れる機会すらあるはずがない。
それでも勲章と交換であの飲み物をもらえるなら、何とかしなくては。
やっと繋がった一縷の望みを手放さぬよう、野良たぬきは必死になって頭のたぬきを走らせ、知恵を絞り出した。
「…チビが助かって、無事に育ったら…チビがくれる、子育て勲章をあげるし…」
親たぬきにとって生涯の宝物となる、子育て勲章。
子育てにかかる労力だけでなく、子供からの感謝の気持ちすら手放す事を考えれば、あまりに分の悪い条件だったが、
自分の宝物となる予定の物を差し出してでも、この野良たぬきは今にも消えてしまいそうな我が子の未来を救いたかった。


「いらないし」
対する、飼いたぬきの返事は───あまりに淡白だった。
塩コショウを振らない、たぬき肉の味よりもアッサリとしていた。
野良たぬきは続く言葉を失い、黙り込んだ。
「たぬきは飼い主さんにお願いしてチビ育てるんだし。だから汚い野良チビの子育て勲章なんていらないし」
「…へぇ？」
飼いたぬきのあんまりな言種に、それまで事の推移を見守っていた飼い主が眉をひそめた。
言われた側の野良たぬきはショックで固まり、
「ひ…ひどい、し…」
なんとかそれだけ搾り出す事しか、できなかった。
目尻には、勝手に涙が溜まっていた。


「情けないやつだし…たぬきは選ばれし飼いたぬきだからあんな風にはならないし…」
「だよなー」
飼い主の人間が細長い筒のような紙袋を取り出した。
ビリリと破き、中身を飼いたぬきが持っていた飲みかけのホットミルクに注ぐ。
「それなんだし？」
「スティックシュガー。砂糖だよ。冷めてきたから美味しくなるようにね」
飼いたぬきは特にお礼も言わず、表情も変えずに残りをゴクゴクと飲み干した。
「あっ……し……」
「キュウウ♪あまいし………ヴ〜ッフ…」
まるで子供のような声をあげ、その後は満足げにおっさんのようなゲップを漏らした。
野良たぬきは、手を伸ばしかけたが何もできず、引っ込めるしかない。


「じゃ、お前を今からスラムに連れてって捨てるね」
「しっ…！？」
予想だにしない飼い主からの決別の言葉に、着ぐるみたぬきは思わず持っていた紙コップを落としてしまった。
「な、んでし…？」
「他のたぬきバカにするし、意地汚いし、
あとチビ育てるとか勝手に決めてんじゃねえよ」
「だって…だってし…飼い主さんはたぬきがかわいくないし…？」
「かわいくなくなった、さっき」
「ダヌゥゥゥ！」
納得のいかない着ぐるみたぬきは、着ぐるみが汚れるのも厭わずその場で後ろに倒れ込んでジタバタと癇癪を始める。
「うるさ…」
鬱陶しそうに呟いた飼い主は、耳に障る鳴き声と衣擦れの音を立てるたぬきに、更に追い討ちをかけた。
「さっき飲ませたあれ、たぬき駆除用の下剤だから」
「し…？げざい…？なんだし？」
「うんちが止まらなくなる薬」
「やだじぃぃいい！何飲ませてるしぃぃ！」
騒ぎ立てる着ぐるみたぬきのしっぽを掴み、逆さ吊りにする。
真っ青になった着ぐるみたぬきは途端に力が入らなくなり、地面に向かって手足をぶらぶらさせる。
「だ…ぬ…やめで、じ…」
結構太っていたので、掴まれたしっぽの根元がギチギチ、と悲鳴をあげていた。
「下痢うんこを爆裂に漏らすのが先か、その着ぐるみ剥がされるのが先かどっちかなぁ？もし着ぐるみを下痢で汚したら、その場で殺されちゃうかもなぁぁぁ？」
「やだじぃぃぃ！捨てないでじぃぃぃ！」
「大丈夫！ちゃんと最期まで見てるから…ね？」
「ざいごっで何だじぃぃぃ……！」
もはや叫ぶしかない着ぐるみたぬきを楽しそうに連行し、飼い主───と、もはや呼んでいいのか、人間が去っていく。
壮絶なものを見てしまった。
親たぬきはしばらくその後ろ姿を見送っていたが、ハッとなってベンチに戻った時。
ちびはもう息をしていなかった。


静かになって、永遠に喋る事はなくなっていた。
幼さの割に深いションボリ顔で、涙の跡がうっすら残っているだけだった。
「あ…ああ…あああ、し…」
激しい後悔が、野良たぬきの身体を震わせる。
なんでし。
なんで、もっと一生懸命探さなかったんだし。
あんなもの、見てる場合じゃなかったし。


「ち、ちび…ちびぃぃ…！」
失われてしまった我が子をどうにか取り戻そうと揺するが、応答はない。
野良たぬきは後悔の念に苛まれながら、無意味とわかりつつも、再び動き出す事を願って揺らし続けるしかなかった。
しかしその動作も、空腹の限界を迎えて次第に緩慢になっていく。
ちびがもう動かないと理解し始めた途端、自らの死が急速に迫ってきている予感があった。
故に、近づいてくる足音は全く拾えていなかった。


ツヅク