No.52「予感」

この冬は越えられないという予感だけが、確かにあった。


あるところに、冬の寒さを群に属さず生き抜こうとする野良のたぬき親子がいた。
そこのちびたぬきはまだ小さいが、早い段階から喋れるようになっていて、親たぬきはこれ程賢いならば大人になるまで生きられると期待して育てていた。
だが、冬の寒さの前ではたぬきの個体差など僅かな誤差でしかない。
連日の寒さは、野良として生きる全てのものに厳しかったが、爪も牙も道具も持たないたぬきには更に厳しかった。
備蓄に回す余裕などなく、その日食べるものにも困る日々が続くうちにちびはすっかり弱りきっていて、
「まま…おなか…すいた…し…さむい…し…」
所詮小さいうちから喋れたところで、苦悶を言葉にする事が出来るだけだった。
親たぬきはちびの手を引いて歩いていたが、ちびの歩みには力がこもらず、親たぬきの身体に寄りかかってくる。
親たぬき自身も当然空腹で、もたれかかってくるちびをやっとの事で受け止めた。
「もう…あるけない…し…」
「わかったし…待っててし…ままが食べものさがしてくるし…」
「やだし…いっちゃやだし…ちびおいてかないでし…」
「置いていかないし…でもこのままじゃちび、ずっと動けなくなっちゃうし…」
幼い我が子に死の概念を教える余裕はなく、親たぬきは何とかなだめようと必死だった。
また対するちびも、親の必死さだけは感じ取っていて、今自らが危険極まりない状況である事は無意識に察していた。
だからこそ離れたくないと、本能が叫んでいる。
「やだし…ひとりぼっちは、やだしぃ…！」
「…困ったし …」


寄りかかった体勢から、そのまま親たぬきの腰にしがみつくちびたぬき。
よそのたぬき親子が何匹もの子供を連れ、そのちび達が仲良く手を繋ぎ歩くのを見て、
“まま…ちびも妹ほしいし…”
とせがんできたのが思い出される。
いつも1匹で震えてお留守番をしているしかなかったのが、よほどイヤだったらしい。
冬場は特に必要な食糧が増えた分だけ生存率が下がるため、あんなに大家族のたぬき親子は生き残る算段があるのだろうかと親たぬきは疑問に思っていた。
ある日、そのたぬき親子が全て冷たくなってカラスに貪られていたのを親子で目撃してからは尚更2匹きりで生きていくことを決めていたのだった。


「……ｽｩ…ｽｩ…」
抱きつかれてしばらく身動きが取れなかった親たぬきは、その冷えた身体を受け止め続けていた。
大人しくなったと思ったら、寝息が聞こえてくる。
泣き疲れ果て、眠ってしまったらしい。
こぼれ落ちた涙が一筋の軌跡を描き、がさがさの肌を滑り落ちていく。
───今のうちだし。

親たぬきは我が子を冷たい地面ではなく、なんとかベンチの上に押し上げて寝かせてやった。
同年代と比べて明らかに軽く、親たぬきの不安がさらに増す。
とにかく、寝ているちびを待たせすぎないように辺りに気を配って鼻をスンスンと鳴らす。
何か食べ物───できれば温かく、やわらかいものはないか探し回った。
そんなものが、簡単に見つかるはずがない。
見つかっていたら、ちびをあんなに弱らせたりしなかった。
それでも一縷の望みにかけて、公園の中をうろうろする。
もし落ちている食べ物があれば、この辺りの野良たぬきがすぐに持っていってしまうだろう。
それぐらい、冬の公園での奪い合いは激しかった。
だが、今年の年末にかけては生乳が余っており───ホットミルクの移動販売車がこの街の至る所で見られた。
この公園でも、日曜日ということもあってそれなりの人の出があると見込まれてやってきていた。
格安で売られているので、人間が捨てたくしゃくしゃの紙コップを広げ直し、残ったわずかな滴を“ペロペロし…”と舐めまくる野良たぬきは珍しくなかった。
出来れば、残りではなく丸々入ったものが欲しい。
うちのちびは少しずつ大きくなっているので、お腹を壊す事はないだろう。
栄養満点なあれが手に入れば、ちびもきっと元気を取り戻すはず───どうにかして手に入れられないものかと思案する野良たぬきの前を通りかかったのは、クマの着ぐるみを纏った1匹の飼いたぬきだった。飼い主らしき人間が、後ろを歩いている。
「ゴクゴクし…これおいしいし…♪」
ちょうどよい温度のホットミルクを与えてもらい、ご満悦の表情だった。
口元はへの字でなく、Vの字に吊り上がっている。
同じたぬきとは思えないほど、ションボリしていなかった。


たぬきは元来、ドライな生き物だ。
同族であっても、異なるコミュニティであれば互いに干渉しない。
ちびを拾う時もそうだ。
かわいい、かわいそうという理由で簡単に我が子として扱う一方で、だめだと判断すればあっさり切り捨てる。
血縁が存在しない故にあっさり結びつき、手に負えなければあっさり離れるのがたぬきという生き物であるから、そうした関係性しか作れない。
他の命のために無理をしないのが、元来のたぬきという生き物だ。
飼われているたぬきなど別次元に生きているものとして、尚更関わろうとはしないはずだった。


ただ、このたぬきは少々例外だった。
我が子を救うためならば、別次元の生き物にも懇願することができるたぬきだった。
悠々と歩く着ぐるみたぬきの前に出て、おずおずと切り出した。
「あの…すみません、し…」
「野良がなんか用だし？」
露骨にいやそうな顔をしながら、話だけは聞いてやるかと着ぐるみたぬきは立ち止まった。
「その…手に持ってる飲み物…よければ、譲っていただけませんかし…」
たどたどしく言い終えて、頭を下げて返事を待つ。
飼われていて簡単に手に入るならば、執着せずに譲ってくれるかもしれないという淡い期待感からの申し出だったが、
「えっ？やだし…」
着ぐるみたぬきは、無慈悲に拒否した。


「し…しっぽでも、服でも、何でも渡しますし…！」
小憎らしく拒否をする相手に尊厳を投げ出すのは、この野良たぬきにとっては何も惜しいことではなかった。
しっぽを失えば立てなくなり、今以上にエサを探すことは難しくなる。
冬に服を失えば、越冬はさらに困難になる。
残念ながら野良たぬきは、そこまで考える余裕は持ち合わせていなかった。
それ程までに、ちびを助けたい一心は強かった。
あまりに必死な様子に、着ぐるみたぬきはしばし考え込んだ。

服ならいっぱい持ってるから、いらないし。
野良の汚くてくさいしっぽなんてどうでもいいし。
着ぐるみたぬきは興味なさげだったが、ふと何かを思いつき、野良たぬきに問いかけてみる事にした。
「勲章もってるし？」
もし持っていれば、この飲みかけと交換してやってもいいし。どうせ半分も残ってないし。
どんなものでも勲章はあるだけ良いと、飼いたぬきは考えていた。
「…持って、ないし…」
野良たぬきは力無く答える。
困窮している自分に、そのようなものに触れる機会すらあるはずがない。
それでも勲章と交換であの飲み物をもらえるなら、何とかしなくては。
やっと繋がった一縷の望みを手放さぬよう、野良たぬきは必死になって頭のたぬきを走らせ、知恵を絞り出した。
「…チビが助かって、無事に育ったら…チビがくれる、子育て勲章をあげるし…」
親たぬきにとって生涯の宝物となる、子育て勲章。
子育てにかかる労力だけでなく、子供からの感謝の気持ちすら手放す事を考えれば、あまりに分の悪い条件だったが、
自分の宝物となる予定の物を差し出してでも、この野良たぬきは今にも消えてしまいそうな我が子の未来を救いたかった。


「いらないし」
対する、飼いたぬきの返事は───あまりに淡白だった。
塩コショウを振らない、たぬき肉の味よりもアッサリとしていた。
野良たぬきは続く言葉を失い、黙り込んだ。
「たぬきは飼い主さんにお願いしてチビ育てるんだし。だから汚い野良チビの子育て勲章なんていらないし」
「…へぇ？」
飼いたぬきのあんまりな言種に、それまで事の推移を見守っていた飼い主が眉をひそめた。
言われた側の野良たぬきはショックで固まり、
「ひ…ひどい、し…」
なんとかそれだけ搾り出す事しか、できなかった。
目尻には、勝手に涙が溜まっていた。


「情けないやつだし…たぬきは選ばれし飼いたぬきだからあんな風にはならないし…」
「だよなー」
飼い主の人間が細長い筒のような紙袋を取り出した。
ビリリと破き、中身を飼いたぬきが持っていた飲みかけのホットミルクに注ぐ。
「それなんだし？」
「スティックシュガー。砂糖だよ。冷めてきたから美味しくなるようにね」
飼いたぬきは特にお礼も言わず、表情も変えずに残りをゴクゴクと飲み干した。
「あっ……し……」
「キュウウ♪あまいし………ヴ〜ッフ…」
まるで子供のような声をあげ、その後は満足げにおっさんのようなゲップを漏らした。
野良たぬきは、手を伸ばしかけたが何もできず、引っ込めるしかない。


「じゃ、お前を今からスラムに連れてって捨てるね」
「しっ…！？」
予想だにしない飼い主からの決別の言葉に、着ぐるみたぬきは思わず持っていた紙コップを落としてしまった。
「な、んでし…？」
「他のたぬきバカにするし、意地汚いし、
あとチビ育てるとか勝手に決めてんじゃねえよ」
「だって…だってし…飼い主さんはたぬきがかわいくないし…？」
「かわいくなくなった、さっき」
「ダヌゥゥゥ！」
納得のいかない着ぐるみたぬきは、着ぐるみが汚れるのも厭わずその場で後ろに倒れ込んでジタバタと癇癪を始める。
「うるさ…」
鬱陶しそうに呟いた飼い主は、耳に障る鳴き声と衣擦れの音を立てるたぬきに、更に追い討ちをかけた。
「さっき飲ませたあれ、たぬき駆除用の下剤だから」
「し…？げざい…？なんだし？」
「うんちが止まらなくなる薬」
「やだじぃぃいい！何飲ませてるしぃぃ！」
騒ぎ立てる着ぐるみたぬきのしっぽを掴み、逆さ吊りにする。
真っ青になった着ぐるみたぬきは途端に力が入らなくなり、地面に向かって手足をぶらぶらさせる。
「だ…ぬ…やめで、じ…」
結構太っていたので、掴まれたしっぽの根元がギチギチ、と悲鳴をあげていた。
「下痢うんこを爆裂に漏らすのが先か、その着ぐるみ剥がされるのが先かどっちかなぁ？もし着ぐるみを下痢で汚したら、その場で殺されちゃうかもなぁぁぁ？」
「やだじぃぃぃ！捨てないでじぃぃぃ！」
「大丈夫！ちゃんと最期まで見てるから…ね？」
「ざいごっで何だじぃぃぃ……！」
もはや叫ぶしかない着ぐるみたぬきを楽しそうに連行し、飼い主───と、もはや呼んでいいのか、人間が去っていく。
壮絶なものを見てしまった。
親たぬきはしばらくその後ろ姿を見送っていたが、ハッとなってベンチに戻った時。
ちびはもう息をしていなかった。


静かになって、永遠に喋る事はなくなっていた。
幼さの割に深いションボリ顔で、涙の跡がうっすら残っているだけだった。
「あ…ああ…あああ、し…」
激しい後悔が、野良たぬきの身体を震わせる。
なんでし。
なんで、もっと一生懸命探さなかったんだし。
あんなもの、見てる場合じゃなかったし。


「ち、ちび…ちびぃぃ…！」
失われてしまった我が子をどうにか取り戻そうと揺するが、応答はない。
野良たぬきは後悔の念に苛まれながら、無意味とわかりつつも、再び動き出す事を願って揺らし続けるしかなかった。
しかしその動作も、空腹の限界を迎えて次第に緩慢になっていく。
ちびがもう動かないと理解し始めた途端、自らの死が急速に迫ってきている予感があった。
故に、近づいてくる足音は全く拾えていなかった。


「どうかしたの？」
いつの間にか、レジ袋を手に下げた人間が立っていた。
本来ならば警戒して身構える所だが、あまりの喪失感にいてもたってもいられず、
野良たぬきは傍に立つ知らない人間に、状況を語ってしまった。
「ちびが…たぬきの大事なちびが死んじゃったし…」
人間は同情するでもなく、野良たぬきを静かに見下ろしていた。

「ここ、寒いでしょ。うちにおいで」
「…し…？」
思いもよらぬ提案に、冷たくなってしまったちびを抱いたまま、野良たぬきは人間を見上げる。
あちらはすでに決まった事のように、歩き出していた。
野良たぬきは安易についていっていいものか、迷う。
「あ、そうだ」
人間がくるっと振り返り、何かを向けられた。
野良たぬきの意識は、一旦そこで途切れた。


　　❇︎        ❇︎        ❇︎


目を覚ました野良たぬきは、見知らぬ空間に仰向けで寝ている事に気がついた。
こわごわと上体を起こし、あたりを見渡す。
室温はあたたかく、家具の大きさなどから人間が暮らす部屋の中だとわかる。
たぬきを飼っている様子はないが、ちびの遺体もカーペットの上にタオルが敷かれ、そこに安置されていた。
意を決し手を伸ばして触れてみるが、反応はなくあたたかみは欠片も感じられない。


「目が覚めたんだね。気分はどう？」
いいわけないし、と思いながらも野良たぬきは黙りこんだ。
直前の記憶を辿れば、何かされたのは間違いないからだ。
人間は返事がないことも気にせず腰を下ろし、座卓の上にカップを置く。
ほんのり、甘い匂いと湯気が漂う。
「ほら、これ飲んでいいよ」
先程どれだけ頭を下げて飼いたぬきに都合の良い条件を出しても手に入らなかった、ホットミルクだった。
ごくりと唾を飲み込んで、すぐには飛びつかないよう野良たぬきは自制する。
あの元飼いたぬきはどうなっただろうか、と考えると安易に口をつける気にはなれない。
野良たぬきは警戒心を剥き出しに、おずおずと尋ねた。
「げ、ざ、い…入って、ないし…？」　


「ああ、下剤とかは入ってないよ。心配なら今から作るのを飲むといいよ」
人間は気分を害した様子もなく笑いながら、野良たぬきに出した分を自分の側に寄せ、未開封の牛乳パックから新たにミルクを注ぎ、シュガーポットから角砂糖を入れてレンジであたためる。
一連の工程を見守っていた野良たぬきは安全と判断すると両手を伸ばして新たに出されたカップを把持し、
「ふーふーし…ふーふーし…」
と息を吹きかけ、少し冷めるのを待った。
野良たぬきの警戒心に反してお腹のたぬきはぐるぐるぎゅぐるるる！ともどきのように暴れ狂っていた。
「いただ、き、ま、す…し」
捨てられていたカップに僅かに残って冷えきった滴しか舐めたことのない野良たぬきとしても、待望の飲み物だった。
少し待っても未だ熱のこもった飲み物を急いで口内に入れたため粘膜を火傷させながらも、口に含んだミルクの甘みがじんわりと沁み入っていく。
「ふう…し…」
ようやく一息ついた野良たぬきは俯いたまま、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始める。
「あ゛…あ、あ、あ…！」


こみ上げてくるものが、止まらない。
胸の奥から、迫り出すような圧が喉を通って野良たぬきを震わせる。
「あ゛り゛がどうございまずじ…っ！」
それまで堰き止めていた感情の波が一気に溢れ出し、自分でも止められずに野良たぬきは嗚咽を漏らした。
「だぬぎ…じ…じんじゃうかとっ…も…っし…！」
見知らぬヒトの優しさに触れ、野良たぬきは必死に張り詰めていた心を決壊させた。
こんなに、優しくしてくれるヒトに出会えるなんて思わなかった。
この冬を、越えられるかもしれないという予感に変わる。
今まで灰色のたぬ生が少し明るくなり、先行きが見通せそうな気がしたが───ここに至るまで失ったものは大きい。
「で、でもっ…ちびは…たぬきのちびは…！っぐし…ひっぐ、しぃぃ……！」
野良たぬきは傍らのしょぼくれた遺体を見て、しゃくりあげ始める。
「落ち着いて。それ、ゆっくり飲んでくれたらいいから」
人間はなだめるように、優しく答えた。


　　❇︎       ❇︎       ❇︎


「ちびも…生きてるうちに優しい人に出会えてたら…よかったし…」
どうにか落ち着いた野良たぬきは両手で抱えていたカップを置き、再びちびの亡骸に目をやだた。
この巡り合わせがもう少し早ければ。
このあたたかさをちびにも味わわせてやれたのに。
自身の不甲斐なさにまた涙がこぼれる。
「見てたよ」
すっと差し込まれた人間の声がやけに冷たく感じて、野良たぬきはそちらを見上げる。
何でもない事のように振る舞う人間は、ちびの遺体に顔を向けていた。
「えっ…し…？」
「そこのちびが死ぬまで、待ってたよ」


「たぬきがベンチにちびを置いて離れてからもさ、ずっと見てたんだけど」
ホットミルクを一口飲み、人間は続けた。
「“まま…どこだし…いっしょにいてし…”ってぼそぼそ独り言が聞こえてきたよ。そのうち、何か言う元気もなくして静かになっちゃった」
「…どうしてそんな…し？」
ひどいことを、と言え終えられなかった。
あまりに衝撃が大きすぎて、野良たぬきは一瞬、呼吸を忘れそうになってしまった。
この人は、助けられたはずの自分のちびを見捨てたという事になる。
どうしてだし？
たぬきを助けられたなら、ちびだって助けられたはずだし？
「その顔が見たかったから」　


混乱して言葉が出てこない様子の野良たぬきをよそに、人間はここ最近の楽しみについて思い返していた。

冬場は死にそうな野良たぬきがそこら中にいる。
もちろん放置すれば所々で冷たくなって死に絶えていく。冬の風景の一部でしかない。
だが、そこに一手間加えるとちょっとした余興になる。


例えば今回のように部屋に入れてやり、一杯だけ何か温かいものを振舞う。
あるいは、外で食べ物を恵んでやる。
きっとこの冬を乗り越えられると安心したところで、野良たぬきをすぐに野生に帰す。
絶望で固まる表情が見たくて、冬になると何度もこうして野良に何か振る舞うのがやめられなかった。


この間は親子ともどもお腹を空かせてフラフラしていたのを見つけたので、公園のベンチに座らせた後、コンビニで買った菓子パンを食べさせてやった。
甘く、やわらかいそれは野良生活で口にする事などまず不可能な代物だ。
涙目でパンを詰め込み、ほっと一息ついた親子たぬきは、
“よかったし…やさしい人に出会えてよかったし…”
“ｷｭーｷｭー♪おいしかったし♪”
と喜ぶので追加のパンを渡してやれば食べ盛りの我が子にと親たぬきは全てをちびたぬきに与えていた。
“ちび…これ食べるし…ままはもうお腹いっぱいだし…”
“まま、ありがとし…♪もしゃもしゃし…ｷｭｳｳ♪おいしいし…♪”
親の愛を感じながらちびがパンを頬張っていると、
“……ｸﾞｯ？ｹﾞ､ｹﾞ…ﾝｸﾞ…”
ちびの様子が突如として変貌していく。
しあわせそうな顔が歪み、悶絶し始める。
最初に渡したのは普通のパンだが、追加分は体内のションボリと結びついて毒性を発揮する、たぬき用駆除パンだった。
お腹を小さな両手で抑え、ぶるぶると小刻みに震えたかと思うと前後に痙攣し、身体を大きく振り始めた。
“ｹﾞｴｴｴ…！ｷﾞｭﾎﾞｯ……”
ほっぺをプククッ…と膨らませ、先ほど喜んで飲み込んだパンを地面に吐き出す。
その後続く吐瀉物は、大雨の日の土石流のように止まらなかった。
“ｷﾞｭﾎﾞﾎﾞﾎﾞﾎﾞ！……ｼﾞ……”
拒絶反応で胃液や水分を盛大に吐き出し、その場で死ぬちびを見るのはとても楽しかった。
ついさっきまであれほど両手を動かしてはしゃいでいたのに、ぐったりとしたまま二度と動かなくなってしまった。
つらい空腹から逃れられた事がぬか喜びに過ぎず、唐突に終わらされた我が子のたぬ生。
以前は別の親たぬきが“ままの方がからだ大きいから、これはままのだし…”と独占して子供の前で同じように死に、残されたちびが大泣きするというパターンだったのでこれはこれで趣深いな、と胸の昂りを抑えながらつとめて冷静にたぬきへの言葉を紡いだ。
“あーあ…お前があんなに食べさせなければ、三日三晩苦しんだ後、静かに死ねたのに”
“え…あえ…？ちび…し…？”
理解が追いついていないたぬきはジタバタもせず、
“ちび…お腹いっぱいになったから寝ちゃったし…？きっとそうだし…”
現実を受け入れる事を拒否してしまった。
“たぬき寝かしつけてくるし…ありがとう…ございましたし…”
珍しく頭を下げてまともにお礼が言える野良たぬきは、まともでない精神状態のまま、物言わぬ我が子を抱いて去っていった。


後日、次の獲物を求めて公園内を散歩していると。
“起きないし…ちび起きないし…起きてし…たぬきをひとりにしないで欲しいし…”
芝の上で、乾ききったションボリ顔の遺体を弱々しく揺する野良たぬきを見かけた。
周囲のたぬき達が心配そうに物陰から見ているが、狂った仲間に声をかける勇気のある者は誰もいなかった。
その後、このたぬきがどうなったかは知らない。


直近で満足できたのは、お腹を空かせている親子たぬきのうち、親を街灯の柱に縛り付け、離れた所にちびを立たせた時だ。
アツアツのクリームシチューを2匹分たっぷり、アルミ製のお椀に入れたものを載せたおぼんを、ちびたぬきに持たせて。
“これをままの所まで無事に運べたら、全部食べていいし、ままも解放してあげるよ”と無理難題を押しつけたのが良かった。
“ｷｭ…ｶﾞﾝﾊﾞﾙ、ｼ…！”
明らかにオーバーサイズのおぼんを両手で抱えて、フラフラしながらちびが歩いていく。
“ちび…気をつけるし…”
“ｷｭ…ｷｭ…ｵﾓｲｼ…”

進行ルート上に、いくつも小石を設置していた。
おぼんの重さと、お椀の中のシチューに気を取られて、ヨダレを垂らしながら一歩一歩プルプル震えながら歩みを進めていたちびには、当然見えていなかった。
”ｷｭ…ｷｭ……ｷﾞｯ……！？”

つまずき前のめりに倒れる、ちび。
盛大にひっくり返る、お椀。
ぶち撒けられる、中身。
“ああ…し…ごはん…”
“ｷｭ…ｷｭ…ｷｭｳｳｳｳ！ｳｳｳーーー！”
ちびのケガよりも食事の心配をする親と、転倒した際に顔をぶつけて痛みにジタバタするちびたぬきの対比がお気に入りだった。


「ｼ…ｼ…ﾚﾛﾚﾛ…ｼ…」
しばらくして泣き止んだちびが、ションボリしながら地面にぶちまけられたシチューを舐め始める。
“だめだし…ばっちいし…おなかこわすし…
それよりお椀持ってくるし…ままにもペロペロさせるし…”
“ｷｭ…ｷｭｼ…ﾚﾛﾚﾛ…ｼ…！”
親に指示されるも、普段からあまり子供に食べさせていなかったからか、ちびが無視する形で夢中になってお椀に残ったシチューを舐めていると。
”もういいし…おまえ、捨てるし…”
“ｷｭ…！？ﾔﾀﾞｼ…ｽﾃﾅｲﾃﾞ、ｼ…！”
思い通りにならない我が子を見限った親たぬきの発言に驚いてお椀を放り出し、慌てて親の元へトテテッと走り出す。
本当はちびの方が圧倒的に有利な立場なのに、捕縛されたままの親に叱咤されて怯えながら小さな手をモチモチと縄に押しつけるちびはかわいすぎた。
“ﾏﾏ…ﾏﾏ…ｺﾞﾒﾝﾅｻｲ、ｼ…”
“早くヒモほどくし…使えないちびだし…”
“ｷｭｳｳ…ﾔﾙｼ…”
当然だが、ほどけるはずがない。
結び目は固く、ちびの手では解くための細かい動きはできない。
“ｷｭ…ﾄﾚﾅｲ、ｼ…”
“だめかし…おまえがもっと大きければ石や歯で切れたかもしれないのにし…やっぱり使えないちびだし…”
“…ｷｭｳｳｳ……”
親子でションボリしていると、匂いを嗅ぎつけたたぬきもどきがやってきた。
“クゥン…クゥン…♪”
“も、もどきだし…やだし…あっち行ってし…”
“ｷｭｷﾞｭ……ｷｭｯ！”
思わず恐怖で尿を漏らしたちびだが、親を庇おうとして、両手を広げて立ちはだかる。
“何してるし…ち…ちび…早く逃げるし…”
“ｷｭ…ﾃﾞｷﾅｲ、ｼ…”
最期に親らしい情を見せた親たぬきに、ちびは背を向けたまま泣きながら首をイヤイヤと振るが、
“そしたらもどきはおまえを追いかけるし…出来るだけ遠くに逃げろし…”
“…ｷｭ！？”
囮になれ、と言われた事に驚いて振り向いているうちに、もどきの前足で倒され、左腕を抑えられながら下半身から食べられてしまった。
“ｷﾞｭｳｳｳｳ！ｲﾀﾞｲ！ｲﾀﾞｲｼｨｨｨ！”
上半身が暴れて泣き叫ぶ、ちびの踊り食いを堪能してもどきはヴッフと鳴いた。
“ﾔﾀﾞ…ﾔﾀﾞｼ…ﾏﾏ…ﾀｼ…ｹﾃ…”
“むりだし…ばいばいし…”
子供への涙なのか、次の自分の運命を呪っての涙なのかわからないものを流しながら、諦めきった親たぬきに見送られて、
“……ｼ……”
と短く鳴いて、食べ尽くされたちびの一連の様子は思わずスマホで録画してしまっていた。
その後は親たぬきも何の抵抗も出来ないまま、好き放題に齧られて死んだ。


街灯に縛られた親たぬきが喰われている間、
“おいしいし…ペロペロし…”
“あいつがもどきに襲われてる間にぜんぶ食べるし…”
複数の野良たぬきが、もう一つのお椀を舐めたり、地面に広がったシチューの残りを土ごと入るのも厭わず手で拭って食べ続けていた。
だが、意地汚い野良たぬき達が食べ終えるより、もどきの方が早かった。
そして、気づいて逃げ出す野良たぬきの脚より、追いかけるもどきの方が速かった。
“クゥゥン♪”
“あっあっあっ…はや…ひぃ…し…！”
“にげるし…にげる、し…あっ、っし…”
“や、やっ、やだし…こっち来るなし…！”
設置していた小石が、こんな時にも役に立った。
足元を見る余裕などない野良たぬき達が次々に転んでいく。

その後は、血の宴だった。
つまずいてジタバタするたぬきのしっぽや足を齧って逃げられなくしてから、その場の全ての野良たぬきがもどきのエサとなる。

思い返しているうちに、生き汚いたぬき達の個人的名作の動画を見せたくなって実行に移してしまっていた。
放心したまま動画を見せられていた野良たぬきはどこかのタイミングで正気を取り戻したのか、身体をとわなわなと震わせて再び涙をこぼし始めていた。


これまでの他ぬきと同じく、ほんの少しの希望を目の前で壊され、絶望に突き落とされた時の反応だった。
個体によっては癇癪を起こしジタバタし始めたり「やだし…やだし…」としか言わなくなったりする。
これが見たくて、普段の生活でまったく関わる必要のない野良たぬきにちょっかいをかけているのだ。

「それ飲んだら出ていってもらうね。その汚いのはこっちで捨てといてあげる」

続く言葉を聞き入れているのかいないのか、野良たぬきが呆然としている間に大切なちびたぬきの亡骸は、軍手をつけた人間の手によって、半透明のポリ袋の中に放り込まれてしまう。
紙屑や包装など、明らかにゴミと一緒にされているのはたぬきの頭でも理解できた。
野良たぬきはションボリしながらも、ようやく足に力を入れて立ち上がった。
親として、何もしてやれなかったけれど。
せめて、土の中で安らかに眠らせてあげたい。
どこかでリポップするまで、この遺体は誰にも触らせたくなかった。
人間を見上げ、縋りつくように両手を上げてぴょんぴょんと飛び跳ねる。
大して浮いていない。

「かっ…かえしてし！たぬきのちび、かえしてし！」
「だめだよ。これは燃やすから」
「も…！？だっ」

何か言おうと口を開いた野良たぬきに、たぬき用の睡眠スプレーをかがせる。
たぬきのションボリと結合して成分が作用するため、たぬき以外の生き物には全くの無害だが、今のやりとりでションボリを深めた野良たぬきには効果的面だった。
家に連れてくる時も、これを使って眠らせて運んでいた。
家の場所をたぬきが覚えられるとも思えないが、念には念を入れておきたかった。
「ダヌ…」
懸命に訴える事も出来ず、小さく鳴いた野良たぬきは目の前が暗くなっていくのを感じながら。
ぐら、と身体をよろめかせて倒れ込んだ。


❇︎       ❇︎        ❇︎
　

目を覚ました野良たぬきは、のっそりと起き上がり、あたりを見渡した。
やはり、ちびの姿は見えない。
見覚えのない景色で、あの人間の姿もどこにもなかった。
もしかして、あれは夢だったのだろうか。
だったら、ちびが死んだのも夢であって欲しかったし。
野良たぬきは覆りようのない現実から逃げたい気持ちでいっぱいになり───ジタバタすると無駄に体力を使うのはわかっていたので、トボトボと歩き出した。
知らない場所。
エサの在処だって、その場を支配するしきたりだって、わからない。
しかし野良たぬきも、当て所なく歩き出したわけではなかった。

川が、川がいい。
良い事なんて一つもなかったこのたぬ生を終わらせるには冷たい真冬の川の水に身体を沈めるのがいいと野良たぬきは考えた。

ようやく辿り着いた河川は───せっかく知らない土地で探し当てたのに、年末の寒さで枯渇していた。
着水した野良たぬきの足裏を濡らすだけで、身を沈めるほどの深さは無い。

たぬきの頭ではそれ以外に自力で終わりを迎える方法が思いつかず、今度は着地点を見失っていたずらに時を浪費していくしかなかった。
ちびを失って孤独にションボリ、トボトボと歩く野良たぬきの中には───やはりこの冬は越えられないだろうという予感だけが、確かにあった。

オワリ

