「たぬきってなんなんだし…？」
長らく同居しているたぬきが突然言い放った、哲学的な謎にどこか重苦しさを伴った言葉に、俺は困惑した。
「いきなり変なこと言って申し訳ないし…でも、人間にもウマにも名前や個があるのに、たぬきは皆たぬきだし…」
言われてみればたぬきの名前など聞いたことも無い。皆たぬきだと言うし、俺たちも皆たぬきと呼ぶばかりである。
「でも、親とか友達とかそういう人――じゃなくてたぬき付き合いってのがあれば個として区別されそうなものだけれども」
…と言いはしたものの、愚痴を延々と聞かせる親に、愛されたいからと言って浮気した女を思い出してげんなりしてしまう。現代人って他人を自慰の道具とでも思ってんのか、個を求めてないからなぁ。
「たぬきに親は居ないし…気づくとたぬきとしてそこにあって、誰に教えられるでもなくたぬきとして振る舞うし…」
全く不思議な生態である。そういえばたぬきの生まれを訊ねても、木の股からだのずんだ餅の中からだの神様の切られた小指からだの、皆バラバラな答えしか言わなかった。
「たぬきには仲間は大勢いるのに、親子とか家族、友人に恋人とかって、個と個のコミュニケーションによって成り立つ関係は無いし…人間やウマ娘と触れている内にそれが気になって、なんだか無性に寂しくなったし…」
……多分、たぬきは自分自身を愛されたことが無いし…それが寂しいし……。そう言うたぬきの顔はションボリと言うより悲痛に歪んでいた。

じゃあいっそ、個を持つ所から始めたらどうだろう？　人間やウマ娘みたいに名前を付けるとか。
そう言うと、たぬきは「名前かし…？確かに個別の名前があれば分かりやすいし…」と目を輝かせる。
もっとも、「それで良い名前はあるし？」と訊かれると困るんだけれども……たぬ太郎とかどうだろう。
「…たぬきに雌雄は無いけれども、そのネーミングセンスはどうかと思うし…」
事実を突きつけられて俺はグワーッ！となったが、一方でたぬき――いや、たぬ太郎は嬉しそうにその名前を繰り返し呼んでいた。
「お礼って訳じゃないけれども、ありがとう勲章をあげますし…」
どこかにこやかになった顔と穏やかな声音でたぬきは意外とずっしり重い勲章を手渡してくれた。
アイデンティティが確立したたぬきの悩みは少しだけ解決されたらしい。
俺が今たぬ太郎との絆を感じているように、やがて個として友情や愛情を育むことが出来るだろう……。

翌朝。俺より早く起きていたたぬきをたぬ太郎と呼ぶと、たぬきは首を傾げた。
「そんなたぬきはおりませんし…たぬきはたぬきですし…」
えっ？そんなはずはない、俺の部屋にはずっとたぬきが居て、そいつにたぬ太郎と名前を付けて、勲章を貰って――。
俺の言葉に「あぁ…そういうことですし…」とたぬきは納得したように言った。
「たぬきは真我《ｱｰﾄﾏﾝ》を持たず、ただたぬきと言う集団に属する仮面《ﾍﾟﾙｿﾅ》しか持ちませんし…もしもその仮面《ﾍﾟﾙｿﾅ》を剥いでしまえば、そこには何も残らず、代わりに別のたぬきがどこかから来るだけですし…」
それで月から地球に飛ばされた訳かし…はーどっこいしょ、とたぬきはたぬ太郎が普段腰かけていたクッションに腰を下ろした。
その行為を咎めようと手を伸ばして…その手を下した。たぬきの言うことが本当ならば、たぬ太郎は名前を得てたぬきと言う集団から離れた時点で、消えるしか無かったのだ。
愛を知りたいが故に個を持つことを選ぼうとした…それが死に繋がるとたぬ太郎は知っていたのだろうか？
もし知っていたとして、己が死ぬというにも関わらず愛を得たいと願うのは、そこにどれほどの苦痛があったのか？
家族や友にそれほど執着しない俺にはその思いは理解出来なかったが…それは個を持ち愛を知る人間故の傲慢からなのだろうか？
『たぬきは自分自身を愛されたことが無いし…それが寂しいし……』
たぬ太郎の悲痛な声と、手に残ったずっしりと重い勲章だけが俺の部屋に残されていた。