No.59「だし」


「もどきもいないし…ここは楽園だし…」
居並ぶ木々の端々から伸びた緑の傘に覆われた山の中で、たぬき達がのびをした。大して伸びていない。

「うどんダンス踊る場所もいっぱいあるし…」
「今日もタイミングばっちりのいいダンスが踊れましたし…」
「木の実もたくさんあるし…虫もいっぱいいるし…」
「探せばすぐ見つかるからごはん探しに時間かけなくていいし…」
「たぬ木もあるからちびといっぱい出会えるし…」
「ｷｭｳｷｭｳー♪」

この山では、大勢の野良たぬきが野放しになっていた。
鳴き声を発するだけで、毛皮に覆われて害獣と認識しやすいたぬきもどきはすぐに駆除できるが、人語を用いて人間に近いたぬきは仕留めづらいという心理がこの山に住むたぬき達を生かしていた。
カラスや他の野生動物達という危険はあったが、適当な生態とすぐリポップするために個が簡単に死んでも群れとしては存続できていた。
エサや住処となる場所も豊富であり、ここのたぬき達は争うこともなくまた人里に降りる事もなく静かにションボリと暮らしていた。

───否、静かではなかった。

「あそこの木の下のたぬきは自分は昼寝ばかりでちびにごはん集めさせてるし…」

「ひどいたぬきだし…そういえば…あそこのほら穴の家族のちびはあちこちにうんちしまくって迷惑だし…親の教育が悪いし…」

「それたぬきも知ってるし…こないだうちのちびが“ごはん拾ってきたし！”って言うから何かと期待したらそこのちびのうんちだったし…」

「げろげろし…」

「そういえば知ってるし？ここから上に行ったところに美味しい木の実がなってたし…」

「それ詳しく聞かせて欲しいし…」

「たぬきも知りたいし…」

うどんダンスとモチモチ以外にやる事がないので、喋れる大人たぬき達はエサ集めの時間以外は井戸端会議に夢中になっていた。
中身のない会話でも、同じ様な内容の繰り返しであってもたぬき達はそれをやめられない。
他の野生動物が持たない、人語を用いるという利点はしかし無駄話に花を咲かせる事にしか使われていなかった。

「ｷｭｳーｷｭｳｷｭｷｭ…」
「ｷｭｯｷｭｯｼ…」
「ﾍﾟﾁｬﾍﾟﾁｬ…ｼ…」

その近くではおませなちびたぬき達が親の真似をしておしゃべりごっこに興じていた。
もちろん鳴き声でしかないので感情は伝わっても会話にはなっていない。


とはいえ、人語を用いるたぬき達は他の動物達と違った形で時として不要なトラブルを引き起こす。
会話は出来ても意思の疎通が出来るわけではないのだ。

───その登山者は、整備された登山道に不備がないか見回りながら歩いていた。
この山は初心者用のコースがいくつかあり、ハイキング程度を楽しむのにちょうど良いとされ人の往来もそれなりにあった。
山にたぬきが現れてからは、利用回数の多い登山客の中には特にゴミ拾いに精を出す者も現れた。
生き物が生きる限り何かを消費するのは仕方のない事だ。
それによって代謝されるものが放置されるのもある程度は防げまい、とその登山者は考えていた。
しかし問題はたぬきだ。
何しろ中途半端に知恵があり、人間が使う道具も使えるのだと聞けば少しでもたぬきの手に人工物が渡るのは避けたかった。


この辺りでも、たぬきが歩いているのを発見したと聞いたので地面に敷き詰められた枯れ葉や枝の間に注意深く目線を注ぐ。
───ふと、風に紛れて流れてきた匂いを嗅覚が察知し、登山客は顔をしかめる。
糞だ。しかもこれは、雑食性の動物のもの。
草食動物ならこれほどの匂いにはならない。
漂ってくる匂いは野生動物の規模ではなかった。

登山道を離れ、悪臭を辿って行き着いた先にあったのは、近隣の野良たぬき達がトイレとして使っている穴だった。
用を足しに来た野良たぬき達がぞろぞろと姿を現す。
「珍しいし…人間だし…」
「なんか用かし…」
「そこたぬき達のトイレだし…」
「うんち欲しいし…？」
「うちのちびがちょうど出そうだし…あげますし…」
説明はあったが、わけがわからなかった。

幅広く穴を掘り、その周りで用便を行い糞を溜める。
衛生的な観念からではなく、他ぬきの群れに対しこの周囲が自分達の住処であると知らせるためのものだ。
それは、たぬき達の勝手なルールだった。

生き物が生きる限り何かを消費するのは仕方のない事だ。
それによって代謝されるものが放置されるのもある程度は防げまい、という登山者の考えは我が物顔のたぬきだけには当て嵌められる事はなかった。

立ち込める鼻につく匂いと、糞溜まりに危うく足を滑らせれば危険だと感じた登山者はたぬき達の悪質なトラップだと判断し、その場を離れると登山仲間に注意を呼びかけた。


　　　　❇︎        ❇︎        ❇︎


その日、初老の男性は少し登山道を外れて迷ってしまった。
整備されているとはいえ、少しでも歩みを違えれば大自然の中だ。
警察に連絡はしたが、待っている間に話し声が聞こえる事に気がついてそちらに足を向けた。
良かった、人がいる。
道を聞くなり、どこか落ち着ける所に案内してもらえれば何よりだが、まずは誰かと会話できるだけでもありがたい。
安堵して茂みを掻き分けた男性だったが、頭の中を駆け巡った可能性は全て否定される事となる。

「あ…人間だし…」
「こんにちわし…」
「今日はいい天気ですし…」
「ｷｭｳﾝ、ｷｭｳｷｭｳ…」
「ｷｭｯｷｭｯｷｭｳ…」
「ｷｭｳｷｭｳー」

男性が聞いた話し声の主は、たぬき達だった。
他者との遭遇を期待していた男性は舌打ち混じりにガッカリして踵を返していった。

「なんだし…たぬき達が何したし…」
「何もしてないし…」
「あの反応はひどくないかし…？」
「ｷｭｷｭ…ｷｭｳｰｷｭ…」
「ｷｭｴ…ｷｭ､ｷｭｳｳ…」
「ｷｭｳﾝ…ｷｭｳ？」

その後、捜索にやってきた警察に無事保護された先で“たぬき達が群れを成して、山に入った土地勘のない人間を山に迷わせようとしていた”と説明した。


　　　❇︎        ❇︎        ❇︎

週末休暇を利用して、1人の若者が山歩きに訪れていた。
終わりの見えない仕事の忙しなさや日々の喧騒に飽き飽きしていた若者はひとり静かさを求めて山にやってきていたのだ。
自分の身体の、普段使っていない部分を使うことは気持ちがいい。
少しずつ、ささくれ立っていた心がほぐれてきたと感じ始めたところだった。
昆布入り、おかか入りのおにぎり2個と油で炒めたウインナー、卵焼きのシンプルな弁当を水筒のお茶と共に楽しんでいた若者はトボトボとこちらへ歩いてくるたぬきの姿を認めた。

「たぬきもお腹すいてるし…ごはん分けて欲しいし…」
「いや、人間の食べ物はあげられないんだよ。ごめんな」

たぬきに出会っても、人間の道具や食べ物は決して与えないでください。ゴミなど、もってのほかです───。
入山する際に説明を受ける事項の一つだった。

若者は自然を荒らすまいとゴミは全て持ち帰る用意はしていたし、ほぐれ始めた気持ちのおかげでたぬきに対しても攻撃的な気分にはならなかった。
やんわり断って、さっさと諦めてくれればいいとだけ考えていた。

「え…だめなんだし…？たぬきがこんなに困っているのに…し…？」

信じられないといった様子で野良たぬきは食い下がった。
ちなみにこのたぬきは人間の食料のおこぼれに預かれた事は一度もない。
「だめなんだ。山へお帰り」
それ以上話す事はないと、若者は拒絶の意志を示すため手元に視線を下ろし片付けを始めた。

「わかったし…たぬきはごはん持って帰れなくて、ちび達はお腹をすかせて泣くし…今日はションボリして寝るし…」

ションボリしてるのはいつも通りだろ───と思いながらも、若者はたぬきの後ろ姿を複雑な面持ちで見送った。
全ての人間がたぬきに対してこいつ頭たぬきか、と強く出られるわけではない。
中には性格的に争いや暴力を好まない人だっているのだ。
そういう人達にとって、嫌味を言って去っていくたぬきの言葉は心に悪い形で残ってしまうのだった。
若者は山を降りる際、たぬきがエサを強要してきて全然リフレッシュ出来なかったと山小屋の管理人に伝えた。


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直接的な被害はないが日に日に増していく人語を用いる野良たぬき関連のトラブルに、森林ボランティア団体は頭を悩ませていた。
大々的に山に分け入り駆除をするほどの予算も人手もない───けれども無視を決め込むにはクレームが多すぎる。

その日の報告に混じっていたのは、モニターとなる場所を募集している企業からの連絡だった。
───この山ではたぬきのトラブルが起きていると聞いた。たぬきに有効と思われる薬剤を開発したので問題がなければ使わせてほしい───と。
説明を受けた森林ボランティア団体は、他の動物達や自然への影響を確かめた上で、“それ”を受け入れる事にした。

企業は早速、ヘリコプターやドローンを使い、薬剤を山に散布した。
天より撒かれし“それ”は、寝ているたぬき達の鼻腔や口内に入り込み本たぬ達も預かり知らぬ間に侵食していく。
浴びず、吸い込まずとも───たぬき達が好む木の実にも付着し、その実を食べた個体にも影響を与えていった。

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「ちび…どしたし…ままはこれからお喋りに行くんだし…」
1匹のちびたぬきが、親たぬきのしっぽをぐいぐいと引っ張っていた。
「いつもはいい子なのに、寂しくてワガママ言ってるんだし…？」
親たぬきが振り向き、困り顔を向けるとちびたぬきは小さく結んだへの字を開いた。
「ﾀﾞ…ｼ…」
「おお…ちび…もうすぐ喋りそうなんだし…」
流石の親たぬきも、これには足を止めた。
ｷｭｰｷｭｰ鳴くだけだった我が子が、自分達と同じように言葉を使い始める。
生命の神秘とも言えるこの瞬間は、どのたぬきにも等しく訪れる尊いものだし───とたぬき達は勝手に思い込んでいる。

初めて聞くのは、やっぱり“まま”がいいし。
親たぬきは、心のたぬきにうどんダンスを踊らせながらちびたぬきの言葉を待った。
ちびが小さな身体を震わせ、声帯を伝って出た言葉は。
「ﾀﾞｼ…」
「おお…ちび…」
「ﾀﾞｼ…ﾀﾞｼ…」
しかし、それ以上は続かなかった。
むにゃむにゃと口を動かすが、単語らしいものも出てこない。
「ああ…惜しかったし…」
何かを言いかけているのはわかるが、それが今このちびの精一杯なのだと親たぬきは判断した。
とはいえ、お祝いとしてその日はお喋りに出かけずにいつもより甘い木の実を出してやりずっとモチモチをして甘やかし続けた。
もちろん次の日は、我が子が話せるようになった事を自慢げに仲間達に語ったのだった。


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「あれから何日も経つのにちびが一向に喋れないないままだし…」
「ﾀﾞｼ……」
夕食を終え、寝床の用意をしながら親たぬきは首を傾げた。
ちびはションボリと身をすくめる。
「天才だと思ったのに…実はそうでもなかったし？」
「ﾀﾞｼ…ﾀﾞｼ〜…」
ちびたぬきが、何かを訴えかけるように親たぬきのお腹に縋りついてくる。
もしかして、ガッカリしたのが伝わってしまったのか。
親たぬきは気を取り直し、不安そうな表情を向けるちびの頭を撫でてやった。
「まあいいし…ちびはちびだし…」
「ﾀﾞｼ…」
「ふふふ、し………ん゛っ……じ…？」
親たぬきは喉がひりつくような違和感に気がついたが、寝たら治るだろうと楽観視して眠りについた。


───翌朝。
今日も朝のうちにご飯集めを終えて、お昼からはずっとお話するしと考えていた親たぬきは、朝の体操がわりのうどんダンスために枯葉のベッドからのそのそと姿を表す。

眠たげに目を擦るちびを連れて、集会所がわりに使っている森の広場へと歩いていく。
他ぬき達は、すでに集まっていた。
何匹かの見知った顔を見つけ、手を振り呼びかける。
「だーしー…」
おーい、と言ったつもりが、言えていなかった。
「だし…？」
おかしい───違和感の正体は、自身の口から発せられた言葉だった。
どんなに頑張っても、だし…としか言えないのだ。
「だし…だし？」
「だし……だしだし」
「だしっ…だしっ…」
他ぬき達も同様だった。
お前もかし？といった様子で手を突きつけた野良たぬきに、別のたぬきが頷いて応じる。

足元では、どのちびたぬきもﾀﾞｼ…ﾀﾞｼ…としか喋れずに震えている。
少し前に喋り始め、快活そうだった子も言葉を奪われていた。
こうなるとどの子がどこの子だったかも判然としなくなってくる。

うちの子はとっくに喋れるようになってたんだし。
異変を、たぬきに教えようとしてたんだし。

身体の小さなちび達から影響が出始めていたのだと、親たぬきはこの時になってようやく理解したのだった。

「だし…だしだし…！」
「だし……」
「だじじじじ！だじじじじじーーー！」
喉元を抑えて“だし”以外の言葉を搾り出そうとしても、何も変わらない。
お喋り好きのたぬき達は絶望した。
同じたぬきといえども“だし”だけでは細かい表現や(たぬき的に)ウィットに富んだ会話は不可能だ。


この山一帯に散布された薬剤こそが、とある企業がたぬき対策として開発を始め何千何百の実験たぬきを犠牲にして生まれた、人語抑制剤という技術の結晶だった。
たとえたぬきといえど、完全に発声を封じるのは難しい。
ちびたぬきのような鳴き声にしてしまうと甲高く耳障りな周波数となるので却って不快感を増してしまう。
どのたぬきも有する特徴的語尾である“だし…”を残すのであればたぬきのションボリのみに反応し、脳の言語野に作用する事が可能だと実験の過程で判明し一応の完成を見たのだった。
全てを奪い去るのではなくあえて一部を残す事で、これは異常ではないとたぬきの脳を騙す。
そうして出来上がった“人語抑制剤”の最終実験場を探していた企業にとって、山たぬきによる騒動は渡りに船だった。
ここでの実験を経て製品化となればいずれは飼いたぬきにも用いられ、完全なるペット化を実現する事も可能だろう。



自然の多い地域では街中と違い、リポップ抑制剤の散布領域が広範囲にわたりカバーしきれない為リポップを防ぐことは難しい。
しかし“人語抑制剤”は言語を奪う事によりたぬき達の活動に制限をかける事が狙いだった。
話しかける事が出来なければ、たぬきは人間に近寄ろうとしないのは実験たぬきで証明済みであった。


また、たぬきを死なせるわけではない分、山や動物を管理する団体の了承も得やすかった。
身体に取り込んだ人語抑制剤の成分はションボリしている限り身体に残り続け、モチモチなどの接触によっても感染が広がるのであっという間に山に住むたぬき達は会話能力を失った。

一方のたぬき達も、喋れなくなるだけでお腹は空くし生きていかねばならない。
ただ他の野生動物と異なり人語を用いるということは独自の文化や風習を持つ事にも繋がる。
そこから生まれる娯楽や表現の自由を失くして生きるのは、たぬき達にとってこの上ない精神的苦痛となった。

「だ、し、し…だし、し…だ、し、し…だじじじじじじ！」
それは、注意深く聞けばうどんダンスのリズムを取ろうとしているのだとわかる。
わかる───が、“だ”と“し”しか使えないのではたぬき同士でも理解は難しい。
音としてハミングする事は出来ても歌詞を発する事が出来なくなった野良たぬき達は各々のタイミングが合わせられず、たぬきの言うところの“いいダンス”が踊れなくなってしまった。

会話だけでなく、うどんダンスというコミュニケーション手段を奪われた野良たぬき達のコミュニティは、衰退の一途を辿っていった。

集まっても話ができないので集まる事もなくなり、山中で仲のいいたぬきを見つけても、
「だし…」
と呟くか、無言でわずかに頭を下げてすれ違っていくだけになっていった。
どこか不満げで不遜なへの字に結んだ口元を開く事なく、トボトボ…としっぽを引きずり歩くしかないのだった。
その表情の裡にどれだけの悲しみが込められているのかも、伝える術はない。


　　　❇︎      ❇︎      ❇︎


「だし、だしだし…だし？」
「ﾀﾞｼ……ﾀﾞｼﾀﾞｼ♪」
1匹の親たぬきが、ﾀﾞｼﾀﾞｼ言いながら住処の中でところ構わず糞尿をひり出す我が子を、トイレとして使っている穴の前まで連れていく。
以前のように群れの住処を主張する必要はなくなったので、むしろ個の住居を他ぬきに知らせるために住まいの近くに穴を掘っていた。
群れで使っていた穴は、近寄らないうちに人間達の手で埋められてしまった。

“トイレはここでするんだし…”と言い聞かせるようにちびたぬきのほっぺを寄せ上げてモチモチする親たぬきだったが、ちびたぬきはわかっていない様子で手足をぱたぱたさせる。
「ﾀﾞｰｼｰ♪」
「…だし…」
親たぬきはため息混じりに呟くが、どのように嘆いているのかは他の誰にもわからない。
言葉を使って教育してきたので、何がよくて何がだめなのか全て身振りで説明するのは苦労の連続だった。
食欲の赴くまま毒のあるキノコや草に手を出そうとしたなら、場合によってはモチリと殴りつけて止めねばならない事もある。
しかしその後に何故叩いたのか説明が出来ないため、ちびからすれば一方的な暴力でしかない。
また一方で、きちんと朝起きられたりエサの虫を見つけられた事を褒めてやりたくても、撫でられているちびは特別な行為だと感じる事も出来ない。

情操教育を妨げられ、心を育む事のできないたぬきはやがてたぬきもどきよりも野生に近づいていくだろう───というのが人語抑制剤の開発に携わった人間の弁だった。


心だけでなく、ちびの身体的な成長の度合いも大きさでしか判断できなくなっていった。
ハイハイから二本足で立てるようになり、言語を習得し、うどんダンスを全て踊れるようになる───という成長の過程を得られなくなってしまったのだ。

これらの出来事から発生したションボリの分、たくさんのちびたぬきがポップしていったが山の所々に残った薬剤の成分に触れたちび達は漏れなくﾀﾞｼ…という鳴き声しかあげられなくなった。
勲章をもらえる見込みも、我が子の成長を感じる機会も少なくなってしまった今では、野良たぬきにとってちびたぬきとはモチモチする相手程度の感覚でしかなくなった。
本能に従ってちびを保護することをやめたり育児を放棄して捨てる者が現れ始める始末だった。


山の奥では、放置され野垂れ死んだちびたぬきの死骸が以前より明らかに多く散見されるようになった。
もっとも、人の踏み入らない領域での話なので見かけた野良たぬきがションボリするだけで誰かが心を痛めるような光景ではなかった。



山歩きにやってきた男性が岩に腰掛け水筒の水を飲んでいると、野良たぬきがトボトボと歩いて来るのが見えた。
「ん…なんだ、たぬきか」
「だし…だし…」
げっそりとした表情でお腹を抑えて何かを訴えかけてくる。
“お腹すいたし…ごはんわけてし…”
と相変わらず物乞いをやめられなかった野良たぬきだが、
「だしだし鳴いてるだけだから何言ってるかわかんないな」
「だじ…だじじだじ…」
“ちび達もう死んじゃったし…たぬきも死にそうなんだし…”と言っていたが、元々表情に乏しいたぬきが動きだけで何かを伝えることは不可能なので、当然理解は得られない。
精々音を低く濁して、だじだじ唸る事しか出来ないのだった。
元々相互理解が不可能な人間とたぬき達であったが、例の薬剤によりたぬきは一方的な発信さえ封じられてしまった。


「おら、あっちいけ」
男性はうるさげに足元の石を投げつける。
本気で狙ったわけではないが手首のスナップを効かせて放たれたそれは、たぬきの頭を鋭く掠める。
「だ…じ、じ…」
目から涙を、こめかみから血を流しながら、野良たぬきは諦めてションボリ、トボトボと去っていった。
「何だったんだ、アイツ」
もはや人間が、言語野を抑制されたたぬきの真意を推しはかる事は出来ない。
他の動物達と同じような扱いを受ける事しか出来なくなってしまったのだ。


元々、人前に姿を表す事は少ない山住みのたぬき達だったが言語を失った事でさらに山の奥へと引っ込み、接触する機会は激減した。


しかし不思議なもので、人語を用いる事がなくなると獣同然と判断してたぬきを狩る人間が現れ始める。
わざわざ山へと踏み込んで、うずくまっているたぬき達を次々と捕獲していった。

「今日は山でたぬき親子取ってきたよぉ。ちびもたくさん連れとったわ」
「おお、こりゃええな。一杯やろう」


たぬき肉は鍋で濃いめに味をつけると美味しく食べられるという事が広まり、下剤による腸内洗浄の時も“だし…だしし…”と呻くだけで、捌く時も“だし！だしーー！”としか泣き喚かないので心理抵抗も少なくなった。
たぬき狩りに勤しむ人々はﾀﾞｼﾀﾞｼとしか言わない弱いちびたぬきから首を捻ってカゴに入れていき、“だしだしだしだし！！と何か文句を言っているらしい親たぬきをその後で締めるという手順も忌避感なく行った。


とある家庭で、座卓の上のカセットコンロに色とりどりの具材が盛られた鍋が載せられた。
白菜や葱、にんじんや牛蒡などと茹でられているのは具材をつまみ食いしないよう手足をもぎ取られただけの親たぬきだった。
もぎ取られた手足も一緒に並べられてプルンとした肉を揺らしている。
無駄に高い生命力のせいで、こちらは既に事切れたちびの死体と一緒に、鍋の中で揺られながらも“だし…だし…”と呟いている。
───あ、そうそう。もう少し出し汁足さないと。
人間達は食卓を囲みながら、やっぱりたぬきは出汁が命だなと思ったのだった。


オワリ

