
No.60「実験」

「もどきもいないし…ここは楽園だし…」
白く、四角い部屋の中でたぬきがのびをした。大して伸びていない。
「何もないけど広いし…うどんダンスいっぱい踊れるし…」
「ジタバタもし放題だし…」
「別にそれはしなくてもいいし…」
「ちびがたくさん走り回れるし…」
「ままー、ここなんにもないし？」
「仲間がいっぱいいるし…ほら、あそこの子達と遊んでおいでし…」
「わかたしー！あそぼうしー！」
「…し…よろしくし…」
「追いかけっこするし！」
「かくれんぼ…はできないし…」



たぬきは…生まれた頃からいい事なかったし…。
スラム育ちで…ごはんもちゃんと食べれなかったし…。
身体小さいし…服も下がないし…お尻丸だし…。
人間達に捕まって…ひどい事されると思ってたし…。
でも、ここに連れて来られて…ここ窓ないから今が朝なのか夜なのかもわかんないけど…ひとまずひどい事はされてないし…。

なんでも最初にしてもらった説明によると、たぬき達は病気らしいし…。
いつどんな風におかしくなっちゃうのかわからないから保護してくれたらしいし…。
でも、もし発症してもちゃんと病院に連れて行ってくれるらしいし…安心だし…。
ここの人間達はたぬきと仲良くしたいらしいし…よかったし…。


この部屋はあったかいから下の服がなくてもへっちゃらだし…。
他にも服がないたぬきや全裸のちびもいるから恥ずかしくないし…。

入った時から何回かお水を頭から被せられたし…濡れるとションボリしちゃうけど…風邪をひかないように乾かしてもらえるし…。

うんちは「用便願いまーし…」って言って行かなきゃだけど…なんか人間のいっぱい居る部屋の真ん中に置いてあるハンドル付きのアヒル型トイレでさせてもらえるし…お尻も拭かせてもらえるし…。
部屋に戻る時に後ろ向いたら人間達がたぬきのうんち調べてたし…うんちする時に見られてるのも含めて恥ずかしいし…。
けど…うんちでしっぽがくさくならないのは嬉しいし…。


もっと嬉しいのはひとりひとり、お皿に自分だけのごはんを出してもらえる事だし…。
赤とか青とか色んな色のお皿で分けられてて、見た目は同じだけど匂いが違うみたいだし…たぬきのは服と同じ緑だし…お気に入りだし…。
他のお皿のごはんの味も気になるけど、違う色のお皿のごはんをつまみ食いするのはダメって人間達が言ってたし…。


ダメって言われてたのに横のたぬきが余所見してる間に違う色のお皿のごはんを盗み食いして早速連れて行かれたたぬきがいたし…。
ルールを守れない悪いたぬきだし…。
きっとおしりペンペンだし…。
でも…育ち盛りで「もっと食べたいし！」って大泣きするちびに困ってる親たぬきがいて…やさしい他ぬきが「お皿の色違うけど…おちびちゃんこれ食べていいし…」ってあげてたら…どしてか、ちびが連れて行かれちゃって親たぬきもあげた他ぬきもションボリしてたし…ちびにおしりペンペンは勘弁してあげてほしいし…。



誰かがこぼした楽園という言葉により、もう死んでしまったスラムの大人たぬきから、幼い頃に聞かされた楽園の話を想起する。
あれは、どういう話だったか───。
下半身裸のたぬきが思い出すべく、うつむいているうちにトイレに連れ出してもらう際以外は固く閉じられている扉が開いた。


「あ…いつもの人きたし…」
「ごはんの時間だし…」
配膳のためにやってくる何人かの人間たちは、白い防護服に白い手袋、白い長靴で完全に真っ白だった。
マスクとゴーグルで表情も性別もわからない。
そもそも、いつも同じ人なのかどうかもたぬき達は把握していない。

扉の向こうからやってきた彼らによってエサ入りのお皿が並べられていくと、行儀よくお皿の前に向かっていき待つたぬき達もいれば黙々と配膳する人間達に群がるたぬき達もいる。
「人間さんいつもありがとうございますし…」
「お礼にちびを撫でさせてあげるし…」
「ｷｭｯｷｭー！なでてほしいしー！」
「逆にモチモチさせてくれませんかし…」
「人間にさわったことないし…さわりたいし…キュウン…」
「たぬきと仲良くしたい割にモチモチさせてくれないし…ほんとに仲良くしたいし？」
「遊んでし…たぬきと遊んでほしいし…」
「ここたぬきばっかりで飽きたし…」
「まま…にんげんさんなにもこたえてくれないしぃ…」
「忙しいんだし…お仕事の邪魔しちゃダメだし…」
「ｷｭｳｳｳ…あそんでしぃ…」

「あいつらいくら人間が好きだからってちびみたいに鳴いて媚びすぎだし…」
「喋れるちびまで真似してｷｭーｷｭー鳴き出してるし…」


配膳を終えた人間達が去り、扉が閉まってションボリした群がりたぬき達が皿の前にやってくる。群がっていないたぬき達はとっくに食べ始めていた。
「いただきまし…」
「モグモグし…モグモグし…」
「コリコリし…ちび、おいしいし？」
「し！」
「キュウウ…同じ味で飽きてきたし…」
「ちょびっと交換しないかし…？」
「やめとけし…連れて行かれちゃうし…ギュウ…」
「うちのちびまだ帰ってこないんだし…人間に聞いても教えてもらえないし…」
「その節はごめんし…違うお皿のごはんをたぬきがあげたからだし…あのおちびちゃん悪くないし…」
「いいんだし…ガマンさせなきゃいけなかったんだし…結局、同じ色のお皿の自分の分あげてた親たぬきだって…ちび連れて行かれてたし…」
「……し…」


食べたら寝る。暇な時も寝る。
やる事がないので、とにかく寝るしかない。
普段走り回ったりうどんダンスを踊る元気があるのはちびたぬきや若いたぬきだけだ。
「お腹いっぱいになったし…」
「ねむいし…」
「ねるし…」
「今が夜かもわかんないけどおやすみし…」
「ｽﾋﾟｨ…ｽﾋﾟｨ…」
「ちび可愛いし…たぬきもねるし…」
なんと1匹あたり2枚の毛布が支給されており、下に敷く分と身体に掛ける分で快適な眠りに就くことが出来た。
連れて行かれた他ぬき達に割り当てられていた余分の毛布は、ちびたぬき達の遊び道具に使わせてやれば、頭から被って“オバケごっこだしぃ！”とはしゃいだり丸めてみんなで使う枕がわりにしたりと大人たぬきも思いつかない柔軟な発想で活用していた。



眠りの浅い誰かが目覚め、ごしごし目を擦っていると誰かが動く音に呼応して他ぬき達も身を起こし始める。
「おはようし…」
「窓も何にもないから朝かどうかわかんないけどし…」
「キュキュー…」
「キュウ…？」
「ギュウ…キュー…」

「どしたし？」
「何人かちびみたいな鳴き声になってるし…」
「キュウ、キュウウー…」
「キュウウウ…？」
「声は大人のままだからこわいし…」
「ｷｭ…ｷｭｳｳｳ…」
「まま…なかよしだった子もしゃべれなくなったし…」
「ほんとだし…なんでし…？」
「ねえねえし…ダンスおどろうし…」
「…ｷｭ！」
「きっつっね♪たっぬっき…」
「ｷｭｯｷｭｰｷｭ♪ｷｭｯｷｭｯｷｭ♪」
「何言ってるかはわかんないけどちゃんとおどれるし…」
「じゃあいいかし…たぬき達は気にしないし…」
「キュウ…キュウ…！」
「あ…こいつはイヤそうだし…」
「泣くなし…モチモチしてやるし…」


　　　　❇︎      ❇︎      ❇︎


同敷地内の遠く離れた研究区画で、監視カメラの映像を複数の人間が見つめていた。
「ケース315か。今回の実験は10匹ずつ4種類の錠剤を混ぜての実験だが…効果の発現にも個体差が現れているな」
「いきなり各パターンから1匹ずつ消去ですが…」
「たぬきだから…数はたくさんいるし…ね？」
「まずはちびたぬきと同じように鳴き声しか出せなくなる成分が効き始めました」
「んん…なかなか耳障りだな」
「あと、これだともどきを呼び寄せてしまいそうですね」
「それでは本末転倒よね…」
「全てのもどきが綺麗に血肉の後始末をするわけではないですしね───」
「まあたくさんいるんだ、気長に行こう」
「そのサンプルはこっちに回してくれ。脳と声帯だけ調べる」

程なくして、固く閉じられた扉が開く。
「キュウ？キュウウー？」
「ｷｭｯ…ｷｭｳｳ！」
声が変になってしまったたぬき達はやってきた人間達の小脇に抱えられて、力無くジタバタしながら連れて行かれてしまった。

「たぶん病気を治してもらうんだし…」
「いってらっしゃいし…」
「まま…ちびのおともだち、ちゃんとかえってくるし…？」
「病気が治るまではわかんないし…」
同族達のお尻やしっぽを見つめて、たぬき達は寂しげに鳴いた。

　　
　　　❇︎      ❇︎      ❇︎


しばらくは眠くないのでゴロゴロしたり踊ったりちび達は走り回っていたが、だんだんとダンスを踊れなくなったり、妙に気が短くなったりするたぬきが現れ始めた。
「きっつっね…た…なんだし？」
「うん…？どうしたし？」
「この次…なんだっけし…」
「たぬきだし…」
「出だしから忘れてるし…？」
「なんか…アタマの中がまっしろになっていく…し…？」
「いいからおどるし！はやくはやく！ダヌー！し！」
「せっかちなたぬきだし…」

「あうーし…あぅぅ…」
「どしたし？」
「アタマおさえてる子がたくさんいるし…」
「アタマいたいし？きょおは、かけっこやめるし？」
「あう…し…ちびは…ねんねしたいし…」
ちびの中でも、リーダー格で慕われていた子以下、何匹かが顔を青くして脂汗の浮いた顔を見せ始めた。


　　　❇︎       ❇︎       ❇︎


「ふう…し…休憩するし…」
「ちびの鳴き声になっちゃったたぬき達どうなったかし…」
「あいつら戻ってこないし…」


「ば…ば…し…」
「ばっし…？なんだし…？」 
1匹のたぬきが、ぶるぶると身体を震わせたまま立ち尽くしている。
何か言いたげだが、聞き取れなかった他ぬきが近づいた途端、
「ばぶーし…ばぶーし！」
顔を真っ赤にして仰向けにジタバタし始めた。目尻には涙を溜めている。
「え…どうしたし」
「急に赤ちゃんちびみたいになったし…」
「これ知ってるし…赤ちゃんちびのフリして気を引こうとしてるんだし…たぬきもこんな頃あったし…」
「そうなのかし…」
「確かに引いてるけどし…ドン引きだし…」
「妹は先に病気で死んじゃったからばぶーしする必要なくなったけどし…」
「それは…し…」
「妹生きてたらずっとばぶーししてたし…？」
「やめてやれし…そこにふれるな…」


1匹のたぬきが気付けの要領で、ばぶーしと言い出した大人たぬきの頬をモチモチと叩く。
「おい…しっかりしろし…」
「ここじゃ赤ちゃんのフリしたって意味ないし…」
「ばぁぶし！ばぶぅぅし！」
「なんだしこいつ…赤ちゃんちびのフリしながら怒ってるし…」
「ﾊﾞﾌﾞｰｼ！ﾊﾞﾌﾞｰｼ！」
「ほらちびまで真似してるし…遊びのリーダーやるぐらいしっかりしてた子にこんな事させるなし…」
「ばぶうううし！」
「寝たままジタバタやめないし…こいつ頑固すぎるし…」
「ほっとくし…そのうち飽きるし…」
「ﾊﾞﾌﾞｰｼ…ﾊﾞ…ﾌﾞｩｩｩｼ…」
「あ…このちびおしっこもらしてるし…」
「用便願いまーし…あ、たぬきじゃありませんし…そこのちびだし…」


そのうち、複数の大人たぬきとちびたぬきがばぶーしの大合唱を始めた。
他ぬき達は耳をぺたんと伏せたまま、無視するようにションボリと部屋の端へと歩いていく。
壁にもたれ掛かり、前屈みに倒した頭を抱えるようにして伏せた耳の端を引っ張り両手で塞ぐ。
「うるさいし…」
「静かにしててほしいし…」
「ままー、おともだちがずっと泣いてるし…」
「うーんし…他所のちびだけでも泣き止ませたいけどし…」
「抱っこして連れていっちゃダメかし…見てらんないし…」
「やめとこうし…何故か大人たぬきが余計泣いてうるさくなるし…」
「まるで自分達を蔑ろにするな…ってワガママ言ってるみたいだし…」


「ばぁぁあぶううし！」
「ばぁー！ばぁぁー！し！」
「ﾊﾟﾌﾟｩｩｼ！ﾊﾟﾌﾟｩｩｼ！」
周りに誰もおらず、構われない寂しさからか複数のばぶーしたぬき達は大小問わず競うように泣き叫び始めた。
「こわっ…し…」


配膳係の人間がやってきて、自分達のお皿が並べられても、青い皿の前にはたぬき達は1匹も向かわなかった。
ずっと仰向けに寝転んだままばぶばぶしと呟いたり、四つん這いでハイハイしてうろうろしている。
「ばぶ…ばぶ…し…」
「ばぶぅし…」
「ﾊﾞﾌﾞｰｼ…ﾊﾞﾌﾞｰ…」
「ﾊﾞﾌﾞｩｼ…」
「え…まだやめないし…？」
「引くし…」
「ずっと寝転んでるからごはん片付けられちゃったし…」
「もしかして起きれないんじゃないかし…？」
「ちびはいいけど大人たぬきのお世話はしたくないし…」
「うんちとおしっこで臭いし…近づくのヤだし…」

　
　　　❇︎       ❇︎      ❇︎


監視カメラの映像を眺めて、何人かの研究者達が感想を述べていく。
「ううむ…悪くないんだけど、やかましいな」
「精神そのものを退化させてばぶーししか喋れなくするのはいい線いってるかと思ったんですけどね…」
「山でこれを撒くとばぶーしの大合唱になるな…」
「うーわ…嫌すぎる」
「アホな個体だけだと思うが、結果的に山に住むたぬきを増やしてしまいそうなのも問題だな」
「ああ…ばぶーしたぬきを赤ちゃんたぬきだと思ってフラフラ近寄っていくと？」
「何より精神そのものを落とすのは不可能ではないが回数が必要になる」
「それだとコストがかかりすぎて現実的じゃないですね…」


　　　　❇︎        ❇︎       ❇︎


再びやってきた人間達が、ばぶーしたぬき達を連れて行く。
抱え上げると漏らした尿や糞が床に溢れてしまうので、すぐさま麻袋に詰められてしまった。
不安なのか、袋の口からは“ばぶーし！ばぶううしぃぃ！”と悲痛な泣き声が漏れ出ている。
台車に乗せられ、もごもごと揺れる麻袋が運ばれて行ってしまった。

「あ…連れて行かれちゃったし…」
「たぶん頭ちびになっちゃう病気なんだし…」
「こわいし…治ってほしいし…」
「前連れて行かれたたぬき達も戻って来ないから心配だし…」
「そのせいかここも随分と広くなったし…」



半数ほどに減ってくると、流石に不安がたぬき中に伝播し始めたようだった。
しかし次の睡眠から覚醒した時、次のグループにも異変が起こっていた。

「ふあぁ…おはようだし…」
「ちび…おきるし…」
「まだねたいし…ｷｭｳー」
「まま…おきてチ…」
「タヌ…？もう起きる時間だち…？」


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「だち…？何かお前もへんだち…」
「お前もだち…」
「大人なのにそんな喋り方おかしいち…」
「ままもだチ…」
一部のたぬき達の語尾が変化させられていた。
いわゆる天使たぬきと同じものになっている。
「なんでだちぃぃぃ！やだちぃぃぃ！」
語尾が変化したたぬきの1匹が、ジタバタしながら喚き立てる。
まるで天使たぬきのような見苦しさで研究員達の溜飲は下がったが、結局は耳障りだと思う心が勝ってしまった。


「情けないち…だち…って…なんで喋れないち…」
「こんな時はおどるち…」
「きっつっね♪たっぬっき♪…」
けれども、うどんダンスの歌詞は歌えてシッカリ踊れたので本たぬ達はその内あまり気にしなくなってしまった。


ただし、未だ変化が起きていないたぬき達は違った。
「モチモチしたいち…そこのたぬき、たぬきとモチモチしませんかち…？」
「え…いいし…やだし…」
「いいんだち？いやなんだち？どっちだち？」
「やだし…」
「えぇぇえええ…ち…」


「あいつら変だし…」
「近寄らんとこし…」
「ままー、あのたぬき達しゃべりかたヘンだし…」
「しっ…そんな事言っちゃダメだし…」
「けど、うつるかもしれないから、だちだち言ってる子とは遊んじゃダメだし…」
「ええ〜し…もうともだちも少ししかいないのにし…」

「きょうは、なにするチ？」
「えっ…し…」
「おいかけっこやるチ？タッちされたらにげるやくこうたいするやつ！」
話しかけられたちびたぬきは“え…やだし…さわられたくないし…”と思ったが露骨に嫌がるとションボリしてしまうだろうと考え、
「きょうは…やめとくし…おなか、いたいし…」
「そうなのチ…？おなか、モチモチしよっかチ…？」
「やめてし…！」
「あえ…？」
仮病で乗り切ろうとしたが、語尾変化ちびの馴れ馴れしさに強い拒絶の態度を取ってしまった。
「だチ…だチ…」
語尾変化ちびはびっくりして一瞬硬直したものの、
「…だチィィイイイイ！」
我に帰ると堰を切ったように溢れ出す感情を爆発させ、大泣きしながらジタバタし癇癪を起こす。
あまりのやかましさに、普通のちび達はイヤそうな顔を隠さずに離れていった。


「今日もいいダンスだったち…」
「腰の動きがキレキレだったち…」
「いい汗かいたち…」
「ちびお腹すいたチ…」
「ちびのおなかのたぬきもぐーぐーないてるチ…」


　　　　❇︎       ❇︎       ❇︎


「親たぬきもちびたぬきも気にせず普通に会話をしてる…」
「やっぱたぬきは頭たぬきだわ…」
「もしこの言葉遣いのたぬき達を何の変哲もないスラムに放り込むなどすれば即座にいじめの対象となるだろうな…」
「だがそれは、我々の目的ではない」
「うーん…喋り方を変えてみてもやかましさは変わらないですねぇ」
「いい線いってると思ったんだけど───」
「結局、喋ること自体は抑えられないからな」
「無気力にしながら、言葉を無くすなんて一挙両得な方法などありはしないか…」
「語尾を変えるだけならたぬきの脳を簡単に誤魔化せるんですけどねー…」
「完全に言語機能を失わせようとすると生存本能が勝ってしまうようですし…」
「喋らなくなる代わりに他の能力が上がる個体もあったな…」
「脱走を扇動しようとしたり、ね…」
「あれは面倒だった」
「喋り方が幼稚になっても知能や身体能力は落ちていないようですし…」
「とりあえず回収して調べよう」


これまでの実験たぬきでも、壁には何度もぶち当たってきた。
しかし今回の壁は少々分厚く、無理やり突破するのは難しそうだ。
方向の転換を求められて研究者達は頭を悩ませた。
1人の若い研究員が、静寂を帯びた研究区画の中でおずおずと切り出す。
「あの…少し考えていたことがあったんですが…」
周囲の無言の視線が集まり、若い研究員は思わず呼吸を止めてしまう。
即座に気を取り直して、頭の中にある理論を言葉に変換していく。
「全部を奪わずに、部分的に残すというのはいい線行っていると思うんです…」
「話を聞こう」


　　　❇︎       ❇︎      ❇︎


扉が開き、防護服に身を包んだ人間達が語尾が変になったたぬき達を抱えて連れて行く。
「喋り方治してくれるち…？」
「ありがたいち…たぬきこれやだち…」
「なんか馬鹿になった気分だち…」
「きゃっきゃっ…だチ…！」
「ぶぅぅうんチ…！」
語尾変化たぬき達は特に嫌がる素振りも見せず、ちびたぬきなどは普段より高い所にいられる事に興奮して嬌声をあげていた。


9匹となってしまった実験たぬき達は、消毒と称したシャワーに連れて行かれた。
濡れるのが好きでないたぬき達はションボリしながら、しかし病気だから仕方ないし…と渋々受け入れて進むのはいつもの光景だった。
「さっぱりしたし…」
「しっぽ乾いたし…」
「ｶﾜｲ…ﾀｼ！」
「ﾃﾃﾃｼｯ…ﾊｼ…ﾙｼー！」
「ちび…急に走っちゃダメし…」
「今日のお水はいつもと違う感じがしたし…」
「そうかし…？」
「気のせいじゃないかし…」
違和感を唱えたのは、お尻が丸だしのたぬきだけだった。


　　❇︎      ❇︎      ❇︎


異変は、やはり目覚めた時に起こっていた。
「ﾀﾞｼﾀﾞｼ…ﾀﾞｼー♪」
「ﾀﾞｼ…？ﾀﾞｼ！」
「ﾀﾞｼﾀﾞｼ…」
まだ幼く、ションボリに侵されていないちび達が騒いでトテトテと走り回っている。
走り回っているとは言っても、大して速くはない。
「こんな状況でも、ちびは元気だし…すごいし…」
いつもの光景だと、寝ぼけたぬきは安堵した。
しかし、何か違和感がある。
「………ちび？」
「ﾀﾞｼﾀﾞｼ〜♪」
「ﾀﾞｼ！」


    ❇︎       ❇︎      ❇︎


「ﾀﾞｼ…ﾀﾞｼﾀﾞｼ…！」
親たぬきの腕の中で、ちびたぬきが手足を振り回して暴れている。
見た目は何の変哲もない。
ちょっとやんちゃで、けれど決して憎らしくはない活発なちび、といった様子だ。
しかし大人顔負けに喋っていたはずが急に忘れてしまったようにﾀﾞｼﾀﾞｼ鳴くだけになってしまった。
親たぬきは悲しそうな表情で腕の中の我が子を見つめた。
持ち前の元気さで家族を励ましてくれる、自慢のちびだった。
「ちびが喋れなくなっちゃったし…」
「どうしたんだし…？」
「だし…って何が言いたいんだし…？」
「ﾀﾞｼﾀﾞｼ…ﾀﾞｼ！」
「わかんないし…」
「ばぶーしみたいなもんかし…？」
「じゃあまずはモチモチするし…」
そのまましばらく、ちび達だけが喋れない時間が続いた。


「人間さん…ちび達をみて…し…」
「ﾀﾞｼﾀﾞｼしか…だし…」
やがて成体のたぬき達にも、変化が訪れ始める。
配膳係の人間に説明したいのに、上手く言葉が出てこない。
頭の中で考えている内容が、出力されなくなってきたのだった。
それでもやはり、人間達は相手にする事なく配膳を終えて去っていく。


「だだし…」
1匹のたぬきがポツリと呟いた。
やだし…と言いたかったのだろうが、何かおかしい。
「ど、し、だし…？」
何か喉が詰まるような、ひりつくような感覚があった。

───そして、成体たぬき達も“だし”しか発する事が出来なくなった。


　　　❇︎       ❇︎       ❇︎


「だししししし…だしししし…」
顔はションボリしているのに、ケタケタと体を震わせている仲間は、精神をおかしくしてしまったのだとわかった。
たぬき達にとって喋れなくなるのは、それだけ辛いことだった。
「だーーしーーー！だーーーし！だーーーしーーー！」
喉から血を吐き出しながらも、必死に叫んでいるたぬきもいた。
それでも、発する言葉が変わる事はない。


しばらくして扉が開き、配膳係の人間がエサ皿を載せた台車を押して現れる。
「だし…だしだしだし…」
「だし…だーし…」
「だし…だだし…」
寄って来るたぬき達は全て“だし”としか言えないので、困っているという事も伝えられない。
しかしその時たぬき達は、はじめて配膳係の人間の言葉を聞いた。
「やったぞ。成功だ」


喜んでいる。褒められている。
ならば、これはいい事のはずだ。
だったら、どうしてこんなにも───。

おしり丸だしたぬきは、言葉を失ったショックが脳を活性化させたのか、失われていたはずの楽園の話を唐突に思い出した。
その大人たぬきの語った楽園は───いじめられる事もなく、ごはんを出してもらえて、うどんダンスやモチモチも自由にしていい。
ただし、住まうためには身体の中からひとつを差出さねばならない。
しっぽだったり、髪の毛だったり、腕だったり。足だったり。
その代わり、何かひとつだけ差し出せば食と住は保証される。
ちびや勲章や服は差し出したものとして認められない。
ここのたぬき達は、言葉を差し出してしまったのだ───と思い出話に現状を重ねたおしり丸だしたぬきは理解した。

結局、人間はごはんのお皿を置いて去って行ってしまった。
自分達も早く治療を受けたいが、いつになれば連れて行ってもらえるのだろう。
「だし…だしし…」
「……だだし」
言葉を制限されたままのたぬき達の呟きだけが、その場に残された。


　　　❇︎      ❇︎     ❇︎


実験たぬき達が暮らす四角い実験室は床、壁にいたるまでリポップ抑止剤が散布されているので急に増える事はない。
モチモチする相手や最初に連れ込まれたちびは足りているのでちび欲求が暴走する心配もなかった。


1匹のたぬきが、たぬきには見えない毒に染められた扉をモチッモチッと叩き続けていた。

“おねがいだし！たぬきの言葉、かえしてし！
かえしてし！かえしてし！かえしてしぃ！”
「だし！だしし！だし！
   だし！だし！だしーー！」

返事はない。
このまま二度と喋れなくなってしまうのだろうか。
いや、先に行った他ぬき達のように治療してもらえるはずだ。
そして、ここにいる限り少なくともたぬき達は死ぬ事はない。
死ぬまで安心してごはんが食べられる。
なら、喋れなくなるのもしばらくの間はガマンしよう。
なんとか折り合いをつけようとしたお尻丸だしたぬきだが、やっぱり不便なので早く病院に連れて行って欲しいし───という事しか、考えられなくなっていた。


「どうだった。実際に確かめてみて」
「思わずたぬきの前で喋っちゃいましたよ」
「…じきにこのケースも終了する。今のは聞かなかった事にしておこう」
「しかし、1匹だけやたら騒ぐのがいるなぁ」
「外に出して欲しいのかな？あいつ下履いてないし出てもしょうがないと思うけど…」
「さぁ…？別になんて言ってても構わないですが五月蝿いですね」
「でも“だし”だけなら鳴き声として割り切れます」
「もうそいつ以外は全員黙り込んでるから、時間の問題でしょ」
「見ろ。親が構って欲しがる子供の手を振り払ってるぞ」
「あっちは逆に子供が親に抱き上げられても無気力に手足を投げ出してるよ」
「いいんじゃないか？この線で行っても」
「早速、次のグループにはこの成分でいこう。グループ分けは薬剤散布型と経口接種型と───」
「あと接触感染で広がったり、成分が長く残るようにしていきたいですね」
「もう何百体か要りそうだな…忙しくなるぞ」


　　　❇︎      ❇︎      ❇︎


さらに時間が経過すると、実験たぬき達は仲間同士のコミュニケーションを全く取らなくなった。
うどんダンスも、親愛のモチモチもだ。
ダンスはタイミングを取れないし、モチモチは一方的に揉んだり揉まれたりで事足りるらしい。
長く寝食を共にした親子間でさえ、だし…とﾀﾞｼ…では意思疎通はできないのだろう。
1匹ずつ壁にもたれて天井に呆けた視線を送るか、足を投げ出して床を見つめたり、しっぽを抱いて眠るなど───各々が独立して過ごしていた。
情緒を失い、「用便願いまーし…」と発する事も出来ないのでお腹を抑えた実験たぬき達はうずくまり、部屋のあちこちで糞尿を漏らし始めた。


ここまでに残った複数の“だしたぬき”は配膳係の人間が現れてもわずかにそちらを一瞥すると顔を伏せてしまった。
人懐っこい個体もいたはずだが、“だし”しか言えないのではいくら人間に話しかけても無駄だと悟ったようだ。
先述のように「トイレに行きたいんですし」という事すら伝えられないのだから、当然の帰結だった。
これまでは無視されていても一方的に話しかけていたのに、この変わりようは今までにないものだった。


「だし？だしし…だし？」
おしり丸だしのたぬきだけが両手を動かして懸命に何か伝えようとしているが、自分の言いたい事が伝わらないと思い至ったのか、トボトボ…と歩いていき、やがて壁に寄りかかって体重を預けた。
糞尿にまみれたしっぽを引きずるので、擦れた跡で床も汚れていた。


これなら言葉を封じる事で人間に近寄って行くたぬきも減らせるだろう、そして情操教育を失ったたぬき達はより野生に近づいていく。たぬきという種の緩やかな衰退を約束するに違いない。
そうなってやっと、人間とたぬきは仲良くなれるだろう。
研究者達は確かな手応えを得て、さらに実験を進めて行くのだった───。


これらの記録は、人語抑制剤が完成するまでのほんの一部のものだ。
ここから先でも様々なパターンの実験が行われ、さらにその実証のために新たなたぬきが犠牲となっていった。



オワリ



おまけ

ちなみに、他のグループのエサを食べたり規定量以上のエサを摂取し再現度を下げる実験台失格たぬきや、役目を終えた実験たぬきは漏れなく食肉加工場に連れていかれる。
もちろん薬漬けなのでここの実験たぬきに食べさせるわけにはいかない。
もどきを誘き寄せるためのエサやスラムたぬき駆除用の毒エサへと加工されるのだった。
おしり丸だしたぬき達も、トイレ以外で初めて連れ出してもらって研究所から加工場に運ばれた時、先に逝った仲間たちの末路とこれからの自分達の行く末を知るが“だし…！？だしー！”と合唱する事しか出来ずにコンベアに載せられ、たぬ生を終えた。



