No.61「それから」


「だしーだしー」

透明な水槽の中に入れられた成体のたぬきが、何事か騒いでいる。
巨大な水槽の真ん中にはたぬ木の植えられた鉢植えが置かれ、その外周には透明な壁が筒のようにぐるりと鉢植えを囲っていた。
開けられた天面を通り抜けた人間の手により、たぬ木から落下した実の中のちびたぬきが回収されていく。

鉢の周りにはクッションがわりにタオルが敷かれており、落下の衝撃からちびを守るように出来ている。
たぬ木の枝から揺れ落ちた実の中から姿を現したちびたぬき達はまとわりつく果汁をぺろぺろと舐めながらｷｭｰｷｭｰ♪とはしゃいでいる。
そのうち、人間の手に掬い上げられ水槽から何処かへ連れられていく間も、掌の中で弱々しくｷｭ…ｷｭｳ…？と鳴きながらちたぱたと手足を動かすだけだ。

「だし…だし…だだし…」
たぬきは、自らのションボリを基に生まれたちびたぬき達が連れていかれる事に文句を並べているのかもしれない。
しかし、だしだし言うだけなので何を言っているのかはわからない。
連行されるちび達に呼びかけていたとしても意味は伝わっていないだろう。
一瞬も触れることのない我が子をションボリとした面持ちで見つめ、猫背で立ち尽くしていた。
部屋にはこういった水槽がいくつも並べられ、その分だけたぬ木とたぬきがワンセットで存在していた。


「だし…だしし…」
ションボリ供給用の親たぬきが、たぬ木に向かって話しかけている。
通常のたぬきならば、

「ちびが生まれたらいっぱいモチモチしてあげるし…」
「モチモチっていうのはたぬきのお肌とお肌をすり合わせる事だし…」
「これをやるとたぬきは幸せなきもちになるんだし…」
「しあわせっていうのは胸のあたりがじんわりあったかになることだし…」
「うどんダンスをおどれるたぬきはいいたぬきだし…」
「いいたぬきは人間にやさしくしてもらえるし…」
「うどんも食べさせてもらえるかもしれないし…」
「……たぬきはうどんって何か知らないけどし…」

と様々な事を語りかけたりする。
胎教のようなものだろう。
人間の赤ん坊と同じで、話しかけた分だけ、かけた言葉の数だけ生まれてくるちびたぬきは賢く育つ。

しかしたぬきの語彙は大した事がないのでよっぽど賢くない限りモチモチとうどんダンスのやり方、しっぽを濡らしてはいけない事、たぬきもどきが来た時にジタバタしてはいけない事───大抵はこの辺りの話しか出来ない。

話すネタが早々に尽きるとうどんダンスの歌詞を歌いあげる。
しかしこれこそがたぬきにとっては有効で、幼いちびでも親たぬきが踊る際に歌詞を理解して手足をちたぱたさせるのはこの胎教(？)のおかげとも言われている。
実の外殻が作るゆりかごの中で肉体を形成し、すくすくと育つちびたぬき達は親が発する言葉やうどんダンスの歌詞を、生きるための情報として学習していくのだ。

こうして前世の記憶を持たないたぬきにも情報が蓄積されていずれ成長した際には活用されていく───無事に育つ事が出来れば、だが。
親たぬきが楽観的な性格で危険について教えなければ無謀な行動に走るちびが生まれ、愛情の深いたぬきが細かく教えていればちびが成体まで生き残る確率が僅かに上がる。僅かに。

しかし、たぬ木の周りにたぬきがいない場合は情報を得られず、生まれ持った知能あるいは奇跡的に持ち越せた記憶が全てとなる。
そもそも周りにたぬきがいない状態で生まれる事はほぼ死を意味するが───現状において問題となるのは親たぬきが“だし”しか言えない事だ。
ここのたぬき達は水槽に入れられてからすぐに人語抑制スプレーを吹きかけられ、喋る事ができなくなっている。
鉢植えのたぬ木にションボリを供給するのが目的であるため、言語は必要でないと判断されていた。
たぬ木とそれを覆う壁に占有された水槽内はダンスを踊れるほどの広さもないので、だしだし呻きながら、たぬ木の周りをぐるぐる歩き回るしかなかった。

せめてダンスの歌詞だけでも教えてあげたいと声を出してみるが、
「だ、し、し…だ、しし…だし…」
きつねもたぬきも全て“だし”に変換されてしまうので途中で諦めるとじんわりと目尻を湿らせて弱々しくその場でジタバタしていた。


戯れに生まれたちびを1匹だけ摘み出し10日ほど飼育してみたところ、ｷｭｰｷｭｰ鳴いていたちびが人語抑制スプレーをかけなくとも始めの言葉は“ﾀﾞｼ…”になる事がわかった。

胎教を行い、模範となるはずの成体のたぬきが“だし…”としか喋れないのだから、“ﾀﾞｼ…”と話す事が成長の証だと思い込んでしまうらしかった。

もちろん親たぬきの“だし…”にはさまざまな感情が含まれており、同じ“だし…”でも様々トーンやニュアンスを感じる事はできるが所詮耳に入ってくる音は“だ”と“し”だけである。

試しに録音したうどんダンスの歌を流してみるが、ちびたぬきは理解できないらしかった。
まるで頭の上に「？」を載せているようにぼーっとして首を傾げていた。
生まれる前から“だし“しか聞かされていないのでそれ以外の言葉を聞かされても脳が反応できなくなってしまっているのかもしれない。
たぬきからうどんダンスの概念を奪い去る事に成功した事を確認し、ちびの頭を撫でてやる。
決して話しかける事はしない。
「ﾀﾞｼー♪」
再教育を行えばどうなるか興味はあるが、少なくともこのちびには“ﾀﾞｼ…”以外の言葉を喋らせるつもりはなかった。


その後、何度かこの飼育による確認を行ったが、この環境下においては例外なくちびの最初の言葉が“ﾀﾞｼ…”である事を確認し終えるたび、中途半端な大きさになってしまったちびは全てミキサーにかけた。
ドロドロになったそれはちび達のお望み通り“出汁”とあわせて親たぬきの餌用のペーストに作り替える。
親たぬきは何も知らずにそれをぺちゃぺちゃと舐めて「だし…♪」と声をうわずらせていた。

しかしたぬきの肉はションボリで構成され栄養素はほぼゼロなので食べるほどに痩せ細っていく。
食べているはずなのに空腹である自分に首を傾げながらも、満たされない事にションボリを深めたぬ木の実を増やしてくれる。

この親たぬきもそう長くはないだろう。
そのうち適当なたぬきと取り替えられ、自身は美味しくすすっていたペースト餌に作り替えられる末路が待っている。


生まれたちびたぬき達はﾀﾞｼ…しか喋らず、モチモチも要求せず変なダンスも踊れないので主にマンション住まいの人間達に愛玩用として重宝されたり、室内ペットの遊び道具として使われる用途で出荷され買われていく。

何しろエサの不満もﾀﾞｼﾀﾞｼ言うだけでわからないし飼いちびたぬきによく見られる“喋った途端に失望し捨てられる”という事象も起きないため一方的なコミュニケーションを好む飼い主からは扱いやすいと好評だった。

犬や猫に弄ばれた末、飽きられて食われる際にも“呪ってやるしぃぃ…！”だとか“いたいいだいいだいじぃぃぃーーー！”といった耳障りな断末魔も聞かずに済む。

アイデンティティを失い、人間に都合の良い存在に作り替えられ利用されていくたぬき達だったが、一応は食事が与えられたり生まれてすぐ死ぬわけではない。
寒さに凍える事はないし、暑さで渇き死ぬ事もない。


とあるたぬきなどは愛玩動物としてのたぬ生を全うして次は野良に生まれ落ちた時、自分が喋れる事に驚きながらも、飢えと渇きに苦しむ野良生活の過酷さに心を曇らせた。

他ぬきのように喋れる事＝幸せには結びつかなかった。
思い出されるのは、定期的に与えられる食事。ボールなどのおもちゃで遊んでくれる大きな存在。柔らかな布に包まれる眠り───。
言いたい事が言えなくても、野良生活のあちこちに存在する毒に蝕まれる事はない。
今回の親たぬきはべたべた触ってくるし変な踊りをさせようとしてくる。
身体は時と共に大きくなってきたが、たぬきは耐えられず枯れ葉に包まれて眠る今生の親の元から抜け出したのだった。
行く宛など、あるはずもない。

「前の方がマシだったし…」
またあそこに生まれ落ちたいと、現たぬ生を儚みながら───トボトボと何処かへ歩いていく。

世の中にはこのような“はぐれたぬき”が増え始め、群れに馴染めずいじめられるか、自死を選ぶか───このたぬきのように放浪の末に野垂れ死んでいく道を歩むのだった。


オワリ
