ここにいると、一人で世界に放り出された気分になる。 日暮れの橙と夜の青が接した緑色が西に沈んでいき、曇り空が星と月をまばらに隠している。 押し込められた空気はひんやりと冷たく、ダウンジャケット越しに突き刺さって芯まで熱を抜かれそうになる。 別に、初めてじゃない。向こうにだって極寒の環境ぐらいはある、けれど。ここでは寒気一つにも、言葉にできない実感があった。 気温という数値の変化ではなく、現に凍えた空気に冷える感覚が――― 「ごめん、待った?」 ……あてもなく空に移していた意識を引き戻す。 「いや、今着いたとこだよ」 時計の時間で数分。予定よりは幾分早いけど、そこまで待つことにならなかった。踵を返した少年の足元に、作りかけの雪だるまが置き去られる。 視界の中の少女は、いつもとは違う明色のコートとマフラー。やはり今夜は冷え込むようだ。 「時間空いたけど、葵はご飯食べた?」 「ううん、まだ」 「じゃ、何か食べてから行こう…今どこか空いてるかな?」 虚空に耽っていたら、肝心なことを忘れてしまう。 今夜はクリスマスイブ。リアルワールドの街の一つも人工の光で賑やかになっていることに。 情報の扱いが大変不便だ。シュヴァルツから見たリアルワールドの第一印象はそれであった。 必要な情報処理は小さな画面の端末一つが窓口となり、眼球は一つ一つのUIを重ねて確認処理しなければならない。広告など被せられた日には怒りを抑えられなくなる。 デジタルワールドなら折り紙を折るように簡単なこともここでは文字数字の羅列と格闘しなければ同じ結果を得られない。電子が基底に無い世界とはそういうものだ。 ただ、流石に何度か出入りするようになってからはその不便にも慣れた。今はこうして埋まる予約と席の間のタイミングを縫って自分たちの予約をねじ込むことは造作もない。 ピザ屋のテーブル席を手に入れた二人は、足早にピザと暖房を求めて店内に駆け込んでいった。 「どこもすごーい混んでるね。こっちだといつもこんな感じ?」 「うん、去年もああしてイルミネーションが飾られてて。向こうの本屋さんへ新刊を……今年は電子で買おうかな」 お互い脱いだ上着を脇に置いて、葵は視線を窓の外へと向けた。ビル街を縫うように電飾が空を渡って、光の粒がクリスマスツリーとサンタクロースを象っている。 サンタ追跡作戦なる謎の騒ぎと先日まで争っていたシュヴァルツは、やっぱりサンタを追いかける文化は一般的じゃないんだ。と電飾の赤を見つめていた。クリスマスなのに働き者はいるものである。 視線を手元のメニュー表に戻す。色とりどりの具材を乗せた丸の中から、それぞれ半分ずつを葵と注文した。 「それで、買うものは決まってるの?」 席に置かれたピザの内、揚げナスとミートソースの乗ったピザを頬張りながらシュヴァルツは尋ねた。 元々リアルワールドを訪れたのはただ遊びに来ただけ。だが葵が晩から用事があるとして、それの付き添いを買って出た次第である。有事に備えて連絡手段はあるが、原則アスタモン達はお留守番だ。 「うん、毎年同じのを買ってるから」 照りマヨを切り分けながら葵が答える。元々、この街は彼女が生まれ育った場所だ。今年の夏までの間、葵はこの何の変哲もない平和を暮らし、けれども退屈を感じていた。 まさか、ノベルのような体験ができるという誘いから今のような経緯を辿ることなど考えもしなかった。その何も知らない少女だった冬が、まだ去年の出来事なのだ。 小さい頃は家族に連れられて食べたピザの凡庸な味も、今の彼女には少し懐かしく思えてくる。向こうの世界は、それほどに情報の体験に溢れていて――― 「それで、さ」 「―――えっ!?あっ、何?」 チキンとマヨネーズの風味に感覚が横に流れて、引き戻される。何かシュヴァルツが話をしていたのを聞き逃した、か?葵の目が大きく広がって、記憶の穴を探ろうとしたが。 「いや、その……美味しい、ね?」 「あ、うん」 美味しい、は確かに葵もそう思う。こと、シュヴァルツにとってはリアルワールドの食事というだけで物珍しいのだから。ただ、その所作は少しギクシャクしているように見られた。 周囲の席の、クリスマスを祝う盛り上がりが耳に入る。些か騒々しいけれど、シュヴァルツにはああいう方が楽しかった、のだろうか? 若干の気まずさが胸に流れる。デジタルワールドのアルケアとしての顔は思い切った行動ができるが、それは彼女が好む創作の模倣によるものだ。 現実の世界では致命的なほどに浮く。流石に中学2年生でもその自覚はあったので、世間の中の黒沢葵は極普通の内向的な少女でしかなかった。 何か話題のとっかかりを探そうとして、果たせず、黙々と食事を終えて店を出ることになってしまった。 街の大通りの店で、注文していた品を受け取った。 この時期巨大なツリーが建てられるのが通例だ。今回も屹立して―――はいるのだが、その様相は普段と違うように見えた。 「アレは……」 「噂にあったデジモンだねぇ、周りには見えてないみたいだけど……あとプレゼント」 周囲から、今年のツリーはなんかデカいし白いな、という声が散見される。けれども二人の目に映るのは、巨大な赤と白のデジモンの姿と、上空を舞うプレゼントボックスの幻影だった。 これで敵性のデジモンだったらサンタ騒ぎ延長戦がクリスマス当日まで続く羽目になっていたが、幸いにも無害?な中立のデジモンだった。 世界を渡るというクリスマスプレゼントの処理も、今のところは各自の自己判断で処理という形で落ち着いている。現状、アレは悪目立ちするクリスマスツリーに過ぎない。 「ホントはちゃんとしたツリー見たかったんだけどね……」 先日の騒ぎが脳裏をよぎり、若干の疲労感がシュヴァルツの顔に滲んだ。 「ちゃんとした、って言っても、私の街のツリーもそんなに特別じゃないよ?大きな木……の模造を立てて、電飾飾ったりしてるだけで」 子供の頃は一日でモミの樹が育つのだと信じていたが、生まれる前に樹の管理が難しくなって造り物に替えられたことは流石に知っている。 それを含めても、飾りが特別派手というわけでもなく、葵の記憶の中にはさして印象に残るものではなかった。 ただ、 「ここで貰ったんだったっけ、プレゼント」 印象が不意に記憶を引っ張ってきた。 小学校も低学年の頃……それより前だったかもしれない。父に強請った本をここで、つけ髭のサンタクロースからプレゼントされたことを。 無論、後から思えばそれが何者であったかの答えは一つしか無かったが。 「そっか……家族とそんなことが」 「あれは何処にやったかな。多分まだ家にあると思うけど……」 ツリーの向こうで、男が小さな子供にラッピングされた箱を渡しているのが見えた。流石に今はサンタの服までは着ないようだが、今もツリーの下にはサンタクロースがやってくるらしい。 「……そうだ、その」 「どうしたの?」 シュヴァルツの声に振り向く、が、何かデジャブを感じる。 「いや……ホントに人だかりが多いね、って」 「そう……?」 「いつもは向こうにいるから、人がここまでたくさんいるのってあんまり経験なくてさ……」 「あ、大丈夫?人酔いしたなら……」 「ううん!そういうのじゃなくて……ええと……」 また奥歯にものが挟まったような話し方だった。いや、実際人の多い環境に馴れていないのは確かなのだろうが。 時計が予定の時刻を指し示す。胸中の疑問を解せないまま。葵はツリーの傍を離れて、少し遅れてシュヴァルツも付いていった。 頭上はどっぷりと夜の黒に染まり、曇り空が星をまばらに隠している。 押し込められた空気はひんやりと冷たく、コート越しに突き刺さって芯まで熱を抜かれそうになる。 通りの喧騒を抜けて、住宅街は比較的閑散としている。時折聞こえる笑い声も全ては個々の家の中にくぐもって、こちらからは明かりが漏れるのを視認できる程度だった。 そのうちの一つ。明かりの無い住宅のドアが開いて、葵が姿を現した。 「―――置いてきた?」 外で待っていたシュヴァルツが尋ねる。 「うん。待たせてごめんね」 葵の手には、店を出てから手に提げていたものが、両親二人分のケーキを収めた箱がなかった。 彼女の両親は著作のヒットに伴って仕事が急激に増え、以前より家を空けることが少なくなくなっていた。今年のクリスマスも年末に向けての作業が立て込み、家に帰れないことを娘に詫びる一報を受け取った。 そんな二人とは致命的な不仲、というわけではなかったが、多少の寂しさも感じていなかったかというと嘘になる。 けれどもそれが仕事なのだから、ここ最近の祭日は二人のためにケーキを冷蔵庫に仕舞っておくのが通例になっていた。 「これで用事はおしまい。この後はどうしようかな?ドゥフトモン司令がみんなで集まってるって聞いたけど……」 「葵」 呼びかけられて、三度目の返事を返そうとした、それよりも先に。 「これ、プレゼント」 赤で化粧された小さな箱と緑のリボンが、彼女の前に差し出された。 「えっ……私に?」 「うん、中身は見てもいい……いや今開いてみて。その、気に入るかわかんないけど……」 用意していた台詞から、最後の方はしどろもどろに、シュヴァルツが言葉を詰まらせながら向こうを向く。 今日一日のぎこちなさの謎と共に、葵は箱のリボンを解いて蓋を開けた。 細い銀色の鎖が巻かれ、その頭に同色の枠に収められた―――大粒の丸い石。夜の暗さでそう見えるのではなく、それ自体が漆黒を以って光を呑み込み、内部にある白虹の層が仄かな輝きを見せた。 「これって……?」 「黒曜石。夏に埋蔵金掘りの現場で掘り出したヤツだよ。こっちでも一般的な鉱石だけど、だからリアルワールドに持ち込んでも不具合は特になかった」 本当はダイヤモンドを探していたのだが、あの地下のカオスの中から採掘は叶わなかった。けれども質のいい原石を一つ持ち帰り、BVの影太郎から研磨の基礎を教わって磨き上げたものがペンダントに仕上げられた。 「……受け取ってくれるかな?」 最大限に手を尽くし、心を込めた。が、結局少年に相手には届かなければという不安は拭えない。 「うん、ありがとう。けれど……」 「なんだか私ずっと、あなたから貰ってばかり、だよね……って」 苦しみを、喜びを、共に分かち合うように。そんな言葉を彼に投げかけられたことを覚えている。花に、水着に、色々なものを贈られたと記憶している。 与えられたものが嬉しいことは事実。ただ、それを相手には返せただろうか?ずっと貰い続けて良いものか。微かな心の引っかかりが、ペンダントの箱を握る手を止めた。 すると、 「いいんだよ。そんなの」 伸びた手が葵のマフラーを解く。首筋に寒さが差し込み、思わず声を上げそうになった。 けれど、次の瞬間には、シュヴァルツの腕がそのまま首の横を通り過ぎていった。彼女の白銀の髪をかき分けて、細い銀の鎖を持って。 「え、何……!?」 「ジッとしてて……ほら、できた」 あっという間に、ペンダントは葵の首にへと掛けられていた。 「別にあげた分よこせなんて言わないよ。プレゼントだもの、ただ渡したいだけじゃダメかな?」 「だから、ありがとうね。凄い不安だったけど受け取ってくれて」 鎖を結ぶために伸ばした手は、そのまま降りない。ゆっくりと葵の背中に回って、背伸びしたシュヴァルツがその姿を抱きしめた。 「―――似合う?シュヴァルツ」 「うん、とても綺麗だよ」 零に近づいた二人の間で、黒い星が光を放った。