少年は、生まれた時から病弱だった。 幼い頃から何度も病にかかり、彼の両親はその度に医者の門を叩いていた。 幸い彼の家は爵位持ちの名家であり、金に困る事はなかった。 少年の体質こそ金で買えるものではなかったが、代わりに両親は無償の愛を一人息子に注ぎ続けた。 彼の体調があまり良くない日は、母親がよく果物を買って来た。 少しでも息子に元気をつけたいという親心だった。 幼いなりにそれを理解していた聡明な少年は、若干の後ろめたさを覚えつつも好物と親の愛情に頬を緩ませていた。 ある日少年は、家に取り置かれていた果物が一つ、ゴミ箱に打ち捨てられているのを見つけた。 「ねえ母上、どうしてあれを捨てたの?もったいないよ」 少年の純粋な疑問に母親は答えた。 「それ、腐ってたのよ。腐った物は、他の物まで腐らせるから。捨てるしかないのよ」 あなたのお腹を壊すわけにはいかないわ、と母親は少年の頭をひと撫でする。 「ふうん」 そういうものか、と彼は納得した。 これは、少年――後に『賢公』と呼ばれる――ゲンツィアの原体験。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 三時間の睡眠から覚醒し、サンク・マスグラード帝国治安総監ゲンツィアは体を起こした。 起床の途端、身体の節々が悲鳴を上げる。 持病によるそれは歳を重ねる毎に強くなり、医者も匙を投げていた。 鎮痛剤を常用しているが、気休めに過ぎない事は彼自身が一番よく理解していた。 ゲンツィアは、己の死期を悟っている。 それは寿命か、あるいは――いずれにせよ、永くはないだろう。 「人間五十年……という歌は東方だったかな」 昔読んだ書物の朧げな記憶を振り返り、独りごちる。 ゲンツィアの見た目は老人のそれだが、彼の実年齢はまだ四十後半いう若さ。 にもかかわらずそのような外見をしているのは、病魔と日々の激務が彼の寿命を大幅に蝕んでいるからだ。 それでも、彼は休む事を良しとしなかった。 病的なまでに、ある思想にとりつかれていたが故に。 ――この国は、腐っている。 腐った物は、処分せねば。 それが、彼を突き動かす行動理念だった。 帝国の腐敗は極まっており、右も左も叛骨の意を抱く逆臣ばかり。 彼らは一切民を顧みず、自らの懐を肥やす事に夢中だった。 青年時より治安総監に拝命されたゲンツィアは、それを嫌というほど目の当たりにし続けた。 誰よりも悪を憎んでいたが故に、彼は身命を賭してそれと闘い続けてきた。 もし彼が休めば、休んだだけ帝国の腐敗は広がるだろう。 だから、休むわけにはいかない。 民の為、国の為。 10年、20年……。 ゲンツィアは帝国の誰よりも、真摯に腐敗と向き合ってきた。 故に――彼自身も腐敗していた。 腐敗は伝染する。 『賢公』ですら、その摂理には抗えなかったのだ。 ゲンツィアは悪を討つ為の悪を是とし、いつしか手段と目的が逆転するようになっていた。 そして、本来守るべき筈の民を愚鈍で無能な悪と蔑むようになり、目的の為なら容赦なく排除するようになった。 そんな彼は民から見れば他の逆臣と何ら変わりなく、邪知暴虐な『逆臣総監』と恐れられた。 「自分にできる事を、できる限りやる。その在り方こそが賢さだ」 ゲンツィアの座右の銘は、今も昔も変わらない。 ただその意味を静かに変え、罪なき人々の悲鳴が耳に届かなくなっただけで。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ かつて、腐敗する前のゲンツィアは幼きレストロイカから問われた事がある。 「総監がよく言う、悪って何でしょうか?」 「……悪い事ですよ、殿下」 「じゃあ、善って何ですか?」 「善き事です」 「…………」 「ある意味では、善は悪で、悪は善とも言えますね」 「????」 禅問答のようなやり取りに頭を悩ませる幼き皇太子を見て、ゲンツィアは微笑んだ。 「少し意地悪でしたかね。もう少し砕いて私見を述べましょうか」 幼き日の自分を見るように、ゲンツィアはゆっくりと話した。 「善悪に決まった形はありません。それを決めるのは全て人間です。  ならばこの世に悪があるとすれば、それは人の心なのです。  僕は世の中の悪を少しでも減らし、皆を幸せにするために働いているんです」 「……それに、終わりはあるんですか?」 聡い子だ。ゲンツィアはそう感じた。 「いいですか、殿下。  殿下はもうすぐ、陛下のお計らいで勇者ユーリン様と世界を巡るのでしょう。  世界は広うございます。そこには様々な人がいて、善悪もその数だけあるのです。  何が善で何が悪なのか。  殿下なら、旅の中できっとその答えを見つけられるでしょう」 ゲンツィアはレストロイカの問いに直接答えず、はぐらかした。 善悪が人そのものならば、人在る限りゲンツィアの仕事に終わりが訪れるはずもなく。 その心身が擦り切れるまで、国家と人民に尽くし続けるしかないのだから。 満足いく答えではなかったのか、レストロイカは頬を膨らませた。 「ボクは、総監が無理してないか心配なんですよ。いつも顔色悪いじゃないですか」 「はは、これは生まれつきですよ。ご心配には及びません」 たとえ事実でも、大人として、それも皇太子の前で弱音を吐くわけにはいかなかった。 「……納得いきません」 「ふふ、殿下はお優しいですね。それではこうしましょうか」 ゲンツィアは彼を慮るレストロイカに屈み込んで目線を合わせ、優しく告げた。 「いつか――殿下が旅を終え、大人になったならば。  その時は僕を手伝って下さい。共に、国の悪を討ち倒しましょうね」 その言葉に、ようやくレストロイカは首を縦に振った。 「……うん!約束ですからね!」 「ええ、約束しましたよ。殿下」 たかが、子供の約束。誰にでもあるような、愚かな逸話。 そう笑い飛ばすにはレストロイカの瞳は真っ直ぐであったし、ゲンツィアも人に希望を抱いていた。 この時はまだ。 後年の『賢公』ゲンツィアは、愚かさを悪と断罪するような人間に成り果てていたが。 その彼を以ってして、かの日の約束を愚かと断じていたのかは、今となっては誰にも分からない。 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ――そして時は流れ。 レストロイカ帝は来た。 「悪を、討ちに来た」 十数年越しの約束を果たし、レストロイカは国の悪を倒す為に立ち塞がった。 ゲンツィアの前へと。 趨勢は既に決し、皇帝とその親衛隊を前にゲンツィア子飼いの部下は全滅。 要塞は完全に制圧され、その執務室でゲンツィアは最期の謁見を強いられていた。 「治安総監ゲンツィア。長年に渡る帝国への奉公、大儀であった。  ……何か言い遺すことはあるか」 処刑剣を構える皇帝を前に、ゲンツィアは思索を巡らせる。 腐っても『賢公』、帝国一の軍略の持ち主はどうにか逆転の糸を掴むべく思案し……結論を出した。 負けだ、と。 己が身は間違いなく、ここで粛清されるだろう。 「……ふ。はは。ははは!」 事ここに至っては、もはや笑うしかなく。 そういえば、最後に彼が笑ったのは何年ぶりであっただろうか。 全ての重責から解放され、病魔の苦しみからすらも逃れられるのであれば、案外悪くない終わりなのかもしれない。 自身の死を目前にして、ゲンツィアはかつてない程平静だった。 俗世と人間に苦しみ続けた彼にとって、皇帝が握る錆剣の輝きは救いにすら感じていた。 「……陛下。近頃は『愚帝』と名乗られているようですな。  そのような皇帝では、従う臣は居ますまい」 「相違ない。早晩、民は皇帝を必要としなくなるだろう。  なればこそ、私は成すべき事を成すまでだ」 淀む事無く、自身を民の為の歯車だと断じるレストロイカ。ゲンツィアはそれを懐かしい気持ちで見ていた。 あの気概は、かつての自分が確かに持っていたもの。 一体いつ、どこで無くしてしまったのだろう。もはや思い出せない。 「――何とも……愚か。  もはや愚を通り越し、大愚ですな」 穏やかな笑みを浮かべながら、賢公は愚帝を評した。 若き日の自身と皇帝を重ね合わせ、この先の苦難を予見しながら。 「皇帝陛下……いや、愚帝レストロイカ陛下。この賢公めが奏上致しましょう。  ――愚は賢に似たり。  ならば、大愚とは大賢なり!  どうか思う道を征かれませい、陛下。  愚者の道は険しいでしょうが、その先にしか見えぬ物もございましょう。  陛下の辿る道……一足先に冥府より拝見しておりまする」 「――うむ。その方の忠言、心に刻んでおこう」 レストロイカの魔力を纏い、処刑剣の輝きが増した。 かくして、帝国一の賢者は討死した。 彼の粛清を機に、混乱続きだった帝国に一定の平穏が訪れるようになった。 また余談として、ゲンツィアの墓前で物思いにふける皇帝の姿が確認されたという。