透明のグラスに、泡立つ金色の液体が注がれる。カップを取り上げ、泡のはじけるかすかな音に耳を傾ける。泡とともにはじける香りを吸い込んだのち、中身を一息に口へ含む。苦味、甘味、旨味、鼻へ抜ける含み香、炭酸の含み具合。それらを口中で短時間のうちに検分してから、最後にごくりと飲みくだして喉ごしを確かめる。  目を閉じて、鼻から静かに息を抜いたのち、ドリアードはにっこりと微笑んで告げた。 「60点ですね」  キルケーはがっくりとテーブルに手を突き、頭を垂れた。  最善を尽くしたつもりだった。今日のために特別気合いを入れて仕込んだ三本のタンクから、一番出来のいい一本を選んだのだ。満点とはいかなくとも、それなり以上の評価はもらえるはず。その自信はあったのに。 「あ、でも、落ち込まないで下さい」ドリアードが慌てて付け加えた。「十分美味しいですよ。逆にあんまりちゃんとできていたので、つい旧時代そのままの基準で採点してしまって」 「……ふ、ふふふ。いいんです。それでこそですから」  キルケーは不敵な笑みをうかべ、顔を起こした。その眼差しに炎を宿して。 「私に足りないものは何ですか。教えて下さい」  届いていないことなど最初からわかっている。それを埋めるために、こうして彼女に弟子入りしたのではないか。  キルケーの気迫と、その覚悟を理解したドリアードも、すっと真剣な表情になる。 「足りないもの……というのは、難しいですね。何かが足りないわけではないんです。要素そのものは、すべて押さえられていると思います」 「それは、つまり……」  ドリアードは厳粛にうなずいた。 「単純に、クォリティが低い。すべての工程に、精度と練度と一貫性が足りていません」  キルケーはもう一度テーブルに突っ伏した。今度はしばらく起き上がれなかった。 (タイトルIN) 『プロジェクトK ~醸造者たち~』 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  ドリアード。  フェアリーシリーズのハイクラスモデルであり、穀物を中心とした大規模農業を専門とする彼女は、知る人ぞ知るビール造りの達人でもある。もとは得意客にだけ教える一種の「隠し機能」として実装されていたのだが、その味の素晴らしさから上流階級のあいだでは瞬く間に知れわたり「一度飲んだら他のビールは飲めない」とまで言われた。マゴ・インターナショナルのとある幹部は、第二次連合戦争の最中ですら自家醸造用のドリアードを手放さなかったという。  キルケー。  自他共に認める大の酒好きであり、潜水艦時代から自室に醸造釜を据えて酒造りにいそしんでいた彼女は、ドリアードのそうした噂を聞きつけるやすぐに駆けつけて弟子入りを申し込んだが、すげなく断られた。当時ようやく軌道に乗り始めたスヴァールバルの地下農園の運営と、医療スタッフとしての業務でフェアリーシリーズ全員が忙しくしている中、そんな暇はなかったのだ。  しかしキルケーは諦めなかった。何度も何度も、ドリアードのもとを訪れては頭を下げ続けた。ついに彼女も折れ、指導を引き受けることになったのだが、そのとき二つの条件を出した。 「やるからには、中途半端なことはできません。私の指示にはすべて従っていただくこと。そして、私が満足できる水準になるまで指導させていただくこと。よろしいですか」 「望むところです」  キルケーは即答した。この条件の本当の意味を思い知るのはまだ先のことである。  かくて、苦闘の日々は始まった。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「というわけで、すべてを基礎から見直しましょう」 「よろしくお願いします」  早朝。  最初の試飲評価から一夜明け、気合いを入れ直したキルケーとドリアードは、まだほの暗い雪原を踏んで歩く。目的地は箱舟から少し離れた斜面に建つ、小さな醸造所である。オルカがスヴァールバルに長期滞在することが決まってすぐ、キルケーの申請により建てられたものだ。 「まず麦芽からです。どういったものをお使いですか?」  中はさして広くはない。製麦室と書かれたドアを開けると、ひんやりと乾いた空気が二人を包んだ。 「フクオカ拠点で作ってもらった大麦を仕入れて、自分で作っています」 「ああ、フクオカはいいですね、私の姉妹も一人あそこにいます」  室内の機材や物品をざっと見回したドリアードは、部屋のすみに積み上げられた麻袋を一つ取り上げる。中にはほのかに甘い香りのする、茶色い小さな粒がいっぱいに詰まっていた。  麦芽。読んで字のごとく、麦が芽を出したものである。  酒造りのプロセスとは、最も単純化すれば、糖をアルコールに変えることといえる。まず糖がなければ酒は生まれない。  しかし、ビールの原料となる大麦に糖はほとんど含まれていない。オオムギが含むのはデンプンである。無数の糖がかたく結合したもので、そのままではアルコールにならない。  ――初めてビール造りに挑戦した時はそんなことさえ知らなくて、小麦粉で造ろうとして大失敗したりしました。  キルケーはほろ苦く思い返す。  滅亡戦争当時、キルケーは人間の命令によってハロウィンパークから離れることができなくなった。人類が姿を消してからの長い長い年月、苦しみを忘れるために酒に溺れた時も、それが高じて自分で酒を造り始めた時も、彼女が頼れるのはパーク内のネットワークに残された情報、近隣の市街へドローンを飛ばして集めてきた、ごくわずかな書物だけだった。ほとんど何もかもを我流と試行錯誤で身につけるしかなかった彼女が麦芽の作り方を知ったのは、とある絵本からだったという。  大麦から糖を作るための方法が、芽を出させることである。大麦とは言うまでもなく種子であるから、適当な温度と水分をあたえれば芽を出す。  そして芽が出ると同時に、内部ではデンプンを糖へと分解する酵素が作られはじめる。デンプンは本来、種子のためのエネルギー源だ。芽を出したからにはすぐに使える糖へと分解し、生長に備えなくてはならない。  が、そのまま生長はさせない。芽を出したばかりの大麦を、熱風に当てて乾燥させる。そうすると種子としては死んでしまうが、中の酵素はまだ生きている。まだほとんど分解されていないデンプンもそっくり残っている。この「糖化酵素とデンプンを大量に含んだ発芽しかけの大麦」こそがビールの第一の原料、麦芽(モルト)である。  ドリアードは袋いっぱいの麦芽をすこし手のひらにとると、鼻を寄せて色と香りを確かめ、さらに一粒を口に含んで味を確かめた。しばらく目を閉じてから、もう一粒取り出して同じことをする。さらにもう一粒。 「溶け具合も焙燥も不揃いです。麦の選別をしていませんね」 「選別?」キルケーはぽかんとした顔で繰り返す。ドリアードは小さくため息をついて、 「麦粒の大きさを揃えないと、均一な麦芽ができません。ほら、これとこれは色合いが違うでしょう? こちらの小さい粒はほとんどローストされてしまってます。これではヴァイツェンとスタウトを混ぜて作るようなものですよ。少なくとも大中小の三つくらいには分けて、別々に製麦しなくては駄目です。それから、根も切った方がいいですね」  ドリアードがつまんで見せた麦芽にキルケーが目を近づけると、麦の粒から白い毛のようなかぼそい根が、三、四ミリほど生え出しているのが確かに見える。 「根がついたままだと、貯蔵中に水分を吸収してしまうことがあるんです」 「こ、これを切るんですか?」 「さすがに手作業じゃありません。専用の機械があります。箱舟のデータベースに設計図がないか探しましょう、麦粒選別機もね」  当たり前のように笑うドリアードに、キルケーは唾を飲み込んだ。なるほど、精度を上げるとはこういうことなのか。  実り多い修行になりそうだ。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「次に、水ですが……これは上水道の水を普通に使っていますよね、きっと」 「はい……ダメですか」  おそるおそる、といった調子のキルケーに、ドリアードは笑った。 「いえ、それでいいと思います。スヴァールバルの水は硬水で悪くないですし、第一水をよその拠点から運ぶのはあまりに不経済ですから」  製麦室を出た二人は、となりの醸造室へ移る。ここが、ビールが実際に造られる醸造所の心臓部である。 「ただ、pHにはつねに注意して下さい。天然水は変動がありますから、高すぎる場合にはカルシウムを加えたり……」  室内に並ぶタンクとハウスを順々に指さし確認していたドリアードの眉が、ふと曇った。  ビールの醸造設備は、もっともシンプルな場合、二つのタンク設備からなる。仕込みを行う「ブリューハウス」と、発酵を行う「発酵タンク」である。  ブリューハウスでは、保存しておいた麦芽を細かく砕いて、仕込み水とよく混ぜる。ほどよい温度に温めてやれば、麦芽の中の糖化酵素が活動を再開し、デンプンをどんどんと糖に分解し始める。  一週間ほどそのまま置くと、デンプンがすっかり糖……麦芽糖になる。これを濾過してから煮沸する。これによって酵素が失活し、成分がもう変化しなくなる。こうしてできたものを「麦汁」とよぶ。そのまま飲んでも甘くてなかなかに美味い。 「全部新品に取り替えましょう、これ」  タンクの蓋を開け、内部を念入りに検分したドリアードが、気の毒そうに告げた。 「全部!?」 「焙燥機の設計図があったライブラリに、タンクもあるでしょう。ちょうどいいサイズのを探して、工作室に発注して下さい」 「あ、あの!」  キルケーはあわてて古びた銅のタンクに駆け寄る。「確かに古いし形もよくないですが、まだ十分使えます。手入れもきちんとしていますし」  つぎはぎの目立つそれは、醸造室に並ぶ何本ものタンクの中でも一番古いものだ。まだハロウィンパークにいた頃、見よう見まねで初めて組み上げたものを、修繕と改良を重ねて今まで使い続けてきた。キルケーにとっては長年の相棒と言ってもいい存在である。  しかし、ドリアードは無情にもきっぱりと首を振った。 「大事に使われてきたのは、見てわかります。でも見て下さい、内面のこの凹凸の多さ。部品の継ぎ目や、小さな亀裂。こういう所に雑菌が溜まってしまうんです。ビール造りの一番の敵です」 「掃除と消毒はちゃんとしています。これまで以上に念を入れてやりますから……」 「その時間を別のことに使ったら、もっとビールの味がよくなるとしてもですか?」 「……っ!」  言葉に詰まったキルケーの肩に、ドリアードはそっと手を置いた。 「ビール造りの味方は微生物、敵も微生物です。情熱も思い入れも、彼らには通じません。それだけはわかってください。彼らに伝わる言語は精度、ひたすらな精度だけです」  キルケーは唇を噛む。百年間使い続けた円筒形のタンクは、色合いこそくすんでいてもサビ一つない。その表面を、そっと撫でた。  ――あの瞬間が、一番辛かったですね。長年の友達を見捨てるような、そんな気持ちがして。ドリアードさんの言うことが正しいということはわかっていたので、余計に……。  ――この時のタンクは、今でも私の部屋にとってあります。今でも、ぴかぴかに磨いていますよ。 「…………わかりました。どういうタンクがいいか、一緒に探してもらえますか」 「もちろんです」  ドリアードはやさしく頷いた。肩に置かれた手に、ほんの少し力がこもるのをキルケーは感じた。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「旧時代のドイツには、ビールには麦芽、ホップ、水、酵母以外の原料を使ってはならない、という法律があったそうです」 「ヴィルヘルム四世の『ビール純粋令』ですね」 「あら、お詳しいですね」ドリアードは嬉しそうに両手を打ち合わせた。「この法律が作られた時代、ビールには様々な香料を入れるのが当たり前だったそうです。その中からホップだけが残ったのは、ビールにとってホップがどれだけ重要かを示していると、私は思います」  醸造室の隣に小さな冷蔵室があり、中にビニール袋が何段にも積み上げられている。一つとって開けると、苔のような色をしたペレットがざらりと手のひらにこぼれ出てきた。 「ホップはサッポロ拠点で作ったのを使ってます。というか、あそこしか作ってくれないんですよね……」  ホップ、和名をセイヨウカラハナソウ。アサ科のつる性植物で、夏になると透きとおった薄緑色の松ぼっくりのような、花とも葉とも実ともつかない奇妙なかたまりを実らせる。毬花とよばれるこのかたまりが、ビールをビールたらしめる香り、泡、そして苦味の源泉である。  ホップを乾燥させて粉にし、突き固めたペレットを、ドリアードは指先でつまみ上げてしげしげと検分し、最後に舌の上にのせた。 「麦とは違って、他にほとんど用途がないですから、それは仕方ないですね。‘フラノスペシャル’かな?」  冷蔵室を出ると、その先にあるのは搬出前のビールを積んでおく倉庫だけだ。醸造所のあらましを見終えたドリアードは、あらためてキルケーの方へ向き直った。 「さて、そろそろ伺っておきたいと思うのですが、キルケーさんはどんなビールを造りたいですか?」 「どんな……というと?」 「手に入るかぎりの材料で、せいいっぱい美味しいビールを造る……おそらくこれまでは、それだけを目標にしていらしたと思います。それはもちろん立派なことですが……これからは、自分の造りたいビールを思い描いて、そこを目指して磨いていかないと向上はできません」  ドリアードの視線にこめられた力に、キルケーはたじろいだ。  キルケーはもちろん、どんなビールも好きだ。できるだけ色々なビールを飲んでみたいし、作ってもみたいと思っている。  しかし、それだけでは駄目なのだ。今、ここで、この自分が作ることに意味があるビール。オルカに、外部拠点に、そしていまだオルカを知らない世界中のバイオロイドたちに、自分が届けたいビールは何か。それが問われているのだと、キルケーは理解した。  目を閉じ、長い間考え込んだ。ドリアードは辛抱強く待っていてくれた。  やがてキルケーは目を開け、ドリアードの眼差しをまっすぐ受け止めて答えた。 「IPAにしようと思います」 「インディア・ペールエールですか」  ドリアードは正式名称で繰り返した。  インディア・ペールエール。強いホップの苦みと香り、アルコール度数の高さを特徴とするイギリスのビールである。イギリス伝統のペールエールをインドへ輸出する際、長期間の航海でも腐らないようホップを大量に加え、アルコール度数を高めたのが発祥だという。 「理由をうかがっても?」 「まず、エールですから短期間で、設備も今のままで作れます。常温で保存がきくので輸出に向いていますし、冷蔵庫を持っていない小さな共同体へ配るにも便利です。何より、私の好きなビールです」  明瞭な答えだった。ドリアードは深く頷いて、微笑んだ。 「すばらしい答えです。……ホップですが、これまでは全量を煮沸直前に投入していましたね?」 「え? は、はい」 「ではそれと別に、全量の一割ほどを煮沸直後に追加するようにしましょう。レイトホッピングといって、香りが強く出ます。フラノスペシャルはもともとアロマ系のホップですから、はっきり違ってくるはずですよ」  ドリアードはタブレット端末を取り出して、いくつかの数値を矢継ぎ早に打ち込み始めた。 「方向性が見えれば、あとは詰めていくだけです。最高のIPAを造りましょう、キルケーさん」 「は……はい!」 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  最後に、酵母である。  糖化と煮沸を終え、ホップも加えて完成した麦汁はもう一つのタンク、発酵タンクに移される。そこで酵母が加えられ、二週間ほどかけてじっくりと発酵が進められる。  キルケーはふたたび冷蔵室に入り、どろりとしたクリーム色の液体が入った瓶を出してきた。 「毎回、前のタンクの澱をとっておいて、そこから培養したのを使っています」 「酵母を自家培養してらっしゃるんですか」ドリアードは目をまるくした。「簡単ではないでしょうに」 「ええ、まあ。これのコツをつかむだけで、五年くらいかかりましたね」  発酵の世界における酵母というものは、基本的にただ一種類の菌、サッカロマイセス・セレビシエのことをさす。いくつかの例外をのぞけば、ビール酵母もワイン酵母も清酒酵母もパン酵母も、みなこの一種類のなかの品種にすぎない。  そして、酵母は自然界のどこにでもいる。例えばブドウを皮ごとつぶして放置しておくと、皮に付着していた酵母によって勝手にワインができる(もちろん、適切な温度や衛生環境があればだが)。中世までは実際にそのようなやり方でワインを造っていたという。キルケーが初めて造った酒もビールではなくワインだった。そこで造った酵母をビールに転用したのだ。  ドリアードは瓶を光に当てて、しげしげと眺めた。「これはこれで、すごい成果ですが……野生酵母ではやはり、発酵力に限界があります。ビール専用の酵母株を探した方がいいですね」  酵母に糖をあたえ、そして酸素のない環境に置いておくと、嫌気呼吸というエネルギー反応をはじめる。糖を分解して二酸化炭素とエタノールに変え、その過程で余剰のエネルギーを取り出すのだ。発酵とは、この嫌気呼吸のことである。  ただの呼吸といえども、その反応の強さや適切な温度、生成する副産物など、品種によってさまざまに性質は異なってくる。人類は数千年の時をかけて、ビール造りに、ワイン造りに、パン造りに、もっとも適した品種を選び抜いてきた。 「探すって、どこを?」 「きっと箱舟にあるでしょう 「でも、遺伝子データはデルタが全部メチャクチャにしちゃったんでしょう?」キルケーは眉根を寄せる。 「何を言っているんですか」ドリアードがあきれ顔を返した。「ここは生物系特化の記憶の箱舟ですよ? 酵母菌なんて、実物が凍結保存されてるに決まっています」 「あ」  果たしてドリアードの言うとおり、IPAに適したビール酵母の実物はすぐに見つかった。工作室に依頼した機材と新型醸造機材も一週間ほどでできあがってきた。  そして、そこからが本当の始まりであった。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  まず、機材の納入までの一週間はひたすら座学。 「醸造学に微生物学、栄養学に作物学に植物病理学。基本だけでも一通り学んでおきましょう」 「ひええええ」  何もかもを独学で身につけてきたキルケーにとって、系統だった知識を専門家から直接教わることができるのは得がたい機会ではあった……しかし、それを差し引いてもなお、机と書物にかじりつく一週間は辛く苦しいものだったという。  ――あの時教わったことが、あとでどれだけ役立ったかしれません。一番逃げ出したいと思ったのも、あの時でしたけど(笑)。  そして機材が到着してからは、ひたすら実践と反復。  ドリアードが告げた「私が満足できる水準になるまで指導する」という言葉の意味を、キルケーはここで初めて本当の意味で思い知ることになった。 「洗浄が甘いです。やりなおし」 「はい!」 「濁りが出ています。スパージングのしすぎです」 「はい!」 「なんですかこの仕込ダイヤグラムは。精度が一桁足りません。やりなおし」 「は、はい!」 「0.5℃では駄目です、0.2℃単位で温度管理ができるようになってください」 「はい……」 「自分の感覚よりも数値を信じる癖をつけてください。次に、その数値を感覚で身につけてください」 「ううううう……」 「まだ洗浄が甘いです。やりなおし」 「はいいぃ……」  ドリアードは自分自身にも、そしてキルケーにも少しも妥協を許さなかった。時には農場や医務室の仕事を休んでまでも全力で指導に取り組んでくれたかわり、わずかでもミスを見つければ何度でも最初からやり直させた。  仕込みの指導が始まってから三日目、キルケーは醸造所に泊まり込むようになった。24時間タンクの状態をモニターしているドリアードが、夜中でも構わず叩き起こしに来るからだ。フェアリーシリーズの中でもとりわけ温和でおっとりした性格に見えた彼女に、これほど苛烈で容赦ない一面があったことはキルケーも知らなかった。  ビールの中でも上面発酵タイプのエールは常温・短期間で発酵が完了するのが特徴で、仕込みからおよそ二週間もあれば完成する。だが、製麦に合格をもらえるまでに一週間。麦汁の仕込みに二週間。発酵でミスをせず完走できるまで一か月かかり、新設備での初めてのビールが仕上がったのは、納入から実に二か月後のことだった。  出来上がったビールは、これまでキルケーが造っていたものより明らかに味がよかった。感動するキルケーのかたわらで、しかしドリアードはしずかに首を振った。 「70点」  まだまだやるべきことがある。それはそういう意味だった。  一度は落胆したキルケーだったが、そこからの上達は本人も驚くほど速かった。これまでの長い経験と、叩き込まれた座学、そして徹底的に指導を受けた実技が、どんどんと噛み合っていく。  ――後から振り返れば、あれはそのための期間だったんだと思います。一度作るたび、ドリアードさんの点数が上がっていくのが、本当に嬉しかったですね。 「72点」 「75点です。良い調子ですよ」 「ななじゅう……8点」 「……80点です!」  そして、半年が過ぎたある日。突然、すべてが噛み合う感覚があった。  ――やっていることは、それまでと変わらなかったはずなんですけど。発酵タンクに麦汁を移して、酵母を加えて温度計を確認した瞬間、突然わかったんです。これは成功する、って。  二週間後。  出来上がったビールはそれまでと同じ琥珀色をしていたが、泡立ちがいつもよりきめ細かいように見えた。グラスに注いだビールを、キルケーとドリアードは同時に口にはこんだ。 「……!」  泡ごしにふわりと香る青葉のようなホップの香り。舌を叩きつける強烈な苦味のパンチと、オレンジマーマレードのような甘く重厚な風味。それらを炭酸が洗い流したあと、しずかに訪れる麦の旨味。一口目からわかる、口蓋を抜けて頭の裏側をほのかにくすぐるような極上の酩酊の予感。  キルケーがこれまでの人生で飲んだどんなビールよりも、いやどんな酒よりも、それは段違いに旨かった。  夢中でグラスの中身を飲み干し、二杯目を注ごうとしたキルケーを、ドリアードが静かに制した。彼女のグラスは一口分しか減っていなかったが、その顔には穏やかで、満足げな笑みが浮かんでいた。 「90点です」 「…………!!」  キルケーの目に、熱いものがあふれた。  初めて味をみてもらった時のように、旧時代と同じ基準で採点してほしいと、かねてからドリアードには頼んであった。旧時代に流通していた無数のビールの中に、彼女が85点以上をつけたものはいくつもないということも聞いていた。 「改善の余地はまだまだありますが、それはもうキルケーさんがご自分のスタイルで切り拓いていく領域です。私から指導することはもうありません。世界中のどんなバーに出しても恥ずかしくないビールです」  だからこれは、妥協を許さぬ彼女からの、最高の賛辞と言ってよかった。  ドリアードが試飲ボトルをとって、キルケーのグラスに注いでくれた。握りしめたグラスに、涙のしずくが一滴、二滴落ちて、飲み干した二杯目はかすかに塩の味がした。  ――キルケーさんは、すばらしい生徒でした。あんなに心からお酒を愛している人を、私は知りません。  ――お酒造りですか? 今はもう関わっていません。農場と医務室の仕事で手一杯ですし……それに、キルケーさんがいれば安心ですから。 「次はいよいよ、これを流通させないとですね」  三杯目を飲もうとしたキルケーは、ドリアードのその言葉にぴたりと動きを止めた。 「……流通」 「そうでしょう? バーで出したり、ほかの拠点へ輸出したり。そう仰ってませんでしたか?」 「……言ってました。たしかに言ってましたが……」  振り向いたキルケーの顔からは、幸せな酔いがすっかり引いていた。 「容器の手配を忘れてました……」 「ええ!?」  ビール造りの最後の工程は言うまでもなく、飲んでもらうことである。そのためにはタンクから出して容器に詰めなくてはならない。瓶、缶、樽と色々な容器があるが、今のオルカではどれも、一朝一夕に用意できるものではない。 「いそいで発注しましょう。大丈夫ですよ、IPAは保存がききますから。このタンクの容量ならええと20リットル樽で……」 「ああ、できたてを皆さんにご馳走したかったのに……」 「心配いりませんよお二人とも!」  突然、醸造所の扉が音を立てて開かれた。吹き込む寒風を背に受けて戸口に立っていたのは誰あろう、オルカ第二の愛酒家ブラインドプリンセスその人だった。 「話はすべて聞かせてもらいました」  ブラインドプリンセスは腕を組んで仁王立ちしたまま、誇らしげに言い放った。「こんなこともあろうかと、輸送用のビール樽を先週工房へ発注しておいたのです!」 「ブラインドプリンセスさん!」キルケーが目をうるませた。 「我が心の友の最高傑作、無駄にしてはいけませんからね。樽はまもなく届きます。その前に」黒い眼帯の下で、盲目のプリンセスはにっこりと微笑んだ。 「私にも一口ご馳走してもらえませんか」 「もちろんです! どうぞどうぞ!」  今に残るK&Dブリュワリーの傑作「キルケーIPA」は、こうして生まれた。  深いコクと爽やかなキレ、豊かな味わいは、あなたに至高のひとときを約束してくれるだろう。  仕事の後に。友と語らう夕べに。大切な人とすごす夜に。  あなたの一番大事な時間のそばに、いつも。 〈キルケーIPA〉 * * * 「…………」  アンドバリはぱたりと台本を閉じ、満面の笑顔で待ちかまえるキルケーとブラインドプリンセスに向き直った。 「どうです? どうです? これなら文句ないでしょう!」 「確かに、ひたすらお酒を飲んでるだけの企画よりはずっといいですけど……」アンドバリは何とも言えない顔になって首をひねる。  『オルカ酒』が贈収賄法違反という最悪の形で没になってから一週間。「次同じことをしたらダッチガールに言うぞ」という厳重な警告つきで保釈されたキルケーが、オルカ映画祭予算統括であるアンドバリのもとへふたたび持ち込んできた企画は、同じく酒を主題にしてはいるものの、意外にもまともなドキュメンタリー風映画だった。 「これって、本当にあったことなんですか?」 「ほぼ全部事実です。ドリアードさんにも取材して、当時の記憶を確かめました」キルケーはにこにこと答える。 「あ、最後の樽のシーンだけは創作です」ブラインドプリンセスもにこにこと答える。「事実そのままだと私の出番が幕間しかないので、あえて改変していただきました。本当はドリアードさんがちゃんと樽を手配していたそうですよ」 「幕間って、この(開栓音)とか『プハー』とかいうのですよね」アンドバリは胡散臭げにもう一度台本をめくる。「これ何ですか?」 「CMです。おいしそうでしょ」 「CMって……商業映画じゃないんですよ」 「でも、宣伝に使うでしょう?」  ブラインドプリンセスの言葉に、アンドバリは返事につまる。確かに、映画祭の作品はヨーロッパ全土に配信して、オルカへの合流を奨励するための武器でもある。 「知ってますよ~」キルケーが悪そうな顔をして、すすすっとアンドバリの隣へ寄ってきた。 「救援物資にビールを入れたの、好評らしいじゃないですか」 「ぐっ……」  確かにキルケーの言うとおり、救援物資に一樽のビールを加えるようにしてから、オルカに合流する共同体の数がいちだんと増えたのだ。アンドバリにはさっぱりわからないが、酒というのはよほど人を惹きつける力があるらしい。 「……わかりました。予算も適正範囲内ですし、許可します」  アンドバリは提出された企画書の右上に、大きな「認可」のハンコをぺたりと捺した。キルケーとブラインドプリンセスが満面の笑顔で両手を打ち合わせる。 「でも、認可したからにはちゃんと作って下さいね。せっかくの予算を呑み会で使い果たしたりしちゃ駄目ですよ」 「まさか、そんなことするわけありませんよ」 「ねえ」 「きっとですよ。もしそんなことがあれば」 「あれば?」 「秘書室に言って、酒税を導入してもらいます」 「しゅ、酒税……!!」  聞いたことのない言葉だが、何かとても恐ろしい概念であることは二人にもわかった。帽子と眼帯がずり落ちそうになるほど何度も何度も頷きながら、キルケーとブラインドプリンセスは後ずさりして部屋をあとにした。 「……ふー」  さっそく機材とスタッフの手配に入るというブラインドプリンセスと別れて、キルケーはいったん部屋に戻り、端末を立ち上げてメールをチェックする。 「今週の仕入れよし、支払よし、と。遅れてたボルドーの便はどうなりましたかね……」  オルカは箱舟にいた頃より、いっそう豊かになった。物資の備蓄が増えたのはもちろん、デルタが抱えていたヨーロッパのインフラをそっくり継承して生産設備も比較にならないほど充実した。今ではビールのみならずワインも、ウイスキーも、そのほか様々な酒も、専門の醸造所や工場でどんどん造ることができる。オルカ食料局には今や醸造部という立派な部署があり、キルケーはそこの顧問である。そのほかにアクアランドの園長と、建設中のオルカパークの責任者も兼任して、さらにリヨンでバーも経営しているのだから、なかなかに多忙な身だ。 「来週から撮影に入るから、もっと前倒しで詰めておかないといけませんね~。は~、大変たいへん……」  ぼやきながらも楽しげに、一通りのチェックと指示出しを終えたキルケーはデスク横の小型冷蔵庫からビールとグラスを取り出す。銘柄はもちろん「キルケーIPA」だ。 「ふっはー……!」  澄んだ琥珀色のビールをぐっと一口飲んで、キルケーは部屋の反対側へ目をやった。そこには、あの古びた銅の醸造釜が置かれている。今はもう自室でビールを造る必要もないが、毎日ぴかぴかに磨いていつでも使える状態を保っている。ちなみにキルケーが百年前から使いつづけてきた酵母は、歴史的価値があるということで箱舟のストックに加えられ、凍結保存されている。  もう一口。何度飲んでも、うまい。たった一人で試行錯誤しながら造っていた頃のビールとは比較にならないほどうまい。様々なビールを楽しめるようになった今のオルカでも、キルケーIPAは今なお人気銘柄のひとつだ。 (……けれど、それでも)  今のキルケーには、夢がある。  いつか、平和が訪れたら。この古い醸造釜と、あの時使っていた酵母で、ほんの少しのビールを造る。  そして司令官と二人で、それを飲むのだ。  きっと、大してうまくはないに違いない。けれど、それでも、彼は笑って飲んでくれるに違いない。  きっと、とても楽しい夕べになるに違いない。 「…………」  ドリアードも呼ぼうかな。ブラインドプリンセスはどうしよう。いや、やっぱり二人きりがいい。  デスクに頬杖をついて、柔らかな微笑みを我知らず浮かべ、ドリアードはいつまでも、幸せな夢想にふけっていた。  いつまでも、いつまでも。  具体的には機材とスタッフの手配を終えたブラインドプリンセスが打ち入り飲み会の誘いに来るまで。 End