透明のグラスに、泡立つ金色の液体が注がれる。カップを取り上げ、泡のはじけるかすかな音に耳を傾ける。泡とともにはじける香りを吸い込んだのち、中身を一息に口へ含む。苦味、甘味、旨味、鼻へ抜ける含み香、炭酸の含み具合。それらを口中で短時間のうちに検分してから、最後にごくりと飲みくだして喉ごしを確かめる。  目を閉じて、鼻から静かに息を抜いたのち、ドリアードはにっこりと微笑んで告げた。 「60点ですね」  キルケーはがっくりとテーブルに手を突き、頭を垂れた。  最善を尽くしたつもりだった。今日のために特別気合いを入れて仕込んだ三本のタンクから、一番出来のいい一本を選んだのだ。満点とはいかなくとも、それなり以上の評価はもらえるはず。その自信はあったのに。 「あ、でも、落ち込まないで下さい」ドリアードが慌てて付け加えた。「十分美味しいですよ。逆にあんまりちゃんとできていたので、つい旧時代そのままの基準で採点してしまって」 「……ふ、ふふふ。いいんです。それでこそですから」  キルケーは不敵な笑みをうかべ、顔を起こした。その眼差しに炎を宿して。 「私に足りないものは何ですか。教えて下さい」  届いていないことなど最初からわかっている。それを埋めるために、こうして彼女に弟子入りしたのではないか。  キルケーの気迫と、その覚悟を理解したドリアードも、すっと真剣な表情になる。 「足りないもの……というのは、難しいですね。何かが足りないわけではないんです。要素そのものは、すべて押さえられていると思います」 「それは、つまり……」  ドリアードは厳粛にうなずいた。 「単純に、クォリティが低い。すべての工程に、精度と練度と一貫性が足りていません」  キルケーはもう一度テーブルに突っ伏した。今度はしばらく起き上がれなかった。 (タイトルIN) 『プロジェクトK ~醸造者たち~』 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  ドリアード。  フェアリーシリーズのハイクラスモデルであり、穀物を中心とした大規模農業を専門とする彼女は、知る人ぞ知るビール造りの達人でもある。もとは得意客にだけ教える一種の「隠し機能」として実装されていたのだが、その味の素晴らしさから上流階級のあいだでは瞬く間に知れわたり「一度飲んだら他のビールは飲めない」とまで言われた。マゴ・インターナショナルのとある幹部は、第二次連合戦争の最中ですら自家醸造用のドリアードを手放さなかったという。  キルケー。  自他共に認める大の酒好きであり、潜水艦時代から自室に醸造釜を据えて酒造りにいそしんでいた彼女は、ドリアードのそうした噂を聞きつけるやすぐに駆けつけて弟子入りを申し込んだが、すげなく断られた。当時ようやく軌道に乗り始めたスヴァールバルの地下農園の運営と、医療スタッフとしての業務でフェアリーシリーズ全員が忙しくしている中、そんな暇はなかったのだ。  しかしキルケーは諦めなかった。何度も何度も、ドリアードのもとを訪れては頭を下げ続けた。ついに彼女も折れ、指導を引き受けることになったのだが、そのとき二つの条件を出した。 「やるからには、中途半端なことはできません。私の指示にはすべて従っていただくこと。そして、私が満足できる水準になるまで指導させていただくこと。よろしいですか」 「望むところです」  キルケーは即答した。この条件の本当の意味を思い知るのはまだ先のことである。  かくて、苦闘の日々は始まった。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「というわけで、すべてを基礎から見直しましょう」 「よろしくお願いします」  早朝。  最初の試飲評価から一夜明け、気合いを入れ直したキルケーとドリアードは、まだほの暗い雪原を踏んで歩く。目的地は箱舟から少し離れた斜面に建つ、小さな醸造所である。オルカがスヴァールバルに長期滞在することが決まってすぐ、キルケーの申請により建てられたものだ。 「まず麦芽からです。どういったものをお使いですか?」  中はさして広くはない。製麦室と書かれたドアを開けると、ひんやりと乾いた空気が二人を包んだ。 「フクオカ拠点で作ってもらった大麦を仕入れて、自分で作っています」 「ああ、フクオカはいいですね、私の姉妹も一人あそこにいます」  室内の機材や物品をざっと見回したドリアードは、部屋のすみに積み上げられた麻袋を一つ取り上げる。中にはほのかに甘い香りのする、茶色い小さな粒がいっぱいに詰まっていた。  麦芽。読んで字のごとく、麦が芽を出したものである。  酒造りのプロセスとは、最も単純化すれば、糖をアルコールに変えることといえる。まず糖がなければ酒は生まれない。  しかし、ビールの原料となる大麦に糖はほとんど含まれていない。オオムギが含むのはデンプンである。無数の糖がかたく結合したもので、そのままではアルコールにならない。  ――初めてビール造りに挑戦した時はそんなことさえ知らなくて、小麦粉で造ろうとして大失敗したりしました。  キルケーはほろ苦く思い返す。  滅亡戦争当時、キルケーは人間の命令によってハロウィンパークから離れることができなくなった。人類が姿を消してからの長い長い年月、苦しみを忘れるために酒に溺れた時も、それが高じて自分で酒を造り始めた時も、彼女が頼れるのはパーク内のネットワークに残された情報、近隣の市街へドローンを飛ばして集めてきた、ごくわずかな書物だけだった。ほとんど何もかもを我流と試行錯誤で身につけるしかなかった彼女が麦芽の作り方を知ったのは、とある絵本からだったという。  大麦から糖を作るための方法が、芽を出させることである。大麦とは言うまでもなく種子であるから、適当な温度と水分をあたえれば芽を出す。  そして芽が出ると同時に、内部ではデンプンを糖へと分解する酵素が作られはじめる。デンプンは本来、種子のためのエネルギー源だ。芽を出したからにはすぐに使える糖へと分解し、生長に備えなくてはならない。  が、そのまま生長はさせない。芽を出したばかりの大麦を、熱風に当てて乾燥させる。そうすると種子としては死んでしまうが、中の酵素はまだ生きている。まだほとんど分解されていないデンプンもそっくり残っている。この「糖化酵素とデンプンを大量に含んだ発芽しかけの大麦」こそがビールの第一の原料、麦芽(モルト)である。  ドリアードは袋いっぱいの麦芽をすこし手のひらにとると、鼻を寄せて色と香りを確かめ、さらに一粒を口に含んで味を確かめた。しばらく目を閉じてから、もう一粒取り出して同じことをする。さらにもう一粒。 「溶け具合も焙燥も不揃いです。麦の選別をしていませんね」 「選別?」キルケーはぽかんとした顔で繰り返す。ドリアードは小さくため息をついて、 「麦粒の大きさを揃えないと、均一な麦芽ができません。ほら、これとこれは色合いが違うでしょう? こちらの小さい粒はほとんどローストされてしまってます。これではヴァイツェンとスタウトを混ぜて作るようなものですよ。少なくとも大中小の三つくらいには分けて、別々に製麦しなくては駄目です。それから、根も切った方がいいですね」  ドリアードがつまんで見せた麦芽にキルケーが目を近づけると、麦の粒から白い毛のようなかぼそい根が、三、四ミリほど生え出しているのが確かに見える。 「根がついたままだと、貯蔵中に水分を吸収してしまうことがあるんです」 「こ、これを切るんですか?」 「さすがに手作業じゃありません。専用の機械があります。箱舟のデータベースに設計図がないか探しましょう、麦粒選別機もね」  当たり前のように笑うドリアードに、キルケーは唾を飲み込んだ。なるほど、精度を上げるとはこういうことなのか。  実り多い修行になりそうだ。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「次に、水ですが……これは上水道の水を普通に使っていますよね、きっと」 「はい……ダメですか」  おそるおそる、といった調子のキルケーに、ドリアードは笑った。 「いえ、それでいいと思います。スヴァールバルの水は硬水で悪くないですし、第一水をよその拠点から運ぶのはあまりに不経済ですから」  製麦室を出た二人は、となりの醸造室へ移る。ここが、ビールが実際に造られる醸造所の心臓部である。 「ただ、pHにはつねに注意して下さい。天然水は変動がありますから、高すぎる場合にはカルシウムを加えたり……」  室内に並ぶタンクとハウスを順々に指さし確認していたドリアードの眉が、ふと曇った。  ビールの醸造設備は、もっともシンプルな場合、二つのタンク設備からなる。仕込みを行う「ブリューハウス」と、発酵を行う「発酵タンク」である。  ブリューハウスでは、保存しておいた麦芽を細かく砕いて、仕込み水とよく混ぜる。ほどよい温度に温めてやれば、麦芽の中の糖化酵素が活動を再開し、デンプンをどんどんと糖に分解し始める。  一週間ほどそのまま置くと、デンプンがすっかり糖……麦芽糖になる。これを濾過してから煮沸する。これによって酵素が失活し、成分がもう変化しなくなる。こうしてできたものを「麦汁」とよぶ。そのまま飲んでも甘くてなかなかに美味い。 「全部新品に取り替えましょう、これ」  タンクの蓋を開け、内部を念入りに検分したドリアードが、気の毒そうに告げた。 「全部!?」 「焙燥機の設計図があったライブラリに、タンクもあるでしょう。ちょうどいいサイズのを探して、工作室に発注して下さい」 「あ、あの!」  キルケーはあわてて古びた銅のタンクに駆け寄る。「確かに古いし形もよくないですが、まだ十分使えます。手入れもきちんとしていますし」  つぎはぎの目立つそれは、醸造室に並ぶ何本ものタンクの中でも一番古いものだ。まだハロウィンパークにいた頃、見よう見まねで初めて組み上げたものを、修繕と改良を重ねて今まで使い続けてきた。キルケーにとっては長年の相棒と言ってもいい存在である。  しかし、ドリアードは無情にもきっぱりと首を振った。 「大事に使われてきたのは、見てわかります。でも見て下さい、内面のこの凹凸の多さ。部品の継ぎ目や、小さな亀裂。こういう所に雑菌が溜まってしまうんです。ビール造りの一番の敵です」 「掃除と消毒はちゃんとしています。これまで以上に念を入れてやりますから……」 「その時間を別のことに使ったら、もっとビールの味がよくなるとしてもですか?」 「……っ!」  言葉に詰まったキルケーの肩に、ドリアードはそっと手を置いた。 「ビール造りの味方は微生物、敵も微生物です。情熱も思い入れも、彼らには通じません。それだけはわかってください。彼らに伝わる言語は精度、ひたすらな精度だけです」  キルケーは唇を噛む。百年間使い続けた円筒形のタンクは、色合いこそくすんでいてもサビ一つない。その表面を、そっと撫でた。  ――あの瞬間が、一番辛かったですね。長年の友達を見捨てるような、そんな気持ちがして。ドリアードさんの言うことが正しいということはわかっていたので、余計に……。  ――この時のタンクは、今でも私の部屋にとってあります。今でも、ぴかぴかに磨いていますよ。 「…………わかりました。どういうタンクがいいか、一緒に探してもらえますか」 「もちろんです」  ドリアードはやさしく頷いた。肩に置かれた手に、ほんの少し力がこもるのをキルケーは感じた。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「旧時代のドイツには、ビールには麦芽、ホップ、水、酵母以外の原料を使ってはならない、という法律があったそうです」 「ヴィルヘルム四世の『ビール純粋令』ですね」 「あら、お詳しいですね」ドリアードは嬉しそうに両手を打ち合わせた。「この法律が作られた時代、ビールには様々な香料を入れるのが当たり前だったそうです。その中からホップだけが残ったのは、ビールにとってホップがどれだけ重要かを示していると、私は思います」  醸造室の隣に小さな冷蔵室があり、中にビニール袋が何段にも積み上げられている。一つとって開けると、苔のような色をしたペレットがざらりと手のひらにこぼれ出てきた。 「ホップはサッポロ拠点で作ったのを使ってます。というか、あそこしか作ってくれないんですよね……」  ホップ、和名をセイヨウカラハナソウ。アサ科のつる性植物で、夏になると透きとおった薄緑色の松ぼっくりのような、花とも葉とも実ともつかない奇妙なかたまりを実らせる。毬花とよばれるこのかたまりが、ビールをビールたらしめる香り、泡、そして苦味の源泉である。  ホップを乾燥させて粉にし、突き固めたペレットを、ドリアードは指先でつまみ上げてしげしげと検分し、最後に舌の上にのせた。 「麦とは違って、他にほとんど用途がないですから、それは仕方ないですね。‘フラノスペシャル’かな?」  冷蔵室を出ると、その先にあるのは搬出前のビールを積んでおく倉庫だけだ。醸造所のあらましを見終えたドリアードは、あらためてキルケーの方へ向き直った。 「さて、そろそろ伺っておきたいと思うのですが、キルケーさんはどんなビールを造りたいですか?」 「どんな……というと?」 「手に入るかぎりの材料で、せいいっぱい美味しいビールを造る……おそらくこれまでは、それだけを目標にしていらしたと思います。それはもちろん立派なことですが……これからは、自分の造りたいビールを思い描いて、そこを目指して磨いていかないと向上はできません」  ドリアードの視線にこめられた力に、キルケーはたじろいだ。  キルケーはもちろん、どんなビールも好きだ。できるだけ色々なビールを飲んでみたいし、作ってもみたいと思っている。  しかし、それだけでは駄目なのだ。今、ここで、この自分が作ることに意味があるビール。オルカに、外部拠点に、そしていまだオルカを知らない世界中のバイオロイドたちに、自分が届けたいビールは何か。それが問われているのだと、キルケーは理解した。  目を閉じ、長い間考え込んだ。ドリアードは辛抱強く待っていてくれた。  やがてキルケーは目を開け、ドリアードの眼差しをまっすぐ受け止めて答えた。 「IPAにしようと思います」 「インディア・ペールエールですか」  ドリアードは正式名称で繰り返した。  インディア・ペールエール。強いホップの苦みと香り、アルコール度数の高さを特徴とするイギリスのビールである。イギリス伝統のペールエールをインドへ輸出する際、長期間の航海でも腐らないようホップを大量に加え、アルコール度数を高めたのが発祥だという。 「理由をうかがっても?」 「まず、エールですから短期間で、設備も今のままで作れます。常温で保存がきくので輸出に向いていますし、冷蔵庫を持っていない小さな共同体へ配るにも便利です。何より、私の好きなビールです」  明瞭な答えだった。ドリアードは深く頷いて、微笑んだ。 「すばらしい答えです。……ホップですが、これまでは全量を煮沸直前に投入していましたね?」 「え? は、はい」 「ではそれと別に、全量の一割ほどを煮沸直後に追加するようにしましょう。レイトホッピングといって、香りが強く出ます。フラノスペシャルはもともとアロマ系のホップですから、はっきり違ってくるはずですよ」  ドリアードはタブレット端末を取り出して、いくつかの数値を矢継ぎ早に打ち込み始めた。 「方向性が見えれば、あとは詰めていくだけです。最高のIPAを造りましょう、キルケーさん」 「は……はい!」 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  最後に、酵母である。  糖化と煮沸を終え、ホップも加えて完成した麦汁はもう一つのタンク、発酵タンクに移される。そこで酵母が加えられ、二週間ほどかけてじっくりと発酵が進められる。  キルケーはふたたび冷蔵室に入り、どろりとしたクリーム色の液体が入った瓶を出してきた。 「毎回、前のタンクの澱をとっておいて、そこから培養したのを使っています」 「酵母を自家培養してらっしゃるんですか」ドリアードは目をまるくした。「簡単ではないでしょうに」 「ええ、まあ。これのコツをつかむだけで、五年くらいかかりましたね」  発酵の世界における酵母というものは、基本的にただ一種類の菌、サッカロマイセス・セレビシエのことをさす。いくつかの例外をのぞけば、ビール酵母もワイン酵母も清酒酵母もパン酵母も、みなこの一種類のなかの品種にすぎない。  そして、酵母は自然界のどこにでもいる。例えばブドウを皮ごとつぶして放置しておくと、皮に付着していた酵母によって勝手にワインができる(もちろん、適切な温度や衛生環境があればだが)。中世までは実際にそのようなやり方でワインを造っていたという。キルケーが初めて造った酒もビールではなくワインだった。そこで造った酵母をビールに転用したのだ。  ドリアードは瓶を光に当てて、しげしげと眺めた。「これはこれで、すごい成果ですが……野生酵母ではやはり、発酵力に限界があります。ビール専用の酵母株を探した方がいいですね」  酵母に糖をあたえ、そして酸素のない環境に置いておくと、嫌気呼吸というエネルギー反応をはじめる。糖を分解して二酸化炭素とエタノールに変え、その過程で余剰のエネルギーを取り出すのだ。発酵とは、この嫌気呼吸のことである。  ただの呼吸といえども、その反応の強さや適切な温度、生成する副産物など、品種によってさまざまに性質は異なってくる。人類は数千年の時をかけて、ビール造りに、ワイン造りに、パン造りに、もっとも適した品種を選び抜いてきた。 「探すって、どこを?」 「きっと箱舟にあるでしょう 「でも、遺伝子データはデルタが全部メチャクチャにしちゃったんでしょう?」キルケーは眉根を寄せる。 「何を言っているんですか」ドリアードがあきれ顔を返した。「ここは生物系特化の記憶の箱舟ですよ? 酵母菌なんて、実物が凍結保存されてるに決まっています」 「あ」  果たしてドリアードの言うとおり、IPAに適したビール酵母の実物はすぐに見つかった。工作室に依頼した機材と新型醸造機材も一週間ほどでできあがってきた。  そして、そこからが本当の始まりであった。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  まず、機材の納入までの一週間はひたすら座学。 「醸造学に微生物学、栄養学に作物学に植物病理学。基本だけでも一通り学んでおきましょう」 「ひええええ」  何もかもを独学で身につけてきたキルケーにとって、系統だった知識を専門家から直接教わることができるのは得がたい機会ではあった……しかし、それを差し引いてもなお、机と書物にかじりつく一週間は辛く苦しいものだったという。  ――あの時教わったことが、あとでどれだけ役立ったかしれません。一番逃げ出したいと思ったのも、あの時でしたけど(笑)。  そして機材が到着してからは、ひたすら実践と反復。  ドリアードが告げた「私が満足できる水準になるまで指導する」という言葉の意味を、キルケーはここで初めて本当の意味で思い知ることになった。 「洗浄が甘いです。やりなおし」 「はい!」 「濁りが出ています。スパージングのしすぎです」 「はい!」 「なんですかこの仕込ダイヤグラムは。精度が一桁足りません。やりなおし」 「は、はい!」 「0.5℃では駄目です、0.2℃単位で温度管理ができるようになってください」 「はい……」 「自分の感覚よりも数値を信じる癖をつけてください。次に、その数値を感覚で身につけてください」 「ううううう……」 「まだ洗浄が甘いです。やりなおし」 「はいいぃ……」  ドリアードは自分自身にも、そしてキルケーにも少しも妥協を許さなかった。時には農場や医務室の仕事を休んでまでも全力で指導に取り組んでくれたかわり、わずかでもミスを見つければ何度でも最初からやり直させた。  仕込みの指導が始まってから三日目、キルケーは醸造所に泊まり込むようになった。24時間タンクの状態をモニターしているドリアードが、夜中でも構わず叩き起こしに来るからだ。フェアリーシリーズの中でもとりわけ温和でおっとりした性格に見えた彼女に、これほど苛烈で容赦ない一面があったことはキルケーも知らなかった。  ビールの中でも上面発酵タイプのエールは常温・短期間で発酵が完了するのが特徴で、仕込みからおよそ二週間もあれば完成する。だが、製麦に合格をもらえるまでに一週間。麦汁の仕込みに二週間。発酵でミスをせず完走できるまで一か月かかり、新設備での初めてのビールが仕上がったのは、納入から実に二か月後のことだった。  出来上がったビールは、これまでキルケーが造っていたものより明らかに味がよかった。感動するキルケーのかたわらで、しかしドリアードはしずかに首を振った。 「70点」  まだまだやるべきことがある。それはそういう意味だった。  一度は落胆したキルケーだったが、そこからの上達は本人も驚くほど速かった。これまでの長い経験と、叩き込まれた座学、そして徹底的に指導を受けた実技が、どんどんと噛み合っていく。  ――後から振り返れば、あれはそのための期間だったんだと思います。一度作るたび、ドリアードさんの点数が上がっていくのが、本当に嬉しかったですね。 「72点」 「75点です。良い調子ですよ」 「ななじゅう……8点」 「……80点です!」  そして、半年が過ぎたある日。突然、すべてが噛み合う感覚があった。  ――やっていることは、それまでと変わらなかったはずなんですけど。発酵タンクに麦汁を移して、酵母を加えて温度計を確認した瞬間、突然わかったんです。これは成功する、って。  二週間後。  出来上がったビールはそれまでと同じ琥珀色をしていたが、泡立ちがいつもよりきめ細かいように見えた。グラスに注いだビールを、キルケーとドリアードは同時に口にはこんだ。 「……!」  泡ごしにふわりと香る青葉のようなホップの香り。舌を叩きつける強烈な苦味のパンチと、オレンジマーマレードのような甘く重厚な風味。それらを炭酸が洗い流したあと、しずかに訪れる麦の旨味。一口目からわかる、口蓋を抜けて頭の裏側をほのかにくすぐるような極上の酩酊の予感。  キルケーがこれまでの人生で飲んだどんなビールよりも、いやどんな酒よりも、それは段違いに旨かった。  夢中でグラスの中身を飲み干し、二杯目を注ごうとしたキルケーを、ドリアードが静かに制した。彼女のグラスは一口分しか減っていなかったが、その顔には穏やかで、満足げな笑みが浮かんでいた。 「90点です」 「…………!!」  キルケーの目に、熱いものがあふれた。  初めて味をみてもらった時のように、旧時代と同じ基準で採点してほしいと、かねてからドリアードには頼んであった。旧時代に流通していた無数のビールの中に、彼女が85点以上をつけたものはいくつもないということも聞いていた。 「改善の余地はまだまだありますが、それはもうキルケーさんがご自分のスタイルで切り拓いていく領域です。私から指導することはもうありません。世界中のどんなバーに出しても恥ずかしくないビールです」  だからこれは、妥協を許さぬ彼女からの、最高の賛辞と言ってよかった。  ドリアードが試飲ボトルをとって、キルケーのグラスに注いでくれた。握りしめたグラスに、涙のしずくが一滴、二滴落ちて、飲み干した二杯目はかすかに塩の味がした。  ――キルケーさんは、すばらしい生徒でした。あんなに心からお酒を愛している人を、私は知りません。  ――お酒造りですか? 今はもう関わっていません。農場と医務室の仕事で手一杯ですし……それに、キルケーさんがいれば安心ですから。 「次はいよいよ、これを流通させないとですね」  三杯目を飲もうとしたキルケーは、ドリアードのその言葉にぴたりと動きを止めた。 「……流通」 「そうでしょう? バーで出したり、ほかの拠点へ輸出したり。そう仰ってませんでしたか?」 「……言ってました。たしかに言ってましたが……」  振り向いたキルケーの顔からは、幸せな酔いがすっかり引いていた。 「容器の手配を忘れてました……」 「ええ!?」  ビール造りの最後の工程は言うまでもなく、飲んでもらうことである。そのためにはタンクから出して容器に詰めなくてはならない。瓶、缶、樽と色々な容器があるが、今のオルカではどれも、一朝一夕に用意できるものではない。 「いそいで発注しましょう。大丈夫ですよ、IPAは保存がききますから。このタンクの容量ならええと20リットル樽で……」 「ああ、できたてを皆さんにご馳走したかったのに……」 「心配いりませんよお二人とも!」  突然、醸造所の扉が音を立てて開かれた。吹き込む寒風を背に受けて戸口に立っていたのは誰あろう、オルカ第二の愛酒家ブラインドプリンセスその人だった。 「話はすべて聞かせてもらいました」  ブラインドプリンセスは腕を組んで仁王立ちしたまま、誇らしげに言い放った。「こんなこともあろうかと、輸送用のビール樽を先週工房へ発注しておいたのです!」 「ブラインドプリンセスさん!」キルケーが目をうるませた。 「我が心の友の最高傑作、無駄にしてはいけませんからね。樽はまもなく届きます。その前に」黒い眼帯の下で、盲目のプリンセスはにっこりと微笑んだ。 「私にも一口ご馳走してもらえませんか」 「もちろんです! どうぞどうぞ!」  今に残るK&Dブリュワリーの傑作「キルケーIPA」は、こうして生まれた。  深いコクと爽やかなキレ、豊かな味わいは、あなたに至高のひとときを約束してくれるだろう。  仕事の後に。友と語らう夕べに。大切な人とすごす夜に。  あなたの一番大事な時間のそばに、いつも。 〈キルケーIPA〉 * * * 「…………」  アンドバリはぱたりと台本を閉じ、満面の笑顔で待ちかまえるキルケーとブラインドプリンセスに向き直った。 「どうです? どうです? これなら文句ないでしょう!」 「確かに、ひたすらお酒を飲んでるだけの企画よりはずっといいですけど……」アンドバリは何とも言えない顔になって首をひねる。  『オルカ酒』が贈収賄法違反という最悪の形で没になってから一週間。「次同じことをしたらダッチガールに言うぞ」という厳重な警告つきで保釈されたキルケーが、オルカ映画祭予算統括であるアンドバリのもとへふたたび持ち込んできた企画は、同じく酒を主題にしてはいるものの、意外にもまともなドキュメンタリー風映画だった。 「これって、本当にあったことなんですか?」 「ほぼ全部事実です。ドリアードさんにも取材して、当時の記憶を確かめました」キルケーはにこにこと答える。 「あ、最後の樽のシーンだけは創作です」ブラインドプリンセスもにこにこと答える。「事実そのままだと私の出番が幕間しかないので、あえて改変していただきました。本当はドリアードさんがちゃんと樽を手配していたそうですよ」 「幕間って、この(開栓音)とか『プハー』とかいうのですよね」アンドバリは胡散臭げにもう一度台本をめくる。「これ何ですか?」 「CMです。おいしそうでしょ」 「CMって……商業映画じゃないんですよ」 「でも、宣伝に使うでしょう?」  ブラインドプリンセスの言葉に、アンドバリは返事につまる。確かに、映画祭の作品はヨーロッパ全土に配信して、オルカへの合流を奨励するための武器でもある。 「知ってますよ~」キルケーが悪そうな顔をして、すすすっとアンドバリの隣へ寄ってきた。 「救援物資にビールを入れたの、好評らしいじゃないですか」 「ぐっ……」  確かにキルケーの言うとおり、救援物資に一樽のビールを加えるようにしてから、オルカに合流する共同体の数がいちだんと増えたのだ。アンドバリにはさっぱりわからないが、酒というのはよほど人を惹きつける力があるらしい。 「……わかりました。予算も適正範囲内ですし、許可します」  アンドバリは提出された企画書の右上に、大きな「認可」のハンコをぺたりと捺した。キルケーとブラインドプリンセスが満面の笑顔で両手を打ち合わせる。 「でも、認可したからにはちゃんと作って下さいね。せっかくの予算を呑み会で使い果たしたりしちゃ駄目ですよ」 「まさか、そんなことするわけありませんよ」 「ねえ」 「きっとですよ。もしそんなことがあれば」 「あれば?」 「秘書室に言って、酒税を導入してもらいます」 「しゅ、酒税……!!」  聞いたことのない言葉だが、何かとても恐ろしい概念であることは二人にもわかった。帽子と眼帯がずり落ちそうになるほど何度も何度も頷きながら、キルケーとブラインドプリンセスは後ずさりして部屋をあとにした。 「……ふー」  さっそく機材とスタッフの手配に入るというブラインドプリンセスと別れて、キルケーはいったん部屋に戻り、端末を立ち上げてメールをチェックする。 「今週の仕入れよし、支払よし、と。遅れてたボルドーの便はどうなりましたかね……」  オルカは箱舟にいた頃より、いっそう豊かになった。物資の備蓄が増えたのはもちろん、デルタが抱えていたヨーロッパのインフラをそっくり継承して生産設備も比較にならないほど充実した。今ではビールのみならずワインも、ウイスキーも、そのほか様々な酒も、専門の醸造所や工場でどんどん造ることができる。オルカ食料局には今や醸造部という立派な部署があり、キルケーはそこの顧問である。そのほかにアクアランドの園長と、建設中のオルカパークの責任者も兼任して、さらにリヨンでバーも経営しているのだから、なかなかに多忙な身だ。 「来週から撮影に入るから、もっと前倒しで詰めておかないといけませんね~。は~、大変たいへん……」  ぼやきながらも楽しげに、一通りのチェックと指示出しを終えたキルケーはデスク横の小型冷蔵庫からビールとグラスを取り出す。銘柄はもちろん「キルケーIPA」だ。 「ふっはー……!」  澄んだ琥珀色のビールをぐっと一口飲んで、キルケーは部屋の反対側へ目をやった。そこには、あの古びた銅の醸造釜が置かれている。今はもう自室でビールを造る必要もないが、毎日ぴかぴかに磨いていつでも使える状態を保っている。ちなみにキルケーが百年前から使いつづけてきた酵母は、歴史的価値があるということで箱舟のストックに加えられ、凍結保存されている。  もう一口。何度飲んでも、うまい。たった一人で試行錯誤しながら造っていた頃のビールとは比較にならないほどうまい。様々なビールを楽しめるようになった今のオルカでも、キルケーIPAは今なお人気銘柄のひとつだ。 (……けれど、それでも)  今のキルケーには、夢がある。  いつか、平和が訪れたら。この古い醸造釜と、あの時使っていた酵母で、ほんの少しのビールを造る。  そして司令官と二人で、それを飲むのだ。  きっと、大してうまくはないに違いない。けれど、それでも、彼は笑って飲んでくれるに違いない。  きっと、とても楽しい夕べになるに違いない。 「…………」  ドリアードも呼ぼうかな。ブラインドプリンセスはどうしよう。いや、やっぱり二人きりがいい。  デスクに頬杖をついて、柔らかな微笑みを我知らず浮かべ、ドリアードはいつまでも、幸せな夢想にふけっていた。  いつまでも、いつまでも。  具体的には機材とスタッフの手配を終えたブラインドプリンセスが打ち入り飲み会の誘いに来るまで。 End =====  ブラッスリー「アイアイエー」。  オルカに知らぬ者のない大の愛酒家でありながら、アクアランド園長という役職のためになかなかヨーロッパへ来られなかったキルケーが、念願のリヨンに着任するやいなや持てる技術とコネを総動員して開設した大衆酒場である。カフェ・アモールほど高級な酒は置いていないが、ヨーロッパ各地のワイン、ビールをはじめ豊富な酒類をとりそろえ、リーズナブルな料理とともに提供する。開店以来連日大勢の隊員で賑わう、リヨンの新たな名所の一つだ。  その夜。いつもどおり酔客でごった返すアイアイエーの片隅のテーブルで。 「まあ呑め。今日は私の奢りだ」  黄金色のビールがなみなみと注がれた大きなジョッキを二つ、ぐいと押し出してワーグが言った。 「ええ……」  突き出されたジョッキを胡乱げに睨んだのはエンプレシスハウンドの残り二人、薔花とチョナである。  カフェ・ホライゾン(こちらもとっくにリヨン店を開いた)では知り合いばかりで落ち着かないので、アイアイエーができてからは三人もしばしば利用しているが、ワーグが二人を誘うのは珍しい。まして、奢りなどという言葉が飛び出したのは初めてだ。 「何の魂胆だ? 気味悪いんだけど」  眉をひそめる薔花に構わず、ワーグは自分のジョッキをつかんでぐっと傾けた。二口、三口、白いのどが上下する。一息でジョッキをほとんど空にして、ワーグは長い長い息を吐いた。 「……同じものをもう一杯」  薔花とチョナも観念してジョッキに口をつけた。どうやらワーグは罠でも皮肉でもなく、本気で今夜の飲み代をおごってくれるつもりらしい。そして、そうするだけの理由があるらしい。 「で?」  チョナがしびれを切らしたのは、二杯目のビールがほとんど空になった頃のことだった。 「……」  ワーグはずっと無言のまま、もう三杯目にかかっている。チョナは大げさに肩をすくめて、手をひらひらと振った。 「なんか私たちに言いたいことか、聞きたいことがあるんでしょ? 早くしないと薔花ちゃんツブれちゃうよ~?」 「うっせぇ」  薔花はまだ一杯目をちびちび呑んでいる。酒は好きだが、あまり強い方ではない。チョナは反対にいくら呑んでもけろりとしている。ワーグは二人の中間くらいで、だからすでに相当酔いが回っているはずだ。よく見れば目元がほんのり赤い。 「私はな」  底に残ったビールを飲み干そうか迷うように、何度もジョッキを上げたり置いたりしてからワーグはようやく、ぽつりと言った。 「自分がエンプレシスハウンドのリーダーとして作られたと思っていた」 「……?」  薔花とチョナはそろって首をかしげる。思っていたも何も、自分でそう言ってリーダーの座におさまったのではないか。今更何を、としか言いようがない。 「今更何言ってんの」チョナがそのまま言った。 「ずっとそう思っていたが……実は違ったのかもしれない、と思えてきてな」 「どういう意味だよ?」薔花は顔をしかめた。こんなに歯切れの悪いワーグは、いつだったか神社でアルバイトを始めたのを必死に隠そうとしていた時以来だ。「他に誰かリーダーがいるってこと?」  ワーグは目をつぶり、ジョッキをぐいっとあおって空にしてから、酒臭い息を吐いてうなずいた。 「ファフニールだ」  薔花は目をまるくした。「あのバカが? ないだろ」 「ないない」チョナも手を振る。  ワーグはそれには答えずジョッキをわきに押しやり、手を振ってポルティーヤを呼んだ。 「ウイスキーを。水割りで」 「アタシ赤ワイン」薔花も便乗して注文する。 「私は白。いちばん高いやつ。あとチーズ盛り合わせもね」チョナもいつの間にか二杯目を空にしていた。  やがて酒が来ると、ワーグは待ちかねたように一口あおって続けた。 「奴は確かに馬鹿だ。だがな、ハーカを見ただろう。あそこにいた奴の子分を。お前達、あんな風に人に慕われることができるか? そして、私にそれができると思うか?」 「……」  薔花は鼻白んでワインをすする。  タフなだけが取り柄の、キャンキャンやかましい底なしの間抜け。そう思っていたあのファフニールが、あんな巨大な飛行船とバイオロイド集団を率いて現れたのには薔花も驚いた。のみならず彼女は先日の鉄の塔をめぐる戦闘において、もっとも重要な瞬間にもっとも必要な決断を行い、オルカを救ってみせたのだ。彼女に対する評価を改めるべきなのかもしれないと、さすがの薔花もうすうす感じてはいる。 「ファフニールには人望がある。決断力もある。ある種の……天性のリーダーシップがある。悔しいが、認めざるを得ん」 「でもさ~」  ちろちろとワインを舐めながら、チョナが口をはさむ。「それハウンドみたいなところで意味ある?」  旧時代のエンプレシスハウンドにおいてもファフニールの言動はおおむね今と変わらなかったが、彼女をリーダーとあおぐ者など誰一人いなかった。むしろチョナや薔花をはじめ誰もが内心、または公然と、彼女のことを見下していたものだ。ワーグの言う「ある種のリーダーシップ」がファフニールにあったとして、それはエンプレシスハウンドではなんの役にも立たなかった。 「ああ、だからこそ思うのだ」  しかしワーグは、太い眉をますます沈鬱にゆがめて、泣きそうな顔になる。 「もしかすると女帝には、エンプレシスハウンドを単なる復讐のためのテロ部隊ではない、もっと別の何かに昇華させるお考えがあったのではないか。その新たな構想の中核をなすのは奴のようなバイオロイドで、私はもう用済みなのではないか……」  声はだんだんとかぼそくなり、それにつれてワーグの頭もだんだんと傾いて、最後は握りしめたグラスに額をつけるようにして止まった。  薔花とチョナはそっと顔を見合わせ、 (めんどくさ……!)  お互いの顔にそう書いてあるのを確認して、聞こえないよう無音のため息をついた。  怨念と悪意で生きていたようなあのマリア・リオボロスが、そんな前向きなビジョンを持つわけがない。考えすぎに決まっている。二人ともそう確信しているが、何しろ思い詰めたら止まらないワーグのことだから言っても聞きはしないだろう。 「……………」  ワーグはうつむいたまま、泣き言か哀願か、そんなような何かを誰にも聞こえない声でつぶやいている。こうなるともう手に負えない。 (どうする、カイロちゃんのベッドに放り込む?)  バイオロイドの悩みは司令官に抱いてもらえば九割方霧消する。オルカ結成当初から変わらぬ最高の万能薬だが、昔に比べて抵抗軍も格段に大きくなり、それに比例して司令官も忙しくなった。今ではそうそう気軽に寝室に割り込むこともしづらくなっている。 (チョナ、優先券か何か持ってるか)  チョナは手のひらを上へ向ける。もちろん薔花も持ちあわせはない。 「あー、その……えっと、あれだ」  せめて何か言葉をかけようとするが、何も出てこない。どだい、落ち込んだ人を慰めるなどというのは女帝の猟犬に最も必要とされないスキルの一つである。正直ほっといて帰ってしまいたいが、しかしこんな有様の上司をそのままにしておくわけにはいかない……と思う程度の良心は、二人にもあった。  途方に暮れて周囲を見回した薔花の目に、見覚えのあるワークキャップがふと飛び込んできた。 「おい、あいつ」 「ん?」 「よお。アンタ、ファフニールの所にいた奴だろ」 「ひえっ!?」  突然背後から肩を叩かれた元ハーカの機関長、スターリングは飛び上がって振り向いた。「は、はい、そうです。こんばんわ」 「ちょっと私らとお話しない?」 「えっと……」  真面目そうな顔には、困惑と怯えがありありと浮かんでいる。ガラの悪い酔っ払いに絡まれたとでも思っているのだろう。間違いではない。 「まーまーいいから。まーまーまーまー」  しかしそんなことは意に介さず、薔花とチョナは両側から抱くようにしてスターリングをテーブルへ連れて行き、ワーグの隣へ座らせた。 「何呑む? アンタみたいな真面目ちゃんでも、こういうとこ来るんだ」薔花はテーブルに肘を突いて身を乗り出し、すごむような笑みで話しかける。これでも会話のきっかけを作っているつもりである。 「アルコールは飲みません。そういう習慣でして」一方のスターリングは腹をくくったのか、トレードマークのワークキャップを膝の上へにぎりしめ、落ちついた声で答える。「ここに来れば、ローストビーフというものが食べられると聞いたんです」 「ローストビーフ?」 「一度食べてみたくて」 「お前……」  旧時代から生きているくせにローストビーフも知らないのか。という言葉を、薔花は飲み込んだ。オルカに長くいるとつい忘れそうになるが、まともな料理を口にしたことのないバイオロイドというのは決して珍しい存在ではない。 「……おごってやるよ、それくらい。そのかわり、ファフニールのこと聞かせろ」 「……ファフニールのリーダーシップ、ですか」  ローストビーフを幸せそうにじっくり噛みしめて味わい、ついでにチョナの勧めたワインもちょっぴり飲んで、だいぶくつろいだ様子になったスターリングは首をかしげて考える姿勢になった。 「そこでツブれてるうちの隊長が、そのへん気にしてんだよ」 「あれをリーダーシップって言っていいのかな……それは私はハーカのオペレーターですから、彼女がハーカに乗っているかぎりは一緒にいましたけど、ひっぱたいて出ていきたいと思ったことは一度や二度じゃないですよ」 「でも、出ていってないでしょ」チョナが面白そうに言った。「それどころか、例の鉄の塔の時なんかいっしょに死ぬつもりだったって聞いたけど?」 「それは、まあ」スターリングは決まり悪げにうつむく。「ほっとけない人ではあるんですよ。それになんだかんだ、頼りになるところも無くはないというか……」 「だからさ、そういうとこなんだよ。人徳のないうちのワンちゃんが気にしてるのは」 「人徳がなくて悪かったな……」地の底から湧いてくるようなうめきを上げて、ワーグがむっくり起き上がった。真っ赤な顔をして、どろりとした眼をスターリングに据える。 「……ハーカの機関長か」 「元です」ぺこりと会釈をしてから、スターリングは椅子に座り直した。 「実は私も、調べたことはあるんです。彼女がどうしてあんなバイオロイド離れした性格なのか。とはいえ皆さんの……エンプレシスハウンドの情報は民間データベースには全然なかったので、本人から話を聞いただけですけど。それでも、いくつか推測できたことはあります」 「ふむ?」ワーグが水を一杯飲んで、聞く体制に入る。薔花とチョナもグラスを置いた。スターリングは一つ咳払いをして、 「ファフニールの性格を分解すると、おおよそ四つのキーワードで表せると思うんです。『バカ』『強欲』『お人好し』『めげない』」 「言うねえ、自分の上司に」 「今は上司じゃありませんので。それで、最初の三つについてはハッキリしてると思います。あの人の放電能力はあまりに強力なので、ヘタに悪用されたら持ち主にも被害が及びかねない。だから使いこなせないようにバカにして、動かしやすいようにお人好しで強欲にしたんです」 「クソだな、設計者」 「だが実際、そんなところだろうな」 「それで最後の『めげない』についてですが……あの人、エンプレシスハウンドの中でも後の方だそうですね。作られたのが」 「そうだな。最後期のメンバーの一人だ」ワーグが頷いた。 「だから姉というか、先輩が多いわけですが……率直に言って、エンプレシスハウンドって、性格に問題のある人が多くないですか?」 「……へーえ?」  薔花が睨むのを気にせず、スターリングは続ける。 「そういう人達の中で、いわば新人の下っ端をやっていくわけですから、神経がタフじゃないとやっていけなかったんじゃないかと。実際、昔の話を聞くと結構ひどい目にもあわされてたようですし」  薔花はだまって目をそらす。チョナは冷たい色の眼をほそめて、凄みのある笑みを浮かべた。 「本人を前にしていい度胸してるねえ、キミ」 「あんな人の下に何十年もいれば、度胸くらいつきますよ」スターリングはグラスに残ったワインを一息に飲み干して、熱い息を吐いた。 「バカだから、まともな人が思いつかないようなことをやる。バカで欲深だから、人が遠慮するものを平気で欲しがる。バカでお人好しだから、放っておくと不安になる。バカでタフだから、何があっても諦めない。……バカだから」 「バカ多すぎるだろ」 「つまり……」ワーグはテーブルに頬杖をついた。「ファフニールのリーダーシップは、偶然の産物だというのが、お前の見解か」 「そう思います。たまたまデザインされた性格が、環境にうまくハマっただけなんじゃないかと……。あと、結局私たちがみんなアイツについていったから、面倒を見ないといけなくなって、そういう方向に成長したのかもしれません。初期のファフニールは今よりだいぶひどかったですから」 「人の徳慧術知あるは、恒に疢疾に存す、か……」  ワーグはワインの瓶をとり、スターリングのグラスになみなみと注いだ。 「助言、感謝する」 「立ち直った?」 「まあ、気休めにはなった」ワーグは自分のグラスにも注いで、一口飲んだ。「どのみち、真相を確かめる方法などないのだしな。いずれ、他のハウンドと合流することがあったら聞いてみるさ」  そう言ってもう一口飲もうとしたワーグの頭上から、けたたましい声が降ってきた。 「あーっ、あんた! 隊長の私をさしおいて、何おごられてんのよ!」  豊かなバストを揺らし、スターリングに指をさしつけてツカツカとやって来たのは誰あろう、ファフニールである。 「あ、偶然の産物が来た」 「はあ!?」ますます柳眉を逆立てたファフニールだが、テーブルの上の皿にふと目を留めた。 「あ、これローストビーフってやつでしょ! 私も食べたことない!」 「美味しかったよ」スターリングが最後の一切れをすばやくさらい取り、口に放り込んでから言う。 「ちょっ……今の流れでそれ食べる!? あんた上司への敬意ってものはないの!?」 「もう対等だしって何度も言ってるでしょ」 「落ち着け、もう一皿くらい頼んでやる。お前も食べていけ」 「食べてくわよ! ご飯食べに来たんだから!」ファフニールはいそいそとコートを脱いで腰を下ろした。「外、すっごく寒いわよ。明日は雪になるかもだって」 「え~。やだなあ」寒さが苦手なチョナが、本当に嫌そうに顔をしかめた。「ホットワインちょうだい」 「水割りをもう一杯」 「酒はもういいや。コーヒー、ミルクと砂糖マシマシで」 「あ、私もそれでお願いします」 「ねえこれ奢り? 奢りって言ったわよね? この一番高いワインにするわ!」 「おいチョナ、お前こいつと発想が一緒だぜ」 「えええ~」チョナがさっきよりも嫌そうに顔をしかめた。 「ファフニール、お前、スヴァールバルへ行ったことはまだないな?」 「ほへ?」おかわりのローストビーフを口いっぱいに詰め込んだまま、ファフニールが目を丸くした。「ああ、ドーム型遊園地があるとかいう島でしょ。ないけど」 「暖かくなったら、一緒に行こう。お前に見せたいものがある」 「ええ……何よ」ファフニールは薄気味悪そうにワーグを睨んだ。「人気のない所へ連れてって、私を闇に葬る気じゃないでしょうね」 「そんな真似はせん。私闘も粛正も主様に禁じられている」ワーグは平然とグラスを傾けた。「第一、お前を消したいならそんな手間はかけない。そこらへんで斬って捨てる」 「ねえやっぱり怖いんだけどこいつ! 昔っから思ってたけどエンプレシスハウンドってなんでこんな奴ばっかりなの!? まともなのはいないわけ!?」 「自分がまともだと思ってるのが救えませんね」 「そんなことより、タブレットの電池切れたから充電しといてよ」 「あ、私も」 「もぉぉぉぉぉぉぉ!!」  アイアイエーの夜は騒々しく更けてゆく。  表通りに面した大きな窓に、夜空を舞い降りてきた雪がひとひら張りつき、すぐに溶けて消えた。 End =====  朝の光がカーテンごしにこぼれ入ってくる。枕元においた植木鉢の影がななめに長くのびて、ベッドの半ばのあたりまでとどいている。  その眺めに、ほんのかすかな違和感を感じて、俺はまだ半分眠ったままの頭をぼんやりと回転させた。 「…………?」  何かが違う。何かほんの、とても些細なところが、昨晩見たものと違う。  思考がゆっくりと覚醒に向かう。俺はベッドに手をついて体を起こし、枕元へ目をやった。  小さな緑色の芽が、植木鉢の縁をこえてぴょこんと顔を出している。  ゆうべ寝る前には、数ミリ程度の双葉がやっとのことで土のかけらを押しのけているだけだった。それが今見るとすっかり葉が開き、茎も1センチ以上にのびて、先端には次の葉までほどけかかっている。 「どうなさいましたか~……?」  隣で寝ていたセレスティアがもぞもぞと動いた。起こしてしまったらしい。 「セレスティア、この植木鉢に何かした?」 「植木鉢? いいえ~」  たっぷりした乳房が背中に押しつけられ、金色の髪がさらさらと腕にふれる。俺の肩ごしにのぞきこんだセレスティアのまだ眠たげな目が、ふんわりと嬉しそうにほころんだ。 「あらまあ、一晩でこんなに育って~。春ですねえ~」 「…………春か」  そのありふれた言葉を、俺は口の中でゆっくり繰り返した。  それから二人でシャワーを浴びる間も、着替えている時も、その言葉は俺の頭の中でぐるぐる回り続けていた。 「朝ご飯の前に、ちょっと散歩に行ってきてもいいかな」 「はい? ええ、もちろんです。朝食を少し遅らせるよう、厨房に言っておきますね」  ちょっと意外そうに、コンスタンツァは微笑んだ。着替えてから朝食までのわずかな時間は朝一番の仕事タイムだ。ふだんなら他のことに費やしたりしないが、今日はなんだか、むしょうに外に出てみたい気分だった。  三月のリヨンの朝はまだまだ寒いが、街はもうすっかり目を覚ましていた。ジャケットの襟を立てたブラウニーやアクアが何人も、忙しげに通りを行き来している。見たことのない顔もたまに通りかかるのは、デルタの支配下にいたバイオロイドたちだろう。 「あっ、司令官!」 「おはようございます!」  俺に気づくとぴょんと飛び上がって敬礼してくれるみんなへ、手を振って小走りに通りをゆく。  デルタを仕留めてから一か月。ヨーロッパを平定した……などとはまだまだ言えないが、変革は着実にすすんでいる。オルカに合流してくれた共同体はすでに数十にのぼり、移住や見学の受け入れも始まった。オルカがどんな所であるかを見て、体験してもらうためのモデルケースとして、リヨン市街の整備は急ピッチで進んでいる。  デルタが本拠地にしていただけあって、インフラの状態はかなり良好だ。建物なども、ちょっと手入れをすればすぐ使用可能なものがたくさんある。いずれは隊員たちが自由に家を選んだり、店を開いたりできるようにもしたいな等と、いかにも商店街っぽい通りを眺めつつ考えていると、さっと視界が開けて冷たい風が吹きつけてきた。  川に出たのだ。大きな川だ。広々とした河岸の道路にそって、街路樹が規則正しく並んでいる。なんという木だったか、いちど教わったのに忘れてしまったが、緑がかった茶色のなめらかな幹がモザイク模様のようにところどころ白く抜けて、節くれだった枝は針金を撚ったようにぎゅっと細く縮こまっている。先週もこのあたりには散歩で来たし、そのとき見た風景と一見何も変わっていないようだが、なんとなく全体がほの淡く、けぶるように輝いて見える。  近寄ってよく見ると、枝の節々から小さい爪の先のような芽が出て、ほんのわずかにほころびかけている。淡い色をした葉や花びらがちょっぴりだけ見えていて、枝どいう枝の芽が全部、街路樹が全部そうなっているので、全体として見るとかすかに色づいたように見えるのだ。 「ああ、そうか。春が来るんだな……」  俺は思わず、声に出してつぶやいていた。それで初めて、自分がどうしてこんなに浮き立っているのかわかった。  何年もの間、俺はオルカで世界中を旅した。いろいろな土地を訪れた。それは春のことも、夏のこともあったが、俺にとっては暑い土地とか、寒い土地とかいうのと変わらなかった。季節の移り変わりを感じるほど長いあいだ滞在したことはなかったし、いずれにせよ旅の途中、かりそめに上陸しただけの場所でしかなかったからだ。  でも今、俺たちはヨーロッパを勝ちとった。俺はフランスで、このリヨンで暮らしている。この先も、何か状況が大きく変わらない限りは、そうする予定だ。  だからこれは俺の春、俺たちの春だ。上陸した土地がたまたま春だったわけじゃない。俺たちのいるここに、この街に、春がやって来たんだ。 「…………ははっ。あはは」  息を吸い込むと、冷たい空気が舌の上で甘く感じられる。そんな味がするはずはないが、そう感じた。  コンスタンツァが、突然笑い出した俺をちょっと心配そうに見ている。俺がどうしてこんなに嬉しそうなのかピンとこないらしい。まあ無理もない、彼女は歴戦のベテランで、春なんて何十回も迎えているはずだ。  俺は河岸をもう一度見渡した。市街の状態がいいということは、植栽や雑草の手入れもされているということで、つまりこれまで訪れた都市のように、そこらじゅうに草木が生い茂ったりはしていないということだ。 「なあ、この近くに緑の多いところはないかな」 「それでしたら、橋を渡って川上へ行くと大きな公園があったと思いますが……」  コンスタンツァが言い終わるのを待たずに、俺は走り出していた。 「……消費電力と室温ログからみておそらく、東ウイング空調システムの6号機に不調が生じていると思われます。6号機はいったん止めて、4号機と7号機でカバーしましょう」 〈了解しました。東ウイングはスプリンクラー配管の老朽化も確認されています。来週末のメンテナンスで重点的な修復を試みます〉  画面の向こうのスティンガーモデルがみじかい腕を器用に上げて敬礼に似た仕草をした。A級AGSであるスティンガーは自身のOSで直接ネットワークに接続できるはずだが、定期報告会では毎回こうして備え付けのカメラとマイクを使って参加してくる。彼女なりのこだわりなのかもしれないと、ムネモシュネは受け入れることにしていた。 「アクアランドの方はいかがですか」 〈相変わらす忙しいで~す〉キルケーが相変わらずのんびりと答える。〈先週そっちでも病院が開いたと聞いてますけど、そのわりにはご新規さんの入院がぜんぜん減りませんね〉 「レモネードデルタ体制下で健康を害したり、心身に傷を負った方が予想以上に多く、こちらの病院はすでに満床とのことです。まだしばらくはそちらにも医療業務を受け持っていただくことになると予想されます」 〈なるほど。遊園地に戻れるのはまだ先ですかね~〉 「お願いします。ほかに、報告事項のある方はいますか」 〈ヨーロッパエリアの情報サーベイで不完全な記録断片を発見しました。アルプス山脈西部に、建設途中で放棄された記憶の箱舟が残っている可能性があります。詳細は別途送信したレポートを参照して下さい〉 「確認します。必要なら私が実地調査に向かうことにしましょう」  その他こまごまとした連絡を終えて、ムネモシュネはデスクトップ端末のウィンドウを閉じた。窓を開けると、朝の風が街の音をはこんでくる。  スヴァールバルに残留したスタッフは予想以上によくやってくれている。一、二か月ごとに箱舟へ帰って点検する必要があるかと思っていたが、この分なら三か月……いや、半年に一度で十分かもしれない。  このあと午前中は中央官舎で打ち合わせだが、まだ少し時間がある。ムネモシュネは外出着のワンピースに着替え、いそいそと部屋を出た。  アパルトマン風の宿舎は、出るとすぐ広い道路に面している。旧時代にはベルジュ通りと呼ばれた道だ。行き交うバイオロイド達はみな厚手のジャケットやコートに身を包んでいるが、極地での活動も想定して設計されたムネモシュネにとってこの程度はごく快適な涼しさでしかない。箱舟で読み込んだ資料によればリヨンは霧の多い街だったそうだが、こちらに来てから一度も霧など見たことはない。人間活動が絶えたおかげだろうか。  ベルジュ通りの反対側には、マロニエの林が左右どこまでも続いている。道をわたり、林を抜けるとすぐに視界が開け、よく刈り込まれた芝生がなだらかに起伏しつつどこまでも広がっていた。  ここは旧時代の名をテット・ドール公園という。170ヘクタールの広大な園内に動物園、植物園、人工湖などを擁する、リヨン最大の公園だ。美観にこだわるデルタの都市整備のおかげで、この中央広場やバラ園など、いくつかの場所は旧時代と変わらない姿をたもっている。  旧時代には行楽客で賑わったであろう広場も今は訪れる人もなく、遠くに芝刈り用のドローンが一機だけ、ゆっくりと動いている。たんたんたん、という駆動音がかすかに聞こえる。足に伝わる、芝を踏む感触。木々の間を吹き抜ける風の音。その風が運んでくる、咲きはじめたマグノリアの香り。  通りすがりにマロニエの枝を見れば、冬芽がすでにふくらみ始めている。幹に手を当てるとひんやり冷たい樹皮の下に、ほのかな暖かさを感じる。植物のもつ熱エネルギーは動物に比べればはるかに小さな量でしかないが、冷気を操るムネモシュネには感じ取れるのだ。人々がコートに身を包み、首をすくめて通りすぎる朝にも、植物はたしかに春の息吹を感じとり、目覚めの力をたくわえ始めている。  スヴァールバル島にも季節の変化はあったが、それは岩肌を覆い尽くす雪が深いか浅いかの違いでしかなかった(少なくとも、箱舟から百メートル以上離れたことのないムネモシュネにとってはそうだった)。しかし、ここでは毎日あらゆるものが少しずつ変化していく。これが自然、ドームに覆われた生態保存区域ではない、小説や映像記録で何度となく目にし憧れたほんものの四季のある自然の風景なのだ。ムネモシュネは幹に手を当てたまま目を閉じ、うっとりと満足のため息をついた。  オルカの欧州侵攻が決まってからというもの、ムネモシュネは箱舟管理者代行としての権限と技術をフル活用してフランスの情報を調べまくった。デルタの本拠地がリヨンにあるとわかってからは、リヨンのことも調べまくった。今のムネモシュネの頭にはリヨンの地理と歴史、植生、野生動物、観光名所などなどの情報がぎっしり詰め込まれている。テット・ドール公園はムネモシュネがリヨンで訪れたい場所の堂々一位であり、ムネモシュネは毎日ここを訪れるのを日課にしていた。市街中心部からはやや距離がある今の宿舎を希望したのも、この公園のすぐ目の前にあるからだ。  今日はバラ園まで足を伸ばしてみよう。一昨日は早咲きのモッコウバラが咲いていた。今日あたり、シャルル・ド・ゴールが咲いているかもしれない。一度は実物を見たいと思っていた品種だ。  浮き浮きと足をはやめたムネモシュネは、 「あれ、ムネモシュネ?」  ふいにかけられた声に立ち止まって振り返った。その声を聞き間違えようはない。オルカの司令官……箱舟の現管理者であり、ムネモシュネを箱舟から連れ出して今のこの景色を見せてくれたその人が、手を振りながらこちらへ歩いてきた。 「管理者様、お早うございます。お散歩ですか?」 「うん、まあね。ムネモシュネは、ここで何を?」  小走りに駆け寄ったムネモシュネは、ハタと返答に困った。何をと言われると、何をしに来たわけでもないのだ。しかし、目的がないというのも違う。どうと言えばわかってもらえるだろうか。しばし頭の中で言葉を選んでから、ムネモシュネはゆっくりと答えた。 「春が……春が来るとは、こういうことなのかと、その印象を味わっていました」  すると意外なことに、司令官はみるみる満面の笑顔になり、 「そうだよな、そうだよな! あっはははは、春っていいよな!!」  ムネモシュネの肩を抱いてくるくる回りはじめた。どうしてそんなに喜んでいるのか、今ひとつ理解できなかったが、彼を喜ばせたのが自分ならこんなに嬉しいことはない。少し離れて付き従っているコンスタンツァが、よろしく、というように目配せをした。 「この公園に来るのは初めてなんだ。よかったら案内してくれないか」 「かしこまりました。ここは、旧時代にテット・ドール公園と呼ばれていた場所です。テット・ドールとは『金の頭』という意味で、黄金のキリスト頭像がこの土地のどこかに埋められているという伝説が……」  司令官の手を引いて、ふたたびムネモシュネは歩き出す。バラ園を見せたらどんな顔をするだろうと想像した。その顔がわずかにほころんでいることに、自分でも気づいてはいなかった。  つめたい風が長い耳をくすぐり、ホワイトゴールドの髪をなびかせて通り過ぎる。生命のセレスティアは誰にも聞こえない程度にちいさく鼻歌を歌いながら、上機嫌で石畳の通りを歩いていた。  司令官の寝室に上がった翌日は、全休がもらえるのが通例だ。明日の予定を気にせずゆっくり愛しあえるし、経験の浅い隊員は実際に一日ダウンして動けなくなることも珍しくない。もう何度も経験を重ねたセレスティアはそこまで消耗はしないが、せっかくなのでゆっくり余韻を反芻しながら朝寝を楽しみ、いま起きてきたところだ。 「久しぶりのお休み、どこへ行きましょうか~」  植物を操るセレスティアのナノボットは、言うまでもなく農業において絶大な力を発揮する。そのため、デルタを倒してリヨンを占領したあとも、セレスティアはフェアリーシリーズとともに周辺の農地の整備や復旧に引っ張りだこになっていた。欧州解放作戦が始まって以来、丸一日の休暇をもらったのは今日が初めてである。 「きれいな街ですね~。緑も豊富ですし」  当然、リヨンの街を散策するのも初めてだ。空気はまだまだ冷たいが、先週までよりも確実に暖かくなっている。並木のプラタナスの冬芽がほころんでいる。春が近づいてきているのが風の匂いで感じられて、セレスティアは嬉しくなる。春は彼女の一番好きな季節だ。グアムの妖精村はもう遠い昔のことのように感じられるが、思えばあそこには雨季と乾季があるだけで春も秋もなかった。  レモネードデルタは自分が住むこの街の美観についてとくに気を遣って整備していたという。そういう所はデルタに感謝すべきなのかもしれない……と、ものにこだわらないセレスティアはわりと屈託なく思ったりするのだが、そんなことをこの街でうっかり口にすべきではないということもわかっている。 (いつか、フランスの他の街も訪れてみたいですね~)  などと考えつつとりとめなく歩いていたら、広場のようなところに出た。道の幅がぐっと広くなって、周囲を石造りのいかめしい建物が囲み、屋台らしきものがいくつか出てそれぞれに何かを売っている。 「ケーバブー、リヨン名物ケバブはいかがですかー」  その一つからうまそうな匂いがして、セレスティアはふらふらと近寄っていった。ジニヤーが声を張り上げている横では、ドラム缶を改造したらしいオーブンから大きな肉の塊が顔を出して、ジュウジュウと脂の焼ける音を立てている。セレスティアのお腹がくう、と鳴った。 「これは何のお肉でしょう?」 「羊です!」ジニヤーが元気よく答えた。「昨日シメたばっかりだから、新鮮ですよ」 「軍票で買えますか?」 「もちろんです!」  ジニヤーは長いナイフを取り出すと、炙られている肉の塊から大きな切れを何枚も削ぎおとし、大きな丸パンの中央を割りひらいたのへピクルスといっしょに詰め込んで、焼いたポテトを添えて渡してくれた。両手で持ってかぶりつくと、熱く香ばしい肉汁が口の中いっぱいに広がる。 「ん~~!」  セレスティアは口の中をいっぱいにしたまま、喜びの声を上げる。肉にはスパイスの効いたソースがもみ込んであり、エスニックな香りと辛味が鼻へ抜ける。 「とても美味しいです~。ケバブって、中東の方のお料理でしたよね? リヨン名物だとは知りませんでした~」 「実は、そう言ってるだけなんです」ジニヤーはちょっと恥ずかしそうに打ち明けた。「その方が売れると思って。あ、でも旧時代のフランスには本当にケバブ屋さんが多かったそうですよ!」 「そうなんでふね~」  もぐもぐ頬張りながら会話をするうちにも、子供のバイオロイドが二人、とことこと駆けてきてしわくちゃの軍票を出す。 「ふたつください」 「はい、まいどー!」  二人ともオルカでは見ない顔だが、セレスティアはカタログで知っている。パブリックサーバントの農奴型と、清掃婦型のバイオロイドだ。PECSはコスト上の理由から、労働用モデルには子供型を好んで設計した。この街や周辺の村々に子供が多いのもそのせいだ。この子たちも、手伝いか下働きでもして軍票をもらったのだろう。 「ジニヤーさんは、外から行商にいらしてるのですか?」 「はい、西のモントルヴェ村から来ました。あの、オルカのセレスティアさんですよね?」  セレスティアが頷くと、ジニヤーはぱっと笑顔になる。「先週、雪腐病を治してくれてありがとうございます。あれ、うちの隣の村だったんです。おかげで私たちの牧場も安心して使えるようになりました」 「まあ、それはよかったです~」 「うちはみんなまだ迷ってますが、そのうちきっとオルカに合流すると思います! これどうぞ!」ジニヤーは赤いほっぺで笑いながら、セレスティアのパンに追加のポテトを盛ってくれた。  オルカがフランスを本拠地として腰を据えたことで、一番変わったのは食料事情だ。質や量ではなく、「幅」とでもいうべきものが変わった……セレスティアはそう思う。  これまでのオルカでも食べるものは十分あったし、質も決して低くなかった。酒や菓子などの嗜好品を買い求めることもできた。しかし、それらはすべて外部拠点から搬入している物資であり、広い意味ではオルカから「支給される」ものであった。  今、リヨン周辺にはオルカの直轄農地以外にも、バイオロイド共同体がいとなむ農村が多数ある。このジニヤーのように、かれらはいくつかの手続きをふめばリヨンで自由に産物を売っていいことになっており、市内のいたる所にそういった屋台が出ていて、いつでも好きな時に買うことができる。時間があるなら農村に直接出かけて買ってくるのも自由だ。ツナ缶がなければ、畑仕事の手伝いでも何でもして分けてもらえるだろう。本当にどうにもならなかったら、森に行って木の実や動物を狩ったっていい。  要するに、今や食料は「なんとでもなる」ものになった。これはとても豊かなことだと、セレスティアは思う。はっきり自覚している者はまだ少ないかもしれないが、この豊かさは皆の生きる活力の、そのもっとも深い部分を支えてくれる。それは必ずオルカをより強く、より健やかに、より逞しくするだろう。 「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです~」  パンくずの一粒まできれいに食べ終えて、ていねいに礼を述べてから、セレスティアは散歩を再開した。  白や、クリーム色や、さんご色や、いろいろの石で組まれた壁が立ち並ぶ道を気の向くままに歩く。曲がり角があれば曲がってみる。入れそうなところがあれば入ってみる。橋があれば渡ってみる。あてどない散歩は昔から大好きだ。グアムでも、よくブラックワームを連れて森をそぞろ歩いたものである。 「……あら~?」  しかし、森の中と街の中では勝手が違うようだ。四つ辻でふと立ち止まったセレスティアは、自分が今どこにいるのか、まったくわからないことに気がついた。  前後左右のどれも同じような石畳の道に見える。宿舎は市の中心部にあったはずだが、どちらへ行けばその中心部なのか見当がつかない。ちなみにリヨンには「トラブール」と呼ばれる、一見建物の一部のように見えるが実は通路になっている小さな抜け道が無数にあり、そのせいで道に迷いやすくなっているのだが、もちろんセレスティアはそんなことは知らない。 「困りましたね~」  大して困ってもいなさそうにおっとりと右を見たり左を見たりしていたセレスティアは、ぱっと笑顔になった。交差点の角から見慣れた顔が現れたのだ。 「司令官様~!」  小走りに駆け寄ってから、後ろにいたムネモシュネに気づき、一歩引いてお互いぺこりと頭を下げる。寝室当番の翌日は司令官にあまりくっつかないのがマナーだが、この場合は不可抗力として許されるだろう。 「お散歩ですか~?」 「うん、ムネモシュネがこの街に詳しくてね。いろいろ案内してもらってたんだ」 「まあ、助かります! 実は私、道に迷ってしまって~」  セレスティアは今朝の出来事と、たどった道順を思い出せるかぎり二人に説明した。 「それで、広場で売っていたケバブがとっても美味しかったんですよ~」 「ケバブか、いいな」司令官がぺろりと唇をなめて腹に手をやる。「それ、どこの広場かわかる?」 「ええと、橋を渡ったのは覚えてるんですが~」  ムネモシュネがタブレットを取り出して地図を検索しながら、通りの向こうへ目をやった。「あちらの方角から橋を渡っていらしたのなら、リヨン2区だと思われます。2区にある主な広場は……」 「橋を渡ったのは二回だったかもしれません~」 「えっ」 「三回だったかも~」 「えっ」  結局、ムネモシュネのおかげで無事目的の広場は見つかり、屋台のケバブで舌鼓を打つことができた。  そしてそのまま一緒に司令官公邸に戻った三人は、朝食を作って待っていたソワンに氷のような目で迎えられ、平謝りに謝ったのだった。 End ===== Date:2175/09/02 21:04 リヨンついた すごい にぎやか 多い タブレットもらったのでかく 記ろくをnこしておこう。 カリスタYe-E5i です。 Date:2175/09/04 20:32 タブレットになれて来た。 おどろくことばかり バイオロイドが多い。すごく大勢。 ブラッディpantherモデルにはじめて合った。 Date:2175/09/15 21:58 どうにかタッチキーボードがまともに使えるようになってきた。 アレクサンドラさんの授業できいたグミン政策というのが何のことかわからなかったけど、ようやくわかった。デルタはこういうことから私たちを遠ざけたかったんだ。 アイアンアニーの言ってたことはぜんぶ本当だった。むしろ控えめすぎるくらいだった。リヨンはすごいまちだ。 食事がもらえる。殴られない。立ち止まっても怒られない。挨拶してくれる。 いろいろありすぎてとても全部はいえないけど、本当にすてきな所だ。誰もが一度リヨンに来てみるべき。 メールのおくり方もおそわった。 字を書くのになれるための日記だけど、今日からはサン・ナボール村のみんなにも送信しようとおもう。ちゃんとメールが送れるだろうか。 Date:2175/09/16 21:42 オルカにもとからいるアーマードメイデンの人たちが、歓迎会をしてくれた。 食べ物とお菓子と、お酒もあって、どれもすごくおいしい。ワインなんて大昔に一口だけ飲んだきりだ。誰もがどんどんお菓子をくれるからお腹いっぱいになってしまった。 オルカではもう何年も前から、明日食べるものの心配なんかいらないそうだ。 ブラッディパンサー隊長のすすめで、こっちにいる間だけでも、はたらき口を探すことにした。住む部屋と毎日の食事は無料でもらえるけど、何もしないでぶらぶらしているわけにはいかない。私は村の代表としてここへ来ているんだから。 あと、働かないとナースホルン隊長のようになるぞとみんなにおどかされた。 あと、今日食べたようなお菓子が、街のあちこちで有料で売っている。また食べたい。 配給の食事だって、去年まで食べてたものよりずっとずっとおいしいのに。ぜいたくに慣れるってこわい。 Date:2175/09/17 21:02 街のすぐ外にある農場で働くことになった。 モジュールを入れ直してアーマードメイデンに復隊することも考えたけど、再訓練に時間がかかるみたいだし、戦闘部隊に入ったら街を離れないといけないのでやめた。 村ではテンサイとジャガイモを作ってたと報告したら、ジャガイモの畑に回してもらえた。 畑はたくさんあって、分野ごとに一人ずつフェアリーシリーズがついている。その指導がほんとうに的確で、勉強になることばかりだ。私たちがやってたのはただの見よう見まねだったんだとわかってしまった。 Date:2175/09/27 21:55  今日はまたひとつ、信じられないものを見つけてしまった。  買い物をしていたら雨が降ってきたので、適当な店に飛び込んだ。「フルール・ド・ポー」という名前で、はじめは喫茶店かと思ったけど、内装がものすごく綺麗で、宝石箱みたいなショーケースがあって、そこに並んでるのは全部パンツやブラだった。ランジェリーショップというやつだったのだ。  その上、奥から出てきた店長が、なんとオードリー・ドリームウィーバー。生きていて怪我もしてないオードリーなんて、何年ぶりに見ただろう。リヨンに来てもう一月ちかくになるが、デルタがもういないんだと一番実感できたのは今日かもしれない。  オードリーさんはオルカで働いていて、ここはふだんスタッフに任せているけど、たまの休みには自分でお店に出るらしい。今日会えたのはすごくラッキーだったわけだ。  でも私の下着なんて、何十年も前から着てるやつだ。ブラなんか破れたところをテープで留めてある。こんな素敵なお店で見せていい物じゃないからすぐ帰ろうとしたけど、オードリーさんが引き留めて、 「ここにあるのはランジェリー。あなたが今身につけているものも、下着ではなくランジェリーです」  私はその一言で、すっかりぽーっとなってしまって、お店の中をゆっくり見せてもらうことにした。  オードリーさんが自分でデザインと縫製までしたっていう、目も眩むくらい細かなばら色のレースが一面にあしらわれたブラとパンツ。試着させてもらったら谷間がクッキリして、お尻がキュッと持ち上がって、なんだか肌まで綺麗になったような気がした。オリビア・スターソワーさんが昔の女優のために作ったのを復元したっていう、真っ青なコルセット。肋骨が痛くなるくらい締め上げられたけど、鏡に映ったプロポーションは私じゃないみたいだった。  オードリーさん曰く、 「誰からも見られなくても、自分自身を素敵な気分にしてくれる。ランジェリーにはそういう力があるのですわ」  だそうだ。  まあもちろん、高すぎて全然手が出なかったから、何も買わずに帰ってきたんだけど……。  農場に入ったばかりだけど、仕事を増やそうかと思う。節操がなさ過ぎるだろうか。 Date:2175/09/28 21:12  指導員のシザーズリーゼさんから、作物別のマニュアルを大量にもらった。ジャガイモの病気のところ、この本が二十年前にあれば死ななくてすんだ仲間が大勢いたのにと思うと、嬉しいけれどもすこし辛くなる。  添付しておくので、村のみんなにも読んでほしい。  アーマードメイデンの歓迎会がまた開かれるというので参加した。今度は私も歓迎する側で、ラインラントから来たっていうイオが一人とスプリガンが二人、新しく加わった。デルタの下で働かされていたアーマードメイデンなんて私だけだと思っていたけど、結構いるらしい。ドイツにはブラックリバーのバイオロイドが多いんだとか。リバーメタル社があったからだろうか。  「フルール・ド・ポー」について聞いてみたら、みんな当たり前に知っていた。古株の隊員が言うには、オルカがまだ潜水艦を本拠地にしていた頃から、艦内の売店では下着を扱っていたそうだ。信じられない。 「カリスタは下着に縁があるな」とブラッディパンサー隊長が笑っていたが、何のことかわからない。オルカのカリスタに聞いたけど教えてくれなかった。  ナースホルン隊長にも初めて会えたのだが……上官侮辱罪に問われたくないから、どう感じたかは書かないでおく。 Date:2175/10/02 20:58  フルール・ド・ポーにはいろいろな人が来る。初めて入ったときは私一人だったけど、あれは相当ラッキーだったようだ。  他のお客を見ていると、まだまだ私の知らないランジェリーが色々あるとわかる。キャミソール、ブラスリップ、ソング、ガーターベルト、言葉を覚えるだけでも苦労しそうだ。  はじめ、こんな高級なものを買えるなんてみんなお金持ちなんだと思っていたが、よく見ていると店員や他のお客と話だけして、何も買わずに帰る人の方が多い。ランジェリーを見ること自体を楽しんでいるのだ。店員もそれで文句も言わないで、楽しそうに応対している。  畑仕事が長かったので、私はカリスタモデルにしては日焼けしている方だと思う。だから黒よりは白系の下着の方が似合うのではないだろうか。 Date:2175/10/28 21:22  買った。ランジェリーを買ってしまった。  清掃員のアルバイトを入れまくり、食事は配給だけで我慢して一ヶ月。ためたツナ缶でとうとう買った、フルール・ド・ポーのバルコネット・ホワイトヴェールブラとパンティ。  脇の下と腰の横のところが透け感のあるレースになっていて、わりときわどいデザイン。 「見せる相手もいないし、もう少しおとなしいやつでもいい」  と、選んでいる途中ちょっと怖じ気づいたのだけど、 「見せる相手ならいますわよ? あなたにその気があればですが」  オードリーさんの一言が決め手になった。確かにいる。オルカには見せる相手がいる。いるというだけで、会えるかどうかはわからないけれど。  部屋に帰ってすぐに着けてみた。最高だ。着てるだけで綺麗になった気がする。着心地もすごくて、うまく言えないけどすべすべした優しいなにかに包まれてるみたい。普段着でも下にこれを着てるだけで気持ちがアガる。オードリーさんの言ったことは本当だったんだ。  バスルームの鏡だけじゃ足りない。全身うつせる姿見をこんど買ってこよう。白い花と、花瓶も買おう。お気に入りのランジェリーと同じ色の花を部屋に飾るといいって、オードリーさんが言っていた。 Date:2175/11/05 22:39  今日はフルール・ド・ポーで、マーメイデンのアンフィトリテさんに会った。  モジュールの知識では知っていたが、実際に会ったのは初めてだ。まだ量産化されておらず、オルカ全体でも彼女は一人しかいないんだそうだ。  初対面で新参者の私にもていねいに挨拶してくれて礼儀正しい人だと思ったが、バッグから出した下着がすごかった。いや、最初は下着だとはわからなかった、黒い糸とレースの絡みあったものに、小粒の真珠がいくつかつながっていて、ネックレスか何かだと思っていた。 「ほつれたところを見つけてしまって、直していただけないかと」  不思議そうに見ているのがおかしかったのだろう、オードリーさんが広げて見せてくれて、初めてわかった。それは布地のほぼない、とんでもないデザインのパンティで、真珠がつながった部分で大事なところを隠すようになっていたのだ。そんな下着がこの世にあるなんて知らなかった。  それでは隠せないだろうと思ったので正直にそう言ったら、 「隠せないからこそ役に立つこともあるのです」  と二人して笑われた。悔しいが、ランジェリーにはまだまだ知らない世界があるらしい。  店でランジェリー講座を定期的に開いているというので、申し込むことにした。 Date:2175/11/07 20:40  人間様がマルセイユから近々帰ってくるらしい。  そのせいか、朝から街の中がなんだか浮ついた空気になっている。映像では私も何度も見たけど、実物に会ったことはもちろんない。私たちに声をかけてくださることもあるっていうけど、本当かどうかわからない。おととい、アンフィトリテさんがあんな下着を直しに来たのも、それと関係があるのかもしれない。  オードリーさんの講座は本当にためになる。手袋の脱ぎ方だけであんなにバリエーションがあるなんて。アンフィトリテさんのやつみたいなとんでもない代物はまだ登場していない。パールクロッチと呼ぶらしいことは、あとで調べて知った。 Date:2175/11/19 18:52  人間様に挨拶をした。  ベランダから通りを眺めていたら下を散歩していた。あんまり普通に歩いてるから見過ごしそうになって、あわてて手を振ったら振り返してくれた。  ちゃんと私の方を見て。目を合わせて笑って。  ただそれだけなんだけど、すごく幸せな気分になれた。なんだろう、これ。  通り過ぎる人間様を見送って写真を撮ったら、いつのまにか真後ろにブラックリリスが立ってて写真をチェックされた。死ぬかと思った。 Date:2175/12/10 17:20  とんでもないチャンスが舞い込んできた。  オルカ本隊のカリスタモデル、カリスタ011が、来週人間様と……アレをする当番だったんだけど、戦闘任務で負傷してしまったらしい。  そういうときはいったん順番を飛ばして、怪我が治ったら最優先で入れるチケットをもらうか、同型機に代わってもらうかの二択なんだけど、011は後者を選んだそうだ。  それでリヨンにいるカリスタ全員でくじ引きをして、なんと、私が当たった。  オルカに参加してたった三ヶ月で寝室に上がれるなんて、かなりのレアケースらしい。あとで011にお礼を言いにいかないと。  初めて買った白の上下セットを着けて、鏡の前に立ってみた。今もお気に入りではあるけれど、でもこんなのじゃダメだ。もっと、もっと人間様にアピールするランジェリーじゃないと。  オードリーさんのランジェリー講座には、有料の上級編がある。大急ぎで申し込んだ。 Date:2175/12/11 20:18  私の知らない世界がまだまだあった。  上級編は一般向けの講座が終わった後、夕方になってから開かれる。お店で顔見知りの人も何人か受けに来ているけど、みんな気迫が違う。  オルカのベッドタイム争奪戦の厳しさがそうさせるのだろう。ただセクシーなだけでは足りないのだ。「この女がほしい、この体を抱きたい」と思ってもらうためには、普通をこえたギリギリを攻めないといけない。  自分の体の強みをどう活かすか。弱みをどんなふうに隠すか。何を隠して、何を見せるか。Oバック。Cストリング。オープンカップブラ。オールシースルー。オープンクロッチ。  ここは戦場なんだ。誰もが火花を散らしている。私はもうそこに立ってしまった。新兵だからといって言い訳はできない。 Date:2175/12/12 23:11  ブラはバルコネットで決まりだと思う。初めて買ったセットがバルコネットだったのはなんとなくだったけれど、いい選択だった。普通くらいしかない私のバストでも、あふれそうな感じが演出できる。ニプルをギリギリまで見せられるのも利点だ。でも下品にならないバランスをうまく見極めないといけない。  下はスーパーハイレグ。これはもう、穿き慣れているのが最大の理由。カリスタモデルの制服がハイレグというかTフロントみたいな形なので、長年これしかパンティの選択肢がなかったのだ。これにエンブロイダリーレースをたっぷりとつける。  ただ問題は、スーパーハイレグにはガーターベルトが似合わない。この時点で演出の方法がかなり限られてくる。  オープンカップブラについてもう一度考えるべきかもしれない。ベビードールと重ねると、脱がしたときに効果的らしい。  いっそレースは諦めて、シンプルなサイハイソックスと合わせて未来感を狙う?  透け感とVラインの細さ。ぎりぎりまで欲しいが、濡れたときの状態も考える必要がある。「見えそうで見えない」の先には、「隠れているようで隠れていない」がある。アンフィトリテさんは私よりずっと高いステージにいた。  考えれば考えるほどわからなくなる。 Date:2175/12/13 23:45  ランジェリーとは哲学だ。  裸よりいやらしくなかったら着ける意味がないのだ。 Date:2175/12/14 18:50  これからいよいよ、人間様の寝室へ行く。準備は完璧。そのはず。  この日記はサン・ナボール村に送っているのだということを久しぶりに思い出した。みんな見ていてほしい。きっと、村の代表に恥じない姿を見せるから。 Date:2175/12/16 12:11  しあわせで  すごい  きもちいいかった  みんなもはやくリヨンにくるといい  ついしん  したぎはなんでもいいです End