【星の導き手 ~婚約破棄から始まる幸福~】  華やかな装飾が施された大広間の中央で、アイリスは呆然と立ち尽くしていた。彼女の目の前には、怒りに顔を赤らめたエドガー王子が立っていた。王子の横には、金色の巻き毛を優雅になびかせるリリアナ伯爵令嬢の姿があった。 「聞いているのか、アイリス! 私はお前との婚約を破棄する!」  王子の声は広間中に響き渡った。集まっていた貴族たちがざわめき、アイリスに向けられる好奇と憐れみの視線が痛いほど感じられた。しかし、アイリスの美しい紫水晶のような瞳に感情の揺らぎはなかった。 「理由を教えていただけますか、王子様」  アイリスは冷静さを保ちながら尋ねた。銀色の長い髪が肩で揺れ、その声は静かな水面のように穏やかだった。 「理由だと?」エドガー王子は鼻で笑った。「お前のその性格だよ! いつも冷静で、感情を見せやしない。まるで人形みたいで退屈だ! 王妃にはもっと明るく、人々を魅了する女性が相応しいんだぞ!」  王子はリリアナの腰に手を回し、彼女を引き寄せた。リリアナは上目遣いでエドガーを見上げ、それから鼻先を高くあげてアイリスを見下ろした。 「アイリス、あなたには悪いけど、これも運命なのよ」リリアナは甘ったるい声で言った。「私とエドガー様のほうが、王国のためになるの。あなたみたいに地味な女性じゃ、王国の華である王妃は務まらないわ」  そう言うと、リリアナは優雅に指を掲げた。彼女の指先から華やかな光が放たれ、その光は空中で美しい蝶の形に変わった。青や紫、赤の蝶が舞い、大広間を埋め尽くしていく。貴族たちから驚嘆の声が上がった。 「ほら、これが魅了する力よ」リリアナは得意げに言った。「王妃は美しいだけでなく、人々を魅了する魔法の才も必要なの。私の魔法は人々に希望と喜びを与えるわ」  蝶は広間を一周すると、アイリスの周りで消えていった。その光景は確かに美しく、見る者の心を捉えていた。エドガー王子は満足げに頷き、リリアナを誇らしげに見つめた。  アイリスは静かに深呼吸をし、その表情に微かな微笑みを浮かべた。彼女は実は王国屈指の魔法使いだったが、その力を常に抑え、婚約者として王子の影に隠れるよう生きてきた。リリアナの派手な魔法に、彼女は一瞬だけ目を細めたが、それは誰にも気づかれなかった。 「わかりました。婚約破棄を受け入れます」  アイリスの言葉に、エドガー王子は一瞬驚いたような表情を見せた。あまりにもあっさりと受け入れられたことが、彼の自尊心を傷つけたようだった。 「は? それだけか? 泣いて許しを乞うとか、そういうのはないのか?」王子は眉をひそめ、不満そうに言った。 「王子様のご決断です。従うのみです」  アイリスは感情を表に出さず、儀礼的な口調で答えた。彼女は指輪を外し、テーブルに静かに置いた。 「ちょっと! もっと悔しがりなさいよ!」リリアナが声を上げる。彼女の指からは小さな火花が散り、周囲の貴族たちは再び感嘆の声を上げた。「あなた、本当に王子様のことなんて好きじゃなかったの? それとも、泣くのも恥ずかしいの?」  アイリスは振り返りながら、淡々と答えた。 「私は王国のために従っていただけです。王子様がお幸せになられることを願っております」  そう言って、アイリスは堂々とした足取りで広間を後にした。その背中には、誰にも気づかれない解放感が広がっていた。この婚約が重荷だったことを、今になって実感していたのだ。  ◇ ◇ ◇  アイリスの屋敷に戻ると、侍女のミアが心配そうに駆け寄ってきた。 「お嬢様! 大変なことが起きたと聞きました!」 「大丈夫よ、ミア」アイリスは珍しく柔らかな笑顔を見せた。「むしろ、解放されたような気分だわ」  彼女は窓際に歩み寄り、外の景色を眺めた。王宮から見える風景とは全く違う、普通の街並みが広がっていた。夕暮れの空には、早くも星が瞬き始めていた。 「これからは自分の魔法研究に専念できるわ。王族の目を気にせず、思う存分」  アイリスの目が輝いた。彼女は幼い頃から魔法の才能に恵まれ、密かに独自の研究を続けていた。特に星の魔法——星の力を借りて治癒や防御を行う古代魔法の研究だ。その力は王国の常識を超えるものだったが、婚約者として目立つことを避けてきたのだ。  しかし、新しい日々はそう簡単には始まらなかった。  翌日から、アイリスの屋敷に様々な嫌がらせが届き始めた。商店からの納品拒否、社交界からの突然の招待取り消し、そして王宮からの仕事の剥奪。貴族たちは突然アイリスを避けるようになり、以前の協力者たちも次々と連絡を絶った。すべてエドガー王子の差し金だということは明らかだった。 「お嬢様、今朝も三件の取引先から契約解除の通知が届きました」ミアは青ざめた顔で報告した。「このままでは、屋敷の維持も難しくなるかもしれません」 「大丈夫よ」アイリスは研究書から目を上げず答えた。「むしろ邪魔が入らず研究に集中できるわ。それに……」  彼女は窓の外に広がる星空を見つめた。夜になると、彼女は屋上の小さな天文台で星の動きを観測し、その力を魔法に取り込む研究を続けていた。 「私の星の魔法が完成すれば、王宮の力など借りなくても暮らしていけるわ」  そんな日々が続いて一週間が過ぎた頃、屋敷に意外な訪問者が訪れた。 「ルーク・フォン・アーレン伯爵が、お嬢様にお会いしたいと」  ミアの報告にアイリスは驚いた。ルーク・フォン・アーレンは王国きっての魔法研究者であり、北方領の領主だった。彼とは魔法学院時代の先輩後輩の間柄で、アイリスの魔法の才能を高く評価してくれていた数少ない人物の一人だった。  応接室に入ると、そこには凛とした佇まいの青年が立っていた。深い青の瞳と、風になびく黒髪が特徴的なルークは、アイリスを見るとわずかに頷いた。 「無事で何より」  そっけない言葉だったが、その目には確かな安堵の色が浮かんでいた。 「ルーク様、こんな時に訪ねてくださって」  アイリスは丁寧に一礼した。心の奥で、彼の訪問に軽い喜びを感じていることに気づいたが、いつものように感情を表には出さなかった。 「婚約破棄と嫌がらせの件は聞いた」ルークは簡潔に言った。「対処法はあるか」 「問題ありません。むしろ研究に集中できています」  アイリスは淡々と答えたが、ルークはその言葉の裏を見抜いているようだった。彼はじっと彼女を見つめ、わずかに口元を緩めた。 「実は別件でも来た」ルークは真剣な表情になった。「北方領で奇妙な疫病が発生している。どうやら星の力が関係しているらしい。お前の星の魔法の知識を貸してほしい」  アイリスは目を輝かせた。これは彼女の研究成果を試す絶好の機会だった。 「喜んでお手伝いします」  ルークの目に、微かな笑みが宿った。  ◇ ◇ ◇  それから毎日のようにルークは屋敷を訪れるようになった。北方領の疫病対策の相談という名目だったが、その訪問は次第に長くなり、話題も魔法以外に広がっていった。  アイリスも気づいていた。ルークの訪問を心待ちにしている自分がいることに。彼の真摯な人柄、そして何より、彼女の才能を正当に評価し、敬意を持って接してくれることに、心惹かれていた。しかし、彼女はそれを口にすることはなかった。今は星の魔法で北方領の疫病を治すことに集中すべきだと考えていた。  そんな中、王都では不穏な噂が広がり始めていた。リリアナの派手な振る舞いと、彼女が見せる魔法が偽物ではないかという疑惑が貴族の間で囁かれるようになったのだ。さらに、彼女が王子の財産を使って豪奢な暮らしをしていることも問題視されていた。 「リリアナ様の魔法は見せかけだという噂があるそうです」ミアが買い物から戻って報告した。「実は魔法の器具を使って、本物の魔法使いのように見せかけているとか……」 「噂に惑わされてはいけないわ」アイリスは冷静に答えた。「証拠がなければ何も言えないもの」  しかし内心では、リリアナの魔法に違和感を感じていたことは確かだった。  ある雨の夜、アイリスが研究室で星の魔法の実験を行っていた時、突然の来客があった。激しいノックの音に、ミアが慌てて駆け寄った。 「お嬢様! エドガー王子様が……酒に酔って……」  ミアの言葉が終わらないうちに、エドガー王子が研究室に乱入してきた。彼の顔は赤く、目は据わっていた。 「アイリス! 戻ってこい!」  王子の声には、明らかな取り乱しが感じられた。 「エドガー様」アイリスは冷静に立ち上がった。「何のご用でしょうか」 「リリアナのやつ、全然俺の言うことを聞かねぇんだ!」王子は酒臭い息を吐きながら叫んだ。「あいつの魔法も偽物だったし、王室の金を勝手に使いやがって! お前なら従順だった!」  アイリスは黙って王子を見つめた。彼の言葉に驚きはなかった。リリアナの本性はいずれ明らかになると思っていたからだ。 「申し訳ありませんが、婚約は破棄されました」アイリスは淡々と言った。「国の法律で、一度破棄された婚約は元に戻せないことをご存じでしょう」 「俺は王子だぞ! 法律など変えてみせる!」エドガーは酔った勢いで大声を上げた。「お前を取り戻す!」  その時、研究室の扉が再び開いた。ルークが入ってきたのだ。彼はいつもの冷静さを保ちながらも、目には怒りの炎が燃えていた。 「王子といえど、私邸に無断で侵入するのは許されないことだ」  ルークの声は低く、静かだったが、その言葉には鋼のような強さがあった。 「お前は……北方領の! 何でここにいる!」エドガーは酔った目でルークを睨んだ。 「アイリスと魔法研究の打ち合わせだ」ルークは淡々と答えた。「王子、帰れ」 「俺に命令するな!」エドガーは怒りに任せて剣を抜いた。「アイリスは俺のものだ!」  ルークはアイリスの前に立ちはだかった。その姿は壁のように頑強で、決して揺るがない決意に満ちていた。 「アイリスに手を出すな」  その声には、普段のルークからは想像もつかない激しい感情が込められていた。彼の全身から魔力が溢れ出し、研究室の空気が震えた。 「ルーク様……」アイリスは驚きの声を上げた。彼がこれほど感情的になるのを見たのは初めてだった。  エドガーが剣を振り上げた瞬間、ルークは素早く動いて王子の腕をつかみ、剣を床に落とした。その動きは洗練されており、王子には反撃の隙もなかった。 「王子といえど、魔法研究者に剣を向けるなど、王国の法に反する」  ルークの声には怒りが滲んでいた。 「くっ……こんな辺境の領主ごときが……覚えていろ!」  エドガーは顔を歪めながら、よろよろと研究室から出ていった。  静寂が戻った部屋で、ルークはアイリスを振り返った。彼の顔には珍しく心配の色が浮かんでいた。 「無事か」 「はい」アイリスは頷いた。「ありがとうございます」  ルークの目に、普段は決して見せない感情の揺らぎがあった。しかし彼はすぐに感情を抑え、元の冷静な表情に戻った。 「警備を強化しよう。もう二度とこのようなことがないように」  その一言には、彼女を守るという強い決意が感じられた。  ◇ ◇ ◇  エドガー王子の暴挙は、翌日には王宮に伝わっていた。王は激怒し、息子を呼びつけた。さらに、リリアナの魔法詐欺と浪費の件も明るみに出て、王国中を騒がせることになった。  数日後、エドガー王子とリリアナの婚約破棄が正式に発表された。リリアナの魔法は見せかけにすぎず、彼女の浪費と不品行が問題になったのだ。エドガー王子は廃嫡となり、リリアナも辺境の修道院に送られる処分を受けた。  王都の騒動が収まりつつあった頃、北方領でも大きな変化があった。アイリスの星の魔法によって、疫病は完全に治まったのだ。人々は彼女のことを「星の導き手」と呼び、敬愛の念を抱くようになった。  北方領の城で、アイリスは星の光が降り注ぐ庭園に立っていた。夜空には無数の星が瞬き、彼女の銀髪を優しく照らしていた。 「アイリス」  背後からルークの声がした。彼はいつになく緊張した様子で彼女に近づいてきた。普段は無口で冷静な彼が、今夜は何か違っていた。 「星の力と同じように、お前は人々を導く光だ」  ルークの声には、珍しく詩的な響きがあった。彼はアイリスの前にひざまずき、その手を取った。 「俺はずっと……最初に魔法学院で会った時から、お前に惹かれていた」  普段は無口なルークが、今は言葉を尽くして自分の気持ちを伝えようとしていた。 「お前の才能、優しさ、強さ……すべてが愛おしい。どんな時も自分を貫く姿に、心を奪われていた。王子の婚約者だった時も、心のどこかで願っていた……いつか、お前が自由になる日を」  アイリスの頬に熱が集まった。彼女も気づいていた。この無口で誠実な男性への想いに。彼の訪問を待ち望み、彼との会話に心躍らせていた自分に。 「婚約してくれないか。北方領と共に、新しい魔法の時代を築こう」  ルークの目には、今まで見たことのない情熱が宿っていた。 「はい」  シンプルな返事だったが、アイリスの目には珍しく感情が溢れていた。彼女の紫水晶の瞳には、喜びの涙が光っていた。  ルークは立ち上がり、彼女を抱きしめた。二人の周りでは、星の光が優しく踊っているようだった。 「これからは二人で、新しい魔法の時代を築こう。お前の星の導きとともに」  ◇ ◇ ◇  数ヶ月後、アイリスとルークの結婚式が北方領の城で執り行われた。星の光が降り注ぐ美しい庭園での式に、王国中から祝福が寄せられた。  二人は魔法研究所を設立し、王国の魔法発展に大きく貢献していった。アイリスの星の魔法は多くの病を癒し、人々の生活を豊かにした。ルークの冷静な判断力と政治力は、新しい魔法の時代を支える基盤となった。 「思えば、あの婚約破棄がなければ、今の幸せはなかったわね」  アイリスが窓辺でそう呟くと、ルークは後ろから彼女を抱きしめた。 「いや、必ず見つけ出していた」  短い言葉だが、そこには深い愛情が込められていた。 「私の星は、最初からお前を指していたから」  星々が瞬く夜空の下、二人の新しい物語が始まっていた。かつての婚約破棄は、今や遠い過去の出来事に思えた。アイリスは自分の本当の力を発揮し、真に自分を理解し愛してくれる人と共に歩んでいた。  これこそが、星が彼女に示した本当の道だったのだ。