第四章 閃光と黒い雨 (一体、これからどうなるんだ……? どうやって、俺は……) 答えの出ない問いを頭の中で繰り返しながら、俺はライン川のほとりを当てもなく歩いていた。一週間前、訳も分からず目覚めたデュッセルドルフの街は、日に日にその表情を険しくしていた。行き交う人々の顔からは余裕が消え、軍用車両の往来が目に見えて増えている。**ショーウィンドウには、『(家族と)避難しました』『臨時休業』といった、店主が慌てて書いたような張り紙が目立ち始めた。昨日からは、時折、空気を切り裂くような戦闘機の轟音が頭上を掠めていくようになった。破滅の足音は、もうすぐそこまで迫っている。それを誰もが感じていた。 その時だった。 ウウウウウーーーーーーーーッ!! 突如、街全体にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。空襲警報? いや、もっと甲高く、神経を逆撫でするような、聞いているだけで体の芯が凍りつくような音だ。人々が一斉に足を止め、空を見上げる。表情が恐怖に引きつっていく。 「空襲だ!」「隠れろ!」「地下へ!」 誰かの叫び声を皮切りに、パニックが伝染した。人々は我先にと走り出し、近くの建物の地下や、地下鉄の入り口へと殺到する。俺も、その巨大な波に抗う術もなく、ただ押し流されるままに走り出した。どこへ向かっているのかも分からない。ただ、この場から、空の下から逃れなければ、という本能だけが俺を突き動かしていた。 やがて、人の流れは地下鉄の駅へと雪崩れ込んだ。薄暗い構内は、既に避難してきた人々でごった返している。ここは臨時のシェルターに指定されていたのかもしれない。だが、そのキャパシティは、明らかに押し寄せる人々の数をはるかに超えていた。 「奥へ詰めろ!」「押すな!」「子供がいるんだ!」 怒号と悲鳴が飛び交う。俺は、人の波に揉まれながら、プラットホームのさらに奥、おそらくは線路へと続く薄暗い通路のような場所へと押しやられていった。息が詰まるような閉塞感と、人々の体臭、そして恐怖そのものが発するような異様な臭いが鼻をつく。 その、瞬間だった。 ゴオオオオオオオオッッッ!!! 言葉にならない、腹の底から響き渡るような轟音。それと同時に、凄まじい衝撃波が、壁を、床を、そして俺自身の体を内側から打ち付けるような物理的な圧力となって地下空間全体を揺るがした。立っていられない。人々が将棋倒しになり、俺も壁に叩きつけられ、そのまま床に崩れ落ちた。天井からコンクリートの破片が降り注ぎ、照明が一斉に消える。完全な暗闇。耳鳴りが酷い。頭が割れるように痛む。誰かの悲鳴、うめき声、そして…急速に訪れる静寂。 (………何が……起きたんだ………?) 薄れゆく意識の中で、それが俺の最後の思考だった。 ……………… どれくらい時間が経ったのだろうか。 重い瞼をこじ開けると、まず感じたのは、ひどい頭痛と耳鳴り、そして全身の打撲による痛みだった。**喉がひどく渇き、細かい粉塵のせいで息が苦しい。そして…足元に、ひんやりとした水の感触があった。見ると、足首あたりまで、濁った水が浸かってきている。どこかからか、水が流れ込んでいるようだ。あたりはまだ薄暗いが、非常灯か、あるいはどこかから差し込む僅かな光で、周囲の状況が朧げに見える。 そこは、地獄だった。 俺がいたはずの地下鉄の通路は、半ば崩落していた。天井は歪み、壁には大きな亀裂が入っている。そして、俺の周囲には……折り重なるように、夥しい数の人々が倒れていた。動いている者は、いない。皆、衝撃で即死したのだろうか。不自然な方向に手足が曲がった者、頭から血を流している者…。吐き気がこみ上げてくる。 (……う……ぐ……) 胃の中のものをぶちまけそうになるのを、必死で堪えた。なぜだ? なぜ俺は生きている? 周囲はこんなにも…酷い有様なのに。俺も壁に叩きつけられたはずだ。頭も打った。なのに、骨折も、大きな外傷も見当たらない。打撲の痛みはあるが、動けないほどではない。 (どうして……俺だけ……?) 理解不能な事実に、恐怖とは別の種類の、冷たい感覚が背筋を這い上がってきた。 ふと、顔に冷たいものが当たった。見上げると、崩れた天井の隙間から、黒い液体がぽつり、ぽつりと滴り落ちてきている。雨…? いや、違う。粘り気のある、油のような、そしてひどく生臭い、黒い雨。これが…まさか…。 (……核……?) その言葉が頭に浮かんだ瞬間、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。まさか、本当に核兵器が使われたというのか? ここで? この街で? 外の様子が気になり、俺は瓦礫と、足元に溜まった水を乗り越え、ふらつく足取りで地上へと続く階段を目指した。途中、息も絶え絶に助けを求める者や、ただ呆然と座り込んでいる生存者も僅かにいたが、俺には彼らを助ける術も、声をかける余裕もなかった。今はただ、外の状況を確かめなければ。 崩れかけた階段を必死で上り、ようやく地上に出た時、俺は言葉を失った。 目の前に広がっていたのは、俺が数時間前まで歩いていた街ではなかった。建物は軒並み倒壊し、あるいは骨組みだけを残して燃え上がっている。空は、厚い黒煙に覆われ、赤い炎がそこかしこで舌のように空を舐めている。視界の及ぶ限り、破壊と炎だけが広がっていた。 「……な……んだ……これ……は……」 声が、かすれて出ない。足が震え、立っているのがやっとだった。これが、核攻撃。これが、戦争。これが……俺の、あの軽率な願いが招いた結果なのか…? (……違う……俺のせいだけじゃない……でも……) 思考がまとまらない。ただ、目の前の圧倒的な破壊の光景が、網膜に焼き付いて離れない。 俺は、まるでゾンビのように、重たい足を引きずりながら歩き始めた。どこへ向かうという当てもない。(どこでもいい、とにかくここから離れなければ…!) ただ、この場から少しでも離れたい一心だった。ふと、視界の端に、黒く汚れた川の流れが見えた。ライン川だ。そうだ、川沿いに歩けば、少しは開けた場所に出られるかもしれない…。 俺は、川の流れだけを頼りに、南へ、南へと、ただひたすら歩き始めた。背後では、街が燃え続けていた。