第五章 灰色の勝利、そして長い冬へ 第三次世界大戦 開戦より二週間後 アメリカ合衆国 大統領緊急作戦センター(PEOC - ホワイトハウス地下バンカー) 分厚い鉛の扉に閉ざされた地下深くの作戦センターには、張り詰めた空気と、電子機器のかすかな動作音だけが満ちていた。壁面の大型スクリーンには、グローバルな被害状況を示すデータが、依然として断片的ではあるが表示されている。赤いドットは壊滅した都市や軍事拠点を、黄色は深刻な放射能汚染地域を示し、その範囲はユーラシア大陸を中心に、北半球の広範囲に及んでいた。 「――STRATCOM(戦略軍)からの最終報告です、大統領」 統合参謀本部議長、ウィリアム・クロウ大将が、ややかすれた声で報告を開始した。彼の顔には、この二週間の激務による疲労が色濃く刻まれている。 「我が国の第一撃は、目標としたソヴィエト連邦の戦略核戦力、及び指揮命令系統に対し、壊滅的な打撃を与えることに成功しました。敵ICBMサイロの95%以上、SSBN(戦略原潜)の大半を無力化。モスクワを含む主要都市の指導部機能も完全に麻痺したものと推定されます」 報告を聞きながら、ロナルド・レーガン大統領は、無表情にスクリーンを見つめていた。勝利。それは間違いなく、アメリカの、そして自由主義世界の勝利だった。しかし、その勝利の味は、灰のようにざらついていた。 「……ソ連からの報復攻撃による、我が国の被害は?」 「ニューヨーク、シカゴ、シアトル、そして西海岸の数都市に、限定的ながら核弾頭の着弾を確認。ホノルルも壊滅的な被害を受けました。死傷者数は…現時点での推定で、およそ2千万人から3千万人。これは当初の最悪想定を大幅に下回るものですが…」 クロウ大将は言葉を濁した。下回ったとはいえ、それはアメリカ史上、比較対象のない未曾有の人的被害だった。 「FEMA(連邦緊急事態管理庁)は、全力で救助と復旧にあたっている。だが、放射能汚染とインフラの破壊が深刻で、活動は難航している」 首席補佐官ジェイムズ・ベイカーが、苦々しい表情で付け加えた。 「…残存する脅威は?」レーガンが問う。 「ソ連の戦略原潜、数隻が依然として捕捉できていません。また、中国人民解放軍の動向も不透明です。彼らは、限定的な核攻撃を受けたとみられますが、国家としての組織的抵抗能力を完全に失ったとは断定できません」 国防長官ワインバーガーが答える。 「STRATCOMは、これらの残存脅威に対する二次攻撃オプション、及び中国に対するさらなる攻撃計画を準備しています。ご決断を」 レーガンは、ゆっくりと頷いた。 「…徹底的にやれ。いかなる脅威の芽も残してはならない。自由のための戦いは、まだ終わってはいないのだ」 その声には、疲労の中にも、かつての「強いアメリカ」を取り戻そうとする意志が宿っていた。 しかし、彼の視線が、スクリーンに表示された別のデータ――NOAA(海洋大気庁)による初期的な気候変動予測――に注がれた時、その表情がわずかに曇った。「核の冬」。それは、もはや単なる理論上の脅威ではなかった。北半球の平均気温は、既に数度低下し始めており、今後、数ヶ月から数年にわたり、深刻な寒冷化と日照不足が続くと予測されていた。 (食糧……) その問題が、再び重くのしかかってくる。戦争の原因となった食糧問題は、戦争によって、さらに絶望的な形で人類に襲いかかろうとしていた。彼の脳裏に、苦い認識が蘇る。この厄災の根源…それは、皮肉にもウマ娘という存在そのものにあったのかもしれない、と。人間の3倍ものカロリーを必要とする彼女たちの存在が、世界の食糧バランスを崩壊させ、ソ連を暴発させた遠因となったのだ。人類全体、国家というマクロな視点で見れば、彼女たちは祝福であると同時に、限られた資源を喰らう脅威でもあった…。 しかし、そう単純に割り切れないことも、彼は痛いほど知っていた。(彼の愛する妻、ナンシーもウマ娘なのだ。彼女の輝くような笑顔、家族への深い献身…。個人的なレベルでは、彼女たちはかけがえのない、愛すべき存在だ。この矛盾を…指導者として、夫として、どう考えればいいというのか…) レーガンは、その答えの出ない問いを振り払うように、わずかに頭を振った。今は感傷に浸っている時ではない。彼は、次の議題へと意識を向け、首席補佐官に指示を出すべく口を開いた。 同日 イギリス某所 政府戦時地下司令部(秘匿名称 “サイトZ” ) 硬い仮設ベッドの上で、エリザベス女王は、小型の無線受信機から流れるニュースに静かに耳を傾けていた。声だけの、断片的でノイズ混じりのBBCワールドサービス。それでも、世界の惨状を伝えるには十分だった。彼女の表情は、仮面のように動かなかったが、その瞳の奥には深い憂慮の色が宿っていた。 「――首相、ロンドンからの報告は?」 傍らに控えるマーガレット・サッチャー首相に、女王は静かに問いかけた。サッチャーもまた、この地下施設で不眠不休の指揮を執り続けており、その顔には疲労と心労が深く刻まれていた。 「はっ、陛下。ロンドンは…深刻な被害を受けました。ですが、政府機能の一部は維持されており、復旧作業が開始されています。バーミンガム、マンチェスターも大きな被害が出ております。国防省の推定では、国内の死傷者は…およそ1千5百万人に達するかと…」 サッチャーの声は、震えを抑えようとしているのが分かった。 「…国民は?」 「…未だ混乱の中にありますが、陛下。ラジオ放送を通じて、政府が機能していること、そして陛下ご自身がご無事であることを伝え続けております。それが、どれほどの支えになっているか…」 「そう……。首相、国民に必要なのは、希望です。どれほど小さくとも、明日への希望を…」 女王は、窓のない部屋の壁を見つめながら言った。 「…はい、陛下。アメリカのレーガン大統領とも連絡を取り合っております。自由主義世界の結束は、これまで以上に重要になります。我々は、この試練を乗り越えねばなりません」 サッチャーは、力強く頷いた。しかし、彼女の脳裏には、壊滅したヨーロッパ大陸、そしてこれから訪れるであろう食糧とエネルギーの危機、そして放射能汚染という、あまりにも重い現実が暗い影を落としていた。 同日 日本 首相官邸 地下危機管理センター 「…以上が、米軍基地周辺地域、及び『黒い雨』が観測された地域における初期被害状況です」 防衛庁長官が、重い口調で報告を終えた。横須賀、三沢、沖縄、そして横浜や横田基地周辺。限定的とはいえ、日本もまた、核戦争の直接的な被害を受けたのだ。死傷者数は(沖縄本島南部や横浜などへの攻撃により)百万人規模に達するとの初期報告もあるが、放射能による長期的な影響は計り知れない。 「…食糧備蓄は、あとどれくらい持つか」 中曽根康弘首相が、厳しい表情で尋ねた。 「国内備蓄だけでは…徹底した節約と厳格な配給を行ったとしても、全国民を支えられるのは最大で半年(6ヶ月)程度かと推計されます。輸入は完全に途絶しており、今後の見通しは…」 農林水産大臣が、苦渋の表情で答える。市場での混乱を防ぐため、政府が緊急法令をもって厳格な食料配給制度を導入したことが、功を奏しているのだろうか。少なくとも、表面的には大規模なパニックは抑えられ、国民は最低限の分配への諦めにも似た落ち着きを見せているようではあった。 「電力も、極めて厳しい状況です」続いて、渡辺商産業大臣が険しい表情で口を開いた。「沖縄電力管内は、攻撃により発電・送電網ともに壊滅、事実上機能停止状態です。東京電力も、横浜沿岸部の火力発電所群が壊滅的な被害を受け、計画供給に対する余裕はゼロに近い。現在は、全国の原子力発電所の稼働率を最大限に引き上げて、かろうじて首都圏への供給を維持していますが…」 言葉を切った通産大臣の顔には、暗い影が落ちていた。 「他の電力会社も同様です。問題は燃料です。LNG、石炭ともに、輸入は完全に停止しました。現在、太平洋上にあるタンカーや輸送船が、最後の供給となるでしょう。それが尽きれば…我が国の産業も、国民生活も…」 「アメリカからの援助は?」 「…現時点では、確約は得られておりません。彼らも自国の対応で手一杯の状況です」外務大臣が報告する。「むしろ、今後の国際秩序の再編において、我が国がどのような役割を果たすべきか、非公式な打診が来ております」 「…経済への影響も深刻です、総理」今度は、竹下登大蔵大臣が重い口を開いた。「東京証券取引所は、開戦以来閉鎖されたままですが、再開の目途は全く立っておりません。金融システム全体への不安も広がっており、銀行への公的資金注入も視野に入れざるを得ない状況です。また、重要産業を維持するため、政府保証による民間企業への緊急融資についても、至急検討が必要かと…」 その言葉は、軍事的勝利の裏で進行する、もう一つの静かなる崩壊を示唆していた。 中曽根は、目を閉じた。勝者となったアメリカ。その下で、日本はどう生き延びるのか。経済大国としての地位は、この核戦争後の世界でどれほどの意味を持つのだろうか。食糧備蓄は最大で半年…アメリカ西海岸の港湾都市(ポートランドなど)も攻撃を受けたとなれば、主要な輸入ルートは絶たれたも同然だ。オーストラリアは無事だと聞くが、果たしてあの国だけで日本の食卓を支えられるのか? いや、それ以前に、船を動かす燃料だ。国内の石油備蓄も、いつまで持つか…。そして…天皇陛下の御動座は、まだ続けるべきなのか。 「…陛下は、ご無事でおられるか?」 「はっ。予定通り、安全な場所にお移りいただいております」宮内庁長官が答える。 「そうか……」 中曽根は、それだけを呟いた。 世界は、一応の軍事的決着を見たのかもしれない。しかし、本当の戦いは、これから始まるのだ。飢餓、疫病、放射能、そして…絶望との戦いが。それは、核のボタンを押した指導者たちにとっても、瓦礫の下で息絶え絶えに生きる名もなき人々にとっても、等しく訪れる、長い長い冬の始まりだった。