第六章 ケルンレース場にて どれくらい歩き続けただろうか 日は既に高く昇っていたが、空は厚い灰色の雲と黒い煙に覆われ、まるで薄暮のような薄気味悪い明るさしかない。ライン川の水面も、油膜のようなものが浮き、淀んだ色をしていた。川沿いの道には、俺と同じように、当てもなく歩く人々がいた。いや、歩くというより、もはや亡霊のように彷徨っている、と言った方が正確かもしれなかった。 シェルターに入れなかったのだろうか。あるいは、家が吹き飛んでしまったのか。東の方から逃げてきたという避難民も混じっているのかもしれない。皆、一様に煤で汚れ、衣服は破れ、虚ろな目をしている。道の脇には、動けなくなった負傷者たちが横たわり、低い呻き声を上げていた。**瓦礫の傍らには、小さなウマ娘の少女が、ぴくりとも動かずに横たわっている。その鮮やかだったはずのリボンは黒く汚れ、固く目を閉じている。目を背けたくなる光景が、ここには溢れていた。**助けを求めているのだろうが、誰一人として足を止める者はいない。俺もそうだ。彼らを助ける術など、何も持っていない。ただ、彼らの横を通り過ぎ、自分の足を進めることしかできなかった。その度に、胃が締め付けられるような罪悪感が襲ってくる。 時折、空から冷たいものが降ってきた。黒い、粘り気のある雨だ。人々は、それを浴びないように、わずかに残った建物の軒下や、破壊されてひっくり返った車の陰に身を寄せようとする。だが、ほとんど意味はないだろう。俺は知っていた。これは、死をもたらす雨だ。放射性降下物。これを浴び続ければ、やがて体は内側から蝕まれ、苦しみ抜いて死ぬ。 (…なのに、なぜ俺は……) 俺も、この雨や衝撃に打たれている。だが、体に目立った変調はない。もちろん、疲労と空腹、そして精神的なショックで、体は鉛のように重い。だが、放射線や爆発によるものと思われる酷い症状…例えば、吐き気やひどいだるさ、あるいはどこかからの出血といったものは、今のところ全く見られないのだ。 (どうして、俺だけが平気なんだ……? あの時、地下鉄で死んだ人たちと、俺と、何が違うんだ……? この黒い雨を浴び、瓦礫の中を歩く人々…彼らは、おそらくもう長くないだろう。数日、もって数週間か…? なのに、俺は…なぜ、この雨を浴びても平気なんだ?) 答えは出ない。ただ、自分がこの世界の人間ではない、という漠然とした感覚だけが、次第に強くなっていた。 歩きながら、思考は否応なく過去へと向かう。あのダービーの日。ネオユニヴァースの勝利に酔いしれ、ビールを飲み、そして…あの三女神像の前で、馬鹿げた願いを口にした瞬間。 (……どうして、あんなことを……。どうしてこんな世界になったんだ! 誰がこんなことを望んだ!? …いや、まさか…違う、そんなはずはない…。でも、あの時の、俺の、あのレース場の、あの三女神像の前での、あの馬鹿げた願いが…? そんなはずは…でも…) 「可愛いウマ娘とチュッチュしたい」? ふざけるな。そんな下らない、自分勝手な欲望のために、どれだけの命が失われた? どれだけの悲しみが生まれた? この目の前に広がる地獄は、俺が、俺の軽率な一言が生み出したものなのかもしれないのだ。 そう思うと、胸が張り裂けそうになった。熱いものが込み上げてきて、視界が滲む。頬を伝うのは、黒い雨か、それとも涙か。もう、どうでもよかった。 「……う……ああ……」 嗚咽が漏れる。俺は、その場に崩れ落ちそうになった。もう歩けない。こんな世界で、生きていたって何の意味がある? その時だった。 (……こっち……) 不意に、頭の中に直接、声のようなものが響いた気がした。少女の声。聞き覚えのある…いや、あるはずのない響き。 (…幻聴か? ついに、頭がおかしくなったか……?) だが、幻聴だけではない。何か…特定の方向へ、強く、強く引かれているような感覚があった。理由は分からない。しかし、行かなければならない、という抗いがたい確信のようなものが、疲弊しきった俺の体を無理やり突き動かした。俺は、何かに憑かれたように、ふらふらと立ち上がり、その引力に従うように、再び歩き出した。 どれほど歩いただろうか。視界の先に、巨大な、しかし半ば崩れかけた建造物が見えてきた。円形の…スタンド? そして、広大な敷地。ここは……レース場? 壁の一部に残った文字を読み取る。「…öln…ennbahn…」ケルン…レース場? そうか、ここはケルンレース場なのか。デュッセルドルフから南へ、川沿いに歩いてきた結果、ここに辿り着いたらしい。建物は爆風で大きな被害を受けているようだが、スタンドの一部などは、かろうじて原型を留めているように見えた。あれはゲートだろうか?(なぜだか分からないが、この場所に強く引き寄せられた。懐かしいような、それでいて恐ろしいような…ここが、何かの始まりの場所なのか…?) (…屋根がある……) それだけで、今の俺には天国のように思えた。もう夜が近い。雨も強くなってきた。 「…少し、休ませてもらおう……」 俺は、力なく呟き、スタンドの、比較的損傷の少ない場所を探して、壁に背をもたせかけるように座り込んだ。 冷たいコンクリートの感触。降り続く黒い雨の音。遠くでまだ燃え続けている街の残響。疲労と絶望が、鉛のように体を蝕んでいく。意識が急速に遠のいていくのが分かった。悲しみと、後悔と、そしてほんのわずかな…もうどうでもいいという諦めの中で、意識が混濁し始める。まるで焦点の定まらない夢の中のように、不確かな糸が、どこか遠い場所へと繋がっていく感覚。錆びついた鉄のような、自身の疲労と後悔に満ちた意識。そして、その糸の先に感じるのは、澄み切った水面のように静かで、それでいてどこか人間とは異なる質感…ウマ娘の少女の意識だった。俺の思考が、堰を切ったように流れ出す。 『……やっぱり……俺が願ったのが、悪かったのかなぁ……』 その思考には、自嘲と、どうしようもない諦めが滲んでいる。 『ウマ娘が、いっぱいの世界になりますように、なんてさ……』 『結局、こんな……世界になっちゃった……この世界は』 しばしの間、少女の意識は沈黙していた。ただ、静かな受容の感覚だけが伝わってくる。やがて、言葉が、彼の意識の中に形を結んだ。 『ウマ娘は、”ちょうどいい”……がいいの』 少女の思考は、感情を排した純粋な情報のように続く。 『多すぎても、少なすぎても、ダメ……バランス、するよ』 『……だよなぁ……』 男性の意識から、乾いた自己否定の感情が漏れ出す。 『はは……ごめんな、こんな世界の……”こと”を、お前に……』 『ううん……』 少女の意識が、彼のネガティブな感情に触れる。 『ネガティブ……それが、検出されたデータ…だから』 繋がりの糸が、急速に細くなっていく感覚。ノイズのような思考の断片が混じり始める。 『もうすぐ、閉じる……』 『そっか……。それも仕方ないか』 男性の意識に、奇妙なほどの静けさが訪れる。受け入れ。 『切れるまで、よろしくな』 『ん……』 少女の意識もまた、穏やかにそれを受け入れる。だが、ふいに何かに気づいたような波紋が広がった。 『…………あなたも』 『ん?』 『……2分、28秒、5……』 その数字は、まるで客観的な観測データのように、彼の意識に直接刻まれた。 『これも、”観測”したよ』 そして、静かな別れの感覚が伝わってくる。 その、繋がりが完全に途絶える寸前、あるいは別れの感覚を振り払うかのように、少女の最後の言葉が、彼の意識の奥底に強く響いた。 (……"見つける"……するよ……) (…ああ……頼む……) それが、懇願だったのか、単なる思考の断片だったのか、**自分でも分からなかった。**その声を最後に、俺の意識は、深い、深い闇の中へと沈んでいった。最後に感じたのは、遠い日本の、初夏のレース場の匂いだったような気がした。 遠い世界、遠い時間。 第七章 ミラクルは三回あってもいい 遠い世界、遠い時間。 深い闇に沈んでいた意識が、急速に浮上する。 まず感じたのは、全身を打ったような鈍い痛みと、柔らかな感触。そして、喧騒。耳をつんざくような、それでいてどこか懐かしい、大勢の人々の声と、鳴り止まない万雷の拍手。 「いったぁ……!?」 すぐ近くで、少女のような、しかし凛とした声が上がった。 男――つい先ほどまで、核戦争後の荒廃したドイツを彷徨っていたはずの男――は、ゆっくりと目を開けた。 視界に飛び込んできたのは、どこまでも青い空と、眩しい初夏の日差し、そして…心配そうにこちらを覗き込む、芦毛のウマ娘の顔だった。彼女は、ぶつかった衝撃で尻餅をついているようだった。「いたた…っ」と小さく声を上げ、少し涙目になって芦毛の耳をぺたんとさせている。 「だ、大丈夫ですか、あなた!? 急に空から…!」 ウマ娘は、驚きと痛みと困惑が入り混じった表情で、男に問いかけた。彼女の額には汗が滲み、レースを走り終えたばかりのような、心地よい疲労感が漂っている。その勝負服には、見覚えがあった。確か、今日の… 「……え……?」 男は、自分の置かれた状況が理解できなかった。さっきまで自分は、冷たいコンクリートの上で、黒い雨に打たれながら死にかけていたはずだ。なのに、ここは…明るくて、暖かくて、人で溢れている。鼻をつくのは、硝煙や死臭ではなく、芝生の匂いと、甘い菓子の匂い、そして人々の熱気。 「うーん、空中から降ってきたみたいだったけど…大丈夫?」 尻餅をついたウマ娘――ヒシミラクルは、不思議そうに首を傾げながら、それでも男に手を差し伸べようとした。彼女こそ、つい先ほど、この日のメインレース、宝塚記念を制したばかりの、文字通りの”ミラクル”な勝利者だった。 その時、二人の間に、すっと別の影が差した。 「……まさにミラクル…だね」 静かな、しかしどこか不思議な響きを持つ声。男が顔を上げると、そこには、金と水色の鮮やかな髪を持つ、見覚えのあるウマ娘が立っていた。ダービーの日、一瞬だけ目が合った(気がした)、あのウマ娘。そして、あの絶望的な世界で、頭の中に直接語りかけてきた、あの声の主。 ネオユニヴァースは、男を見下ろし、その透き通った水色の瞳をわずかに細めた。 「観測…完了。時空座標、安定。…確定したよ」 そして、ふわりと、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。 「おかえり」 男は、言葉を失った。目の前の光景が、現実なのか夢なのか、まだ判別がつかない。だが、彼女の声は、あの闇の中で聞いた声と、寸分違わず同じだった。彼女が、自分を「見つけ」、そしてここに連れ戻してくれたのだ。 「……あっ……ユニ……」 声が、かすれてうまく出ない。喉の奥が熱くなる。 「……ネオユニヴァース……」 名前を呼ぶと、堰を切ったように感情が溢れそうになった。ありがとう、という言葉と、戻ってこられたという安堵と、そして…様々な感情がごちゃ混ぜになって、言葉にならない。 「………ありがとう………。ただいま」 ようやく、それだけを絞り出すのが精一杯だった。 「え? え? どういうこと? 知り合いなの?」 ヒシミラクルは、男とネオユニヴァースを交互に見比べ、ますます混乱した表情を浮かべている。空から人が降ってきて、ぶつかって、ダービーウマ娘が「おかえり」って…? 彼女の常識では、到底理解できる状況ではなかった。 ネオユニヴァースは、困惑するヒシミラクルには答えず、ただ、帰還した男を静かに見つめている。その瞳の奥の色は、誰にも読み取ることはできなかった。 日本の、初夏のレース場。鳴り止まない歓声と祝福の中で、一つの奇跡が、静かに、しかし確かに起きていた。 おまけ話:デジタルが見た遠い悪夢 あの日……そう、ユニヴァースさんが二冠を達成した、あの眩しいダービーの日。レース場の片隅にある三女神さまの像の前で、あたしはいつものように、全てのウマ娘ちゃんたちの幸せと活躍を祈っていました。だって、みんなキラキラしてて、尊いんですから! でも、その日を境に、なんだかちょっと……変なんです。眠ると、時々、知らない子の夢を見るようになりました。 最初は、ぼんやりとした断片的なイメージでした。知らない国の、知らない街並み。石畳の道。そして、茶色い髪をした、あたしより少し年下くらいの、やっぱり知らないウマ娘の女の子。彼女はいつも何かに怯えているみたいで、夢の中のあたしは、その子の不安やドキドキを、自分のことみたいに感じてしまうんです。 (だ、誰かの新刊の導入かな? それにしては臨場感がすごすぎるような…?) なんて、最初はオタク的に考えてみたりもしたんですけど、夢はどんどん鮮明になっていきました。聞こえてくる言葉は、あたしが知らないはずの外国語(あとでトレーナーさんに聞いたら、多分ドイツ語じゃないかって)。でも、なぜか夢の中ではその言葉の意味が分かるんです。そして、その言葉の端々から伝わってくるのは、食べ物がないことへの不満とか、偉い人への悪口とか、そして…「戦争」っていう、すごく怖い響き。 夢の中の女の子は、お兄ちゃんらしき男の子と、心配そうな顔をしたお父さん、お母さんと一緒に、質素だけど温かい食卓を囲んでいることもありました。でも、彼女はいつも窓の外を気にして、時々、自分のウマ耳をぎゅっと塞いでしまうんです。遠くから聞こえる、何か硬くて低い音に怯えてるみたいに。 そのたびに、あたしの心臓もドキッとして、夢の中の彼女と同じように、耳を塞ぎたくなってしまう。なんだか、自分の感情じゃないみたいで、すごく気持ち悪いんです。 トレーナーさんにも、何度か相談しようと思いました。「あの、トレーナーさん、最近ちょっと変な夢を見るんですけど…」って。トレーナーさんは、いつもあたしの突拍子もない推し語りにも優しく付き合ってくれる、最高の理解者ですから。でも、いざとなると、こんな非現実的な話、信じてもらえるわけないかなって…心配かけちゃうだけかなって…結局、言い出せないまま、時間だけが過ぎていきました。 その間にも、夢の中の「戦争」の気配はどんどん濃くなっていって…。夢の中の女の子の怯えや悲しみは、まるで自分のことのように、あたしの心にも重くのしかかってきました。日中のトレーニングにも、なんだか集中できないことが増えてきて…。 そして、宝塚記念。春のグランプリです。ファン投票で選んでもらえて、すごく光栄で、気合も入っていました。芝もダートも、距離も問わないのがあたしの持ち味ですから! トレーナーさんと一緒に、前日からレース場近くの大阪のホテルに入りました。 「デジたん、少し顔色が悪いみたいだけど、大丈夫かい? 無理はしないでね」 「だ、大丈夫ですよ~! ちょっと昨日の推し活で夜更かししちゃっただけですから!」 心配してくれるトレーナーさんには、いつもの調子で返しましたけど、本当は、またあの夢を見るのが怖くて、あまり眠れていなかったんです。 その夜は、明日のレースに備えて、早めにベッドに入りました。どうか、変な夢を見ませんようにって祈りながら…。 でも、眠りに落ちたあたしが見たのは、今までで一番鮮明で、そして…一番残酷な夢でした。 夢の中の私は、あのドイツのウマ娘の女の子になっていました。突然、街中に響き渡る、耳をつんざくようなサイレンの音。パニックになって逃げ惑う人々。私も、人波に押されて、薄暗い地下鉄の駅へと逃げ込みました。息苦しいほどの人の熱気と、恐怖の匂い。 そして、轟音と衝撃。 気がつくと、私は瓦礫の中で倒れていました。周りには、たくさんの人が…動かない人たちが折り重なっている。頭が痛い。体が痛い。息が苦しい。足元には、冷たい水が溜まってきてる…。 (パパ…? ママ…? お兄ちゃん…?) 必死で家族を探そうと、瓦礫を乗り越えて地上に出ました。でも、そこに広がっていたのは、燃え盛る街の残骸だけ。家があった場所は、もう瓦礫の山になっていました。 (うそ…だ…) 絶望と、体の痛みと、そして…黒い雨。粘りつくような、冷たい雨が降り注いできます。 (寒い…痛い…苦しい…誰か…) 私は、ふらふらと、ただ川の方へ…ライン川とかいう大きな川のほとりへと歩きました。もう、何も考えられない。ただ、苦しくて、悲しくて、寂しくて…。川辺に倒れ込むように座り込むと、もう動けませんでした。体がどんどん冷たくなっていく。意識が遠のいていく…。 「……っ!!」 あたしは、自分の部屋のベッドの上で飛び起きました。全身汗びっしょりで、心臓がバクバクいってる。さっきまでの夢の感覚が、あまりにもリアルに残っていて、涙が止まらない。喉の奥から込み上げてくる吐き気に耐えきれず、トイレに駆け込んで、胃の中のものを全部戻してしまいました。 苦しい。痛い。悲しい。怖い。 夢の中の女の子の感情が、まだあたしの中に渦巻いている。もう、何が現実で、何が夢なのか分からない。 「…う…うわあああああん……!!」 あたしは、トイレの床に座り込んだまま、子供みたいに声を上げて泣きじゃくりました。もう、一人じゃ抱えきれない。 その時、部屋のドアが控えめにノックされました。 「…デジたん? 大丈夫かい? すごいうめき声が聞こえたけど…」 トレーナーさんの心配そうな声。 あたしは、ためらいながらもドアを開けました。涙と吐瀉物でぐしゃぐしゃになったあたしの顔を見て、トレーナーさんは絶句していました。 「デジたん!? いったいどうしたんだ!?」 あたしは、もう限界でした。トレーナーさんにしがみついて、これまでのこと…奇妙な夢のこと、夢の中の女の子のこと、そして、今見たばかりの、あまりにも残酷な夢の内容を、嗚咽を漏らしながら、必死で話しました。 トレーナーさんは、あたしの突拍子もない話を、黙って、最後まで聞いてくれました。信じてくれたかどうかは分かりません。でも、彼はあたしの背中を優しくさすりながら、「…そうか、辛かったな。もう大丈夫だから」と言ってくれました。その温かさが、少しだけ、あたしの心を落ち着かせてくれました。 でも、あの夢の衝撃は、あまりにも大きすぎました。 翌日の宝塚記念。あたしは、なんとかゲートには入りました。でも、体も心も、鉛のように重かった。レース中も、時折、夢の中の光景がフラッシュバックしてきて…いつものような集中力も、粘り強さも、全く出すことができませんでした。 結果は、13着。応援してくれたファンの皆さんには、本当に申し訳ない走りしかできませんでした。 レースが終わって、とぼとぼと地下の道を引き上げていた時でした。 ふいに、後ろから誰かに、ポン、と軽く肩を叩かれました。 振り返ると、そこにいたのは、ユニヴァースさんでした。ダービーを勝った時と同じ、あの不思議な、全てを見透かすような瞳で、彼女はあたしをじっと見つめていました。 そして、彼女は何も言わずに、ただ、もう一度だけ、あたしの肩を、今度は少しだけ強く、トン、と叩きました。 その瞬間、何か…ずっとあたしの心にまとわりついていた、重くて冷たいものが、ふっと消えていくような感覚がありました。まるで、絡まっていた糸が、ぷつりと切れたみたいに。 ユニヴァースさんは、それだけですっと身を翻し、雑踏の中へと消えていきました。 あたしは、呆然とその場に立ち尽くしていました。 あの夜から、あたしはもう、あのドイツの女の子の夢を見ることはありませんでした。 あれが何だったのか、ユニヴァースさんが何をしたのか、あたしには分かりません。でも、あの日、あの瞬間、確かに何かが終わって、そして、あたしは少しだけ、前に進めたような気がしたんです。 もちろん、ウマ娘ちゃんたちへの愛は、今も全く変わっていませんけどね! でもちょっとだけ…ほんとうに時々…一人になるとあの子はどうなったのだろうと思ったりするんです…