第六話 バンドの初練習を終えた千早とーんと椎名望海は、並んでとぼとぼと帰っていた。それぞれ心中に重いものを抱え、会話は少なかった。 とりあえずの仮編成で、『ティアドロップス』を試しに弾く。それだけで望海には分かった。熱が無いのに、外しはしないとーんのギター。長崎燐音の縋りつくような執念のドラム。豊川さつきの情感豊かなベース。そして野良猫の、あのボーカル。 (私は、凡庸だ) 望海がことあるごとに海鈴を「信用ならない」と言ったのは、反抗期だけが理由ではない。嫉妬だ。望海を生む時に、海鈴はその楽才を渡してくれなかった。 「立希お母さん、私バンドやってけるかな」 「どうしたのそんな顔…あぁ、当てよっか。メンバーにすごい奴がいた」 「なんでわかるの?」 「…私もそうだったから。でもね」立希が望海の頭を撫でた。「大切な人の為になりたいって、気持ちが大事だよ」海鈴はジトっと立希を見ていた。 「…うん、ありがとう」 「やけに素直なやつ」立希は笑った。 そうだ、私はさつきの為になることをしなきゃ。他のやつなんか知らない。さつきの為だけに、バンドをすれば良いんだ… とーんにはあの場所が息苦しかった。全員が必死に頑張っていて、一つの方だけを見ていて…まるで燈のようだったから。 「とーんちゃん、元気、ない?」 「…別に」 「なになに、やっぱりバンド大変だった〜?」 「別に〜」 とーんが落ち込むと、燈は詩を書く。彼女を励ますために。まるでそれしか親としてやることが無いかのように。とーんには、多くの人を狂わせるらしいその詩が、わからなかった。 (あんなに必死にならなくたって、私上手いことやっていけるよ) さつきも恐ろしかったが、あの野良猫の歌は、特に燈を彷彿とさせた。心の中に渦巻いている、言葉にならないものを乗せるような歌い方。理解できず、逃げ出したいほど不安になった。でもとーんはこれまで簡単に乗り越えてきたことばかりで、逃げ方を知らなかった。 「あのママ」 「なーに?」 「…なんでもなかった」 ともママみたいに必死にならなきゃ、大切な人なんてできない?楽しくバンドなんかできない?こんなこと聞けなかった。燈が好きな愛音はきっと燈の歌も好きで、なら音楽が大好きなはずで…彼女に人でなし扱いされるのは、嫌だった。 「バンドまあまあ楽しいかも!」 燐音はご機嫌だった。さつきの隣で、ドラムをたくさん叩けたからだ。シンプルだが、彼女にとっては重要だった。 「うん、それ、一番大事」睦は満足そうに頷く。 「ちゃんと仲良くできそう?」そよは心配そうだった。 「仲良く〜?別に、楽しければいいじゃん」 「またそんなこと言って!」 「みんなで、仲の良いバンドの方が、いいよ」 ふたりはあたふたしているが、そんなこと言われても、嘘つき猫や泥棒猫とは仲良くなれる気がしない。燐音はその場しのぎを言った。 「まあそれなりに仲良いよ」 「そよ。これどうせ嘘」 「なんでよー!」 「わかりやすすぎ。もっと演技しなきゃ」 「イーッ!睦ちゃんは演技しすぎー!」 燐音には、睦とこういうやりとりをしていると、何かを思い出しそうになって、頭の片隅が痛むことがある。しかし燐音はその正体を探ろうとは思わなかった。 「ほら、睦ちゃんとも仲良くできてないじゃない!」大抵その後、そよに怒られるからだ。 第一回の練習に、さつきは大満足だった。皆は楽器も上手で、あとは心を合わせていくだけだと思った。多少の穴は自分でカバーすれば良い。特に、野良猫の歌は、いたく気に入った。自分の心に響く気がしたからだ。 (それに皆さんの縁…巡り巡る運命の輪…) そして、見えない糸で導かれたように様々な繋がりで集まったメンバーたちに、さつきは感動していた。バンドの楽しさを初めて体で感じて、詩が書きたくなった。 「お母様。ぼくたちのバンド、すごく良いですよ」 「良かったぁ。海鈴ちゃんとこの子と、上手くやれてるんだね」 「はい。それで思わず…詩と、軽いメロディを書いてみたんです」 「まぁ筆が早いですわね。初音譲りかしら?」 「さきちゃん譲りでしょ。よければ曲にしてあげるよ」 「いいんですか!?ありがとう!」 「うん、結成記念だしね。早く歌で気持ちを伝えなきゃね!」 さつきは喜んだ。ああこの歌が完成して、皆に届いて、一緒に弾けたら、心は一つになって。 ずっとずっと、ぼくのバンドにいてくれるんだろうなぁ。 さつきから高らかに運命を礼賛する"新曲"が送られてきた、その次の日には望海はひとりでにゃむの家に向かった。必死に練習しているところは可愛くないし、両親に見られたくなかった。だから、ひとりでやるつもりだった。 「…あんたうみこの娘だっけ?」 「あ、はい、こんにちは!今日は練習に」 「あーいいよ使いな。あのうみこの娘が練習ねぇ」 「…私はお母さんみたいにできないから」 「ふぅん…望海だっけ。頑張りなよ〜」 少し恥ずかしかったが、にゃむには礼を言った。望海が練習部屋に入ると、図らずも先客がいた。燐音だ。 「ア!ヘタクソの泥棒猫!」 「…誰が猫だよ」 「私の邪魔しないでね」相変わらずムカつく奴だった。 「それどっちの邪魔なワケ?」 「どーいうこと?」 「さつきの方?ドラムの方?」もはやさつきへの好意を隠す必要はなかった。望海は戦うつもりで、適当な意地悪を言った。「お前、どっちの方が好きなの?」 「えっなんでそんな話するの」燐音は狼狽えた。どっちかを選ぶなんて、人生で考えたことがなかった。それはどっちかを手放すということ。ふたつにひとつ…?燐音はまた何かを思い出しそうで…頭の片隅が痛くなった。 「こんにちは」 ふたりの言い争う練習部屋に、3人目の訪問者が来た。燐音と望海は、同時に警戒の目を向けた。来たのは、猫の方の猫だ。 「野良猫…」 「皆、練習も熱心ですごい。私も頑張る」 早速さつきのお気に入りになった彼女に、ふたりはお揃いの睨みをきかせた。野良猫は野良猫らしく、ふたりのことなぞどこ吹く風で、7弦のギターを取り出すと、さつきの新曲を歌い始めた。 (その歌詞にある、運命ってのは私のことだ) (さつきちゃんは渡さないよ) 野良猫の歌うさつきの歌は、より凄まじかった。彼女も、天才なのだろうか。望海はそうであって欲しいと願った。あれが努力によるものであれば、自分の立つ瀬がない。 「音楽は、やっぱりいいね」一曲を流し終えた野良猫は、顔をしかめて聴き入っていたふたりに、呟いた。「私、さつきさんと、天球の頂点を見たい。Ave Mujicaのように」夢を見るような、遠い目をしていた。「ふたりも、一緒にいこうね」 ((コイツ、気に食わない))望海と燐音は、初めて心が一つになった。 第七話 「とーんさん…」 心臓が止まるかと思った。千早とーんは、何かを掴めるかと思って、バンドを聴きに来ていた。バンドハウスの端でひとりで目立たずにいたはずなのに、野良猫は、こんなところで声をかけてきた。 「ぉぁ、野良猫ちゃん!?何しにここに!?」 「今日は、聴きに。…このバンドのボーカルは、あのRoseliaのボーカルの一人娘なんだ」 「そ、そうなんだ〜」 「素敵だよね。音楽の、繋がりって」 またそれか、と思った。とーんは、別にそんな深い関係にもならないから、と思い、親には聞けないことを聞いてみることにした。 「あのさ!音楽をやるきっかけになったさつきちゃんの演奏って、どんな感じだったの?その、どうすごかったか、みたいな」 野良猫は、しばし黙って、目を泳がせていた。 「よ、よく覚えていない。でも、良かった」 「それじゃわかんないよ〜。じゃあその演奏で、なんで自分も音楽やろう!って思ったの?」 「それは…この気持ちをなんとかしたいって思ったら、音楽しか思いつかなくて」野良猫は言葉を選んでるようだった。「だから、他に方法があれば、音楽じゃなくてもよかったのかも。虫取りでも、魚釣りでも」 「えーそうなの?なんか意外」と、言いながら、とーんは燈のことも考えていた。燈も、歌以外に手段が無かったのだろうか。つい、余計な言葉まで溢した。「私、気持ちの伝わる歌とか、わかんなくてさ」言ってから取り繕う。「変だよね」 「ううん。私に、それしかないだけ」野良猫は少し寂しそうに答えた。「とーんさんには、音楽以外にあるんだね、気持ちが…大切なものが」 「ぁ…私、大切なものも、あんま無くて」とーんは恥ずかしそうに手を振った。しかし野良猫はそれにも笑わなかった。 「羨ましいな」野良猫は無意識にかとーんの指を握った。「だったら、大切なもの、これから、できるんだ」 その顔に、とーんはドキッとした。歌がわからないことも、大切なものが無いことも、否定されなかった。今日の無様なとーんとも、野良猫は話してくれた。 「じゃあさ」こんな子に、こんなこと尋ねるのは、きっと変なことだけど。「たとえば私たちは、歌が…バンドがなくても、友達になれると思う?」 野良猫は手を離し、答えた。 「お互いの、心が触れ合えば、なれるよ」 その日は一緒にバンドを聴いた。とーんはやはりピンとは来なかったが、野良猫はずっと隣にいた。 「あれ?ちょっと上手くなってる?」 「ハァ?練習したら上手くなるだろ」 今日も、練習部屋は望海と燐音のふたりだった。燐音は相変わらず生意気で、望海はすっかり不機嫌なときの立希のようになっていた。 「ねー今日あいつは?」 「どのあいつだよ。野良猫?」 「野良猫ちゃん、今日はさつきちゃんと一緒に後から来るらしいよ。ちょっと仲良すぎだよね。音楽にも詳しいからって。ってそうじゃなくて、とーんちゃん!ぜーんぜん来ないじゃん!」 「とーんか…あいつはなぁ…なんかやる気薄いんだよなぁ…」 「望海ちゃんが誘ったんでしょ?望海ちゃんみたいなのより、とーんちゃんの方が良いー」 「こいつっ」 やんややんやと言っていたら、とーんが練習室に入ってきた。「あ、来た」とどちらかが言った。とーんは楽器を持っていなかった。 「ど〜も〜。あれ、さつきちゃん、いない?」 「さつきちゃん、後から来るよ。…なんか用?」燐音は試すようにとーんを見つめた。そろそろとーんにも、その異能を察することができたから、先手を打って正直に言うことにした。 「このバンド、やめようかなって思ってて」 違和感はあったが、とーんの出した結論だった。これ以上豊川さつきに呑まれる前に、自分の大切を見つける。ならば乗り越えるべきは、バンドを好きになる方ではなく、バンドをやめる方。やったことのない挑戦だった。 「あっそ。好きにすれば」 とーんの予想に反して、望海の反応は淡白だった。少しの揉め事くらい覚悟していたのだが、拍子抜けだった。 「ギターならすぐ代わりが見つかる」 「…なんか聞いたり止めたりしないの〜?」 「して欲しいわけ?」 「そうじゃないけど…」 「じゃあいいでしょ」 幼馴染の彼女ですら、もう自分に興味を払わない。とーんは、自分の不義理を叱る望海を思い出して、寂しくなった。このバンドは、やはり違う気がした。 「とーんちゃん、やめちゃうの?」燐音の方は首を傾げた。奇妙ながらとーんに懐いているようだったが、何か訝しんでいるようだった。「本当にやめたくてやめるの?」 「…どうしてそんなこと?」 「んーなんか違う気がして」燐音はとーんの顔を覗き込んでいた。「とーんちゃんも、嘘つき?」燐音は、本気にしていないようだった。 そのうち、さつきと野良猫がやって来た。きっとふたりでバンドの話をしていたのだろう。さつきはご機嫌で、野良猫はふわふわしていた。少し怯んだが、とーんはさつきに声をかけた。 「さつきちゃん、あのさ」 「何ですか?」 「ごめんなんだけど、私、このバンド、やめさせてもらおうかなって思ってて」 「…え?」 「ほ、ほんとごめんね〜、ちょっとあって。代わりの子、探してくるから〜」 さつきは目を見開いて、立ち尽くしていた。野良猫は、驚きはないとばかりに、部屋の隅に座る。やがてさつきは、口を開いた。 「…違いますよね…?」その場の誰も、聞いたことのない、震えるさつきの声だった。 「ち、違うっていうのは」 「違うでしょう!」さつきが、激昂した。「ぼくのバンドをやめるなんて!」野良猫以外の3人が、息を呑んだ。 「全部、完璧に、上手くいってたじゃないですか!?やめるわけないでしょ!?」 「ぉぁ、バンドじゃなくて、私の問題で」 「なら尚更やめないでよ!」さつきは掴みかからんばかりだった。「バンドっていうのは、運命共同体なんだから!」練習室に、さつきの声だけが響く。その目に映るのは、母の作るような、完璧なはずの世界。 初めて見る不安定なさつきに、燐音は混乱していた。どうすればいいのかわからなかった。とーんを引き止める?それとも、さつきを落ち着かせた方が良い?望海はただ怯えている。とにかく、さつきを、ドラムを、守らなきゃ。 「あの、さつきちゃん、落ち着いて」 「落ち着く?ぼくが?燐音さんはぼくの味方じゃないの!?」 あ、間違えた。燐音の頭で火花が散った。特別が手をすり抜けていく。奈落から、記憶が這い出してきた。 (どうして味方になってくれないの!?) 「イヤ…」 私の生まれてきた理由。守らなきゃ、守らないと、消えちゃう。…睦ちゃん… 「イヤァァァァアア…ッ」 「燐音!?」頭を抱えてうずくまった燐音に、望海が駆け寄る。さつきもハッと我に帰って、続いた。 「も、もしもし…お、お医者さん…」燐音は朦朧と何かを喋っている。「大丈夫か燐音?」望海が背中をさすっている。 「ぼ、ぼくにゃむさんを呼んできます」 さつきは逃げるように部屋を出ていった。とーんだけが、動けない。…野良猫は?とーんは野良猫の方を一瞥した。 野良猫は部屋の隅で、さつきの出ていった扉を見つめていた。僅かだが確かに…笑っていた。 第八話 「ごめんなさい」 豊川さつきが千早とーんに頭を下げていた。燐音の騒動の後で、ふたりきりだった。 にゃむは、燐音の様子を見ると、苦々しい顔で「平気、私が親のとこ連れてくから」と言って彼女を連れて行った。それでお開きとなり、望海は逃げ帰って、野良猫は気づいたら消えていた。とーんも帰ろうとしたら、さつきに手を引かれたのだ。 「ぼく、取り乱してしまって…皆さんにも後で謝ります」 しょんぼりとしたさつきは、子犬のようになっていた。とーんは少し彼女への恐怖が薄れて、カワイイとすら思った。 「ううん、大丈夫だよ」 「本当にごめんなさい。それで」とさつきは頭を上げて続けた。「事情を教えてください。とーんさんがバンドを続けられるように、ぼくが、協力しますから」 とーんは耳を疑った。この後に及んで、さつきはとーんがバンドをやめることを認めていない。子犬のような目では、その傲慢さは隠せていなかった。 「おためごかしじゃありません。本当に、なんでも協力しますよ」 にっこりと笑うさつき。彼女はきっと何も解決しない。ただ、とーんが捕まってしまっただけだ。とーんはバンド離脱計画の頓挫を予感した。 奈落の中で揺蕩う感じ。ずっと味わっていた気がする。上の方から声が聞こえてくる。むーこ、これどういうこと?わからない。この子が生まれるとき、席がひとつ空いた。じゃあこの子が×××ってこと?わからない。そうかもしれない。でも、そよは… パチッ!無人の舞台に照明がついた。燐音は、奈落の階段を登った。 「燐音ちゃん!」 目が覚めたら、家のベッドで、目の前にそよがいた。起きるまでそばにいてくれたのだ。 「…あ、そよちゃん…」 「…そよママでしょ?そよママって呼ぶんだよって」 「…でも、そよちゃんだよ。ずっと変わってないよ」燐音はそよにギュッと抱きついた。 「うぅ…やっぱり…モーティスちゃん…」そよも燐音を抱きしめた。「私も大好きだよって、伝えたかった」そよは泣いていた。 「…それを隠してたんだね」 ふたりの声を聞いたのか、睦も部屋に入ってきた。 「やっぱり、モーティス」 「睦ちゃん。今の私は…誰なんだろ」 「…それは、私にも、あった悩み。自分で、考えて」 そう、睦と同じ。自分が2人いる感覚。燐音は、いまだに混濁する記憶を整理するためにも、今はそよの胸の暖かさに身を預けることにした。 望海は、確かに悔しかった。さつきのバンドへの想いを汲めなかったことも、取り乱した彼女に何もできなかったことも。でも、あれでさつきの輝きが翳ったからか、頭を占めるのは別のことだった。 (燐音、大丈夫かな…) 確かに、怪物的な鋭さから何かを抱えている危うさを感じていた。嫌いだったはずなのに、ずっと心配だった。 「望海、お悩みですか?」すると海鈴がぬっと現れた。 「う、海鈴お母さん?」珍しいことだ。「海鈴お母さんにすらわかっちゃうか…」 「これでも親ですからね。少しは信頼してください」海鈴は胸を張った。 「へえ…」 「何か言いたそうですね…まあ良いです。確かに私が言えることはシンプルですから」海鈴は言葉を迷わない。「とにかく、動くことですよ」 「…え?」 「恥をかくくらいは、なんてことはありません」 「うーん…そういう話?」 「だって、他人の為に動いたことが、間違いだったと思いたくないでしょう?」海鈴は慣れない手つきで頭を撫でた。「泣きたくなったら私と立希さんがいますよ」 やっぱりちょっとズレてる気がしたが、今の望海にはこの不器用な言葉で十分だった。望海は家を飛び出した。 燐音の寝室にはすぐ通してもらった。何も言われなかった。 「燐音、大丈夫?」 「あーうん。大丈夫」 「…一体何が?」 燐音はしばし逡巡した後、自らの生い立ちを話した。長い話を望海は黙って聞いていた。 「私ってなんなんだろ。全部思い出して、わかんなくなっちゃった。睦ちゃんと離れて、私…」全て話した燐音は目を伏せた。 望海は少し考えていたが、諦めたように息をついた。 「前世とかよくわかんないけどさ!」いきなりで燐音が驚く。「さつきが好きになったのとか、ドラムが好きになったのは、燐音なわけなんでしょ?」 「う、うん」 「じゃあ私と出会ったのは?そのモーティスって子なの?」 「違う、と思う」 「じゃあ、燐音は燐音でしょ」 望海は鼻息荒く言った。燐音はその目をじっと見ていた。そして、吹き出した。 「望海ちゃん、何にもわかってない!立希ちゃん、海鈴ちゃんにそっくり!」彼女はケラケラ笑った。「でも、どっちでもないもんね」 「ハァ?」 「じゃあ私も、あのバンドでは、燐音の役ね!」演じ分けるのは普通のこと。「睦ちゃん、こういうことだよね」燐音は、少し遅れて、かつての分け身と同じところに立った。 (なんでこんなことに…) さつきにどこに行くのか聞かれて、適当に望海に会いに行くなどと言ったら、彼女は「ご一緒します」などと言ってついてきた。そしたらそんな気はなくとも、とーんは望海のところに行かねばならなくなった。 「とーんさん、望海さんに会った後は、一緒に燐音さんのお見舞いに行きませんか?バンドの仲間ですし」 とーんと共に歩くさつきは、尾を振る犬のようだった。でもあの輝く月が、自分を引き留めようとしているのは、悪い気分ではなかった。…いや、もはや良い気分だった。とーんは足りていなかった承認が満たされていき、いつも通り調子に乗り始めていた。 「えーどーしよっかなー」 「是非行きましょうよ。睦さんやそよさんもいますよ」 「大女優の若葉睦かぁ…」そよは家族の付き合いをしないから、とーんも知らないことが多い。ミーハーな野望がとーんの頭をよぎり、バンドや人生の悩みはついにどこかに飛んでしまっていた。 「じゃ、先に燐音ちゃんのところに行こうよ!」 「えっでも望海さんは」 「いーよそんなの後で!」 実際は望海も長崎邸にいたので無意味な会話だった。ふたりは長崎婦妻とお茶を飲んでいた。 「とーんちゃんにさつきちゃんね」 「お、お久しぶり…」 「じゃあ後は子供同士で」 「そよちゃん、私子供じゃないよー!」 とーんは結局睦と話せず、席には4人が残された。 「ごめんなさい燐音さん。大丈夫でしたか?」口火を切る、さつきはまだ少し子犬だった。 「もう大丈夫だよ!今は燐音だから!」燐音はよくわからないが元気そうだ。 「全く心配かけて」望海は偉そうに腕を組んでいる。 「ま、まあ良かったね〜」とーんは奇妙な感じがした。なんだか最初の練習の日よりも、みんなが人間っぽい。自分の問題は何にも解決してないのに、ここの居心地がそこまで悪くなくなったような気がした。 「結局とーんはバンドやめるの?」 「んー、まぁとりあえず続けようかな」それを聞いたさつきはパーッと顔を明るくした。 「うん、これは嘘じゃないかも」燐音は満足げだ。「あっそ」望海も優しい、気がした。 (もしかして、また上手くやれちゃった感じ?) とーんは様々な答えを保留して、大切が見つかるまで、これに乗っておくことにした。これから見つかるなら、ひとまずこれで良い。野良猫の言葉も思い出して…心が温かくなった。そういえば、彼女はなんで笑っていたんだろう? 第九話 見た。完璧な世界で生まれた、完璧な娘の、綻びを。届く。届くなら、壊せる。あの豪奢な鳥籠を。地べたを這いつくばる、この私が。 千早とーんは、私とよく似ていた。音楽がわからない?私もわからない。何が音楽だ。何が歌だ。傷ついた母。歌は彼女を救わなかった。ゆえに私も救われず、私には居場所がない。 運命の出会いは幼いあの時。夜の駐車場。ギターの音色。感動とかはしなかった。変な人だと思ったから、何の気なしに話しかけた。 「野良猫に聴かせてるの?」 「うん。猫が好きだからね。キミももしかして猫?」きっと冗談だ。でも答えた。 「…わかんない。野良猫なのかも」 「へー面白いね。私も昔、野良猫だった。居場所が無かったからね」 「どうやって人間になったの?」 「これ」彼女はギターを指差した。「これなら、できたから。おかげで、居場所が見つかった」 これが天啓だった。音楽は、居場所を作る手段になる。 「お姉さん、名前教えて」 「要楽奈。らーなで良いよ」 このあと、二度と会うことはなかった。以来、三角真名華は、嫌いな苗字を伏せて、野良猫を名乗った。 野良猫は、何も持ってなかった。歌も演奏も、演技も何もかも。だから好きになる機会も無かった。しかし、要楽奈の姿を見たら、音楽しか思いつかなかった。だから野良猫になった彼女は、音楽を道具のように扱うことを考えた。手に取ったのは、忌まわしい7弦のギター。そして、すこしだけ叔母に似ていた声。 要楽奈が手に入れた居場所を知ったときは驚いた。It's Mygo!!!!!。でも自分の場所は彼女のところじゃない。彼女との出会いは運命かもしれないが、野良猫はむしろ運命の軛からの解放を望んでいた。後ろから誰かを詰る必要のない場所に行きたかった。 ならば目指すは、天球の頂点。そこに君臨する両翼を撃ち墜とし、自分が代わりに立つ。その為に利用できるものはまだあった。それが両翼の娘、豊川さつき。 もうひとつ運命に感謝することがあれば、とーんと出会わせてくれたことだ。まさかさつきと同じバンドに転がり込めるとは思わなかった。彼女の危険な輝きを利用して、共に上まで登り詰める。その後は、3人まとめて奈落に墜として、私を見上げさせる。私が世界の、真ん中だ。 「素晴らしいです!」 一曲を通して弾き終えると、さつきが手を叩いた。しばらくぶりの全員揃っての練習だったが、皆上手に弾きこなした。 「さ、さつき!良かったよ!」望海は息を切らせてさつきを呼んでいる。 「楽しいねードラム!」燐音もさつきに話しかけてた。 「やっぱり楽しかったですよね?ね?ね?」しかしさつきはとーんに話していた。とーんはその様子が可笑しくて、笑った。「うん、なんか面白い」 野良猫は肩で息をしていた。とーんはその必死な様子はやはり苦手だったが、前とは少し違う気持ちにもなった。 「野良猫ちゃん!」とーんは野良猫に駆け寄った。「私にもすごさは伝わってるからね」 「あ、とーんさん。ありがとう」野良猫は薄く笑った。「それが一番嬉しいな」 「皆さん!」さつきが手を叩いた。「この曲、とりあえず形になりそうです。それで、この曲を仕上げてくださった母に、一度聴かせたいのですが、どうでしょうか?」 「えっ、それって初華!?会いたい会いたい」 「初華"さん"ね。私は賛成」 「初華ちゃん!いいよー」 野良猫だけは黙っていた。じっとギターを見つめていたが、反対もしなかった。 「にゃむちゃんの家、久々かな」 「子供と仲良しで結構なことで」 「あ、あはは。バンドの子も結構知り合いの子だったんだね」 「ドラムのあいつ、モーティスだよ」 「えっ?ど、どういうこと?」 「むーこの子供なんだから、それくらいあんのよ」 三角初音は約束通り祐天寺邸に演奏を聴きにきた。多忙なスケジュールでも、子供のために出来る限りのことをするのが豊川家の信条だった。練習部屋にはもう全員がおり、初音を出迎えた。 「お母様!いらっしゃったんですね」 「うわ!マジで初華!」 「だから初華"さん"!よろしくお願いします」 「初華ちゃん久しぶりー!」 初音は3人の自己紹介を聞いていたが、意識は黙っている野良猫に引かれているようだった。初音は最後に野良猫に聞いた。「貴女…お名前は?」少し怯えているようだった。 「…気づいてるよね?」野良猫は言った。「あー、やっぱり、バレちゃった」 「お名前…は?」初音の声は震えていた。 「私は…野良猫」彼女は初音にだけ聞こえる声で言った。「はじめまして、初音叔母様」 「な、なんでですか!?」 演奏は行われた。成功だと思った。初音は言葉少なに彼女らを褒めると、そそくさと帰宅した。その後、さつきが家に帰ると、両親が並んでいて、さつきに言い渡した。「あの子とやるのはやめた方がいい」と。 「上手くいってましたよね?」 「演奏は上手だったよ…でも今は、あの野良猫って子と会うのをよして」 「貴女のためですわ。どうか聞き分けて」 「どういうことなんですか?あの子を知ってるの?」ふたりは苦しそうに目を伏せる。 このふたりの共犯者は、上手く成し遂げすぎていたのだ。憂いを一つずつ廃して、幸せな微睡を永遠なものに。ゆえにさつきは、その完璧な世界しか知らない。僅かな綻びは、大きな亀裂となる。 (初音。初華に会ったのは?) (…16年前。一応は仲直りしたけど…) (ええ。その後に子供がどう思うかは無関係の話) 親の事情で子供を縛りつけるのは、彼女たちが最も忌み嫌うことだった。しかし、娘は何としても守りたかった。 「とにかく今は待ってくださいまし。わたくしたちでやるべきことがあります」 さつきは運命と両親を天秤にかけ、両親が僅かに重いのを感じた。 「あれからさつきから連絡ないんだけど!」 「だからってずっとスマホ見ててもケンコーによくないよ。こっちから連絡すればいいじゃん」 「そ、それはまだ早い気がする」望海の情けない言葉に燐音はため息をついた。 3人が練習室に来ていたが、ふたりがいなかった。とーんは、さつきの母と野良猫の間に何かがあったのだと踏んでいた。あのお披露目の日の初華の様子は変だった。 「ねえ、燐音ちゃん。あの時の初華って、何考えてた?」 「初華ちゃん?なんか野良猫ちゃんのこと怖がってたみたいだった」 「じゃあ野良猫ちゃんは?」 「顔見えなかったからわかんない」 とーんはさつきより、野良猫の方が心配だった。ここに来なくて連絡もないなんて。(音楽しかないんじゃなかったの?)野良猫の少し寂しそうな顔を思い出して、胸が痛んだ。 「私、野良猫ちゃん探しに行ってみる」 「ハァ?まぁ確かにあいつがいないのも変かも…あ!ふたりが逢引きしてたりしたらどうしよう!出るとこ出る!?」 「望海ちゃんバカなの?」 とーんはふたりを置いて、練習室を去った。生まれ持った行動力だった。心当たりは殆ど無いが、運命が本当にあるとすれば、彼女を見つけられる気がした。 第十話 「お久しぶり。あの…」 「来てるよ」 一発ビンゴだった。出会いを思い出して出した結論。要楽奈は、千早とーんを家に入れてくれた。 「やっぱり知り合いだったんだ」 「会うのは二回目。」楽奈は何てことない風に答える。「でも、あんなつまんねー顔した子、ほっとけない」そしてにっと笑って、とーんをリビングに通した。 「野良猫ちゃん!」 「…よくここ、わかったね」 「なんかあったの?」 「さつきちゃんの家と揉めちゃってさ。家出してきたの」 初音と会った日の夜、両親は野良猫を咎めた。「ういちゃんちに、迷惑かけちゃダメだよ」例の、傷ついた顔だった。早くも豊川祥子の手により、野良猫の悪意は潰えようとしていたのだ。彼女は自らの幼さと無力さに絶望した。 「私、名実共に野良猫だ」野良猫は自嘲した。 「ぉ、大変そう」しかしとーんは「それ野良猫ちゃんは」続けた。「ギターとか歌で何とかしたりしないの?」 「…は?」野良猫はすぐには理解できなかった。 「いやさ、ともママなら、家出なんかしたら、絶対歌うと思うよ。気持ちが伝わるとか言って。私は全然、わかんないけど。音楽が大切ってことは、そういうことなんじゃないの?」 とーんの真意を理解したとき、野良猫は心底驚いた。とーんは歌がわからないと言った。だが彼女は、歌が大切な人の、その気持ちを強く信じているのだ。自分の大切も無いのに、野良猫の偽りの大切を、強く。 「とーんさんは…私が…ギターで…何とかできると思ってるの…?」 「ぉぁ、だからわかんないって!でも、そう思うくらいには、野良猫ちゃんのギターも歌も、多分すごかったよ」とーんははにかんだ。「好きなんだなーって」 自分にはわからないと言いながら、他人は信じられる、彼女が眩しかった。 (きっとこの子は、本当の大切を見つけるんだろうな) 野良猫は、また何も無くなった今、とーんを信じてみることにした。 「じゃ、さつきちゃんに、私の演奏、聴いてもらおうかな」そう言ってギターケースを手に取った。それしかないからだ。 「お、それそれ!」とーんは野良猫の手を取って、部屋を飛び出た。 「じゃあねらーなちゃん!」 「あ、あの、ありがとうございます」 「ん。やり切ったりするなよ。まだ若いんだし」楽奈はギターをいじっていて、一瞥もくれなかった。「りりちゃん、鍵閉めといて」 とーんと野良猫は吸血鬼の城を訪ねた。祥子も初音も出払っており、さつきが出迎えた。 「あ、とーんさん…と、野良猫さん」 「なんか揉めてるんだって?」 「はい…というかその、まだ野良猫さんに会うなと母に言われてまして」 「もーどういうことなの?まぁいいや。今日はギター弾くんだもんね」 「うん…」野良猫はずいと前に出ると、さつきの前に立った。「さつきさん」 「なんでしょうか…」さつきも唾を飲んだ。 「私は、貴女を、貴女のお母さんを、Ave Mujicaを…潰す。ギターと、歌で」 言われたさつきは、しばらく唖然としていたが、その後「ハ、ハハ、ハハハハ」哄笑した。「アハハハハハ!もしかして、その為にぼくを追いかけてたんですか?だから会っちゃダメだったの?」 「うん。だから」野良猫は怯まずに、ギターを掲げた。「今日は聴かせに来た」 「まぁまぁまぁ!じゃあセッションにしましょうよ!」さつきは恍惚とした表情で言った。さつきの理想の運命共同体、最後の1ピースが揃う。それはナイフで刺し合うような、バンド体験。憧れた、かつてのAve Mujica。さつきは母同様、自らに向けられた刃には滅法強かった。 さつきはsumimiの古いギターを持ってきた。舞台を降りて久しいが、弾き込まれているようだった。 「豊川さつき…!そのギター…!」 「野良猫さん!楽しみましょう!」 それからふたりは、Ave Mujicaの激しい曲を歌い合った。とーんはそれをずっと見ていた。改めて、豊川さつきは恐ろしかった。自らに敵意を向ける者を前に、愉悦に満ちた表情をしていた。一方の野良猫の顔からは、憎しみすら感じた。音楽しか無いと言っていた彼女が、憎しみでその音楽を振るうことは、奇異だった。 戦いの音色を耳にしながら、とーんはぼんやりと思う。大切なもののためには、傷つかなくちゃいけないのかな。それとも傷つけられるから、大切なものになるのかな。あのママもともママも傷ついたのかな。 燈の言葉が思い出された。「怪我したら、あのんママか、私が、絆創膏を貼るから…身体にも、心にも」無駄に詩的で、わかりにくいと思った。でも、とーんが傷ついてなかったからわからなかったのかも。 とーんは、不気味な、音楽に賭ける子たちを見て、今度は自分が傷つくまでここにいてみようと思った。傷つけば、本当に大切なものが、人が、見えるようになる気がした。 三角真名華と豊川さつきのセッションは、三角初音の帰宅によって終わった。初音は、彼女らの演奏に、しばらく聴き入っていた。ふたりを止めた後、野良猫に尋ねた。 「貴女は、お母さんの夢を叶えるの?」 「バカにしないで。私の夢を叶えるんだ。私の夢は、誰にも盗られたことはない」 「…じゃあ、さつきと一緒に頑張ってあげて」 「いいの?私はいつかさつきを突き落とすよ」 「Ave Mujicaの娘だよ?簡単には突き落とされないよ」初音は力強かった。その後、さつきにも言った。「さつき、もう行きなさい。好きにしていいから。あとはお母さんたちの問題だよ」 とーんには、何が何やらわからなかった。でもきっと、音楽を使って大切なものを見つける者の話なのだろう、と思った。 「ごめんなさいとーんさん。ぼくバンドのことになるとまた興奮してしまって」 「あ、あはは…そうだったね」 「とーんさんも、ずっと一緒にバンドをやりましょうね」 「ずっと、ね…」 別れ際のさつきの言葉を、とーんは反芻した。そんな大変な約束はできるわけないと思った。とーんに見えていたのは、さつきの見る完璧な世界ではなく、一歩先も見えない棘だらけの道だった。 「またあのふたり!?なんで私は誘われないの?信用ないから?」 「まあ…海鈴ちゃんよりマシかな?」望海と燐音の言い争いをとーんはうんざりした顔で聞いてた。さつきと野良猫は、あれからまたどこかで対決しているらしい。 「いや絶対信用ある。海鈴お母さんからスケジュール管理習ったし。今度立希お母さんから作曲習う。全部さつきのためにね」 「本人の前でもっと言えば良いのに…」とーんは呟いた。 「もうウチで遊ぶ?」と燐音。「なんか最近そよちゃん容赦ないから、どうかわかんないけど」 「お前が前世でもロクでもないやつだったんでしょ」 またふたりが言い争い始めると、さつきと野良猫が入ってきた。 「どうも…」 「さぁ皆さんやりましょう!」 望海も燐音も睨みを利かせ、部屋の空気がピリつき始める。相変わらずとーんの苦手な雰囲気だった。たがもう気にしない。いつか心に絆創膏が貼られるまで、上手くいなそうなんて、考えないことにしたのだ。 「とーんさん」皆が楽器の準備をする中、野良猫が声をかけてきた。「見ててね。もう迷わないから」 「ぉぁ、決意表明…」とーんも準備をしながら、返事をした。「私は多分、しばらく迷うと思う」