1234567890一二三四五六七八九〇12345672890一二三34 【OP】 *: ほら、街の外壁が見えてきたよ。 *: そうだね、エルメス。 枯草と石の見えるだけの無人の荒野に、話し声が響く。 タイヤが激しく回転し、地面を蹴る音に何度も邪魔されはするものの、 疾走するモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)と、 その乗り手の少女の声は、むしろくっきり際立って聞こえた。 エルメス: あの国について何か知ってる?キノ。 キノ: いいところだ、とは聞いたよ。 街をぐるりと囲む外壁には、砂嵐の吹き付けたような跡しかなく、 そこが長らく争いとは無縁の、平和な歴史を積み上げたことを物語る。 旅人仲間からの評が正しければ、そこは“友情を大切にする国”らしい。 彼の手首には、艶のない古い革バンドがその証人として巻かれていた。 キノ: 生活費から何から、心配することはなかったって。 欲しいものも無料で調達できたそうだよ。 ちょうど、手袋やコートも替えたかったし… エルメス: 結局それ? 貧乏性は直らないね。 「タライより硬いものはない」って言うじゃないか。 相棒のジョークを聞き流し、キノと呼ばれた旅人は彼を走らせる。 耳にした噂を鵜呑みにするわけではないが、確かめてみる価値はある。 それに、気に入ろうが気に入らなかろうが、三日後には国を出るつもりだ。 白い壁の汚れが目視できる距離まで来た彼女は、速度を落とし始めた―― 1234567890一二三四五六七八九〇12345672890一二三34 1【入国1日目】 入国管理官: 旅人さん、私たちの国へようこそ。 私たちはこの国を訪れた方々と、篤い友情を築きたいと考えております。 よければ、ここでの滞在についてご説明いたしましょうか? エルメス: 聞いた通りみたいだね、キノ? キノ: 静かにしてて。…よろしくお願いします。 入国管理官: まずこの国では、経済安定のために独自の通貨を使用しています。 ですので、お手持ちの貨幣はご使用いただくことができません。 …これは裏を返せば、懐を痛める心配がない、ということでもあります。 入国管理官: また、安定した経済は、他国からの輸出入をあまり必要としません。 お望みの品があれば、すぐにご用立てすることも可能です。 …ここまでで何かご質問は? キノ: ボクはその通貨を、どのようにして入手すればいいんですか? エルメス: 当然の疑問だね。 入国管理官: この国の者が、旅人の方々の身元引受人に立候補します。 そしてその人物との間で合意を取って、相手に支払ってもらうわけです。 基本的には、その両者の間で調整していただくことになりますが―― 説明を聞くキノの背後で、若い男が一人、聞き耳を立てるように動いた。 その動きに彼女は気付いていたが、それを無視する。 兵士も同席している場で、大それたことはできないだろうし、 それよりも説明の続きを聞く方が、大切であったからだ。 入国管理官: もちろん、旅人の方々にとって一方的に不利な契約とならないよう、 身元引受人との間の条件を我々が定期的に精査することになっています。 およそ三日に一度。問題なしと判定されれば延長も可能です。 エルメス: 三日単位だってさ。ちょうどいいね。 キノ: 期間外の出国はできないんですか? 入国管理官: それは、引受人側の立場を守るためでもありますから…ご理解ください。 ですが、この国の住人は気のいい連中ばかりですよ。 安心してご滞在いただけると、私どもも自信を持っています。 キノ: まずは誰か信頼できる人を探さないと…か。 *: あのっ、ちょっといいですか? キノの独り言を追いかけるように、後ろから男が声を掛けた。 年の頃は高く見積もって二十代、彼女とさほど年は離れていない。 背丈もそう高くなく、凡庸、の一言の似合う青年であった。 何の用だろう、といぶかしがるキノに、男は続ける。 男性: 身元引受人をお探しなら―― キノ: 結構です。 にべもない。だがここで無思慮に飛びつくようであれば、 彼女が女の身一つで世界を旅して回ることは不可能な話である。 しょぼくれる男に、管理官は職務の範囲内で同情的な視線を向けた。 モトラドと話し合う少女へのにこやかな表情を崩さずに。 ■(以後■のみで表示) エルメス: どうするキノ、出国する? 1234567890一二三四五六七八九〇12345672890一二三34 エルメス: よかったの?キノ。 キノ: まだ日が暮れるまで時間があるよ。 街並みを左右に潜り抜けながら話す両者は、今宵の宿を見繕っていた。 なるほど確かに平和そうなところだ。噂も信じてみるものだ。 これなら、満足できる食事とベッドにありつくこともできそうだ―― だが肝心の路銀の調達先についての、具体的なプランは定まっていない。 大きな腹の虫が鳴いた。キノはふと、食事をし忘れていたのを思い出す。 ぐるりと街中を一周して戻ってきた彼女は、初めに目についた店、 雰囲気のいい、民宿を兼ねたレストランの前にモトラドを停めた。 扉を開けて中を覗くと、中からの声が―― *: いらっしゃい! …あれ? キノ: あっ。 店主は先ほど申し出を断られた青年。気まずい空気が店先に漂う。 扉を閉めようとする彼女を引き止めるように彼は早口でまくし立てた―― ここは街でも評判のいいレストランで、ちょうど他に客もいない。 お代はいいから、是非に――と、熱っぽく、キノに迫るのであった。 キノ: …そういうことでしたら。 エルメス: やれやれ、運命的出会い…ってやつかい? キノ: すごい、本当においしい… 本当にお代はいいんですか? 男性: いいよいいよ、さっきの話とは別だから。 …それに自己紹介もせずに申し出るのは気が急きすぎた、 改めて俺の話を聞いてくれるかな? キノ: …聞くだけなら。 ★ 男は自分の名前を―― 名乗った/名乗らなかった  名乗った ■: 俺の名前は■。 見ての通り、ここで民宿を開きつつ昼はレストランもやってる。 親父とお袋の店を、なんとか守ろうとやってきたところだ。  名乗らなかった 男性: 改めて自己紹介しよう。 見ての通り、ここで民宿を開きつつ昼はレストランもやってる。 親父とお袋の店を、なんとか守ろうと頑張ってるところさ。 ★ キノ: それは、お一人で? △ まぁね。だが、評判は上々だよ。 △ それでね…俺が君の身元引受人になりたい、って話なんだが、 …恥ずかしい話、俺と友達になってくれないかな? もちろん、君の意見は最大限尊重する。どうだい、キノさん。 キノ: お友達…ですか。 △ どんな関係だって、最初はそうだろ? キノは顎に手をやって、少し考えるような素振りをした―― だが彼女の中では、半分答えは決まっているようなものだった。 宿付きで今の食事にありつけるなら、悪くはないと考える。 彼の“友達”の定義次第だが――と付け足して。 キノ: わかりました。 ボクは何をすればいいんですか? その返事に男は舞い上がりながらも、手続きはするから心配しなくていい、 きちんと条件を記載した書類も作る、少し出かけてくるから、 戻ったら腕に交付された革バンドを巻いてくれ――と言い残して言った。 キノは二階に荷物を引き上げ、彼の戻るのを待つことにした。 ☆(以後星で表記、場面転換) 窓の外はもう暗い。階下の賑わいも一段落してひっそり静かだ。 日課のパースエイダーの点検と抜き打ちの練習を終えてしまうと、 キノにはこれといってすることがなくなってしまう。 相方は外の倉庫をガレージ代わりにしているし、話し相手も他にない。 キノ: ふぁ… もう寝ようかな。 あくびをしきる前に聞こえた、階段を静かに登る音。 反射的に少女はそちらに向かって応戦できるよう構える。 骨身に染み付いた、旅人としての冷徹な判断が彼女をそうさせる。 ――しかし影は気の抜けるような、紅茶の薫りを連れて上がってきた。 △ やぁお待たせ、店を閉めるのに少し掛かってね。 どうだい、寝る前に一杯。 …何も入ってないよ!ほら。 男は片方のコップを唇に付けて一口喉に流し込む。もう片方の分も、 少し傾けて自分のカップに中身を流し入れてから、また一口。 キノが警戒を隠さないのを見て、毒見がてら飲んでみせたのだ。 まだ湯気の立つココアの液面に、それぞれの顔が歪んで映る。 キノ: すいません、気を遣わせて。 でも、つい身構えちゃうんです。 …何度か危ない目にも遭いましたから。 男は空いた片手をひらひら振りながら、ベッドに腰掛けるキノの隣に座る。 背の特別高い方ではないが、まだ十代の彼女と比べると、 その身体の厚みや威圧感は、数値上の差異以上のものを感じさせる。 まして彼の額には、まだ乾ききらぬ汗の粒まで浮いていた。 キノ: 改めてお聞きしますが、 ボクはあなたに対して何をすればいいんですか? …用心棒とか? △ “友達”になろうってのに、それはないだろ… だがそうだな、はっきりさせた方がお互い楽か。 …その、手を…握ってくれないか? キノ: はい? △ 手、だよ。俺の。 恥ずかしい話だが、こんな仕事でも人寂しくはなるんだ。 誰かが俺の仕事終わりを待ってる、ってそう思いたい。 男の目は真剣で、冗談を言っている風でもない。拳は太腿の上で、 ちょうど面接官からの次の言葉を待つときのような――力みがある。 彼の手が、人を傷つけるようなものでないことはキノにもよくわかった。 だからこそ、彼からの要望が単なる握手なことに、拍子抜けもする。 男はじっと、自分より頭一つ――いや一つ半は小さな相手の顔を見た。 大型犬のような困り顔で、彼はキノの返事をじっと待っている。 不用意に、自分の利き腕を彼に預けるべきではない――のだが、 その時のキノにはふと、手を伸ばしてやってもいいような気がしたのだった。 △ ありがとう。 ――柔らかいね。 それに、温かい。 最後の言葉は、キノ自身も彼の掌に感じたものである。 だが彼女が思ったのは、彼の指がごつごつとした大人の男のものであり、 石ころを握っているかのような、がっちり硬い感触だ、ということ。 そしてその握力も、見た目以上にしっかり付いている。 キノ: あの、もういいですか? ちょっと、手汗が。 彼女の言うように、男の掌は緊張のあまり湿り気を持ち始めていて、 単なる体温以上の熱を伝えてきているようでもあった。 彼は照れた顔で掌を拭い、キノの泊まっている部屋を後にする。 布団に包まれている間、キノはどこか不思議な夢を見るのであった―― 1234567890一二三四五六七八九〇12345672890一二三34 1【2日目】 エルメス: おはよう、キノ。 キノ: おはよう。 男が部屋の前に置いていった朝食をすっかり平らげると、 キノは倉庫で相棒を待っているモトラドの様子を見に行く。 昨夕は薄暗くて奥まで見通せなかった臨時のガレージは、 差し込む陽の光の中、いくつもの鈍い輝きを放っていた。 エルメス: キノが来る前に色々見てみたけど、 くもの巣もないししっかり掃除されてる。 まぁ、雨よけの場所としては九官鳥かな。 キノ: 及第点?ならよかった。 エルメス: それより昨日、あの人と何してたのさ? どきり、とキノの心臓が鳴る。何もしていない、と言うのは簡単だ。 実際、同衾どころか同室で寝てさえもいなかったのだから。 だが彼の切り出した――握手の願いを、何もない、と言っていいのか? キノは勤めて、エルメスの問を受け流すように答える。 キノ: 何もしてないよ。 エルメス: …ふぅん。それより、散策でもするかい? キノ: いや、あまり遠出すると昼を食べ損ねる。 エルメス: さっそく胃袋を掴まれたね、これは。 その言葉を聞き流しながら、キノは扉越しに店内の様子をうかがう。 慌ただしく入れ替わり立ち代わり入っていた客たちは一通り帰ったらしく、 しん、と心地よい静寂の戻ったことが入るまでもなくわかった。 外を回るのは、十分に腹を満たしてからでも遅くはない。 ☆ そこそこに広い街並みは、モトラドで駆けての時間潰しにうってつけだ。 初日には通らなかった通りをまっすぐ通り抜けながら、 キノは視界の端々に、雑貨屋だとか、修理屋だとかの看板を探す。 この国を出る前に、そこでいくらか買い込んでおくためにだ。 キノ: ゴーグルに傷が付いてたから、替えておかないとな。 エルメス: 燃料タンクをいっぱいにするのも忘れないでよ。 自分だけお腹いっぱいにしちゃってさ、とモトラドは愚痴を言う。 貧乏性――倹約家のキノが大量に物を買い込むようなときは、 ここでのように、支払いに不自由しない場合ぐらいしかない。 エルメス: 腹時計が鳴ったみたいだね、キノ。 キノ: 我ながら正確だと思うよ…戻ろうか。 ☆ キノ: ごちそうさまでした。 …あの、確認ですが…本当に、お代はいいんですよね? あと、買い物しても立て替えてくれるって話ですけど。 △ もちろん! 俺から言い出したことなんだからさ。 “友達”同士、水臭いこと言わないでくれよ。 屈託のない言葉に、キノは彼を試すようなことを言ったことを少し恥じる。 善意から食事と寝床、幾ばくかの小遣いを渡してくれるというのなら、 できる限りそれに乗ってやるのが、もてなされる側の礼儀でもあろう。 頭から信じ込むわけにもいくまいが、滞在中は世話になっていいはずだ。 キノ: では。 キノは男に言われる前に、自ら手袋を外して手を向けた。 しかし彼はそれを握る前に、じっと無言のままに彼女を見つめ返す。 その反応に何を感じたのか、キノは手汗をズボンの生地で何度も拭う―― それでもやはり、男は彼女の手を取ることなく、口をもごもごとさせた。 キノ: あの、何か? △ その、後出しみたいになってすまないんだが… △ 俺は君と、仲良くなっていきたいんだ。 …だから…一日ごとに、さ。 少しずつ、ステップアップしてかないか? その言葉を聞いて、キノの眉間にはしわが寄る。 ある程度信用のおける相手と見込んだからこそ、 このような不意打ちの形で条件を付けられるのはたまったものでない。 なおも警戒するキノに向けて、男は両手を広げながら笑ってみせた。 △ だから心配しなくていいって! ハグだよ、ハグ。 親愛を示すスキンシップとしては普通だろ? 一日分の信頼が水泡に帰したのを取り戻そうとしてか、 男は焦りながらもあれこれと己の不純でないことを表す。 キノはちらりと窓の外を見た――もう暗い。別の宿を探すには骨が折れる。 ましてそちらが、この男よりましであるかどうかの賭けともなれば―― キノ: … ……わかりました。 ハグだけ、ですね? キノが観念して腕を開くと、男は殊更に嬉しそうな顔になった。 野良猫のように警戒心の強い彼女が他者を懐に入れる機会は少ない。 まして異性の、自分より体格に優れた相手に近づかれるのは、 彼女にとって、ほとんど致命的な危険を意味する。 キノ: …! ……? !、?…! 彼の胸板が横っ面にあたり、一拍の間を置いて背中に腕が回ると、 単純な物理的圧力以上の何かが、脊髄を駆け上がって脳を揺らした。 反射的に男を突き飛ばそうとしたものの、背を包む腕は万力のように、 がっちりとキノを掴んで、逃がしてくれる気配もない。 距離を取らねば、という旅人としての本能が収まってくると、 キノは感情の波を鎮めるために、彼の胸板の近くで何度か深呼吸をする―― と、また視界がちかちかと、強く殴られたときのように煌めいて、 再び彼女は、普段の寡黙で冷静な姿から程遠くなるのだった。 キノ: あ、あの… ちょっと、放して… 男は夢中でキノを抱きしめていたものの、その言葉に我を取り戻し、 ガラス細工を置くのと同じだけの慎重さで、そっと彼女の身体を押した。 時間にしては五分にも満たない接触だったが、両者の顔は上気し、 立ち上る湯気さえも、目視できそうなほどであった。 △ もう一回、いいかな…? 訊きはしたものの、彼は相手が応えるのを待つのすらもどかしいように、 ぼうっとのぼせたままのキノを、再び胸板の奥深くに引き寄せた。 彼女の小柄な身丈は、男の腕の中にすっぽり隠れてしまう。 また彼の腕が、癒着したようにキノの背に絡む―― キノ: (あ…これ、  ずっとこうしてたら…  なんか…まずい…やつ…) 多幸感、と一言で表現するには、それはあまりに分厚い感情で、 突然に彼女の脳髄を揺らした衝撃の大きさに、まだキノは夢見心地だ。 深呼吸をすればするほど、思考は柔らかな海の中に深く沈んでいく―― ここでようやくキノは、彼と密着していることが原因と思い当たる。 どん、と相手を突き飛ばす。力の加減をする余裕はない。 肌に冷たい風の当たる感覚に、ようやく人間らしい吐息が戻ってくる。 思考を理性の側に引き戻す寒風は、残酷な現実をも連れてきた。 唐突な拒絶によって、男の貌が狼狽から絶望へと変わりつつあったのだ。 キノ: 違うんです、ただ、ボクは―― △ いや、ああ…うん、俺が、悪いから… 何を言っても、彼との間に生じた亀裂は埋まらぬように思われた。 しかしそれを良しとして、このまま放っておいてはならぬとも。 絶望はやがて諦念へ、キノとの時間を男が想い出の箱に仕舞おうとした頃。 彼女はただ一つの答えを示すため、再度自ら両腕を開いた―― 1234567890一二三四五六七八九〇12345672890一二三34 1【3日目】 エルメス: で、まんまとしちゃったんだ?イチャイチャ。 キノ: ……何もしてないよ。 エルメス: その顔で何もなかった、は無理だよキノ。 で、どうするんだい? 予定なら、今日は色々買っていくんだろ? 相棒の冷やかしを受け流しながら、キノは帽子を被り直す。 そうだ、時間を無駄にはしていられない。次の国へと旅立つ準備の日。 今日のうちには、荷物をまとめて旅立てるようにしなければ。 頭の中で必要なものを数え上げ、代金は――とここで彼の顔を想う。 びりびりと脳天の痺れるようなハグ。お互いの心音が重なる感覚。 鼻いっぱいに吸い込んだ、香辛料混じりの彼の体臭―― それをほんの少しでも思い出すと、風に当たっているというのに、 ぽうっと身体が火照ってくるようだった。無論それはすぐに伝わる。 エルメス: キノ、体温高くなってない?風邪でも引いた? キノ: うるさい。 (以下続く)