この少女の物語はスラムの泥の中で始まったんだ。彼女が生まれた場所は都市の片隅にひしめく薄汚れた路地ーーそんな場所さ。 親の顔は正直なところぼんやりとしか覚えていない。父親は見たこともないし、母親は疲れ果てた目で彼女を一瞥するだけで無関心だったし、しまいにはいつのまにか姿を消していたからね。 物心ついた頃には既に一人だった。生き延びるために盗み、騙し、時に命を奪い合うのが当たり前のスラム。彼女もその中の一人だった。 ゴミの山を漁り、カビたパンをかじり、凍える夜を薄い布切れでしのいだ。運命は彼女に微笑まなかったんだねぇ…… ある冬の夜、路地裏で腹を空かせた野犬に追い詰められて冷たい地面に倒れたとき、彼女はついに死を覚悟した。 ちくしょう。彼女は血と涙にまみれた声で悪態を吐き、野犬が襲いかかったその瞬間に奇跡が起きた。 彼女の意識が暗闇に飲み込まれた次の瞬間、目を開けるとそこはスラムの路地。彼女がまだ五歳の頃、母がまだ消える前の時間だったんだ。 彼女は最初、それが夢だと思っていたらしい。だけど冷たい地面の感触、鼻を突く腐臭、遠くで響く喧嘩の声。馴染んでいたすべてが現実だった。 彼女は震える手で自分の小さな体を確かめて「戻ったんだ」とはっきり自覚して、過去に戻る術も知った。 その日から彼女の人生は変わった。時間遡行の能力は彼女に無限の「やり直し」を与えたんだ。 何度も何度も過去に戻り、失敗を回避して最適な選択を模索した。 スラムでの生活は過酷だったが、彼女は賢かった……いや、賢くならざるを得なかった。 盗みを試みて見つかったときは時間を戻し、別の方法を選んだ。パンくずを奪い合って殴られたときは、殴られる前に相手を出し抜いた。 何十、何百と繰り返すうちに、彼女はスラムのルールを学び、生き延びる術を身につけたんだ。 だが、どれだけやり直しても親は変わらなかった。 彼女がどんなに愛を求めても、どんなに貢献しても母親は無関心な目で彼女を遠ざけた。 だから彼女は決めた。こんな親必要ない、私が捨てられるんじゃない。捨ててやるんだ、とね。 彼女は親を見限ってスラムを離れた。隠しておいたカビの生えたパンを服の下にしのばせて飛び出したんだ。 時間を遡り、道中の危険を回避しながら遠くの孤児院にたどり着いた時には涙を流していたよ。 でもまあ、孤児院はスラムよりはマシだったが、そこもまた子供達による生存競争が渦巻く場所だった。 彼女はここでも能力を駆使した。大人たちに取り入る術を学び、言葉遣いや仕草を何度もやり直して完璧にした。 彼女は賢く振る舞い、愛らしい笑顔を浮かべて孤児院の大人たちを魅了したさ。聡明な子と囁かれるたびに彼女は内心でほくそ笑んでいたんだ。 時間を遡るたびに彼女は知識を蓄えた。読み書きを覚え、大人たちの心をつかむために思ってもいない外面だけを意識した言葉を次々と吐き出していく。 たったそれだけのことで。御しやすく従順な子というだけで、大人は彼女を重宝したのさ。 やがて、ある裕福な貴族夫妻が子供のいない家に賢い娘を欲して孤児院に訪れた。これは狙った出来事ではなかったが、結果的には最も賢くなっていた彼女を養子に迎えた。 ああ、そこからが彼女の本当の人生と言っても過言ではないね。 貴族の屋敷は、スラムの泥とは別世界だったよ。絨毯の柔らかさ、暖炉の暖かさ、食卓に並ぶ果実の香り。すべてが眩しかった。 正直涙が出るかと思ったが歯を噛み締めて、ぐっとこらえた。まだ終わりじゃない、もっとだ、もっと自分を磨かなければ。しょうもないヘマをして孤児院やスラムに逆戻りなんか冗談じゃない。 私は母親のような、あんな女みたいにはなるものか、あの女が得られないような幸せを掴んでやる。絶対に幸せになって鼻で笑ってやる。 彼女は決して心を緩めなかった。貴族社会のルールを学び、淑女としての振る舞いを完璧に身につけた。何かミスをすれば時間を戻し、完璧な答えを導き出した。少しでも義両親の顔に不満の色を見つけるとすぐにやり直すほど完璧を徹底していた。 教育もまた彼女の能力の前では障害ではなかった。歴史、文学、哲学、経済。彼女は何度も時間を遡り、教師の質問に完璧に答え、貴族の社交界で輝く存在となった。 義両親は彼女を理想の娘と讃え、彼女は貴族として百点満点の淑女らしく微笑んだが心の奥では冷めた目で自分を見つめていた。 ある日、馬車で街を移動中に窓の外へふと目をやると、そこにはボロ布をまとった子供がいた。スラムではよく見るただの子供だが、それを見た瞬間に彼女の心に雷が落ちる。 「私はこの力でやっとここまで来た。でも、あの子は?力のないあの子の運命は?」 彼女……いや、もういいか。私は気付いた。時間遡行を繰り返し、どれだけ自分を磨いても世界は変わらない。あの子のような子供たちは力を持たない限り価値もなく死んでいく。 私の胸に初めて大きな使命感が芽生えた。私の人生をやり直すだけじゃ足りない。この国、いや、世界そのものを変えなければ。 あの子や、過去の私みたいな子供が存在しない世界を作らなければならない。きっとこの力はそのために私に与えられたモノなんだ。 スラムで苦しんだ私だからできる救済なんだ。 それから私の時間遡行は自分を超えた目的に使ったよ。歴史を学び、過去の戦争や疫病、革命を研究した。どの出来事が世界の歪みを生み、どの選択が不幸を増やしたのか。 スラムなんてものがなくなる世界を作るには一体どこからやり直すべきか。 学ぶのも大変さ。でも貴族はいいね?本の虫になった私に女だてらに、と揶揄する人も勿論いたんだけど、家のためだとか親の名に恥じぬ教養をつけるため……そんな薄い言葉で他人の意見を簡単に覆せるんだからね。 あるとき、私は過去に戻って小さな改変を試みた。初めて他人のために過去へ戻った瞬間だよ。 本当に怖かったけど……ある村を襲った盗賊団を時間を遡って別の道に誘導した。ある貴族の裏切りが引き起こす内乱を事前に情報を流して防いだ。 だが改変は決して簡単ではなかった。何かを変えれば、別の場所で新たな不幸が生まれた。盗賊は違う場所を襲っただけだし、内乱はなかったが貴族は一家郎党処刑された。 助けたかったはずの無関係な子供が何人も犠牲になったんだ。 光があれば影が生まれるように、完全な幸福は存在しなかった。私は絶望したよ、何をどうやっても、歪みは消えない。誰かが貧乏くじを引かなきゃいけないんだからねぇ。 みんなが笑える世界じゃなきゃ意味がない。しかしそれが無理なら……嫌だけど仕方ない。誰かを犠牲にしなきゃいけない。 私は決断を下した。より多くの人を救うため、幾人かを不幸にする。 その選択は辛かった。何度も泣きながら手を下した。 ごめんなさい。本当にごめんなさい。恨んでいい。呪ってくれていい。だから、あなた達を殺す。私の手で、あなたもあなたの家族も不幸にする……ってね。 ある国に魔王軍の剣士が転移してきて多大な被害を及ぼした。私は何度も何度もやり直し、ありとあらゆる選択と手段を試みた。 結果、死者千人で済んだ国があった。 もう……きっとこれが限界だ。これ以上、命の取捨選択を私にさせないでくれ。 震える体を抱き、千人分の墓標を想像した。すまない、私の理想のために死んでくれ。 またあるとき、あらゆる呪いが各国に広がって壊滅的な被害を出した。私は何度も過去に戻って呪いの拡散を防ごうとしたが、完全に止めることはできなかった。 ならば一つの国に集めよう、あらゆる国が呪われるより一国が犠牲になる方がマシだ。私は呪いを小さな国に集中させたが、その国の民の苦しみが私の頭に響いた。 どうしようもなかった。こうするしかなかったんだ。こうすれば、少なくともたくさんの人が助かるんだ。 すまない、私の理想のために呪われてくれ。 貴族の養子として振る舞う私は優雅な笑顔を浮かべながら義両親に愛された。だが、夜ごと私は一人で震えた。 千人、数千人、時には何万もの命を左右する決断を下す自分が、かつての自分と同じなのかわからなくなった。 私の話し方は次第に気取ったものに変わり、他者を見下すような口調や貴族らしい高慢ちきな態度を周囲に見せつけた。 それがなければ私は自分の決断に耐えられなかった。私が血も涙もないわがまま放題の存在でなきゃこんな選択できないに決まっているのだから。 義両親はその変化を「貴族らしい成長」と喜び、私は相変わらず嬉しそうに微笑んだものの心の奥で別の声が囁いている。 悍ましい。この小娘が殺戮者だなんて誰も思わないし、当の本人はいい子ぶりっ子で虫すら殺せぬふりをして愛嬌を振りまいている。嗚呼、なんと悍ましいことだ。 私は鏡の前に立つ。そこにはドレスをまとった少女が映る。義両親が贈ったその服は彼女への愛を象徴するものだが、はっきり言って重荷だった。 部屋に飾られている、私を象徴する花だと言われて飾ってある紫色の薔薇さえも見るだけで歯軋りしてしまうほど鬱陶しい。 花言葉は『気品』?冗談だろう。スラム上がりの、この貧相なガキの何処にそんなものがある。 「服も……こんなクソみたいな人生も……こんな世界も……何もかも大嫌いだ」 呟いても誰も聞くことはない。 私は再び過去に戻る準備をする。次の改変、次の犠牲、次の呪い。 彼女の手は血に染まっているように感じたが止めることはできなかった。世界を変える、それが私の使命だ。 目を閉じて時間を遡る。 オラクルを名乗るようになってからこの身体はいつのまにか成長しなくなった。義両親は小さいままの方がずっと可愛くて素敵だと言うが私には分かる。 成長ではなく時間が止まってしまったんだ。私の身体も心も、数えきれない遡行によって狂ってしまったのだろうね。 それと同時に、今までのように『過去の自分』には戻れなくなった。この姿のまま過去の時間に飛び、そしてまたこの時間に戻る。 何度も子供からやり直さなくて良くなったのは助かったが、つまりは今の時間に完全に私が固定されたということだ。 なるほど成長しなくなったのも合点がいく。どうやら私の遡行能力も進化するらしいと、ようやく気付いたのは過去に戻った時のこと。 昔の自分に戻らず今の姿のまま過去にいるなら、昔の私はどこにいる? 私は本来なら過去の自分がいる場所を探し回った。だがどこにもいない。スラムにも孤児院にもあの貴族の家にも。私の痕跡すら見当たらない。 まさか、全ての時間、過去だけでなく、未だ見ぬ未来すら全て無くなってこの時間の私だけ残ったのか? だとしたら今の私はいったい……なんなんだ? 気付いた瞬間、発狂しそうになった。叫び声をあげそうになった瞬間、それを押し留めたのは淑女としての自分。 絶叫も暴れそうになる身体も、動悸すら抑え込んで慣れ切った笑顔を必死に作り、自分を宥めすかす。まだだ、まだ自我を無くすな、落ち着くんだ、今終わらせるわけにはいかない。 まだ、何も終わっていないじゃあないか。 ……だが……ああ……そうか。もう戻れないのか。戻れないんだな?これはそういうことだろう? 『いやだ、もうやりたくなんかない』 『こんなことやめて、あの義両親にいっぱい甘えて暮らしてもいいんじゃない?』 幼い自分と淑女の自分が私の歩みの邪魔をする。くそ、邪魔だ、黙っていろ、私を惑わすな。 良心なんかくそくらえだ、私は作るんだ、例え犠牲があろうとも、その何倍も、何百倍もの笑顔が作れる世界のためなら人を切り捨ててやるとな。 私が犠牲になって数万人救われるなら死んでやる。私が目指し、作るのはそういう世界なんだ。 だから……私が私を邪魔するな。この道を選んだのは過去のお前達のはずだ。 毎晩のようにベッドの中でうめき、泣いているのか苦しんでいるのか分からない。 痛い、痛い。胸が痛い、心が痛い、助けて、誰か助けて。どうして私だけいつも苦しいんだ?どうして私はこんなにも苦しんでいるんだ?どうして誰も助けてくれないんだ? いやだ、もう嫌だ。嫌なのに、嫌だけど、それでもやらなきゃ。みんなが幸せに…… みんなが?幸せに? 私は一度だって幸せな時なんか無かったのに、そんな私が作る幸せに何の価値があるんだ? こんなに苦しんで痛がって泣きながら転げ回るガキが、いったいどんな幸せをくれてやれると言うんだ? ベッドの中でくぐもって聞こえる嗚咽が自分の口から出した声なのかすら、今はもう自分でも分からない。 ただひとつ分かったのは、スラムにいた頃の泣き声にそっくりだった。 何を成そうが結局はこれが私で、私を形作る核、本当の姿。 スラムの頃から変わらない、どうしようもなく弱いガキのままだ。 ……なんて話はどうだい?ああ!その顔!素晴らしいね、君なら可哀想とか同情してくれると思っていたよ! 今話したことが嘘か?それを決めるのは結局のところ聞いた君が決めることじゃあないのか? 私が何を言おうが、過去はいくらでも変えられるし……既に私ですら確かめようがないんだから信じることしかできないはずだがねえ。 じゃあ続きといこうか。 いつしか私は1人ではなくなった。 最初に隣に立つと言ってくれたのは遡行の中でたまたま助けることになった上流階級の貴族の女性だった。 私は彼女を知らないが、あちらは私のことを知っていたらしい。なんでも義両親が私のことをあちこちに吹聴しているらしく、それはとてもじゃないが恥ずかしくて酷いものだった。聞くだけで頭を抱えるような内容だったよ。 それはこの女性も同じで嘘偽りだと思っていた内容以上に“色々と”できる娘だと評価されたらしい。 この事……遡行能力は義両親には秘密にしておいてくださいね。と、あの義両親の娘らしく伝えると仰々しく私に傅いて忠誠を誓うだのなんだの言いはじめた。 いやぁ、焦ったよ。なんせ生まれて初めて私の能力で感謝されたからね……悪い気はしなかった。ああ、これは本音だ。 なんでも一枚噛ませてほしいってことでね……貴族のごたつきに私の力を使うつもりはないし、誰にも助けを求めていないと言ったが、彼女は私を抱きしめて言った。 「嘘。あなた本当に笑えてる?少しくらい大人に甘えてみてもいいのよ、まだ子供なんだから」 って。 全く冗談じゃない、私を誰だと思っている?自分の理想を作るために悪逆非道な事を平然と成し遂げる稀代の悪女だぞ? そんな私を抱きしめて、あまつさえ甘えていいなどと、全く本当に冗談ではない。 それに気付いて欲しかったのは義両親なのに、何故先に彼女が察してしまうのか。 恐らくだが笑顔の仮面を剥がされたのは彼女が貴族としてずっと戦ってきたからで、私ごときが取り繕っただけの笑顔なんかお見通しだってことさ。 全く厄介だ。 彼女の進言で私達は協力することにした。 私1人の限界も、大人の彼女がいるだけでぐっと広がっていく。 君が成そうとするのは私と同じ地獄行きの列車に乗ることだぞ、と忠告したがまるで意に介していない。 まあ、私が助けなければ死んでいたから恩返しのつもりなんだろう。私のことを見透かすような真似さえしなければもっと良かったが。 彼女には娘がいて、その娘も協力させると言うから流石に止めた。 止めたんだがいつのまにかいたよ。冗談じゃない。 しかも娘の方は親譲りというかなんというか……すぐに私を甘やかそうとする。義両親のような猫可愛がりではなく、私が夢見ていた……家族、のような。 まあこれも関係ないな、どうでもいい。 彼女達は想像以上の働きをした。今までの総当たりに近い歴史改変から、更に細かく必要不可欠な場所にのみ改変を加える計画を立てていた。 共犯者を作ったのは正直言って心が痛んだが……なんというか、1人でやっていた時よりは余裕ができた。 あとは新発見として、私の力を知覚したものは私の能力を覚えたままになるということか。 今までは過去を変えるたびに何らかが変わって私に対する印象などはリセットされていたが、この母子に関してはそれが無かった。 1人ではできないこと、分からないことが協力者がいるだけで変わると改めて知ったね。 「手が足りない」 ある日彼女はそう言った。私は娘の方に着せ替え人形にされながらそれを聞き、当然「冗談じゃない」と言った。 ただでさえ君が娘を連れてきたせいでこんな着せ替え人形にされているんだ、更に人を増やすだと?次は全身オイルマッサージでもさせる気か?とね。 いつのまにか増えていたよ。冗談じゃない。 彼女は上流階級の貴族という立場を利用して様々なコネを最大限に活用して各国に諜報員を設置した。 いや、こちらに鞍替えさせて諜報員にした、という方が正しいか?どちらにせよそれは一介の貴族が成し得ることなのかと思ったが、できてしまったものは仕方がない。 何かあったら無かったことにするだけだ。 しかしこれが恐ろしいほど上手くいった。 クロノス・オーダーとかいう大層な名前もできてしまって、いつのまにか組織化していた。 私はもはやこの母子と話をするだけで次々と理想に近づいていく。 必要最低限の遡行で、大きな変化をもたらしている。この母子に操られているんじゃないかとも思ったが、どうやら本当に私のことを考えてやっているらしいから驚きだ。 特に娘の方はやたらめったらに私を甘やかそうとするし、服を着せたがる。 あんなに嫌だったドレスも淑女らしくだの貴族らしくだのという建前のない、ただの女の子として着る服だというだけで悪くないと思える気すらする。 お前、一応参謀なんだぞと嗜めようが娘の方は構わずに次から次へと服を持ってくるし母の方は止めもしないで笑っている。 本当に冗談ではない。何故お前達はそこまで他人を愛せるんだ? 『これが欲しかったんだよね?』 違う、私が欲しかったものは。 『悪くない。そう思っているのに?』 ああ、そうだ。だが。 だが……悪くない。確かに今はそう思っている。 だって、嫌な気持ちにはならないのだから。